「保育の質」とはなんだろね

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民主党政権が現在画策している「子ども子育て新システム」(過去記事「幼保一元化を含む子ども子育て新システムについて」参照)。この新システムをめぐり現在、内閣府とNPO法人や親御さんたちによる議論が行われています。この議論の中でよく出てくるキーワードが「保育の質」という問題です。しかしひとくちに「質」と言っても、その内容はさまざまであるはずです。みんながみんな同じ「質」を望むわけはないんだから、具体的な事例をもって議論がなされていくことが重要と思います。ただ単に、賛成か反対かの二元論に陥るのではなく、どこが問題点で、どのように改善していったらよいのか、具体的かつ建設的なシステムに発展していくことを期待しています。ヘタにマスメディアが取り上げることで、たとえば待機児童の解消とか幼保一体化というフレーズで、陳腐な二元論に矮小化されてしまうことがいちばん怖い。人によって様々な捉え方ができる言葉だから、自分の願う「保育の質」とはどのようなものなのか、考えたいとぼくはいま思っています。

「保育の質」ということばの指す意味を考える時に、ぼくは、子どもに関心のない人には発言してほしくありません。関心がないんだったら考える必要がない(いい悪いの問題じゃないです。ほんとうに必要がないと思う)。関心がないくせに「考えているフリ」をすることが(多くの場合、「考えているフリ」を助長するのがマスメディアですね)、保育に限らず、数多くの悲劇を生んでいるのだと思います。ふだん歌舞伎なんか見ないくせに酔っぱらいのケンカを糾弾する。相撲なんか関心ないくせに八百長を糾弾する。自分もやっていたくせに他人のカンニングを糾弾する…主語のない「正義」が集団ヒステリーを生みます。関心のない、主語のない「空気」が多数を占め、それが民主主義としての政策を決定する。そんなものは、ほんとうにくだらないと思う。

だからぼくが考えるのは、あくまでも親の立場としての思いです。現場の保育士としての立場、保育所を経営する立場など、いろいろな立場があるでしょう。その中で自分の意見が全てだとは思いません。だからこそ、現場や経営側のことまで考える必要はないと思います。ただ単に親としての自分の思い(自分の生活を主語にした思い)を確認することが大事だと思います。

昨夜、大宮勇雄さん(福島大学人間発達文化学類教授)の著書『保育の質を高める―21世紀の保育観・保育条件・専門性』を読み始めました。前書き部分の数ページを読んだだけで、この本は信頼できそうだと思いました。ぼくが親として望む「保育の質」とは何か、いまはまだうまく言語化できません。ただ、この本の冒頭に描写されたある現場での一場面、それに対する著者の視線に、ぼくはたいへん共感しました。

ある幼稚園。運動会が近づいて、五歳時が園庭でリレーをやっていた。すると一人の男児が、顔を真っ赤にして赤白帽子をたたきつけるように捨てて「もうやめた」とクラスに戻っていく。その子は足が速いが、彼のチームは何度やっても勝てなかったらしい。よほどくやしかったのであろう。

たかがリレーである。何ということもない、たわいのない遊びである。しかしそんなささいなことに、外聞もなく自分をさらけだしてくやしがれる時代はもう二度とこない。同じチームの仲間が懸命に走ったことは彼にもわかっている。だから、くやしさをどう表現していいのかわからない。自分をおさえきれないのだが、仲間に対しては自分をおさえようとしている。見ている側も切なくなる。しかしこういうことを繰り返しながら彼は、他者の気持ちと向き合い、自分の気持ちに気づいていくにちがいない。

こんなとき、保育者っていい仕事だなあと思う。子どもの息づかいや感情の揺れ動きがビンビンと感じ取れる近さで子どもと関わるとき、子どもも幸せだが、保育者も「子どもと生きる幸せ」を感じているのだろうと思う。

大宮勇雄『保育の質を高める―21世紀の保育観・保育条件・専門性』より


可愛い自分の子どもを他人に預けるということは、預ける側への信頼がなければ出来ないことじゃないでしょうか。現場で子どもたちと真摯に関わる保育士たちは、ほんとうに大変な仕事をしていると思います。そしておどろくほど純粋に子どもと向き合ってくれていると思います。そういった現場のプロに対しては、ぼくは敬意を払いたいです。そして、だからこそ安心して子どもを「任せ」られる。

これは保育の話に限ったことじゃないけど、実際に現場でたずさわる人の裁量に「任せる」ってことは大事だと思います。0から100まで全部自分でチェックしないと気が済まないのでは他人に何も頼めません。たとえば代議士による間接民主主義というのも、政治家にある程度「任せる」というゆとりが有権者に無ければ制度そのものが成り立ちません。そういったゆとりが無いから、大局が見えず、ひとつひとつの案件への揚げ足取りになり、個人への紛糾になり、けっきょく政治が停滞する。「任せる」とは「信頼」に他なりません。

子ども子育て新システムに於いて、いちばん危惧されているのは、保育現場の市場化です。市場経済の原理が導入され、利益の追求や作業効率が優先されるようになることで(市場経済ってそういう淘汰システムですから)、現場ではたらく保育士がよろこびを見失い、主語を失ってしまうことが、ぼくはいちばんおそろしいです。なぜ? 親が子どもを預けるのは、実際に現場にいる保育士さんだからです。子どもと触れあうのは現場にいる保育士さんだからです。

ふたたび『保育の質を高める』前書きより。

マニュアル化が徹底され、けがや小さな事故がある度に事故報告書を書くべきか、そんなことに精力を注ぎ込むようになったという院内保育所。本社からスーパーバイザーが毎月やってくるようになって、保育者自身が事故やトラブルを避けようとして、子どもの遊びを管理・制約することが多くなり、保育がつまらないものになってきたというベテラン保育者の話。民間の認可保育所の中では、能力給制度と職員評価制度をセットで導入する方向を打ち出すところが出てきていて、もの言えぬ職場になるのではないかという不安が広がっていると聞いた。

何が保育者から保育の喜びを奪い、子どもたちの育つ豊かな生活を奪っているのか。それが「構造改革」「規制改革」をとなえる経済効率優先の政治であり、そこから繰り出される保育政策であることは多くの人が知っている。

大宮勇雄『保育の質を高める―21世紀の保育観・保育条件・専門性』より


市場経済と保育は、まったく異質のものです。保育を市場経済の原理で語ろうとすること自体に、ぼくは違和感を覚えます。待機児童の解消が、いちばんの問題点であるかのように語られる議論には、最初から馴染めません。だって、待機児童の解消って、働きたい親の都合でしょう。あるいは、乳幼児を預けてでも働かなければ食べていけないような社会設計をした国の都合。それはそれで大事かもしれませんが、それは子どもじゃなくて、大人の都合のはなしです。

「保育の質」とはなにか。具体的な数値で指し示すのは難しいのかもしれません。ぼくが願うのは、ただただ子どもの笑顔です。少しぐらいケガしようが、痛い目にあおうが、子どもの「想像力」を大切にしてくれるような場面にたくさん触れさせてあげたいと思っています。

子ども子育て新システムが、保育現場を「構造改革」「規制改革」し、市場化していくものだとしたら、想像力などという曖昧なものは駆逐されてしまうでしょう。ぼくは大いに反対です。では具体的に、新システムでは何が為されようとしているのか、どういった問題点があるのか、どうしていったらよいのか。ぼくはまだうまく頭の整理ができていません。それを考えるために、本書(新システムが発表される前の著作ですが)をこれから読んでいきたいと思います。まずは現段階での思いとして、メモっておきました。



「保育の質」とはなんだろね

「保育の質」とはなんだろね 2011.03.05 Saturday [子育て・教育] comments(0)
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子ども手当は誰のため

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民主党の目玉政策であった「子ども手当」が中途半端な感じになっています。詳しいことは知りませんが、3歳までの支給を2万円に増額するという案が出されたものの、野党の反対により予算案が通らないらしいです。反対の理由は財源不足(何にでも使える便利なフレーズですが、その中身はよくわからない。アメリカに思いやる予算は5年も延長したのに)ですかね。自民党が反対するのは、まあしょうがないとして、民主党の中でも見直しの声があがっているというのは理解に苦しみます。

ええと、現状を。うちには1歳の息子がいます。子ども手当が導入されるまでは、児童手当という名目で月額1万円が支給されていました。児童手当が無くなり、子ども手当として月額1万3千円になりました。3千円しか変わっていません。子どもの年齢によって恩恵は変わってくるんでしょうが、うちの立場から見ると、たった3千円の違いでバラマキだ何だと騒いでいるのはバカバカしいと感じます。だって、子育てでいちばん援助の欲しい乳幼児の子どもがそういう現状なんだから。

だいたいバラマキという言葉の意味がぼくはさっぱりわかりません。得票のために、或る一定層に有利になるような便宜を図ることがバラマキだと言うのならば、政策のすべてはバラマキでしょう。諸外国から見ても支給額の少ない子ども手当なんかよりも、特定企業・特定産業だけが潤うような助成は他にたくさんあるんじゃないでしょうか。エコカーだのエコポイントなの地デジだの。むしろそっちのほうがバラマキだと思うんですが。子どもに投票権はありませんし。逆に、たとえば一括給付金のようにひろーく皆にいい顔をするのがバラマキだと言うのならば、そんなものは得票源にはなり得ない(実際、一括交付金がそれを証明しましたよね)。バラマキという批判は、つまりどういうことなのか、ぜんぜんわかりません。

昨夜、BSフジの『プライムニュース』に与謝野氏が自民党の伊吹氏とともに出演していました。与謝野氏は増税路線まっしぐらの人物であり、きわめて自民党的な「自己責任」という発想に基づいた政策を掲げる人なんですね。どうしてそういう人物を民主党はスカウトしてきたのか。子ども手当の理念とは真っ向から対立するような価値観を持ち込んで、いったいどうしようというのか。菅政権が自民党化(それもずっと劣化したレベルで)していることは間違いありません。


民主党が掲げた「子ども手当」とは何だったのか。
その理念を、忘れてはいけないように思います。子ども手当は、文字通り「子ども」に贈られるものでしょう。だから所得制限も設けないわけです。子どもは親を選べないですから。「子どもを社会で育てる」というのが、子ども手当の、そして民主党の理念であったはずです。支給額の問題ではなく、そこがいちばん大事。

「教育のあり方、果たすべき役割について」をテーマにした、平松邦夫大阪市長と内田樹さんの対談の中で、内田さんはこう語っています。

教育というのはもともと共同体の責務なんですよ。われわれが子どもたちを教育しなければいけない。成熟した市民を一定数、継続的に供給していくことは社会の存続のために不可避の義務なんです。とにかくちゃんとした、真っ当な市民を一定数作り出す。われわれ自身が生き抜いていくため、社会が生きていくために、きちんとした教育をしなきゃいけない、それが教育の最優先の目的なんです。

 一番大きなボタンの掛け違いは、教育を受ける者は自己利益のためにやっているんだっていう考え方をすることです。まるで商品を買うように、お金を出して「教育という商品」を買おうとする。そこで得られる学歴や資格や免状や技術で、自分自身を飾っていこうとする。そういうことだと多くの人は考えがちなんですけども、それは倒錯した考えだと僕は思うんです。

 市長が「地域」とおっしゃったように、自分たちの共同体を形成する年若いメンバーたちを育て、支援し、激励してちゃんとした市民に育て上げること。自分たちが老いて死んで去って行った後に、「この共同体を次は君たちが支えてね」と伝えること。この支え手を育成していくという集団的な営みに教育の目的はあるんですけどね。この根本のことを繰り返し思い出してほしい。

平松邦夫×内田樹「『教育はビジネス』という勘違いがクレーマー親を生む」「教育は誰のためにあるのか」とことん語ろう 第1回より


ぼくたちが、共同体として子どもを育てていくことが、国をつくるということです。政治というものは、未来への贈与です。市場経済における等価交換のようにすぐに結果の出るものではありません(子育てをしているとそれがよくわかります。見返りを求めていたらこんなこととてもできません)。子どもは、商品のように数字で図れるものではありません。子どもが「ちゃんとした市民に」なるためには親の責務とともに、共同体の責務が欠かせないと、ぼくは子育ての現場から感じます(自民党は、すべて親の自己責任という考え方ですね)。そのために、分け隔てなく「子どもに」支給されるのが子ども手当です。現物支給にしたほうがいいだの、待機児童解消のための施設を整えるのが先だの、そういうのは親の事情であって、子ども手当とはまた別の話です。

子どもに財を投じることの価値をわかっていない自民党をぼくは支持しません(共産党まで反対しているのはなんなの?)。民主党が子ども手当を見直すことで、その理念すらも放り投げてしまうのであれば、それはもはや一昨年にぼくが投票した民主党ではありません。16人が会派離脱したのはしごくもっともでしょう。一票を投じた有権者として、政権交代時の民主党に立ち戻って欲しいと切に願います。

子ども手当は誰のため

子ども手当は誰のため 2011.02.19 Saturday [子育て・教育] comments(0)
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イクメンとは相互扶助を学ぶこと

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夫婦で気ままに暮らしていたところに子どもが生まれて、ぼくの生活は一変しました。そうして、子育てを通して痛感したことがあります。子育ては「孤育て」ではできないということ。うちも妻の実家が近くなのでだいぶ助けてもらってます。実家から離れて暮らすシングルマザーの肉体的精神的負担は相当なものだと想像するようになり、女性の強さに感服することしばしば。

昨日、妻が高熱でダウンしてしまいました。数日前に息子がひいた風邪をもらってしまったようです。(子どもが風邪をひくと、もれなく親にも付いてくるんですね。なぜかいつもぼくは無事なんですが。)具合が悪いとの連絡を受け、一時仕事を抜け出して妻を医者に連れて行き、息子は妻の実家へ一時避難。医者から戻った妻はそのまま実家で寝込んでしまったようです。仕事が終わって、夕食とお風呂をごちそうになり、妻と息子はそのまま泊めてもらうことに。ぼくだけアパートに帰ってきました。息子も、ばあちゃんにだいぶ懐いているので安心して見てもらえます。ちなみに息子は1歳なりに、ママが具合悪いことをわかっているようでした。いじらしくて泣けるっす。

こうやって、なにかあった時に助けてもらえる場所があることはほんとうにありがたいです。もし夫婦だけだったら、おそらくふたりとも参っていたんじゃないかと思います。家族とは、相互扶助の最小単位なのだと痛感しました。それは、世代間で行われる贈与なのだと。

先日の記事の最後のほうにちょこっと書いた「世代間の贈与」。さっそくその意味を体感する場面に出会ったわけです。たとえば今日こうして妻の実家に助けてもらった想いはずっと残る。そしてたぶん、自分がじいちゃんになった時に同じようにしてあげようと思うでしょう。世代間の贈与は、世代が離れているからこそ意味がある。それが未来をかたちづくるものだから。

いつだったかリツイートでまわってきた言葉を思い出します。

日本では人に迷惑をかけないように教えるが、インドでは、あなたもたくさん人に迷惑をかけて生きているんだから、人から迷惑を受けても許してあげなさい、と教える。


言い回しが変わっているかもしれませんが、そんな趣旨の文章でした。

相互扶助としての「新しい公共」という考え方も、まさにそこがベースにあるように思います。政治とは、世代間の贈与であるはずです。未来に何を残すか、長いスパンで考える=想像すること。政治家っていうのは、なによりもクリエイティブな仕事なんだと思います。そして、有権者も未来の自分たちの暮らしを想像すること、あるいは身の回りの他者の生活をちょっとだけ想像すること。異なる価値観や性格、生活リズム、収入、そういった多様性の中で生きていくから、誰しもが誰かに迷惑をかけて生きています。それを無視して強権的な精神論をぶつことが、かっこいい男だとはちっとも思いません。イクメン(って言葉に抵抗のある方もいるでしょうが、便利なので敢えて使います)とは、子育てを通じて他者への想像を生むものです。子どもを育てているようで、いちばん「イク」されるのは自分自身なんですね。そのことがほんとうの意味で認知されて共有されるようになったときに、日本もいくらかやさしい社会になるんじゃないかと思います。

イクメンとは相互扶助を学ぶこと

イクメンとは相互扶助を学ぶこと 2011.02.04 Friday [子育て・教育] comments(0)
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家族のじかん

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昨日のはなしともつながるのですが、「自分の子どもがかわいくてしかたない」件について。子どもが生まれてから、ぼくはこれがすべての原動力になりました。いまは家族のじかんをなによりも大切にしたいし、今まで考えなかったようなことをいろいろと考えるのも、こうやってブログを書くのも、子どものことにつながっている。

妻からのリツイートでまわってきた、とてもすてきなつぶやきを紹介します。

フランジさんのTwitterより
こういう幸せって、ものごごろついてから今まで感じた事なかった。大好きで大切な人と過ごす幸福な瞬間が、未来にまで続いて行く。それが家族なのかな。

そして私がこれだけ幸せなのに、息子クンの記憶には残らないという・・・。そこには何か大切な意味があるんだと思いたい。

ばあばいわく「子供は産まれて3年で一生分の親孝行をする」旦那いわく「俺は3歳までの親孝行で今でもかわいがってもらってる」小さい時にこんなにみんなを幸せにしてくれたこと、それだけで後の不義理は全部許せるのかも。なるほどね。


そう、きっと3歳くらいまでが、いちばん幸せな家族の時間なんでしょうね。おそらく。だから、いまは家族のじかんをなによりも大切にしたいと思うんです。それは取り返しのつかないものだから。一瞬一瞬を大事にしたい。そうでなくとも子どもの成長はめまぐるしく、毎日が新しいよろこびと驚きの連続。目をはなすのがもったいないです。育児を母親だけに任せてしまうのは、ほんとうにもったいない。

家族3人ですごす時間は、ほんとうに今まで味わったことのない種類のしあわせです。と同時に、こうやってすごせるのも数年だけなのだろうなと思うと、とても切ないきもちになります。フランジさんの言う通り、子どもにはたいした記憶としては残らないのでしょうし。でも3歳までたっぷりと親の愛情を注ぐことが、子どもにとっていいことであるとぼくは信じています。それは、もう生物としての直感です。自分が親になってはじめて生じた直感。ぼくはこの直感を信じます。誰かが誰かのためにつくった常識や道徳といった外来的なものよりも、自分が親として子どもを思うきもちを信じます。「かわいくてしかたない」んだから、しょうがない。

今日は、近所の川原沿いの公園に、家族3人で雪あそびに行きました。息子にとってははじめての雪あそび。小さな丘では、たくさんの親子がソリやスキーであそんでいました。お父さんといっしょに雪だるまをつくっている子もいました。その中で、息子ははじめて触れる雪にはじめはとまどいフリーズしながらも、口に入れてみたりしながら徐々に慣れていったようです。ソリも準備してこなかったので、小さなバケツで雪の柱をつくってあげたり、ほんとうにほんの少し雪に触れただけの、なんてことのない小さな時間でしたが、なんだかとても楽しい時間でした。iPhoneでいい写真も撮れて親は満足。写真という記録を通すことで、この楽しい時間がより鮮明な「思い出」にアーカイブされます。

こういった、限られた家族のじかんをこれからも大切にしたい。たくさんの「思い出」をつくっておきたい。3歳までの記憶は、子どもには残らないかもしれませんが、ぼくたち夫婦にとっては、一生たずさえて生きていくくらいの宝ものになるはずです。子どもが生まれてはじめて老後のことも妄想するようになりました。いまのこの思い出があれば、そして夫婦でそれを共有できたならば、きっとそれなりに飯も食えるんじゃないかと。そして、それはいつでも立ち返ってこれる場所になるのではないかと思います。




内田樹先生 街場の至言より
家族は「ひとりでは生きられない」弱者が生き延びるための装置である。 家族成員が強者であることを要求するような家族論は、はなから論の立て方が間違っているのである。


家族のじかん

家族のじかん 2011.01.11 Tuesday [子育て・教育] comments(7)
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子どもを社会で育てる、ってどういうこと?

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昨日、テレビでちらっとだけ見たのですが、岡田克也幹事長と石原伸晃氏の討論で「子どもを社会で育てる」ということが論点になっていました。石原氏曰く、それは社民主義であり、ポルポトだと。なんで社民主義がポルポトになるのか、あまりに乱暴で筋違いな発言に驚きました。岡田幹事長は、民主党の指針に「子どもを社会で育てる」があることは間違いがない、と言っていましたが、その具体策についてはよく伝わってきませんでした。たしかに鳩山政権時の民主党は、社民主義的な方向を目指していたと思いますが、菅政権になってからは新自由主義路線へと舵を切ったように見えます。その総括もなしに、社民主義=左=共産主義=ポルポト=悪いものという図式だけで、政治家が話をしていることに改めて脱力しました。社会主義を赤とか悪といって弾圧しようとした、二項対立式の古い政治言語体質です。

まず「子どもを社会で育てる」ということに対するコンセンサスが形成されていなければ、その具体案である子ども手当に対する評価であるとか、現在推進されようとしている「子ども子育て新システム」をめぐる論議(幼保一元化を含む子ども子育て新システムについてはこちらの記事に書きました)も成り立ちません。いまの日本においては、このコンセンサスが欠如しているように感じます。その目指す先のイメージが見えないから、机上の論理だけが先行して、イデオロギーによるヒステリックな批判ばかりが繰り返されます。肝心の子どもはそっちのけで。

各人が育ってきた時代や生活環境も大きく関係するから、世代間による意識の断絶もあるし、万人が共通のコンセンサスを形成するのは難しいかもしれません。それでも子どもの成長はそれこそ待った無しです。子どもこそが未来のこの国をつくっていくということに物理的にも精神的にも反論する人はいないでしょう。「子どもを社会で育てる」とは、そもそもどういうことなのか。

ぼくは、プロフィール欄に書いてある通り、北欧の教育・社会のしくみに憧れています。といっても、北欧諸国の教育・社会のしくみを具体的に詳しく知っているわけではありません。専門家でもありません。じゃあなぜ憧れを持つようになったのかというと、まずはじめにイメージ(像)があったからです。それは、たとえばテレビの旅番組。歴史とモダンが息づく街中を、ベビーカーを押す男性の姿、トロッコのような押し車で子どもを保育園へと連れて行くお父さん、嬉しそうな子どもの笑顔。店先にベビーカーを置いたままちょっとした買い物をするママたち。子どもを中心に談笑が連鎖する街。お互いを信頼する成熟した大人がくらす街。…旅番組の映像や、北欧を特集した雑誌記事の写真などを通して、こういった「おたがいさまのこころ」が息づいているように感じたからです。まずはじめに、イメージ(像)があったから、じゃあどうしてこういう街ができているのか、そのしくみが気になるようになりました。

2003年の記事になりますが、雑誌『ソトコト』の北欧(ストックホルム)の子育てに関しての記事が、その空気をよくあらわしていると感じたので、転載します。

ソトコト 2003年9月号より
『共働き家庭が9割を占める北欧。子どもたちはコミュニティのなかで成長する。』

初夏、ストックホルムの昼下がりの公園。保育園児たちがランチを広げている同じ芝生に、上着を脱いで日光浴する会社員や、静かにくつろぐ老夫婦の姿がある。積極的に関わるでもなく、かといって無視するのでもなく、子どもと大人がおだやかに場所と時間を共有している様子は、この街の「スロー」を象徴するかのように感じる。

(中略)

ストックホルムの街を歩くと、いたるところに、こんなにもたくさんの子どもがいる、という現実にまず圧倒される。大人たちの過ごしている社会や自然が、子どもたちの「地続きの世界」として、家庭や学校のむこうがわに広がっていることを実感する。親や保育者以外の大人たちが、子どもたちとすれちがい、ときに関わり、意識し、つかず離れず見守っている。

(中略)

育児休暇中の経済的・社会的な保障や、復職後の親と子どもをバックアップするきめ細やかな制度など、聞けば聞くほど溜息が出るばかり。たしかに街を歩くだけで、…子連れに対する街の「バリアフリー度の高さ」がわかる。しかし、それにもまして印象に残るのは、子どもを特別かわいがるわけでも無関心を装うわけでもなく、大人たちが実にさりげなく、子どもたちを「近くに感じている」ということだ。

(中略)

東京に暮らす大人たちはこぞって「意識をスローダウン」すべきではないだろうか。ストックホルムではどんなに混んだバスでも、ベビーカーは堂々とゆっくり乗り込んでくる。親をせかすアナウンスも、客たちの迷惑そうな視線もない。東京ではだれもかれもが忙しすぎて、「子どもになんか構ってられない」というのが本音ではないだろうか。ストックホルムの街や人がとりたてて子どもに親切なのではない。子どもが好きな人もいれば嫌いな人もいて、かわいがる人もいれば迷惑がる人もいる。それは東京と変わらない。ただ、そこに子どもがいることに「気付く」あるいは「待つ」時間を、ストックホルムという街はもっている。

保育園の数を増やすこともたいせつだろう。しかし、子どもを専用の場所や時間に囲い込むのでなく、社会という大きな家庭のなかで育てることは、日本古来のスタイルでもあったはずだ。子どもを好きになれ、というのではない。都市としての成熟を目指すとき、子どもの居場所を考えることは、大人の暮らしにも大切なものを取り戻すことではないだろうか。


ぼくは自分が子どもを持つまで、「子どもはかわいい」ということさえ、よく知りませんでした。なんだ、そんなこと、と思うかもしれませんが、そんなことだからこそ大事なんじゃないかと。

数週間前にツイッターでつぶやいたことを転載します。
………

今日夫婦でも話したんだけど、毎日つくづく思う。子育てがこんなにも楽しいことだとは知らなかった。ほんとうに知らなかった。だって、誰もそんなこと教えてくれないんだもん。ここにおおきなおおきな穴があるように思う。この楽しさはもっともっとアナウンスしたほうがいい。共有したほうがいい。

子育ての楽しさを社会が共有できていないことが、不幸を生んでいると思うんです。むしろ子どもがいるほうがリスクが大きいと思っている人が多いのでは。それは、そういうふうにアナウンスされているからです。風潮が。それはとっても悲しいことです。

子どもはカネがかかるし人生のリスクも大きくなるとアナウンスされている社会で、どうして子どもが欲しいと思うでしょうか。子どもを産みたいという女性の本能が無ければ、出生率はもっと壊滅的になっていると思います。男は産みたいって思わないからね、基本的に。

でもね、男も子どもに接することで親の心情が発動してくるものです。自分でもぜんぜん知らなかった感情が、自然に発動する。あるべき父親像なんかを掲げている暇はない。こういうこともぜんぜん知らなかった。

目まぐるしく過ぎてゆく子育ての時間は、感情もアップダウンをくりかえす。いいこともいやなこともけっこうすぐ忘れちゃう。ほんと次々と新しいことが起こるから。振り返るひまがない。だから、子育ての楽しさ(つらさも)が伝わっていかないんだと思う。

世論は机の上にはないし、電話口にもない。それは各人の生活実感の中にしかないはずだから。だからぼくは、親バカなツイートをすることで、いまのこの気持ちを少しでも残しておきたいと思っています。これがいまのぼくにとっていちばん大事な生活の基盤だからです。

ツイッターとiPhoneがなければこのツイートも無かったと思います。いまも息子の隣でベッドに寝転がりながら打ってます。子育ての楽しさ(つらさも)は現場にしかないから。電通の会議室やパソコンの画面の中にはないから。身体感覚に近いメディアとしてのツイッター。技術革新が、ゆるやかなつながりを生み、コミニュティと価値観の新しいかたちをつくりつつあるように思います。
………

「子どもを社会で育てる」とは、そんな大仰で難しいことじゃないと思います。
子どものかわいさを、子どもの笑顔を、子どもの可能性を、大人が知っているかどうか。それが「子どもを社会で育てる」というコンセンサスにつながっていくのではないかと。そこから先の、実際になにか行動するかしないかは、各人の自由でいいわけで。

子連れの家族が迷惑がられて肩身を狭くしなければならないような社会設計の中では、子どものかわいさとか、子どもの笑顔とか、子どもの可能性とかを、身体実感・生活実感として知ることは困難です。実際にぼくも自分の子を持つまでは、ちっとも知らなかったのだから。だから、大人の社会の中に「地続きの世界」として、子どもが存在しているという環境づくりが必要なのだと、ぼくは思います。

子どもを社会で育てる、ってどういうこと?

子どもを社会で育てる、ってどういうこと? 2011.01.10 Monday [子育て・教育] comments(0)
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幼保一元化を含む子ども子育て新システムについて

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わが息子も先日1歳の誕生日を迎え、そろそろ保育所の利用も視野に入れる時期となりました。そんな中、実際の保育現場がどのようになっているのか、また今検討されている「子ども子育て新システム」とはどのような内容であるのかを、もっと知りたいと思っています。まだまだ知識不足ですが、まずは現段階でぼくがわかっていることを備忘録的にまとめておこうと思います。

新システムの中でも大きな改革としてクローズアップされているのが、幼稚園と保育所の一元化を図ろうとする「幼保一元化」。この政策を進める大きな理由として、世論的に浸透しているのが「待機児童の解消」というフレーズですよね。でも日本はどんどん少子化が進んで子どもが減っているはずなのに、待機児童が増えるってどういうことなんでしょうか。実際に、妻が一時保育について検討し保育所に聞いたところ、やはり共働きの家庭が優先され、一時保育のような形態はしっかりと保障されていない現状のようなのです。調べてみますと、共働きの増加などにより定員オーバーとなっている保育所が多い中、定員割れを起こしている幼稚園にそうした待機児童を収容しようという動きのようです。そんな簡単にいく問題なのかわかりませんが。

さて、ここで幼保一元化のいちばん大事な論点は何かというと、子どものためになるのかどうかという一点に尽きると思います。はたらきたい(はたらかなければ食べていけない)親の都合なのか、国の財政縮減の都合なのか、経済成長のためにもっと女性に働かせたいのか、それぞれ文部科学省と厚生労働省の管轄という非効率解消の都合なのか、いろいろな観点があると思いますが、そもそも何のための保育現場であるのかをスタートラインにして考えなければ、犠牲になるのは実際に現場で生活をしていく子どもたちです。子どもたちという言い方は漠然としていますね。言い直します。犠牲になるのは、自分の子どもです。ぼくも息子がいますので、切実な問題です。子を持つ親は自分ごととして考えないと、痛い目を見るのは自分の子どもなんです。

ぼくが「子ども子育て新システム」という言葉を知ったのは、弁護士の川口創さんのツイートです。待機児童が解消されるならいいんじゃないのという、なんとなく漠然としたイメージしか持ってなかったぼくはこの指摘を目にして愕然としました。

川口創Twitterより
厚労省が狙う「子ども子育て新システム」。「ライフスタイルに合わせた選択肢が広がる」と宣伝。派遣法導入時にも聞いた台詞。実際は、保育園を探しに行政を尋ねても、「仲介は出来ない」として自分で探せと言われる。園をネットで探して、園巡りを今以上に延々して「選ぶ」ことすら困難に。

厚労省は、「経済界への負担も求める」としていますが、6月8日に経団連はこれを明確に拒否。結局親の負担になることがはっきりしています。

保育の新システム。これは大変なことになる。一つは応益負担。負担割合も3割とか4割になりかねない。費用を払えない親が続出し、最初から保育園を選ぶことすらできない。入る希望も出せないから30万人の「待機児童」はいなくなり、厚労省はめでたし。その分「難民児童」になる。

2つめ。企業参入。しかも、「法人利益は何に使っても良い」。結果、葬儀屋など他の業者が保育に参入し(現実に既に東京ではある)、保育での利益を他の事業に付け替え可能。親が子どものためにと出したお金と、血税を、営利事業の利益にあてることを認める制度。いくらなんでもやりすぎ!

3つめ。最低基準を取っ払う。国や自治体の責任をなくす。結果、「安かろう悪かろう」保育の増大。保育園内の事故は確実に増える。「市場原理」なので、つぶれても「経営努力が足りなかった」。「経営の安定化」のために裕福な地区に保育園が集中し、逆に地域によっては保育園ゼロの地域も増える。

4つめ。自治体からの補助は確実に、かつ毎年減らされ、保育士の正規雇用は難しくなる、非正規が増え、保育が分断化し、一日の保育士の出入りも多くなり、また、辞めていく保育士も多くなり、子どもが不安定になる。預かる子供も細かい時間単位になり、切り貼り保育になり、さらに不安定になる。

とりあえずの結論。小さい子どもを商品にしてはいけない。小さい子どもをコストにしてはいけない。「この国は一人一人を、あなた自身を大事にしない社会です」ということを産まれたときから子どもに実感させてはならない。


「待機児童が解消される」というフレーズは、きれいな文言です。「ライフスタイルに合わせた選択肢」なんてのも、いかにも役所が言いそうなきれいな言葉。文字通りにそれだけを見ていたらそりゃいいに決まっています。でも、本来さまざまな利害関係によって成り立っている政治の世界は、ワンフレーズでは説明できないはずなんです。そういう選択をすることによって、実際の現場がどうなっていくのかを想像することが大事です。そんなことは誰も教えてくれない(だって、さまざまな要素を含んだ自分の立ち位置は自分しかわかり得ないのだから)、だから自分のあたまで考えないといけない。(だからぼくは想像力を育くむ教育こそを大事にしたいと思っています。)

そうやって自分のあたまで考える上で、原点になるのは。
子どもの笑顔です。ぼくは間違い無くそう思います。
「待機児童の解消」のための議論が、どういった観点で行われているか。子どもを持つ親たちの生活の声がベースになっているのか、実際に保育現場ではたらく保育士たちの声は届いているのか、それとも行政側が机上だけで行う会議が主導する議論なのか。川口さんは以下のように推論しています。

「子ども子育て新システム」の導入の永田町論理が少し分かった。「30万人と言われる待機児童を解消すべき」という理念が前提。これは大事。次に、「ではなぜ、解消できないか」というところで、「今の保育は行政が抱えていてコストがかかるから、パイが広がらないのだ」となる。

同時に、「官僚の権限争いは無駄」から「幼保一元化」につながり、「地方分権」から、「全国一律基準の廃止。地方でそれぞれやる」になる。それぞれ、何となく否定しにくい論理とうまくつなげられている。

その上で、一連の「公務員たたき」ともつながり、「公立保育園の職員の給料が高く、コストがかかるからつぶせ」となり、認可保育園についても「補助金が保育士の高い給料に使われるのは無駄」となる。そういった思考から「既得権を打破しろ」という新自由主義的発想につながっている。

でも、実際には、保育予算はどんどん削られてるし、保育士の方は決して高い給料はもらっていない。限界一杯一杯で、しかし、プロとして誇りを持って仕事をしてくれている。既得権、でもないし、子どもの安全がかかっているのだから、一連の公務員たたきと同じに考える問題ではない。

待機児童をなくす、と言う至上命題は大事だが、予算は増やさず、パイだけ広げる、となれば、単純に悪かろう安かろうになる。さらに、利益を上げることが存在意義の株式会社が参入していけば、そのお金が営利会社の利益にすり替えられてしまう。保育版グッドウィルがどんどん出てくる。

保育の問題を、「コスト」の問題にしてはいけない。「保育には質が必要なんだ」ということを忘れてはいけない。相手は0歳からの乳児、幼児ですよ。命がかかっているんです。「子どもが事故で死んでもそんな保育園に入れた側の自己責任」なんてことにさせてはいけない。


「子どもが事故で死んでもそんな保育園に入れた側の自己責任」
・・・ほんとうにそういうことを言いかねないと思う。おそろしいことです。

「待機児童の解消」から、財政の問題へと論点がすりかわるのはとても危険だと思います。子育てという、人が生きて行く上でもっとも基本となるセーフティネットを担保しないのだったら、なんのために税金を払っているのかわかりません。そう、ぼくは子育てこそが日本を成熟へと導く道だと思っていますから。「子どもを社会で育てる」という方向性こそが、政権交代時の民主党の方向性であり、鳩山さんが言っていた「いのちを守りたい」だと信じていました。子ども手当もそういう文脈で語られるものだと。子ども手当をばらまきだと批判する人は、おそらくちゃんと子育てをしたことのない(ちゃんと向き合ってこなかった)人なんでしょう。

ルポ貧困大陸アメリカ』などの著書で知られるジャーナリストの堤未果さんも以下のように指摘しています。

ジャーナリスト堤未果のブログより
アメリカでも保育の市場化がお母さんと子どもたちを苦しめているのですが、日本の政府はまっしぐらに保育の市場化に向けて「新システム」などを推進しています。何で貧困大国化する方へする方へ向かうのか、、、もちろんシステマティックに儲かるからですね。300万人もの反対の声があることを、ちゃんと聞いて国のための政策を作ってほしいです。


ぼくが知っているのは、まだこの程度です。
基本制度案要綱もちゃんと読んでない(役所の文書ってなんでこう読みづらいんでしょうか。読ませたくないんでしょうか)し、きちんと体系的に把握できていません。幼保一元化そのもの自体の是非はまだよくわかりません。ただ、一貫して主張したいのは、保育現場を市場原理にさらすことには絶対に大反対ということ。政権交代時の鳩山さんが言っていた「いのちを守りたい」とは真逆の方向です。保育現場の市場化によって、子どもが犠牲になることは目に見えています。(でも鳩山さんは「子どもの視点に立っていけば、幼保の一元化をはっていかなければならない。その方向で進めていきたい」と言っているんですよね(参考)。よくわからないなあ。)

結果として、子どもの笑顔につながる政策なのかどうか。
シンプルにそれだけを考えたいです。






追記:
じっさいに、「子ども・子育て新システム」の勉強会に行ってきたというパパさんの記事を読みました。西村さんが受けた印象は、「子ども目線」よりも「利用者目線」の要綱となっているのではないか、という懸念だそうです。

学生パパの子育て奮闘日記より
どうも「労働力としての女性をさらに増やす」ために、彼女たちが働く上で必要なシステム=幼保一元化や預かり所の増加をいかに整えていくか、という「両立支援」が第一目的になっていて、一番大事な「すべての子どもへの良質な成育環境を保障し、子どもを大切にする社会を実現」というのはただの飾りになってしまっているなーという印象を受けざるを得ません。


「労働力としての女性をさらに増やす」のが優先されるようではまさに本末転倒ですね。男女共同参画における女性の社会進出は、女性の自己実現という側面もたしかに大事だと思いますが、夫婦で子育てを共有すること(特にいままで子育てに積極的に関わってこなかった男性が子育ての愉しさを知ること)のほうに本質があるのではないかとぼくは思っています。子どもがいろいろなことを教えてくれます。子育てが日本を成熟へと導くとはそういう意味です。

西村さんは、市場化に対する反対意見においても、新自由主義に対する極端なアレルギー反応にならないように気をつけたいと指摘しています。なるほど、たしかにそういう面もあるかもしれないと自戒しました。
ぼくは、これからの保育制度を考えていく上でのPPPとは、市場原理的側面よりも「新しい公共」という考え方にフィットするものではないかと思っています。すなわち「子どもを地域で育てる」という、ある意味では、むかしの日本に存在していた「共同体」的なつながりが不可欠になっていくのではと。そういう場を創りだしていくために行政側および民間側が互いにどうしていったらいいのか、考えていきたいです。



追記(2012.06.04)
その後いろいろと得た情報をもとに、改めてまとめてみました。
子ども子育て新システムから感じること

幼保一元化を含む子ども子育て新システムについて

幼保一元化を含む子ども子育て新システムについて 2010.11.20 Saturday [子育て・教育] comments(10)
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父親像

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2009年11月18日、ぼくは父親になりました。

もうすぐ1年が経とうとしています。あっというまにすぎてゆく日々だけど、生まれてはじめて我が子に出会ったあの瞬間から、ぼく自身も生まれ変わったような気がします(スピリチュアル系のブログではありません)。出産で女性は変わるってよく言うけど(そしてそれはすばらしくほんとうだと思うけど)、男性だって子どもを持つことで変わる生きものなんだと、ぼくは実体験から宣言したい。ぼくらの親世代は、父親は仕事、母親は育児・家事、という分業がほとんどで、父親は帰宅するのも遅く子どもとふれあう時間も少なかったと聞きます。イクメンという括り方や、言葉が持つマーケティング的な匂いはさておいても、現在のように男性が積極的に育児に関わるようになったのはよろこばしいことだと思います。それは女性にとってありがたいという側面もあるだろうけども、なにより父親自身のよろこびと発見にあふれた楽しいものであることを実感しているからです。こんなおもしろいことを母親ばかりに任せてたらもったいないよ、と思うんです。

いま思い返してみると、子どもが生まれる前は、ぼんやりながらも、「父親としてかくあるべし」みたいな「父親像」があったように思います。けっきょくはそれが目に見えないプレッシャーになって、子どもを育てるということにたいする漠然とした不安がありました。とくに、男は強くあるべきという家父長的なイデオロギーに対するコンプレックスがあって、自分みたいな優柔不断な輩も父親としてちゃんとしつけしたり怒ったり決断したりしなきゃならない、と考えると憂鬱になったりしました。ぼくにはできそうもないよなあ、と思っていたから。

ところが実際に子どもが生まれてみると、そんな「父親としての資質」を養うヒマはないほどに日々が目まぐるしくすぎてゆくわけです。泣いたらどうやってあやすか試行錯誤し、遊びにつきあい、ケータイをがじったりリモコンをがじったり財布をがじったり取り上げて泣かれたり、晩ごはんは早食いになるし、毎日の業務をこなすだけで手いっぱい。でもそうしているうちに、できる、できない、がまずはじめにあるのではないことに気づきます。親としての資質が備わっているから親になっても大丈夫、じゃない。親になって、はじめて発動する感情、理性、直感、決断がある。自分でも知らなかった自分がどんどんこぼれ落ちてくる。(ぼくがデザインの仕事をする上で実践している、考えすぎる前にまず手を動かす。というのと似ています。)これはたまらなくおもしろい経験です。だいたい自分の子がこんなにもかわいいなんて、知らなかったもの。

そして、毎日が波瀾万丈の偶有性に満ちあふれた「子育て」を遂行していくのに必要なのは、理想の「父親像」に固執することでは決してありませんでした。もし仮に、「こうしなきゃならない」という規範があって、それに沿って子育てをしなければならない、という規則を自らに課して子育てをしていたら、ストレスがたまるだけであったでしょう。親の思い通りにいくことなんて、ほぼないのだから。でも子どもの生命力を信じて、子どもの動くままに寄り添い、その偶有性をたのしいと思えるようになったら、子育てほどたのしいものはないんじゃないかと思います。

かつて壁のように立ちはだかっていた「父親像」は、いまはぼくの前に姿を見せません。ひとりで結論を出したり決断するのがかっこいい父親ではないように、いまは思います。父親と母親。夫婦でいっしょに悩んで、苦しんで、相談して、自信がないながらも辿り着いたひとつのアイデアを、たいせつにしたい。だって、わからないことだらけなんだから。育児書を見たって、書いてあることはさまざま。人から聞いてもさまざま。医者も千差万別(医者だって知らないことがある)。絶対的に正しいマニュアルや指南書なんて存在しないから、子どものことは自分たちで考えるしかない。たとえ間違っていたとしても、ふたりで考えたという過程があれば、やり直せます。たぶん。


ぼくはべつに「いい親」になろうとは思っていません。
ただ、子どもがかわいくて仕方がない。
これが全てであり、真実です。
その他のことは付随するものであり、後づけの理由であり。ここ数年で急に、ぼくが政治に関心を持つようになったのは、子どものことを考えるからです(ちょうど政権交代の時期と重なったのは幸運でした)。子どもにどのような社会を引き渡せるかを考えるからです。それがいまのぼくの思考のすべての発露になっています。だから子どもを商品やコマとしてしか見ていないような論議にはまったく興味がありません。

子どもは、ただいてくれるだけで幸せな気持ちにさせてくれます。
他のなにものにも変えられないたからものです。いまぼくたち3人家族はとても幸せです。ノロケですいません。



父親像

父親像 2010.10.15 Friday [子育て・教育] comments(8)
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子どもが原点になったんです、ほんとに。

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これを言っちゃうと、おそらくだいたいの人はしらけちゃうと思うんですが、これを言わないとウソになっちゃうので、言っておきます。

ぼくは、世界中の誰よりも息子を愛しています。

あ、シラ〜って思ったでしょ。親バカって思ったでしょ。でもいいんです、それでいいんです。親バカにならない親のほうが、ぼくは信じられません。そして、ハタから見ればそれが親バカにしか見えないというのも、真っ当な現象だと思います。人が自分のことをいちばんに考えるのは、自己保身とかいう前に、ただ、そういうものとしてあるのであって、それについてどうのこうの論評するのは時間の無駄だと思います。

昨日の記事で、ぼくが政治について考えるようになったいちばんの理由は、子どもの笑顔だと書きました。そのことについてもう少し書き留めておきます。

最近、高橋源一郎さんのtwitterをたいへんおもしろく拝見しています。それはつぶやきの裏に必ず、れんちゃんとしんちゃんというお子さんの姿が見えるからです。と思っていたらご自分でそうおっしゃってました。

高橋源一郎 twitter より
ぼくが書いたり、しゃべったりする、想像上の「読者」の基本は、自分の子どもたちです。


ぼく自身の家族のことを書きます。昨年11月、ぼくたち夫婦にはじめての子どもが生まれました。現在6ヶ月、とってもすこやかに育っています。仕事場から帰宅し、ただいま〜、と息子と目が合った瞬間のニコっという笑顔。これは堪りません。じんわりと幸せな気持ちになります。ぼくたち夫婦だけでなく、おじいちゃんおばあちゃんも、親戚兄弟も、街ですれ違う人も、みんなが幸せな気分になる(と思う、たぶん)。子どもの笑顔が、こんなにも人を幸せにしてくれるとは、親バカかもしれませんが(出産に立ち会った事も大きいと思います)、ほんとうに、こんな気持ちになったのは生まれてはじめてだったんです。そのようにしてぼく自身の、世界の見え方も変わってきました。

いままで、まったく関心のなかったこと。政治なんてどうせ変わらないんだから考えるだけ無駄と思っていたし、そんなもの政治家がうまいことやってくれればいいじゃん、と思っていた。

でも、目の前で日々じぶんのちからで成長していく我が子のすがたを見ていると、ああ、世界をつくっていくのはまぎれもなく自分自身なんだと気づかされました。そうして、未来の子どもたちが暮らす社会をつくるのが、いまの一票なのだと。

ぼくは自分の子どもに笑顔で暮らしてほしいと願います。
だからそのために、ただそれだけのために、いろいろと考えるのです。

子どもが原点になったんです、ほんとに。

子どもが原点になったんです、ほんとに。 2010.06.16 Wednesday [子育て・教育] comments(0)
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