「等価交換」=「商品経済」の論理

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
高橋源一郎による、5/1から2週間にわたって掲載された連続ツイートがすごくおもしろい。まとめサイトはこちら→http://togetter.com/li/18161

どの回も抜群に興味深いお話しですが(第2夜なんか涙が出そうになります)、ここでは第4夜から。数年来、漠然と感じていた「あること」と繋がる瞬間を感じたのです。

お話しは、幼児洗礼を巡り「洗礼」が「愛の純粋贈与」であるという論文研究のこと。
以下、長くなりますがツイートから抜粋します。

キリスト教では、生まれて数日後の赤ん坊に「洗礼」を施します。つまり、「キリスト教徒」になるのです。よく考えれば変ですよね。「信教の自由」は世界中で認められた権利なのに、知らないうちに「キリスト教徒」にさせられるって。ぼくたちは調べている中にある事件に出会いました。

戦争中のことです。二十世紀最大の神学者カール・バルトが、キリスト教界を揺るがす発言をしました。「教会の洗礼論」と名付けられた講演で、バルトは、「幼児洗礼は、教会のからだに傷つけられた傷」と激烈な批判を行ったのです。バルトの批判は、簡単に言うと、こういうものでした。

「信仰は、主体的責任を負うことのできる個人が、神との間に直接結ぶ契約なのだ。判断できない幼児に、洗礼という強制を行うのは、信仰でもなんでもない。国民教会に成り下がった教会の組織防衛の儀式にすぎない」と。このバルトの論理は揺るぎないように思えたのです。

ぼくはキリスト教徒ではありません。そんな無宗教のぼくにとっても、バルトの論理は過ちがないと思えました。動揺するキリスト教の世界から、敢然とひとりの牧師がバルトへ反論を開始したのです。名はオスカー・クルマン。彼は、バルトの発言の真摯さを認めつつ、こう言ったのです。

「バルト博士。あなたの論理は悲しいほどに正しい。けれど、一つだけ間違っている。あなたが言っているのは、宗教ではないのだ」と。バルトは、主体的な判断ができない幼児への洗礼は、罪だと断定しました。しかし、クルマンは「幼児洗礼は、神からの愛の純粋贈与だ」と言ったのです。

「幼児は洗礼によって信仰を強制されるのではない。あらゆる洗礼がそうであるように、まず、神からの愛の純粋贈与がある。これは純粋贈与だから、拒否することも、無視することも、止めることも可能だ。子どもたちはまず愛されたのだ。幼児洗礼にそれ以外の意味はないのである」。

ぼくはキリスト教学者ではないので、この論争がどうなったのか詳しくは知りません。けれど、ぼくは、バルトは「負けた」と思ったのではないかと考えています。バルトの信仰の論理は「主体的な個人」と「神」との1対1の契約です。しかし、その論理には致命的な欠陥があるのです。

「主体的な個人」と「神」、でもその関係は「等価交換」の原理そのものです。「ぼくは全存在を賭ける」だから「そこに信仰が発生する」。それって、中世の「免罪符」の構造、「教会にお金を払う」=「死後の世界に貯金する」と同じです。それは、宗教というより現世の論理なのです。

バルトの「揺るぎなき個人」、「主体的な個」、「全責任を負う自己」、どれもかっこいい。当然に聞こえる。でも、それって、宗教の外でも、あらゆる場所で、学校でも、国家でも、称賛される言い方じゃないでしょうか。クルマンの批判はおそらくそこにあったのです。

じゃあ、クルマンの言う「愛の純粋贈与」ってなんだろう。ぼくとAくんの研究はそこに向かいました。そして、びっくりするようなものを見つけたのです。それは、宗教を成立させる論理、現世の論理とは衝突するような論理でした。たとえば、キリストはゴルゴダの丘で処刑されます。

なぜ、キリストは十字架に上ったのか。「自分とは無関係で、会ったことも見たこともない、未来の人々も含めた、全人類のために、勝手に」です。その結果、キリストは殺される。バカでしょう。そんなことをやる人は。「等価交換」=「商品経済」の論理で生きている人間はそう考える。

「神の国? なんか下心、あるんじゃないの」と考える。「そうでなきゃ、あんなことしないだろう」と。現世を生きる者は誰だって。ところが、キリストは頼まれたわけでもないのに、無関係な人のために死ぬわけです。「愛の純粋贈与」です。ここからです。不思議なことが起こるのは。

キリストが死んだ後、それまでキリストを無視してきた人々が、信仰の道に入った。キリストの言ったことが理解できたから? 違います。「わからなかったから」だと思うのです。それまでなんでも理解できる(等価交換の原理)と思ってきた人たちが、初めて理解できない原理に触れた

地上の論理、生きる論理とは、この商品経済の世界の論理そのものです。等価交換するためには、お互いの価値を「わかる」必要があります。理解できないものは交換できないのです。すべてが商品経済の論理で埋めつくされた世界。でも、違う原理があることをぼくたちは知っています。

商品経済以前、贈与経済という不思議な世界がありました。神の「愛の純粋贈与」はその名残なのかもしれません。宗教の論理は、地上の論理とちがうものが、この世に存在することを教えてくれます。いや、宗教の他にも、地上の論理と違うものはあります。
(以上、抜粋)


バルトの洗礼批判に対する、クルマンの反論はすごいですね。
こんな事言える人はなかなか居ないでしょう。“こいつはイッてるな”と思われるのがオチですから。実際イッてると思います(現世の論理中に居ないのでイッてるのは当然ですが)
ただ、クルマンの意見を読んだ時に、ぼくは何とも言えない
くわあ、やられたああという気持ちになりました。
すごい事言ってるなあと。

高橋源一郎氏はこう指摘しています。

地上の論理=「商品経済」の論理でしか思考できない人間にとって
「愛の純粋贈与」はわけのわからないものだと。

確かにそうかもしれません。
この世で生きていく上で人間が自分たちでつくったシステム、
「商品経済」の論理=資本主義 はもとより、(本来)より平等なシステムを目指した共産主義であっても、或いは冷戦後の世界は、その折衷案ともいうべき社会民主主義や社会自由主義など、試行錯誤しながら人間がより住み良い社会を過ごすためのシステムを模索している最中、そう、まさにいまも最中ですが、憲法をめぐる問題から、税金や社会保障、一個人の雇用形態や条件まで、社会中で盛んに議論されている事(=政治家が整備すべきこと)は、この世における「人」対「人」のための仕組み。つまり、この世に「からだ」をもって生まれてきた「人」がうまく「共存」するための仕組みです。そのような社会の仕組みと、「わけのわからないもの」を同じ土俵で論じることは出来ないのですね。

母親の、赤ちゃんに対する愛情なんてまさに「愛の純粋贈与」に他ならないと思います。今まさに子育て中の我が妻の姿を見て、心からそう思います。
その神々しさの前には、男性(ダンナ)はひれ伏すしかありません。
かなわない。

※余談になりますが、内田樹がよく苦言を呈しているフェミニストの論点は「社会の仕組み」を男女同権にすること「のみ」にある(そしてそれが社会正義だと信じてやまない)ので辟易しますが、本来こういった母性の中にこそ、女性の真の強さはあるのではないでしょうか。


というわけで、この世に生きる中でも「愛の純粋贈与」に触れる瞬間、地上の論理以外のものを知る瞬間はいくらでもあるはずです。


源一郎氏は、こう続けます。

この話はまたすることにしましょう。ただ、一つだけ、言いたいことが残っています。小説の、というか、芸術の「論理」は、「地上の論理」ではないはずだ、ということです。仮に、それが商品として流通していようと小説を読む。そこに「わからない」なにかがある。そこには、ゴルゴダの丘に登ったクレージーな男がやったことと同じなにかがあります。地上に生き、そこで死んでゆくはずのにぼくたちにとって理解できないなにかが。だからこそ、ぼくたちは、懲りずに明日もまた小説を読むのです。
(以上、抜粋)



冒頭で述べた「あること」と繋がる瞬間、というのはここです。

仕事柄、デザイン的なものに目がいくのですが、その昔、ぼくがそんな仕事に憧れたような、わくわく、どきどきするようなデザインというものを数年来、目にしなくなりました。有名デザイナーが手がけた広告やらCMやらを見ても、ちっともおもしろくない。クリエイティブという言葉も最近聞かなくなった気がします。

ぼくの感性が変わってしまったのか…。それもあるかもしれません。
でも、ただ“おもしろくない”だけでは無く、こう感じるのです。

すべてが同じような方向を向いている。

つまりは、“売れること”が全てに優先して正解とされる「マーケティング理論」。マスメディアからの情報は溢れすぎるほど溢れていますが、このマーケティングから離れた情報にはお目にかからない。広告業界では、いわゆる電通あたりの手のかかった「宣伝」が跋扈している。もちろん広告は芸術ではなく、クライアントが居て成り立つ商売ですので、それが正解なのですが…。昔の広告はそういうマーケティングなどはお構い無しだったような気がするんです(善し悪しは別にして)。というか、広告という媒体を通してもその中に「わからないなにか」が介在していたような気がする。いまは表現があまりにも予定調和すぎる。正解すぎる。プロデューサーによって「作られた」ものか、或いは「正解」を踏み違えないように小さくまとまっているか。音楽業界なんかも正にそうですよね。わくわくする音楽というものに出会えない。「わけのわからない」ものが(メジャーには)無いんです。

源一郎氏の言うように、「小説」もまたそういう類いの芸術性を内包するものだったのですね。(大の読書家では無いので、気付きませんでした。)確かに、文学に触れた時の喜びは、芸術作品に触れた時の高揚感に似ています。

「懲りずに明日もまた小説を読む」理由は、
現世の理屈では「わからない」なにかに触れるため。

なるほど。
ものすごく納得してしまいました。

「わからないなにか」(源一郎氏によれば、レヴィ=ストロースの言う「野生の思考」とはつまり商品経済の論理が生まれるもっと前から存在していたものであるらしい)は、現世の論理をつくる上で、なぜそれを論じるのか、という動機の部分になるのではと思います。

※ちょっと話がズレますがWEB上の掲示板等で見られる政治論争の多くが不毛なのは、主にそれが論争の為の論争になっているからで、そもそもの動機が見えないからです。こういう人たちは論争の勝ち負けのみに興味があるようで(なので人を貶める発言が多い)、何の為の論争なのかには興味が無いようなのです。論が噛み合うはずがありません。


これら土俵の違う思考が相関して形づくられているのが現世です。どちらか片方のみでは足りません。「わからない」なにかに触れるため、母と子の「愛の純粋贈与」を大切にするために。もっと単純にわかりやすく言うと、「楽しく生きるため」にはどうしたらいいか。まさにその着地点のためにこそ現世の社会の仕組みを見直す必要があります。はじめから仕組みが存在しており、ただそれを知識として詰め込んで斜め上から評論するのではなく。

そのためにぼくが出来ることは何だろうかと思うならば、有権者として選挙に行くこと、および1票を投じるために日々考えることです。(その他にももっと出来ることはいろいろとあるでしょうがとりあえずそんなとこで勘弁してください)

「等価交換」=「商品経済」の論理

「等価交換」=「商品経済」の論理 2010.05.24 Monday [妄想] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...