『受けてみたフィンランドの教育』実川真由

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受験もない、塾もない。けれども学力世界一。

PISA調査で読解力1位、科学的リテラシーでも1位、数学的リテラシーで2位となり、注目を集めるフィンランドの教育(参考)。落ちこぼれをつくらないという教育方針も特徴的です(参考)。



本書は、2004年から約1年間フィンランドの高校に留学したという実川真由さんによる体験記。母親の実川元子さん(翻訳家/ライター)による解説も章ごとに挿入されています。AFSという制度を利用して留学に挑んだそうですが、なぜ英語圏じゃなくてフィンランド?なぜそんな無駄なことを?という周囲の空気がありながらも、親や先生を説得して実行に移した行動力はすばらしいですね。

フィンランドの高校は、日本の高校とだいぶイメージが違うみたいです。大学の雰囲気に近いのかな。日本では大学でも居眠りしている人が多いですけどね。

本書より
フットネン家の長男ユリウスは、私がフィンランドに来る前に、日本の進学校に一年間留学していたが、その進学校の生徒たちが、授業中居眠りをして、放課後塾に行き、居眠りしていた間に教わっていたことを勉強する様を目のあたりにして「これほど無意味なことはない」と思ったそうだ。
 (中略)
彼らの中には、学校は「学ぶ場所」という意識がしっかりはたらいている。そのため、彼らは学ぶ場所にわざわざふたつも足を運びたくないと思う。それが、フィンランド人の授業に対する真剣な姿勢にも現れている。彼らが授業中に居眠りをすることなど、絶対にないのはこのためだ。
 (中略)
日本の高校生はどうだろうか。私にとって、日本の学校というのは、もちろん勉強する場、学ぶ場でもあるが、それと同様に朝と放課後には部活動があったり、昼休みにも学校が企画したイベントがあったり、文化祭もあるし、運動会もある。学校生活が、そのまま自分の生活となっていた。そのせいか、「学校に拘束されている」という意識が強く、学校は朝からずっといなくてはいけない場所と思っていた。
フィンランドの高校生は、学校はただ単に「学ぶ場所」であり、そこに来る来ないという選択は、特に誰にも強制されていないようだった。


分かりやすいなあ。フィンランド人、お友だちになりたいです。

また、もうひとつの大きな違いは、フィンランドの学校には校則というものがないことだ。日本で通っていた女子校では、細かく校則が決められていた。髪は肩にかかってはいけない、肩にかかったらば結ぶように。マニキュアやピアスはだめ。学校帰りにマックなどのお店に寄り道してはいけない。うちの学校は校則が緩いほうと言われていたが、それでもいろいろときまりがあった。
ところが、フィンランドでは、校則というものがなかった。だからピアスをクチビルにいくつもつけていた子もいたし、突然、髪を赤く染めてきた子もいたりした。先生の前でたばこをとりだして一服しているという子もいた。先生もそれで注意をしたりはしない。
そういう子たちが、日本で言う「不良」というわけではなく、授業の時間になると集中し、先生の話をひと言も聞き漏らさないようにして聞いているのである。勉強ができるできないとは関係ない。自然体で、いろいろな格好をしているのだ。
日本の学校の校則について、説明をしようとしたことがあったが、一苦労だった。
「なんで、髪が肩にかかってはいけないの?」
そう切り返されて、立ち往生してしまった。そうだ、なんでだろう?



国民性というものもあると思います。

フィンランドに関する書籍などで何度か目にしたのですが、フィンランド人は初対面ではシャイな人が多いそうです。本書でも、もの珍しい留学生に対して誰も話しかけてくれず(履修の都合でクラスメイトに会うのが週1だったという理由もあったそうですが)、なかなか友だちが作れずに孤立感を感じ苦労したというエピソードが綴られています。だから友だちになるのに時間がかかるけれども、仲良くなるとストレートに物を言ってくるそうです。だらだらと他人とつるむことはなく、自分の予定を大事にして他人との距離をきちっと取るという個人主義が浸透しているのだとか。ただ、個人主義が進んでいるためか、他人とシェアするという感覚が希薄で、他国の人から見るとフィンランド人はケチに見えるという側面もあるそう(参考)。

本書を読んで感じたのは、フィンランド人は現実主義で物事を「合理的」に考える人が多いのだなということ。学校はただ単に「学ぶ場所」であるという共通認識もそうだし、校則が無いというのもそうだよなと。あるいは世界で初めて核廃棄物の処理施設の建設に着手するなど、民主主義が成熟している印象もありますが、それも物事の本質を合理的に捉えようとするマインドと符号するように思います。
これは、もともとの国民性もあるだろうし、本書で筆者が経験したような教育姿勢によるところも大きいと思います。すなわち、学校での授業のベースがどの科目でも「エッセイ」であり、自分の考えをまとめたり論理的に他人に説明するという訓練に重きを置いているという点。

本書より
フィンランドの学生はテスト前には、「勉強する」という単語を使わない。代わりに、「読む」という言葉を使う。
お母さんは息子に、「明日はテストでしょ。たくさん読みなさい」と言い、生徒同士では、「もうすぐテストだね、たくさん読んでる?」といった会話が、テスト前には飛び交うのである。
「読む」。実は、これがフィンランドの教育のキーワードであることに私は気付いた。
(中略)
フィンランドのテストはほとんどがエッセイ(作文)なのである。
英語、国語はもちろん、化学、生物、音楽までもエッセイ、つまり、自分の考えを文章にして書かせるのがフィンランドの高校の一般的なテスト形式である。
(中略)
フィンランドでは穴埋め問題がそもそもない。全て記述式なのである。


なんというか、「学力」というものの捉え方が日本とはまるで違うんですね。

本や資料から得た知識を、自分なりに解釈していくという訓練がフィンランドの学校が教えていることだ。つまり、知識は前提であって、それをどう自分が考えるかという点を先生は見る。私もずいぶん英語のエッセイを書かされたが、先生から返ってくるコメントを見ているうちに、求められているのが、自分なりの物の見方なのだということがよく分かった。
もうひとつ特徴的なのは、テストに時間制限がないことだ。先生が問題を配り、開始してからやりたければ夕方まで問題に取り組んでもいい。もっとも、そこまで熱心にやる生徒はいないそうだが。


ちなみにフィンランド人は暗算がまったく出来ないそうです。数学のテストには計算機を持ち込んでいいのだそうで。計算機という便利な物があるなら、わざわざ暗算しなくたってそれを使えば良いじゃん。っていう考えなんでしょうね。それが良いか悪いかは置いておくとして、徹底して合理的なんですね、ものの考え方が。

買い物のときも、レジではじめて合計金額を知る人がほとんど。どういうわけか、お釣りを少なくするためにレジで端数のお金を出すこともしない(筆者が日本式にやろうとしたらホストファミリーに止められた)そうで、1セントコインが貯まる一方だったとか。この「1セントコインの謎」も、フィンランド人の気質が表れているようでおもしろかった。


他にも、英語や国語など現役の高校生がフィンランドの学校で実際にどのような授業を受けてきたのかが、とても興味深く書かれています。帰国するときには別人のように英語が上手くなったという筆者は、英語というものに対してある「癖」を身につけるようになってから、世界が開けたと言います。このエピソードはとても興味深いですので、ぜひ本書を読んでみてください。

フィンランドの教育は世界的にも注目を集めていますし、識者による研究もなされているようです。そういった書籍もたくさんあります。それはそれで大事な視点であるとは思いますが、本書のいちばんの魅力は、実際に留学を経験してきた高校生が、背伸びをせずに自分のことばで綴っているところにあると思います。名のある教育者が教育大国に「視察」に行ってきた報告書みたいな教育論じゃなくて、身の丈で書いてるところがほんとうにいい。

これって、彼女がフィンランドで経験してきた「エッセイ」の力、つまり、自分の考えを文章にして書くという訓練の成果が見事にそのまま表れているということなんですね。彼女が自分のことばで、自分が感じたことを身の丈で書いてるからこそ、伝わってくる。とてもいい本を読ませていただきました。


「そうだ、なんでだろう?」ここから学びが始まるんですよね。

ぼくなんかは、この年にして、そんな発見の日々です。とくに子供ができてからは。

その疑問点から出発して、自分のあたまで考えることができるように、環境を準備して、見守ることが、教育者というか大人の役割なのだろうなと思います。金を出しても口出すな。往々にして逆になりがちですけどね。

『受けてみたフィンランドの教育』実川真由

『受けてみたフィンランドの教育』実川真由 2013.03.26 Tuesday [読書] comments(13)
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待機児童の問題について その2

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政治のニュースで政治家や有識者の言葉を聞いていると、きれいでご立派なフレーズだけが上滑りしていて、虚しくなります。「クールジャパン」だの「粋」だの「グローバルな人材」だの「強い国」だの、訳わかってない人が有り難がる言葉ばかりです。

昨日、待機児童問題について書きましたが、夜のニュースで下記のような内容を目にしました。これまたなんというか、びっくりしたというか、げんなりしたというか。


規制改革会議 待機児童ゼロへ基準緩和を - NHKニュース


同記事より
政府の規制改革会議は、全国に2万4000人余りいる、いわゆる待機児童について、保育所の設置基準を緩和するなどして、今後2年以内にゼロにすることを目指すべきだとする提言の素案をまとめました。


え? 2年で解消できるの? ほんとにそう考えているとしたら驚きです。
無理に決まってるし、無理を通そうとするならどこかで無理をしなければならず、歪みが生じる。その歪みのしわ寄せは現場の子供たちにふりかかってきます。

無理を通そうとするから、こんな発想しか出て来ない。

同記事より
待機児童が特に多い都市部では、緊急措置として、保育所の設置基準を特例的に緩和することや、株式会社やNPO法人の認可保育所への参入を積極的に促すことなどを挙げています。


こういうビジネス的な発想しか出て来ないということ自体が、もう国として貧弱だと思います。それより保育士の待遇を改善するほうが先でしょうに。それこそ人材育成だろうに。
そんな有長なことをしていたら、待った無しの待機児童問題を2年で解消できないだろうが。という声の方が、この会議の中では強いのでしょう。待機児童を無くすためなら、保育所の設置基準を緩和することもやむを得ないと。

これじゃ本末転倒です。

前の記事に書きましたが、認可保育園の基準というのは、子供たちの健やかな成長のために国が設けた最低限の基準です。安易に引き下げていいものではない。大げさな話じゃなく、これは子供の命に関わる数字です。

待機児童の問題は、効率化とか民営化という手段が確立すれば魔法のように解決できる問題のわけがないです。お金や人手など、国がそれだけのリソースを投じない限りは保育なんてできるはずない。時間もかかります。いままで放ったらかしておいて、2年で出来るわけがないんです。

ざるみたいに基準を緩和して数合わせした保育園に、自分の子供を預けたいと思う親がいるでしょうか。

ちゃさんのツイートより
だから〜、保育園つくってほしいけど、これ以上基準緩和されては困るのです。なんですぐ、緩和しようとするんだろ。こんな政策いらないです。「待機児童、規制改革会議「2年間でゼロに」」


少しでも安心して子供を預けたい。
それだけの話です。なんで分からないんだろう。

仮に待機児童がたった2年で解消できるんだとしたら、なんでいままで放っておいたんだよという話で。女性が止むに止まれず声を上げ出したら、さも簡単そうに出来ますよ、なんつって。じゃあ最初からやれよと。どんだけ女性にばかり負担かけるんだよと。マザコンかよと。

子供の送り迎えもしたことがないような、オムツも替えたことがないような、子供と社会の間で引き裂かれて自己煩悶したことがないようなオヤジどもにツルピカで立派な保育所なんか作って欲しくないです。


日本をよくしたい!世のために活動する!という気合いとか覚悟は分かったから、その前に先ず人の話を聞けよ。自分が聞きたい話だけを聞くんじゃなくて、先ずは人の話を聞けよ。と世の先生方に言いたい。…いや、違うな。世の先生方に言うならば、自分自身にも言わねばなりますまい。

とくに男性はその傾向が強いかと思うのですが、自分が見たいものだけを見て、自分が聞きたい話だけを聞く。信じたいものだけを信じて、信じたくないものは信じない。そのために理屈を付ける。分からないんじゃなくて、分かりたくないんです。そういう生き物なのです。自分はそういう生き物であるという自覚を持つことから、ようやく対話が始まるのではないかと。ぼく自身もそういうの苦手なんで、そう思います。


待機児童の問題について その2

待機児童の問題について その2 2013.03.22 Friday [子育て・教育] comments(0)
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待機児童の問題について

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根本的なところで勘違いをしているのではないかと。

首都圏各地で、待機児童問題の解決を求めて親たちが声を上げています。ニュースでも度々取りあげられ、待機児童問題がいよいよ大きく顕在化してきました。保育園、家庭、行政、それぞれの現場に携わっている方々の受けとめ方もさまざまだと思います。ぼくは、あくまでも子供を預ける側の父親の立場でしかないのですけれども、この問題ってどうもボタンの掛け違いというか、ニュースで識者のやり取りなんかを見ても、ちぐはぐ感が否めない気がするのです。

この方が記事で仰っていること、大事なことだと思います。

待機児童の理由は何か 駒崎弘樹さんに伝えたいこと - 宮本徹 いま言いたい

同記事より
認可保育園の基準というのは、 「あしき規制」といったたぐいのものではなく、こどもたちの健やかな成長のために国がもうけた最低限の基準です。都市の地価が高いことを理由に切り下げていいものでは決してありません。


ものすごく基本のところです。子供何人あたりに保育士が1人付くのか、子供一人当たりの面積はどれくらいか、という基準。大げさな話じゃなく、これは子供の命に関わる数字であるということは、一日独りで子供をみたことがある親御さんなら分かるかと思います。1人で1人をみるのですらこんなに大変なのに。

ちなみに0歳児は概ね3人に保育士1人、1〜2歳児は概ね6人に保育士1人、3歳児は概ね20人に保育士1人、4〜5歳時は概ね30人に保育士1人といいうのが、国が定めた保育士の配置基準です。ただし、この配置基準では十分な保育ができないのも現実で、多くの保育所ではこの配置基準の1.5〜2倍の保育士を配置していることも珍しくないそうです(参考)。「この配置基準では十分な保育ができないのも現実」って、それ基準になってるのかっていう話ですが。

1年ほど前に、大阪市が保育所面積基準を0〜5歳一律で緩和するというニュースがありました(過去記事)。ぼくはこのニュースを知った時に、「橋下市長が子育てしていないことがよくわかる」と真っ先に思いました。待機児童問題を解消するために、子供をもっと詰め込む。橋下市長が考えそうな「効率的」な理論です。机の上ではじき出された数字なら正解かもしれない。けれども、現場では大人には予測不能な動きをする子供たちがいます。あいつら大人しく大人の思惑通りになんかしているわけがないです。単なる数字ですが、子供の命に関わる数字でもあります。

駒崎弘樹さんは記事を「現場からは以上です。」と締めています。彼の言う「現場」が、保育の現場であることは間違いないでしょう。だけど、どちらかというと「保育経営」の視点に寄った意見だなあという感想を持ちました。もちろん経営者の側からの意見も必要です。だけど、それは子供を預ける親の立場からすればあまり関係ない。ぼくは駒崎さんの記事にはあまり共感できなかった(というか難しくてよく分からなかった)。認可保育所を、社会主義や「配給」となぞらえるあたりには大きな違和感が残ります。


待機児童の問題は、効率化とか民営化という手段が確立すれば魔法のように解決できる問題のわけがないです。お金や人手など、国がそれだけのリソースを投じない限りは保育なんてできるはずない。

待機児童の理由は何か 駒崎弘樹さんに伝えたいこと - 宮本徹 いま言いたいより
待機児童問題の一番の大本にあるのは、税金の使い方の優先順位を自治体や国が何におくのかという点です。認可保育園をつくる財源がないという自治体は、税金の優先順位を洗いなおしてほしいと思います。


待機児童問題に関しての、根本的な疑問があります。

お金が無い、保育士がいない、…なぜ子育てに対するリソースが「無い」ことを前提としたところから始まるのか。
宮本さんも記事中で指摘しているように、アベノミクスの名で採算のとれない高速道路建設等、不要不急の大型開発に莫大な税金が投入されようとしています。時間のある人は、実際にどのような事業にどれくらい予算が付いているか、日本の予算配分を比べてみて下さい。子供や教育への配分が驚くほど少ないことが分かります。諸外国と比較すると、子育て軽視のスタンスが数字として浮き彫りになっています。

「無い」わけじゃない。「出すつもりが無い」のです。

子ども子育て新システムがそうだったように、国は待機児童の問題を資本主義の理論で解決しようとしています。行政が保育になるべくタッチしないようにするということは、国は子育てにリソースを投じないよって意味でもあります。びっくりするけど、ほんとそう。そちらで勝手にやってくれと。3歳までは家庭で育てろというのが自民党の党是ですし、現状でも保育士の低待遇を見れば明らか。そもそも子育てに対するリソースの配分が低すぎるのです。

端的に言えば「子供にお金をかけたくない」というのが社会の要請であり、それは親の要請なのかもしれません。アンチエイジングに勤しむ大人たちは、自分探しや自分磨きに忙しく、またそれが魅力的な大人だとされています。それを全否定はしないけれども。

子ども子育て新システムがそうだったように、国は待機児童の問題を資本主義の理論で解決しようとしています。規制を緩和して民間企業を入れれば、競争原理によって保育市場はよくなると。これは資本主義の理論です。ビジネスの現場では有効な理論かもしれません。だけども、保育の現場は市場じゃないし。

規制を緩和して民間参入が進めば進むほど、現場にしわ寄せがくるに決まってます。保育企業(?)のブラック化。もちろん全ての民間企業がそうだというわけではありません。子供のことを第一に考えて努力する経営者もたくさんいることと思います。ビジネスだからダメと言うわけじゃない。けれども、そういった志を持った経営者は厳しい経営を迫られるでしょう。資本主義とは本質的に効率を優先するものです。経営のしわ寄せは必然的に現場に集まります。

ぼくは地方在住の一市民にすぎませんが、それでも生活実感として、市場が淘汰するということの帰結をいろいろと見てきました。大資本によってローカルな個人経営店が駆逐されていくという場面を多々目にするわけです。
どこに住んでいても全国同じようなものが同じような価格で買えるようになりました。バイパスを走るとどこに行っても同じような、なんとかモールとかタウンが立ち並んでいます。そのほとんどは、消費者がより安い価格を求め、企業側がそれに応えていった帰結です。大量生産のできる大資本企業に地元の商店街が価格で太刀打ちできるはずがありません。これは結果として囲い込みになっています。一円でも安いものを求めていく消費者。企業としては人件費を抑えるために労働環境は劣悪になっていきます。金が回らない経済の循環は、巡り巡って自分の首を締めることになっています。多様なサービスを選べるはずが、実際には安いものしか買えない。多様なサービスを選べるはずが、実質的には選択肢がなくなっていく。そういうことが身の回りにたくさんあります。

「供給量を増やせば、質の悪い保育園は選ばれなくなる」というのは、一般論で言えば、なるほどもっともです。それが市場原理なのだから。だけども、市場原理の導入と浸透によって現実がどうなっているかを目の当たりにしてきた現在、保育の場合だけは民間参入によって多様なサービスが保たれ、さらに保育の質が向上するというイメージを抱くことができません。それちょっとお花畑的な幻想じゃないかと思っちゃいます。

民間企業が「悪」だなんて思っていません。かといって、ボランティアでやるわけでもありません。社会貢献という名目があったにせよ、企業の本質は利益を出すことであるし、それが悪いだなんてぜんぜん思わない。ただ、やるべき場所と、そうでない場所があるんじゃないかと。子どもの命を預かる場であり、また子どもの教育の場でもある「保育」の現場には、そぐわないのではないかと思っているのです。

その辺りの話は、子ども子育て新システムをめぐる考察の中で書きましたのでご参照下さい(長いです)。
(過去記事)子ども子育て新システムから感じること

いちばん問題なのは、保育現場へのしわ寄せは子供へのしわ寄せであるということです。資本主義自体が悪いわけじゃなくて、資本主義とはそういうものであり、子育てとビジネスは本来的にそぐわないという話です。くり返しますが、お金や人手など、国がそれだけのリソースを投じない限りは保育なんてできるわけがない。保育という行為は「儲ける」ビジネスではないからです。


安心して子供を預けたい。

ただそれだけのことです。既得権ではありません。


待機児童の問題について

待機児童の問題について 2013.03.21 Thursday [子育て・教育] comments(0)
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資本主義と民主主義のせめぎ合い(TPP・原発・教育)

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ニューヨーク在住の映画作家、想田和弘氏がTPPについて精力的にツイートしています。ぼくもぼんやりと感じていたことと同期する内容で、その分析も鋭くスイングしているので、思わずかぶりついてしまいます。とくに、TPPをめぐる攻防は、「資本主義」と「民主主義」のせめぎ合いであるという指摘には深く頷き、膝を打ってしまいました。

TPPと資本主義と民主主義 - 観察映画の周辺 Blog by Kazuhiro Sodaより
各国の国民に交渉内容を極秘にしながら交渉が進められている国際協定であるTPPは、その交渉の仕方そのものが、国民主権に反している。

つまりTPPとは、企業が国民に優越する「企業主権」なのだ。TPPの草案に、企業の代表である顧問600名はアクセスできても、国民の代表であるアメリカの議員が閲覧できないのは、まさに「企業主権」そのもの。

国民主権が無力化された「企業主権」の世の中では、「国民」は解体されて「消費者」や「労働力」になる。実際、そういう変化はもう起きている。現在進行形の変化である。

東西の冷戦構造の中で、西側では民主主義と資本主義を混同する言説がまかり通っていたが、そのすり込みは今頃になってボディブローのように効いている。みんなが混同している間に、だましだまし、資本主義が民主主義を飲み込みつつある。

つまり、いま起きていることは、こうだ。

共産主義と言う強大な敵がいた時代には、資本主義は民主主義を味方にして手を組んだ。しかし共産主義が弱体化し敵でなくなったいま、資本主義は儲けるために民主主義が邪魔になりつつある。だから今度は民主主義を弱体化しようとしている。

「資本主義」の対立軸には、いままで「共産主義」や「社会主義」を想定してきたが、現代においては、それが対立するのは「民主主義」なのである。


TPPの対立軸とは「アメリカ」対「日本」ではなく、「グローバル企業の利益によって潤う1%の富裕層」対「99%の庶民」であると、この記事に書きました。「企業」対「庶民」ということは、言い換えると想田氏の言うように「資本主義」対「民主主義」ということです。

資本主義だの民主主義だの難しいこと言いやがって、資本主義が民主主義を飲み込むとかワケ分かんねえよ。と思ったとしても慌てないでください。親切なことに想田氏が具体的事例を挙げてくれています。ブラック企業の問題など、日本の現状を見回せば頷ける話だと思いませんか。

TPPと資本主義と民主主義 - 観察映画の周辺 Blog by Kazuhiro Sodaより
民主主義が、資本主義をどのように邪魔するのか。たとえば、公的保険を作ってすべての人に健康保険を享受できる権利を与えようというのは、個人の生存権を重んじる民主主義の発想だが、健康保険に参入して儲けたい保険業界という資本主義勢力には邪魔でしかない。

あるいは、環境基準。資本主義は、本音では環境なんておかまい無しに工場を安く作って汚染水垂れ流しでバンバン生産したいだろうが、民主主義では個人の生存権を重視するので、環境基準を設けて企業の活動に一定の制限を課して縛る。邪魔だ。

あるいは、労働基準。資本主義勢力にとっては、労働力なんて安ければ安いほど良い。しかし、例えば時給50円だったら労働者の人権、生存権など守れない。だから民主主義では労働法を作り企業の活動を制限し、個人の人権を守ろうとする。これも資本主義にとっては、すんごく邪魔。


原理主義的な人々はいまだに冷戦時代の対立軸を大切にしているみたいで、ネット右翼なんかは、ちょっとリベラルなことを言うとすぐに「サヨク」だのいうレッテルを貼りたがります。彼らからしてみれば想田氏も「サヨク」になるらしい。行き過ぎた資本主義思想に批判的な言説を唱えると、じゃあ共産主義がいいのか、となるのは極論すぎます。「共産主義」や「社会主義」なんてものは、もはや実行力を持っていないわけで、そんなレッテルはもう有効ではない。
たとえば福祉国家として知られる北欧諸国は「共産主義」や「社会主義」なのかというと、誰もそんなことは言わない。社民主義という認識さえも古い捉え方なのかもしれない。どの国も、左右軸を行ったり来たりしながら試行錯誤しているわけで。何十年も前につくられて錆び付いてしまった枠組みを後生大事にしている限り、窓から見える景色はずっと変わらない。その窓では世界を見渡せません。

アメリカにおける左右軸、つまり民主党と共和党という対立軸については、下記動画の町山智浩氏の解説がとても興味深いです。キリスト教的思想がバックボーンにあり、ざっくり言うと共和党=性善説、民主党=性悪説という価値観が、それぞれの経済政策に結びついていると。
博士も知らないニッポンのウラ 第33回 ブッシュ後のアメリカ 第2部

神の見えざる手がはたらくと信じている共和党は基本的に放任主義。自由経済市場。それに対して民主党は、政府による介入によって市場をコントロールするという価値観。これはよく分かります。この経済政策に対するスタンスは、アメリカに限らず世界的な左右軸として存在しています。

だけども、オバマが大統領になってアメリカの経済政策は変わったのか。大統領になる前のオバマは「500万人の失業者をもたらしたNAFTAのような自由貿易協定では雇用を守れない」として保護貿易寄りのスタンスを強調していました。その彼がいまTPPに対しては、どのようにふるまっているのか。アメリカと日本を行き来するジャーナリスト堤未果さんが、その疑問に答えてくれました。

堤未果さんのツイートより
確かに上院議員時代と選挙キャンペーン期間はNAFTA批判の急先鋒でしたが、大統領に就任して最初の仕事はウォール街救済(TARP)、その後は公約を次々に翻しています。TPPは一般教書演説でもわかるように強力に推進の立場ですね。@singstyro #TPP


経済思想の違いによって、民主党と共和党という二大政党制が存在しているはずのアメリカですが、民主党の、それもリベラルを体現しているかのように見えるオバマが大統領になっても、新自由主義の流れは止まらない。財界からの圧力があるのか、オバマの真意は分かりかねますけれども、結果として現在はTPPを推進する立場であると。

保護貿易を唱える立場であるはずの民主党が、自由貿易へと向かっている。これは、日本の民主党もまったくそうで、鳩山政権から菅政権への橋渡しで、民主党の経済思想は左から右に変節した。政党政治の意義が崩壊した。オバマが公約を次々に翻しているという事実は、アメリカにおいても左右の対立軸そのものが機能しなくなっているという現象だと思います。なぜ機能しなくなっているのか。実際に政治を動かしているのが、有権者でも政治家でもないからです。すなわち「企業主権」。

「500万人の失業者をもたらしたNAFTAのような自由貿易協定では雇用を守れない」と言ったオバマが、民衆の意に反してTPPを推進するのは、民主主義よりも資本主義が上位であるという政治の優先度があるからです。
TPPに関する日本の議論が頓珍漢になってしまうのもそこに原因があります。TPP慎重派は民主主義の話をしているのに、TPP推進派は資本主義の土俵で議論を進めようとするから話が噛み合わない。

議論の噛み合なさという点では、原発についても同じことが言えます。

日本国内で脱原発の機運が高まった時に「脱原発に右も左もない」というような台詞をよく耳にしました。原発問題に左右の対立軸は適用しない。原発問題とは、もともと軍事問題からスタートしたものだそうです。小沢健二の『うさぎ!第24話(原発について)』という文章に、その経緯がとても分かりやすく書かれています。

うさぎ!第24話(原発について)より
原発問題とは軍事問題である。「利権優先のビジネス界が原発を生んだ」とか「科学の暴走が原発を作った。ヒトとは悲しいものだ」とかいう、変な幻想を持っていたら、捨てた方が良い。


もともと軍事問題なのにエネルギー問題にされたという出発点からして、ロジックそのものがおかしいのです。おかしいロジックの土俵上でああでもないこうでもないと。

原発が存続しなければならないのは「経済的理由」で、それに反対するならば「対案」を出せ、という現象はまさに、民主主義よりも資本主義が上位であるという思い込みの現われです。「経済的理由」が焦点になるかぎり、人々は資本的ロジックで勝手に分断してくれるので、資本側にとっては都合がいいと言えます。

原発の問題点は、核廃棄物の処理方法が決まっていない、ひとたび事故が起きれば健康で文化的な生活を奪われてしまうような怖ろしい危険性、そして多くの人が望んでいないという「民主主義」的な理由にあるわけです。けれども、じゃあ経済はどうする、対案を出せ、という「資本主義」的な理由で存続してしまう。

っていうか、核廃棄物の処理まで考えれば、経済的にだって採算取れるわけないのにね。そもそもアイゼンハワーが原発政策を始めようとしていた40〜50年代には、原発は経済的にも採算がとれないと科学界もビジネス界も意見が一致していたそうです。「原子力の平和利用」というキャンペーンが始まっても、一貫して原子力政策にそっぽを向いていたビジネス界が参入するようになったのはなぜか。それについては、前述の小沢健二の文章をお読みください。

いずれにしても、原子力産業というものが意図的に作り出されることによって、そこに利権が生まれ、そこに従事する人が生まれ、それなしでは生活できない人が生まれる。現在の原子力政策が、「経済」を隠れ蓑にした「企業主権」によって成り立っていることは、東京電力に対する政府のふるまいを見ても明らかです。選挙という民主的な手続きを経て、民衆によって選ばれた政治家が政治を動かす、のではない。そんな手続きをすっとばして財界が政治を決めているのだという現実。それが、原発事故があぶり出した日本の姿であるとぼくは思っています。

なぜそうなってしまうのか。想田氏はこう続けています。

TPPと資本主義と民主主義 <その2> - 観察映画の周辺 Blog by Kazuhiro Sodaより
すでに資本による権力の乗っ取りは進行している。

でもいま進行中の状況は、資本主義が強権を発動して民主主義をねじ伏せようとしているわけではない。そういう局面もたまにあるけど、基本は違う。むしろ人々は進んで民主主義を捨てようとしている。

ここのところを勘違いすると理解が浅くなる。民主主義を浸食している力は、民主主義の外部にあるのではない。民主主義とは人々によって構成されているわけだが、その人々自身が、資本主義の価値観に染められ、民主主義を放棄しようとしている。

その点を理解することが肝心だ。


想田氏はこれを「資本主義的価値観が人々の骨の髄まで浸透している事実」と指摘しています。まったく同感です。

TPP交渉の問題点は、それが秘密裏に行われている点にあります。自民党は公約にある6項目をあっさりと反故にしようとしている。原発についても、「ほんとうの情報が開示されない」という政府に対する信頼の無さがデフォルトになるくらい、政治の対応はちぐはぐしている。政治というものが「民主的な手続き」で決定していくとはとても言えないような状況です。

それと同時に、「じゃあ経済はどうする」というロジックに嵌ってしまう罠。女性が脱原発の意見をもつだけで、「経済をどうするつもりか」と子ども扱いする男の人がいるそうです。おいおい、あんたが日本経済を背負ってるのかよと。それを市井の一般市民相手に詰問してどうするのかと。民主主義の話をしているのに、資本主義の土俵で議論を進めようとするから話が噛み合わないのです。

それと、たとえば教育の問題。日本の「教育」は、学びの場ではなく単なる競争の場となってしまったという指摘はよくなされます。穴埋め問題に象徴される暗記型のテストが勉強の基準となり、自分の頭で考えるということがおざなりになってしまったと。その通りだと思います。けれども、じゃあどうすればよいのか。安倍首相や橋下市長が唱えるような「教育改革」によって、子供たちの「考える力」、また「学ぶたのしさ」を取り戻せるとはぼくには思えません。彼らが言っている「教育」は、「規律」であり「しつけ」であり、それは大人にとって都合のいい人材を作ろうという姿勢の現れです。

彼らは、子供たち自身の「学び」について何も言及しません。そもそも「学ぶ」って何ですか、という自己煩悶がまったく無い。彼らは「教育」について語っているわけじゃないのです。それは橋下氏がよく使う「マネジメント」という言葉に象徴されています。自分の思う通りに、目に見える結果がすぐに欲しいという態度は、資本主義的な価値軸です。

そして「マネジメント」というビジネス語で「教育」を語る橋下氏の言葉に、多くの人が根本的違和感を感じていないということに、この国が抱える教育の根源的な問題があるのだと思います。どっちが良い悪いという話じゃなくて、教育とビジネスは元来そぐわないという話。そこを混同してしまっている。

民主主義よりも資本主義が上位であるというような優先度で、実際に行政が動いてしまう。それは、市井の人々の中にそのような価値観が刷り込まれているからです。まあ、ぼくなんかもそういう価値軸のまっただ中で育ってきた世代であって、「コスパ」というものの見方が染み付いている。それどころか、資本主義的な価値観を「道徳」なんかと混同しているふしもあります。ということについ最近気づいたばかりで。そういう視点で世の中を見渡してみるといろいろとおもしろい。


いつの時代も民主主義は弱者の立場からその権利を勝ち取ってきたわけで、瀕死になってもしぶとく生き延びると信じたいですけど…、先の選挙結果を思うと絶望的な気分になります。政治=景気という第一義的な投票原理が、資本に毒されていることの証ですしね。


資本主義と民主主義のせめぎ合い(TPP・原発・教育)

資本主義と民主主義のせめぎ合い(TPP・原発・教育) 2013.03.14 Thursday [妄想] comments(0)
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春の陽気にリップスライムを聴いた

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金曜の夜に降った雨で、駐車場の傍らに残っていた雪もだいぶ溶け、山形市にも春の気配がやってきた週末。日射しもやわらかく、とても気持ちのよい天気に誘われて、なんだか無性に聴きたくなったのがリップスライム。でも持ってなかったのでレンタル屋さんでベスト盤を借りてきました。

いまさらぼくなんかが紹介するまでもなく有名なバンドなんで、なにをいまさら、ですけれども。いやあ実は「楽園ベイべー」の頃にちょっと聴いていたくらいで、ほとんど追いかけていなかったんです。

いやあ、いいですね彼ら。


RIP SLYME
ワーナーミュージック・ジャパン
発売日:2005-08-31



なにがいいって、この「かる〜い」感じ。なんにも無い感じ。もちろん歌詞もあって、なんか言ってますが、ぜんぜん頭に入ってこない。「楽しさ」とか「気持ちよさ」だけを抽出したような潔さが、いいなあ。

この気持ち良さの裏には、音づくりへの職人的なこだわりもあるんだろうけど、聴く側にそんなことをぜんぜん意識させない。アーティスティックな香りがまったくしない。隣の兄ちゃんたちが集まってBBQとかなんかやってるって感じ。

褒めてます。

ミュージシャンに対してそんな褒め方があるかいという気もしますが、音楽にもいろいろあって。ぼくにとっての音楽って、生活の傍らにあるもので。その時々の気分に寄り添ってくれたり、乗算してくれたり。ああ、いまこういう感じの聴きたいなあと思う瞬間があって、それにハマる音楽を引っぱりだしてこれた時はすっごい気持ちいい(あまりシャッフルという聴き方はしません)。だから節操なく、いろいろな音楽が好きです。

北国のく寒長い冬がようやく終わり、あたたかな季節の息吹を感じるとき。これから色とりどりの春がやってくるというわくわく感。そんなときに、小難しい音楽を聴きたくないっす。日本のヒップホップにありがちな自己啓発的なリリックとか聴きたくないっす。頭あぽーんとさせて川原に出かけたりBBQとかしたくなるじゃないですか。

リップスラムの「かる〜い」感じ。なんにも無い感じ。これって、実はすごいことなんじゃないかと思ったり。押し付けがましくなく、さり気なく、傍らにいてくれる。そういうスタンスが、いいよなあと。本人たちは本人たちが好きなことをやってるだけっていう。


3月11日に、被災地に思いを馳せて感傷的な気分になるのは必然なんだけれども、それってあくまでも自分の中での感情だと思うんです。ぼくはやっぱりいまだに、絆ソングっていうのが好きになれなくて。もちろんそれで救われる人もいるということは分かる。だけど、そこに感情を込めるのはこちらの勝手であって。絆ソングのもとに、みんなが一緒に大同団結しましょうという教科書的な感じが、どうしても馴染めない。歌に感情を込めることは悪いことではないけれども、それに対する受けとめ方は人それぞれ。立場や環境によってまるで異なる。

勝手に感情を込めて同情されたり、分かったふうな口調で外野からあれこれ言われるのが、いちばん嫌だな。ぼくだったら。


だから、リップスライムの「なんにも無い感じ」っていうのは、自分と他者との関わりという関係性を前にしたときに、べつに優等生になる必要はないんだぜということを教えてくれる。リップスライム本人たちがそう思っているかは分からないけれども。彼らの音楽みたいな心地よさ、風通しの良さが、人間関係とか社会の中にあったらずいぶんラクだろうなと。つながる人はつながるし、つながらない人はつながらない。それでいいじゃんと。

そしてこれ、ベスト盤でありながらオリジナルアルバムのように聴けてしまうんです。彼らの「かるさ」は年を追っても変わっていない。このベスト盤の5年後にまた新たなベスト盤がリリースされているみたいですが、たぶんこれまた変わっていないんだろうなと思わせる。そう思わせるのが彼らの魅力なんだなと思いました。


春の陽気にリップスライムを聴いた

春の陽気にリップスライムを聴いた 2013.03.12 Tuesday [音楽・映像] comments(0)
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「歩くスピード」について Walking In The Rhythm / Fishmans + UA

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2013年3月11日。黙祷を捧げる日。

ちょうどその時間あたりに、ぼくはこの曲を聴いていた。
フィッシュマンズの名曲をUAが歌う。



歩くスピードを落として いくつかの願いを信じて
冷たいこの道の上を 歌うように歌うように歩きたい

WALKING IN THE RHYTHM
この胸のリズムを信じて
WALKING IN THE RHYTHM
歌うように歌うように歩きたい

(WALKING IN THE RHYTHM / Fishmans 歌詞より)


このライブパフォーマンスの素晴らしさだろうか、それともこの曲が持つ魅力だろうか、あるいは3.11という日付がそう意識させるのか。ぼくにはこの歌が、まるで祈りのように聴こえた。亡くなった人々への鎮魂歌というよりは、残された者としての勝手な願いという意味での祈りだけれども。

3.11を堺に、ぼくたちを取り巻く世界は変わった。正確に言うと、強制的に変わらざるを得なくなった人(その多くは望まざる生活を余儀なくされている)、それから自らの意思で変わった人、いま変わろうとしている人、そして変わらない人(変わりたくない人、無関心な人)とに分かれた。追悼の日には黙祷を捧げるけれども、それ以外は震災前とほとんど変わらないという人が多数派なのかもしれない。ぼくだって実際の生活はほとんど変わっていない。

「歩くスピードを落として」

震災後に残されたぼくらが直面しているのは、歩くスピードの問題。
復興は急ピッチで行われているようにも、ほとんど進んでいないようにも見える。復興予算が計上され、復興バブルとも言えるような建築ラッシュに沸く一方で、実際に被災地で生活をする人々が以前のような暮らしを取り戻したという話は聞かない。復興に向けて知恵をしぼり力を合わせて現地でがんばる人たちの姿。と同時に、いまも避難生活を続ける人々も数多くいる。復興と一口に言っても、同じ物差しでは測れない。政府が進める復興プランと、被災地の人々の願いとの間に、歩くスピードの差はないか。

原子力発電所が存続するのはそれが軍事目的だからかもしれない。けれども、そのためのタテマエとして語られるエネルギー問題。ぼくらが歩くスピードを落とすならば、原発は要らないかもしれない。

何かに追われるように、一分でも早く、一円でも安いものを追い求めてきた消費社会。そのニーズに応えて、店頭には画一的できれいな商品とマニュアルが陳列された。それらは、ほんとうに必要なモノだったんだろうか。歩くスピードを落としてみると、案外、足もとに小さくてきれいな花が咲いていたことに気付くかもしれない。石ころの裏に潜むダンゴムシの生態にじっと目を凝らすかもしれない。声なき声が聞こえるかもしれない。それらは実社会において「役に立つ」ことではないかもしれないけれども。

中田雄一さんのツイートより
120円の缶コーヒーを毎朝買う人は多くても、120円のお花を毎朝買う人は多くない。 それが、逆さになったら、きっと、おもしろい。


n0ri (Super Soul) ✅さんのツイートより
キューバに行った時、まぁみんなのんびり暮らしていて列車は平気で2日ぐらい遅れるしw でも誰も文句言わない。車だってクラシックカーのオンパレードで一度買ったら買い換えないんだな。動けばいいいでしょ?って当たり前の考え。 だからホームレスもいない、失業率もゼロ。医療もタダ。



Fishmans
ポリドール
発売日:1997-10-22



亡くなった方15880人。行方不明の方2694人。今も避難生活等をされている方約31万5000人。(2013年2月27日現在 警視庁発表)

福島第一原発からは現在も放射性物質が放出され続けている。それが、どれだけ実害を及ぼすものであるのかは 依然として分からない。ふるさとに帰れる人、帰れない人。自主避難を続ける人。それらを巡る意見の対立。それぞれの決断と、分断。いちど、歩くスピードを落として溝を埋めることはもはや不可能なのだろうか。

歌うように歩ける日は来るだろうか。


「歩くスピード」について Walking In The Rhythm / Fishmans + UA

「歩くスピード」について Walking In The Rhythm / Fishmans + UA 2013.03.11 Monday [音楽・映像] comments(0)
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小沢健二『うさぎ!』第24話(原発について)を読んで 言葉の使いかたについて

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伝わる言葉と伝わらない言葉

「マスゴミ」っていう言葉がありますよね。あの言葉が持つ独特の強さみたいなものが苦手なんです。だからぼく自身が使わないようにしているのはもちろん、その手の言葉が使われている界隈には、あまり近づかないようにしています。

言わんとしていることはよく分かるんです。マスコミの報道は偏向している。記者クラブの談合で作られる画一的ニュース。都合の悪いことは報じずに、どうでもいいことばかりを垂れ流している。テレビは自分の頭で考えることを止めさせる馬鹿製造機である。洗脳である。その通りだと思います。ぼくも日本のマスコミが度を超えて偏向していることには同意します。

けれども、「マスコミは本当のことを言わない」という物言いには微妙な距離感があって。本当のこと?「本当のこと」なんていうものは誰にも分からないわけで。公正中立という概念は幻想の中でしかあり得ない。報道とはそもそも偏向しているものだという認識も必要だと思うのです。

「マスコミは偏向しているものだ」という認識とは、たとえば産経が右寄りで朝日は左寄りという時代遅れで定型的な認識のことでは無いのです。フジは韓流ばかりを優遇する在日企業であるという思い込みでもない。「マスゴミ」という言葉には、そういったイデオロギーとは関係なくマスコミを激しく非難する意味合いが込められている。罵倒とも言える。その気持ちは分かるんですけれども。

左右のイデオロギーはもちろんのこと、報道される情報とは、カメラというフレームを通した時点で、その中に入ったものだけを切り取ってしまいます。つまりその外側にある大きな景色を切り捨ててしまう。編集作業とは、切り捨てる作業のことです。報道とは、必ず誰かの手を通した情報であり、意識するとしないとに関わらず、必ずその人の主観が入る。情報とはそもそも、そういうものでしか存在し得ない。

「マスコミは偏向しているものだ」という認識とは、報道とは必ず「編集」という作業を介するものであるという認識を持つことです。そのことを主題にした、森達也氏の『世界を信じるためのメソッド』や、想田和弘氏の『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』を読むと、メディア・リテラシーの基本が理解できます。マスコミが発する情報をそのまま信頼する人の割合が、先進国の中では日本が群を抜いて高いといいます。「マスコミは本当のことを言わない」という物言いは、「本当のこと」がどこかに存在するという前提であり、けっきょくはマスコミに依存する態度の裏返しに見えます。「そんなこと言うけど、じゃあどうすればいいのか」という類いの批判もそう。それは自分で考えることなのです。

情報とはそういうものだと認識した上で、自分はどういう立ち位置で、どう付き合っていくかというだけの話なんですね。当たらず障らずでほど良く距離感を保つのがいちばん賢いやり方なのでしょうが、なかなかそう上手くもいかない。関わらないようにするのもひとつの手だし、悪口や愚痴を言うのもまあいいでしょう。ただし、相手が間違っているからと相手を押さえ込んで、自分の意に沿うように変身させようと思うと、これは相当に大変です。マスコミに対して、偏向するな、公正中立に本当のことを言え、と要求するのは無理な話です。

「マスゴミ」という言葉には、そういった思考の過程を丸ごとすっとばしてしまうような強さがある。それがくり返し使用されていくことで、安易なレッテルと化してしまう。レッテルと化した言葉を使うことで、ものごとを「分かったつもり」になってしまう。伝わるものも伝わらなくなる。そういう危険性を孕んでいると思います。


小沢健二『うさぎ!』第24話(原発について)を読んで

季刊誌『子どもと昔話』にて連載されている小沢健二氏の寓話『うさぎ!』。2011年7月に発表された第24話は原発について書かれた作品であり、2012年の7月にネット公開されました。原子力発電という存在が、どのようにしてスタートして現在に至るのかについて、各種文献にあたって解説してあります。ぜひ多くの人に読んでもらいたい内容です。


うさぎ!第24話(原発について)ネット公開によせて 小沢健二


うさぎ!第24話より
「原発問題」は、エネルギー問題ではない。
そりゃあ、この世のどんな問題も、全て繋がっている。けれど、原子力発電がある理由は、エネルギー問題とは、第一には関係がない。
代替エネルギーとやらに興味を持つのは良いけれど、それと原子力発電の存在は、あまり関係ないことは、確認しておいた方がいい。


アイゼンハワー元大統領が提唱した「アトムス・フォー・ピース(核の平和利用)」という言葉がキーワードになっています。(ぜんぜん関係ないですが、最近同名のバンドがデビュー・アルバムをリリースし、フロントマンであるトム・ヨークがインタビューで原子力発電についての考えを語っています。音楽つながりということで。)

1940年代や50年代には、採算が合わないために実現可能ではないとされていた原子力発電。)榲のコストが高すぎるし、他の燃料であと15世紀は発電できるし、事故が起こったら「想像するだけでも身の毛のよだつことになる」という意見は、ビジネス界も科学界も一致していたそうです。アイゼンハワー大統領が「原子力の平和利用」を訴えても変わらなかった彼らの態度を変化させ、強固に閉ざされていた原発産業への扉を開く鍵となったい箸浪燭。それはぜひ小沢健二氏の原文を読んでみてください。あまりにバカらしい鍵ですが。

うさぎ!第24話より
そう。「利権優先のビジネス界が原発を生んだ」とか「科学の暴走が原発を作った。ヒトとは悲しいものだ」とかいう、変な幻想を持っていたら、捨てた方が良い。
灰色は、幻想を与える。
今どき、なまじっか考えて頭に浮かぶようなことは、だいたいは灰色が頭の中にねじこんだ、安っぽい幻想、安っぽい考えにすぎない。
悲しいけれど。


ともあれ、小沢健二氏は「原発問題ってのがあるとしたら、それは軍事問題のように思える」と言っています。彼のこの文章を読んでみて、ぼくもその通りだと思います。たいへん深く納得し、原発問題を考える上での指標をまたひとつ与えられたような気がしました。

そして、こういったことを、いわゆる反核団体や反原発活動家たちが言うのではなく、小沢健二が言うってところにたいへん感銘を受けます。あの『ラブリー』を歌ったオザケンが。自分の意見として。

小沢健二の文章といえば、官邸前デモが盛り上がった時に話題になった「金曜の東京」が記憶に新しいところ。ぼくはあの文章を読んで、彼が10年以上も前から、社会の中の「灰色」を見ていたということを知りました。(過去記事:「金曜の東京」から知る小沢健二

ぼくはと言えば、震災と原発事故を通してようやく、自分たちの暮らすよのなかが「灰色」で出来ていることを知った。ほんとうは「灰色」で出来ているのに、見えないように蓋をして知らないふりをしてきたことがたくさんあったのだということを知った。原発だけじゃない。震災があぶり出した、日本が抱える構造的な問題。「金曜の東京」という文章を読んだときに、ああ時代のほうが彼に追いついてきたということなんだなあと思ったのです。

渋谷系の「王子様」ともてはやされた頃のオザケンと、こうして社会的なメッセージを投げかける小沢健二は、一見すると、まるで別人であるかのように映るかもしれません。でも、ぼくはあまり違和感を感じない。反グローバリズムを根幹にしているとはいえ、彼の文章からは、そんなに極端な原理主義的な主張は感じない。彼はたぶん昔もいまも変わっていない。自分に正直なだけなのだろうと思います。

彼の文章からは、彼が活動家や思想家であるといった言論闘争的な匂いはまるで感じられません。子どもに聞かせるかのように、すごく丁寧にやさしく書かれています。誰かを論破するために社会のことを知るわけじゃない。ぼくたちは、自身の生活そのものを愛でるために、社会のことを考えるのです。そのために、生活そのものを犠牲にする必要はありません。誰かを貶める必要もない。


反核団体や反原発活動家たちの使う言葉は、ときに先鋭化します。原子力発電という存在そのものが批判されるべきであるにも関わらず、福島から非難せずに現地で生活するという選択をした人たちに対しても侮蔑の言葉が投げられるときもある。この手の煽り言葉や、レッテルと化した言葉を使う人って、啓蒙的なんです。押し付けがましい。真実を知ってしまった我々には、まだ知らない子羊たちにそれを伝える義務がある、みたいな正義感。あの「感じ」がどうも苦手で、「うわあ」と思ってひきますよね、ふつう。「マスゴミ」という言葉が持つ強さが、「俺たちは分かっている」という押し付けがましさにあるのと似ています。「反日」とか「売国奴」といった定型句と大差ない。よく文脈を読んでみれば、ぼくも原発には反対だし、言わんとしていることはわかることが多い。だからこそ、もったいないなあと。伝わるものも伝わらなくなる。

ネット公開によせての寄稿文(上記リンク)で、小沢健二も「そんなことはもう分かっている」という言い回しについて言及しています。たとえば、小沢健二の『うさぎ!』第24話を読んだ人から「そんなことはもう分かっている」という反響が来たとして、書いた側は「で、だから?」としか返しようがない。「分かっている」人に対して「俺はもう分かっている」ということを宣言するのはナンセンスですし、「分かっていない」人に対して「俺はもう分かっている」ということを宣言してそれが何になるんでしょうか。ほんとうに「分かっている」人は、わざわざそんなこと言いません。


かといって、シニカルに構えていれば事が済むかというと、ぜんぜんそんなことは無くて。マジョリティ(為政者側)はいつも現状維持を願います。世の中の民主主義を動かしてきたのはマイノリティ(庶民)の声だったはずです。マイノリティが声を上げない限りは、マジョリティは「聞こえないふり」をするに決まっている。そのどちら側にも属することなく、どちらに対しても冷めた視線を投げかけることが「冷静な態度」だとでも?自分が絶対的に公正中立だと?

くり返しますが、公正中立という概念はあり得ません。「原発とはそういうものだ」ということを認識した上で、自分がどのように社会と関わっていくのかという問題です。

待機児童の問題では、杉並区、足立区、大田区で母親らが区に対する異議申し立てを行いました(出典)。これは「ヒステリック」な行動でしょうか。薬害肝炎問題で矢面に立ち続けた福田えりこさんは「売名」行為だったのでしょうか。人って、自分が見たくないものは何かしら理由をつけて見ないようにしてしまうものです。

母親らの訴えを受けて、さっそく杉並区では定員が増員されるそうです。薬害肝炎問題は明るみに出ることによって薬害肝炎救済法が成立しました。震災後に、共産党やフリーのジャーナリストらがいなかったら、情報はいまよりも公開されておらず事故後の対応はもっと酷いものになっていたでしょう。

それぞれが、それぞれの立場から、それぞれ見える景色を、描けばいい。自分の言葉で、考えればいい。自分のリズムで、歌えばいい。それは自分だけの歌であり、他人がとやかく口出しするものではないのです。


小沢健二の『うさぎ!』第24話(原発について)を読んで、そういうことに思いを馳せながら。彼が残した、のほほんとした歌を聴く。


小沢健二
EMIミュージック・ジャパン
発売日:1996-10-16



これがまたいい。

ぼくたちは何のために社会のことを知ろうとするのかといえば、彼がこうして歌ったような、あの抱きしめたくなるような、ラブリーな毎日を、自分の生活の側にたぐり寄せたいからに他ならないのです。そうですよね。

小沢健二『うさぎ!』第24話(原発について)を読んで 言葉の使いかたについて

小沢健二『うさぎ!』第24話(原発について)を読んで 言葉の使いかたについて 2013.03.08 Friday [妄想] comments(0)
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対米追従とは、誰に対する追従?

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たぶん誤解している人も割と多いような気がするので、「対米追従」という言葉についてふと思ったことを。

日本の外交政策(あるいは内政さえも)というものが、自民党時代から「アメリカに忖度する」という価値軸で動いてきたことは、もう衆知の事実と言っていいですよね。ベストセラーとなっている孫崎享氏の『戦後史の正体』を読んでみるとそのことが頷ける逸話ばかりです。民主党による政権交代が果たした唯一の成果とは、そのことを明らかにした点にあります。慣れない政権運営による迷走ぶりのおかげで、逆説的にその事実を如実に物語った(当の民主党自身ですら、その総括ができていないという有り様ですけれども)。

年次改革要望書を廃止するなど、「対米自主」路線を打ち出した鳩山由起夫元首相が「最低でも県外」という言葉を守れずに辞任したことは、まさにその象徴であって。普天間をめぐる鳩山氏の態度がアメリカを怒らせたのだ、という見方はある程度当たっていると思います。けれども、アメリカが直接的に介入してきたのかどうかはちょっと分からないとも思う。普天間の移設に関しては、アメリカそのものが抵抗したというよりも「アメリカに忖度する」日本の人々が抵抗勢力となったと考えたほうが自然です。鳩山氏自身や米メディアは「普天間移設問題で、官僚からの激しい抵抗があった」と語っています(参考)。
アメリカに楯突いたことで鳩山氏が孤立し辞任に追い込まれていく様子を横で見ていた菅直人氏が「何をやっちゃいけないのかを学習した」ことは想像に難くありません。彼が首相になってからの民主党は「アメリカに忖度する」政党へと変貌してしまいました。そういえば、唐突にTPPへの交渉参加を持ち出したのも菅氏でしたね。「国民の生活が第一」という民主党の党是はこのとき捨て去られてしまったわけです。その後も子ども手当をはじめとするマニフェストは次々と後退、野田首相にいたっては財務省の傀儡と化しマニフェストにも無い消費税増税に政治生命をかけると言い出しました。

「国民の生活が第一」という政権交代時の姿とはまったくの別人になってしまったことが、民主党の最大の裏切りなのです。いつまで経ってもそのことが総括できない民主党にはもはや存在意義がありません。(だから生活の党は分離したわけであって、かつての民主党を受け継ぐのは生活の党であるにも関わらず、そのことは全く衆知されていないようで、先の衆院選での大敗という結果には愕然としてしまいます。)


というわけで、前置きが長くなりましたけれども、日本の外交問題とは「アメリカに忖度する」という態度に帰結されると、ぼくは考えています。大手マスコミはそんな説明をしてくれませんけれども、ツイッター等ではそれは当たり前の事実としてある程度の人に認識されているはずです。共産党もそうですね。

そうすると、「アメリカに媚び諂うのはおかしい」「対米自立だ」「独立だ」ってなるじゃないですか、ふつう。対米自立だ大事だというのは、それはその通りだと思うんですが、一方でなんか引っかかる違和感もあって。アメリカはけしからん、ってアメリカだってそんな単純じゃないだろうというか。

アメリカの大統領っていまオバマですよね。



オバマと安倍首相が会談をすることは、アメリカという国と日本という国が話し合うということを意味する。それはそうですよね。それと同時に、安倍首相が日本の多数派の意見を代表しているとは限らない。TPPに関する共同声明はけっきょくのところ曖昧で意味不明でした(参考:舟山やすえ議員による質疑書き起こし)。勝手に国の行く末が決められていくという感覚がものすごくあります。
そして、それはアメリカ側だってそうだろうと思うんです。一国の長が財界に支配されるという構図はたぶんどこの国でもそんなに変わらない。オバマは、TPPに関しての決定権を持っていないという話まであります(参考)。オバマがTPPについてよく分かっていない、あるいはそこまでいかなくともオバマにとって日本という存在がそれほど大きなプライオリティを占めていないであろうということは想像できます。先日の日米首脳会談では、野田氏のときですらあった共同会見も夕食会も無く、安倍首相は冷遇されていたといいますがタカ派の安倍氏とオバマは馬が合わないということなのかどうか。日本にかまっているほど暇じゃないってのが本音じゃないでしょうか。

もともと民主党選出のオバマは黒人初の大統領であり、マイノリティを体現する存在であるように感じます。それまでアメリカを支配してきたWASPの力が以前よりも弱くなっているということなのか、あるいは単に人口比率的に移民層がマジョリティを占めるようになったからなのか、分かりませんが、昨年末にオバマが再選を果たしたということは、アメリカの多数派は「リベラル」を選択したということ。
国民皆保険を訴え医療制度改革を果たそうとしているオバマは、(象徴的な意味での)マイノリティ側の人間であり、であるがゆえに多方面からの抵抗に遭っていることは想像に難くありません。そう考えると、オバマは国内の抵抗勢力から圧力を受けながらそこそこがんばっているのではないかと。雇用改善の兆しもあるそうで(参考)、すぐに辞めてしまった鳩山氏とは対照的です。国のしくみを変えようと思うならば、長いスパンで見ないといけない。


さて、日本はまた自民党政権に戻りました。十八番である「対米追従」路線を突っ走っています。それはもう衆知の事実であると考えます。

それでは「対米追従」とは、誰に対する追従なのでしょうか?
「アメリカに忖度する」って、いったい誰に「忖度」しているのでしょうか?
オバマ?そうかなあ。
アメリカを代表する者って誰なんでしょうか。民主党?共和党?悪徳ペンタゴン?軍産複合体?WASP?ヒスパニック?

日本の対外姿勢を批判する際に「対米従属」とか「対米追従」ってよく言います(ぼくもよく使います)が、これも安易な使い方を続けるうちに意味の無いレッテルと化してしまわないように注意したいのです。

「対米追従」=「対オバマ追従」ではないと、ぼくには思われます。敢えて言うならば「対アーミテージとかマイケル・グリーン追従」のことじゃないでしょうか。岩上安身さん主宰のIWJが「第3次アーミテージレポート」全文翻訳を掲載しており、日本の政官財各界がこのレポートに書かれた米国からのアジェンダを忠実に遂行しようとしていると指摘しています。安倍さんの対外姿勢って「知日派(知日派ってなんだよと思いますが)」マイケル・グリーンの言うままですし(参考)。

つまり日本が「忖度」しているのは、アメリカ大統領でもなく、アメリカ全体を代表する誰かでもなく、対日本担当のアメリカ人ってこと。その担当者にどのようなバックグラウンドがあり、アメリカの「どの部分」を代表しているかは、とても重要ですよね。ぼくみたいな一般人が裏を取ることは不可能なので眉に唾をつけつつ読むとしても、この記事などはたいへん興味深いです。

これも想像にすぎませんが、オバマは没落しつつある極東の一国にかまっているほど暇じゃないので、対日戦略に関してはアーミテージやマイケル・グリーンら「知日派」の面々に任せきりになっているのでは。その結果、ジャパン・ハンドラーたちが好き勝手しまくっているのでは。

孫崎享氏によれば、「ジャパンハンドラーという人々は必ずしも米国政治の主流の人々でない」「日本の重要性が相対的に後退し、産軍協同体のみが強い関心を持つ異例な中でこの人々が力を持っている」とのこと。「鳩山追い落としが進行した中、(アメリカ側で)擁護に回った人々もいた。これらの人々と連携を組めなかったのが残念であった」とも。
日米同盟、ジャパンハンドラー、アーミテージ 孫崎 享氏 - Togetter

「アメリカ」という括りで、あの国を一緒くたにしないほうがいいと思うんです。アメリカの政治=大統領というイメージがあまりに傑出しているため、そのようなイメージを抱いてしまいがちだけども。そうでないと、対立する相手と共闘する相手、自立する箇所と忖度する箇所を取り違えてしまう恐れがある。オバマがどこまで信頼できる人物なのか未だよく分からないけれども、悪い人には見えないんだよなあ。


蛇足になりますが、これと同じことが、対アジアについても言えるわけで。新大久保などで行われている嫌韓デモの何が問題かというと、あれは韓国に対する抗議活動というよりも単なるヘイトスピーチのまき散らしであり、その罵声が、長年日本で暮らしている焼肉屋のおばちゃんであったり日本で生まれ育った在日二世や三世に対して向けられているという点にあります。「朝鮮人」という括りで一緒くたにして、韓国政府に対する抗議と、市井の在日コリアンへの鬱憤晴らしをごっちゃにしている。そんなものはデモでも何でもなく、ただの差別です。

世界は国境によって分断しているわけではない。ぼくらの間に埋め難い溝をつくっているものは何なのか。前のエントリーにも通じることですが、安易な二項対立というレッテルに騙されずに、辛抱強く考えていく必要があると思います。ま、あくまでも極東の国から見た個人の妄想にすぎませんけれども。





追記(3/13)

大統領になる前のオバマは「500万人の失業者をもたらしたNAFTAのような自由貿易協定では雇用を守れない」として保護貿易寄りのスタンスを強調していました。その彼がいまTPPに対しては、どういう立ち位置であるのかはよく分かりません。現地ではどのようにふるまっているのか。アメリカと日本を行き来するジャーナリスト堤未果さんが、ぼくの疑問に答えてくれました。

堤未果さんのツイートより
確かに上院議員時代と選挙キャンペーン期間はNAFTA批判の急先鋒でしたが、大統領に就任して最初の仕事はウォール街救済(TARP)、その後は公約を次々に翻しています。TPPは一般教書演説でもわかるように強力に推進の立場ですね。@singstyro #TPP


うーむ。オバマがいい人であるという印象は変わりませんが、それと大統領としての仕事ぶりはまた別問題です。勝手な幻想を抱くのも、ちょっと置いておくことにします。


対米追従とは、誰に対する追従?

対米追従とは、誰に対する追従? 2013.03.06 Wednesday [政治・メディア] comments(0)
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アメリカ市民も知らない・反対するTPP(デモクラシー・ナウ「TPPは貿易協定の衣を着た企業による世界支配の道具」書き起こし)

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アメリカ国内でも極秘に進められているというTPP交渉。その内容に気づき始めた市民からも反対の狼煙が上がりつつあるようです。アメリカでも市民によるTPP反対のデモが起きているようで、たとえばこの動画によると、デモに参加する若者らは「労働者の低賃金化とアウトソーシング化が加速し、労働環境が悪化する」と訴えているそうです。日本の現状あるいは数年後の姿と重なります。『ルポ 貧困大国アメリカ』が伝えるアメリカの姿は、日本が向かう先の末路であり、TPPによってそれが加速するのではないかという懸念が拭えません。

TPPの危険性とは、それが秘密裏に進行していることにあります。TPPとはいったい“誰が”主導しているものなのか。このブログには何度も書いていることですが、TPPの主題とは「アメリカ」対「日本」ではなく、「グローバル企業の利益によって潤う1%の富裕層」対「99%の庶民」です。

前記事に、アメリカの市民団体がTPPへの危機感を伝えている動画を掲載しました。
元外交官の天木直人氏も、3月2日付のメルマガでこの動画を取りあげています。
米国市民団体がTPP秘密交渉を告発した驚愕の報道内容 (続)

この動画は2012年6月に、ニューヨークの独立放送局『Democracy Now!』が放送したものだそうです。現在ツイッターやフェイスブックなどで拡散しつつあるようで、ぼくが知ったのもその流れによるものです。ニューヨーク在住の映画作家である想田和弘氏もこの動画について言及しています。

想田和弘氏のツイートより
重要なので再掲。デモクラシー・ナウ「米国市民団体がTPP協定に警鐘を鳴らす」。この番組のアンカーであるエイミー・グッドマンは信頼できる素晴らしいジャーナリスト。実は以前、僕は彼女のドキュメンタリーを作ったことがあります。


えーと重要なので、書き起こしてみます。



以下、書き起こし(というか字幕の書き写し)。

アナウンサー:密室で進む米国と環太平洋諸国の貿易協定草案がリークされました。環太平洋経済連携協定(TPP)です。リーク草案によると、米国で営業する外国企業は、重要な規制について国際法廷に持ち込むことができます。その裁定は国内法に優先され、違反には罰則を課すこともできます。交渉担当はオバマ大統領が任命した米国通商代表のカーク氏です。しかしリークされた草案は、オバマ氏の選挙公約に反しています。2008年の選挙公約は「環境や食の安全や国民の健康が守れなかったり、外国の投資家を優先する貿易交渉はしない」。

エイミー・グッドマン:リークされたTPP草案には、著作権の保護を強化したり、医薬品コストを押し上げる規定もあります。通商代表部は出演を断り、声明を送ってきました。「TPPの投資関連の提案には公益保護のための正当で非差別的な政府規制を妨げるものはない。」
市民団体パブリック・シチズンのロリ・ウォラックさんです。
リーク文書は同団体のウェブサイトで公開されました。リーク草案でわかったTPPの正体とは?

ロリ・ウォラック:表向きは「貿易協定」ですが、実質は企業による世界統治です。加盟国には例外なく全ての規定が適用され、国内の法も規制も行政手続きもTPPに合わせなければなりません。全26章のうち貿易関連は2章のみ。他はみな企業に多大な特権を与え、各国政府の権限を奪うものです。私たちのサイトに掲載したTPP投資条項によれば、外国の投資家がTPP条項を盾に米国政府に民事訴訟を起こし、国内規制が原因で生じた損害の賠償を請求できるのです。米国の企業はみな同じ規制を守っているのに、これでは国庫の略奪です。

アナウンサー:極秘に進行するTPP交渉には議会も不満を申し立てています。約600人の企業顧問はTPP情報にアクセスできるのに、米国の議員はできないのですね?

ロリ:ええ。こんなひどい内容を、それもリークで知るとは驚きです。内容がひどいだけでなく、これは「1%」が私たちの生存権を奪うツールです。交渉は極秘で行われました。暴露されるまで2年半も水面下で交渉していた。600人の企業顧問には草案へのアクセス権を与えながら、上院貿易委員会のワイデン委員長はカヤの外です。TPPを監督する立場なのに、草案にアクセスできない。たまりかねた委員長が監督責任のある協定の内容を知る権利があるとする法案を提出したありさまです。ワイデン氏は情報委員ですよ。核関連の機密も知る立場なのに、貿易協定という名の「企業の権利章典」は見られない。じつに見事な「トロイの木馬」です。通りのいい看板の裏に、表に出せない内容を仕込む。製薬大手の特許権を拡大する条項も入手しました。医薬品価格を急騰させます。TPP情報の分析や行動への誘いが私たちのサイトにあります。TPPはいわばドラキュラです。陽に当てれば退治できる。米国や全ての交渉国で市民の反対運動が起きます。企業の権利の世界的な強制なんて私たちは許さない。民主主義と説明責任に反します。

エイミー:米国通商代表部から届いたコメントを読みます。「TPPの交渉経過には高い透明性を確保してきた。議員たちと協力し関係者を毎回の交渉に招き、説明会や個別交渉によって透明性と市民参加を高めてきた。」これについては?

ロリ:透明性といっても、市民には「映らない鏡」です。説明会で意見を言うことはできる。でも公益団体の意見はなにも草案には反映されていない。環境から消費者、労働者まで公益はなにひとつ反映されない。国民をまったく無視した過激なまでの強硬策です。金融制度の安定のため各国が施行する金融規制にすら米国は反対しています。そこには米国民の意見がない。
でも間に合います。歴史的な観点で見てみましょう。1990年代のFTAA(米州自由貿易協定)は、2年かけて34ヵ国が協議し、全草案が各国で公開されました。TPP交渉は3年目ですが一行たりとも公開しない。おまけに締結後4年間は非公開という密約もあった。秘密をさらに隠すのです。カーク通商代表に聞きました、なぜ公開しないのか。お世辞にも透明といえないWTOさえ草案を公開したのに、彼の答えは「FTAA交渉は公開したら暗礁に乗り上げた」それってどういう意味ですか?密室でこそこそやる理由は、国民や議会に知られるだけで危うくなるような内容だから? しっかり押さえてください。TPPの狙いは貿易ではなくセメントのような作用です。一度固まったらおしまい。全員が同意しないと変更できない。リーク草案が示唆するのは、司法の二重構造です。国民は国内法や司法を使って権利を護り要求を推し進めますが、企業は別だての司法制度を持ち、利益相反お構いなしのお抱え弁護士たちがいんちき国際法廷に加盟国の政府を引きずり出し、勝手に集めた3人の弁護士が政府に無制限の賠償を命じるのです。規制のおかげで生じた費用を弁済しろとか、不当な扱いを受けたとか言って。国内の企業には同じ規制が一律に適用されているというのに。NAFTAにも似たような制度があり、有害物質規制や都市計画法の補償として3億5千万ドルが企業に支払われた。こういう悪だくみは明るみに出せば阻止できます。

アナウンサー:交渉に関わっている8ヵ国の国名は?交渉方法の問題や参加国が急増する可能性は?

ロリ:リークが重要な意味をもつのは、これが最後の交渉になる恐れがあるからです。NAFTA以来、大企業は貿易協定を姑息に使って規制を押さえ込み、底辺への競争を煽りました。交渉のたびに規制が緩和され企業の権限は拡大した。今回がとどめです。いったん固まれば、門戸を開き広く参加国を募ります。企業の特権化を保証する世界的な協定になりかねません。為替と貿易制裁が強制手段です。TPPは強制力のある世界統治体制に発展する恐れがあります。世界的なオキュパイ運動に対する企業側の反撃です。旧来の悪弊が一層ひどくなる。さらに交渉のゆくえによっては、既存の国内法が改変され進歩的な良法が無くなるばかりか、新法の制定さえもできなくなる。
交渉国は米国、豪州、ブルネイ、シンガポール、ニュージーランド、チリ、ペルー、ベトナムでマレーシアも加わります。NAFTAと同じく企業の海外移転をうながす特権があり、新たな特権も付与されます。医薬品や種子の独占権が強化され、医薬品価格つり上げのため後発医薬品を阻止する案まである。オバマ政権が医療制度改革法案に入れた医薬品についても他国が使用する権利を奪おうと密談がされています。各国の金融規制も緩和させられ高リスク金融商品も禁止できない。米国政府が金融制度改革で規制強化を進めている時にです。TPPは地方財政にまで干渉します。全国で搾取労働の撤廃や生活賃金を求める運動が広がる中で、TPPは地域産業の優先を禁じます。地産地消や国産品愛好は許されないのです。環境や人権に配慮する商品も提訴されかねません。TPPは企業に凄まじい権力を与えます。密室だから過激になった。どの国の人々もこんなものは御免です。過激な条項を推進するのは米国政府です。だから陽の目にさらして分析することが重要です。何が起きているか人々に知ってほしい。

エイミー:ダラスで説明会が行われた際、カーク通商代表が演説しましたが、「イエスマン」が元市長になりすましニセの受賞式を行いました。

(受賞式の映像)司会者:ご参集ありがとうございます。テキサス企業協会からお知らせです。2012年パワーツール賞の受賞者は米国通商代表部です! 通商代表部のたゆまぬ努力に感謝します。とくに力を入れているTPP交渉は市民の意見にはおかまいなく企業利益を最大にするためです。

エイミー:次回のTPP交渉は7月4日の週末です。いかがですか?オバマ大統領はどう対処するのでしょう? サラ・パーカー邸で資金集めパーティをするようですが、金融業界の献金額はロムニー候補に約4千万ドル、オバマ陣営へは480万ドルでウォール街もオバマ離れしています。金融業界にはロムニー氏以上に良くしているつもりでしょうけど。

ロリ:オバマ大統領については2通り考えられます。1つはTPPが密室交渉だったので把握していなかったケース。だからリークが重要でした。国民や議会に警告した。大統領は通商代表部の監督が甘かった。クリントン時代にNAFTAを通過させた連中が好きにやった。もう1つは結局お金です。「1%」を喜ばせる協定なのです。「1%」の夢なのです。ありったけの金とロビイング力をつぎ込んで未来永劫に力を振るうのです。

エイミー:「パブリック・シチズン」のウォラックさんでした。


くり返しますが、TPPの対立軸は「アメリカ」対「日本」ではないということがよく分かります。アメリカ人の多くはTPPについて知らされていないし、庶民がその内容を知ったらとても賛成できるものではないと。TPP以前に、FTAなどの自由貿易そのものに対する不信感がアメリカ国内では強くなっているといいます。NAFTAをはじめとする自由貿易協定はアメリカの庶民にとって何一つプラスにならならず、69%のアメリカ人が「米国と他国のFTAは米国の雇用を犠牲にしている」と答えたそうです(出典)。

TPPのほんとうの対立軸は、「グローバル企業」対「庶民」なのです。輸出で経済がどうのこうの言っていると問題の本質を見誤ることになります。きっとそういうことだと思います。

企業が政府を訴えるという「企業による世界統治」の根拠となるのがISD条項です。自民党は衆院選時の公約で「国の主権を損なうようなISD条項は合意しない。」と言っていますので、そこは特に注目していく必要があります。だって、いくら「国民皆保険制度を守る」とか「食の安全安心の基準を守る」という努力目標を掲げたって、ひとたびISD条項が発動すれば政府ですら自国民を守れない仕組みだっていうんだから。ああ訴訟大国アメリカ。

そして実際にISD条項が発動された(参考)という米韓FTAの現状を知ることは、TPPを考える上で参考になると思われます。
韓米FTAについての報告 第45回TPPを慎重に考える会より 岩上安身氏 - Togetter
TPPを慎重に考える会 資料
韓米FTAに見る主権制約 - しんぶん赤旗
米国丸儲けの米韓FTAからなぜ日本は学ばないのか - 中野剛志

世界規模でいま何が起きているのか。インターネットはそれを想像するための情報の断片であり、編集権は自分にあります。ぼくは、ぼくなりの編集の結果として、(それを陰謀と呼ぶかどうかはともかくとして)世界がそのような対立軸の構図で動いているように見える。たとえばモンサント社は、特許侵害を盾に自国の農家だろうが他国の農家だろうが訴えます。それが遺伝子組み換え種子による彼らの世界戦略だからです(参考)。彼らに「国益」という概念はない。新自由主義が行き着いた先は、国境の無いグローバル世界であり、そこではグローバル企業の論理が何よりも大きな力を持つ。と同時にローカルな規模のものは駆逐されていく(地方都市に住んでいるとそれを実感することが多くあります)。そういう視点で追っていくと、Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ)という運動の意味も見えてきます。


TPPで儲かると目されているのは大企業、とりわけ、海外(人件費の安い途上国)の工場で部品や製品を作り、それを海外に輸出するグローバル企業(多国籍企業)です。グローバル企業にとって、国境という概念はあまり意味をなしません。経営者が日本人であるか、あるいはアメリカ人であるかという違いがあっても、営利を追求する彼らが、自国の富を循環する役割を担うとは限らない。というか、自国内だけでは思うように利潤が上げられなくなったからこそ、国境を無くそうとしているわけで。

TPPによって日本のグローバル企業が儲かったとしても、日本にお金を落としてくれるわけではありません。むしろ、その可能性は低いと思う。実際のところ大企業は、大幅なリストラで人件費を削減したり、下請け企業に単価の切り捨てを迫る一方で、莫大な内部留保を抱えています(参考:内部留保をめぐるいくつかの議論について)。

「儲かるところが儲かれば庶民にも金がまわってくる」というのは、TPPに限った話ではなく、安倍首相が提唱するアベノミクスの基本的な考え方です。それは自民党が長年やってきた、公共事業をはじめとする大企業優遇バラマキの手法でもあります。それによって、一億総中流という日本の隆盛がもたらされたのは事実です。しかし時代は変わりました。2013年の現代においては「儲かるところが儲かれば庶民にも金がまわってくる」という前提自体が、お花畑的な幻想、或いは庶民を欺く方便にすぎないとぼくは思います。


先日の日米首脳会談を経て、安倍首相はTPP交渉参加に前向きな態度を表明しました。しかし日米の共同声明によって、どこがどのように「聖域なき関税撤廃ではない」となったのかは不透明なままです(参考:舟山やすえ議員の質疑書き起こし)。はじめから結論ありきの茶番であった感は否めない。

天木氏によれば、アメリカの大手メディアはDemocracy Now!の映像を一切流さなかったばかりではなく、この映像は早々と削除されたらしいです。既政者にとって都合の悪い情報は大手マスコミでは報道されないという構造は、日本もアメリカも変わらないのですね。情報が統制されているということは、逆にいえば、TPPのほんとうの姿が市民に知れ渡ったならば、ロリ・ウォラック氏の言うように「米国や全ての交渉国で市民の反対運動が起きる」かもしれません。

アメリカ市民も知らない・反対するTPP(デモクラシー・ナウ「TPPは貿易協定の衣を着た企業による世界支配の道具」書き起こし)

アメリカ市民も知らない・反対するTPP(デモクラシー・ナウ「TPPは貿易協定の衣を着た企業による世界支配の道具」書き起こし) 2013.03.04 Monday [政治・メディア] comments(0)
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TPPの対立軸

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ニューヨーク在住の映画作家である想田和弘さんが、アメリカの医療保険制度の酷さをツイートしていました。堤未果さんの『ルポ貧困大国アメリカ』でも、格差が拡大化するアメリカの現状は伝えられていましたが、他国の国民がどのような環境に置かれどのような生活を送っているか(政府と庶民の関係)を知っておくことは、現代のようなグローバル時代において大事なことだと思います。

TPPに参加することで、日本の国民皆保険制度が崩れる可能性も否定できないという想田氏の指摘には、ぼくも同感だったので同氏のツイートをまとめました。

TPPによる国民皆保険制度崩壊の危険性 想田和弘氏 - Togetter

これらのツイートが注目されるとともに、想田氏のもとには「根拠のないことを言うな!米国陰謀論だ!」という反応もあったそうです(参考)。

WEB上のコメント欄に首を突っ込むような「政治的」な方々の間では、この手の反応はよくありますし、そのほとんどが“定型的”な批判です。実際にTPPが米国(を牛耳る悪の某)の陰謀なのかどうかはともかくとして、ここで想田さんが危惧している内容に対して陰謀論であるという批判は、批判として的をズレていると思います。とかくアメリカ対日本という構図で語られるTPPですが、ほんとうの対立軸はそうじゃないからです。そもそもTPPへのアプローチを始めたのは日本政府であるという指摘もあります(参考)。

アメリカ国内でも、TPPの認知度は決して高くありません。交渉は極秘に進められているというし、内容を把握しているのはひと握りの資産家だけで、政治家さえもよく分かっていない。約600人の企業顧問はTPP情報にアクセスできるのに、米国の議員はできないとか。“誰が”主導しているものなのか、そこが問題です。陰謀論云々じゃなくて。

詳しい出典はよく分かりませんが、アメリカの市民団体が、TPP草案のリークをもとにその不透明さと理不尽さに対する危機感を伝えている動画を見ました。想田氏をはじめ、日本で指摘されているTPPの危険性とまったく同じベクトルのことを、アメリカの市民団体が指摘しています。(※追記:ニューヨークの独立放送局Democracy Now! の映像だそうです。)



TPPの対立軸は「アメリカ」対「日本」ではない、ということがよく分かります。アメリカ人の多くはTPPについて知らされていないし、庶民がその内容を知ったらとても賛成できるものではないと。
TPPのほんとうの対立軸は、「グローバル企業の利益によって潤う1%の富裕層」対「99%の庶民」なのです。輸出で経済がどうのこうの言っていると問題の本質を見誤ることになります。きっとそうだと思います。

世界規模でいま何が起きているのか。インターネットはそれを想像するための情報の断片であり、編集権は自分にあります。ぼくは、ぼくなりの編集の結果として、世界がそのように見える。たとえばモンサント社は、特許侵害を盾に自国の農家だろうが他国の農家だろうが訴えます。それが遺伝子組み換え種子による彼らの世界戦略だからです(参考)。彼らに「国益」という概念はない。そういう視点で追っていくと、Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ)という運動の意味も見えてきます。


TPPで儲かると目されているのは大企業、とりわけ、海外(人件費の安い途上国)の工場で部品や製品を作り、それを海外に輸出するグローバル企業(多国籍企業)です。グローバル企業にとって、国境という概念はあまり意味をなしません。経営者が日本人であるか、あるいはアメリカ人であるかという違いがあっても、営利を追求する彼らが、自国の富を循環する役割を担うとは限らない。というか、自国内だけでは思うように利潤が上げられなくなったからこそ、国境を無くそうとしているわけで。

TPPによって日本のグローバル企業が儲かったとしても、日本にお金を落としてくれるわけではありません。むしろ、その可能性は低いと思う。実際のところ大企業は、大幅なリストラで人件費を削減したり、下請け企業に単価の切り捨てを迫る一方で、莫大な内部留保を抱えています(参考:内部留保をめぐるいくつかの議論について)。

「儲かるところが儲かれば庶民にも金がまわってくる」というのは、TPPに限った話ではなく、安倍首相が提唱するアベノミクスの基本的な考え方です。それは自民党が長年やってきた、公共事業をはじめとする大企業優遇バラマキの手法でもあります。それによって、一億総中流という日本の隆盛がもたらされたのは事実です。しかし時代は変わりました。2013年の現代においては「儲かるところが儲かれば庶民にも金がまわってくる」という前提自体が、お花畑的な幻想、或いは庶民を欺く方便にすぎないとぼくは思います。


TPPの対立軸

TPPの対立軸 2013.03.04 Monday [政治・メディア] comments(0)
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