脱・間違えない文化

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ひさしぶりのブログです。なにから書いたらいいのかわからないほど、さまざまなことを考えさせられ、見つめさせられ、突きつけられた1ヶ月間でした。それはもういままでの価値軸がシャッフルされてしまうほどに、かつてない量と質の情報が飛び交い、それを消化できないままにまた新たな情報が飛び、という状況がいまも続いています。その中でぼく自身も考えがまとまらない状態にありますが、当分まとまりそうにもないので、まとまらないままに書き留めておこうと思います。

被災地の方々がいまも大変な思いをしていることは忘れないようにしたいですし、福島原発の現場で作業を続ける方々にはほんとうに頭が下がります。しかし、そういった思いもふっとんでしまうほどに目下の関心事は「放射能」です。自分の身にふりかかることだから。それは子どもへの影響という意味でです。子どもの未来を奪う危険が差し迫ったときには日本という土地に未練はありません。申し訳ないけど、我が子がいちばんだということは揺るぎません。

もちろんだからといって必要以上に恐れたり、自粛したりする必要はないのかもしれません。或いは、いくら情報を収集したって、結果としての行動はテレビしか見ない人と変わらないかもしれません。でもやっぱり親としては、どうしても詮索せずにはいられない。震災以降、ぼくは原発関連の情報をほぼ100%ツイッター上からしか得ていません。マスコミの報じる情報は、ツイッターを流れた情報の後追いであることがはっきりと露呈しました。それは単純に時系列的な問題でもあるし、政府の認識の遅さ(甘さ)でもあるし、なによりマスコミ自身のバイアスが恐ろしい程までに金銭によって制限されているということ。いちばんの偏向報道とは、報じないということ。


今朝、目にした記事にとても感心しました。それは、中部電力のCMに出演しており、原発推進に加担していたと噂されていた勝間和代さんによる、これまでの発言などに対する謝罪文でした。

原発事故に関する宣伝責任へのお詫びと、東京電力及び国への公開提案の開示(勝間 和代) - REAL-JAPAN.ORG

今回の福島第一原子力発電所の事故に関し、電力会社(中部電力)のCMに出演したものとして、また、電気事業連合会後援のラジオ番組に出演していたものとして、宣伝責任ある人間として、まずはみなさまの原子力に対する重大な不安への理解、および配慮が足らなかったことについて、そして、電力会社及び政府のエネルギー政策上のコンプライアンス課題を正しく認識できていなかったことについて、心からお詫びを申し上げます。



先月放送された「朝まで生テレビ」での勝間さんの発言が物議を醸したのは記憶に新しいところです。あの番組自体ががっかりな内容でしたし、勝間さんの発言にはぼくもがっかりしました。言ってることは論理的にそうなのかもしれないけれども、なんかこの場でそういうことは違うんじゃないかというか、子どもを持つ母親として同じことが言えるのかなと、なんかがっかりしちゃったんです。

しかし今朝この謝罪文を目にしてぼくは驚きました。社会的地位のある人がこのように自分の間違いを認めるということはなかなか出来ないことなんじゃないでしょうか。勝間さんはまた次のように述べています。

単なる事実としてのデータの積み上げだけではなく、その事故を受けたときに健康被害が出る可能性や、風評被害が出る可能性、あるいは精神的なショック全体における心理的なダメージを十分に推し量ることができなかったと感じ、反省をしております。人によって感受性の違いがある、なしではなく、「そう感じている人が多く、不安になっている」という事実こそが、過去データよりも重要であり、その点を十分に理解できておりませんでした。



この文章を読んだ時に、ぼくは勝間さんに対するがっかりが消えたのを感じました。ここで勝間さんが言ってることはつまり親としての視点だからです。原子炉の構造や科学的根拠の前に、ぼくはまず親であるんです。親であることがまずはじめの事実なんです。だから放射能について詮索せずにはいられないし、危険性はあるが安全だなどと言われても納得できない(だって、ロシアンルーレットに参加するようなものでしょう)。

事故当初はぼくも、安全であるという情報を選択的に求めていたように思います。原子炉の構造であるとか、放射線量といった今まで存在も知らなかったようなものを慌てて勉強して、その危険性の少なさを見いだそうとしていました。安全であるという確証を科学的根拠に委ねようと。今思えばそれは、こうあってほしいという自分の願望であり、そこでは直感や違和感といったものが、まるでショートしてしまったようでした。ああ、人というものは、自分の見たいものを選択的に見るのだし、自分の信じたいものを選択的に信じる生きものなのだと、ぼくは自分をふりかえってつくづく思いました。

そして、勝間さんに対して原発推進派というレッテルを貼ることには何の意味もないなと。いちどそういうレッテルを貼ってしまうと、そうとしか見えなくなる傾向が人にはあります(自分の見たいように見る生きものなので)。今回の謝罪文に対しても、批判のコメントがたくさん付いているようです。それらの批判はつまるところ、「偉そうにしてんじゃねーよ」ということのようです。さんざん都合のいいこと言ってきたくせに、いまさら何言ってんだということでしょう。気持ちはとてもよくわかります。ぼくだってそう思います。でも、待って。そうやって「間違いを許さない」ことが、硬直した社会をつくってきた要因だったんじゃないでしょうか。

ほんとうはかんたんなことで。間違ったらあやまればいい。そして訂正すればいい。謝られたら許せばいい。なんだかあたりまえのようなことですが。それができないのはどうしてなのかを自問したい。


いままでの日本は、いかに「間違えない」かが価値軸の中心にあったように感じます。悪い人に騙されないように注意する。子どもには怪我をさせないように先回りして防ぐ。受験も間違えないように志望校を設定する(受験勉強とはいかに「間違えない」かの競争です)。間違えないように就職して、間違えないように仕事をする。怒られないように(クレームのこないように)配慮する。

なぜ多くの人がそうするのか。それは、いちど間違ってレールから外れてしまったら大変だからです。そういった人に対して、この国はおどろくほど厳しいからです。差別的とすら言っていい。

だから、間違えないように「正解」を与えてくれる人が重宝されるようになりました。間違えないということは、つまりよのなかをうまく渡るということですので、間違えない人とは権威のある人のことになりました。家庭内においては、父親というのはその象徴であり、権威によって弱者(妻や子どもたち)を導くという父権主義的なイデオロギーが、戦後の家父長的家族構造の基本にあったように思います。石原都知事はまさにその典型ですね。そのような父権主義的なイデオロギーが日本を作ってきたので、必然的に間違いが許されない社会になってしまったのだと思うんです。

それは、家族を守るという責任感から出発している感情なのかもしれません。男はたいがい、勇敢なものがたりに自己を投影したりするようなロマンチストですから。それ自体はいいんですよね。ところが、人は間違えることがあるという基本的なことをどこかで失念してしまうようなのです。そうなってしまうと、責任感は独善に変質してしまいます。自己正当化に走ります。(ツイッターなどのネット上でも、変な絡み方をしてくるのはたいがい男ですね。粘着質で気持ち悪いのは、ママにおっぱいを貰えず寂しい思いをしてきた奴なんじゃないかとさいきん思います。)

だから内省というものがときには必要なのだと思います。みずからの内省を経たことばなのかどうか、それが発せられることばの温度を決めるのだと思います。震災後、大量に流される「がんばろう」ということばを聞くたびに、そう感じずにはいられません。

「正解」を持っていることが、「男らしい」ことなんだと長らく思われてきた。ぼく自身もそういった男らしさの呪縛に捕らわれてきました。でもいちどそこからドロップアウトしてみたら、ずいぶんとラクになりました。そうすると、他人の失敗も許せる(というか、どうでもよくなる)ようになってきます。「自分」に固執して硬直してしまうくらいならば、そんな「自分」は手放してしまえばいい。そうしないと未来は見えてきません。


地震直後、山形は1日だけ停電となりました。電気の無い時間をすごすことで、いろいろなことに気づき、いろいろなことを考え直した人がたくさんいると思います。それらの「思い」はどこに向けて発せられるものなんでしょうか。

原発の是非を考えるということは、戦後の日本経済(をかたち作ってきた、基本にあるマインド)を見直すということです。右肩上がりの経済成長をすべての前提とした社会設計でほんとうにいいのか。はたらくということに負荷がかかっていないのか。なんのためにはたらくのか。なんのために消費するのか。自分自身の生活はどうか。ライフスタイルはこのままでいいのか。それは内省です。内省とは、過去への糾弾ではなく、未来を考えるということに他なりません。

齋藤和義さんの「ぜんぶウソだった」という歌が話題になりましたね。ぼくはこの歌をはじめて聴いた時に、ああロックだなあと感じました。ロックとは反体制の音楽だったことを思い出した。ところがしばらくして、懐疑的なコメントを目にするようになりました。曰く、「騙されていた」という当時者意識の欠如したメッセージソングであると。当時者意識の欠如した「反原発」がアンチの論理を越えないという意見はしごくもっともだと思います。でもぼくはこの懐疑的なコメントには賛同しません。なぜなら、このうたは、声高に反原発を叫ぶようなアジテーション・ソングなどではなく、パーソナルなうただと感じたからです。「騙されていた」ことを知ることから内省がはじまっていくのだと感じたからです。他の曲を聴くと、齋藤氏はいつもパーソナルなことを歌っていることがわかります。ぼくにとってロックとはパーソナルなものでした。

「反原発」でなく「脱原発」ということばを敢えて使っている人たちも、その多くは自らのライフスタイルの見直しに意識的です。原発の安全性・危険性を論じるだけではなく、まずはそこからはじめなければ何も変わらないでしょう(それは歴史が示しています)。内省のない復興案は、その場しのぎにしかなり得ない可能性があります。ぼくは、できるかぎり持続可能なよのなかをつくりたいと思っています。その過程においてはたぶんたくさんの間違いをしてしまうに違いありません。でもそれでいいんだと思います。原発は、「間違えたら取り返しのつかない」ものであり、だから「間違えない」ことが望まれました。しかしいつのまにか「間違えない」という願望が、既成事実にすり替わってしまいました。脱原発とは、間違えることを前提にした文化を考えることだと思います。人間の生身のからだの脆弱性を。「間違えない」ことじゃなくて、「間違ったらやりなおす」ことのできるよのなかになるといいなあと妄想しています。

脱・間違えない文化

脱・間違えない文化 2011.04.16 Saturday [妄想] comments(0)
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ほぼ日の、くだらない時間

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糸井重里さんのエッセイ「今日のダーリン」にとても共感しました。ここで言われていることは、糸井さん自身の存在の魅力にもなっているところでもあると思うのですが、じゃあそれは何なのさというと、言葉にするのは難しいものでもあるような気がします。明確にバシッと断定できるようなものでもなく、なんだかふわふわとゆらゆらとして掴みどころのないような。あれ、糸井さんって、けっきょく何をやっている人なの?っていう。なにか特定のものが欲しくて来るわけでもないし、なんだかよくわからないんだけど、ついつい覗きに来ちゃうよね、ほぼ日って、みたいな。

糸井さんは〝それ〟を「くだらない時間」と表現しています。

 10年前は、もう「ほぼ日」がはじまっていたから、
 時間も労力も、あんまり余ってなかったけれど、
 20年前だとか、25年前だとか、30年前となると、
 もう、ほんとに「くだらない時間」が、
 山ほどあったんですよ。
 
 しょうもない仲間と、くだらない時間があって、
 バカなことやらアホらしいことを、
 貪欲なまでに求めて遊んでいたような気がします。
 (このあたりの表現を、頭のかたい人に
 100%まじめに受け取られても困っちゃうんですけどね)
 
 時代は、あきらかに変わっています。
 もう、あんなふうな「くだらない時間」はないです。
 「役に立つ時間」や、「ためになる時間」が優先されて、
 「くだらない時間」は生活のなかから
 ゴミのように掃き出されてしまいました。
 みうらじゅん先生のように、「くだらない時間」を、
 「これこそが仕事なんだ!」
 というふうに設計しなおした方は、
 その時間を呼吸して生きておられますけどね。
 
・郷愁で言ってるつもりはないのですが、
 「ひまでしょうがない若者」だとか、
 「仕事をさぼってばかりいる会社員」だとかが、
 あんまり不安も感じないで、
 元気でくだらなく生きていられたというのが、
 やっぱり「右肩上がり」の成長のおかげなんでしょうね。
 
 もうちょっと混ぜるわけにはいかないのかなぁ。
 あり余るほどの「くだらない時間」は遠慮しますが、
 生活の5%くらいは、あってもいいような気がするなぁ。

 その「くだらない時間」を、社会全体が、
 テレビのバラエティ番組に代用させちゃったのかな?
 ほんとは、個人個人で味わうべき「くだらない時間」を、
 テレビのなかの「お仲間」に、代わりにやってもらって、
 それで気晴らしをするようになっていたんじゃないかな?
 でも、「くだらない時間」を自らの手取り戻そう、
 なんて血相変えて言うようなことじゃないし‥‥。

ほぼ日刊イトイ新聞 今日のダーリン(2011.3.9)より


20年前、30年前によのなかにどれだけ「くだらない時間」があったのか、ぼくはよくわかりません。それでも、ぼくが子どもだった頃は、もっとのんびりした空気が田舎にはあったとは思います。ばあちゃん家に帰省すると、玄関の鍵なんか閉めてなかったような。「くだらない時間」かどうかはぼくにはわかりませんが、ゆるさは確かにあったような気がします。

ここで言う「くだらない」ことっていうのは、好きなこと、楽しいこと、やりたいこと、と同義であるようにぼくは思います。先日のユニコーンの記事にも書きましたが、「いい年したおっさんが好きなことやってる」のは、とってもかっこいいと思います。NHKの番組『ようこそ先輩』に出演して「いい年してバカやってる」ピエール瀧もとってもかっこよかった。おれたち、これが好きなんだからしょうがないよね、というある種の開き直りというか、自然体。もちろん、年相応のしがらみであるとか責任であるとかも感じているはずです。それでも、ただやりたいから、やってる。それって、自分の「まるごと」を引き受けていくと覚悟した人にしか得られない達観だと思うんです。


ほぼ日に、「スペック」的なものはなにもありません。「感じ」しかない。
この「感じ」に共感して、人が覗きにやって来る。この「感じ」を共有する場が、ほぼ日というひとつの物語をつくっているように思います。

では、その「感じ」はどこから来ているのかというと、その源泉は、糸井さんという主語をもった個人が「感じ」たことなんですね。糸井さんが気持ちいいと感じたこと。おもしろそうだなと感じたこと。知りたいなと感じたもの。あくまでも糸井さんという個人なのだと思います(そして、糸井さんと「感じ」を同じくするスタッフの人たち)。

この「感じ」から離れて、主語のない「スペック」だらけになった時に、ほぼ日は価格ドットコムになってしまうでしょう(もちろんそういうサイトを否定しているわけではありません)。主語をもった個人は、からだを有しています。個人のからだが「感じ」たことからしか、人は主語をもった思いを持つことができないと、ぼくはさいきんつくづく感じます。他人から見たら「くだらない」ことでも、その人にとっては大切なものって、たくさんありますよね。それはその人が、からだで「感じ」たことだからです。「感じ」方は、からだの数だけあります。からだの数だけ存在する「くださなさ」のほうが真実なのかもしれません。金銭的にも精神的にも余裕が無くなることで、「くだらない」ことにかまっているヒマはないと、「くだる」ことだけを追求するようになったのが、経済至上主義だったんですね。お金という、主語のない、しかし皆に共通する「スペック」をなによりも第一に考えた帰結が、いまの息苦しさにつながっている。主語がないんだから、誰かが犯人というわけでもないわけです。

主語をとりもどすこと。からだが主導する「感じ」を信じること。
そうすることで、「くだらない」ことが、なんて楽しいことになることでしょうか。ほぼ日は、その証です。
あ、決してほぼ日が「くだらない」と言っている訳ではありませんので。ん、言ってることになるのか(?)。くだらない、とくだる、の違いって何なんでしょう。なにを基準にそう思うんでしょうか。まずはそこを、自分を主語にして考えてみると、いろいろなことがおもしろくなってくるような気がします。

ほぼ日の、くだらない時間

ほぼ日の、くだらない時間 2011.03.09 Wednesday [妄想] comments(0)
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京都大カンニング問題から感じた「学び」のこと

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京都大など4大学で入試問題が試験中にインターネット上の掲示板に投稿された問題(朝日毎日1 2)。ぼくは報道を見ていないのですが、ツイッターのTLから察するに今朝はこの話題でいっぱいだったようです。新聞では一面で取り上げられたみたいですね。ええと、そんなに日本中で大騒ぎするようなことでしたっけ、カンニング。

これを警察沙汰にして、捜査機関を動員して取っ捕まえるっていう、その必死さのほうがコワいです。同じ会場で試験を受けた受験生(当時者)であるならともかく、ただニュースで見ただけの世間にまで瀰漫しているイライラ感が。罰を与えよ、っていう空気が。いや、ほんとうはそんな空気は存在しないのかもしれません(京大の措置はやりすぎだという意見をTL上ではよく目にしますし)。ただマスメディアがそういった空気を作ろうとしているのは確かです。意識的なのか無意識なのかは知らないけれども、自分のことは棚にあげて、犯人の首を取ることに必死になってる。それも、まだ分別のつかないような若者を。少なくとも、逐一ニュースで報じる必要なんかないでしょう。関係者をマスメディアが吊るし上げ権利はないでしょう。で、けっきょく落ち着くところは、インターネットの危険性とか、とにかく規制を強化しないといけない、という話。都条例と同じような空気を感じます。都条例改正案はこういう危険性を孕んでいると思う。

今朝、パパ友である山中さんがつぶやいてました。

各社一面でカンニングて…カンニングなんて誰でもやったことあっだろ。まぁ入試とかは無いだろけど(笑)罪は罪だけど罪は結局ネットに入試テスト質問したというカンニング。日本中で騒ぐことか…と呟く僕もまた(笑)

山中さんのTwitterより

誰でもやったことあるかどうかはわかりませんが(笑)、このツイートに返信するかたちで、ぼくは思わず告白してしまいました。うん、やったことあります。
ぼく自身のことを少し書きます。カンニング。受験の時はさすがにしなかったけど、大学に入ってからの期末試験などではよくやりました。友だちと一緒になって。なんでなんだろうと振り返ると、すっごいバカだったんですね。そもそも高校時代のぼくは、ほんとうに影が薄く「自分」を持たず、ただ空気に流されるだけの男でした。将来についてこれだ、という確たるやりたいことがあるでもなく、いちおう進学校だったので、なんとなく「そういうもんだ」と思い、大学受験まで至りました。たまたま少しだけ成績が良かったので理系に進み、その流れで工学部を受験した。ただただ、流れに乗っただけでした。そうして進んだ大学での勉強は、ちっとも身に入りませんでした。受験勉強までは、暗記といういわばゲーム感覚でこなすことが出来たけれども、専門性が増すにつれてそもそもあまり興味の無い分野であったことに気づいてしまった。勉強への意欲が失われていくのと、カンニングへの依存は比例していきました。なんでカンニングするのかっていうと、真面目に勉強するメリットがわからないからなんですね。ただ単に大卒というステータスを得ることが目的になってしまって(ぼくの周りの悪友はみなそういう感じでした)。とはいえぼくは、カンニングしても留年するという、どうしようもない日々を送りました。親のすねをかじって、無為な日々を貪った大馬鹿野郎だという引け目がいまでもぼくにはあります。

けっきょく大学はドロップアウトして、デザイン系の専門学校に通い、いまに至ります。専門学校での日々は、一転して楽しかったなあ。好きなこと、だったんですね。ここでやっとぼくは自分というものを取り戻しました。アート系なので「学び」というのとはちょっと違うかもしれませんが、とにかく自分からいろいろなものを描いたし、作ったし、他の人を巻き込んだし、ヘタだけど単純に楽しかった。pleasureがあった。自分にそういう積極性があるということをはじめて知りました。だからぼくは「学び」っていうのは、pleasureがあって「〜したい」って欲求が生まれてはじめて成り立つものなんじゃないかと、思います。

明治学院大学にて教鞭をとる高橋源一郎さんのつぶやきです。
ところで今朝の朝刊の一面トップが「入試問題漏洩」事件で、「逮捕間近」などと書いていた。連続殺人犯なみの扱い。不正答案に対してはどの大学でも決まったペナルティーがあって、それも「教育」の一環だ。今回の京大の対応は「教育」ではなく、リンチにすぎない。そんなに学生を犯罪者にしたいのか?

大学当局がそんな発想をするのは「受験制度」を「神聖不可侵」の制度だと思っている(社会と同じ考えだ)からだ。(少なくとも日本の)「受験制度」は、「教育」とはなんの関係もない必要悪の一種にすぎない。「教育」より学生より「制度」が大事とした大学は、いったい学生になにを教えるんでしょう。

「教育」と「管理」はちがう。「教育者」は学生を警察に突き出したりしないが「管理者」は学生を警察に突き出すことができる。「教育」は、学生の「善性」を信じることからしか始まらない。ぼくも時に「カンニングや模倣を丸写しはやめてね」という。でも、いうことを聞いてくれない学生もいる。

その時、ぼくは、ぼくに学生を説得するだけの力がなかったと反省するだけです。

高橋源一郎Twitterより


こういう先生が教育現場で多数派であるならばいいのですが。受験戦争という現実を見ると、そうはなっていないことは明らかです。高橋さんの言う通り、受験という現場では「教育」よりも「制度」が重要視されています。受験制度そのものの制度もそうだし、その中で勉強する中身も、いわゆる暗記のための勉強、すなわち誰かが与えてくれたルール=制度をただ覚えるだけのものになってしまっている。わからないことはなんでもその都度ネットで調べれば済む時代に、公式を丸暗記することになんの意味があるのかと感じるほうがぼくは自然なように思います。

受験勉強とは自己投資に他ならない。」との意見が示すように(これが教育の現場でも学生の側でもおそらく多数派の認識なのでしょう)、勉強の目的というものが(主に経済的な)自己利益の追求、そして投資したぶんの回収であるというような思考回路が主流を占めるならば、いかにして効率よく高い点数をとるか、が優先事項であるという発想が出てくるのは自然なことなんじゃないでしょうか。そして効率よく高い点数をとるための手段がカンニングであるならば、ある意味では、それはしたたかでかしこい選択と言えるかもしれません。

いかにしてバレないように、いかにして効率よくカンニングするかって、創意工夫が必要なんですよね。だから、受験勉強なんかよりも頭を使うかもしれない。インターネットを活用してカンニングするというアイディアに、ぼくはむしろ先見性を感じちゃうけど。

「学び」とは何なのか。なんのために「学ぶ」のか。
ぼくは、子どもが生まれ、新しい世界を知ることによって、学生時代にはちっとも起こらなかった「知りたい」という欲求が、この歳にしてどんどん湧いてくるのを、いま楽しんでいます。たぶんいま大学に行ったらオモシロいだろうなあと思う。学べば学ぶほど、いろいろなことを想像したくなるからです。「わかる」というのは、自分のからだで体感することではじめて得られるものかもしれません。そしてそれが想像力を生む。想像するから、知識を得てもっと知りたいと思う。からだとあたまは循環している。「学ぶ」というのは自己利益の追求というシステマチックなもののためではなく、もっとなんだかよくわからないものとして、源泉的な人間の欲求として存在するのではないかと思うのです。1歳の息子が、目に映るすべてに好奇心を抱き、毎日飽きもせずに全力で遊び倒しいろいろなことを学んでいく姿を見て、そう思います。

創造は、想像力から生まれます。たぶんpleasureも、想像力から生まれます。自己利益の回収を目的に設定する教育の現場からは、想像力は育ちません。ぼくは、自分の子どもには想像力を育んで欲しいと願っています。ジョン・レノンが歌ったように(過去記事)。せかいを創造してきたのは、想像力です。それはきっとこれからもそうだと思います。

最後に、糸井重里さんのつぶやきを紹介しておきます。

 試験のカンニングのこと。
 いけないことである、というのはわかっています。
 ただの、ぼくの知っている事実を思い出すのですが、
 「カンニング」をテーマにしたマンガや映画を、
 ぼくはたくさん見たことがあります。
 作者、制作者たちは、表現のなかで、
 それをいいことだとは言ってはいません。
 ただ、それを笑いのタネにしたり、
 それをめぐっての攻防をドラマとして描いていました。
 
 同じように、ものを盗むというのは悪いことです。
 それでも、小説、映画、テレビドラマ、マンガでは、
 大盗賊から、こそ泥、近所の柿どろぼうに至るまで、
 さんざん描かれてきています。
 ときには、というか、かなり大きな比重で、
 それを捕らえる側の警察や正義の人びとよりも、
 悪いことをしている盗人のほうに、
 感情移入して楽しめるようにつくっている作品も、
 たくさんあります。

 どうして、悪いことや、悪いことをする人たちが、
 こんなにたくさん表現されてきたのでしょうか。
 じぶんの受験している学校で、
 他の受験生がカンニングをしていたら、
 きっと腹が立つのだろうと思います。
 じぶんの財産が盗まれたら、怒り狂うかもしれません。
 なのに(!)、人間がするずるいことや悪いことを、
 楽しんだりするために表現したり観賞したりすることが、
 どうして、こんなに続いてきたのでしょうか?
 
 その答えを性急に求めないほうがいいと思います。
 どっちかが、まるまる正しいということはないですから、
 「どうしてだろう?」と考えるくらいのすきまを、
 こころの中に空けておいて、あれこれの問題を、
 感じたり考えたりしたいものだと、ぼくは思うのです。

ほぼ日刊糸イトイ新聞 今日のダーリン(2011.3.3)より

ぼくも、むかーし洋画劇場で観た『ザ・カンニング』という映画がなんだか記憶に残っています。様々なカンニングテクニックを駆使するという、他愛も無いバカな映画なんですけど。なんだか楽しそうだなあと思いながら、帰省中のばあちゃん家のテレビで観ていたことを覚えています。

京都大カンニング問題から感じた「学び」のこと

京都大カンニング問題から感じた「学び」のこと 2011.03.03 Thursday [妄想] comments(0)
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上関原発の「いま」を伝えるUST「満月tv」

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ツイッターのタイムライン(TL)というのは、ほんとうに多種多様なんですね。ひとの数だけのTLがあるのが当たり前であって、交わる情報もあれば交わらない情報もある。よのなかで起きていることの全てを知るなんて土台ムリなんだから。そのひとなりに自分の感性で編集した自分のTLこそが、自分にとってほんとうのメディアとなり得ます。

ぼくのTL上は昨日から、上関原発の話題が続々と流れています。ところが、全国放送のテレビではこの話題がいっさい出てきません。どこもニュージーランドの地震のことばかり。たしかに地震被害に遭った現地に人々は痛々しいし、邦人関係者はその安否も心配だろうと思います。それ自体はいいのですが、問題なのは、どこの局でも同じことしか報じない。いまTLに溢れている上関原発のことなど、触れようとすらしない。

もういちど確認しておきます。「知る」ということは、よのなかで起きていることのほんの一部分を、自分というフィルターを通して、恣意的に取捨選択しているにすぎません。であるならば、取捨選択する分母は大きいほうがいい。それは民主主義の基本に関わることです。各社が自分のフィルターを放棄して一斉に横並びのことしか報じない、現在の日本のマスメディアは、北朝鮮のことを笑えません。ほんとうに根っこまで腐ってどうしようもない、と思ったらもともと根っこはアメリカから生えていたんですね。産経から朝日まで根っこは同じだった。自浄作用は期待できないでしょう。と、マスメディアをdisるのはこのくらいにして、じゃあいま、上関でなにが起きているのか、少し見てみます。ぼくもほとんど知りませんでしたので。


山口県上関町四代田ノ浦。スナメリやカンムリウミスズメなど貴重な生物が生息する自然豊かなこの地に、原子力発電所の建設が計画されています。これに対して、対岸わずか4kmにある祝島(いわいしま)の住民たちを中心とした反対運動が起きています。29年以上にわたって反対し続けてきた島民らの熱意により、事業主体の中国電力では計画が浮上してから着工許可を国に上程するまで複数回の延期を繰り返しているそうです。[詳しくはWiki参照]

2011年2月21日の午前2時半、中国電力側の作業員300名らが現地に押し寄せ、埋立て工事を強行してきました。浜にいた十数名が抗議、夜明けには多くの人が集まり、膠着状態が続いているのが現状ということ。

この現場をUSTで中継している方がいます。編集されていない映像を見ることで、この騒然とした雰囲気を感じることができます。
http://www.ustream.tv/channel/満月tv

撮影をしているのは、若い人(22日と23日では別の人が撮影しているようです)。おそらくぼくよりも若い世代。撮影技術も、喋りも、拙い。そして、おどろくほど分別がある。おどろくほど、謙虚。反対の意志を表明しながらも、声高に煽ることはしない。推進派、反対派、双方の言うことを「聞こう」としているのがわかる。対話による解決を図ろうとしているのが見て取れる。未来をつくっていく世代は、こんなにもかしこいのだと、ちょっと感動します。彼らをゆとり世代などと言って切り捨てようとする、いま権力を持っている世代が、現状維持に躍起になるすがたは醜悪に思えてきます。

言葉はつたなくとも、自分のことばでしゃべること。即時性。主観によるありのままの映像。このUSTこそが、ジャーナリズムなのではないでしょうか。ぼくはこの映像を目撃しました。だから、そこからじぶんのあたまで考えていくことにします。なにが正しくてなにが間違っているのか、それはたぶんわからない。ただ、自分がなにを感じたかはわかる。そうして、おそらくはその肌感覚こそが、真実なのだとぼくは思います。自分の、主観に満ちた肌感覚を表明すること。そこからしか、対話ははじまらないからです。この、若者によるUST中継はそのことを教えてくれているように思います。


壁となってさえぎる作業員らに、撮影者は話しかけます。答えは返ってきません。
たったひとりだけ、「どこにどういった作業をしに行くのか、わからないままに集められた」と語った作業員がいたそうです。祝島のおばあさんが倒れて怪我をしながら悲痛な声をあげる中で、黙々と時間がすぎてゆきます。ひとりひとりはきっと家族があり、きっと善良な人なのに、大きな組織の歯車となり、主語を失ってしまったときに、人はこうなってしまうのだ、ということを、この素の映像、無言で立ち並ぶ作業員たちのすがたは示しているように、ぼくは感じました。

上関原発を反対する皆さん…初めて会った同士でも、ハグしあい固い握手を互いにしています。自然とハグしあいます。その光景を見た私や警備会社の皆さんには、同じ空気が流れていました。その若い青年二人の光景は、それ程に強い絆を私達に届けました。言葉っていらないんだな…。ハグしあい実感

いながきひろみさんのTwitterより



自分の、主観に満ちた肌感覚を表明するために、ぼくはもう少し上関について、それから原子力発電について知りたいと思います。

上関原発の「いま」を伝えるUST「満月tv」

上関原発の「いま」を伝えるUST「満月tv」 2011.02.23 Wednesday [妄想] comments(0)
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ひとって、意外にそんなに悪くない。たぶん。

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鳩山政権時にソーシャルメディアの利用を手伝ってきたという、さとなおさんの記事。インターネットがまだマイノリティな存在だった頃の、なんだかよくわからないけど怪しげだというイメージの時代は過ぎ、ソーシャルメディアの普及でネットがマジョリティになったいま、不思議な転換が起こった(起こっている)との指摘に同感です。

ソーシャルメディア(特にフェイスブックやツイッターは)はいままでのネット上のコミュニティと違って、リアルな人間関係をそのまま持ち込みやすいし、持ち込む人が多い。そうなると人は「社会的な行動」をとるようになる。つまり「目を背けたくなるような口汚い言葉・罵詈雑言を言いっぱなしにする」ということが減り(友人たちに見られちゃってるからね)、真っ当な発言が多くなるのである。批判するにしても建設的なものが増えてくる。

そして、助け合いも起こる。自浄作用も起こる。貢献意識も起こる。ツイッターもフェイスブックも「人間ってこんなにいい人ばっかりだったっけ?」と不思議に思ってしまうくらいポジで性善説で明るいコメントが多い。掲示板系の荒れた言説を知っている人にとってはこの転換は劇的だ。

(中略)

「鳩山のやり方はヘボだけど批判だけしている自分はもう変える」的なニュアンスも多かったのをよく覚えている。「政治は誰かがやっていて、自分たちは批判だけしてればいい」というスタンスから「それではダメなのではないか」という意識に変わって行っているのを、鳩山さんへの反応を詳細に見ていっていたボクは実感した。まさにコトラーが言っている「ソーシャルメディアでつながることによって人々がコミュニティへの貢献意識に目覚める」というのを目の当たりにした感じ。

こういうことの先にどういう世界がくるのか。それが楽しみで仕方がない。
もちろんまだまだ過渡期なので、いろいろ不具合もイヤなことも起きるだろう。衝撃的な事件が起きて時代が後退することもあるかもしれない。でも、転換は確実に起こっている。

転換は確実に起こっている - www.さとなお.comより


ツイッターは荒れにくい、とよく言われています。たしかに、そういうよくできた仕組みになっている面もあります(フェイスブックはぼくはまだよく使い方がわかっていません)。でもいちばんの原因は、さとなおさんの言うように、顔が見えること。自分の顔も、相手の顔も。リアルな自分というものをそのまま持ち込むことによって、ツイッターは、ほんとうに驚くほど建設的なことばが飛び交う空間になっています。

それはなぜなのかとうと、140字という気軽さもあってか、自分の「体感」が発言のもとになっているからなのだと思います。実体のない虚言や罵詈雑言ではなく、自分の生活実感から出てきた「つぶやき」。佐々木俊尚さんは、さとなおさんの記事を受けてこう言っています。

ネットは「一億総評論家」化と言われたけど、ソーシャルメディアは実は「一億総当事者」化じゃないかと思った。当事者意識をみんなが持てる時代に。

佐々木俊尚Twitterより



ソーシャルメディアが個と個を直接つないでしまうことによって、ひとりひとりの顔をもった「実体」が顕在化してきました。その中では、やたらと立派で荘厳で「正しい」ことだけを言うようなつぶやきは、ツイッター空間の中でつながりを持つことは難しいでしょう。だってリアルじゃないし、共感できないもんね。

顔のない「よのなかの空気」をもとに(その大部分はマスメディアが提供してきた、場合によっては恣意的に編集しミスリードしてきたものでした)、その実体をほんとうには知らないのに、あれこれ詮索することでよのなかをわかったつもりになっていた(これが「一億総評論家」、要はマスメディアの手の平で泳がされていたという)時代は終わるでしょう。

ソーシャルメディアは、今までの評論家が持ち得ていたような地位を破壊します。「論客」なんていう言葉がずいぶんと色褪せてきている。そんなものが、自分たちの生活を代弁してくれるわけではない、偽ものだったことがバレてきている。なぜか。ソーシャルメディアで個と個がつながることで、ぼくたちは世界が多様性に満ちていることを知ったからです。その中では、絶対解などというものは存在せず、対話の中での最適解を探していくしかないのだと。お偉い論客の方から、正解を教えてもらうのではなく、ひとりひとりが、自分なりの生活の中から出てきた「実感」を表明していくことでしか、解は出し得ないのだと、たぶん少なからぬ人たちが気づいてきた。それが佐々木さんの言う「一億総当事者」化なのだと、ぼくは思います。もちろんエジプトを動かしたのも、間違いなくこの当時者意識でしょう(そのデモは驚くほど祝祭的であったといいます。このことについてはまた後日書いてみます)。

そうして、ひとりひとりの顔をもった「実体」が顕在化してきた結果、ソーシャルメディアの中で、人は「社会的な行動」をとるようになり、助け合いも自浄作用も貢献意識も起こってきた。これってすごく興味深くありませんか。これはつまり、ひとって、意外にそんなに悪くない、ということの証左なんじゃないかと思うんです。

世知辛い世の中だとよく言われますが、実際に、現場ではたらく人や、生活をしている人は、親切で善良な人が意外に多い。そのことにぼくは今までは気づきませんでしたが、一昨年に子どもができてから、そういったことを感じるような場面を多々経験しています。子どもと一緒に歩いているだけで、ニコっと笑いかけてくれるおばあちゃん。レジで子どもに財布を奪われてモタモタしていても笑顔で対応してくれる店員さん。近所の大学に卒展を見に行ったときに若い感性で近寄ってきてくれた、一風変わった学生くん。まあ、うちの子がかわいすぎるということもあるでしょうが(てへ)、街に出てみると、意外なほど人はやさしい。(もちろんそうじゃない人もいますが)善意に満ちている。少なくとも、テレビや新聞で報じられているような、殺伐とした物騒なよのなかだとは感じません。

テレビや新聞は、なにか事件があると、その当時者の実体(地味でふつうの営みかもしれない)を伝えようとはせずに、センセーショナルな部分だけを切り貼りしていきます。そうして、それを見ている人に恐怖を疑似体験させることで、鎧を一枚一枚と重ねさせてゆく。なんだか得体の知れないモンスターがよのなかにはいるんだと。そう、不安や警戒心は疑似体験から生じることが多い。相手のことがよくわからないから、怖くなる。ところが、自分から鎧を脱いで相手のことを知ろうとしたならば、拍子抜けするくらいにふつうで、あれこれ心配したことが杞憂であったという体験をしたことのある人は多いのではないでしょうか。それこそ、疑似体験ではなく、実体験です。

無縁社会とかいろいろ言われていますが、子育てに関していうと、(もちろん様々な制度的な問題点があるのは承知の上で)「子どもを社会で育てる」という概念に対する反応がいまいち鈍いのは、ただ単に子どもへの接し方がわからなかったり、慣れていないだけなんじゃないのか、と思ったりもします。その原因を、最近の人間は自分のことしか考えないからダメなんだ、とか、人として卑しくなったとかいう、切り捨て型の批判で語ってしまっては、何の意味もないと思います。ほんとうは、子どもにはやさしくしてあげたい。ただ、いままでやってこなかったし、まわりの人もやっていないから、やり方がわからない。そういったことじゃないかと。だれもが、こころのなかに潜んでいるはずの善意(ボランティアとか大げさなものでなく、ちょっとしたことです)を、躊躇すること無く、てらい無くすなおに表に出すことのできるような社会構造を、いかにして政治がつくっていくか。あるいはそういった空気を、いかにして現場に暮らすぼくたちがつくっていくか。ひとりひとりが、当時者として考える時代になってきている。鳩山さんが言っていた「新しい公共」とは、そういう意味であったのだと思います。だから、いまからこそ使われるべき言葉だと。

そう思いを馳せると、さとなおさんの言うように、この先にどういう世界がくるのか、ぼくの子どもたちの世代はいったいどういう世界の中で生きていくのか、楽しみです。きっとそんなに悪くないんじゃないかとぼくは夢想しています。

ひとって、意外にそんなに悪くない。たぶん。

ひとって、意外にそんなに悪くない。たぶん。 2011.02.18 Friday [妄想] comments(2)
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自由報道協会に見る、敬意と批判

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「敬意をもって批判せよ」

日本において真のジャーナリズム定着を(たぶん)目指している上杉隆氏が、よく口にする言葉です。いいことばですね。

2月10日、自由報道協会(仮)が主催した小沢一郎氏記者会見を、そらのさんのUSTで視聴しました。(会見の内容はこちらにまとめられています。)時間が限られており、突っ込んだ質問まではいきませんでしたが、ぼくはこの会見をとてもおもしろいと思いました。「政治とカネの説明責任」だけを延々と繰り返す、記者クラブの会見などよりも、よっぽどおもしろかった。為になったとかいうんじゃない、「おもしろかった」んです。これ大事でしょう。

なぜおもしろいと思ったか。限られた時間の中ではありましたが、多様な記者が集まり、多様な質問があげられたからです。水谷建設との関係を聞いた江川紹子さん、離党勧告された場合の新党結成の可能性について聞いたそらのさん、視聴者からの質問ということで選挙制度のもつ意味について聞いたニコニコ動画の七尾さん、エジプトやアフガンについての見解を聞いた常岡さん等々、記者の質問がバラエティに富んでいました。なるほど、こういう視点もあるんだなあと気づかされた。そして、質問する側とされる側の「顔」が見えました。視聴者はその中から自分にフィットするものを選んでいけばいい。多様な視点があって、多様な視点が混在していてこその民主主義です。今後の自由報道協会(仮)の活動に期待したいと思います。

ところでぼくはそこまで見ていなかったのですが、この会見は最後に小沢一郎に対する拍手で終わったのだそうです。そのことについて上杉氏はこう言っています。

「敬意をもって批判せよ」 RT @kumogasuki: 昨夜の自由記者会見、取材相手に拍手で終わるのはどうかというツイートを見、同感ではありました。しかし有力者が応じない自由記者クラブ協会では成り立たないから、応じた小沢氏に拍手したくなるも心情。今後のスタイル構築に期待します

上杉隆Twitterより


「敬意をもって批判せよ」
この意味がよくわかります。似たようなエピソードが、フリーライター畠山理仁さんの著書『記者会見ゲリラ戦記』の中に記されていました。2010年3月26日、鳩山前首相が憲政史上はじめて首相官邸で首相会見をオープンにした記者会見でのひとこまです。

初めて“セミオープン化”された首相会見の席上、さっそく記者クラブに所属しない記者からビックリするような質問が飛び出した。質問したのは日本インターネット新聞の田中龍作記者。その質問は次のようなものだ。
「政治が混迷する大きな原因の一つに官邸の調整能力のなさがあります。個人の能力を超えたことを平野官房長官に要求するのも酷であります。国民にとってはさらに悲劇です。官房高官をチェンジするということも視野にはございませんでしょうか」
  (中略)
記者会見には、平野博文官房長官も同席していた。
面と向かっての痛烈な批判を受け、平野官房長官はどんな反応を示すのか。怒りをあらわにするのか。それとも田中記者がつまみ出されるのか…。そう思って会見場前方に座る平野官房長官の方を見てみると、なんと、平野官房長官は体を大きく前後に揺すって大爆笑していた。
質問が終わった後、平野官房長官は田中記者の方を向き、二度、三度と頭を下げた。田中記者も黙礼をした。
遠慮せずに言いたいことは言う。聞きたいことは聞く。本来の記者会見の姿を見た気がする。

畠山理仁『記者会見ゲリラ戦記』P60〜61より


これを読んで、ぼくも思わずにやりとしてしまいました。こういうのが、余裕のある大人の対応なんじゃないでしょうか(ちなみにこの質問に対する鳩山氏の回答を知りたい方は、この本を買って読んでね)。大人どうしのやりとりは、ドライでクールなものなんじゃないかと、さいきん思います。だってそれは、多種多様な人たちと交わる場なのであり、その中で自立した各個人が、それはそれ、これはこれ、とものごとを考えていくことなのだから。ウェットな浪花節で、顔の見えない「すべての国民」に同一の感情を押し付ける記者クラブ(これも顔の見えない存在)の報道の仕方は、きわめて幼稚な、ぎすぎすしたもののように感じます。

ちょっと話が逸れますが、ゆとり教育が変な方向にいっちゃったのは、親のほうにゆとりがなかったからなんじゃないかとさいきん気づきました。「教育のあり方、果たすべき役割について」をテーマにした、平松邦夫大阪市長と内田樹さんの対談の中で、内田さんは学校に食ってかかってくる「クレーマー親」について、大学の教師・教務部長であった自身の体験からこう言っています。

端的に言うと、そういうこと言って来る人たちっていうのは心理的に非常に未成熟な方なんですよね。
自己利益の追求にはきわめて熱心なんだけれど、公共性についての配慮がない。さまざまなロジックを駆使するんだけれども、長い目で考えて、教育現場を改善して、質のよい教育環境を形成していこうという発想が欠如している。


この「未成熟」は教育の現場だけではなく、現在、日本中に瀰漫していると感じます。とくに日本のマスメディアがリードする論調は、集団ヒステリーとでも言いたくなるような類いのものばかりです。みのもんたは何をそんなに怒っているのでしょうか。ほんとうにあなたの生活実感から怒っているの?と訝しみたくなる立派なご意見ばかり。広く国民の声を代弁しているんだと言わんばかりの傲慢な態度には、ほんとうに国民の声を聞こうとする公共性は微塵もなく、おれたちが言ってやってるという思い上がりと、電波利権で守られたいまの体系を維持したいという自己利益の追求だけです。

哀しいことに、そういった「クレーマー」的なマスメディアの論調に、視聴者は同調してしまいます。感情を逆なでして、同調するように編集して作っているんだからしょうがない。そうして、世の中には「クレーマー」が溢れるようになりました。

ひとつひとつの案件について批判をすることと、それを発言した人の人格を非難することは、まったくの別ものです。ところが、日本のマスメディアはこれを敢えて混同しています。とにかく「コイツが悪い」という犯人探しをすることでしかものごとを語れない。森達也さんがずっと言っていますが、オウム事件以降にこの空気が日本中に瀰漫するようになったといいます。凶悪事件の犯罪件数は減少しているのに、体感治安は悪化している。

小沢一郎氏は、他人の人格を非難したことはありません。ところが多くの人は、よってたかって小沢一郎氏の人格「だけ」を非難する。彼の意見や政策に関してきちんと批判するような意見を、ぼくはマスメディアで聞いたことがありません。しかも、現在躍起になって非難している「政治とカネ」は実体の無い冤罪であることが明らかになっています。もはや、意図的に「クレーマー」を製造しているとしか思えない。

「クレーマー」的な価値観から生まれるのは、相互不信です。他人が信用できないから、セキュリティ強化に走る。メディアはどんどん危機を煽る。ああ怖い。自分を守るためにもっと高いバリケードを。…エンドレスです。(結果として、警察からの天下り団体である警備会社が儲かるという便利なしくみですね。)

「不信」は、相手のことがよくわからないからこそ生まれると思います。少し不安なことがあると、どんどん悪いほうに妄想が膨らんでいって、自身で不安を高めてしまう。どんどん怖くなる。ところが、一歩現実に触れてみると、ぜんぜん思ったほど悪くなかったりする。そんな経験はぼくもよくあります。

相互に、相手の顔が見える。という点で自由報道協会(仮)の会見は、ごくごくふつうの大人たちによる、意見のやりとりの場であるように思いました。顔が見え、名前が見えてこそ、発言に責任をもつ自立した個人といえます。自立した個人があつまって、自立した地方をつくる。自立した地方が集まって、自立した国をつくる。これは小沢一郎氏が一貫して主張している、民主主義の根幹です。ぼくは小沢一郎という人物の人格ではなく、その意見に賛同します。そして、このようにきちんとインタビューの本質に受け答えをする姿に、人として、敬意を払います。

自由報道協会に見る、敬意と批判

自由報道協会に見る、敬意と批判 2011.02.17 Thursday [妄想] comments(0)
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身体性と思想性について

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身体性のない思想

このところ、ツイッターのぼくのタイムライン上でよく目にすることばのひとつに「身体性」というものがあります。その中で語られる「身体性」の意味は、からだそのものだけでなく、からだを通して生まれる感情や感覚、直感までを含めた、広く示唆に富んでいるものです。ぼくは、まだこの感覚をうまく言葉で表現できませんが、「身体性」を担保しない言説は嘘っぱちだと、ぼくの身体がそう言っています。文字通り、腑に落ちるかどうか、それは身体が決めるのだと。

思想とは、もともと身体性をともなうぼくたちの生活の中から生まれ出たものだったはずです。ところが日本に出回っている提言や批評といった言説の多くは、小難しいものが重宝され、対立構造は溝を埋めることもせず、排他的な空間を形成しているように感じます。小難しいことそのこと自体が、対立構造そのもの自体が自己目的化してしまっているような印象を受けます。もっと言うと、庶民にはわけがわからない。

無党派層が選挙結果を左右する時代です。若者が、政治に関心を持たないのは、彼らがバカだから、でしょうか。そうじゃないと思う。ぼくも数年前まではそうでしたが、若者が政治に抱くもっとも大きなは想いは、おそらく諦観です。つまり、どうせなにも変わらないんだから考えるだけ無駄だということ。政治がなにかを変えてくれるなんて、おそらく若い人はちっとも信じていない。自分たちの身体性を担保してくれるものだなんて、発想そのものが無い。彼ら(もちろんぼくもそうです)が身体性を預けたいと思うような、刹那的で魅力的な娯楽や産業がまわりにはたくさんあるんだから。バブルの時代、政治のことを考えるのなんて、かっこ悪いし、時間の無駄だったんです。だって、ぜんぜんリアルじゃないんだもの。

いまだに石原都知事のような、50年前の思想軸で政治のことを語るオヤジがいます。またそういう言説に影響を受けて、憂国の士とでも言うような「ネトウヨ」もいます。あるいは日本共産党のようにずっと変わらずに体制批判をしている人たちもいる。右にしろ左にしろ、共通しているのは、いまだに古い価値軸を引きずっていることです。それはもはや、自らの幻想の中でしか成立し得ないものとなってしまっています。もう、価値軸自体が現実として通用しなくなってしまっている。(だからいいかげん座標軸を書き直す必要があります。『マガジン9』に連載中の、辻元清美さんと中島岳志さんの対談「ニッポンの「明日の政治」を語ろう」がわかりやすかったです。)


政治とは、身体的なのか。思想的なのか。
おそらくはその両方なのだと思います。戦後55年体制の中で、右肩上がりの経済成長の中で、アメリカの言うとおりに付いて行きさえすれば、食い物の心配をする必要もないという時代を日本は長らく過ごしてきました。つまりは身体性の心配をする必要がなかった。そうして、思想的側面だけが、一種のカルチャーとして一人歩きを始めた。そうして政治は、政治オタクが居酒屋で論じるような類いのものになった。それはある意味、道楽のようなもの。

だからぼくは、右翼だの左翼だのいう政治言語には共感できなかったのだと思います。一生懸命に頭で理解しようとしても、どこか違和感がともなって。当時はその違和感をうまく説明できなかったのですが。その言論空間には、サブカルの中で若い時期を生きて来たぼくにとっての生活実感と言うか身体性がともなっていなかったからなのだと、いまは思います。


イデオロギーによる擬似的な身体性

そう思っていたところに、内田樹さんのブログに「身体性」についての記事が掲載されました。これまた、腑に落ちまくりの文章で、その中でこれまた目から鱗の指摘がなされていました。

生身の弱さについて - 内田樹の研究室より
いくら大義名分を掲げて偉そうなことを言っても、それを語っている当の本人の身体実感が言葉を裏打ちしていないと、「ここがロドスだ、ここで跳べ」という地場からの挑発には対抗できない。
身体実感のある言葉を語っているかどうか、それは久しく知的言説に対する日本の庶人の身にしみた「批評的」規矩であった。
 …

けれども、この庶人的批評性には重大な弱点がある。
それは「イデオロギーが身体化してしまった人間の言葉」にはなかなか有効な反撃ができないということである。
 …

都市の左翼的知識人やリベラル派は、「戦略」は批判できたが、「飢饉の年に娘を苦界に沈める貧農の苦しみが、お前らにわかるか」というタイプの恫喝の前には口を噤んだ。
日本では、このコロキアルな身体実感をもつ言葉と政治的幻想が癒合したタイプの言説が「最強」である。
明治維新も、中国アメリカとの戦争も、戦後の安保闘争も、全共闘運動も、フェミニズムも、それが「白熱した」のは、イデオロギーが身体を手に入れたときである。
私のこの苦しみの身体実感を、お前は想像できるか、追体験できるか、理解できるか、できはしまい…という「被抑圧者の肉声」の前に「市民」たちは黙り込む。
 …

これが「最強」であったのは、彼らのいわゆる「身体実感」がフェイクだったからである。
彼らが実感していると称する「オレの生身」それ自体がイデオロギーな構築物だったからである。

ほんとうの生身はアモルファスで、密度に濃淡があり、多孔的で、へなへなしていて、そこいらじゅうに「取りつく島」がある。
私たちが身体実感を批評性の基盤に選んだのは、そこが不俱戴天の対立者をも対話に導きうるぎりぎり最終的な基盤たりうると信じたからである。
言語が違っても、宗教が違っても、生活習慣が違っても、政治イデオロギーが違っても、生身をベースにする限り、私たちは共通のプラットホームに立つことができる。
というのは、生身は疲れ、飢え、傷つき、壊れるからである。
可傷性、有限性、脆弱性が「生身の手柄」である。
どれほど政治的に正しいプランであっても、一日八時間眠り、三度の飯を食い、風呂に入り、酒を飲み、生計を立て、家族を養い「ながら」できること以上のことは生身の人間にはできない。
一時的にはできても、長くは続けられない。
その生身の脆弱性がイデオロギーの暴走を抑止している
そう信じたからこそ、身体を社会関係の基盤にすえることを私たちは求めてきたのである。
しかし、今私たちが直面しているのは、もう少し複雑な状況である。
私たちの前に立っているのは、自分の身体実感を観念的に操作することのできる人々である。
長い自己欺瞞の訓練によって、イデオロギー主導で、ヒステリックになったり、激昂したり、涙ぐんだりできる人間たちが生まれた
彼らはそうやって「フェイクの生身」を操作して、イデオロギーに身体実感という担保を付けることに成功した。
戦前の軍国主義イデオロギーの圧倒的な成功は、この「観念的に操作された、作りものの痛み」を縦横に駆使しえたことにある。


なんと、身体性すらもフェイクであるという指摘。イデオロギーが身体を手に入れたときに最強になると。これは考えもしませんでした。頭がぐらんぐらんしそうです。
でも、そう考えるとたしかにそうかもしれない。軍国主義も全共闘もフェミニズムも反中感情も、思想性だけではあれだけ大きなムーブメントを形成できなかったのかもしれません。そこには、戦わなければならないと思わせるだけの、切実さがなければならない。その切実さは「痛み」を感じなければ生まれない。だから、痛みを疑似体験することによって、擬似的な傷みを共有することによって、共通の目的意識をもったようなつもりになる。あたかも共同体を形成しているような気になる。

これって、なにかに似ていませんか、すごく。
そう、ポピュリズム。現代においてポピュリズムを形成する最大の要素はマスコミ、とくにテレビでしょう。テレビで報道されるニュースは、「痛み」を感じさせようとするような「衝撃的」なものばかりが大きく取り上げられます。他県で残虐な殺意事件が起きた。だから、なんなんだと思います。それを知ることによって、ぼくの生活実感に、なにかプラスになるのか、とそういう報道を見る度にずっと思ってきました。ただ単に恐怖を煽り、危機意識を煽り、相互不信の感情だけを増幅させるような、報道のあり方が、気持ち悪いと。凶悪犯罪件数は戦後からずっと減少しているにもかかわらず、体感治安は悪化しているという現象。この「体感」治安とは、テレビの画面上から与えられる、擬似的な体感のことだったんです。編集されてショーケースに陳列された、疑似的な傷みを、映画のように観賞して、おそらくは自分の中のなんらかの感情と重ね合わせて、激昂したり、涙ぐんだりする。それは自分の生活じゃない。

ふたたび内田樹さんのブログより。

生身の弱さについて - 内田樹の研究室より
生身の政治学について私たちが忘れかけたころに、再び「それ」は別の意匠をまとって戻ってきた。
私たちの前にいる政治的ポピュリズムである。
ポピュリズムとは、「生身を偽装したイデオロギー」である。
コロキアルで、砕けた口調で、論理的整合性のない言説を、感情的に口走ると、私たちはそれを「身体の深層からほとばしり出た、ある種の人類学的叡智に担保された実感」と取り違えることがある。
 …

おい、かっこつけんじゃねえよ。
お前だって金が欲しいんだろ?
いい服着て、美味い飯を喰いたいんだろ?
それでいいじゃねえか。
隠すなよ。
他人のことなんか構う暇ねえよ。
自分さえよければそれでいいんだよ。
そういう「リアルな実感」の上に「やられたらやり返せ」というショーヴィスムや市場原理主義や弱肉強食の能力主義の言説が載っている。

私たちの言葉と彼らの言葉をわかつのは、そのような下品な言葉に生身の人間は長くは耐えられないという 、私たちの側の「弱さ」だけである。
弱さは武器にはならない。
けれども、最終的に人間性を基礎づけるのは、その脆弱性なのだと私は思う。


だから、そういった擬似的な感情を根拠に、身も知らずの他人を非難するような風潮が、ぼくはどうしても理解できなかった。なぜあれほど確信的に自信満々で批判できるのか。WEB上で散見する攻撃的で不毛な論争、なにか不祥事がある度に国民全員でバッシングする体質。いままで自分はほとんど関わりのなかったようなことでも、なにか不祥事がニュースになると、ああもうここは信用できない、なんて。いままで関心もなかったのに。

傷みなんてものは、当事者にしかわかり得ないはずです。
現場から遠く離れたぼくたちが出来るのは、その傷みを想像することだけ。そうやって想像した傷みは、行動を抑制することはあっても、行動の原動力にはならないんじゃないでしょうか。自らが傷みを持ったかのように錯覚し、そのように振る舞うから、話がややこしくなる。

たとえば、沖縄の基地問題。
抑止力としての米軍は必要なんだよという論理。でも、自分の住む県内に基地がくることは決して望まない。沖縄にばかり負担を押し付けているのはおかしいという論理。でも、自分の住む県内に基地がくることは決して望まない。この堂々巡りを延々と50年もやってきた。なのに、「アメリカは西太平洋でいったい何をしようとしているのか?」という問いだけは、ずっとなされてこなかった(参考:なぜ日本に米軍基地があるのか? - 内田樹の研究室)。日米という2カ国間の問題なのに、相手のことを考えることをまるでしなかった。そうして、お膳立てされた対立論理のもとでの堂々巡りを繰り返してきた。
これって、お膳立てされた論理というものが、ぜんぜんリアルじゃないところから始まっているから、考えが至らないのではないかと思うんです。ぼくは沖縄に住んでもいないし、行ったことすらありません。戦後日本の業を背負ってきた沖縄の人たちの傷みをほんとうにわかることなどはできない。また、日本に抑止力が必要だということも肌感覚としてはよく理解できない。そういうことは、遠く離れたところで暮らす者にとっては、身体性がともなわないところから始まっているからです。

辺野古への移転問題を考えるときに、ぼくが出発点として考えるのは、そのきれいな海を子どもに見せてあげたいということ。ジュゴンの住む環境という視点もありますが、それは副次的で、ただ単に、子どもに見せてあげたいから、きれいな海を遺してあげたい。ただそれだけの理由で、辺野古案には反対します。こういうことを言うと、たぶんバカ扱いされるでしょう。何も知らない奴が何を言ってるんだ、バカじゃないのか、と。でも、自分の肌感覚を出発点にしない言説が、意味をもつんでしょうか。みんながみんな、沖縄人になる必要はないし、軍事評論家になる必要はありません。(というか、軍事的に米軍が日本を守ってくれるという肌感覚そのものがぼくは信じられませんが。)そうして、自分の肌感覚を出発点にしたときに、はじめて多様な疑問や知的好奇心が出てくるんじゃないでしょうか。だから、知りたいと思うんじゃないでしょうか。


生活実感から生まれることば

ぼくは昨年からブログにつらつらと文章を書くようになりました。
結果的に政治的な話題も多くなりました。それは、自分の考えを主張したいとか、知識を増やして理論武装したいとか、論争したいというわけではありません。単に、自分の考えをまとめておこうと思ったからです。ある程度公開された空間で、書くという練習をすることで、自分の考えがまとまったり、あるいは全く新しい考え方に気づかされたりすることがあります。

もともとぼくは、サブカル的なものが好きで、アートや音楽といったものからいつもインスピレーションを受けてきました。つまり直感だけで生きてきたような人間で、論理的な思考というものが苦手なんです。それが、こうしてまがりなりにも書くことで考える訓練をしていこうと思ったのにはもちろん理由があります。

ひとつは、昨年の政権交代という事実。そして、マスメディア以外の、たとえば図書館で借りた本や、ツイッター等を通して知ったこと。それはつまり、知るということの意味を根底から覆すような衝撃でした。そうして、政治というものが、ぼくたちの生活をダイレクトに決定するものなのだということに気づいたのです。

もうひとつ、こちらのほうが大事な理由。それは、父親になったことです。
生まれてはじめて子どもをもち、生まれてはじめて我が子に触れ、生まれてはじめての子育てを経験する過程で、ぼくの中に、いままで自分でも知らなかった感情、想いというものが発動したんです。男性も、子育てをすることで、変わります。これはぼくの生活実感からの意見です。なによりも優先するのは子どものことです。我が子です。親バカです。これが、ぼくの生活の基盤になりました。

レディオヘッドのトム・ヨークがこんなことを言っています。

Thom Yorke botより
僕が一番大きな刺激を受けることの一つは、息子のノアが部屋に入ってきて、シンセをいじり始める時なんだ。そしてくだらないドラム・サウンドを鳴らして、一緒に笑ってる時。それが凄く楽しくてたまらないんだよね。最高だと思うよ。

いまぼくは、このきもちがよくわかります。

それから、前に目にしたどなたかのツイート。
「子育てもせずに書斎で日本を語ってんじゃねーよ。」
激しく共感します。

ここで言う子育てとは、他人の子じゃない。世界中の貧しい子どもたちでもない。大切にすべきはあくまでも自分の子どもです。そこから生活実感が生まれ、身体性をもった言語が獲得できるんです。
ぼくはそう思います。

そうして生まれた生活実感という身体性こそが、思考の出発点になるのだと思います。
ぼくが政治のことを考えるようになったのも、まさにそれが出発点だからです。そうして、いつもそこに立ち返りたいと思っています。だから、沖縄のことを考えるときだって、子どものことを考える。それが、ぼくにとっての生活の基盤だから。

民主党(というか小沢一郎)が掲げた「国民の生活が第一」とは、つまりそういう文脈で語られるものなのだと思います。ぼくたち自身が身体性を取り戻さないかぎりは、いつまでも机上の話で終わってしまう。(ここでは詳しく論じませんが、身体性は千差万別であり、多様な世界を形成します。だから多様な思考が生まれるはずで、正しいか正しくないか的な思考は意味をなしません。)


最後に、内田樹さんのブログに対する平川克美さんのアンサーソングを抜粋します。

ordinary people - カフェ・ヒラカワ店主軽薄より
身体性とは、どれほどの悲惨や、痛苦を経験してきたかという経験の差異のことではなく、それらの経験を現在の自分がどれだけ内面化できているかということの異名である。勘違いしてはいけないのだ。生活実感とか、、現物、現実とかいうことが価値をもつのは、それが特別で異常なものだからではなく、誰にでも起こりうる、当たり前で、ありふれた日常的な経験であるからであり、このあたりまえで日常的な経験を大切なことであり、なにごとかであると思えるということである。

そういうことを、わたしは還暦を過ぎて、はじめて経験する介護生活の中で学んでいるのである。


人が、身体をともなって、この世で生活しているという、その理由さえもここにあるような気がします。
ぼくは、目の前の子どもの笑い声に、その表情に、体温に、幸せを実感しています。
それは、あたりまえで、ありふれた日常。何ものにも替えられない日常。


身体性と思想性について

身体性と思想性について 2011.01.07 Friday [妄想] comments(0)
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威圧的なオタク論議

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とりあえず昨日のツイートを転載。あとでもう少しまとめます。


ツイッターをはじめとするネットの中には、よく威圧的な言説を目にします。TVタックルなんかもそうですが、人の話を聞かない、威圧的で声のでかい人が必ず出てきますね。これって、コミュニケーション感度の問題だと思うんです。

自説を曲げないということと、人の話に耳を傾けるということは、相反する要素ではなく、矛盾なく成り立ちます。威圧的な態度をとる人に共通していえるのは、感情的になっていること。精神論を持ち出して「正しい」白黒をつけたがること。

人格攻撃をするのはナンセンスです。あるひとつのイシューについて議論をするのに、対話の相手が善人なのか悪人なのかは関係がない。だいたいそれは自分にとっての善悪の基準でしかない。

さっきの続き。えーと、何だっけ…そうそう、ネット上でよく見かける威圧的な言説にぼくはどうしてもなじめないのです。論点が正しいか正しくないかよりも、読んでいて気持ち悪くなる。で、それはどうしてかなあと思ったのでした。

さっき @shuko1080 さんからツイート頂いたのですが、日本人は欧米人に比べて議論というものが苦手だと思います(ぼくもそうです)。慣れていないんですね。議論で大事なのは、議論する対象と対話する相手の人格は切り離して考えることだと思います。それはそれ、これはこれ。

威圧的な態度をとる人に共通していえるのは、自説と異なる意見を提示されて感情的になっていること。精神論を持ち出して「正しい」白黒をつけたがること。いずれにしても「相手」の非を攻めようとします。そうやってもともとの議論のイシューから離れていく。

これって、マスコミの常套手段そのもののような気がします。彼らはいつもわかりやすい「善人」や「悪人」を仕立て上げて対決させる。水戸黄門ばりに次々と新しいスケープゴートを登場させます。だからただスケープゴートが入れ替わるだけで、問題は何も解決に向かわない。

それから威圧的な彼らは「わかっている」人なんですね。なんだ、こんなこともわからないのか。そんなことも知らないくせに語る資格はない。と、他人を見下したような態度が透けて見える。その根拠となっているのは、自分が正しいという自信なんでしょうか。

ぼくは、知性とは「わからないことをわかっている」人だけが持つことができるものだと思っています。わからないからこそ、他人の意見に耳を傾け、わからないからこそ学ぶことができる。(このあたり、内田樹さんの受け売りですが。)

「わかっている」人は学ぶ必要がないですもの。だって、わかっている(と自分で思っている)んだから。異なる立場や考え、視点や利権があることを(あえて?)知ろうとしない。


誤解をおそれずに言うと、この「わかっている」=わかっていない他人を貶める、自分の世界に固執するっていうのは、オタクっぽい気質なんじゃないかと。(もちろんそうじゃないオタクもいることは承知の上です)

日本には政治オタク(軍事オタク)がたくさんいるのだと思うのです。右翼だの左翼だのっていうのもすごくオタクっぽい。オタク的言説が政治的議論だと長らく勘違いされてきたんじゃないかと。

政治とは生活です。居酒屋の席上でだけ急に英雄になるようなオタク談義からはリアリティを感じません。女性がそういう話についていけないのは、彼女たちが無知だからではなく、本能的に欺瞞を嗅ぎ取っているからではないでしょうか。だとしたらそれは真実だと思います。

ただし今までそのようなオタク談義が主流を占めていたのも無理はありません。マスコミがオタク番長だからです。マスコミが提示するオタク的な土俵の上でしか、考えることができなかった。今までは。

もういちど言いますが、政治とは生活です。1億2千万人の、1億2千万通りの生活です。いちばん大事にしたい案件も、プライオリティも各人ごとの立場や環境や利権によって異なるはずです。だから、対話が必要なんです。

みんなでひとつの正しい答えを求めるのが対話(コミュニケーション)ではないと思います。異なる意見が有機的に絡み合い、妥協点をさぐるのが対話だと思います。

対話にはマナー=日本語でいうと「所作」が必要です。所作っていい言葉ですね。所作はまず自分の心を鎮めるような気がします。他者と対話するということは同時に自分とも対話するということですから。

威圧的な人っていうのは、所作をもっていないように思います。逆に、所作の美しい(=やわらかい)人というのは、しなやかな知性をもっているように感じます。現政権の外交にもまったく所作がないですね。

@heatos9さんと同じように、ぼくにとっても、政治とは生活とは自分の子どもです。目の前の子どもこそがリアリティです。ここを離れた政治オタク談義には興味がありません。 RT @heatos9 子育てが僕の生活基盤です。そんな子の為にも、平和を尊ぶ国であって欲しい。

政治ってもっとずっとシンプルだと思います。ぼくはいま子育てをしていて心からこう思います。子どもが自分のたからであり国のたからだと。子どもがのびのびと笑顔で暮らせることだけを考えれば、大人も幸せになれると、そう信じています。


@tami_kawauchi さんより

一連のツイート、共感して読みました。本当にその通り、と思います。オタクねえ…。今まではオトコ社会といってきたかも。未来を変えるのは子育てをしている母親たち、とおもってきたけど、子供を育てる男性もですね。そういう男性が増えてほしいな。




オトコって実際には必要のないスペックにこだわるオタクなんです。子育てによってオトコも変わります。ぼくがいまいちばん信頼している内田樹さんや高橋源一郎さんも子育てを経験しているんです。そのしなやかな知性は、頭だけじゃ絶対にわからない。

子どもを育てることではじめて発動する感情やはじめて知る世界ってのが男にもあるんですね。ほんと。

威圧的なオタク論議

威圧的なオタク論議 2010.11.17 Wednesday [妄想] comments(2)
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召命について(メモ)

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ちょっと衝撃だった内田樹さんのツイート。3〜4段落目にすごくドキッとしました。その意味するところは理解できてないのだけれども、とても大事なことだと直感が言っている気がする。ことばがぐるぐる頭の中をまわって、気持ち悪くなってしまった。消化しきれていないので、今回はそのまま転載するだけにしておきます。

内田樹Twitterより

朝一で中高部の礼拝で奨励。「コリントの信者への手紙」から「召命」について一席。vocation とはあなたを呼ぶ声に耳を傾けることであるというお話。それは服喪儀礼に通じるという話から、このあいだ茂木さんが話した『論語』の宰我の話につなげました。

宰我は孔子に「三年の喪は、期にして已に久し」と服喪期間が長すぎると不満を告げます。それに、まあ好きにすればいいよ言ったあと、孔子はこうつぶやきます。「子生まれて三年、然る後に父母の懐を免がる。予や、三年の愛其の父母に有るや」

赤ちゃんのとき父母から受ける愛を僕たちは主題的に意識することも、論理化することもできません。それはすでにそこに空気のようにある。やがて、子どもはその「コクーン」から出て勝手に大人になってしまう。

そして、父母を喪ったときに、はじめて自分に向けて父母が語りかけていた「赤ちゃんだったときには理解できなかった言葉」を遡及的に想像することになります。服喪とは自分自身の育ってきた過程を俯瞰的に把持することです。それは「愛」の意味について、もう一度徹底的に考えることです。

赤ちゃんが最初は理解を絶していた父母からの言葉をゆっくり理解し始めるように、服喪者は死者の声がだんだん遠く、やがて聴こえなってゆくまで耳を澄ませる。最後に何も聴こえなくなる。それが「聴く」ということの起源的な形態ではないのでしょうか。心耳を澄ませて無声の声を聴く。

召命とは「遠来の声を聴く」ことです。みなさんはこれから進学して「天職」を求めてゆくわけですけれど、それは自己実現でも、自己利益の探求でもなく、「あなたを呼ぶ声」に耳を傾けることです。という話を中高生にしました。





関係ないですけど、今月は内田さんの著書がたくさん出ています。読書の秋。

4480015078武道的思考 (筑摩選書)
内田 樹
筑摩書房
2010-10-15

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4778037170街場のマンガ論
内田 樹
小学館クリエイティブ
2010-10

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4903993108おせっかい教育論
鷲田清一 内田樹 釈徹宗 平松邦夫
140B
2010-09-28

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盟友、平川克美さんの本も気になります。

4480864040移行期的混乱―経済成長神話の終わり
平川 克美
筑摩書房
2010-09-09

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召命について(メモ)

召命について(メモ) 2010.10.27 Wednesday [妄想] comments(0)
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らしさの偶有性

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ツイッター上でたまたま出会ったツイートが目にとまりました。
ぼくもイクメンとしてさいきん考えることが多いもので。

935さんのtwitterより

イクメンとか(フェミなんかも)生き方の多様性を支持する動きかと思っていると、「オレの提唱する新しい生き方が○、それ以外は×」みたいな発言をみると鼻白む


うんうん。わかります。イクメン気取りになって、カッコメンになっちゃう人っていますよね。いや、もちろん実際にかっこいいパパもたくさんいらっしゃいます。じゃあ見てる周囲が鼻白むようなカッコメンってどういう人なのかというと、育児そのものよりも「育児をしているオレ」に酔っちゃてる人だと思うんです。イクメン・ハイとでも言うんでしょうか。そのハイがいいほうにまわっていればいいんですが、935さんの指摘するように、周囲へのあてつけや排他的態度を生むようになるとタチが悪いですね。ぼくも気をつけたいと思います。そういえば、“おれってかっこいいイクメン〜”なんて言ってる人もいましたが。

ところで、この○○ハイっていう現象、たみさんが仰るようにイクメンに限ったはなしではないと思います。「オレの提唱するなにがしが○、それ以外は×」という論調は、いたるところで目にします。それは高圧的で、時に恫喝的なものいいになってゆきます(だって、ハイなんだから)。尖閣諸島をめぐる中国への対応、普天間の今後、政治とカネ。国旗、君が代問題。靖国神社。憲法9条。マルクス主義、フェミニズム。ワークライフバランス、エコ、自己責任。よい父親であるために、よい母親であるために、よい従業員であるために、よい生徒であるために、よい裁判員であるために、よい消費者であるために、よい日本国民であるために。

かつて知識人とは、ものごとを「知っている」ことでその力を誇示する者でした。知らないということは敗けを意味しました。「知っている」ことを最優先するから、知らない者を下に見てしまうのは必然的であり、ハイになってしまう運命にあった。ところが、主にインターネットを中心としたメディアリテラシーが普及するにつれて、「知っている」はずの識者たちの言うことがあまり頼りないものである、あるいはそれ以外の考え方もあって当たり前であるという認識が広がってきています。なぜならぼくらは、知らないということを知ってしまったからです。知っているということを誇示するために、声が大きく、相手につけいる隙を与えずに喋る者が勝つという時代はもう過去のものになりつつあります(テレビなんかは未だにこのやり方にばかり頼っているから見放されてきている)。


ちょっと話がとぶかもしれませんが、内田樹さんが、著書「ためらいの倫理学」の中で、性の問題に関して述べていたことを以下に転載します。

内田樹「ためらいの倫理学」186頁<セックス・コンシャスネスの神話>より

セックス・コンシャスの高い人間というのは、自分が「性的存在」としてどういうふうに評価されているかということばかり意識しているせいで、それ以外の人間的資質についての反省や向上心が組織的に欠落している人間のことである。私はそんな人間とはあまりつきあいたくない。

私はこれまで性制度についてまともに論じたことがないけれど、それは性風俗の先端的なあり方に訳知り顔をしてうなずいてみせて、それを受け入れられない人間の知的後進性をあざ笑うような論議の進め方が気に食わなかったからである。

(中略)

自分が何かするときに、まず「男らしくあるために」とか「女らしくあるために」とか「そのような性規範そのものを批判するために」とか、とにかく性という問題設定がまっさきに意識されるような思考の不自由さこそが、「性化されている」人間の、つまり「セックス・コンシャスが過敏な」人間の特徴だと私は考える。

それは毛の薄い人間が、「すべる」とか「ひかる」とか「うすい」とかいう言葉をすべて自分の毛髪の状態に対する嘲笑的な含意に引き寄せていじける「ハゲ・コンシャス」過敏症の不自由さとまったく同型的な思考である。

そんなのどうだっていいじゃないか、というのが私の意見である。



「わたしは○○について知っている」という態度は、(自分の考えに)固執することを生むような気がします。固執することで、内田さんが指摘するように「思考の不自由さ」を生む。固執することで、他の視点に気づかなくなる。受け入れ難くなる。排除したくなる。

「○○らしく」あるという態度表明も、まさに同じ道を辿るように思います。○○らしく、に固執することでみずからを不自由にしてしまう。○○らしさ、から外れた自分を許せない。それはほんとうの自分じゃない、とか。「思考の不自由さ」をじぶんに課してしまう。知らず知らずに。

父親は父親らしく。
母親は母親らしく。
先生は先生らしく。
生徒は生徒らしく。
政治家は政治家らしく。
日本国民は日本国民らしく。

ふだん意識はしませんが、いつのまにか身についている「○○は○○らしく」という概念があります。でも、その「らしさ」っていう規範は、誰かが決めたものとして普遍的に、超時代的に存在しているものなのでしょうか。それとも自分自身が決めるもの?

「これが、オレらしい生き方なんだぜ〜。」
「オレらしさの追求っつーの?」
「オレだけのオリジナリティ。」
「これは、ほんとうのオレじゃない。」

って、そんなことをいちいち表明しなくても、オレはオレでいるだけで「オレ」なんですね。その人らしさ、なんてものは他人から見て他人が勝手に評価していればよいことで、ことさらにオレが宣言するものでもない。というよりも、そうでしかあり得ない。また内田樹さんの言葉を引用します。

内田樹先生 街場の至言Twitterより

他人が私について抱いている(無根拠な)幻想や(驚嘆すべき)洞察を「込み」で「そういう人間です」というふうに私は名乗ることにしている。だって、実践的には「他人がそういう人間だと思っている人間」としてしか社会的に機能しようがないんだから。


小沢一郎という人物のことを考えると、とてもよくわかります。小沢さんがどういう人物であるのか、二次情報でしか知らないぼくらはほんとうのところはわからない。それでも、各人が自分が信頼するソースから得た情報をもとにして、人物像を形成していくわけです。小沢さんが悪人であるのか権力志向であるのか政策本望であるのか保守的なのか革新的なのか厚顔なのかシャイなのか説明不足なのか口べたなのか、これほど評価のわかれる人も珍しい。それでも、小沢さんに対する評価が「信用できない」と思う人が多数派を占めているうちは、いくら小沢さんに政治的手腕があったとしても、それが社会的に機能しない。実際、先の代表選でそれが実証されました。
同様に、オレがいくらオレらしくふるまったとしても、オレは他人から見られるオレでしかあり得ない。

それから、こういうことも言えると思います。
他のだれもがやっていないエッジの効いたこと(その多くはだいたい他の人が既にやってることなんだけど)をやるのがオレらしさなんだと思っている人は、自分が思い描く「オレらしさ」の範囲から出たがりません。オレらしさが、全て自分からのみ生まれ出るオリジナリティであると錯覚している。でも実のところ、「○○らしさ」っていうのは、他人との関係性の中でしか成立しないものなのではないかと思うんです。つまり、子どもとの関わりの間でしか父親・母親とはなり得ない。先生と生徒はその関係性の中でしか成立しない。政治家は有権者がいなければ存在しない。日本国民は日本政府との関わり、あるいは他国民との関わりの中ではじめてアイデンティティを見いだせる。これまた内田樹さんの言葉の引用です。

内田樹先生 街場の至言Twitterより

生きている限り、私たちは無数のものに依存し、同時に無数のものに依存されている。その「絡み合い」の様相を適切に意識できている人のことを私たちは「自立している人」と呼ぶのである。



うーん、なんかここすごく重要な気がするぞ(書きながら考えてます)。絡み合いの中ではじめて、相対的に「○○らしさ」が生じる。無数の絡み合いの中で、生じるもの。偶有性。

「○○らしさ」っていうのは、オレとなにかの関係性の中でしか成立しない。
そして、オレは多様な世界と混ざることで、偶有性が生まれる。すなわちオレは変化していく。オレは混ざることでしか変化し得ない。
もう一度。
「○○らしさ」っていうのは、関係性の中でしか成立しない。
であるならば、「○○らしさ」っていうのは、偶有性の中で変化していくものなのでは。

○○らしくない、と自分を責める必要もないし、ましてやそれを論拠に他人を責めるのは見当違いです。みんな、そのままでいいんだと思う。100人いれば100通りの父親像があって、その100通りの父親像も、子どもとの関わりの中で絶えず変化していく。そう考えたほうが、ぼくはわくわくするなあ。


らしさの偶有性

らしさの偶有性 2010.10.18 Monday [妄想] comments(0)
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