脱・間違えない文化
2011.04.16 Saturday [妄想]
ひさしぶりのブログです。なにから書いたらいいのかわからないほど、さまざまなことを考えさせられ、見つめさせられ、突きつけられた1ヶ月間でした。それはもういままでの価値軸がシャッフルされてしまうほどに、かつてない量と質の情報が飛び交い、それを消化できないままにまた新たな情報が飛び、という状況がいまも続いています。その中でぼく自身も考えがまとまらない状態にありますが、当分まとまりそうにもないので、まとまらないままに書き留めておこうと思います。
被災地の方々がいまも大変な思いをしていることは忘れないようにしたいですし、福島原発の現場で作業を続ける方々にはほんとうに頭が下がります。しかし、そういった思いもふっとんでしまうほどに目下の関心事は「放射能」です。自分の身にふりかかることだから。それは子どもへの影響という意味でです。子どもの未来を奪う危険が差し迫ったときには日本という土地に未練はありません。申し訳ないけど、我が子がいちばんだということは揺るぎません。
もちろんだからといって必要以上に恐れたり、自粛したりする必要はないのかもしれません。或いは、いくら情報を収集したって、結果としての行動はテレビしか見ない人と変わらないかもしれません。でもやっぱり親としては、どうしても詮索せずにはいられない。震災以降、ぼくは原発関連の情報をほぼ100%ツイッター上からしか得ていません。マスコミの報じる情報は、ツイッターを流れた情報の後追いであることがはっきりと露呈しました。それは単純に時系列的な問題でもあるし、政府の認識の遅さ(甘さ)でもあるし、なによりマスコミ自身のバイアスが恐ろしい程までに金銭によって制限されているということ。いちばんの偏向報道とは、報じないということ。
今朝、目にした記事にとても感心しました。それは、中部電力のCMに出演しており、原発推進に加担していたと噂されていた勝間和代さんによる、これまでの発言などに対する謝罪文でした。
原発事故に関する宣伝責任へのお詫びと、東京電力及び国への公開提案の開示(勝間 和代) - REAL-JAPAN.ORG
先月放送された「朝まで生テレビ」での勝間さんの発言が物議を醸したのは記憶に新しいところです。あの番組自体ががっかりな内容でしたし、勝間さんの発言にはぼくもがっかりしました。言ってることは論理的にそうなのかもしれないけれども、なんかこの場でそういうことは違うんじゃないかというか、子どもを持つ母親として同じことが言えるのかなと、なんかがっかりしちゃったんです。
しかし今朝この謝罪文を目にしてぼくは驚きました。社会的地位のある人がこのように自分の間違いを認めるということはなかなか出来ないことなんじゃないでしょうか。勝間さんはまた次のように述べています。
この文章を読んだ時に、ぼくは勝間さんに対するがっかりが消えたのを感じました。ここで勝間さんが言ってることはつまり親としての視点だからです。原子炉の構造や科学的根拠の前に、ぼくはまず親であるんです。親であることがまずはじめの事実なんです。だから放射能について詮索せずにはいられないし、危険性はあるが安全だなどと言われても納得できない(だって、ロシアンルーレットに参加するようなものでしょう)。
事故当初はぼくも、安全であるという情報を選択的に求めていたように思います。原子炉の構造であるとか、放射線量といった今まで存在も知らなかったようなものを慌てて勉強して、その危険性の少なさを見いだそうとしていました。安全であるという確証を科学的根拠に委ねようと。今思えばそれは、こうあってほしいという自分の願望であり、そこでは直感や違和感といったものが、まるでショートしてしまったようでした。ああ、人というものは、自分の見たいものを選択的に見るのだし、自分の信じたいものを選択的に信じる生きものなのだと、ぼくは自分をふりかえってつくづく思いました。
そして、勝間さんに対して原発推進派というレッテルを貼ることには何の意味もないなと。いちどそういうレッテルを貼ってしまうと、そうとしか見えなくなる傾向が人にはあります(自分の見たいように見る生きものなので)。今回の謝罪文に対しても、批判のコメントがたくさん付いているようです。それらの批判はつまるところ、「偉そうにしてんじゃねーよ」ということのようです。さんざん都合のいいこと言ってきたくせに、いまさら何言ってんだということでしょう。気持ちはとてもよくわかります。ぼくだってそう思います。でも、待って。そうやって「間違いを許さない」ことが、硬直した社会をつくってきた要因だったんじゃないでしょうか。
ほんとうはかんたんなことで。間違ったらあやまればいい。そして訂正すればいい。謝られたら許せばいい。なんだかあたりまえのようなことですが。それができないのはどうしてなのかを自問したい。
いままでの日本は、いかに「間違えない」かが価値軸の中心にあったように感じます。悪い人に騙されないように注意する。子どもには怪我をさせないように先回りして防ぐ。受験も間違えないように志望校を設定する(受験勉強とはいかに「間違えない」かの競争です)。間違えないように就職して、間違えないように仕事をする。怒られないように(クレームのこないように)配慮する。
なぜ多くの人がそうするのか。それは、いちど間違ってレールから外れてしまったら大変だからです。そういった人に対して、この国はおどろくほど厳しいからです。差別的とすら言っていい。
だから、間違えないように「正解」を与えてくれる人が重宝されるようになりました。間違えないということは、つまりよのなかをうまく渡るということですので、間違えない人とは権威のある人のことになりました。家庭内においては、父親というのはその象徴であり、権威によって弱者(妻や子どもたち)を導くという父権主義的なイデオロギーが、戦後の家父長的家族構造の基本にあったように思います。石原都知事はまさにその典型ですね。そのような父権主義的なイデオロギーが日本を作ってきたので、必然的に間違いが許されない社会になってしまったのだと思うんです。
それは、家族を守るという責任感から出発している感情なのかもしれません。男はたいがい、勇敢なものがたりに自己を投影したりするようなロマンチストですから。それ自体はいいんですよね。ところが、人は間違えることがあるという基本的なことをどこかで失念してしまうようなのです。そうなってしまうと、責任感は独善に変質してしまいます。自己正当化に走ります。(ツイッターなどのネット上でも、変な絡み方をしてくるのはたいがい男ですね。粘着質で気持ち悪いのは、ママにおっぱいを貰えず寂しい思いをしてきた奴なんじゃないかとさいきん思います。)
だから内省というものがときには必要なのだと思います。みずからの内省を経たことばなのかどうか、それが発せられることばの温度を決めるのだと思います。震災後、大量に流される「がんばろう」ということばを聞くたびに、そう感じずにはいられません。
「正解」を持っていることが、「男らしい」ことなんだと長らく思われてきた。ぼく自身もそういった男らしさの呪縛に捕らわれてきました。でもいちどそこからドロップアウトしてみたら、ずいぶんとラクになりました。そうすると、他人の失敗も許せる(というか、どうでもよくなる)ようになってきます。「自分」に固執して硬直してしまうくらいならば、そんな「自分」は手放してしまえばいい。そうしないと未来は見えてきません。
地震直後、山形は1日だけ停電となりました。電気の無い時間をすごすことで、いろいろなことに気づき、いろいろなことを考え直した人がたくさんいると思います。それらの「思い」はどこに向けて発せられるものなんでしょうか。
原発の是非を考えるということは、戦後の日本経済(をかたち作ってきた、基本にあるマインド)を見直すということです。右肩上がりの経済成長をすべての前提とした社会設計でほんとうにいいのか。はたらくということに負荷がかかっていないのか。なんのためにはたらくのか。なんのために消費するのか。自分自身の生活はどうか。ライフスタイルはこのままでいいのか。それは内省です。内省とは、過去への糾弾ではなく、未来を考えるということに他なりません。
齋藤和義さんの「ぜんぶウソだった」という歌が話題になりましたね。ぼくはこの歌をはじめて聴いた時に、ああロックだなあと感じました。ロックとは反体制の音楽だったことを思い出した。ところがしばらくして、懐疑的なコメントを目にするようになりました。曰く、「騙されていた」という当時者意識の欠如したメッセージソングであると。当時者意識の欠如した「反原発」がアンチの論理を越えないという意見はしごくもっともだと思います。でもぼくはこの懐疑的なコメントには賛同しません。なぜなら、このうたは、声高に反原発を叫ぶようなアジテーション・ソングなどではなく、パーソナルなうただと感じたからです。「騙されていた」ことを知ることから内省がはじまっていくのだと感じたからです。他の曲を聴くと、齋藤氏はいつもパーソナルなことを歌っていることがわかります。ぼくにとってロックとはパーソナルなものでした。
「反原発」でなく「脱原発」ということばを敢えて使っている人たちも、その多くは自らのライフスタイルの見直しに意識的です。原発の安全性・危険性を論じるだけではなく、まずはそこからはじめなければ何も変わらないでしょう(それは歴史が示しています)。内省のない復興案は、その場しのぎにしかなり得ない可能性があります。ぼくは、できるかぎり持続可能なよのなかをつくりたいと思っています。その過程においてはたぶんたくさんの間違いをしてしまうに違いありません。でもそれでいいんだと思います。原発は、「間違えたら取り返しのつかない」ものであり、だから「間違えない」ことが望まれました。しかしいつのまにか「間違えない」という願望が、既成事実にすり替わってしまいました。脱原発とは、間違えることを前提にした文化を考えることだと思います。人間の生身のからだの脆弱性を。「間違えない」ことじゃなくて、「間違ったらやりなおす」ことのできるよのなかになるといいなあと妄想しています。
被災地の方々がいまも大変な思いをしていることは忘れないようにしたいですし、福島原発の現場で作業を続ける方々にはほんとうに頭が下がります。しかし、そういった思いもふっとんでしまうほどに目下の関心事は「放射能」です。自分の身にふりかかることだから。それは子どもへの影響という意味でです。子どもの未来を奪う危険が差し迫ったときには日本という土地に未練はありません。申し訳ないけど、我が子がいちばんだということは揺るぎません。
もちろんだからといって必要以上に恐れたり、自粛したりする必要はないのかもしれません。或いは、いくら情報を収集したって、結果としての行動はテレビしか見ない人と変わらないかもしれません。でもやっぱり親としては、どうしても詮索せずにはいられない。震災以降、ぼくは原発関連の情報をほぼ100%ツイッター上からしか得ていません。マスコミの報じる情報は、ツイッターを流れた情報の後追いであることがはっきりと露呈しました。それは単純に時系列的な問題でもあるし、政府の認識の遅さ(甘さ)でもあるし、なによりマスコミ自身のバイアスが恐ろしい程までに金銭によって制限されているということ。いちばんの偏向報道とは、報じないということ。
今朝、目にした記事にとても感心しました。それは、中部電力のCMに出演しており、原発推進に加担していたと噂されていた勝間和代さんによる、これまでの発言などに対する謝罪文でした。
原発事故に関する宣伝責任へのお詫びと、東京電力及び国への公開提案の開示(勝間 和代) - REAL-JAPAN.ORG
今回の福島第一原子力発電所の事故に関し、電力会社(中部電力)のCMに出演したものとして、また、電気事業連合会後援のラジオ番組に出演していたものとして、宣伝責任ある人間として、まずはみなさまの原子力に対する重大な不安への理解、および配慮が足らなかったことについて、そして、電力会社及び政府のエネルギー政策上のコンプライアンス課題を正しく認識できていなかったことについて、心からお詫びを申し上げます。
先月放送された「朝まで生テレビ」での勝間さんの発言が物議を醸したのは記憶に新しいところです。あの番組自体ががっかりな内容でしたし、勝間さんの発言にはぼくもがっかりしました。言ってることは論理的にそうなのかもしれないけれども、なんかこの場でそういうことは違うんじゃないかというか、子どもを持つ母親として同じことが言えるのかなと、なんかがっかりしちゃったんです。
しかし今朝この謝罪文を目にしてぼくは驚きました。社会的地位のある人がこのように自分の間違いを認めるということはなかなか出来ないことなんじゃないでしょうか。勝間さんはまた次のように述べています。
単なる事実としてのデータの積み上げだけではなく、その事故を受けたときに健康被害が出る可能性や、風評被害が出る可能性、あるいは精神的なショック全体における心理的なダメージを十分に推し量ることができなかったと感じ、反省をしております。人によって感受性の違いがある、なしではなく、「そう感じている人が多く、不安になっている」という事実こそが、過去データよりも重要であり、その点を十分に理解できておりませんでした。
この文章を読んだ時に、ぼくは勝間さんに対するがっかりが消えたのを感じました。ここで勝間さんが言ってることはつまり親としての視点だからです。原子炉の構造や科学的根拠の前に、ぼくはまず親であるんです。親であることがまずはじめの事実なんです。だから放射能について詮索せずにはいられないし、危険性はあるが安全だなどと言われても納得できない(だって、ロシアンルーレットに参加するようなものでしょう)。
事故当初はぼくも、安全であるという情報を選択的に求めていたように思います。原子炉の構造であるとか、放射線量といった今まで存在も知らなかったようなものを慌てて勉強して、その危険性の少なさを見いだそうとしていました。安全であるという確証を科学的根拠に委ねようと。今思えばそれは、こうあってほしいという自分の願望であり、そこでは直感や違和感といったものが、まるでショートしてしまったようでした。ああ、人というものは、自分の見たいものを選択的に見るのだし、自分の信じたいものを選択的に信じる生きものなのだと、ぼくは自分をふりかえってつくづく思いました。
そして、勝間さんに対して原発推進派というレッテルを貼ることには何の意味もないなと。いちどそういうレッテルを貼ってしまうと、そうとしか見えなくなる傾向が人にはあります(自分の見たいように見る生きものなので)。今回の謝罪文に対しても、批判のコメントがたくさん付いているようです。それらの批判はつまるところ、「偉そうにしてんじゃねーよ」ということのようです。さんざん都合のいいこと言ってきたくせに、いまさら何言ってんだということでしょう。気持ちはとてもよくわかります。ぼくだってそう思います。でも、待って。そうやって「間違いを許さない」ことが、硬直した社会をつくってきた要因だったんじゃないでしょうか。
ほんとうはかんたんなことで。間違ったらあやまればいい。そして訂正すればいい。謝られたら許せばいい。なんだかあたりまえのようなことですが。それができないのはどうしてなのかを自問したい。
いままでの日本は、いかに「間違えない」かが価値軸の中心にあったように感じます。悪い人に騙されないように注意する。子どもには怪我をさせないように先回りして防ぐ。受験も間違えないように志望校を設定する(受験勉強とはいかに「間違えない」かの競争です)。間違えないように就職して、間違えないように仕事をする。怒られないように(クレームのこないように)配慮する。
なぜ多くの人がそうするのか。それは、いちど間違ってレールから外れてしまったら大変だからです。そういった人に対して、この国はおどろくほど厳しいからです。差別的とすら言っていい。
だから、間違えないように「正解」を与えてくれる人が重宝されるようになりました。間違えないということは、つまりよのなかをうまく渡るということですので、間違えない人とは権威のある人のことになりました。家庭内においては、父親というのはその象徴であり、権威によって弱者(妻や子どもたち)を導くという父権主義的なイデオロギーが、戦後の家父長的家族構造の基本にあったように思います。石原都知事はまさにその典型ですね。そのような父権主義的なイデオロギーが日本を作ってきたので、必然的に間違いが許されない社会になってしまったのだと思うんです。
それは、家族を守るという責任感から出発している感情なのかもしれません。男はたいがい、勇敢なものがたりに自己を投影したりするようなロマンチストですから。それ自体はいいんですよね。ところが、人は間違えることがあるという基本的なことをどこかで失念してしまうようなのです。そうなってしまうと、責任感は独善に変質してしまいます。自己正当化に走ります。(ツイッターなどのネット上でも、変な絡み方をしてくるのはたいがい男ですね。粘着質で気持ち悪いのは、ママにおっぱいを貰えず寂しい思いをしてきた奴なんじゃないかとさいきん思います。)
だから内省というものがときには必要なのだと思います。みずからの内省を経たことばなのかどうか、それが発せられることばの温度を決めるのだと思います。震災後、大量に流される「がんばろう」ということばを聞くたびに、そう感じずにはいられません。
「正解」を持っていることが、「男らしい」ことなんだと長らく思われてきた。ぼく自身もそういった男らしさの呪縛に捕らわれてきました。でもいちどそこからドロップアウトしてみたら、ずいぶんとラクになりました。そうすると、他人の失敗も許せる(というか、どうでもよくなる)ようになってきます。「自分」に固執して硬直してしまうくらいならば、そんな「自分」は手放してしまえばいい。そうしないと未来は見えてきません。
地震直後、山形は1日だけ停電となりました。電気の無い時間をすごすことで、いろいろなことに気づき、いろいろなことを考え直した人がたくさんいると思います。それらの「思い」はどこに向けて発せられるものなんでしょうか。
原発の是非を考えるということは、戦後の日本経済(をかたち作ってきた、基本にあるマインド)を見直すということです。右肩上がりの経済成長をすべての前提とした社会設計でほんとうにいいのか。はたらくということに負荷がかかっていないのか。なんのためにはたらくのか。なんのために消費するのか。自分自身の生活はどうか。ライフスタイルはこのままでいいのか。それは内省です。内省とは、過去への糾弾ではなく、未来を考えるということに他なりません。
齋藤和義さんの「ぜんぶウソだった」という歌が話題になりましたね。ぼくはこの歌をはじめて聴いた時に、ああロックだなあと感じました。ロックとは反体制の音楽だったことを思い出した。ところがしばらくして、懐疑的なコメントを目にするようになりました。曰く、「騙されていた」という当時者意識の欠如したメッセージソングであると。当時者意識の欠如した「反原発」がアンチの論理を越えないという意見はしごくもっともだと思います。でもぼくはこの懐疑的なコメントには賛同しません。なぜなら、このうたは、声高に反原発を叫ぶようなアジテーション・ソングなどではなく、パーソナルなうただと感じたからです。「騙されていた」ことを知ることから内省がはじまっていくのだと感じたからです。他の曲を聴くと、齋藤氏はいつもパーソナルなことを歌っていることがわかります。ぼくにとってロックとはパーソナルなものでした。
「反原発」でなく「脱原発」ということばを敢えて使っている人たちも、その多くは自らのライフスタイルの見直しに意識的です。原発の安全性・危険性を論じるだけではなく、まずはそこからはじめなければ何も変わらないでしょう(それは歴史が示しています)。内省のない復興案は、その場しのぎにしかなり得ない可能性があります。ぼくは、できるかぎり持続可能なよのなかをつくりたいと思っています。その過程においてはたぶんたくさんの間違いをしてしまうに違いありません。でもそれでいいんだと思います。原発は、「間違えたら取り返しのつかない」ものであり、だから「間違えない」ことが望まれました。しかしいつのまにか「間違えない」という願望が、既成事実にすり替わってしまいました。脱原発とは、間違えることを前提にした文化を考えることだと思います。人間の生身のからだの脆弱性を。「間違えない」ことじゃなくて、「間違ったらやりなおす」ことのできるよのなかになるといいなあと妄想しています。
脱・間違えない文化
脱・間違えない文化 2011.04.16 Saturday [妄想] comments(0) |