クリエイティブ・コモンズ(著作権による囲い込みから、おたがいさまの共有へ)

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前の記事で、これからは「所有」から「シェア」の時代になるのでは、と書きました。たとえば本は読まれる人のところに在ればよくて、そのモノが誰のモノであるかは、あんまり関係なくなってくるのでは、と。ただそれには重大な問題があって、本のたとえで言うと、それじゃあ作者はどうやって収入を得るんだという問題がありますね。作者の権利を守らなければ、作品が蹂躙される。劣悪な海賊版があふれる。たしかにそれも一理あるような気がします。だから作者の権利を保護するのが、著作権という概念でした。「コピーライト」。

これはあくまでもぼくの感覚なので実情がどうなのかは知りませんが、「著作権」の使われ方というものが、作者の知的所有権を保護するという「名目」よりも、関連企業の利潤や消費者への囲い込みにかなっている例のほうが多いような気がします。CCCDなんていう、作者側も消費者側も誰もよろこばないものをやろうとしたり。知的所有権を根拠に理不尽な訴訟を起こして農地を巻き上げるモンサントのやり方もその悪例ですよね(TPPに参加したら日本もその餌食になります、きっと)。「権利」というものが、ほんとうに「ものをつくる」人の思いにかなったものとして機能しているのだろうか、という疑問が常々ありました。

「コピーライト」に対して「パブリックドメイン」という考え方があります。これは完全に著作権を放棄して(あるいは保護期間が終了して)、人類の共有財産であるとする概念です。ツイッターなんかも割とこちらに近いんじゃないかと思います。1つ1つのつぶやきに対して所有権を主張するような人はたぶんツイッターには向いていない。ことばが自由にただよい、リツイートしたりされたりするうちにもともとが誰のことばなのかわからなくなってきます。というか「誰のことば」というのはそんなに重要ではない、という感覚。この感覚がツイッターの心地よさでありおもしろさだと思います。

「コピーライト」と「パブリックドメイン」は、両極端な例です。実際にはそういった杓子定規では測れないことのほうが多いことも、ぼくたちは感覚的に知っているような気もします。

「クリエイティブ・コモンズ」という考え方があります。

クリエイティブ・コモンズ・ジャパンより
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスは、インターネット時代のための新しい著作権ルールの普及を目指し、様々な作品の作者が自ら「この条件を守れば私の作品を自由に使って良いですよ」という意思表示をするためのツールです。


クリエイティブ・コモンズでは、「All Rights Reserved」に対して「Some Rights Reserved」を提案しています。作り手の権利を守りつつも、受け手にも作品を自由に扱う領域を確保する。「コピーライト」か「パブリックドメイン」か、という二者択一ではなくて、その中間のグラデーションを、作者自身が決めることができる。これって、ごく自然な考え方のように、ぼくは思います。

「ものをつくる」人にとって、「作品を守ること」と「作品を通じてつながること」のどちらが大事なんでしょうか。人それぞれの解釈があっていいのだと思いますが、ぼく個人としては後者のほうにものづくりの醍醐味があるような気がします。自分のつくったものが未来永劫に残ってほしいとは思わないし、自分の書いたものが自分の意図の通りに読まれないと気が済まないとも思いません。作品は、出来た時点で作者の手をはなれるものだと思っています。あとは風にのってふわりふわりと様々な人の目に降れ、様々な解釈を生む、そのほうがたのしいと思うんです。これはあくまでぼくが作り手だった場合の個人的な考えですが。

だからといって、なんでもかんでも好き勝手にやっていいかというと、それはまたべつの話ですよね。作者への敬意があるかないか。それだけだと思います。敬意と言うとちょっとカタい感じがしますが、要はこういうことだと思います。

SIGHT 2011WINTER号 内田樹×高橋源一郎対談より
仕事なんて、自分で作るもんじゃない?マーケットがあって、それにどういうニーズがあるのかって探すんじゃなくてさ、「俺はこれがやりたい!」って言ってると、「もっとやって」って言うひとが出てきてさ。「じゃあちょっとお鳥目ちょうだいよ」「うん、払うよ」ってなって、続くってもんでさ。


あるいはこういうこと。

内田樹Twitterより
震災後の日本はどうなるんだろうね、という母のご質問に、「昔みたいになるんじゃない?」とお答えする。「近所同士でお醤油やお味噌を貸し借りするみたいな?」そうです。近いもの同士で助け合うことができない人たちが作る自治体や国家に人は救えませんよ。


これって、おそらく多くの人が思い描く「古きよき日本」の像なんじゃないでしょうか。わざわざ権利立てしなくたって、日本にはすばらしい概念がむかしからあるじゃないですか。「おたがいさま」。「シェア」の時代において、その土壌をカタチづくっていくのは「おたがいさま」という心持ちなんじゃないかと思います。内田さんのたとえのように「おたがいさま」っていのうは、じぶんの身の丈の届く範囲の、スモールでローカルなものにおそらくなるんじゃないかなあ(これからのローカルとは、地域性というだけではなく、マスの対義語としてのローカルという意味になるとも思う)。互いへの敬意さえあれば、「おたがいさま」の心持ちでうまいことやっていけると思うんだけどなァ。大人だったら、ねえ。


クリエイティブ・コモンズ(著作権による囲い込みから、おたがいさまの共有へ)

クリエイティブ・コモンズ(著作権による囲い込みから、おたがいさまの共有へ) 2011.06.28 Tuesday [妄想] comments(0)
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所有とシェアの境界って

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昨日、友人との会話で。何年か前にぼくから本を借りたかどうかわからなくなったと彼が言い、そう言われてみるとぼくも貸したかどうかわからなくなっていました。同じ時期に同じような系統の本をお互いに買ったというせいもあり、たぶん題名を見てもどっちがどっちを買ったか思い出せないだろうなと思いました。どっちでもいいや、読まれる人のところに在るのがいちばんいいんだろうなと思いました。

パソコンの環境がクラウド化していくにつれて、「所有」と「シェア」の境界が曖昧になってきたような気がします。

ぼくがインターネットをはじめたのは10年ほど前のこと。HTMLで1ページずつ、ちまちまとホームページを作っていた時代です。ぼくも個人のホームページを作り、(おもに自分の絵や写真などを掲載して)プロバイダのサーバ上で公開していました(あれって更新が面倒なんですよね、いま思うとよくやってたなあ、好きだったんですね)。日記のコンテンツはブラウザから更新できるようなツールもありましたが、プログラムの設置や管理は「自分のサーバ」上で行い、つまりはデータを「所有」していたということになります。

それからブログというツールが登場して、その利便性からぼくも日記のコンテンツはこちらに移動します。ここで、日記というコンテンツは「自分のサーバ」から離れることになります。基本的に、手元のパソコンのローカル上にはデータが存在しない。はじめはそれが不安でもありましたが(MTの設置なんてのもひとつの通過点ですね)、いまや各社から提供されるブログサービスに依存したほうがなにかと便利で快適だと思っています。

そして、ツイッター。ブログにあってはブログ毎にサーバが区切られており、サーバ上に書き手のスペースがありました。それがツイッターではもはや渾然一体となっています。ツイッター上を流れる言葉は、どこかの空間にただよっているかのようで、1ヶ所に所有されません。もちろん発言主はいるんだけど、なんていうか、ことばはもっと自由で。RTで動く。動く。それが心地よいんですね。ぼくのことばはあなたのことばになり、あなたのことばはぼくのことばになる。そんなふうに感じたことがあるのはおそらくぼくだけではないはず。

ホームページ→ブログ→ツイッターと、ページそのものはどんどん「所有」から離れていっています。「データ」は手元から離れていっている。


その友人と以前こんなことも話しました。クラウド化が進むと、たとえば携帯電話やパソコンといったものは、アプリケーションやツールにつながる役割、つまりアクセスするためのインターフェイスにすぎなくなるんだろうね、と。つまり、ソフトを購入したりダウンロードして1台1台のパソコンにインストールする、という従来のやり方ではなくて、サーバ上に存在するアプリケーションにその都度アクセスして使う、というイメージ。ツイッターなんかはまさにそうですよね。

パソコンの環境がクラウド化していくにつれて、「所有」と「シェア」の境界が曖昧になってきたような気がします。そうやって、ぼくたちは今までの「所有」という概念から解放されていくのかもしれないなと思いました。


ヨーロッパではすでに車のシェアリングが一般的になりつつあるそうですね。きわめて合理的だと思います。ぼくは何十年もローンを組んで新築のマイホームを建てたいと思えません。自分の土地を残したいという思いも希薄です。だって自分が生きている100年弱の間だけ、地球上の共有財産をお借りしているにすぎません。だからその間だけは少しでも楽しく快適な環境で暮らしたいなという思いはありますが、それを自分のモノとして残したいとはべつに思わないわけです。

辻信一さんの言葉です。
STOP-ROKKASHOプロジェクト『ロッカショ』より
本来、文化とはシェアリングなんだと思う。食べ物を分かち合うためにテーブルを囲む。それが人間の文化の原点でしょう。


「シェア(共有)」されないものは、自ら身動きが取れなくなります。1ヶ所に留まり続けるものは淀んでいきます。金は天下の回りもの、という言葉があります。ほんとうにそうだと思います。お金を自分のところにずっと貯め込んでいたってなんにもならない。もともと使うためにあるわけだし、使うことで経済が活性化するわけです。ぼくたちの身体の中では常に水分が循環しています。とにかくあらゆるものは巡り巡っている。モノだけではなく、情報もそうです。情報や権利を独占しようとするクローズドな体質の新聞テレビといった旧来のマスメディアは衰退の一途を辿るでしょう。21世紀のメディアは知の共有体として存在しなければ生き残れないのでは、という記事を前に書きました(過去記事:さようなら、新聞たち(21世紀のメディアは知の共有体))。

もちろん個人レベルでも同じです。知識やお金を集めて「所有」することで、一個人としてのマシンスペックを上げていくことが、これまでの富のステータスでした。いわゆる高学歴、高収入。それはそれで、競争するというおもしろさがあります。それ自体がぜんぶ無くなるわけじゃないと思う。ただ、そういった「所有」の概念はだんだん価値としては小さくなっていくんじゃないかと。それよりも、自分(のからだ)を「インターフェイス」として他者や世界と「つながる」ことが、実は人間としての醍醐味なんじゃないかと、そして「シェア」の時代をかたちづくるのは、「おたがいさま」の心持ちなんじゃないかなと、漠然と思っています。

ツイッターは「知」の共有体であると、前に書きました。いまでもそう思っています。「知」というものも、実は個人に蓄積されていくものではなくて、いかに「知」のサーバにつながることができるか、というインターフェイスの問題なのではないかと思ったりしています。「知る」とは、その精度を上げることなのかもしれないな、と。


所有とシェアの境界って

所有とシェアの境界って 2011.06.28 Tuesday [妄想] comments(0)
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おれ、これからもヘラヘラしてよう

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昨日ブログに書いた「子どもを産み育てるという女性の本能を信奉する女系社会」において、男というものはどういう存在であるのか。昨日の記事の最後のほうに、「じゃあ男ってなんなのさ、と拗ねる必要はありません。バカはバカでも愛されるバカでいればいいんです。いい加減にいいかげんで。なんだかそのほうが楽しそうな気がするなあ。」そう書きました。そういった「かっこいい大人」のロールモデルとしてぼくは、このブログでも度々記事にしているユニコーンや電気グルーヴなどが頭に浮かびます。そして今回は、笑福亭鶴瓶さんについて。

今年のお正月に、ほぼ日に掲載された「新春おいわい対談」を読んでみます。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 鶴瓶さんと。ネアカ元気で、へこたれず。

鶴瓶さんのことを知らない人はいないと思いますが、いつもヘラヘラしてるおっちゃんです。いや、ぼくもたまにテレビで見るくらいで詳しいことはよく知りません。ただ、この対談はとてもおもしろかった。というか、たのしかった。対談を活字にした文字を読んでいるだけなのに、なんでこんなたのしい感じがするんだろうなと思ったら、文字を追いながらも、鶴瓶さんのあのヘラヘラした顔が目に浮かんでいるからなのだと気づきました。

このおっちゃんは、いい歳してこんなにヘラヘラして、テレビを観てるだけではなんだか軽薄な感じも受けたりしますが、そんなことなかった。なんでこんなヘラヘラしていられるのか、その秘密が語られていました。

鶴瓶 この前なんか、ぼくね、あるひとに、えっらい怒られたんです。
糸井 ほう。
鶴瓶 来年60でっせ、ぼく。えっらい怒られたんです。
糸井 え? なぜ‥‥
鶴瓶 怒られた。
糸井 な、なんでですか?(笑)
鶴瓶 ‥‥いやいや、ものすごい怒られたんです。
一同 (笑)

(中略)

糸井 あれですよね。誰にも迷惑かけず、ただ踊っているだけでも、
   自分が腹が痛いときはその踊りに腹が立つじゃないですか。
鶴瓶 そうですね、腹立ちます、こっちが具合悪いときは。
糸井 だから、鶴瓶さんは踊ってる人なんですよ(笑)。
鶴瓶 踊ってる人なんやね。もう‥‥えっらい怒られて。
糸井 笑いながら踊ってる人なんですよ。
鶴瓶 うん。笑って踊ってるから、「なめとんのか!」と。
一同 (笑)
鶴瓶 「人がこんな必死やのに何しとんねん!」ということなんでしょうね。
   こっちはヘラヘラ笑ってるから、そりゃあ、怒られますよ。
糸井 それは、おれも同じなんですよ。
   「あなたはいいですね」ってしょっちゅう言われるんです。
   でも、それは‥‥言われても困るんですよね。
鶴瓶 うん。やっぱり、ヘラヘラが腹立つんでしょう。
糸井 そうですね、根本はそれですね。
鶴瓶 「何ヘラヘラしとんねん」と。
糸井 つまり、全員がよろこんでる社会って、ないんですよ。
   笑ってる人がいて、悲しんでる人がいて、なんですよね。
鶴瓶 悲しんでる人にとっては、笑ってる人のよろこびなんて
   「おれには関係ないんじゃ!」でしょ?
   となると、「すんません」てなってしまう。
糸井 ぼくは、そういうときにどうするか、一生懸命、考えました。
   で、結論が出たんです。
鶴瓶 どんなんですか。
糸井 「おれ、これからもヘラヘラしてよう」って思うことです(笑)。

- ほぼ日刊イトイ新聞 - 鶴瓶さんと。ネアカ元気で、へこたれず。第九回より


あ、よく読み返してみたら言ってるのは糸井さんでしたね。
まあでもどっちでも一緒です。これってすごいことじゃないですか?ぼくはすごいことだと思います。「男らしさ」とか「強さ」を装って、持論をぶつことで自己正当化して満足する男社会(集団心理)とは対極にある、一個人としてのつよさだと思います。「わたし」が自立していないと出来ないし、しかもその「わたし」に執着していても出来ない。自立した「わたし」同士がかかわり合う「関係性」の中でこそ、偶有性に満ちたおもしろさがある。この偶有性をたのしむことを知っている大人のふるまいは、かっこいいと思います。で、こういうKY的なふるまいは、わりと男のほうが得意だったりするような気もします。

「わたし」として自立することと、「わたし」を追い求めることは似ているけれども微妙に違います。多くの人は、○○らしくありたい、とまずは理想像を固め、そこに近づくように努力します。それは人として、とても大事なことのように思います。でもちょっと待てよ、と。鶴瓶さんや糸井さんのような大人は、「わたし」として自立していながら、「わたし」には固執していません。「わたし」そのものよりもむしろ、「関係性」の中に重きを置いているように見える。だとするならば、「わたし」というものは、自分でがんばって作り上げるものというよりもむしろ、他者との「関係性」の中で必然的に形成されていくものなのではないかと、ふと思いました。だって、「わたし」がいくらがんばって、これこそが「わたし」なんだと主張しても、周りの誰からもそう見られないとしたら、それってほんとうに「わたし」なんでしょうか。他者からどう見られているかも含めて、その関係性の中での存在そのものが「わたし」なのではないかと。だから「自分探し」なんてしなくても、みんなそのままでじゅうぶん個性的なんですよ、きっと。ヘラヘラと、焦らずいきましょう。


おれ、これからもヘラヘラしてよう

おれ、これからもヘラヘラしてよう 2011.06.21 Tuesday [妄想] comments(0)
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男系社会から女系社会への変態

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ふと気になったんです。邪馬台国。で、先日ツイッターでつぶやいたんです。「邪馬台国に興味がわいてきた」と。そうしたら友人から「さすが変態」と言われたので考えてみたんです。なんで興味がわいてきたのか。それは、(ぜんぜん知りませんが)邪馬台国が卑弥呼を女王とする女系社会だったのではないかと思ったからです。で、なんで女系社会に興味を持ったかをつぶやきました。

子どもを守るという女性の本能が、感情論とか風評とか言って虐げられるような「男系」社会から、子どもを産み育てるという女性の本能を信奉する「女系」社会へと変態せざるを得ないと思うんだなあ。これからは。


そうしたらこのつぶやきが思いのほかリツイートされまして、ああそうか、これからは変態せざるを得ないというつぶやきに反応してくださる変態がたくさんいるんだなあと、俺、これからも変態でいようと思いました。

と、それはさておき、なんでそう思うようになったかというと、原発事故をめぐるあれこれの中で、いままでこの国をつくってきた「男社会」が、いかに身勝手でデタラメな代物であったかを痛感することがあまりにも多かったからです(めんどくさいのでいちいち列挙しません)。いいかげんで、杜撰で、ちっともしっかりしていなかった。

子どもを産み育てるという本能こそが、人間を存続させてきたものであると、ぼくはさいきんになってようやく気づきました。スピリチュアル系のはなしになるのかもしれませんし、子どもが減っていけば必然的に人間も減っていくという単純に数の問題でもあります。ふつうに考えればわかることなんですが、原発社会というものはふつうをふつうに考えられなくするものだったようです。ぼくたちは、本能よりも理性を重んじるようになりました。集団の中に埋没し、自分たちで勝手に拵えたルールを信奉し、それを知らない者を無知だと蔑み、挙げ句に脅しのような論をぶつ。いつからか、理性とは自分の理性ではなく、どこかから借りてきた集団論理にすり替わっていました。

そういうのが、すっごいかっこ悪いと思うようになりました。男らしくないと。いままで「男らしい」とされてきたような、(某都知事に代表されるような)家父長的な独善的なパワーが、実はぜんぜん男らしくないと思うようになってしまったんです。男って、元来いいかげんな生き物なんじゃないでしょうか。

女系社会とか言うと、抵抗のある人が多いかもしれません。あの、べつに女性におべっかを使えとか、かかあ天下がさいこうだとか、そういうはなしをしているんではありません。女王という形態を踏襲する必要もべつ無い。かといってフェミニズムのはなしをしたいわけでもありません。ここで言いたいのは、「子どもを産み育てるという女性の本能を信奉する」女系社会ということ。だからぼくは昨今のイクメン・ブームにも期待しています。イクメンとは何か。物質的には子どもを可愛がったり家事を手伝ったりすることかもしれません。でもそれよりもなによりも大切で希望的なのは、そういった経験を通して、子育ての「よろこび」と「しんどさ」を知ることです。それを知ることで、男性よりもはるかに献身的に育児をこなす女性への敬意が芽生えます。いや、ふつうに、出産とか授乳って「パねえ」って思います。そうすれば、やさしくしようと思いますよね、ふつう。

こういった、男性の変態(変容とかではなく、敢えて変態と言いたい。いも虫から蝶になるようなレベルの変「態」だと思うから)が多数を占めるようになった時に、女系社会への転換がはじめてなされると思います。それは社会設計が根幹から変わるものです(そうであって欲しい)。男性が育児に積極的に関わるようになることで、必ず社会は変わります。もともと、子ども手当という理念だって変態への第一歩としての理念だったはずなんです。ところがまた、男系社会がそれを壊そうとしています。財源がどうの控除がどうのバラマキがどうの、男の政治オタク論理ばかり。肝心の、「子ども」をめぐる論議がされていません。男ってほんとうにバカなんですね。日本の未来をつくるのは、子育てだとつくづく思います。

ぼくのつぶやきに対するレスを幾つか紹介しておきます。

日本の最高神は「天照大神」これも女性。もともと日本という国は女性を崇めていた国なんですよ。
女系社会への変換。人間の本来への帰還かと思います。
「男系」社会から「女系」社会への変容は,より平和で,建設的,生産的な社会創りに繋がることでしょう。今後は,そのような変容が起こることを期待したいものです。


それから、卑弥呼でぐぐった時に見つけた、邪馬台国の概要も載せておきます。卑弥呼と邪馬台国についてはまた後ほど詳しく勉強したいなと思っています。

当時の倭国は幾つもの国に分かれていて互いに激しく争う日々が続き、この頃の邪馬台国には男性の王が居ましたが国をまとめられず、争いを収める事ができずにいたのです。そこで王ではなく女性であり不思議な力を持った卑弥呼を女王にすれば、邪馬台国はまとまると考え、女王・卑弥呼が誕生します。邪馬台国は30ほどの国からできた連合国で卑弥呼が女王になると争いも無くなり、国はまとまり始めます。しかし、卑弥呼が亡くなると男性の王をたてますが争いは収まらる事は無く約1000人の人達が殺されたと言われています。その後、女王をたてる事になり13歳だった壱与を女王にすると邪馬台国は再び平和を取り戻す事ができたのです。

- 歴史上のえらい人達より

なんだか笑っちゃいますね。じゃあ男ってなんなのさ、と拗ねる必要はありません。バカはバカでも愛されるバカでいればいいんです。いい加減にいいかげんで。なんだかそのほうが楽しそうな気がするなあ。さあ、Let's 変態。

男系社会から女系社会への変態

男系社会から女系社会への変態 2011.06.20 Monday [妄想] comments(2)
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利権まみれの人たち

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利権にまみれている人たちがいるそうです。

3.11の震災以降、原子力利権という言葉をよく耳にするようになりました。そしてその利権構造が実際に(そして気が遠くなるほど莫大に)存在すると考えたほうが、ものごとを説明できるファクターに何度も出会いました。そうしたものの見方を重ねるうちに、原子力利権は確実に存在すると考えるようになりました。ふつうの感覚を持った人であるならば、わずか3ヶ月間で原子力利権というものを身を以て知らされたのではないかと思います。

自民党の河野太郎議員は「日本の原子力は全体が利権になっている」と言っています。閉鎖的で独占的な体質を揶揄して「原子力ムラ」と呼ぶ人もいます。そのような利権構造の中で、さぞかし利権にまみれている人がいるんだろうなと思います。これは震災以降、多くの人の共通認識になったのではないかと思います。

と、ここまでは前置き。
ツイッター界の貴公子、津田大介さんのちょっとしたつぶやきが目に留まったことから、いろいろと考えてしまったので例によってぐだぐだと書いてみようと思います。

利権で幸せになる人が増えるならそれもいいんでないの。

- 津田大介Twitterより


ぼくはこのつぶやきに同感なのですが、その理由はおいおい述べていくとして、
まず、利権という言葉の意味を改めて辞書で調べてみます。

り‐けん【利権】
利益を得る権利。特に、業者が政治家や役人と結託して獲得する権益。
(Yahoo辞書より)

ふつうは後者の意味で用いられることが多いため、印象の悪い言葉です。
Googleで「利権」を検索すると、関連する他のキーワードとして次のような言葉が表示されました。
「同和利権」「ETC利権」「地デジ 利権」「電波利権」
「部落利権」「パチンコ利権」「エコ利権」「ダム 利権」
これはつまり、こういうキーワードで検索をした人がいるということです。
地デジについてはぼくも以前書きました(過去記事:地デジとはつまり景気対策。でも強制はよくないよね。)が、その他の分野でも似たような利権構造があることは容易に想像できます(詳しくは知りませんが)。だって、官僚の仕事とは「無意味な仕事を勝手につくり、次にそれを守るために一丸となって、予算の獲得に努めること」(『上杉隆の40字で答えなさい』より)なのですから。つまり、いろんな分野で利権にまみれている人がたくさんいるんだということです。なんだか、とっても悪そうだし、実際に悪いこともたくさんあると思います。

でも、利権そのものが「悪」というわけではない、とも思います。
なぜなら利権とは「利益を得る権利」だからです。津田さんのツイートから、ぼくが感じたのはこのことです。

たとえば、戦後の高度成長期における公共事業っていうのはコンクリートのハコもの事業であったわけですが、ハコそのものが必要であったというよりも、ハコを作ることで生じる利益の恩恵に預かる人たちが圧倒的に多かったということですよね。いわゆる景気対策としての公共事業(いまだにこの成功事例にしがみついて経済成長神話から離れられない思考回路の議員もたくさんいるのは残念です)。日本全体がイケイケで、その高揚感の中に幸福感もあっただろうし、実益もあった。一点突破する大企業があって、その他大勢もそのおこぼれに預かる。そういうことが出来るんなら、利権さまさまです。でも、もうコンクリート公共事業による利権で、その恩恵が国民全体に最適化する時代じゃない。イケイケの高揚感に幸せを感じる世代でもない。

原子力発電によって恩恵を得る人と不利益を被る人がいるのは当たり前です。問題なのは、不利益(危険性)の部分をいままでほとんどのふつうの人は認識していなかったということ。わかった上での選択ではなかったということ。原子力発電の危険性と廃炉のコストをわかった上で、恩恵と不利益を天秤にかけて選択しなきゃいけなかった。つまり、そうやってひとつひとつのことをじっくりと考えて自分で選んでいくのが民主主義ということだった、ということにはじめて気づいたのです。

政策っていうのは、つまり利権の割り振りなわけで(利権がうすくなるほど「ばらまき」と呼ばれる)、利権そのものが「悪」だなんて言ってたら政治は出来ません。こうやって生きている以上、何の利権にも絡んでいない人などいませんよね。大なり小なり、生まれ育った環境や他人との関わりの中で、発生する関係性やバイアスが必ず誰にでもあります。それってべつに「悪」じゃない。バイアスがあって当たり前だし、利権構造があって当たり前。

問題なのは、利権そのものではなくて、利権による恩恵が一部の層に「独占化」している(さらに癒着している)という状態にあると思うのです。その恩恵をより多くの層に「最適化」させるように割り振りするのが政治の役割であって、それがつまり国益ということなんじゃないかと。


ということは、一市民であるぼくたちに必要なことって何でしょうか。

利権を汚らわしいものとして忌諱する潔癖性ではないと思います。政治とは、利権の割り振りです。以前の日記にも書きましたが(過去記事:説明責任を果たしていないのは誰?)、政治家が多少カネに汚かろうが、愛人がいようが、ぼくたちの暮らしをよくしてくれるならば、かまわないとぼくは思います。政治家に清廉潔白であることをべつに求めません(優先順位の問題)。

そういう原理主義的な善悪論じゃなくて、ひとつひとつの施策が「自分にとって」の恩恵を与えてくれると思うほうを選択(その多くは「よりましな」という選択になるのでしょうが)するのが、民主主義だと思います。それはつまり、どうすれば自分にとっての利権(利益を得る権利)が最適化するのかを考えることです。自分の立場(生まれ育った環境、過去から現在までの人間関係、社会的立場など)からのものの見え方を表明できるのは自分しかいません。

原発に関する話題で、“女性は感情論になりがちで、(原発が停止して電力が不足し)産業が空洞化することを考えていない。”というような旨の批判を目にします。なぜすべての女性が産業界のことを考えなきゃならないんでしょうか。ナンセンスだと思います。人は、自分に関わりのあることを優先するだけです。それぞれがそれぞれ自分の立場からの利権を表明するだけのはなしです。そうしなければその意見には意味がありません。(ついでに言うと、感情論というよりも子どもを守るという本能的な女性の感覚のほうが生物としてただしいとぼくは思います。)

政治的なことを考える時に、まずいちばんにぼくが考えるのは息子のことです。息子に笑顔でいて欲しいし、1歳半のいま絶好調であるこの好奇心を大事にしてあげたいと思うし、想像力を大事にしてあげたい。そういったものを大事にできる環境で育ててあげたい。子育てが共有される環境ならば、さいこうですね。それから家族のことです。みんなでおいしくて幸せな食卓を囲むこと。ほんとうにそれだけです。おいしさと幸せを共有できる仲間がいるならば、さいこうですね。

それは、我が子の未来に対する利権です(だから未来に負の遺産を押し付ける原子力発電には反対です)。親のエゴかもしれません。
そのために、ぼくは利権にまみれた選択をしていこうと思います。


利権まみれの人たち

利権まみれの人たち 2011.06.14 Tuesday [妄想] comments(0)
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無答派層

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原発のニュースをめぐるゴタゴタの中で、なにがほんとうのことであるのか、なにを信じたらよいのか、いままでの常識であるとか価値軸であるとか、拠って立つものであるとか、いろいろなものが崩れ去り、ワケがわからなくなっている人が多数だと思います。ぼく自身もそうです。

そういった中で、情報の受け取り方、捉え方そのものを改める時期にきたのだと感じます。めんどくさいことは全てお上におまかせするというムラ社会的日本から、自分のあたまで自分のこととして考える民主主義的日本へ。もちろん既にそういったリテラシーを持って情報に接している人もたくさんいると思います。でもそれは少数派でした。多くの人は、情報を疑わなくとも別に困らなかったから。それが今回、放射能という生命に関わる切迫した問題として多くの人に自分ごととしてふりかかったことで、情報を疑うこと、情報の出所と背景を想像することが必要であるとわかった人が、格段に増えたと思うんです。そして人口比率の中でそういった人たちが多数を占めるようになったときに、必然的によのなかの空気は変わっていくはずです。

茂木健一郎さんの今朝の連続ツイートを読んで、その思いを再確認しました。

無答(1)昨日、ご飯を食べながら内田樹さんとお話していた時に、ユダヤ人の話になった(内田先生のご専門)。イスラエル政府のホームページには、ユダヤ系(定義:母親がユダヤ人)のノーベル賞受賞者のリストがあるが、そのペースだと、日本人は550人受賞していなければならない。

無答(2)なぜ、ユダヤ人はかくも優秀なのか。内田先生曰く、タルムードには二系統あり、ラビもいつも二人いる。何が正統なのか、答えなのかわからないままに、延々と議論を繰り返す。それがいいのであると。

無答(3)なるほどと思った。答えがわからない、宙ぶらりんの状態に耐えられるかどうか。リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』にも、ユダヤ人たちが延々と弁ずるシーンが出てくるが、あの執拗に議論する精神の強度が、数多くの天才を生み出してきたのだろう。

無答(4)飜って日本のことを考えると、ペーパーテストの点数で大学入試が決まるという旧態依然たる制度のために、世の中のすべてには「答え」があると思う傾向が強い。だから、事故の検証でも、誰が何をした、何が正しかった、などと点数装置が稼働する。無答精神に欠けること甚だしい。

無答(5)脳科学に対する質問もそうで、「英語はどう勉強するのがいいのですか」と来る。答えがあると思っているのである。そんなことはどうせわからないのだから、とっととやるのが良い。答えを聞いて安心したいという気持ちが、強すぎる。子どもの頃から洗脳されているのである。

無答(6)ぼくもペーパーテスト万能の日本の教育を受けたから、「世の中の殆どのことには答えがないんだ!」と気付いたのはだいぶ遅かった。二十歳過ぎていたかな。不忍池を歩いていて、「本当のことなんかわかりゃしないんだ」とはっと気付いた。木枯らし吹いていたな。

無答(7)よしんば、答えがあるとしても、往々にして、答えを見つけることよりもその質問をする人の方が偉いことも多い。フェルマは偉かった。ポアンカレも偉かった。長い間人間を無答の宙ぶらりんにする人は、とても偉いのである。

無答(8)内田樹さんもきっとそうだと思うが、答えがわからない宙ぶらりんの状態が、決して苦ではないし、むしろ楽しい。早急に答えを求めるのはやめた方がいい。どうせ、安物の答えをつかまされて、使いものにならないだけだ。

無答(9)もともと脳の働きというのは、オープンエンドで「終わり」がないのだから、安易な「答え」で成長をストップさせない方がいい。本当は大学入試を変えちまった方がいいけど、日本では無理だろうね。

茂木健一郎氏の連続ツイート「無答」 より


ぼくは茂木さんのこの連ツイを読んで、ツイッターのことを思い浮かべました。
ツイッターの醍醐味も「無答」にあると感じます。タイムラインを流れていくことばは「答え」そのものではありません。様々な人の思考の「断片」であり「過程」です。それらを自分なりに紡ぎ合わせるおもしろさ。上杉隆氏が、ツイッターはインプットツールであると言うのもそういう意味だとぼくは勝手に思ってます。

そもそも「知る」っていう作業は、その過程で大なり小なり自分なりに情報を取捨選択しているわけです(過去記事「知ること」)。それをもとにして「こう考えたほうが妥当だと思う」って自分なりに考えていく。ってことは、結局は「信じる」ってことですよね。そういった意味では、誰もが何かの信者です。だから他人が何を信じようが、それを、○○信者とか情弱とか揶揄したり、デマを流すなと恫喝したりするのはクールじゃないと思います(それは「答え」がひとつだと思う思考回路、正しい「答え」にすがりたいという感情から出てくる攻撃性だと思います)。

1年あまりのツイッター生活のおかげで、ぼくの思考パターンは飛躍的に変化しました。おもしろいのは、自分のあたまが賢くなったというような感覚というよりも、むしろ、ふわふわと流れる大きな思考の渦の中にとけ込んでいくような感覚なんです。自分が思ってたことを同時刻に他の誰かが言っていたりする。リツイートしたりされたりするうちに、タイムラインにあることばが自分のことばなのか他人のことばなのかだんだんわからなくなってくるんです。これはおもしろい。

日本人の「答え」を知りたがるという傾向、ぼくもいろいろなところで感じます。数ヶ月前にあった京大カンニング問題のときもそんなことを思いました(過去記事「京都大カンニング問題から感じた「学び」のこと」)。「想像力」こそが、人間に与えられた最高の資質だとぼくは思います。わからないことを、わかったふりするのではなく、わからないままに、想像し続けること。実は意外に他のみんなもわかっていないんです、いろんなことを。

いままでは、政治になんの期待もしない、関心もないという意味での無党派層が主流でした。ぼくの世代では圧倒的にそうでしょう(ぼくもそうでした)。それが、イデオロギーに固執しない、ひとつひとつの事案を自分なりに考えて自分なりのプライオリティの中で選択する、つまり特定の政党に決めるのを留保しているだけという意味での無党派層=無答派層が主流になったとき、この国の民主主義はもうちっとまともに機能するようになるんじゃないかと思います。

何が答えなのかわからないままに、延々と考え続けること。ぼくが何を言いたいのかよくわからないままにこのブログをぐだぐだと書きとめるのもまさにそのためです。






追記:
「ツイッターの醍醐味も「無答」にあるのでは」というツイートが思いのほか多くRTされました。同じように感じている人がたくさんいるということですよね。“安易な「答え」で成長をストップさせない”人たちが。たぶんそれは若い世代ほど、そうだと思う(勝手な感覚による推測ですが)。そう思うと、これからの日本の未来…教育、子育て、政治とかいったものは、そう捨てたもんでもないんじゃないかな。それが20年後なのか、50年後なのかわかりませんが、既得権益層が衰退するくらいの世代交代が起きれば、ね。どうなんでしょ。

無答派層

無答派層 2011.05.23 Monday [妄想] comments(0)
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文脈を読むことと内省すること

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朝から唖然としてコーフンしてしまいました。内田樹さんのブログ記事「脱原発の理路」を読んで。昨日このブログで書いた、平田オリザ発言の顛末についての違和感を再確認するとともに、それ以上のとんでもないことまで内田さんは指摘していました。詳しくはここには書きません(内田さんのブログを読んでね)が、浜岡の停止がアメリカからの要請とは。絶句して、感嘆して、もっのすごく腑に落ちました。

昨日も書きましたが、平田オリザさんの問題になった発言。それをもって大袈裟に驚いてみせたり、「日本は主権国家じゃないのか!」と激高する気にはぼくはなりません。また、激高したフリをして「世論」の味方になるという偉い立場にもないですし。日本が主権国家でないことはもうわかっていることだから。それに怒ったり呆れたり(他人事目線)することじゃなくて、戦後日本はずっとそうして上手いことやってきたということを認めること(自分ごととして)に本筋がある。ほんとうは、わかっているのに、ずっと見えないふりをしてきたこと。ちょっと考えればわかるのに、考えることを放棄してきたこと。考えることを放棄したままで、イデオロギーという政治的道具を使った「政治オタク」的な論壇しかこの国には存在しなかったこと。そういうことが、ようやくわかってきた。

けっきょく報道されるニュースから、ひとりひとりが自分なりに「文脈を読む」しかないんですね。文脈を読むとはつまり想像するということ。内田さんの見解は、ぜんぶ想像ですから。で、想像をするために知識や情報が必要になってくるわけで。マスメディアはそのための役割を担ってくれないことがもうはっきりとしました(全局一方向からの情報しか提示されません)。ツイッターをはじめとするインターネットの果たした役割は大きいです。いままで言論コントロールできていた部分が、民主党という政権運営の素人集団に変わることで、ポロポロとこぼれて出てくるようになりました。ツイッターに流れる情報は「答え」ではありません。思考の過程です。過程の断片を集めるという点でツイッターはほんとうに有用です(上杉隆がツイッターはインプットツールと言うのも、そういう意味だと思っています)。それらをジグソーパズルのように合わせて、読み解くことが必要です。パズルの合わせ方は人によって異なり、それこそが、自分のあたまで考えるということ。

昨日の日記を例にとると、ぼくは「疑う」ことまでしか出来ませんでした。内田さんはさらに二歩も三歩も踏み込んだ「想像」をしています。圧倒的に「想像力」の差があります。じゃあその想像力の差はどうして出るのかというと、知識の差であったり、経験の差であったりするのだと思います。「知らない」人は「想像」もできませんから。無理して背伸びしてもしょうがありません。自身の思考を疑い続けること。そうするしかないんだろうなと。


それから、さらに言うならば、いろいろなことを自分のこととして考えないとだめなんだなと。それはつまり内省ということです。イデオロギー談義のだめなところは、内省がないところです。

内田さんは浜岡原発の停止はアメリカからの要請であり、それはアメリカが「廃炉ビジネス」に舵を切ったからであろうと推測しています。アメリカはあくまでもビジネスライクな国ですから、この見解はおおいに納得できます。また、そう考えると菅首相の英断もその後のマスコミの論調の変化もするすると説明がつきます。

そして、ぼくはこの内田さんの見解を読んだ時に「ほっと」しました。それならむしろ、アメリカがやってくれるならむしろ、「この国」が存続していく可能性が見えてくる気がする、と。皮肉なはなしだけど、そんなこと言ってられない事態だよね、と。で、ここ重要だと思うんですが、そのように「ほっと」した自分を顧みて、なんだ自分だって骨の髄まで日本人なんじゃないかと、思い知ったのです。それが、いい悪いということではなくて。ああなんだ自分もやっぱり日本人で「辺境人」なんだと、そういう自分であるということをまずは認めなければ、と。
だって、実際にぼく、ほっとしたので。

自分の感情はいつでも自分の中にあります。ウソをついているかどうかも自分でわかるはず。そこには記者クラブも情報統制もありません。そんな自分を「まるごと」受け止めること。できるかな。

文脈を読むことと内省すること

文脈を読むことと内省すること 2011.05.20 Friday [妄想] comments(0)
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荒ぶる神としての原子力は日本でカオナシになった。(千と千尋の神隠しに見る日本人と神々との関係)

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先日、『千と千尋の神隠し』を久しぶりに観ました。はじめは1歳半の息子に見せるつもりで一緒に眺めていたのですが(子どもがジブリアニメを見ているすがたを見るのはなんだか嬉しい感じです)、途中で飽きちゃってどっか行ってしまった息子のかたわらで親のほうがハマってしまい、息子の就寝後に改めて見直しちゃいました。

いやしかし改めて観てもすごいアニメですね。公開当初、映画館で妻とふたりで観に行き、最初から最後まで大満足で興奮しながら帰ってきたのを覚えています。ジブリ作品の中でもぼくはとくに好きな作品です。10年が経過したいま見ても、そのクオリティには驚くばかり。細部まで手の込んだアニメーションとしてのおもしろさは、世界レベルという次元も飛び越えたような圧倒的完成度です。芸術性と娯楽性が高いレベルで融合した作品であり、老若男女が楽しめるという点でさすがジブリとため息が出ちゃいました。

今回とくに惹かれたのは、神々が集まる湯屋という、まさに日本でしかあり得ないような世界観。ユニークとはこういうことでしょう。日本が日本である理由。そんなことを思いながら、観賞後に感動の余韻をツイッターでつぶやいているうちに、ふと気づいたんです。原発をめぐる構図って、カオナシじゃないか、と。

湯婆婆を頂点とする湯屋は、神様の疲れを癒す湯治場です。人間が排出したヨゴレをまとった川の神様が、お湯でヨゴレを落として「よきかな〜」と昇天するシーンなどは、きわめて日本的な発想であると思いました。それは普段とりたてて神様などを意識しない現代っ子のぼくのような者でも、じぶんが日本人であることがわかる瞬間であり、組み込まれたDNAであるのかもしれません。おもしろいのは、日本の場合、人間と神様が共存しているんですね。湯屋では、様々な神様と人間(リンも人間なのかな?)が入り乱れて祝祭のような空間をつくっています。あの賑わい。外国人がこの作品を見たときに、この「感じ」がわかるのかどうか。

森羅万象の中に、八百万(やおよろず)の神が宿ると考えた古来の日本人。食べ物は、天地自然からの恵みであり、収穫の儀礼と祈りは欠かせないものでした。「身土不二」という言葉もあります。もともとは仏教用語で、「身」(今までの行為の結果=正報)と、「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離せない、という意味だそうです(Wikiより)。近年では地産地消を推奨するための言葉として広まりましたが、わたしたちの身=からだは土がつくるという概念は、八百万の神を奉り自然と共存してきた古来からのマインドと共通します。

現代に於いても、行事としての神事は残っています。神前結婚式や初詣は言うまでもなく、産土神に詣で幼児の健康を祈る宮参り。土地を守る神様に感謝する地鎮祭、上棟祭など。節分の豆まきは、季節の変わり目に生じる邪気を追い払い無病息災を願うという意味合いがあるそうです。相撲ももともとは五穀豊穣・無病息災などを祈願祈念した神事なのだそうですね。

あるいは神事ではなくとも、たとえばご飯を残さずに食べたりモノを大切に使ったりする「もったいない」精神であったり、朝起きておてんとうさまに感謝したりするような、日常のささいな仕草の中にも、そういった、見えざるものを大事にする風習として息づいています。祖先から続く長い年月の中で「自然に対する信仰のようなもの」が、ぼくたちの生活の一部ともなっているのかもしれません。

そのようにして永らく自然の中の八百万の神を奉り共存してきた日本という国に、原子力発電というテクノロジーはそぐわないのだという気がしました。自分たちの身丈を超えているというか。神々と共存することを選んで暮らしてきた日本人は、自分の手の届く範囲の神様としか付き合えないのではないでしょうか。だから天地自然の恵みを活用する再生可能エネルギーは日本人の体質に合っていると思う。原子力は、日本人にはちとスケールが大きすぎました。うまく共存できなかった。登場してたかだか50年そこらの原子力(の事故による放射能)が、自然をあっという間に破壊してしまうのはあまりに暴力的すぎます。

と思ったときに気づいたんです。原発って、カオナシじゃん。
金をチラつかせて人を呑み込み、呑み込まれた人と一体化してどんどん肥大化して暴走していく。自分では止められない。金をあげるよ、受け取れという誘惑に対して、「要らない」という千尋に、カオナシは困惑します。「わたしの欲しいものはあなたには出せない。」と。キレるカオナシ。

地元に原発を建設するのには必ず金銭の問題が絡んでいます。莫大な金額をチラつかせてなんとか地方に原発を建てようとする電力会社。地元発展のためという名目で受け入れるところもあれば、地元の住民の反対で30年間も対立し続けている上関の例もあります。どちらが間違っているとは言いません。いろいろな事情があったのでしょう。確かなのは、いちど原発を受け入れてしまったら、そのスパイラルからは逃れられないということ。ある人は、原発は麻薬のようなものだと言います。どう考えても危険なのに1ヶ所に原子炉が乱立する「原発銀座」が日本に多いのも、いちど知ってしまったらやめられないからでしょう。原発があることをベースにして経済を構築してしまった街は、もう原発なしでは成り立ちません。自分では止めることができないんです。というよりもハナから止めることを考えていない。構造的にそうなっている。


20世紀の人間は、科学技術によって森羅万象を究明し、自然をコントロールしようとしてきました。西洋に端を発する資本主義文明はそうして発展を遂げ、グローバリズムの中で世界中に浸透しています。その全てを否定するつもりはありません。現に科学技術のもたらす恩恵を享受してぼくは生活していますし、先鋭的なテクノロジーも大好きです。しかし、自然界のすべてを科学技術によってコントロールできると思うのは違うんじゃないかと思うんです。実際に天災の前では人はあまりに無力です。要は程度問題で。原発というのは人間の手に負える領域では無かったということ。それは神々の領域であったのかもしれません。

と、ここまで妄想が膨らんだところで、内田樹さんがブログで以前そんなことを書いていたことを思い出しました。「原子力テクノロジーというのは、いわば「荒ぶる神」をどう祀るかという問題である。」と。この考察がとても興味深かったので紹介します。

原子力は20世紀に登場した「荒ぶる神」である。
そうである以上、欧米における原子力テクノロジーは、ユダヤ=キリスト教の祭儀と本質的な同型的な持つはずである。
神殿をつくり、神官をはべらせ、儀礼を行い、聖典を整える。
そう考えてヨーロッパの原発を思い浮かべると、これらがどれも「神殿」を模してつくられたものであることがわかる。
中央に「神殿」があり、「神官」たちの働く場所がそれを同心円的に囲んでいる。
その周囲何十キロかは恐るべき「神域」であるから、一般人は「神威」を畏れて、眼を伏せ、肌を覆い、禁忌に触れないための備えをせずには近づくことが許されない。
それは爆発的なエネルギーを人々にもたらすけれど、神意は計りがたく、いつ雷撃や噴火を以て人々を罰するか知れない・・・
原子力にかかわるときに、ヨーロッパの人々はおそらく一神教的なマナーを総動員して、「現代に荒ぶる神」に拝跪した。
そうではないかと思う。

(中略)

一神教圏で人々が「恐るべきもの」を隔離し、不可蝕のものとして敬するというかたちで身を守るのに対し、日本人は「恐るべきもの」を「あまり畏れなくていいもの」と化学的に結合させ、こてこてと装飾し、なじみのデザインで彩色し、「恐るべきものだか、あまり恐れなくもいいものだか、よくわかんない」状態のものに仕上げてしまうというかたちで自分を守る。
日本人は原子力に対してまず「金」をまぶしてみせた。
これでいきなり「荒ぶる神」は滑稽なほどに通俗化した。
「原子力は金になりまっせ」
という下卑たワーディングは、日本人の卑俗さを表しているというよりは、日本人の「恐怖」のねじくれた表象だと思った方がいい。
日本人は「あ、それは金の話なのか」と思うと「ほっとする」のである。
金の話なら、マネージ可能、コントロール可能だからだ。

(中略)

日本の人々は荒ぶる神を金儲けの道具にまで堕落させ、その在所を安っぽいベニヤの書き割りで囲って、「あんなもん、怖くもなんともないよ」と言い募ることで、「心のリスクヘッジ」を試みた。
福島原発のふざけた書き割りを見たヨーロッパやアメリカの原発関係者はかなり衝撃を受けたのではないかと思う。
その施設の老朽ぶりや、コストの安さや、安全設備の手抜きに心底驚愕したのではないかと思う。
どうして原子力のような危険なものを、こんなふうに「雑に」扱うのだろう・・・と海外の原子力研究者は頭を抱えたはずである。
そこまでして「コストカット」したかったのか?日本人は命より金が大事なのか?
もちろんそうではない。話は逆なのだ。
あまりに怖かったので、「あれは金儲けの道具にすぎない」という嘘を採用したのである。

荒ぶる神の鎮め方 - 内田樹の研究室より


うーむ、なるほど、と唸ってしまうほど得心しました。
原子力は日本に来ることでカオナシになったんですね。日本人の持つメンタリティの中で、原子力という神が存在するためには「荒ぶる」顔は封印しなければならなかった。だから、どんな天災が来ても安全なのだという「お囃子」を皆で唱えることで、原子力はどんどん顔が見えないものになっていった。お上のお墨付きのお囃子を唱えていれば、見たくないものを見ずに都合のよいものだけを享受できたのだから。そうしていつしか、天災は来ないという前提のもとに制度設計がなされるようになっていった。すでにそこには顔がない。ほんとうのことを誰も知らなくなった。電力会社の幹部も、現場で働く下請けの作業員も、原子力保安院も、経産省も、大臣も、首相も、マスコミも、学者も、もちろん市民も、誰もその全容を把握できないままに、既成事実だけがひとり歩きするようになってしまった。そういうことなのでしょう。

それではこの荒ぶる神を鎮めるにはどうすればよいのか。内田さんはその次の日に書かれた「原発供養」という記事で、原発を供養することだと述べています。これもたいへん納得できる、非科学的なようで合理的な提言だと思いますので、興味のある方はご一読ください。


最後に。「千と千尋の神隠し」劇中で印象的だったシーンを。
3人を呑み込み、肥大化して暴走するカオナシ。千を連れて来いと要求します。カオナシと対峙した千尋は「あなたはどこから来たの」と尋ねます。カオナシは、聞きたくないといって顔を隠します。とても苦しそうに。「帰ったほうがいいよ」と千尋。

日本に来てカオを無くした原子力という荒ぶる神。カオを見ようとしなかった日本人。彼はいったいどこから来たのか、どのようなカオをしていたのか。それをぼくたちは思い出してあげることができるでしょうか。きちんと帰してあげることができるでしょうか。単に機械的に原発を捨てて、再生可能エネルギーへと乗り換えることが或いは最適解であるのかもしれません。けれども。捨てて忘れるのではなく、もういいよ、おつかれさまと、きちんと帰してあげること。「脱原発」とは、そういうことかもしれないな、と思いました。それが、あらゆるものに神が宿ると考えた古来日本人の子孫としてのDNAかもしれません。



宮崎駿
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
発売日:2002-07-19



追伸:息子のおかげで飽きるほど繰りかえし見てます…

荒ぶる神としての原子力は日本でカオナシになった。(千と千尋の神隠しに見る日本人と神々との関係)

荒ぶる神としての原子力は日本でカオナシになった。(千と千尋の神隠しに見る日本人と神々との関係) 2011.05.11 Wednesday [妄想] comments(0)
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残すもの、残されるもの。

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3.11の震災以降、ぼくはずっと確たる意志を持てずにいます。あらゆることに関して。うまく言えませんが、いままでの価値軸であるとか考え方であるとか、そういった自らを寄って立つようなところが、濁流に流されてシャッフルされているような感覚。たぶんあれ以来、誰もがいままでの平衡感覚を失っているんじゃないでしょうか。

ぼくがツイッターでフォローしている中のひとりに、乙部信吾さんという方がいます。小説『桜の色』を上梓している作家で、岩手県盛岡市出身。震災後、故郷である岩手に何かをしたいという思いから、4月10〜17日の約一週間、沿岸地域(陸前高田(高寿園)/大船渡/大槌)で現地支援をしてきたそうです。

被災地の様子を伝える記事は様々なところでよく目にします。それはたいてい痛ましいものであったり、がんばろうというものであったり。自分でも人でなしと思いますが、いまぼくはそれらを他人事のように目にします。とくに、〝がんばろう〟とか〝日本はひとつ〟とかいうフレーズには震災以降さらに懐疑的になりました。

そんな中で、深夜ベッドにもぐりiPhoneをいじりながら目にした乙部さんのツイートに、心の深いところでノックされた気がしたのは、それが被災地の様子を伝えるだけではなく、そこから自らの内部へ入り込んで紡ぎ出された言葉であり、そのどこかに共鳴したからかもしれません。それが何を意味するのか、まだうまく言語化できませんが、ブログに書き留めておこうと思います。以下、乙部さんの5月4日のツイートより。

7歳の息子と5歳の娘が、そろそろ眠るという時間になって、「パパ。被災地の話を聞かせてほしいんだけど」と、PCの画面に向かう僕の元へやってきた。ここ1ヶ月、支援活動に多くの時間を割いている父親のことを、彼等なりに忸怩たる思いで見ていてくれたのだろうと思う。

何を話そうか悩んだ。高田松原に残った一本松の話をした。

高田高校の事務局の方にいただいた名刺を見せた。その裏に印刷された、かつての美しい高田松原の写真を見せた。それから、海岸に一本だけ残った松の写真を見せた。上方にだけ残った松の葉を見せて、津波の高さについて話した。地元の人々が、必死にその松を生かそうとしていることを伝えた。

一本松の話なんか、嫌だった。現地で支援をしている頃から、本当に被災された人々がその松に「希望」を抱いているのか、疑っていた。嘘だと思っていた。誰かが、そんなふざけた話を作ったんだと思っていた。希望を抱くとか、未来に向かって歩くとか、そんなことじゃない、馬鹿にするなと思っていた。

でも僕は、子供達にその話をしていた。不思議だった。どうしてその話をしているのか、分からなかった。息子と娘は、PCの画面に映る一本松の写真を見ながら、黙って僕の話を聞いていた。椅子に座る僕の横に立ち尽くしたまま、身動きもせずに聞いていた。

それから息子がおもむろに口を開いた。「パパはここで瓦礫の片付けをしていたの」僕は、そうだよと答えた。「パパはここで子供達とオセロをして遊んでいたの」息子は続けた。そうだよと答えた。「パパは、被災地に行ってきたんだよ」僕がそう言うと、息子は、うん、と頷いていた。

この話に教訓なんてものはない。親子の結びつきについて話したいわけでもない。微笑ましい話でも何でもない。僕はただ、感情の話がしたいのだ。そして僕は、被災された人達への支援に、感情なんてものは何の役にも立たないんだと思っていた。今でもほとんどの部分ではそう思っている。

けれど、僕は今日、ほんの少しではあるけれど、そういう茫漠としたものでも、かたちのないものでも、被災の現場にいらっしゃる方々の、何かの役に立つのではないかと思えた。だからこの話を書いてみた。それは熱意でもなく、意志でもなく、ただの寂しさのようなものだ。それがつながるということ。

現地にいらっしゃる方々にとって不快な話だったとしたら、申し訳ありません。感情に流れているだけかもしれません。ただ、こういう部分で手を携えていくことができたり、子供や未来に何かを残せるとしたら、それもひとりの大人である自分の仕事であるような気はしました。支援はきちんとやります。

乙部信吾さんTwitterより


一本松のはなし、たぶんぼくもそのように疑ったであろうと思います。どこかの広告屋がつくった美談なんだろうと。先ほども書きましたが、ぼくは震災以降とくに美談めいたはなしや清く正しいフレーズには懐疑的になっています。それは自分でもちょっと過剰反応かもしれないと思うほどに。だから「被災された人達への支援に、感情なんてものは何の役にも立たない」という気持ちがよくわかります。

ところが、彼は子どもたちにその話をしました。そして子どもたちは父親のその話を身動きもせずに聞いていたそうです。とても不思議なはなしです。ぼくなら、自分の子どもにその話をしたでしょうか。たぶん、しないような気がします。たぶん、できないような気がします。ただし、それはいまの自分がそう思うということだけで、実際にそういう場面になってみなければわからないことなのかもしれません。ぼくは自分が親になるまで、親になったときの気持ちなど想像もできませんでした。だから。乙部さんも「どうしてその話をしているのか、分からなかった」と言っています。

乙部さんは、自分の口から子どもたちに向けて出てきたことばを通して、「ほんの少しではあるけれど、そういう茫漠としたものでも、かたちのないものでも、被災の現場にいらっしゃる方々の、何かの役に立つのではないかと思えた。」と内省しています。「ただの寂しさのようなもの」で「つながる」と。ぼくは、なんだかとても大切なもののように感じました。それが何であるかはまだよくわかりません。でも、なぜだか。

復興とは、あたらしい未来をつくることです。あたらしい未来をつくるのは、自分だけでは出来ません。何年後か、何十年後かの復興のために、各人が各地でいまできることをしています。それは未来への贈与です。未来へと残されるものです。子どもたちは、いまのぼくたちの姿を見て、何を感じ、何を汲みとり、何を受けとるのでしょうか。それはわかりません。わからないし、それを知ることが目的では無いけれども。

4月26日、収監が決まった堀江貴文氏の会見(自由報道協会主催)の中で、同氏が言っていたことを思い出しました。「変える人が出てこないと変わらない。現状維持じゃないですか。10年20年というスパンなら変わる。今ニコニコ動画を見ている若い人たちはテレビを見ないことがライフスタイルになってる。彼らが大人になったとき大きな変化が訪れるだろう。それ以外はあんま変わらないだろう」(津田大介氏の実況ツイートより)

何年後か、何十年後かの未来を担うのは子どもたちです。いまの若い世代の人たちが驚くほど思慮深く慎み深いということを、ぼくは感じています。今の若いモンは…と嘆き憤ることよりも、ああさすが新世代だと感心することのほうが、ぼくは体験的に多いから。堀江氏の言うように、何十年というスパンで世代の人口比率が変わったときに、必然的に時代の空気は変わるとぼくも思います。そのときに残るものはなにか。いま、これから行われる復興アクションの中で、残されていくものはなにか。残したいと思うもの、実際に残っていくもの。乙部さんのツイートの中に、その一端が表れているような気がしました。

残すもの、残されるもの。

残すもの、残されるもの。 2011.05.09 Monday [妄想] comments(0)
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「デマ」はどこから生まれどこへ行くのか

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震災以降ずーっと、「デマ」という言葉に違和感を持っています。

ツイッター上でも原発推進・容認、反対どちらの側からもやたらと目にする言葉です。「これはデマだ」という意見には、相手の言っている全てを否定する意味合いがあります。しかるに、このデマ合戦によってタイムラインは2つに分断されてしまいます。どちらか側のチームに入って、相手側をデマ扱いしていれば、ものごとはわかりやすくてラクなのかもしれません。でもぼくには世界はそういった単純な構図であるようには思えません。

たしかに、明らかな事実誤認の場合もあります。ただしその場合だって、すばやく訂正して謝罪すれば済む話です。間違えない人はいません。ところが現在行き交っているデマという言葉の使われ方はあまりにも過敏な気がします。デマを流すなというのは情報統制です。そもそも誰がデマかどうかを決めるんでしょうか。過去に起こったことならば、意図的に偽ることもできるし、情報を正確に確認せずに伝えることでデマともなり得ます。しかし、これから起こるであろうことに関して、それがデマであるかどうかを判断する指標はどこにあるのでしょうか。この場合、デマかどうかを決めるのはその情報を受け取った自分でしかあり得ません。

原発を止めることで、電力が足りなくなるという話があります。
ある人は電力不足により日本経済が停滞してしまうと言い、ある人は電力は足りており、これは電力会社とマスコミ(彼らが蜜月の関係にあることは、ぼくは実感として腑に落ちています)によるデマだと言います。

電力が足りているのか・いないのかを確認する術をぼくは知りませんし、たとえば公表されているその数値がどれほど信憑性のあるものであるのかを推論する術も知りません。いや、確認する気もおきません。おそらく、ある人にとっては足りているし、ある人にとっては足りていないのでしょう。それはたぶんその人の立場、立ち位置によって異なってくる。

これから起こるであろうことに関する情報が、デマであるかどうかを判断する指標は、その情報が自分に関係あるのか・ないのか、ということに密接に繋がっているように思います。もっと言うならば、自分が利益を得るか・得ないか。ここで言う利益とは、金銭的なものも精神的なものも、生命、生活活動すべてを含めたものであり、それらをどういう塩梅で天秤にかけるかを決めるのもまた自分です。

電力が足りるのか、足りないのか。それは、ぼくたちが今までのライフスタイルをどのように見つめ、これからどうしていくのか、ということ抜きでは判断できません。だって、それは「これから起こること」なんだから。脱原発を主張する人の中の、少なからぬ人たちは、節電というこまっかしい話をすでに飛び越えて、経済成長至上主義から脱却しようとしているように感じます。それは別にはたらかないとかはたらくのが嫌だとかいう低次元の話ではありません。再生可能エネルギーによる電力供給もできるし、それに関する研究開発に係る雇用だって生まれるはずです。それらは原発のように急成長をもたらしてはくれないかもしれません。でも、低成長でもゆっくりでも、楽しく生活したいと思う人たちがいます。それが全て正しいというわけではなく、そういう道を選択する人がいてもいいはずだということです。今までの、経済成長だけが唯一の正解だとする考えに即すれば、電力は足りないとなるでしょう。大事なのはこれが「これから起こること」であり、足りなくなるのか、足りるのか、それを決めるのもまた自分だということです。


昨夜、菅首相が浜岡原発の停止要請を発表しました。ぼくはこのニュースを聞いてこの人はようやく、はじめて、首相らしいことをしてくれたと、嬉しい驚きに包まれました。同日に行われた会見での、東電原発事故がチェルノブイリを超えたとも言われる航空機モニタリングの調査結果から目を逸らせるための(参考:東電原発事故は、チェルノブイリを超えたのか? - キノリュウが行く)、あるいは政権維持や小沢派への牽制のためのパフォーマンスだという見方をする声もあります。どれもあながち間違っていないように感じますし、おそらくどの要素も絡んでいるのでしょう。ものごとはいつだってどこだって多面的です。

しかしだからといって、首相の発言そのものの価値が下がるとは思いません。理由はどうあれ、一国の首相がまず「やりましょう。」と宣言したこと自体が大きなことなのではないでしょうか。組織のトップがすべき唯一のことは道すじを示すこと。あれだけ無能と揶揄された菅さんですら、ああいった発言をすることで不可能だと思われた浜岡原発の停止が現実味を帯びて来ました。それだけトップの言葉とは重かったのだと、ぼくはこれは日本の政治において新鮮な驚きだと思いました。

マスコミは揃って懐疑的な論調でこのニュースを伝えたようです。電力会社とマスコミの関係を踏まえていれば、この流れは当然であり、例によって横並びの報道からはその蜜月ぶりへの確証をさらに強くしたところです。電気村の住民がそう言うのは当たり前です。それはデマというものではなく、立場の違いです。ところが、今回の首相の発言について、(東電原発事故でこんな目に遭っているのに)さも知ったふうに否定的な言葉で語る人が一般の方にもたくさんいることに、また驚きました。その多くはマスコミが展開する否定論と同じものであり、要はマスコミが準備した世論号に乗ってるだけに見えます。今回の首相の発言を支持することと、東電福島原発への対応をしっかりと監視することはまったく矛盾しません。

自分の暮らしをどうするのかは自分が決めることです。これから起こることについての「デマ」があるとしたら、それは自分ごととして考えずに、主語のないことばでものごとを語り出したところにだけ生まれるものなのではないでしょうか。

「デマ」はどこから生まれどこへ行くのか

「デマ」はどこから生まれどこへ行くのか 2011.05.07 Saturday [妄想] comments(0)
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