津田マガ(ePub)が提示した有料メルマガの可能性

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先月、ぼくは生まれてはじめて有料メルマガなるものを購読しました(正確には登録後1ヶ月間無料なので今月からの課金ですが)。いや、考えてみると、無料メルマガだって定期的に読んでいるものはなかったので、ポチるまでには2〜3日ほど悩みました。メールボックスを占拠する宣伝メールのせいで、そもそもメルマガというものに対してあまりいい印象を持っていなかったのです。

それが、べつだんファンというほどでもない津田大介氏のメールマガジン「メディアの現場」(以下、津田マガ)を購読するに至ったのは、津田さんが大量にRTしてくる感想ツイートのせいです。しかしこれが大当たりでした。月630円であれだけのボリュームを毎週というのは驚いたし、コンテンツのおもしろさはもちろんのこと、情報をリリースする側と受け取る側のあり方であるとか、情報を流通させるための仕組みであるとかを、現在進行形として考えさせられる。ツイッターと連動している(RTがガンガン流れてきます)ことも大きいと思いますが、この「ライブ感」っていうのは、今までのメディアからは感じたことの無い類いの知的興奮であるような。

先日はじまった内田樹さんのメルマガも購読してみましたが、同じメルマガというシステムなのに津田マガとはぜんぜん質が違うんですね。これって、書籍と雑誌の違いに似てるなあと思いました。内田さんは書籍的、津田さんは雑誌的。もちろんそれぞれのよさがあります。ぼくは内田さんのファンなのですが、いま現在「メルマガ」という仕組みにマッチしているのは、めまぐるしく移り変わる時事ネタに切り込んでいく「雑誌的」なスタンスに分があるのかなと思います。

津田マガにおいて、津田さんはコンテンツではなく、媒体(メディア)である。これは、vol.14に掲載された「島田裕巳氏による津田大介論」で指摘されている視点です。聞き役に徹し、相手の話を引き出す。この「個」の薄さが津田氏の魅力であるようです。津田マガの主役は津田氏自身ではなく、ゲストが語るコンテンツになっている(津田氏自身がゲストになる場合もあります)。ここにおいて、意識的に情報ハブであろうとしている(tsudaるという行為もその最たるものでしょう)津田マガの非凡さが浮き上がってくるわけです。これはおもしろいことを示唆していると思うので機会があればまた後日考えてみたい。


それから個人的にメルマガの概念を変えてくれたのが、ePub形式。
ぼくが「津田大介のメルマガ」ではなく「津田マガ」と呼びたくなるのは、単にめんどくさいから省略してるだけじゃないんです。ePub形式のメルマガをiPhoneの電子書籍アプリで読んでみて、今までぼくが抱いていた「メルマガ」に対するイメージが変わった。というか、もはやこれはメルマガっていうよりも、新しいメディアの形なんじゃないかと思って。

ePub形式のメルマガ(もっと正確にいうと、モバイル端末によるiBooks × ePubの組み合わせ)は「メルマガ」という概念を変えると思います。なんせ、圧倒的に読みやすい。ぼくはメルマガをメーラーで長々と読む気にはならなかった(延々とスクロールしたりして、読みづらい)のでメルマガを読んでいなかったのだけど、これが電子書籍形式だと字間や行間も読みやすいし、目次から該当記事にジャンプできたり、しおりやマーカーも付けれるし、なによりiPhoneでいつでもどこでも好きなところから読める。この操作性の快適さがもたらす購読欲は、思った以上に大きい。

で、こうやってちょこちょこ読めるからこそ、「雑誌的」なメルマガコンテンツが生きてくる(もちろんじっくり読んでもいいんですが)。電子書籍というフォーマットと、「ライブ感」を持ったメルマガの相性の良さを実感しています。

津田さん自身も「僕も早速使ってみて、その読みやすさに衝撃を受けたんです。これは革命だとすら感じました。」と語っています。
津田大介2011年を振り返る 「メルマガ」 - ダ・ヴィンチ電子ナビ

この感覚は、iPhoneがそうであるように、実際に手に取って体感してみないとわからない類いの質感であるかもしれません。ぼくは津田マガを体験してみることによって、ePub形式に対応しているならば他の有料メルマガも購読してみたいという気になりました。くり返しますが、今まで無料のメルマガですらろくに読んだことのなかったぼくがです。ツイッター上ではこのePubメルマガの読みやすさを感嘆する声が多く散見されます(おもに津田さんからのRTですが)。ぼくのように今までメルマガに反応しなかった層にもリーチする可能性があるというわけで、これって新しい情報のリリースの仕方であると思います。いや、べつだん新しいことをしてるわけじゃないんですがね。電子書籍とメルマガという組み合わせがコロンブスの卵だったという感じで。

で、津田マガを先鞭として、スモールメディアとしての可能性がここにあるのではないかと。それは、まだ見ぬ才能による新たな表現の可能性かもしれないし、マスではない共感で繋がる情報伝達の可能性かもしれません。あるいはもっと考えもつかないような何かかもしれない。こんなメルマガ、こんな電子書籍見たことない!というような異才がどんどん出てきてほしい。そうなったら楽しいだろうな。
そうやってスモールメディアが活性化していくことで、必然的にマスメディアのあり方も変わらざるを得なくなるのでは、という淡い期待とともに。


最期に、津田さんが有料メルマガでの売り上げをもとに作ろうとしている政治メディアについて、本人のインタビュー記事より。

津田大介2011年を振り返る 「政治メディア作り」 - ダ・ヴィンチ電子ナビより
津田:TPPなんかまさにそうですけれど、もうちょっと国民が整理された情報をもって、政策に向き合う、それこそ1〜2年をかけて議論して意見を表明していく、そして、それを政治側がプレッシャーとして感じる情報環境が無ければいけません。新聞やテレビの政治報道は「政局」が中心すぎて、残念ながらそうなっていません。もっと理想的なメディアが欲しいし、自分で読みたい情報がないなら自分で作ろうと思ったわけです。

――マスメディアにはもう期待しない?

津田:いや、そんなことはないですよ。別に僕がメディアを作ったから、マスメディアが必要なくなるなんて全く思っていません。構造的にマスメディアが絶対できないことを、僕はやっていこう、ということです。

――具体的には?

津田:マスメディアは国会を中心に取材します。
もちろん役所も取材しますけれども、どうしても話題は政局中心になる。
でも、実際、政策の多くは役所が作っているわけです。ぼくが作るメディアでは、国会ではなく役所を取材するつもりです。もちろん、役所が作った政策に対して意見したり、時には止めさせたりというのが、政治家の役目――つまり政治主導ということだとは思いますけれど、少なくとも今はそれが十分に機能しているとはいえない。


津田大介の「メディアの現場」vol.14 140字で答えるQ&Aより
たとえば政治に関するニュースを読んだりすると、「うーん、ひどいな」と憤ったりするわけじゃないですか。今まではそこで終わりでした。でも僕が作る政治メディアでは、記事を読み終わった後「この現状を変えたい」と思った人が、何かアクションを起こせるような仕組みを作りたいと思っているんですよね。それはソーシャルメディアでもリアルでも何でもいいんだけど。そこの設計を今頭を絞って考えているところです。つまり、僕が自分の作る政治メディアを見てくれる人たちに期待するのは、「記事を読んだ後、何かアクションを起こしてほしい」ということ。社会人、学生、主婦といった立場は全然関係なく、そうしてくれれば一番良いなと思ってます。はい。


楽しみですね。こちらも津田マガ同様に、まだ見ぬ視座を与えてくれるものになるのか。ビジネスモデルも踏まえながら仕組みをつくっていくのは大変なことだと思うし、ぼくには想像もできない世界です。来たる未来を妄想しながら、とりあえずiBooksでも眺めることにします。まだ読み残しがたくさんあるしね。

津田マガ(ePub)が提示した有料メルマガの可能性

津田マガ(ePub)が提示した有料メルマガの可能性 2011.12.15 Thursday [政治・メディア] comments(0)
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順序が逆な件(TPP交渉参加をめぐる前日の報道について)

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TPP交渉参加についての議論が盛り上がっていますが、民主党内の議員はいったいどういう態度を表明しているのか。二十数回に及ぶ議論の結果として、民主党内の意見は「TPPに対しては慎重な態度を」ということでまとまったそうです。

民主党PT、TPP提言を最終決定 - 中日新聞11月10日 01時51分より

民主党は9日夜、環太平洋連携協定(TPP)の交渉参加問題の是非を検討するプロジェクトチーム(PT)の総会で政府に対する提言を最終決定した。交渉参加への慎重意見が強かったことを明記し、政府に対し慎重に判断するよう求めているが、政府が判断すること自体は認める内容に落ち着いた。
 野田佳彦首相は提言を受けて10日に政府・民主三役会議で交渉参加方針を決め、記者会見し表明する意向だ。
 提言では「PTの議論では時期尚早、交渉参加を表明すべきではない、参加すべきだとの両論があったが、前者の立場の発言が多かった」と慎重論が強かったことを指摘。


衆議院議員(鹿児島1区)川内博史氏のツイートより

党PTのTPPに対する結論。1.判断に際しては、情報の開示と国民的議論が必要 2.表明すべきではない、時期尚早という意見が多数であった 3.以上を踏まえて慎重に判断すべき ということになった。明日、野田総理には、この党の提言を、誠実に踏まえて、判断していただきたい。


ここではTPP交渉参加の是非は置いておくことにして、この事実を受けて報道された新聞各紙の記事があまりにもミスリーディングだったので、いったい報道って何なんだろうということを考えてみたいと思います。

TPP交渉参加めぐり民主党PTが提言まとめ 野田首相の参加表明見送りには至らないもよう - FNNニュース11/09 23:58

TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の交渉参加をめぐり、民主党のプロジェクトチームは9日夜、「慎重な立場に立つ発言が多かった」としたうえで、「政府には、慎重に判断することを提言する」との提言をまとめた。
9日夜にまとまった提言は、原案に慎重派の意見を上乗せしたものとなったが、これで慎重派が矛を収めるには至らないもよう。
総会後、慎重派のドン・山田前農水相は「TPPの阻止を何としてもやりたい」と、あらためて述べた。
慎重派も、提言は了承したわけだが、10日も役員会を開くということで、野田首相が10日に行う構えのTPP交渉参加の表明会見ぎりぎりまで、慎重派の意見を訴える見通し。
ただ、総会に同席した前原政調会長は、「この提言を首相に伝える」と述べ、最終判断するのは首相だという考えを示しており、提言を受け、野田首相が交渉参加そのものを見送るには至らないものとみられる。


もよう、もよう、って中立を装って無責任で気持ち悪い文章ですね。読売みたいに、至らないもようじゃなくて至らないでほしいという姿勢を鮮明に出すのならまだわかりますが、こういう出どころのわからない「もよう」を既成事実として書く手法はタチが悪い。これ大事なので覚えておいてください。

朝日のこの記事に至っては文脈が意味不明です。
民主党PT、TPP提言を了承 慎重な判断求める - 朝日新聞11月9日23時4分

環太平洋経済連携協定(TPP)の交渉参加をめぐり、民主党の経済連携プロジェクトチーム(PT)は9日夜の総会で、「党PTの議論では『時期尚早・表明すべきではない』『表明すべき』との賛否両論があったが、前者の立場に立つ発言が多かった。政府には、以上のことを十分に踏まえた上で、慎重に判断することを提言する」との提言を了承した。野田佳彦首相はこれを受け、10日に記者会見を開き、交渉参加を表明する。


「交渉参加を表明する」ってなんで事実になってるの。しかも前後の文脈がめちゃくちゃじゃないですか。もう日本語も理解できないくらいにバカなんでしょうか。

その他の各紙も一斉に横並び。野田首相が交渉参加を表明するということが、まるで表明する前から決まっているかのような口ぶりです。
TPP交渉参加へ 民主の調整決着、首相きょう表明 - 日本経済新聞11/10 0:16
TPP、首相10日参加表明 玉虫色決着、交渉の足かせに - 産經新聞11.10 00:28
交渉入り「慎重判断を」 民主、TPPで提言 - 東京新聞11月9日23時58分
TPP交渉参加表明へ…首相、有言実行アピール - 読売新聞11月10日07時22分

これならまだ話がわかります。
民主党PT、TPP提言を最終決定 - 中日新聞11月10日 01時51分より

前原誠司政調会長は9日夜、提言決定について「参加を判断するのは野田佳彦首相だ。民主党が割れることは絶対にない」と述べ、首相が交渉参加を表明する見通しに変わりがないことを強調した。


前原氏が参加の見通しを述べたというなら話はわかる。各紙が一斉に書いてる「交渉参加を表明」っていうのはこの前原氏のコメントぐらいしか根拠がないのでは(他に根拠があるならそれも併記するのがスジでしょう)。だったら、そう書けば良いのに、その「もよう」をなぜあたかも既成事実のように書くのか。民主党PTの「慎重に」という提言なんかぜんぜん気にしないよねという態度なのはなぜか。マスコミ自体が交渉参加に前のめりになっているということももちろん関係しているでしょう。でもたぶん、それ以上に染み付いている体質として、日本の新聞はこの手の「もよう」を既成事実にすることで政治を動かしてきたという自負があるんですね。

新聞がこういう「見通し」を言うときは必ずその通りになるのです。不思議なことにニッポンの新聞はぜったいに間違えないのです。「もよう」というのは、根回しの結果、事実になることが約束されていることだからです。もしそれが誤報であったならば、誤報に事実のほうを合わせようとする。あべこべですが実際にそうなんです。

ニッポンの新聞はぜったいに間違えないということを考える時に、ぼくは、麻生元首相の解散はマスコミの誤報が事実を作ったという上杉隆氏の指摘を思い出します。麻生氏就任時の2008年の記事を転載します。
麻生首相に解散の気配なし 解散日程を勝手に捏造したマスコミの困惑 - 週刊・上杉隆より

9月18日付の朝日新聞一面トップ記事によれば、「3日解散」で与党合意が為されたとある。
〈来月26日 総選挙へ 3日解散 自公合意〉(朝日新聞/9月18日)
前日には、読売新聞が観測的な記事を書いていたが、この朝日新聞の報道を受けて、他紙、及びテレビメディアも一気に後追いを開始した。この瞬間、マスコミによって作られた「解散風」は突風になったのである。

朝日新聞にこうした記事が載った日、たまたま、まったく間逆の記事が世に出た。
〈麻生「新総理」解散せず〉(週刊文春/9月25日号)
手前味噌だが、これは筆者の記事である。何も特別な記事を書いたわけではない。またそれを誇っているわけではない。少しでも麻生陣営を取材していれば、これらは、当然に行き着く結論なのである。

現在、日本での解散権の行使は、内閣総理大臣をおいて他にできないことになっている。憲法(第三条第七項)によればそうある。
にもかかわらず、首相が誕生する前から、あたかも新しい首相は、就任直後に「解散しなければならない」というような「流れ」ができてしまっていた。

9月24日、麻生首相が誕生した。
だが、解散を打つ気配はない。それもそのはず、麻生首相はただの一度も解散日について言及したことはない。繰り返すが、ただの一度もだ。
困り果てた新聞・テレビの政治部は、「解散」の流れを止めないために、再び「先送り」論を展開する。
〈11月2日投開票 衆院選 首相意向〉(読売新聞/9月25日)
まったくもって麻生首相が気の毒に思えてくる。決めてもいない解散日程を勝手に作られた挙句、今度は勝手に「先送り」されるのであるから。
なんのことはない、マスコミは自分たちで捏造した「解散日」を勝手に動かして、麻生首相の解散への意欲がぶれている、と言っているだけなのだ。



ついこのあいだは、鉢呂元大臣の「付けちゃうぞ」発言で辞任というのがありましたね。その時に書いたブログです。
鉢呂氏辞任までの迅速性(ことばを狩る脊髄反射) - yamachanblog

この時に感じたのは、新聞記者は自分たちの仕事は叩くことであり、それが正義だと思っているということ。
おそらく現場の記者は、自分らが正しいことをやっていると信じて疑わないのでしょう。それが誰にとっての正しさなのかまでは考えない。ただ漠然と正しいことをやっているという高揚感が生むアドレナリンによって動いているんじゃないでしょうか。立ち止まって考えるヒマがないんです、きっと。
視聴者側もそれらの報道に接することで「考える」というプロセスを放棄して即物的な「正しさ」に同調する。自分にとっての優先順位を考慮してものごとを「考える」ことのないままに、なんとなく「正しそうな」意見をまるで自分の意見のように錯覚することができる。だから断定的なもの言いがもてはやされる。

ちなみに鉢呂氏の発言をめぐる報道は虚報だったそうですね。
鉢呂前経産相の「放射能つけちゃうぞ」発言は虚報だった! - 週刊・上杉隆

そういえば先の代表選では、決戦投票の直前に馬淵氏が野田氏を支持という誤報によるミスリードが流れましたね。それもまがりなりにも公共放送であるNHKで。すごいことですよね。でも特にこれといった謝罪や検証も行われずにそのままなし崩しになっています。そもそもなんで投票前にそんなことを報道する必要があるのかさっぱりわからない。いったい誰のための報道をやっているのでしょうか。

選挙速報では、開票前に当確が出ることだってふつうにあるし。そんなわずか数十分とか数時間を先走ることにいったい何の意味があるんでしょうか。それよりもじっくりと結果を分析して、視聴者に「考える」ための材料を提供するのが報道の本来の役目だと思うのですが、ニッポンの報道は「リークこそが使命」と思い込んでるとしか思えません。困ったことにこれは視聴者との相互依存により成り立ちます。

不思議なことにニッポンの新聞はぜったいに間違えないのです。それはニッポン人が新聞は間違えないと思っているからです。思いが現実をつくる。

不思議なことにニッポンの原発はぜったいに安全だそうです。それはニッポン人が原発は安全と思いたいからです。
不思議なことにニッポンの放射能は人体に影響がないそうです。それはニッポン人が人体に影響がないと思いたいからです。

「はじめに結論ありき」ならば議論などは必要ありません。野田首相の交渉参加表明は、はじめに結論ありきという雰囲気が漂っているのでみな不安なのです。はじめに結論ありきだから、「慎重に」という提言なんか気にしない。意味を持たない。でもそれは断じて民主主義国家における政治家の姿勢ではありません。というか、民主主義というしくみがまったく機能していない、崩壊している。

ぼくたちが投票して選んだのは官僚ではなく政治家です。はじめに結論があって、それを事実にするために理由を後付けするのは政治家ではなく官僚の手法です。

たとえば年間20mSVという基準値。この基準値は、住民のいのちと安全を根拠にして算出されたものではなく、多くの住民が移住することで経済的な損失を被ることを恐れる行政側の都合から逆算されて出されたものであることは明らかです。
20ミリシーベルトの根拠 - yamachanblog

この値が発表されて波紋を呼んだ後に、原子力安全委員会は、20mSVは基準として認めていないと発言しています。また、決定過程においては正式な委員会も開催されず、議事録も作成されなかったとのことが明らかになっています。このように、きわめて杜撰な過程で決められた基準値であることは、この「20mSV」という値について、その安全性の根拠について誰も説明できていないことからも容易に想像ができます。



電力が足りないから原発が必要なわけではなく(節電の努力は結局なんだったのか)、原発を動かすために電力が足りないという根拠が必要であったこと。一企業として企業努力をしなくても、それどころか理不尽なことをすればするほどもうけが出るという総括原価方式。東電を守るための法律である原子力損害賠償支援機構法。

順序があべこべなんです。
国民のために法律を整備するのが政治家の役目なのに、ニッポンの政治家はまるで官僚のように「はじめに結論ありき」のレトリックで法律をつくる。自民党時代から続いてきた官僚主導と決別して政治主導のしくみをつくるというのが民主党の政権交代における根幹でしたが、けっきょくは腰砕け。むしろ自民党よりも酷いことになっています。

TPPへの参加で日本への参入が予想される遺伝子組み換え食品についても触れておきましょう。モンサント社による遺伝子組み換えへの安全性の主張っていうのがまさにそのあべこべの論理なんです。
モンサント社は何をしようとしているのか。 - yamachanblogより

マリー氏「遺伝子組み換え作物には、世界どこでも“実質的同等性の原則”が適用されます。例えば大豆なら遺伝子組み換え大豆も自然の大豆と同等だとみなす理論です。これを根拠に、通常以上の検査は必要ないとモンサント社は主張します。しかし私は取材を通し“同等性の原則”には科学的根拠がないという証言を得ました。」

安田節子さんも次のように指摘しています。「実質的同等性(ちなみに日本の厚生省の安全性評価指針も、同じ内容だそうです)の問題点は、作物全体としての安全性が調べられていないという点にあります。長期間食べつづけて大丈夫なのかどうかという動物実験、アレルギーの臨床テストなどは、まったく行なわれていないのだそうです。長期にわたる健康への影響や、赤ちゃんへの影響といった、必要最低限の評価すら不要とされる現在の指針では、消費者の健康と安全は守られません。むろん、第3者機関による安全性のチェックすら、現在はありません。」

すごいですね。
安全を守るために制度をつくるんではなくて、まず権威付けのために先に制度(原則)をつくってしまって、その制度を理由に安全を主張する。


まったく同じ構図で作られる法律や原則といった「事実」の危うさに気づいたときに目の前の世界はゆらぎます。新聞で語られる「事実」はほんとうに事実なのか。目の前にある事実はほんとうに自分の思いから出てきた事実なのか。ゆらぎの中で自分自身が選択してくしかありません。
くり返しますが、あべこべの論理を成り立たせているのは、他でもないぼくたち自身なのです。思いが現実をつくるのです。

反対派の衆議院議員(秋田県3区選出)京野きみこさんのツイートに共感します。

TPPに関する民主党の提言が先程ようやく纏まった。総理の参加表明は、この提言を読む限りあり得ない。会館前で徹夜の座り込みをする若い農業者達に、何故、反対の文言を入れられなかったのか、と詰問され、その心情を思って、泣いてしまった。地域の消防団や行事の担い手達の声が聞こえるか?

日付が変わった。本当の戦いは今日だ。日本の総理は、国民の直接投票によって選ばれた大統領とは違う。従って、議院内閣制の原則に則った行動をして戴かなければならない。党の総意による提言、党の過半数を占める、慎重な対応を求める署名を無視する、などという独裁者の振舞をさせてはならない。



もし仮に、野田首相が本日参加表明を見送るようなことがあれば、それはニッポン人のリテラシーがある飽和値をこえたという証左になるでしょう。あとはそこから雪崩式に変化の波が押し寄せるはず。…まあ、もし仮にの話だけど。


ところでマスコミはTPPによって自分たちも壊滅的な事態になることを予想しているんでしょうか。だって関税撤廃で自由貿易するんなら、マスコミだって記者クラブ撤廃して自由競争しないとね。その覚悟で言ってるんだよね。そう考えるとTPPはマスコミ自浄のための外圧摂理なのかもと思ったり。それはないか。





追記(11/10 17:15)
政府・民主党は、TPP=環太平洋パートナーシップ協定の交渉参加の是非について、10日の決定を見送り、11日、改めて政府・民主三役会議で協議したうえで、野田総理大臣が記者会見を行うことになりました。
政府・民主 TPP決定見送り - NHKニュース

たった1日延びただけとみることもできるし、マスコミが報じた10日に表明という既定路線がくつがえったとみることもできます。「党の提言は重く受け止めたい」という野田首相の言を信じたいですが、あるいは参加表明後に党内「融和」を担保するための湯冷まし期間なのかもしれません。今夜から明日にかけて様々な工作が行われるんでしょうね。まあ何にしても、マスコミの報道がそのまま事実になるというレトリックが通用する時代はもう終わったということの小さな象徴的な事象だと思いたい。

順序が逆な件(TPP交渉参加をめぐる前日の報道について)

順序が逆な件(TPP交渉参加をめぐる前日の報道について) 2011.11.10 Thursday [政治・メディア] comments(0)
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Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ) - ニューヨークの若者が変革しようとしているもの、あるいは守ろうとしているもの、取り戻そうとしているもの

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いまニューヨークで何が起きているのか。
抗議行動 「Occupy Wall Street(オキュパイ・ウォールストリート)」、日本語に訳すと「ウォール街を占拠せよ」。社会的、経済的格差に不満を持った若者たちが自発的に始めた抗議デモ活動だそうです。9月17日にウォール街からはじまったこの運動は、当初の予定である一ヶ月を過ぎても終焉を迎えるどころか全米中、あるいは世界に広まりつつあるそうです。

勢いでウォール街の現場に行っちゃったという松本哉さんのレポートを見てみます。
ついにニューヨークで反乱が発生! occupy wall street 報告! - マガジン9より
何を隠そういまニューヨークに来ている。しかも、この原稿もまさにそのOWSで占拠しているウォール街脇のzuccotti公園に張ったテントの中で書いている。そう、10月17日にニューヨークにやってきて、10日間ほどOWSと行動を共にしている。

タイミングとしては10月上旬に総攻撃みたいなデモが連発していたんだが、それもひと段落して、小康状態みたいな感じ。ってこともあって、広場の場所作りが着々と進行していて、いろんなものができていた。食料を配るキッチンもあるし、図書館もあるし、服を配ってるところもあれば、携帯やパソコンの充電所もある。法的なことを受け持つ部門もあるし、メディア対応の部門もある。驚くことに新聞まで出ていた。
 小康状態気味とはいえ、みんながおとなしくしてるわけでもなく、デモなんかも頻発していた。ちょうどこっちに来て数日経ったころ、警察反対デモが発生! 10月上旬には数百人が捕まるなど、警察の過剰な警備が問題になっていたころで、そのタイミングもあってのデモ。テーマは「職質反対デモ」。さっそく参加してみた。
 で、このやり方が面白い。まず、デモ前日にもデモをやり、警察署までみんなで押し寄せる。で、すごいのが抗議の意思を示して警察署の前で大演説して居座り、数十人がわざと逮捕される。で、ここには結構な著名人も混じってたりして、デモに参加した群集は「いいぞー、がんばれよ〜」「カッコいいぞ!!」みたいな感じで盛り上がりまくり! で、翌日のデモは、これまたものすごい人数が集まり、街中をデモ。こっちの職質の問題は、人種差別問題も絡んできたりするので、さらに深刻なこともあってか、人の集まり方もすごい。

あまりすごいすごいと言ってると、本当に完璧なムーブメントのように思うかもしれないが、まあそんなものはあるわけがない。いろいろとマヌケな奴らも大量にいるし、なんだか大変なことになっている。狭いところにギュウギュウに泊まってるもんだから、どうもストレスがたまってる奴らもいたりして、夜中に殴り合いの大喧嘩が始まったりもした。しかもタバコをくれ、あげないでケンカになったりと、くだらないことが多い。また、テントにいると突然話しかけてくる兄ちゃんがいて、「俺はこんな音楽を作っている」とか言ってニコやかに歌いだしたりして、やたらフレンドリーすぎるのであやしいと思っていたら、帰り際に靴を取って逃げようとしたり、危なくてしょうがない! こら、靴を取るな!!


なんだか楽しそうですね。リンク元の記事には現地の写真も掲載されていますのでご覧ください。公園にあふれかえる人だかりや、公園正面では常に演奏が行われていたりする様子は、日本でおなじみの眉間にしわを寄せたような「クソ真面目な」デモだったり、よく報道される海外の血なまぐさい「物騒な」デモとはイメージがだいぶ異なります。そういえばエジプトのデモもどこか祝祭的な様相を帯びていたというはなしを聞きました。

で、そもそもなんでこのデモがはじまったのか。自主的に集ったというニューヨークの若者たちは、何に対して抗議を示しているのか。『ウォールストリートを占拠しよう』 『我々は99%』 というのが大きなスローガンになっている(参考:Occupy Wall Street 『ウォール街を占拠しよう』 ニューヨークから世界に広がる”99%”の声 - JTB ルックツアー)ことからわかるのは、アメリカの富裕層(1%)が政策的にも優遇されていることを批判し、残りの99%である中級〜貧困層へも仕事を与えよということ。さらには、格差社会を生み出している拝金主義の象徴としてのウォール街を占拠し、経済のしくみそのものを変革しようという構造改革を主張しているということ。

その一方で、「リーダー不在でまとまりがない」「デモの主旨がよくわからない」といった見方もあるようです。たしかに、○○政権を倒せとか年金の額を上げろとかいう具体的なテーマじゃなくて、経済のしくみを変えるなんて、あまりに大きなテーマなので漠然としていてわかりづらいですよね。自明性へ依存している人にとってはまったく頓珍漢にしか聞こえないでしょう。そんなこと出来るわけない、って思っちゃうし。あるいは集った人たちの出どころがバラバラでつかみ所がない点も、理解不能と思われる要素になっているのかもしれません。ただ、彼らはほんとうに単に「ノリ」だけで参加し、デモが広がっているんでしょうか。

ニューヨーク在住のジャーナリスト津山恵子さんは以下のように見ています。
【津山恵子のアメリカ最新事情】立ち上がった「沈黙の世代」の若者 - WSJ日本版より
こんなデモは今までに見たことがない。

なにせ参加者のほとんどは、幼な顔の10代後半から20代前半。団塊の世代や、1960〜70年代の反戦運動を経験した世代など、「戦争反対」「自治体予算削減反対」「人種差別反対」などのデモで毎度おなじみの顔は全くない。いや、彼らは今までデモに参加したことすらないのだ。

このデモが変わっているのは、年齢層ばかりではない。参加者が訴えているのは、上記のように漠然とした「拝金主義のウォール街を占拠して、世界を変えよう」という主張だけで、次にどんな行動をするのか、課題をどう設定していくのかは毎日、「ジェネラル・アセンブリー」という話し合いで議論を同時進行させながら活動しているのだ。

私は18日夜、初めて広場に行って、週明けの翌朝、初めてウォール街でデモを展開する方法について決める合議を5時間見ていた。夜中ちかく、デモに行く「アクション班」と、今後の問題を考える「ディスカッション班」に分かれること、逮捕につながるような行為はせず、ウォール街の通勤者の歩行をさまたげないなどを議長団が提案。挙手による投票で満場一致で提案を承認し、「これがデモクラシーだ!」と胸を張った。


なるほど!
このデモに違和感を覚える人は、明確な主張がつかみづらいからだと言います。そしてそれはその通りなのだと思います。明確な主張をもとにして集まった人々ではないから当然なんですね。問題があるということはわかっているけれども、彼ら自身も、具体的な手だてはわかっていない。だから、話し合う。わかっているのは、問題の根が短期的に解決できるようなものではないということ(だから具体的な主張に乏しい)。しかしそれでも声を上げずにはいられないくらい彼らが切羽詰まっているということ。だからこそ、話し合う。

あの、これって民主主義じゃないですか。

ウォール街の公園に、小さな民主主義の輪が生まれたのだと、ぼくは津山さんの記事を読んで感じました。それは古くさい様式のアナログな小さな集まりかもしれない。けれども、もう何十年もアメリカの市民が忘れてしまっていたものなのかもしれません。自分たちが暮らすまちは自分たちの手でつくるということ。オバマにチェンジを託したけれども、けっきょく変わることのできなかった自国の構造を、それこそを変える必要があるのだと。

ベストセラー『ルポ 貧困大国アメリカ』の著者であり、現在もアメリカと日本を行き来するジャーナリスト堤未果さんのツイートから「Occupy Wall Street」に関するものをピックアップしてみます。
全米で拡大中のウォール街囲みデモ。興味深いのは参加者の人種や職業構成が次々に変化を遂げている事。現地時間の5日には様々な労働組合とNPOが同デモへの支持表明パレードを予定。NY運輸労組の組合員38000人もスタンバイ。役割分担も手際良く、夏に取材した医師の1人は医療班で活躍中(10/4)

米国内でも大手マスコミは始め数百人の参加者をわざと数十人と報道。インディーズメディアの存在は大きい。先週Wallstにいたという生徒「日本では僕らについてどんな報道を?」格差社会や失業率の高さに若者が抗議しているという報道内容を伝えると生徒達から失笑が。「矮小化してる。個々が味わってる苦しさは多種多様だけど抗議対象は結果じゃなくて原因の方」「この国の企業メディアと同じ」(10/13)

市庁舎の目の前で連日泊まりこみのOccupy Portland。写真はダンとレイチェル「TVは私達を思考停止にさせる。今すぐ消して、自分の頭で考えなさい」http://t.co/zZOTsdvk(10/13)

座り込みをしている彼らと話したところ、「打倒!」のような攻撃的なものではなく、極めて平和的でした。ここには書ききれませんがこれまでのデモとは全く違うものを目指している印象をうけました。(10/13)

OccupyPortland「デモの場所選びは重要な戦略。都心ならいいってもんじゃない。必ず当事者を包囲し無視できないように」「条件は挑発しない事。非合法なものをもちこむ奴は即追い出す」http://t.co/6dt8jm0Y(10/13)

彼らは失われた中流、労働者階級出身の若者たちです。本質を肌で感じてる(10/13)

OccupyWallst. デモ広場の清掃を理由にBloomberg市長が立ち退きを通告。怒ったProtestor達は集めた資金で即掃除用具を購入し、一晩かけて現地をくまなく清掃。市長は前言を撤回し、広場には99ers達の歓声。http://t.co/SUhJVTn1(10/16)

OccupyPortland.「二大政党はまやかし。政権交代で変わるのは名前だけで肝心の政策は変わらない」バナーを持つ学生「僕の言ってる意味わかる?」Yeeees! http://t.co/HhrhujDv(10/16)

全米に広がるウォール街デモについて「情報が少なすぎる」と知り合いの記者から問い合わせ。「何故彼らは特定の要求をしないのか?」このポスターをくれた抗議者の一人はわたしに言った。「ウォール街を破壊したい訳じゃない、もう沈黙はしないと示すんだ」http://t.co/IxjwDj7t(10/17)

Wallstでは逮捕者も急増中。JPモルガンはデモ用にNY警察に460万ドル(4億6千万円)寄付。女性教師が顔にスプレーを噴射され、男性会社員が棍棒で頭部を殴打され抗議者達は「World's watching!(世界が見てるぞ!)」と絶叫 http://t.co/ux0hPshF(10/18)


堤さんの著作は、とても丁寧な取材がもとになっており、アメリカに広がる格差がどれだけとんでもないことになっているかが克明に描かれています。最先端の技術を投入した医療を受けることのできるほんの一部の人と、高額な保険料が支払えずに健康保険を持っていない多くの人。保険に入っていたとしても、たとえば労働中に指を折っても保険会社が幾らまでしか出せないというので指も何本までしか治してもらえないということもあるそうです。それから家族を支えるために学校にも行けずにはたらく幼い子たち。学費優遇のために軍に入隊する若者たち(そして劣化ウラン弾などで傷を負った帰還兵たちへの処遇はたらいまわし)。アメリカンドリームという夢を餌にして、多くの若者たちが絶望という現実を見てきた事実がこの国に横たわっています。アメリカの医療と教育は完全に市場化している。つまり金を持っている人が勝ちという世界。それらを読み解いていくと、アメリカがいかにして自国の格差をつくっていったのかがよくわかります。

「弱者」はつくり出される。

ツイッターで目にした大野更紗さんのことばです。1%の富のためには、格差が必要です。それは悪意が生むものというよりも、富を維持していくためには必然なんですね。1%にとっては。その既得権を守るためにあらゆる方便が用いられてきました。アメリカがしかける戦争にはいつも正義という大義名分があるように、アメリカがしかける経済政策にもさまざまな方便が用いられます。 「Occupy Wall Street」の若者は、テレビでは報道されないその方便に気づいた若者たちなのでしょう。
ある参加者は「TVは私達を思考停止にさせる。今すぐ消して、自分の頭で考えなさい」と言っています。テレビはある特定の層への利益誘導にしかならない、都合のよい消費者を作り出すための刷り込みにしかならない、ということを彼らは知っているのでしょう。彼らがソーシャルメディアでつながるのは当然です。

明確な主義主張があるわけではない。このことが物語っているのは、彼らが特定のイデオロギーや組織、あるいは利害関係を共有しているわけではないということです。逆に言うと、それだけバックボーンの異なる人々が同じところに集まるくらいに、アメリカの貧困が不条理に広がっているということではないのでしょうか。彼らはその不条理を身体で感じている。至るところに広がるその体験が、図らずも、本来つながることのない人たちをつなげることになったのでは。

アメリカの経済は凋落しています。かつてアメリカは消費大国でした。自国の産業を空洞化させてまで他国のモノを買っていたからです。あきらかに輸入超過であったのですが、その金はいったいどこから生まれていたのか。アメリカが儲けるのは、戦争と金融です。軍産複合体とウォール街がかの国を動かしていた。いずれも実体のない手品のようなしくみです。
リーマンブラザーズの破綻は、その手品が中身のないインチキであったことを示しました。しかしそれでもなお、アメリカ政府が救おうとしてるのは大企業です。お金を刷って破綻した企業に融資を続けています。まじめにはたらく人が保険にもろくに入れない一方で、破綻しても悠々自適の生活を保証される人もいる。

堤さんは、「彼らは失われた中流、労働者階級出身の若者たちです。本質を肌で感じてる」と言っています。アメリカ社会が抱える本質的な不条理を肌で感じているからこそ、彼らはイデオロギーや組織をこえて集ったのでしょう。

現代における最重要ジャーナリストのひとりであるナオミ・クラインが10月6日に広場でスピーチしたという内容が翻訳されています。とても大事なことがたくさん書いてあります。その中でも印象的だったのは「この場所」に居続けることが重要なのだということばです。
ナオミ・クライン - ウォール街を占拠せよ:今世界で最も重要なこと - aliquis ex vobisより
あなたたちは、ここでの自分たちの存在に、終了期日を設けていません。これは賢明なことです。あなたたちが居続けるその間だけ、あなたたちは根をのばすことができるのです。これは決定的なことです。あまりにも多くの運動が美しい花々のように咲き、すぐに死に絶えていくのが情報化時代の現実です。なぜなら、それらは土地に根をはっていないからです。そして、それらはどうやって自分たち自身を維持し続けるかについて、長期的な計画を持っていないからです。だから嵐が来た時、それらは洗い流される。


自らの身体をもって「土地に根をはる」ということ。とても大事な視点であるように思います。

ぼくがこのナオミ・クラインの言葉を知ったのは、朝日新聞朝刊の論壇時評に掲載されたという高橋源一郎さんの記事からです。源一郎さんは、原発建設に30年近く反対し続けている祝島の80歳近いおじいさんがひとりで水田を耕す姿と「Occupy Wall Street」の若者の姿の中に重なるものがあると述べています。

祝島からNYへ 希望の共同体を求めて ・高橋源一郎 ほか/朝日新聞より
人口500人ほどの小さな島には、ほとんど老人しか残っていない。その多くは一人暮らしの孤老だ。彼らは、なぜ「戦う」のか。彼らが何百年も受け継いできた「善きもの」を、後の世代に残すために、だ。では、その「善きもの」とはなんだろうか。汚染されない海、美しい自然だろうか。そうかもしれない。

だが、その「善きもの」を受け取るべき若者たちが、もう島には戻って来ないことを、彼らは知っているのである。

 (中略)

かけ離れた外見にかかわらず、「祝の島」のおじいさんとニューヨークの街頭の若者に共通するものがある。「一つの場所に根を張ること」だ。そして、そんな空間にだけ、なにかの目的のためではなく、それに参加すること自体が一つの目的でもあるような運動が生まれるのである。

背負いきれなくなった市場や家族や国家から、高齢者や障害者を筆頭とした「弱者」たちは、ひとりで放り出される。彼らが人間として生きていける社会は、個人を基礎としたまったく新しい共同性の領域だろう、と上野はいう。

それは可能なのか。「希望を持ってよい」と上野はいう。震災の中で、人びとは支え合い、分かちあったではないか。

その共同性への萌芽(ほうが)を、ぼくは、「祝の島」とニューヨークの路上に感じた。ひとごとではない。やがて、ぼくたちもみな老いて「弱者」になるのだから。


アメリカはいまやボロボロです。もしアメリカが生き返ることができる道があるのだとすれば、それは「Occupy Wall Street」で生じた「共同性への萌芽」の中から、もういちど建国の歴史をつくり直すしかないんじゃないかと思います。夢と希望に胸を膨らませて新天地を訪れた彼らの祖先が、良いことも悪いことも、あちこち行ったり来たりしながら築いてきた歴史の中にさまざまな教訓があることでしょう(詳しくは知りませんが)。古き良きアメリカの時代、アメリカが輝いて見えたのは、彼の国が自由の国だったからでしょう。誰にでも平等な権利が与えられていたはず。建国の精神に立ち返って、身体をぶつけあって土地を耕すことからやり直すことでしか、アメリカは再生できないと思います。


・・・

ぼくが「Occupy Wall Street」について書こうと思ったのは、ここで起きていることが他人事とは思えないからです。日本もアメリカとよく似た社会構造にハマりこんでいるようにぼくには思えます。正社員と非正規雇用の所得格差、年金に象徴される世代間格差、健康であることと病気になることの格差。堤未果さんがレポートするようなアメリカの現状を見ていると、ぼくたちもいつ99%になってもおかしくない(もうなってる?)と思わされます。だって、ほんとうによく似ているんだもの。

なのに日本(の政府)はいまだに「超大国」としてのアメリカにべったり付いていこうとしています。TPPなんてのは、このまま下り坂を転がることは避けられないであろうアメリカが、なんとか延命しようとしている必死の策のひとつです。自国内の産業を空洞化し、「99%」の庶民の生活を食いつぶしてきた「市場の拡大」を他国を舞台に再現しようとしている。犠牲になるのはまじめにはたらく庶民であり「若者」です。米韓FTAやメキシコの先例がそれは実証しています。
アメリカはTPPを輸出倍増の政策として明確に位置づけています。気をつけないといけないのは、アメリカには日本のように輸出する自動車やテレビといった工業製品はありません。彼らが売りたいのは、大量生産される遺伝子組み換え農産物。それから民間の保険、知的財産権といった目に見えない手品により、他国のルールを書き換えるということです。
いいモノを作れば外国が買ってくれるという朴訥な時代は終わったんです。アメリカの庶民にそんな金はない。

TPPはアメリカにとっても、あくまで延命策にすぎません。自国の庶民の生活を食いつぶしたように他国も食いつぶしていくだけです。根本の解決にはならない。日本ははたして凋落するアメリカとともに滅びの道を行くのか、それとも「Occupy Wall Street」で芽生えたように見える民主主義のはじめの一歩からやり直すのか。

冒頭に紹介した松本哉さんの記事より
日本の世の中でもそうだが、たとえば貧困問題ひとつとっても、なんだかんだと「いや、そんなこと言ったってもっと貧乏な人がいる」とか「日本なんてまだ恵まれたほうなんだからガタガタ言わず我慢しろ」などと言い出す連中もいる。これがまた貧乏そうな説教オヤジに限ってこういうことを言いがちだったりするのもたちが悪い。困ってる人同士の争いになったところで、一番安全圏にいる超少数の連中がいい思いをしていたりする。まったく冗談じゃないよ。


ニューヨークの若者が抗議しているものの正体とは何でしょうか。彼らの活動は「非暴力、平和的」であるそうです。彼らが改革をなしとげることで打破しようとしているもの、あるいは守ろうとしているもの、取り戻そうとしているものは。

彼らには彼らの真実があります。それは報道だけでは分かりようがない。そして、彼らの行動になんらかの意味を見いだしたり、解釈したりすることは、それを試みる人の数だけあります。誰かの解釈を鵜呑みにしても意味がなくて、ぼくたち自身がぼくたち自身の生活に照らし合わせることでしか答え(解釈)は見えてきません。ぼくがここに書いたことも、思いっきりぼくなりのバイアスがかかった偏った見方かもしれません。

堤未果さんのツイートより
昨日中小企業の社長が集まる勉強会で講演しながらふと考えた。地道に、身の丈で、人を育て、助け合い、文化や技術を伝承してゆくこと。そうして日本を支えてきた中小企業を大資本の論理でつぶす事で、私たちが失うものの大きさを。政治が守るべき国益は、目に見えるものだけとは限らない。


いま世界で何が起きているのか、ぼくたちの国にこれから何が起きようとしているのか。それらを起こそうとしているもの、起こすまいとしているもの。背後にある利害関係。あるいはただ流れにのる人たち。目に見えるもの、見えないもの。自分の置かれている立場。境遇、収入。理想と現実。仕事と家庭。はたらくこと、子どもとふれあうこと、他者との関わり。食べること、あそぶこと、寝ること。安心なくらし。安住の地。それらはいったい何なのか。ぼくはいったい何を望むのか。次世代に何を残すのか。

自分の身の丈を見つめて、考えよう。と思います。

願わくば日本に暮らす多くの人たちが、テレビの中の共同幻想(あるいは物語)に自己を投影するのではなく、目の前の自分の暮らしと自分の身の丈を見つめて、不器用でもいいから自分のことばで考えだすこと。そうすることでしか、「まっく新しい共同性への萌芽」が生まれる道はありません。ですよね?

Occupy our new network.





追記(11/11):
ぼくがこの記事で言いたかったことを現している動画がありました。



参加者の声より。
「プロセスがあってこそこの動きが成立していると思う。
 人々の参加を促し続ける唯一の方法は皆の声が反映されるプロセスがあること。
 それが合意へのプロセス。」
やっぱりこれは民主主義を取り戻すための草の根ムーブメントだと思います。

詳しい解説はこちらを参照。
ソーシャル・メディアを利用した革命、OWS(オキュパイ・ウォール・ストリート)とは何か─現地NYからレポート - webDICE

10月6日リバティ広場でのナオミ・クラインの動画もありました。
ナオミ・クライン - ウォール街を占拠せよ:今世界で最も重要なこと (1/3)

Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ) - ニューヨークの若者が変革しようとしているもの、あるいは守ろうとしているもの、取り戻そうとしているもの

Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ) - ニューヨークの若者が変革しようとしているもの、あるいは守ろうとしているもの、取り戻そうとしているもの 2011.10.30 Sunday [政治・メディア] comments(16)
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国益からみるTPP

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知識人たちによる政治や経済のはなしを聞いていると、「国益」っていう言葉がよく使われるけど、ぼくはその意味がいままで少しもわからなかった。一般論的にいえばもちろん日本国の利益になるコトだっていうのはわかるけど、じゃあ具体的にそれはどういうことなの?っていうか、「国益」っていう言葉を使う人たちの言ってることがあまりにも違いすぎて、方向性すらもよく見えてこないというか、「国益」っていう言葉はものを考える上での指標にはならないんだなあと思っていました。

いまでもよくわかってはいないのだけれども、今日、内田樹さんのブログを読んでちょっと腑に落ちた箇所があったのでメモっておきます。

ぼくにとっては「経済」ってのもよくわからない言葉のひとつだったんだけど、語源は「経世済民」(世を経(おさ)め民を済(すく)う)なのだそうです。内田さんは、1960〜64年に内閣総理大臣を務めた池田勇人のブレーンとして、所得倍増計画と高度成長の政策的基礎づけをした明治生まれの大蔵官僚下村治の著書を読み解き、こう述べています。

雇用と競争について - 内田樹の研究室より
下村の基本は経済は「国民経済」を基礎とする、ということである。「経世済民」の術なのだから、それが本義であるのは当たり前のことだ。
「本当の意味での国民経済とは何であろうか。それは、日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない。そういう前提で生きている。中には外国に脱出する者があっても、それは例外的である。全員がこの四つの島で生涯を過ごす運命にある。その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である。」(95頁)
この指摘のラディカルさに、私は驚かされた。


ああ、なるほどなあと。これが「国益」なんじゃん。国益とは「国民経済」であり、経済とは「国民経済」であるという視点に、ぼくはすごく納得しました。これならわかる。

われわれは共同体としてどうやって存続していくか、っていうはなしなんですね。つまり一億二千万人がどうやって食べどうやって生きて行くかという問題。もっとわかりやすく言い換えると、となり近所の人たちが集まって、みんな食べるに困らなくて安心して楽しく暮らせるにはどうしたらいいのかを話し合うような、町内の会合的なノリなんでないべか。なぜなら、

下村の思想を一言で言えば「経済は人間が営んでいる」ということである。


そうなんですね、経済学者は誰もそんなこと言いませんが、「経済は人間が営んでいる」ものだったんですね。人間が営む共同体の中でお金をまわしていくっていう。じゃあ共同体ってなんぞやっていうと、町内会でも地方自治体でも国もなんでもいいんですが、共同体っていうのはつまり「東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい」(宮沢賢治『雨ニモマケズ』より)っていう類いのものでしょう。

近年、日本人がむかしから大切にしてきた絆が失われてきている。なんていう話をよく耳にします。たぶんほとんどの人は同意すると思いますし、ぼくもそう思います。じゃあ失われた絆を取り戻すにはどうすればいいかというと、だいたい「こころのはなし」になります。まあそれもそうなんですが、どうもそういう教科書的な「お説教」が世間でやたらとなされるようになってからも、「こころの問題」はぜんぜん良くなっていない。なんなの?がんばりが足りないの?若い世代が利己的になってる?たしかにそういう側面もあるかもしれません。でもちょっと待ってください。ほんとうに自己責任だけですべて解決できるんでしょうか。

これって、道徳の時間に教えたり、精神論的な教訓に落とし込むようなテーマじゃなくて、もっと人間の営みの根源的なところに関わることのような気がします。もっと言うと「経済」とつながっているんですね。なぜなら経済とは「経世済民」だから。「東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい」っていうことを可能にするのも「経済」の大きな役割なんじゃないだろうか。ということを漠然とですが思いました。

いったい人間がいない経済を想定してどういう意味があるのだろうか。


経済活動の規模が小さかろうが、大きくなろうが、それを忘れちゃいけないよと下村さんは言っているのだと思います。それが共同体として存続していくための術であり、すなわち「国益」なのだと。


というようなことを踏まえた上で、TPPについて考えてみるとよくわかってくることがあります。
TPPの対立構造って、農業対工業ではない。対米従属派と自主独立派っていうのは、ある意味では全くその通りであるけれども、その構図を指摘しただけでは解決しない。陰謀史観に陥ってしまうと、その構図だけで全てをわかったつもりになってしまう可能性があります。そうするとせっかく気づいたことさえも色褪せてしまいます。

TPPの対立構造って何なのかというと、「グローバル経済」と「国民経済」なんですね。そのことに最近ようやく気がつきました。非関税障壁の撤廃によって、ぼくたちの消費活動が価格競争に突入したときに利潤を出せるのは、商品を安価で提供できる企業です。低コストで大量生産のできる大資本が生き残り、昔ながらのやり方で誠実にものをつくってきた小さな工場は潰れていくでしょう。自由貿易によって利益を得るのは、途上国に工場を作って低賃金での生産体制を敷くことのできる多国籍企業です。
少しでも安い人件費を実現できる場所に工場を設置する多国籍企業にとって、「国」は関係ありません。たとえばトヨタ、ホンダ、日参の海外生産比率はそれぞれ59%、75%、84%。大半を海外で生産を行い株主の40%以上が外資という企業をはたして日本の企業と呼べるのでしょうか。こういった多国籍企業には「国民経済」という概念そのものが通用しないわけです。そりゃそうです、純粋に利潤だけを追求する一企業には「最終的にどの国の国民経済にも義理がない(内田さんのブログより)」からです。それがグローバル経済のルールです。

以下はインドの例ですが、たぶんこういうことがふつうに起こる。
インドは、経済自由化政策によってIT産業などは成長しましたが、農業は逆に打撃を受けました。
まず、アメリカのモンサント社が特許権を持つ遺伝子組み換え綿花種子が、インドの綿花種子市場を独占しました。
モンサント社が特許権を持つ遺伝子組み換え綿花の種子は伝統的に用いられていた綿花の種子よりも高額なため、農家は借金をして種子を購入することになります。
ところが、貿易の自由化により綿花の価格は下落し、しかも、慢性的な水不足にあえぐインドでは遺伝子組み換え綿花が育ちにくく、しばしば凶作になってしまうのです。
この結果、借金を返せないことを苦に自殺する農家が後を絶たず、社会問題になっています。
このようにモンサント社が種子市場が独占することによって農業が破壊されることは、インドネシアなど他の国でも報告されています。
インド INDIA - お絵描きイベント(NPO法人・宇宙船地球号)ウェブ版より


モンサントが悪だからこうなるというよりも、これがグローバル経済のルールだからです。利潤追求(それは正当な経済活動と言われます)の帰結として多国籍企業は必然的にこのように振る舞うということでしょう。TPPに参加するならば、そのことをわかった上で参加するという覚悟がなければいけません。しかし推進派の方々の言説からそのことを読み取るのは非常に困難です。バスに乗り遅れるなとか、そんなん煽り文句ばっか。たぶん彼ら自身もよくわかっていないんじゃないでしょうか。

TPPをめぐるこの対立軸について、夏野剛さんがツイッターでまとめてくださっていましたので転載します。とくに内需拡大についての提言は興味深いです。

夏野 剛Twitterより
TPPについての僕の意見をまとめておきます。まずTPP以前の問題として、人口減少下で市場が縮小傾向にある日本には二つの選択肢しかないことを我々は認識すべきなのです。これは単なる二元論ではありません。市場をどう大きく(あるいは維持)していくかという問題です。

一つは徹底的な開国による日本という市場と他の市場の一体化。TPPやFTAがこれに当たる。競争力のある産業はますます栄えるが、競争力のない産業は滅びる。しかしもともと競争力のない産業の財・サービスを高い価格で買わされていた消費者にとってはいい話。もちろん愛着あるものがなくなってしまうかもしれない。非効率だけどよかった、というものが淘汰されるかもしれない。それは覚悟しなければいけない。しかし市場が大きくなることで少なくとも社会効率は全体として向上します。

もう一つは徹底的な内需拡大。開国しなくても国内の市場が大きくなりあるのであれば、急いで海外市場としますなくていても良い。そのためには、まず大量の移民受け入れ。経済のファンダメンタル要素である人口を増やすためには、少子化対策も大事だが、まったく追いつかない。急速に人口を増やすには大規模な移民あるいは外国人居住者の受け入れが必要になる。次に、停滞しているカネを動かすこと。日本がこれほどまでに円高になってしまう一つの要素に金アマリがある。個人金融資産1400兆円、上場企業内部留保200兆円。これを動かすことで経済を活性化させる。例えば、個人金融資産は年金受給でも有利な立場にいるが消費性向の低い高齢者に偏在しているので、譲渡税を大幅に下げ、若い世代に移転するインセンティブとする。同時に資産課税と相続税課税を強化し(評価額と市場価格の乖離をなくすなど)、実質資産保有コストを上げる。また、徹底的な人材の友好利用を図るために、子育て中の女性が安心して働ける仕組みを国として完全整備する。これほど能力と学歴の高い人たちが仕事をしていない先進国は珍しい。他にも…。

今のまま、を続けていると、日本はジリジリと経済力も競争力も落ちて行き、気がついた時にはもう遅い、という状況になることは間違いありません。もちろんそうなるのは20年から30年先の話なので、今の政治のリーダーや高齢者には関係ないことかもしれません。でも日本の未来がなくなることだけはしないで欲しい。TPPの議論は実は日本の未来をどうするかという議論だと思うのです。


「グローバル経済」と「国民経済」という対立軸を言い換えると、「経済成長路線」を採るのか「均衡路線」でいくのか、という選択でもあります。夏野さんが説明するように、海外に市場を求めるのか、内需を見つめ直すのか。

ただし経済成長には限界があります。ふつうに考えて、右肩上がりの成長が永遠に続くと考えるのは無理があるでしょう。経済成長する国ってつまりは貧乏な国なんだと平川克美さんが言ってました。貧乏な国しか経済成長してないんだと。かつての日本もそうだったし(貧乏な工場で作る精度のよいMade in Japan製品をアメリカがいっぱい買ってくれてたから)、いま経済成長している国って、インドとか中国とか。

Chikirinさんがこの記事で言っているように「“先進国生まれ”というだけで豊かな生活が約束」されるには、途上国が無ければなりません。しかし、途上国がどんどん経済成長を続けるということは、途上国が途上国で無くなるということでもあります。
「経済のグローバル化は、世界における「先進国と発展途上国」という境界線を無くし、代わりに別の境界線を引こうとしています。」(同記事より)
じゃあ、そうやって国と国との格差が無くなった時代が到来したとして、その状態からどうやって「経済成長」するのか。端的にいうと、できないだろうというのが自然な感覚のように思います。いや、それじゃ困る、経済成長がなければ世界は成り立たないじゃないか、という前提の上から出て来たのがグローバル経済でありTPPであるということなのでしょう。その結果としてChikirinさんが指摘するように、「国と国の格差」は急速に縮小して「個人と個人の格差」が広がっていくのであろうと思います。


それに対して、内需を拡大するってどういうことか。夏野さんが提言するポイントは興味深いと思います。ただし個別の内容を咀嚼するには時間がかかりそうなのでここでは触れません。大事なポイントとして、これら個別の政策を考えていく上では、その前提条件への共通認識が必要になります。すなわち、もう経済成長しなくてもいいじゃん。低成長でもいいじゃないか。2番でいいじゃん。っていうコンセンサス。そこそこの暮らしができて、それなりに楽しくて、家族が笑顔ですごせれば、それで充分でしょ。っていう。ヨーロッパって割とそういう市民意識を感じます。

これって、町内会のはなしに戻ります。つまり生産者の顔が見えて、自分が手の届く範囲のお店で買い物をする。地域の商店街にお金をおとす。地元のつながりの中でお金をまわしていく。つまり、価格とスペック以外のところに価値を見いだせるかどうかっていうはなしなんだけど。
いまの世の中がそれでうまくいくのかどうかはわかりませんけれども、ぼくらのご先祖は江戸時代にはそういった循環型社会を形成して200年以上も栄えてきたんですよね。それって世界に類を見ない社会だったわけで。江戸時代には200〜300の藩があって、「お国自慢」っていうときの国とは藩を指してたんだそうです。つまり共同体のスケールを小さく考えて、顔が見えて手の届く範囲でしかぼくたちは身体活動できないよね、ということを「経済」にも適用して考えたらいいんじゃないかと、それがけっきょくのところ共同体の存続になり、国益につながるんじゃないかと、なんか漠然とですが思いました。

「経済成長路線」か「均衡路線」か、という選択にもし有権者の意思が委ねられて1票を投じることができるとしたら、ぼくは後者に投じたいと思います。

国益からみるTPP

国益からみるTPP 2011.10.20 Thursday [政治・メディア] comments(16)
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経産相人事にみる野田内閣の方向性

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経済産業大臣に枝野氏が就任しました。
ええ、「ただちに」で一躍有名になったあの方です。

鉢呂氏辞任の報を知ったときに、後任の人選によって野田首相のやり口がわかると思っていましたが、枝野氏と聞いて淡い期待は消えたというか、ふーんやっぱりそうなるのねという感じ。ぼくはこりゃなにも期待できないなとしか感じなかったです。だって、「ただちに」の人ですよ。弁が立つというか、ことばあそびの人ですよ。ただちに失言してただちに失脚することはないでしょうが、「配慮」に富んだ発言でつまるところは何も言わず何もしない=現状維持=原発存続。たしかに経産省にとっては「即戦力」と言えるでしょう。

もともと野田さんという人をぼくはあまり信用していないのです。代表選の前から一貫して増税を主張しており、そのために大連立をほのめかしてみたり(谷垣氏にフラれたようでしたが)。TPPにも積極的だったようだし、原発に関しても格別の感慨は無いようだったので。

だから代表選で野田氏が当選した時はガクッとしましたが、党内融和を目指したとされる閣僚人事を見て、すこしはマシなのかもしれないと淡い期待を抱きました(まあ前原氏よりもマシだったのは明白ですが)。とくに、地味な存在ながらも脱原発路線の鉢呂氏を経産相という重要ポストに据えたことは驚きであり、同氏の原発ゼロ発言に、淡い期待は膨らみ現実味を帯びてきたように思いました。へえ、鉢呂さんってどういう人か知らなかったけど、野田っちやるじゃん、と。

ところが。鉢呂経産相の電光石火での辞任。まだなにもしていないうちの、野党とマスコミによるバッシングによる、民意を無視した更迭措置。あきらかにある種の力学がはたらいたとしか思えませんが、さて、野田さんはそもそもどういう意図で鉢呂氏を経産相に据えたのか。辞表をあっさりと受理したという話を聞くに、どうも出来レースだったのではないかという疑いも残ります。つまり鉢呂氏はガス抜きのためのおとりとして飾られただけだったのではないか。鉢呂氏辞任の翌々日に野田首相が経団連会長と会談しTPP推進で意見一致し、経産相後任に枝野氏が決定したいまとなっては、そんな邪推もあながち否定できません。はじめからこれがやりたかったんじゃないの、と。

まあそういった経緯はともかく、少なくとも枝野氏のもとで脱原発は望めないと思います。TPPも突き進むかもしれない(米倉氏は11月には答えを出すと言ってました)。いつもの対米追従・官僚主導路線に戻る匂いがぷんぷんします。「ただちに」死なないかぎりは国民の不幸など屁のかっぱでしょうね。「ただちに」健康に影響が無いはずの被災地に自分は全身防護服で赴いてましたしね。弁が立って余計なことは言わない枝野氏は、経産省のスポークスマンとしては最適な「即戦力」ですが、国民にとってはことばあそびばかりで本当のことをただちに言わない「ウソくせーん力」になる可能性が高いと予測します。

就任会見で枝野氏はこう述べたそうです。

定期検査のため各地で停止している原発に関し「安全性に対して周辺住民の理解をいただく努力をした上で、稼働できる原発は再稼働する」と表明した。
- 47NEWSより


ふう。一方で「(原発を)ゼロにしても大丈夫な状況を一刻も早く作る。原発がなくても日本の国民生活や産業が十分成り立つ状況を一刻も早く作る責任がある」「今後の原発建設については、全くの新規は相当困難」とも語っており、さすが配慮に満ちた発言ですが、実際にどういう方向に動いて行くのかはまだ見えてきません。くれぐれも、後になってから実は…なんてことが無いように。後になってから実は…ということを釈明するためだけに弁才が活かされることのないように。さてさて。

・・・と、前の記事でひと呼吸置けよと自分で言っておきながら、脊髄反射的な記事を書いてしまった。はなし半分で読んでくださいね。少し愚痴ったっていいじゃない。人間だもの。


追記(9/14):
東京新聞の長谷川幸洋さんによる、鉢呂氏インタビューが掲載されました。
当事者が初めて語った「放射能失言」の裏側!鉢呂経産大臣は原発村を揺るがす「原発エネルギー政策見直し人事」の発表寸前だった - 長谷川幸洋「ニュースの深層」

経産相人事にみる野田内閣の方向性

経産相人事にみる野田内閣の方向性 2011.09.13 Tuesday [政治・メディア] comments(0)
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鉢呂氏辞任までの迅速性(ことばを狩る脊髄反射)

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なんかもうふり返るのもいやになるんですが。
鉢呂経産相の辞任。

ツイッターのTLを見ているとさすがに今回の件では多くの人がマスコミのやり方に疑問を感じたらしく、「死の町」発言が辞任するほどのことか、という意見が多数のようです。野党とマスコミ、それから民主党内でのある種の力学がはたらいていることは明らかで、それを陰謀と呼ぶかどうかはともかく、原発利権云々という問題が関わっていないと考えるほうが不自然だと思います。このブログを読んでる方々ならそんなことだいたいわかっていると思うし、そこから掘り返すのもめんどくさいので省略します。

ここでは今回の件を「迅速性」という観点で見てみようと思います。
というのは、ここに、記者クラブが主導するマスメディアの体質、ひるがえってはそれらを享受しているバカな人たちの総体的な気質があらわれているような気がしなくもないと思ったからです。

今回の言葉狩りという手法に関しては、左右を問わず、原発へのスタンスに関わらず、多くの人が辟易しているようです。つまりこの辞任劇はいったいなんだったのかというと、メディア・リテラシーの教材にもならないくらいマスコミの手法は劣化しているということを露呈しただけで、しかもそのように劣化して誰も賛同しないような論理がまかり通って、ほんらい民主主義の手続きによって選ばれたはずの大臣の進退が簡単に決められちゃうという、民主主義国家としての崩壊。マスコミ政治部はもちろんのこと、永田町にも「民主主義」なんか大事にする人は誰もいなくて「マスコミ主主義」しか存在しないということを証左しただけだと思うんですが(もうほんとやだこの国)。

あの。とにかく、はやすぎましたね。鉢呂氏はたしかに原発ゼロの発言をしましたが、具体的にはまだ何もしていないわけですから。知名度は低く(内閣発足時の上杉隆氏の評価)、どういう人なのかよく知らないままにいなくなっちゃった、という感じです。逆に考えると、何か行動される前に辞めさせられたと見ることもできます。

河野太郎氏のブログによると
鉢呂経産相は、野田総理の原子炉の新規立地はしない、耐用年数が来たものは確実に廃炉にするとの方針を着実に進めようとしていたし、それを実現するためのかなり大胆な人事を考えていた。
経産省内外の抜擢すべき人物の発掘を多方面に依頼していたし、ガンとよばれる幹部の異動も考えていたふしがある。

との記述があります。鉢呂氏が、脱原発へ本気で取り組もうとしていたことはたぶん本当でしょう。だとすると、それを察知した「ガンとよばれる幹部」が抵抗するのは当然ですし、彼らと利益を共にする人たちが結託して引きずり降ろそうと考えるのはもっともです。

有権者にしてみれば、大臣が原発ゼロとは言ったものの、実際にはどういう行動をしてくれるのか、未だそれを知る前だから判断のしようもないわけです。にも関わらず、着任してから叩くまでも早かったし、叩かれてから辞めるまでも早かった。だって「ガンとよばれる幹部」にしてみれば、自分らが辞めさせられてからでは遅いわけだから、迅速な対応ももっともです。傍から見れば不自然な糾弾にしか映りませんが、そんなこと言ってる場合ではありませんから。

で、まあその片棒を担いだと思われる記者クラブの本性が辞任会見で表れてしまったようです。まるでチンピラですが。
「説明しろって言ってんだよ!」「君はどこの記者だ!」鉢呂氏の辞任会見が大荒れに - BLOGOS

新聞記者がなんでこういう言葉遣いができるのかというと、自分が正義だと信じているからなんでしょう。自分らの所属する組織が原発推進派であり、脱原発の発言をした大臣は俺たちにとって都合が悪いから消さなきゃなんない、そのためには汚い手を使うのもやむを得ない、と自覚している(それを陰謀と呼ぶのかは知りませんが)ならば、まだマシなのかもしれません。たぶんそうじゃない。自分たちの仕事は叩くことであり、それが正義だと思っている。

福島香織さんのツイート
私も政治部にきてからびっくりしたんだけどさ、間接的とはいえ民主主義の手続きをへて選ばれた閣僚とか首相を「ぜったいあいつを辞めさせてやる」「昔の政治部なら、とうに首相を辞めさせられていたはず、今の政治部はなさけない」とか言ってしまう記者がナチュラルに存在する

これ、ほんとうに「ナチュラル」なんだと思います。すごく腑に落ちた。おそらく現場の記者は、自分らが正しいことをやっていると信じて疑わないのでしょう。それが誰にとっての正しさなのかまでは考えない。ただ漠然と正しいことをやっているという高揚感が生むアドレナリンによって動いているんじゃないでしょうか。立ち止まって考えるヒマがないんです、きっと。そらそうでしょう、内閣発足から失言叩きから辞任までの驚くべき迅速っぷりを見れば、そこに「考える」というプロセスが介在するヒマなんて無いことは明白です。鉢呂氏を辞任に追い込んで、記者はさぞや鼻高々でしょう。おれが大臣の首を取った、おれたちが国を動かしてんだぜ、かっけーだろ、的な。

そして、視聴者側もそれらの報道に接することで「考える」というプロセスを放棄することによって、「言葉狩り」は常態化していきます。脊髄反射的な正義論がふりかざされる空気の中で、マスコミは視聴率を稼げる「言葉狩り」にますますのめり込んでいく。記者たちは、ターゲットを叩くことこそが自分らの仕事であり、それが正義でありかっこいいことなんだという職業意識になっていく。視聴者も即物的な正しさ(かっこよさ)に同調する。

会見で暴言を吐いたとされる記者も、テレビの前の視聴者も、狩りに関しては匿名です。主語のない、集団の自称正義によって「言葉狩り」そのものが目的化してしまうわけです。彼らの言う正義が満たされることはありません。狩ること自体が目的なんですから。次のターゲットを永遠に探し続ける。これって、陰謀論よりもタチ悪いですよ。無自覚なんですから。もうちょっとわかりやすく言い換えると、バカなんですから。

この手の、集団による狩りがある種のちからを持つような共同体の中で、人はどうふるまうようになるか。簡単です。言葉狩りされないように気をつけるということです。空気を読んで、自主規制する。タブーには触れないようにするのがたぶん人間の本能だから。

「死の町」発言で福島は傷ついたとある人は言います。しかしほんとうに傷つくのは「無かったことにされる」ことじゃないでしょうか。言葉狩りによって言論タブーを演出し、問題をアンタッチャブルにすることで、人の記憶はかんたんに風化していきます。無かったことどころかまだなにも解決していないのに。言葉狩りの果てに広がる景色は不毛の地です。自己規制の果てに、誰も傷つけないように「配慮」したぺらっぺらでつるんつるんの「ことば」は、すべての人を当事者の立場から引き離します。「がんばろう日本」なんてもう誰も言わない。意味ないから。枝野前官房長官が、まわりくどく「配慮」したことばを発し続け、結果として何も言っていなかったに等しく、そしてそのおかげで不要な被曝を生んだということは、主語の無いことばが招く無責任の恐ろしさを示していると思います。

誰ひとりさえも傷つけないことばなんて存在しません。

それを狩りたがる人が存在するのもしょうがない。しかし、それがまるで国民の総意であるかのようにして民主主義の手続きよりもつよい力を持っている社会構造というのは、およそ近代国家とは言えないシロモノだと思います。なぜ民主党の議員はマスコミ記者の言うことをそんなに気にするのか。結託しているのかと疑いたくもなります。


あ、「迅速性」を観点にするつもりが「言葉狩り」のはなしになってしまいました。「言葉狩り」の基本は脊髄反射だと思うんです。「言葉狩り」が実際に狩りとして成り立つには、脊髄反射的な反応がマジョリティであること(実際にマジョリティであるかどうかはともかく、それが総意であるという暗黙の合意が或るところで成されていること)に担保されます。みんな怒ってるんだよ、人間としてダメだろう、それは。という形で。「人間として」という文脈にすることで、あたかも国民の総意であるかのように化けることが出来る。

脊髄反射的で感情的な反応それ自体には良いも悪いもありません。ある種の「ことば」に触れたときに、個人的で感情的な反応が出るのは当然です。人間だもの。メディア・リテラシーの基本は、そこでひと呼吸置くことだと思います。脊髄反射的に出てきた自分の感情を、俯瞰的に見つめて、各種の情報をマッピングしていくことだと思います。それにはやっぱり、どうしたってある程度時間がかかる。

ものごとを即断できる男がかっこいい、という価値観もあるでしょうが、ほんとうは立ち止まって見つめ直すことのほうが根気と勇気のいる作業です。論理明晰で明快に、大きな声で自分の正しさを喋る人よりも、つっかえたり、言い淀んだり、ぶれたり、しながらでも自分のことばを反芻して喋る人の言っていることのほうにぼくは共感します。

嶋聡さんのツイートより
政治家も未熟すぎるが、炎上覚悟で言うと、マスコミも野党も、もう少し寛容であっていいのでは。日本がよく手本にするイギリスでは、失言や少々のスキャンダルでは閣僚等が辞任することはない。事務的ミスに近い献金スキャンダルや失言に怯え、そのたびに辞任を迫られていたのでは、中長期的なビジョンに立った政権運営はできない。野党もマスコミもう少し、成熟したふるまいをめざすべきではないだろうか?

まったくそう思います。ぼくは政治家になんでも解決してくれるスーパーマンを期待してもいませんし、清廉潔白の聖人君子どころか、べつに人間性(人間としてどうのこうの)を求めてもいません。子どもの未来をいまよりマシにしてくれるなら(経産相ならば脱原発への道筋をつけてくれるなら)、口が悪かろうが愛人がいようが金に汚なかろうが前科があったってかまいません。ほんともういいかげんにしましょうよ。

鉢呂氏辞任までの迅速性(ことばを狩る脊髄反射)

鉢呂氏辞任までの迅速性(ことばを狩る脊髄反射) 2011.09.12 Monday [政治・メディア] comments(0)
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総括原価方式という「おいしいしくみ」

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おいしいものって、みんな好きですよね。ぼくも好きです。
おいしいものって隠しておきたくなるんですね。自分だけのものにしておきたいから。

原子力村というムラがあります。あるとします。
はじめは小さなムラでしたが、せんそうに負けたクニの人たちを豊かにするカガクギジュツを持った、ゆめときぼうをのせたムラでした。だからクニの偉い人たちはムラにとくべつな贈りものをすることにしました。クニの発展のために。その贈りもの「おいしいしくみ」は思惑通りにおいしいものを生みました。おかげでムラは発展してたくさんのお金が集まりました。ムラにはどんどん人が集まりました。ムラのお金のおかげで周辺の人たちも少しお金を手に入れることができました。そうやってお金が行き届いていたので、総体的にクニはしあわせでした。

時が流れました。50年。ムラはだいぶ大きくなり、住人も増えました。むかしムラに与えられた「おいしいしくみ」もそのままあります。時代はめまぐるしくかわりました。ムラのお金によってムラ周辺がおこぼれに預かりクニがしあわせになるというしくみは役目を終えました。おいしいものを知らない世代の人たちが増えました。クニは苦しみ出しています。ムラにはまだおいしいものがあります。ムラの外ではたくさんの人がおいしいものも食べずにジコセキニンでガンバッテいます。ムラの住人たちは、このおいしさをムラの外のみんなとも分かち合おうとは考えませんでした。だって、ムラの外の人に教えてあげたら、なんだおめーらばっかりそんなおいしいものをひとりで食べてたのかふざけんな、つって、おいしいしくみを取り上げられた挙げ句に、もう二度とおいしいものを食べられなくなるかもしれないからです。

ムラの住人は、おいしいものを食べ続けたいと思いました。自分の家族においしいものを食べさせたいと思いました。おいしいものを得るために「おいしいしくみ」を守らなければならないと思いました。その「おいしいしくみ」とは具体的には「チイキドクセン」「ハツソウデンイッタイ」「ソーカツゲンカホーシキ」というものです。ムラの住人は、ムラにそれらの「おいしいしくみ」があることを隠し続けたため、クニに住むほとんどの人は知りませんでした。もっと正確にいうと、クニの人たちを代弁している風にふるまってきたマスめでぃあの住人たちが「おいしいしくみ」のことを伝えなかったので、クニに住むほとんどの人は知るすべがなかったのです。

今年、げんしりょくはつでんしょで大きな事故がおこりました。ほうしゃのうがクニを襲いました。みんな、ほうしゃのうのことはほとんど知らないので、不安の中でどうしたらいいのかわからないままに暮らしています。ムラの中の人はだいじょうぶだと言い、ムラの外の人はあぶないぜと言います。みんな、ほうしゃのうのことはほとんど知らないので、どちらを信じたらいいのかわかりません。クニに住む多くの人たちは、いままで自分たちがなにも知らなかったということを知りはじめました。

このものがたりのつづきがどうなるのか、まだだれもわかりません。もし自分がそのものがたりの渦中にいると思うならば、ムラを作ってきた「おいしいしくみ」を知ることによって、ものがたりを動かすことができるかもしれません。いくら「だつげんぱつ」を叫んでも、具体的な政策がなければものがたりは動きません。「おいしいしくみ」を解体しなければムラは解体されません。原子力村とは、そういうムラです。あるとするならばですが。


自民党の河野太郎氏はこう言っています。
総括原価方式というのは、すぐにでもやめなきゃいけないものの一つと思ってます。今、日本の電気料金が高いのは、一つには地域独占。もう一つは、今の電力会社は発送電一体で他から託送することができない。そして、総括原価方式という国家社会主義みたいな値決めになってる。この3つをやめれば、日本の電気料金はきちんと市場原理で決まってきますから、今よりはるかに安くなります。

「総括原価方式」「地域独占」「発送電一体」この3つが絡み合って、原子力村を形成しているというわけですね。今回はこの中でも特に「総括原価方式」について調べてみようと思います。河野氏はブログで「電力は、総括原価方式で、必ず利益が出るようになっている。」と指摘しています。知れば知るほど、これはなんという「おいしいしくみ」なんだと唖然としてしまいました。

電気料金がどのように決められるのか、そのしくみがテレビ朝日『モーニングバード』にて放送されました。動画は削除されてしまったようですが、文字起こししてくださってる方が何人もいらっしゃるのでそちらを見てみます。
そもそも電気料金どうやって決めてる?総括原価方式とは?

また、こちらもわかりやすくまとめられています。
電力のコスト計算方式 - よくわかる原子力

「総括原価方式」とは、発電・送電・電力販売にかかわるすべての費用を「総括原価」としてコストに反映させ、さらにその上に一定の報酬率を上乗せした金額が、電気の販売収入に等しくなるように電気料金を決めるもの。

電気料金収入 = 原価 + 事業報酬(原価 × 4〜3%)

電力会社を経営するすべての費用をコストに転嫁することができる上に、一定の利益率まで保証されているという、決して赤字にならないシステムです。電力会社はどんなにコストがかかろうと、法律によってあらかじめ利益まで保証されているのです。

戦後の荒廃の中から経済復興をはかるために、公益性の高い電力事業を基幹産業として保護育成するためにとられた政策ですので、日本が経済発展をするためには一定の歴史的役割があった方式ということもできます。


ざっくり言うとこういう認識でいいと思います。コストをかければかけるほど利益が上がるという魔法のようなしくみ。

『モーニングバード』の解説によると、原価の中には「適正な原価」(コスト)と、事業報酬率をかける対象となる「レートベース」なるものがあるようです。人件費、燃料費、修繕費などは「適正な原価」に含まれ、特定固定資産や核燃料などは「レートベース」に含まれます。「レートベース」に事業報酬率をかけた金額が、電気事業者の利益になるということのようです。

「レートベース」には特定固定資産が含まれていますから、高額の設備を建てたほうが利益が上がるというしくみになっている。だから原発を建てたがるんですね。日本にはすでに55基も原発があり、その内の11基しか稼働していないのに、まだ新規の原発を作り続けようとするのは、作れば作るほど儲かるしくみになっているからなんですね。電力が足りないとかは関係ないでしょう、現実に1/5しか稼働していないんだから。目的があって建てるわけじゃなくて、建てること自体が目的なんだもの。だって、こんな「おいしいしくみ」やめられるわけないじゃないですか。ぼくもその味を知ってしまったらたぶんやめられないです。となると、原発推進派の方々っていうのは、永遠に原発を作り続けるっていうことを目標にしているのかもしれません。

さらにもっとおかしなことがあります。『モーニングバード』の解説によると、「レートベース」の中には使用済み核燃料が入っています。使用済み燃料を持てば持つほど利益が出るというしくみになっている。これはほんとうに驚きました。世界中の国々が、放射性廃棄物の最終処分について憂慮している中で(関連記事1関連記事2)、核のゴミを持てば持つほど儲かるっていうんだから。そんなしくみの中にいる人たちが放射性廃棄物の最終処分について真剣に考えるわけないですよね。ぼくは、原発の根本的な欠陥であり最大の問題点は放射性廃棄物の最終処分だと思っているので、これはほんとうに愕然とした。六ヶ所って、表向きは再処理工場ってことになってるけど、その技術が完成することにはぜんぜん力が入ってなくて、開発のための費用をかけ続けること(その費用もぜんぶ原価に入るわけですよね)、もっというと単純に使用済み燃料を保管しておくだけのために必要な場所なんじゃないかと思ったり。電力ムラが欲しいのは「核燃料サイクル」そのものというよりも、それによって使用済み燃料も資源になるという「言い訳」ですから。


ここでいったん話もどります。原子力村を形成してきた3つの「おいしいしくみ」について。河野太郎氏は「おいしいしくみ」がここまで維持されてきたことについて、以下のように言っています。

要するにこの3つを守るために、一生懸命自民党には献金し、民主党には労働組合が票を選挙で稼ぎ、天下りを経産省から受け入れ、マスコミはお金を出して黙らせ、ということをやってきたわけですから。
もちろん今までも総括原価方式をおかしいと、これがあるから原子力のような、巨大な投資を必要とするものが、むしろ好まれて入ってくるという議論はありましたけれども、それを止めようとする声は、実は、その利権の構造の中でどんどん薄められてきてしまった、ということが現実だと思います。


つまりは「おいしいしくみ」を守るために、お金をバラまいたということなんですが。このお金ってどこから出て来たものなんでしょうか。

ジャーナリストの上杉隆氏が指摘していたことですが、電力会社っていうのはライバルがいないわけです。地域独占ですから。ところが、毎年巨額の広告費が投入されています。電事連(電気事業連合会。国内の電力会社でつくる業界団体)が大手メディアに投じる広告費は年間800億円(東電で昨年116億円)だそうです。これはパナソニック(700億円)やトヨタ(500億円)を抑えて1位。くり返しますが、ライバル企業のいない地域独占の会社が巨額の広告費を使っているんです。いったいなんのためでしょうか。

震災の起きる前まで、原子力行政について関心のある人は少なかった。なぜなら、原子力発電というものが抱える根本的な問題点や実際のコスト、目に見えないコスト、放射性廃棄物のこと、それからこのような危険性があるとは知らなかったからです。原発は経済的でクリーンなエネルギーであるというイメージ戦略があまりにも定着していたから。疑うという発想すらなかった。ほんらい、ものごとにはいい面とわるい面があります。どんなものでも必ずそうです。万人に良い政策なんてあり得ない。ところが原発に関しては、わるい面がいっさいオモテに出てこなかった。それは巨額の広告費を投入して、原発の安全性やメリットをPRしていたからなんですね。くり返しますが、ライバルがいないのに一生懸命にPRしていたんです。そのイメージは、実情がよくわからないままにぼくらの意識下に刷り込まれていました。

巨額の広告費をいただいている大手メディア側は、スポンサー様の不利益になるようなことは言えません。「反原発の人を使わないでほしい。その場合は基本的に広告を取り下げる」という要請が電事連から各放送局にあったという話もあります。東京電力批判をした上杉隆氏は番組から姿を消しました。原発に批判的な意見を言う学者はオモテ舞台には呼ばれず、学内でも冷遇されていました。原発の事故があってからしばらく、東電はテレビで何度もお詫びのCMを流したそうです。上杉氏は、そんな広告を流す余裕があるなら補償にまわすべきだと言っていましたがまったくそうですよね。フリーのジャーナリストらがいなければ、こういった「おいしいしくみ」をぼくたちは未だに知らずにいたかもしれません。

こうやって湯水のようにお金をバラまくことによって、原発の安全性をアピールしてきた電力会社ですが、この広告費っていうのも原価に含まれるわけですよね。「適正な原価」なのか「レートベース」なのかはわかりませんが、いずれにしても電気料金にて徴収できる金額であるわけです。今までさんざん原子力は安全で必要な技術ですってPRしてきた費用は、けっきょくぼくたちが出していたことになります。もしこれが「レートベース」に含まれているならば、広告費をかければかけるほど利益が出るしくみだったと。つまり原子力は必要ですと言えば言うほど電気代が上がるという、一休さんのトンチみたいな話ですね。そして誰もこれをバラマキと批判しない。大手メディアはすでにムラの住人だから、逆に電力不足をアピールして原子力の必要性を訴えています。

さらに、原価の見積を実際よりも高めに設定して電気料金を水増ししていたという疑いも出てきました。ここまでくるともう驚きませんが。
東電の料金、高めに原価設定か 経営・財務調査委が指摘 - 朝日新聞 2011年9月6日


とまあ、打ち出の小槌のような「総括原価方式」ですが、電力会社の「地域独占」によってこれは魔法になります。つまり消費者は多様な事業者の中から電気を選ぶというようなことができません。電気はインフラとして必要だし、それを買う先もすでに決まっている。その価格も決められている。選択の余地がないわけです。ここに市場原理ははたらきませんので、価格競争もサービス向上も望めません。

そりゃあ、こんなに「おいしいしくみ」を持っていたら、それを利用したいと思うのが人間の性でしょう。それを利用して、自分と自分の家族においしいものを食わせたいと思うのが人間の性でしょう。ぼくもムラ側の人間ならそう思うだろうなあ。これはもう、聖人君子でもない限りはどうしようもない。だからこそ、クールにドライにしくみを適時調整して利益分配をするのが政治の役割のはずです、ほんとは。

河野太郎氏のブログより。ベルギーで開催された再生可能エネルギーについての会議に出席し、EU各国やアジア諸国の代表に対して日本の「原子力村」について説明をした時のことを書いています。

日本の「原子力村」の実情を世界に伝える - 河野太郎ブログ 2011年05月28日より
政治、官僚、学会、メディアが電力とどうつながってきたか、それぞれがどう利権に関わってきたか、日本の「原子力村」の現実は、外国の議員にとっては驚きだったようだ。

スイスの議員から、スイスでも同様の利権構造が存在するという話がでた。スイスでは、議会の決定を住民投票でひっくり返したそうだ。

日本に住んだことのあるイギリス人のジャーナリストが、なぜ、地域独占の電力会社があんなにコマーシャルを出すのか不思議に思っていたが、その謎が解けたと笑っていた。

コストに利益を載せて電力料金を決める総括原価方式の説明では会場から笑いが出た。いかに再生可能エネルギーのコストを下げるか、資本コストを削減するかという議論がグループセッションで行われている中で、コストがいくらかかっても利益を載せて料金で回収できるこのようなシステムがあることにびっくりすると同時に、これでは日本の再生可能エネルギーは進展しないねとみんな同情的だった。


ぼくは「脱原発」に賛同します。

そのために自分自身の生活を見直す必要もあると思っています。原発を見直すということは、戦後の日本がずーっと指針としてきた経済成長という指標そのものを見直すことであり、しあわせとはなにかを問い直すことであり、経済といのちを天秤にかけることであり、つまり一度立ち止まって自分自身の生活をふり返り見つめ直すことであるからです。内省することは地味で苦痛です。でもそれをしない限りは、ぼくたちは大人にはなれない。小田嶋隆さんがこのコラム(これ最高の文章ですね)で言っているように、マッチョな中二病から卒業する必要があります。あきらめて捨てなければならないモノもたくさん出てくるかもしれません。優先順位を自分の手で決める必要があります。ひとりひとりがそういった内省をすることがとても大事で、それが「脱原発」を支える基幹になるマインドだと思います。

しかし、「脱原発」は、みんなの覚悟や善意といった精神論だけでは実現できないと思います。「おいしいしくみ」が存在する限り、ムラはムラの利益を守る方向にはたらきます。これはムラの住人が人間的にどうのこうのという精神論の問題ではなく、構造的にそう機能せざるを得ないからです。既得権益側の人間がとくべつ利権をむさぼることしか考えていない人物ばかりが集まっている悪の巣窟であると考えるのは無理があります。こういう構造の中でこういう立場に置かれたならば、誰だってそうふるまっちゃうでしょ、っていうことです。

「脱原発」を実現するには、しくみを変えることが必要です。しくみを担保するのは法律であり、法律をつくるのは政治であり、政治家を選ぶのはぼくたちです。だから、こういうしくみがあるということを知ることがまず第一歩だと思います。このクニのものがたりのつづきをつくるのはぼくたち自身の選択です。そんな当たり前のことも、ぼくはついさいきんまで知りませんでした。


総括原価方式という「おいしいしくみ」

総括原価方式という「おいしいしくみ」 2011.09.09 Friday [政治・メディア] comments(0)
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民主党代表選って、いまからが本番なんだよね。

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民主党の代表選立候補の告示が明日に迫りました。さまざまな政局報道がなされています。すでに候補を表明した人たちも、隠し球が出てくるのかも、明日にならなければわかりません。水面下では報道されている以上のさまざまな駆け引きが行われているんでしょう。でもぼくはそんなことを知る必要はありません。けっきょく明日に誰が立候補して、29日に民主党の国会議員たちが誰を選ぶのか。ぼくの生活に関わってくるのはそれだけですから。

それでも、ひとつ政局のはなしを。東京新聞の長谷川幸洋氏による記事がたいへん説得力があると思ったので紹介します。というか、「小沢氏の政策は官僚やマスコミにとっては非常に不都合だろうが大多数の国民にとっては一刻も早い実現が望まれるものだ」というというとある人の意見を目にして、すごくよくわかるし賛同するんだけども、だからこそ、小沢派の議員が出馬しないのはなぜなんだろうかと不思議でならなかったので。なんで原口一博氏は立候補しないんだろうと歯がゆく思っていたので。

来年9月の代表選に勝負を賭ける小沢一郎の「中継ぎ総理」候補は原口一博か - 長谷川幸洋「ニュースの深層」

これが現実になるかどうかはわかりませんが、ぼく個人的には可能性はかなり高いんじゃないかと思います。少なくとも、いま候補を表明している人たちの中にろくな人がいないしどうせ誰になっても何も変わらないだろうとただ嘆いているよりも、こうして推測を立てていくことによって、代表選への興味がむくむくと湧いてきました。政権交代時のマニフェストを大事にするのが小沢一郎の主張なのだとすれば、現在候補を表明している人の中から支持する人を選ぶというのでは、同じくマニフェストに立ち返ってほしい一市民としては腑に落ちません。現在の候補者の中では誰がなっても、マニフェストに立ち返ってくれるという希望を感じないから。

報道では前原氏にポスト・人事等を巡って譲歩を迫るという小沢一郎氏の動きばかりが取り上げられていますが、これは前原氏を首相にさせたいマスメディア側の思惑が含まれている報道の仕方だということも踏まえておきたい。もちろんそれらの情報が全てウソだと言う訳ではありません。それらを踏まえた上で、前述の長谷川氏のような推測もじゅうぶんに成り立つし、考えられるということです。ぼくはまだ小沢氏のマニフェスト回帰という言葉を信じていますので、前原氏支持は考えにくいでしょう(逆に言うともし今回小沢派が独自候補を出さないとするならばかなり失望します)。

なんだか世間には、もう誰がなったってどうせ変わらないだろうというあきらめ感が溢れているし(菅首相が辞めさえすればよかったのか?)代表選への興味も無いのがふつうとの感覚になっているように感じるし、ぼく自身もそうだったんですが、ちょっと待てよと。

そもそもがおかしいですよね。だって、代表選はまだ決まってもいないし、ましてや、はじまってもいないんです。告示前にあれこれ揶揄したって、うわさ話にすぎないんだから。

候補者が正式に告示されて、そこからはじめて政策議論がはじまる。当たり前のことですよね。はじまる前から何をわかったようなつもりになっているのか。はじまる前から結論を求めてどうしたいのか。政局が動いているのは事実であり、さまざまな駆け引きが行われているのもわかります。でも。永田町になんのコネもない一市民にとって大事なのは、そんな駆け引きに思いを巡らせることよりも、けっきょく誰が立候補して、誰が選ばれるのかということ。もっと大事なのは、立候補した人がどのような主張をして、どのような政策を実現させるのかということ。その議論は、立候補者が正式に告示されてはじめて始まるものです。

だとすると、なにがおかしいって日程です。告示から投票までわずか2日ですよ。たったの2日で一国の首相を決めようというんです。一国の首相を決めるのに、そもそも政策議論なんかする必要がないと言ってるようなものです。投票する人はいったいどういう基準で選ぶんでしょうか。

アメリカだって1年かけてじっくりと大統領を選びます。たしかに今回の代表選で、ぼくらに投票権はありません。しかし、仮にあったとして、たったの2日で何を基準にして選べばいいでしょうか。アメリカで時間をかけて大統領を選ぶことの意味は、ただ単にじっくり選ぶというだけじゃありません。国民の代表が、国の将来を見据えて政策についていろいろな意見を交わして議論すること(そしてそれをメディアが伝えること)を通して、国民自身がそれらの問題について考えるようになり、議論、内省するようになることにこそ意味があります。民主主義はそうやって成長していくからです。たとえば、事故が起こらなければ、ぼくも含めて日本人の多くは原発のことなんて考えもしてこなかったですよね。それは(利権が絡んでいるために)政策論議がされてこなかったからであり、マスメディアが伝えてこなかったからです。政治と生活をつなげるのがマスメディアの役割であるはずなんだけど、日本のマスメディアは政治と観念をつなげちゃった。だから政治の世界で使われる言葉は生活実感を伴わないものになってしまったのではないかとぼくは思っています。

民主主義とは別の言いかたをすれば、「まず始める前に たっぷり考える、自由に考える、たくさん自分の思いを話す、話して気付く、人の考えを聞く、気付く、考える、話し合う」ってことだと思います。なにも難しいことじゃない、とっても当たり前のこと。そして話し合うことはある程度の時間がかかるものです。民主主義に「完成」などはありません。ただ議論と内省を繰り返して、その成熟度をあげていくしかない。政治家っていうのは国民の代表であるから、その国民の民主主義の成熟度を反映したものでしかないわけです。

だから、告示から投票までわずか2日という日程を組んだり、政策議論を報じないのは、民主主義を大事にしているとは言いがたい。もっと言えば、民主主義の成熟を望まない人たちと言えるでしょう。「社会成員の知性的・情緒的成熟を求めない」人たちです。たった2日で、ろくに政策論議もされないままに選ばれた首相は、別の言い方をすれば「いつでも辞めさせられる」首相だということ。それは誰にとって都合がいいことなのか。

いまだに公職選挙法でインターネットの活動を禁じているわけですから。選挙を管理している側の人たちがどういう種類の人たちとつながっていて、何をしたいのかは明らかだと思います。これはべつに陰謀論ではありません。「権力」というものは、構造的に「社会成員の知性的・情緒的成熟を求めない」ものだということです(参考:内田樹の研究室)。だからこそ、ほんとうはそれを前提にしてメディアが「社会成員の知性的・情緒的成熟」のために多角的な情報を担保するべきなんです。権力は社会成員の知性的・情緒的成熟を求めない、という前提のもとでマスメディアが多様な情報を提示してくれたならば、ぼくたちは、そういうものだ、と認識のもとで情報を見るようになります。考えるちからが生まれます。その中から、自分の生活と照らし合わせて自分なりのプライオリティ(優先順位)で、ものごとを判断していけばいい。それが、「まず始める前に たっぷり考える、自由に考える」ってことです。

はたして今回の選挙、27日の告示後から29日の投票までにどれだけの政策討論が候補者によって行われるかわかりません。たぶんほとんど行われないでしょう。ただ、今回、誰がどういうことを言っていたのかを覚えておいたほうがいいとは思います。そこから、自分自身のあたまで自分自身の生活を見つめて、自分自身のプライオリティを考えましょう。次の選挙の時のために。


追記:
というようなことを書きましたが、告示前夜に小沢一郎は海江田氏支持を表明。そうしないと勝てないと踏んだからなんでしょうが、なんだかなあ…な脱力感。もちろんたった2日の選挙戦は政策論争になるはずもなく政局ばかり。本番前に結果が決まっているのが議員投票による選挙なのでしょうか。

民主党代表選って、いまからが本番なんだよね。

民主党代表選って、いまからが本番なんだよね。 2011.08.26 Friday [政治・メディア] comments(0)
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こんどの代表選も早漏な感じ?

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民主党の代表選が来週にも行われるそうです。選ばれた人は第95代内閣総理大臣になります。震災復興、原発対応というウルトラC級の国難のまっただ中で首相が選ばれるということは、とんでもなく大事なことなんですが、関連報道はかる〜い感じだし、世論もぼくの心の中もびっくりするくらい冷え冷えとしているようです。首相を選ぶという大事な選挙に、ほとんどの国民は参加できないというこの仕組みはほんとうに民意を反映していると言えるのかどうかよくわかりませんが、たとえ投票権があったとしても、この国が変わるということにほとんど期待できない。多くの人がそう思っているでしょう。このように無力感を感じざるを得ない原因は、代表選における投票権がないということよりもむしろ、首相を簡単に辞めさせられるという近年の日本が作り上げたおかしな既成事実のほうに問題があるように思います。

ということを連想するきっかけになったのは、『選挙』『精神』『Peace』などの作品で知られる、映画作家の想田和弘さんのツイート。以下に引用します。

今回の民主党の代表選で誰が首相になっても、自分たちが選んだ代表だとは、大多数の一般市民には思えないと思うな。少なくとも僕には思えない。いや、制度上は紛れもなく我々が選んだことになるんだけどさ。でも、それってもはや屁理屈の域だよね。選んだのは断じて僕らじゃない。

そもそも菅直人がなぜ降ろされるのか、全然分からない。震災対応が酷かったことがいちおうの理由?確かに酷かったけど、それなら代表選の最大の争点は「震災・放射能汚染への対応」になるはずだ。しかしそういう議論は全く起こらない。不思議だ。

結局、民主党代表選でマスコミや世間が騒いでも、それは野球や競馬で誰が勝つのか騒ぐのと同じノリで騒いでいるだけなんだよね。中味は決して語られない。

僕らが総理に「選んだ」と言えるのは、結局、鳩山由紀夫。だから彼は石にかじり付いてでも4年間は総理をやるべきだったし、僕ら日本国民は多少のことには目をつぶってサポートすべきだった。それが選んだ側の責任。彼をしょーもない理由で降ろしたことで、僕らはドツボにはまった。

- 想田和弘Twitterより


まったく同感です。日本に住んでいて、自分たちの暮らしをつくっているはずの政治的なことについて知ろうとすればするほど、民主主義って何なのかワケがわからなくなります。で、個人的には、この混乱はマスメディアによって形成されている側面が大きいと思います。鳩山由紀夫を辞任に追い込んだのも(その前の麻生太郎も福田康夫も)マスメディアによる世論操作がつくった既成事実。その既成事実をあたかも自分の意見と勘違いした、(ぼくもそうでしたが)選んだ側の未熟さ。

そもそも政策というもの(マニフェスト)が選挙によって支持を得て、議席を得た政党はそれを遂行するわけですが、それらの政策による社会的効果が見られるまでには時間がかかります。だから衆議院の任期は4年間(参議院は6年)となっているわけであり、2009年9月の選挙で民主党に投票した人は、4年間は預けるつもりで政権交代したはずです。民主党の政策のすべてがすべて正しくて、すべてが自分にとって利益をもたらしてくれるなんて考える人はいないはずです。プライオリティの問題です。想田さんの言うように、とんでもない大馬鹿なことでも無い限りは、多少のことには目をつぶって大スジを支持するのが、あの時に選んだ側の責任です。ところが、いま日本の政治論壇(特にマスメディアが主導する言説)で行われていることは、まったくの逆です。大スジを語ること無しに、誰が勝つのかとか誰が悪いのかとか、属人的な話題ばかり。

子ども手当にしても、先日の3党合意をきっかけにツイッター上でも批判意見をよく目にしますが、そのほとんどは子ども手当のは理念や考え方はおろか、その制度概要さえもろくに話題にあがっていません。民主党がドジ踏んだのをいいことに、やり玉に挙げられた「子ども手当」(大スジ)についての議論は曖昧なままに「民主党」(属人的)への非難ばかり。ぜんぜん噛み合っていないし、子ども手当の効果がたった1年かそこらでわかったというようなことを言うのは、市場原理的な考え方からしかものごとを見ていないせいだと思います。

市場経済では、貨幣が仲介役になって等価交換の法則がはたらき即時的に効果がわかります。投資から回収までのスパンが短い。これに対して、政策というものは数年あるいは数十年のスパンで考えなければ効果というものは見えてこないものです。こと「教育」に関して言えば、貨幣が仲介役になる市場原理を通用させてはいけない。教育や育児の現場で動くのは商品ではなく、人間だから。人を育てるということがどのような意味を持つのか。このことは内田樹さんが懇切丁寧にブログに書いています(→教育基本条例について - 内田樹の研究室)。この意味がわからない人は、数年あるいは数十年というスパンでものごとを考えることに耐えられないのではないでしょうか。共同体の存続としての利益ではなく、自分が生きているうちの利益でしか量れない。

日本のとくにマスメディアにあがってくるような議論って、とにかく早漏なんですね。結果を急ぎすぎるし、だからわかりやすさばかりを求める。そんなに生き急いでどこに行くのかと思います。「いまTPPに参加しないと乗り遅れる」とか言う理由だけでTPP参加を推進する人たちってバカじゃないかと。原発に関する議論も、放射性廃棄物の処理という長期的な視点を無視して、目先の経済活動という視点が重視されてきたのがいまの原子力政策です。原発推進派と反対派の話が噛み合ないのは、この視点の差にあると思います。

マスメディアは、流行を利用して即時的、即物的、感情的なことばかりを強調します。自覚的にせよ、無自覚にせよ、ここにマスメディアの罪があります。マスメディアがジャーナリズムと切り離されて、市場原理の中でしか動けないことにこの国の不幸があるのではないかと思うからです。


先ほどリンクした内田樹さんのブログ記事に、とても重要な視座が書いてありました。

政治イデオロギーも市場も、どちらも社会成員の知性的・情緒的成熟を求めない。


これは別に、内田さんが言うように「政治や市場が本質的に邪悪であるとか有害であるとか言っているわけではない」のです。いいとか悪いとかの問題ではなく、構造的に本質的にそういうものだということです。権力側にしてみれば、民衆はバカであってくれたほうが都合いいわけで、そのようにふるまうことはまあ当たり前のことでしょう。ぼくたちの側が、そういうものだ、と認識していればいいのです。

いや政治家とはこうあるべきだ、という「正義」を求める声は、ルサンチマンのストレス解消程度にしかなりません。自民党と社会党という左右政党による55年体制は、そうやってたまに互いを牽制することで国民の溜飲を下げてお茶を濁しながら、官僚政治というこの国の政治の本筋をまったく変えないことに成功しました。政治家に正義を求めるのは夢見る少年少女の幻想にすぎません。

繰り返しますが、いいとか悪いとかの問題ではなく、構造的に本質的に権力とはそういうものだということです。ただひとつ注意しないといけないのは、この国における権力とは、政治家ではなく官僚であるということ(政官報複合体と言ったほうが妥当かも)。もうひとつ注意しないといけないのは、権力者というと金にモノを言わせて買収して贅の限りを尽くすというわかりやすい悪代官のようなものをイメージしがちですが、そうじゃない、いかに善良な人であっても或る立場に立ったときに権力というものは発生するということ。構造的にそうでしかあり得ないということ。だからその構造の中で利益配分ができるだけ公平になるようにクールに調整していくしかないということ。権力そのものを善悪の基準として考えると問題を取り違えてしまいます。民主党になっても官僚政治を払拭することはできませんでした。でも、だからこそ、失敗することで学んでいくしかない。何度も政権交代を繰り返していくことで民主主義の成熟度を上げていくしかない。それは誰かからぽんと与えられるものではなくて、自分で獲得していくしかないんです。政治家とは国民の代表であり写し鏡のようなもの。けっきょくは国民の意識レベルに見合った政治家しか持つことができないんですね。ただそれだけのこと。

ただそれだけのことなんですが、マスメディアはそのことを教えてくれません。いまだに政治家に正義を求めます。マスメディアは視聴者に自分のあたまで考えることを提起しません。すべての答えをぼくたちが持っているから、間違えないぼくたちが、わかりやすく解説してあげるよ、という態度です。国民の声を代弁しているフリをします。当然その結果として、脊髄反射的にわかりやすく、即時的、即物的、感情的なものばかりになります。権力は社会成員の知性的・情緒的成熟を求めない、ということをマスメディアが教えてくれたならば、ぼくたちは、そういうものだ、と認識のもとで情報を見るようになります。考えるちからが生まれます。マスメディアは、ぼくたちが自分のあたまで考えると都合が悪くなるんでしょうか。

ぼくはその原因は、この記事この記事で書いたように、マスメディア自身が既得権益になっているからだと思っていました。地デジのからくりや、クロスオーナーシップ禁止など自らに都合のわるいことは報道しないわけですから。各局が一律的に偏向報道を繰り返したり、意味不明な世論調査を繰り返すのは、自分たちの立場を守りたいがゆえだと。たしかにそれは大きな一因だと思います。ただ、これもまたわかりやすいマスメディア=悪者という図式ですべてを説明するのもしっくりこない気もします。

マスメディアが視聴者に自分のあたまで考えることを提起しないのは、マスメディア自身が自分のあたまで考えることのできないバカになってしまっているからだと思います。それはすなわち、テレビ局ではたらく人たちは市場原理の論理でしかものごとを量れないからなのだと思います。属人的にそういう人が集まっているというよりも、システムがそうなっているんじゃないでしょうか。内田さんの言葉に戻りますが、市場原理も社会成員の知性的・情緒的成熟を求めません。ましてやテレビ新聞には、自分たちは淘汰されないという思い上がりがあります。

こんどの代表選が冷え冷えとしていて盛り上がらないのは、争点が見えないからでもあります。もし仮に、いま報道されているような中身のない論点のもとで次の首相が選ばれるのだとしたら、またいつでも辞めさせることができる、便利な人選になることでしょう。誰にとって便利なのか。社会成員の知性的・情緒的成熟を求めない人たちです。バカみたいな話ですが、この国では本人の意思はどうあれマスメディアが報じたことが事実になります。各局が横並びで報道されたことに現実と世論が後追いする。そんなバカな、と思いますが実際にそうなんです。だからマスメディアは、すぐに結果のわかることしか報じない。それはわざとそうしているのかもしれないし、あるいは無意識の性なのかもしれませんが、いずれにしても霞ヶ関にしてみれば便利であることに違いありません。

社会成員の知性的・情緒的成熟を求めない日本人の議論は、早漏で生き急いでいるような印象を受けます。かと思えばいのちに関わるような問題、急いで欲しいところは急がない。プライオリティが支離滅裂なんですね。へんなの。プライオリティっていうのは自分の生活を基準にして各自が考えて各自が判断するしかありません。プライオリティの基準まで他人に頼ろうとするから、考えるちからが無くなっていきます。基準は自分の生活をもとにして自分でしか決められ得ない。ぼくはそう思うし、そういうことを教えるのが教育であるという考えが根づいているところで息子を育てたいと思います。そしてそれはぼくにとってプライオリティの高い問題です。

こんどの代表選も早漏な感じ?

こんどの代表選も早漏な感じ? 2011.08.22 Monday [政治・メディア] comments(0)
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「子ども手当」にかかわる3党合意について

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民主党マニフェストの目玉であり、同党の方向性の根幹をなす「子ども手当」が廃止になり、児童手当が復活する、という報道がなされています。ぼくは子育て支援の理念を放り投げて元の児童手当に戻るのかと思って憤慨しておりましたが、少し事情が違うようです。

いろいろと検討・思索したいことはありますが、まずは本日午前に行われた、子ども手当に関する民主党政調合同会議にて配布されたという資料を読んでみたいと思います。有田芳生氏のブログより、転載及び文字起こししました。


2011年8月5日


「子ども手当」にかかわる3党合意について

民主党政策調査会長
玄葉光一郎


 8月4日に自民党・公明党との間で「子どもに対する手当の制度のあり方について」合意を致しました。ここに至るまでの間、党内で真摯な議論が行われ、また皆様からご協力を頂いたことに深く感謝を申し上げます。合意について、若干の誤解も見受けられますので、そのポイントをご説明いたします。

理念は全く変わっていない
 「子ども1人ひとりの育ちを社会全体で応援する」という「子ども手当」の理念は全く変わっていません。具体的には「従来に比べて、子育て支援策を大幅に拡充すること」「すべての子どもの育ちを支援すること」ですが、今回の合意においても
●給付の対象は中学生までのすべての子どもとする
●子どものための現金給付の規模は、従来の児童手当(約1兆円)に比べて倍増(2.2〜2.3兆円)している
●個々の給付額で比べても、相当程度拡充する
●高所得者世帯であっても財政上、税制上の措置を講じる
など、理念に沿った合意となっています。

来年度以降は「恒久的な子ども手当」へ
 今回の合意は「子ども手当廃止・児童手当復活」という報道がありますが、これは全くの誤りです。まず、今年度については「子ども手当」が継続して給付されます(ただし、10月分より給付額は3党合意に基づき変更)。
 また、来年度以降は、これまでの単年度限りの制度から、恒久制度に移行します。この移行にあたって、
●法作成上は、恒久法である「児童手当法」の改正で対応しますが、
●手当額等の内容については3党合意による「H23年度子ども手当特別措置法」の規定を基とする
ことで合意しています。現在の「子ども手当」は、法律上「児童手当」の上に「子ども手当法」が乗る2階建ての構造となっています。恒久制度への移行に伴い根拠法を一本化するに当たり、法律としては恒久法である「児童手当」の改正で対応しつつ中身は「子ども手当」としていくこと、すなわち児童手当法を使って、新しい子ども手当をつくるイメージです。
 また手当の名称についても、口頭ではありますが「別途検討」とすることで合意しています。その意味では、恒久制度の名称を「子ども手当」とすることを、今後も求めてまいります。

「所得制限」世帯にも一定の給付
 恒久制度への移行にあたり、「所得制限」を設けることで合意をしていますが、これも自公政権時代の児童手当における「所得制限」とは異なり、基準値を超える世帯にも「必要な税制上(=税額控除)、財政上(=手当の給付)を措置」を講じることで合意をしています。すなわち、高所得世帯であっても給付(あるいは税額控除)が全く無いということではなく、すべての子どもの育ちを支援する観点から、一定の給付を行うこととしています。民主党が従来から主張してきた「控除から手当へ」に沿った形となっています。


 政権交代によって、「子ども手当」の創設、高校無償化をはじめとする子どもの育ち、子育て支援に関する政策に光があたり、大幅に拡充されたことは間違いありません。この理念、方向性は決して間違っておらず、出生率の上昇や経済的理由による高校中退者の大幅減といった成果を踏まえ、引き続き、民主党として更なる拡充に自信をもって取り組んでいくべきだと考えています。
 一方で、東日本大震災によって復興財源の確保が必要となること、さらには「ねじれ国会」という、民主党にとっては極めて厳しい状況の中で、このまま放置すれば、本年10月には「元の児童手当」に戻ってしまうという現実から目を背けるわけにはいきません。政権与党として、国民との契約であるマニフェストの実現に全力を挙げつつも、現実に即した判断をしてくことは当然だと考えています。また、子ども政策をこれ以上政争の具にしてはならないとの思いから、苦渋の決断を致しました。
 来年度以降の恒久制度については、今後、年末までに細部を詰め、法案を作成していく必要があります。より良い精度を作っていくため、皆様の一層のご協力をお願いいたします。
           
以上  





また、この会議の内容を受けて、福田衣里子さんがブログに子ども手当についての記事を掲載されていますのでそちらもリンクしておきます。

子ども手当について - 衆議院議員(長崎県第2区) 福田衣里子のブログ


「子ども手当廃止」というフレーズを自民党と公明党が利用したいということは確かでしょう。中身はどうあれ、そのフレーズさえあれば民主党への幻滅につながる。じぶんたちがやってきた児童手当を復活させるということで、自己正当化できる。とにかく子ども手当の看板を下ろさせることにやっきになっている様子が伺えます。自民党は「子どもを社会で育てる」のは間違いであると名言していますし。

では、民主党にこのまま期待していいのか。この文書の中にある「理念は全く変わっていない」というのが本当なのかどうか。マニフェストが反古にされたわけではないのか、今後に望みはあるのか。ぼくは頭がよくないのでまだよくわかりません。だから、制度の中身(変更点)をじっくり吟味して、考える必要があると思います。


追記:
こちらに一次ソースがありました。
「子ども手当」存続へ 合同会議開き3党合意の経緯を確認 - 民主党


「子ども手当」にかかわる3党合意について

「子ども手当」にかかわる3党合意について 2011.08.05 Friday [政治・メディア] comments(0)
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