これからの政治のはなし

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前回から引き続き、「さよなら民主党」という気持ちを整理するために。

原発再稼働にしても、社会保障と税の一体改革にしても、野田政権が示したのは「決断力」という言葉を曲解して、人の話を聞かないという姿勢。それも国論を二分するような重大な案件についてさえ、国民の声を無視して勝手に進める態度。完全に魂を売り渡した、能面みたいな首相のツラを見るだけでハラが立ってきます。

野田政権が貶めたのは彼ら自身の評判だけではありません。一応かたちばかりでも選挙というしくみの上で成り立っている民主主義の国で、民意を無視して重要政策を密室で次々と決める野田政権は、選挙制度や民主主義的な手続きという「約束事」への信用そのものをぶち壊したわけです。これじゃもう国は成り立たない。三党合意だかなんだか知らないが、手続きとか約束事は彼ら執行部によって形骸化しました。そんな奴らが決めた増税とか違法ダウンロード法とかをなぜぼくらだけが守る必要があるのでしょうか。そう思うのが当然でしょう。手続きとか約束事は信用がないと成り立たないってことです。お金だって“これは価値がある”という暗黙の合意がなければただの紙切れであって。

野田氏が首相を辞めたからといって状況が変わると思えるかというと、ぜんぜんそんな気がしないわけで。もはやこの国では「約束事」は守られないのだ、という前提を再構築しないかぎりはどうしようもない、という途方もない徒労感が目の前に横たわっています。信用を再構築するのは容易ではないですよ。


選挙するなら対立軸を明確に

じゃあどうすればいいのかと言われると、政治オンチのぼくにはぜんぜん分かりませんけれども、少なくともとっかかりとして、内田樹さんが指摘するように民主党は分裂するのが筋だと思います。いまのまま解散総選挙となったって、「民主党へのNO」以外に軸が見えないわけで、それで投票しろと言われても訳わからんです。

さよなら民主党 - 内田樹の研究室より
民主党は自民党と連合する勢力と、小沢・鳩山派に別れた方がいいと思う。
つねづね申し上げているとおり、民主党は自民党の旧田中派の流れを汲み、自民党は旧福田派のアバターである。
増税・原発再稼働・TPPに賛成、新自由主義、対米従属、「選択と集中」、競争と格付け、飴と鞭、勝ち組への資源集中による国際競争の勝利は福田派の綱領である。
増税・原発再稼働・TPP反対、一億総中流、都市と地方の格差解消、バラマキ、一律底上げ、対米自立は田中派の綱領である。
両派の考え方は、小平と毛沢東くらいに違う。


最近の流れを見ていると、ほんとうに同感です。中でも、対米従属/対米自立という対立軸で他の項目もすべて説明ができちゃうと思う。普天間問題をはじめとする民主党の迷走の多くはそれを物語っていたわけで。

何かあるたびに「信を問う」って、政治家なんかは深刻な口調でよく言いますけれども、ほんとうに信を問いたいのであれば、この対立軸を明確にした上で国民の判断を仰ぐのが筋です。眼前のシングルイシューやワンフレーズでお茶を濁して、大きな流れから目を逸らすのはもうやめてください。政治家なんて「いいこと」しか言わないんです。それはそれで職業柄しかたない。だからこそ、大きな流れとしてこの国がどこへ向かうのかを提示しないと選びようがない。もう共産党アレルギーとか言ってる時代じゃない。

目の前のシングルイシューに対しては、頭のいい人はもっともらしい論をそれなりに立てることができます。そんなものは詭弁によっていくらでも作文できる。それに騙されちゃう人もいるし、逆に、騙されないぞとがんばる人もいる。だけど騙されるにしろ騙されないにしろ、目の前の問題だけに捕われていると根っこが見えなくなってくる。よのなかにはこういう悪い人たちがたくさんいるから騙されないようにしましょう。自分だけは騙されないように。っていうものの見方をしていると、足下に落ちているうんこはよけることができるかもしれないけれど、そのまま崖に向かって歩いていることには気づかないんですね。


「アメリカ型」か「北欧型」か

内田さんが示した、対米従属/対米自立という対立軸。いまいちイメージしにくいかもしれないけれども、世界的にはそれぞれの綱領がもたらす社会が出来つつあるようにも思えます。こういう括り方をするのは語弊があるかもしれないけど、分かりやすく言うと「アメリカ型」か「北欧型」か、ってことじゃないかと。

つまり、「新自由主義、選択と集中、競争と格付け、勝ち組への資源集中による国際競争の勝利」か「一億総中流、都市と地方の格差解消、バラマキ、一律底上げ」か。ってそのままですが。この姿勢の違いは、子どもの教育に対するスタンスによく表れています。詳しく知りたい人はぐぐってください。

もちろんどちらかが国の形として正しくてどちらかが間違いという話ではありません。アメリカでは「アメリカ型」に対するアンチテーゼとしてウォール街のデモが起こっているし、ノルウェーでは極右によるテロがありました。どこの国だって二面性を抱えている。たまたま、どちらかを選択する人が多かったというだけの話です。

内田さんの言う通り、「このような対立的な世界観をもつ党派が両端にあることで、私たちはそのつどの歴史的条件の中で、より適切な政策を選択する「枠組み」を持つことができる」わけです。そしてそれは「右」とか「左」とかいう賞味期限切れの対立軸ではもう説明できません。世界の国々は、時代の変化とともに対立軸を書き替えてきたけれども、日本はいまだに冷戦時代の対立軸が幅を利かせているというところに、この国の「政治」の不幸があるように思います。(現在の政治的座標軸についてはこちらが参考になります。)

なぜ日本は対立軸を書き替えられなかったのか。マスコミがぜんぶ「アメリカ型」だったからです。「右」の読売や「左」の朝日という対立軸でごまかしてきましたが、マスメディアはみんな「増税・原発再稼働・TPPに賛成、新自由主義、対米従属」寄りなんですね。先日の原発再稼働に対する官邸前の1万人抗議運動を、ほとんど報じるメディアが無かったというのはどう考えても「異常」です。前回の記事で、民主党は自民党化していると書きましたが、それはつまり対米従属です。

テレビしか見ない人は、民主党内にもそんな対立軸があることすら知らないでしょう。
べつに難しくないです。対米従属/対米自立。すごくシンプル。
たったひとつ、この対立軸を念頭においてニュースに接するだけで、いろいろなことが見えてくるはずです。

その上で。対米自立だけど新自由主義を標榜する人がいてもおかしくない。もしかしたら、みんなの党はそうなのかもしれない。新自由主義路線は、自民党にも、自民党化した民主党にも当てはまります。その後ろに経団連があることは明らかですが。
ということは、いまの民主党が分裂しなければ、新自由主義路線への対抗軸が見当たらないことになります。いや、社民党や共産党がありますけれども、残念ながら「終わった」政党という払拭するのは困難な気がします。とくに原発の問題が起きてからは共感することも多いのですが。彼らは「騙されないぞとがんばる人」ではあるけれども、この国がどこへ向かうのかというイメージを想起させることができていません。

新自由主義っていうのは言い換えるとアメリカンドリームです。
かつてその言葉には夢がありました。成功すること=有名になるとかお金持ちになるという夢でした。日本もまた同じような夢を追いかけてきました。バブルが崩壊した後に、アメリカンドリームはたったひとりの成功者と99%のそれ以外という格差があってはじめて成立するということが明らかになってきました。資源は有限だったからです。
それでもアメリカは後戻りできずに新自由主義の路線をひた走ります。オバマ政権になって舵が切られるかと思いきや、そうでもなさそうです。自己責任の名の下に、弱者を切り捨て大企業へ富を集中させるというスタンスによって、アメリカの医療や教育は「お金持ちの贅沢」となっています。詳しくは堤未果さんの著書を読んでみてください。対米従属っていうのは、つまりそういったアメリカの後を追うこと。現にそうなりつつあると感じます。TPPなんかはその最たるものですね。


ほんとうの対立軸

一票を投じる立場として。まず間違えていけないのは、「政治家」に何を望むのか、ではなくて、政治によってどんな国をつくりたいのかをまず想起することだと思います。自分がどんな社会環境で暮らしたいか、子どもにどんな生活を残してあげたいか。まずそのイメージが先にあるのがふつうなんじゃないかなと思うのですがどうでしょう。

政治っていうのはお上にお任せで済むものじゃないし、テレビの中の出来事でもない。ぼくたちの生活と密接に関わり、暮らしをかたちづくっていくもの。身の回りがどんどん世知辛く息苦しいよのなかになってきていると嘆く人はたくさんいますが、そういうことを言う人はだいたい自分をその輪の外に置きます。けど実は、なにげない一票が、あるいは無視や無関心が、この社会をかたちづくっている。ほんとうの対立軸っていうのは、政治的イデオロギーっていうよりも、自分自身の中にあるんですね。

少し前に話題になった生活保護の問題であるとか、先日やっとネパール人の容疑者が釈放された東電OL殺人事件であるとか、ああいった事件を「他人事」としておもしろがったり忖度したりすることが、最終的には自分を締めつけることになるという想像ができるかどうか。

原田あきらさんのツイートより
なんと!「自殺」が15〜34歳の死因第一位という日本…一日80人が自殺し、先進国なのに五日に1人は餓死している国…かなり壊れてる。あの通り魔にはホント怒りが湧くが、間違いなく、異常者が社会を壊してるのではなく、社会が人を壊しまくってるんだ。


異常者が社会を壊していると思うか、社会が人を壊していると思うか。
いまの政府とか有権者を見ていると前者の向きが大きいですよね。くだらないワイドショーやニュース番組が不安を煽るようなことばかり垂れ流してきた帰結でしょう。だからセキュリティを強化して不正者を締め付けようという話になる。
自分はぜったいにそんなことはしないけれども、自分が被害に遭うのはいやだからと。
それはやっぱり自己責任だろうと思うか、困った時はお互いさまだよなと思うか。どう思うかは自由ですが、そのとき自分の中にある対立軸が、政治的なイデオロギーに取り込まれていくということは踏まえておいたほうがいいと思います。

ぼく自身は、いま日本が突き進もうとしている新自由主義的な自己責任社会の環境の中で自分の子どもを育てたいとは思えないですし、内田さんの言う「田中派」の綱領を明確に示してくれる政党があったならば、迷うことなく投票したいと思っています。
じゃあこの「田中派」が描く社会っていうのはいかなるものなのか。成功すること=有名になるとかお金持ちになるという以外の夢を想起できるか。それはまた次回。原発という存在の問題も、そこから考えていきたいのです。

これからの政治のはなし

これからの政治のはなし 2012.06.18 Monday [政治・メディア] comments(0)
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さよなら民主党 そして次のフェーズへ

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国会が佳境に近づくにつれ、野田首相の大飯原発再稼働発言をはじめとした現政権の言動のあまりの酷さが目立ってきています。国民の生活はもとより、民主主義的な手続きはおろか論理的整合性さえもめちゃくちゃで支離滅裂な言葉の羅列がむなしくくり返されるだけという、絶望的な状態に。もう誰もなにも期待していないでしょうこの政権には(民主党支持率は8%だそうです)。

個別の話してるのに一般論で返したり、技術の話してるのに精神論で返したり、唐突にふりだしに戻ったりを延々とくり返した挙げ句、締切が迫ると急に政局モードが慌ただしくなって、問題の焦点はなんかうやむやになったままとにかく一般論と精神論だけで作文された書類で、なんか成ったことになるという。社会保障と税の一体改革での民主党政権の立ち振る舞いを見ていると、なるほどこれが「国会話法」かと。野田首相の大飯原発再稼働宣言はまさにそれを象徴する声明でしたね。

もう民主党はだめだという大方の意見はその通りだと思うし、じゃあ自民党がいいかと言うとそれは無いというのもたぶん多数派ではないかと。そもそも自民党がずっとやってきた「国会話法」への批判、つまり大臣は官僚が作文した書類をただ読むだけではなく、政治主導の先導になるべきという考えが、民主党が政権交代をなし得た理由だったはず。しかしそれが、情報開示の不徹底によりうやむやになり失墜したというのは内田樹さんのご指摘の通り。民主党の執行部はいまや自分のことばを失い、ただの傀儡と化しています。政権交代直後の、あの夏の夜の閣僚会見で見られた瑞々しさは影も形もありません。


自民党化する民主党

ですから民主党が自民党化しているという、みんなの党所属の山内議員によるこの指摘は正しいと思います。

民主と自民が大筋合意へ 山内康一 - BLOGOSより
民主党政権が財務省や外務省と一体化してきたので、結果的に自民党政権に似てきたということでしょう。政治主導はどこへ行ったのやら?
もはや民主党と自民党の差別化は難しくなりました。「民主党の自民党化」が急速に進んできた結果として、民主党崩れの自民党もどき VS 本家本元の自民党が、小選挙区で激突することになります。


この指摘は大筋では合っています。山内議員としては、だから“みんなの党”だぜと言いたいのでしょうが、これだけでは説明が不十分でもあります。民主党執行部が自民党化していることは間違いありません。政権交代直後の民主党とは180度変質したと言ってもいい。それはなぜか。官僚、というか背後にいるアメリカと経団連の力が大きかったということもあるでしょう。

ただこれで「民主党」に所属するすべての議員がだめで変質したと言ってしまうのはちと短絡的です。もともと民主党という政党は「政権交代」そのものを成し遂げるために結成されたようなもので、けっして政治的理念が一致して集まった人たちによる政党ではありません。もちろんそれは自民党だって同じなんですが。だから「政権交代」という出来事も、けっして民主党の政治的理念が支持されて実現したというわけではないと思います(ぼくは支持していましたが)。

じゃあ民主党内にはいったいどういう政治的理念を持った人たちがいるのか。これはいわゆる床屋政談レベルでは、右派とか左派、保守やリベラルといった語句で語られることが多いです。たしかにそれはそれである種の説明にはなっている。けれども時代的にそれだけではもう説明できないフェーズに来ていると思います。つまり保守とかリベラルという言葉の意味そのものが一義的な物言いでは説明できなくなっている。冷戦構造の、右とか左とかいう二元論で簡単にものごとを説明できた時代はもうとっくに終わっています。政治的理念というものを推し量るときに、50年前の、賞味期限が切れた政治言語を使ってもしょうがない。野田政権なんかは政治的理念そのものが無いですし。

自民党は自民党で、50年前の政治言語でしかものごとを語れない人たちが執行部に居座り続けるかぎりは、その劣化した言説で反感を買うだけだと思います。


民主党は分裂できるか

民主党は「自民党化」しています。それはもともと民主党内にあった自民党的要素が顕在化しているということです。小沢-鳩山ラインでスタートした民主党政権が、党首の交代ごとに小鳩ラインから遠ざかっていったことと、自民党化してきたことは無関係ではありますまい。内田樹さんは、「さよなら民主党」という刺激的なタイトルの記事でこう述べています。

さよなら民主党 - 内田樹の研究室より
民主党は自民党と連合する勢力と、小沢・鳩山派に別れた方がいいと思う。
つねづね申し上げているとおり、民主党は自民党の旧田中派の流れを汲み、自民党は旧福田派のアバターである。
増税・原発再稼働・TPPに賛成、新自由主義、対米従属、「選択と集中」、競争と格付け、飴と鞭、勝ち組への資源集中による国際競争の勝利は福田派の綱領である。
増税・原発再稼働・TPP反対、一億総中流、都市と地方の格差解消、バラマキ、一律底上げ、対米自立は田中派の綱領である。
両派の考え方は、小平と毛沢東くらいに違う。
でも、このような対立的な世界観をもつ党派が両端にあることで、私たちはそのつどの歴史的条件の中で、より適切な政策を選択する「枠組み」を持つことができる。

民主党はこのあと、自民党と合流する部分と、消費増税反対・原発再稼働反対を貫く部分に分裂するほうが筋が通ると思う。
「田中派的民主党」が消費税と原発を争点に掲げて、総選挙に打って出れば、とりあえず私たちはこの二つの政策について、結果がどう出ようとも、主権者としてかかわることができる。
そのような「選挙の洗礼」は、国の未来にかかわるこの二つの政策については必要だろうと私は思う。


たしかにこれが筋だと思います。

3年前の政権交代は「自民党へのNO」でした。50年も続いてきた自民党政権が覆ったという事実それ自体だけが価値あるものだったとも言えます。当時は「政権選択選挙」という言葉がしきりに使われ、マニフェストが掲げられましたが、けっきょくあの時民主党が掲げた政策は、民主的な手続きのないまま勝手にほとんど反故になっているわけです。もはや選挙制度や民主主義そのものへの信頼すら失われてしまっています。次の選挙は「民主党へのNO」になることは必至でしょう。

ぼくも「さよなら民主党」と言いたい。けれども、いまのままでは次に投票する政党がありません。消去法で選ぶといっても選択のしようが無いくらい。

民主党は「政権交代」という偉業を成し遂げました。それだけで充分です。はじめての政権交代は、現政権へのNOでした。民主党は、慣れない政権運営によって日本という国の抱える“構造的”病理を浮き彫りにしました。あとはもう不退転の決意とか責任とかで余計なことをしないでください。

さて、自国の構造的疾患が分かったいま、次の政権交代が起こるとしたら、現政権へのNOだけではなく、今度は政策というか国家ビジョンで選びたい。内田さんが指摘する対立軸は、国家の行き先を占うとても重要な項目です。それらは、今までの右とか左とかいう政治言語では言い表せない。けれども、多くの人がいまの日本社会で生活をしている中で感じていることの根底にある要素だと思います。ぼくらはなにを大切にしたいのか。「経済」なのか「人」なのか。(すごく大事なのでまたべつの機会に書きます。)

内田さんの言うように「田中派」と「福田派」(ぼくは田中派とか福田派ってよく分からないので、自民党と連合する勢力と小沢・鳩山派と理解します)に分かれてくれるならば、それがすっきり区別できるし、それをもとに投票できます。消費税や原発再稼動という、国の基幹に関わる問題が立ち上がっているいまこそ、有権者として「なにを大切にしたいのか」を確認しておきたい。人材がいないとは思いません。森ゆうこ議員、川内博史議員、京野きみこ議員、三宅雪子議員、馬淵澄夫議員、松井孝治議員など、民主党内にも筋を通してくれそうな人たちはいます。

敗れるのが見え見えだから、野田首相が自ら解散総選挙という決断をすることは無いでしょう。できるかどうかは知らないけれども、民主党を「田中派」と「福田派」に分裂させるとしたら、小沢一郎しかいない。へんてこな裁判が終わったと思ったら、今度はなんか離婚だの隠し子だのといろいろスキャンダルが絶えませんが、日本に政党政治を定着させるために動くんなら、いましか無いんじゃないですか。これで動かないならば、小沢さんに対する見方をちょっと変えないといけないかもしれません。

さよなら民主党 そして次のフェーズへ

さよなら民主党 そして次のフェーズへ 2012.06.15 Friday [政治・メディア] comments(0)
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法案は次々と死んでいき、不退転の野田が後に残された。彼が増税をなしとげ、そして誰もいなくなった。

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なんかほんとバカらしくなってきて、もーいーやって思いそうになるんですが、そうやってあきらめたり関心をなくしてしまったらそれこそ彼らの思うつぼなわけで、いったん糸が切れたあたまの中を整理するのはめんどくさいんだけれども引き続き注視していかなきゃならないと思いますが、あんまりバカらしかったので書いておきます。

昨夜の報ステで古館アナも言及していた国会での駆け引きについてです。
このたび焦点になっている「増税」って、「社会保障と税の一体改革」という大きなテーマがあった上での話ですよね。ところが、民主党は目玉の政策であったはずの「最低保障年金」「後期高齢者医療制度の廃止」を見送り、「総合こども園」も取り下げる方向であるとのニュースが。

あの全然わからないのですが、増税の理由だった社会保障の法案を取りやめることで自公と歩み寄って増税するって論理破綻してませんか。それで自公は社会保障には反対して増税だけは仲良く同意するんですか。えーと、それが政治的な駆け引きってやつなんでしょうか、全然意味がわからない。

ふつうに生活が苦しい人が増えている(子どもの貧困率が日本ワースト9位との報も)中で、社会保障の抜本改革に手を付けないままに、つまり生活苦の人たちをほったらかしにしたままで、財源が無いから増税だけはするって、しかも大企業の法人税は優遇したままで、所得に関わらず等しく負担がかかる消費税でそれを行うって、「国民の生活が第一。」と謳っていた頃の民主党のすがたは影も形もありませんね。ほんとうにこの島から人がいなくなることを望んでいるんでしょうかね。

いずれにしても、野田“増税”内閣がほんとうに増税だけしか考えていないことが改めて浮き彫りになったわけで、その背後に財務省の意向があることは見え見えだし、仮に首相が「責任をとって」辞めたからといって、この官僚主導の体質を変えない限りは同じことのくり返しであって、自民党のお家芸だったその官僚主導から脱却して「政治主導」を進めるのだと謳っていた民主党にもそれが出来なかったという事実は、官僚主導の構造がいかに強固であるかを知らしめる結果になっているわけだし、野田“増税”内閣に至っては自民党以上に国民不在の官僚べったりぶりで気持ち悪いです。


「総合こども園」を含む子ども子育て新システムについて

今回の法案に関して、ぼくは「最低保障年金」「後期高齢者医療制度の廃止」についてはよく知らないので、「総合こども園」を含む子ども子育て新システムについて少しふりかえってみます。

「子ども子育て新システム」は3つの法案から成っています。国会に提出されたそれぞれの法案は以下から読むことが出来ます。

子ども・子育て支援法案
総合こども園法案
子ども・子育て支援法及び総合こども園法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律案

とはいえ、こんなの読む時間も気力もないです、ぼくは。
時間のある方はぜひお読みになって感想をお聞かせください。

この案はもともと自民党時代に出されたものだそうで、だいぶ長いことあたためてこられたもののようですが、こんな大事な改革を密室政治だけで決めるのはいかがなものかという声が出て、一年ほど前に急遽「有識者」を集めて検討会議を開いたのだそうです。ぼくが新システムについて知ったのもこの頃でした。そういう意味では、この検討会議が開かれることによって、広い議論が行われるようになったということは事実だと思います。

首相は「新システムは、民主党を中心とする政権の真骨頂で社会保障改革の柱だ。税制改革関連法案と同時提出になるので、その準備もしっかりしてほしい。この新システムの意義を国民に広くPRし、法案を通すための総力を結集してほしい」と3月に言ってました。

と同時に、この法案はもともと官僚主導で出てきた案ではないかという疑門の声はずっとあって、検討会議はただの目くらましじゃないかという見方もありました。こうして手のひらを返すように妥協案に応じた今となってはやっぱりそうだったのかと思っちゃいます。ぼくは個人的には新システムの骨子部分に懐疑的だったので、法案が通らなかったこと自体は歓迎していますが、そもそも法案を決めるような人たちは子どものことなんか少しも考えていなかったのだということに大きな徒労感に襲われます。国会では残りの期日で法案を通したい官僚の説得が続いているらしく、まだどうなるか分からないそうですが。増税だってどうなるか分からんですし。

新システムがどういったものであるのか、またぼくが新システムに懐疑的である理由などは、このブログで何度か書いてきましたので、詳しくは下記をご覧になってください。

2010.11.20 幼保一元化を含む子ども子育て新システムについて
2011.10.18 「子ども子育て新システム」その後
2012.03.07 総合こども園という欺瞞と、衰退するマスメディア(子ども・子育て新システムをめぐって)
2012.06.02 子ども子育て新システムから感じること

いずれにしても、賛成にしろ反対にしろ、この問題に真剣に取り組んできた多くの人たちの「思い」は、増税の「ダシ」に使われただけだったとしか思えないですね。唯一よかったことというと、この新システムのことを知って、子どものことや保育のこと、教育のことについて考えるようになったこと。こうして文章としてまとめておくと、後あとになって自分でも参考になります。テレビやマスメディアの情報に流されずにマイペースで1年近くこの問題を考えた結果として、いろいろなことが見えてきました。


國分功一郎さんのツイートより
朝、新聞をみたら、民主党が保育園「新制度」を断念、「総合子ども園」案は廃止。この案、正気の沙汰とは思えない、問題だらけの案だったので、廃案自体は歓迎だが、結局は消費税を巡っての野党との取引の結果のようだ。

根本的に間違っているものを弥縫策で何とかしようとし、結局、その問題点を理由にするのではなく、政治的な駆け引きの結果として引っ込める。この案はそもそも自民党時代に出されたもの。民主党にはそれを完全にひっくり返すチャンスがあった。

国会というところは意外にアッサリとトンデモ法案を通す。議員はほとんど法案のことなんか理解してない。保育新制度案についてもそうだった。そういえば、安部が通した武道必修化が近々実施されるらしく、問題になっていると聞く。これも冗談みたいな話。しかし事実。

二年前、民主党政権誕生直後に白井聡君と雑誌『情況』で話をした(テーマはドゥルーズ=ガタリ)。白井君は、知識人は後でとやかく言われない様に民主党には期待しないみたいなカッコをつけるが、ドンドン期待すればいいんだと言っていて、俺は大いに賛成した。今は大いにガッカリするべき時である。

そのガッカリは無駄ではない。ガッカリしながらいろいろ思い出せばいい。あいつらが何を言っていたか。そして、我々はあいつらとグルになって何をしてきたか。例えば大飯原発再稼働で野田は叩かれてはいる(一部から、かもしれんが)。しかし、脱原発と口にした首相を全力で蹴り落としたのは我々だ。

今、この二年半ぐらいのこと、民主党政権誕生、震災、原発事故、あの悲惨な被害、原発・震災への政権の対応……全てを思い出してみる。テレビを消して、目をつむり、知っていたはずのことを思い出してみる。


最後に愚痴らせてください。

子ども子育て新システムなんつって、やっぱりまず先に増税ありきの話だったんじゃん。野田なんか中身ぜんぜん理解してないでしょ。ばかじゃねーの。
政争するなら勝手にやってりゃいいけどさ、子どもをダシに使うんじゃねーよ。ほんとサイテーだな。

そのことをよーく覚えておくためにここに記しておきます。




追記(6/14)
内田樹さんがいよいよ政権交代を総括、民主党を総括する記事を書きました。タイトルはずばり「さよなら民主党」。

さよなら民主党 - 内田樹の研究室

もうほんと「さよなら」でいいです。機能不全に陥っている党内でなんやかんや言っても暖簾に腕押しでしょう。ほんとうに誰もいなくなってしまう前に早いこと分裂してください、小沢さん。これで動かないならあなたにもがっかりします。さよならはまだ言いたくないですよ。

法案は次々と死んでいき、不退転の野田が後に残された。彼が増税をなしとげ、そして誰もいなくなった。

法案は次々と死んでいき、不退転の野田が後に残された。彼が増税をなしとげ、そして誰もいなくなった。 2012.06.13 Wednesday [政治・メディア] comments(0)
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片山さつき議員の言動と、SNSによるつながりと分断

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片山さつき議員のツイッターが酷いことになっています。6月6日のこのツイートとかすごいですね。

ミヤネ屋で河本梶原を必死に擁護の弁護士が朝鮮学校の弁護士! http://gsoku.com/archives/8100266.html 普門大輔弁護士の外国人参政権著作、過去の弁護案件、あくまで客観的にツイートします(笑)しかもこの日のいつもの弁護士コメンテーターではない?面白い!BPOでガンガンやりましょう!


これに対して、以下の記事にて冷静な見解が掲載されています。同感です。

片山さつき議員による弁護士活動の自由に対する挑戦 - la_causette

いやしかし最近の片山さんの言動は、ちょっと常軌を逸しているように感じます。生活保護の問題をダシにした個人攻撃。テレビに出演し、2ちゃんをソースにしたデマを涙ながらに訴えるとか(これについてはカンニングの竹山さんが抗議されています)。ツイートもそうだし、リツイートも酷い。相変わらず2ちゃんレベルの書き込みをもとに、河本さんをバッシングしたことへの自己正当化とか、どこのネトウヨだよと。あなたほんとうに政治家ですかと耳を疑いたくなります。

ぼくの“感覚”からすると、こんなレイシズム丸出しの文章をわざわざ公開の場に晒すなんて、どう考えてもイメージダウンであり、「選挙的」にもおいしくないと思うのですが、そういう“感覚”は一般的ではないんですかね。
片山さんはほんとうに頭がいっちゃってるのか、それとも、こういう発言をしたほうが支持を得られると思っているからそうしているのか。ぜんぜん分かりません。いずれにしても、ぼくが彼女を支持しないことだけは間違いないですけれども。

ただ、これがもし「時代の空気」なのだとするとちょっと怖いですね。内田樹さんもこう指摘します。

内田樹さんのツイートより
AERAの原稿だん。「ゼノフォビア」的な政治的言説の異常発生(チャドクガ的)に対する不安を記録しておきました。もしかすると次の選挙では「排外主義的」スローガンを臆さずに口にした候補が無党派層の票を集めて当選するという事態が起こるかも知れません。

片山さつき議員の言動はそのための「瀬踏み」なのかも知れません。自民党の幹事長は「あの人」の息子ですからね、自民党は「日本を日本人の手に!」というような情緒的なスローガンで党勢回復を狙うかも知れません。いや、僕が自民党の執行部にいたら「その案」についてPT作りますよ。


この「排外主義的」な言説が台頭する昨今の風潮が、戦前の空気に似ていると危惧する指摘も、ネット上ではたびたび目にしますが、それもあながち…。この“空気”が先鋭化していくと、こういう事態(→生活保護受給問題のデモ集団が老人へ暴力(youtube))に発展するのは必然ではないかと。


SNSで加速する憎悪や呪詛のことば

片山さんのあまりのノリノリっぷりを見ると、ああこれはSNSによるイデオロギーの暴走なんじゃないかと勘ぐってしまいます。つまり、彼女が見るツイッターのタイムライン上にはいわゆるネトウヨ言説が並び、そこではなんの違和感も無く正義が進行しているんだろうなと。ぼくの“感覚”からするとちょっと信じられませんが、彼女自身は“本気”でこれが正義だと思い込んでいるのでしょう。SNSは“つながり”を生むと同時に“分断”を生むんですね。

SNSが普及する前であれば、情報というものは誰かを何かを経由して届けられていたはずです。確かな情報だけではなく、たとえば2ちゃんに書かれるようなソース不明な情報もあったでしょう。そこで身の回りに情報を振り分けしたり助言なりをしてくれる人がいたと思うんです、国会議員ともなれば尚さら。もちろんアドバイザーが偏っていれば情報も偏ってしまうでしょうが、ある程度のストッパーとしての役割は持っていたはず。自民党だってもともと雑多な集団でしたし。

ところが、ツイッターやフェイスブックといったSNSツールは、2ちゃんの言説と議員を直接つないでしまった。そこで、いままでリテラシーの訓練をしてこなかった議員は、自らで情報のバイアスを見定めることができなくなった。だから片山さんのように、自分にとって都合のよい言葉だけが耳に入り、それ以外のものはシャットアウトしてしまうという、政治家としては致命的な事態に陥っているのではないかと。ちなみに、いまの自民党自体にそういう排外主義的な体質が伺えるのが、民主党がいかに無能であっても自民党は支持できない理由でもあります。

ぼくだって、ツイッターでは自分が興味のある人しかフォローしていないし、意識的にしろ無意識的にしろ取捨選択する情報は選り好んでしまっていると思います。ただ、少なくともそのことを自覚しているかどうかで、その後の立ち振る舞いは大きく変わってくると思います。タイムラインに流れることばが決して世間を代表しているわけではないと知っているならば、理解できない他者に対する寛容さの必要性を感じるし、そういう言説に対峙したときに、打ち返すばかりでなく受け流す術が出てくるのではないかと。


いわゆるネット上の「炎上」には、目を覆いたくなるような憎悪や呪詛のことばが溢れています。SNSによって直接つながることで、憎悪や呪詛のことばは加速します。
もういちど、内田樹さんのツイートより
だんだん心配になってきたのは、ゆうべ安田浩一『ネットと愛国』を読んだせいもあります。怖い話でした。「怒り」という感情は実は身体性をともなわない。怒りが激烈であるためには「身体をもっている」ことがむしろ邪魔になるからです。ネットで憎悪や呪詛が増幅するのは、たぶんそのせいです。

気鬱なときに、人間は「怒りっぽく」なりますでしょう。気鬱なときに、空腹を感じたり、眠気を感じたり、エロティックな欲望を感じたりすることはあまりありません。つまり、生命力が衰えているときに、身体資源が乏しくなっているときに、それでも作動する感情が怒りなんだと思います。

たぶん怒りはいちばん「安い」身体資源で物質化できる感情なんです。身体資源の貧しい人間にはそれを燃料にして作動できる感情が「怒り」しかない。「悲しみ」や「喜び」でさえ、もっと身体資源の供出を要求しますから。日本人は身体の豊穣性を失いつつあるということなのでしょう。


「怒り」によって人がつながり、「怒り」によって人が分断される。分断されたあちら側とこちら側の間には埋まることのない深い溝が横たわっている。そういうことが、SNS上ではよく散見されます。「怒り」が、身体資源の貧しい感情であり、日本人は身体の豊穣性を失いつつあるという内田さんの指摘はまったくもってなるほどと思います。

ただ勘違いしたくないのは、SNSが「怒り」を生んだわけではないという点。インターネットは、つながる速度(=分断する速度)を加速させただけであって、分断っていうのはもともと日本社会の至るところに存在していた。SNSは、もともと存在していた分断を“可視化”したにすぎない、と考えるのが妥当であるように思います。

みずしまひさみつさんのツイートより
「ネトウヨ」などというと、ネットが右翼的思考を増幅させているかのようだが、むしろ逆で、もともと人々の心の中は広く潜在的に右翼的な心情がはびこっていたのであって、現実社会がそれをギリギリ抑え込んでいただけだったのかも。ネットだけでなく、現実の抑止機能が衰えたことの方が問題。


利権であるとか、それをもとにした対立や分断はいたるところに存在します。それはもう「在る」んだからしょうがない。それらの利害関係を調整して、公的資金の再配分をすること。つまり、もともと存在しているその“分断”を少しでも埋めようとするのが「政治家」の仕事だと思うのですが、片山さん、逆に煽動してどーする…っていう。

自己責任を高らかに謳う人の多くは、なぜか自己ではなく他者に向かって自己責任を説きます(実際にはそれを盾にしたバッシング)。政治家が自己責任ばかりを強調するようになったら、それは政治家じゃなくてイデオロギー啓蒙家じゃないかと思います。と同時に、ぼくたちは政治家にいったい何を求めているのか、いつも自問しなければと思います。若い人たちは特に気をつけないと、煽動にのって他人をバッシングしていたつもりが、その刃は巡り巡って自分に降りかかってきますから。

片山さつき議員の言動と、SNSによるつながりと分断

片山さつき議員の言動と、SNSによるつながりと分断 2012.06.08 Friday [政治・メディア] comments(0)
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沖縄と本土 二面性

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沖縄が日本に復帰してから今日で40年だそうです。
沖縄 復帰40年の節目の年 - NHKニュース

だそうです、っていう言い方が象徴していますが、TLに流れる幾つかのツイートがなければ知らないままだったかもしれません。つまりは関心が薄いし、他人事です。まずはそういう自分を認識させられます。

NHKニュースより
NHKが、ことし行った世論調査では、「本土の人は沖縄の人の気持ちを理解していると思うか」という質問に対し、「理解していない」と答えた人が71%と、10年前の調査と比べて10ポイント以上増えています。


NHKが調査するまでもなく、本土の人間は沖縄の気持ちを理解なんかしていないし、そもそも沖縄のことを考えていないし、気にも留めていないでしょう。基地問題と外交について持論をぶつけ合う言説はよく目にしますが、それって政争の材料になっているだけで、「沖縄のことを考えている」わけではないように感じます。沖縄の住民のことは放ったらかしで、イデオロギーのネタに利用されているだけのような。そしてだいたいの「ふつうの人」は、その手のイデオロギー論争は忌諱してしまうわけで、ますます沖縄は遠くなります。


Coccoのことば

沖縄出身のCoccoは、普天間をめぐる迷走が空転する頃に「ニライカナイ」という曲をリリースしました。その前後にテレビのインタビューにも出演しており、ぼくはその姿と言葉にとても感銘を受け当時のブログに記しました。→Coccoと沖縄

鳩山首相の「最低でも県外」発言を受け、基地への反対運動が高まりを見せた「人間の鎖」の映像をバックに、Coccoはこう語っていました。

沖縄の人がこんなに一緒になったことはなかった

歌を歌う人はみんな、夢はきっと叶う、って歌う。
けど、夢が叶ったことなんていちどもなかった。

(基地という現実を、あきらめて、受け止めて)
なんくるないさあ、って、しょうがないよ、って
明るくウタを歌ってすごすしかなかった、
おじいとおばあに、
ああ、やっと見せてあげられる、
夢が叶うこともあるんだよ、って
やっとそう伝えることが出来るんだって


しかし、けっきょく「最低でも県外」が守られることは無かったわけです。どのような気持ちでその現実を受け止めなければならなかったか。それでも彼女は沖縄と向き合います。当時の新曲には、その強い思いが込められているのを感じました。

沖縄に殺される。
沖縄のことを考えると、苦しくて、苦しくて
毎日のニュースを見るだけで死にそうになる。


そういえば、Mステに出演して「ニライカナイ」を猛々しく歌った後に、その場に倒れ込むかのように衰弱した彼女の様子がちらりと映ったことをぼくはよく覚えています。ああ、この人はそれだけ全霊をかけて、たましいをふりしぼってうたを歌っているのだと、なんだか畏れ多い気持ちになりました。


沖縄と日本

「長引く基地問題の解決に向けた国民的な議論を」とか「自立した経済の発展」とか、本土のメディアはもっともらしいことを語ります。でも、本土に暮らすぼくたちはいったい沖縄のことをどれだけ理解しているのか。倒れ込むくらいに引き裂かれる、それが日常となっている人たちにどれだけ寄り添っているのか。その気持ちのすべてを理解はできなくとも、どれだけ想像することができるか。

かといって、たとえばCoccoの言葉のほんとうの意味などというものは、体験した本人以外には知ることはできません。今回のように、年に一度のイベントの時にだけ、まるで沖縄の代弁者であるかのようにふるまってわかったつもりになるのも違うと思います。被害者の感情を勝手に代弁して自己満足する“マイノリティ憑依”は、あくまで感情レベルでの憑依にすぎません。そういうのって、当事者からすれば余計なお世話です(ぼくならそう思う)。そうではなく、ただ知ること。

本土の人間は、沖縄人にはなり得ない。当事者にはなり得ない。人でなしと思われようが沖縄のほんとうの気持ちなんてわかりっこないんです。そのことはドライに捉えていいと思う。そのことをわかった上で、現場の声に耳を傾けること。同じ現場に立てない者として、違う立場から一緒に考えていくこと。それが誠実な態度だと思うし、寄り添うっていうことなんじゃいかと。これは震災被災地に対する接し方と同じことだと思います。

自分自身の沖縄に対する無知と無関心を顧みるに、沖縄のことをちゃんと伝えている本土のメディアなんて存在しないんじゃないかと思ったりもします。これは直感ですが、ほんとうは沖縄の問題って、戦後日本の問題の縮図でもあるのではないかと(2010年11月の沖縄知事選の時にそう感じました)。沖縄の問題を知ることは、日本を知ることでもあり、つまりは自分自身を知ることなんじゃないかと思います。本土のメディアは、沖縄のことだけでなく、日本のこともわかっていないし伝えていない。日本はアメリカの属国だという前提の上で、それをどう咀嚼していくかを論じるメディアは本土には存在しません。

ぼくは以前、沖縄米軍の抑止力についてという記事を書きました。ほとんど内田樹さんの受け売りです。日本はアメリカの属国である(沖縄の本土復帰後もその構図は変わっていない)という耐えがたい事実を受け入れて、それを前提にしないと、基地問題の議論のスタートラインにすら立てないという、内田樹さんの指摘以上に説得力のある処方箋をぼくは知りません。

沖縄について、基地問題や外交の専門家、政治家の主張はぐぐればわんさか出てきます。そうやって定型の蘊蓄をあれこれ仕込んで脳みその外堀を固めてしまう前に、まずは内田樹さんの記事を読んでいただくのがよろしいかと思います。下記リンクは沖縄タイムスのインタビューに応えたものです。

沖縄タイムス・ロングインタビュー - 内田樹の研究室

沖縄問題は、政治家や学者から「筋が通った話」を聴いた覚えがありません。
「筋が通っている」のは沖縄現地の人たちの「基地があるせいで、生活者レベルで苦しみが多い」ということと「基地があるせいで、経済的振興策の恩恵を受けている」ということに「引き裂かれている」という現実感覚だけです。
「引き裂かれていて、気持ちが片付かない」という沖縄の人の感覚だけは「筋が通っている」。


これがすべてを物語っているように思います。
基地のせいで苦しむ人と、基地のおかげで潤う人。沖縄にもそういう二面性がある。あるいは、ひとりの沖縄人の中にもそういった二面性があるかもしれない。どちらが正しいのかはわかりません。ただ、沖縄の人たちはそういった二面性と何十年もつきあい続けてこなければならなかったということは事実でしょう。

自己の二面性と向き合うのは、苦痛を伴います。白黒はっきりしなくて気持ち悪いし、不安にも耐えなければなりません。誰だって気持ち悪いのはイヤです。気持ち悪い要素はなるべく排除したいって思う。早くすっきりしたいと思う。でもほんとうにお前はそんなにすっきりとした人間なのかと自分に問いかけてみる。よくわからない。わからなくて気持ち悪い。

日本は属国だということを直視すること。それは日本人にとって、メディアにとって堪え難いことかもしれません。でも現実としてそう考えたほうが腑に落ちるし、日本を取り巻くいろいろな問題が線でつながってくる。まずは自分自身のことを見つめなければ、自分の言葉は出てきません。議論のスタートラインにすら立てない。内田さんの仰る通り、そういうことだと思います。


沖縄のメディアと全国紙

小沢一郎に無罪判決が出た時に、この判決の意義をまともに伝えたのは琉球新報でした。

小沢判決/検察の「闇」が裁かれた 全面可視化しか道はない - 琉球新報

対して、本土メディアの論調はこんな感じ。
読売:復権の前にやることがある「秘書任せ」の強弁は許されない
朝日:政治的けじめ、どうつける
日経:無罪判決を「小沢政局」につなげるな
毎日:なお政治的責任は重い
産経:証人喚問で「潔白」示せ このまま復権は許されない
東京:許せぬ検察の市民誤導 / 政争よりも政策実現を

沖縄の問題ではないのに、沖縄のメディアがほとんど唯一まともな記事を書いている。この件に限らず、琉球新報や沖縄タイムスの記事はいつもまともだと感じます。なぜ沖縄の新聞はまともなのでしょうか。報道陣の意識が高いのか、それとも県民の意識が高いのか。米軍基地に象徴されるように沖縄が明らかに日本の中でも虐げられていることと関係あるのでしょうか。あるとしたらどのように。

沖縄発のメディアは、小沢氏個人の問題よりも日本の構造的な問題を問います。いつだってそうです。全国紙は小沢氏個人の罪を問います。日本の構造的な問題は黙して語らず、スケープゴートを探す。いつだってそうです。これは、そのままそれを受け取る購読者の意識にも反映します。

日本の構造的な問題を問うということは、自分自身を問うということ。沖縄発のメディアが日本の構造的な問題を問うことができるのは、引き裂かれた自己の二面性と向き合っている(60年以上もそうせざるをえなかった)からではないかと思います。自分たちの中にある二面性と向き合うこと、それが自省ということだと思います。全国紙そしてぼくたち有権者に圧倒的に足りないのは自省です。

日本はアメリカの属国であるという視座に立ち、沖縄の問題はそこから生まれたという認識のもとで、さてじゃあどうしようねと考えていこうとするならば、沖縄の問題は他人事ではなくなります。沖縄が持つ二面性は、そっくりそのまま日本が持つ二面性です。二面性を内包する気持ち悪さを、気持ち悪いままに携えること。自己の気持ち悪さを受け止めることができたときに、はじめて、立場の違う他者や共感できない他者のことも受け止める(ないしは受け流す)ことができるようになるのではないかと思います。そうすることでしか多様性は担保できないのではないかと。

沖縄の問題を解決に導くことができるとしたら、それは白黒はっきりつけた「正解」を提示することではなく、二面性や多様性の中でお互いが落としどころを探りながら「最適解」を求めること、求め続けることでしかないように思います。簡単な言葉でまとめたり、正解を求めようとする言説はほとんど詭弁です。

長い旅の末に、ナウシカが墓所で腐海の秘密を知り、1000年前の人類と対峙して交わした台詞を思い起こします。
「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」
「いのちは闇の中のまたたく光だ」


闇は自分の中に「も」あります。世界をかたちづくっているのは自分「も」含めた、闇も光もある多様なグレーゾーンです。闇とも向き合ってともに付き合っていく覚悟があるならば、そうしてなされた熟慮があるならば、闇の中から光を見いだすこともできるでしょう。 いや、できると信じたい。利権ばかりむさぼってる奴も、清く正しいことばかり言ってる奴も、どっちも嘘こいてんじゃねーよって思います。そのどちらも自己の中に内在しているはずです。

ぼくたちは沖縄の人たちのふるまいや暮らしぶりから学ぶことは多いのでは。

沖縄と本土 二面性

沖縄と本土 二面性 2012.05.15 Tuesday [政治・メディア] comments(0)
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既得権益ってなに? 橋下市長の言ってることとやってることを線でつなぐ

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橋下市長って、既得権益にメスを入れる、仕組みを変える、っていう主張で当選したと思うんだけど、実際にメスを入れたのって、小学校の教員だったりバスの運転手だったり保育士だったり大阪市音楽団だったり、それほんとに「既得権」か?と思うようなところばかりですね。


大阪市音楽団が橋下市長のターゲットになっているという山形交響楽団の飯森さんのツイートを読んで、何気なくつぶやいた上記のツイートが、一晩明けたら200以上RTされててびっくりしました。特に著名人を介した様子もなくここまで広がったのは、橋下市長への注目度の高さの表れだなあと感心してみたり。

あの、結局は「信用できない」って話になっちゃうんですけどね。まあ民主党政権だって信用できないわけで、信用できる政治家なんているのかっていう疑問もあるし、あんまり橋下市長ばかりdisってるとそれこそ既得権益とか在日とか言われそうなんですが、信用できないと思うに至るまでの過程っていうのを、各自が確認することが大事だと思うので記しておきます。

ぼくはもともと橋下氏の言説には違和感を感じていました。この人とは仲良くなれそうにないなという類いの「なんとなく」の違和感だったし、そういう属人的な批判をしてもしょうがないので胸にしまっていました。と同時に、大阪市長選の前後、とくに当選直後に吹き出た「反橋下」の風潮にも、それはちょっと違うんじゃないかと思っていました。いま読んでもわけが分かりませんが、その当時、わけの分からない文章を書いたので紹介しておきます。

硬直化する対立構図において反橋下派は永遠に橋下氏には勝てない。ゲロンパ。
続ゲロンパ 論理と直感と一般意志2.0

当時感じていた「反橋下」派への違和感っていうのは、彼らの主張が橋下氏の資質とか人間性云々を槍玉にあげるようなものが多く、もうすでに就任してしまった人物に対していまさらそんなこと言ってもしょうがないだろうという感想でした。彼がこれから行うであろう個別の政策についてひとつひとつ考えていくしかないし、そこにおいて批判であるとか議論というものが成立するんじゃないかと。

で、いろいろなニュースを積み重ねるにつれてわかったきたのは、「言ってること」だけで、正しい/間違いの論を展開するのが橋下流の弁論なんですね。彼は、常に「その場」での正しさを弁によって展開する(彼が弁護士として培ってきた手法なのでしょう)から、「言ってること」と「やってること」を線でつなぐ作業が必要になります。「言ってること」だけで論争しようとしたら、反橋下派のように無惨にやられるのがオチです。っていうか、やったやられたの論争って必要なのかという疑問。弁によってその場を取り繕う話術は、その瞬間だけを切り取るマスメディアとは相性がいいし、興味の無いことはすぐ忘れる視聴者(劇場型政治の観衆)がそれを支えています。

「言ってること」と「やってること」を線でつなぐ作業ていうのは、論争じゃなく検証です。政権交代前のマニフェストをあっさり放棄した民主党もそうであるように、口ではなんとでも言えるわけで、たとえ賛同できる主張をしているのだとしても、それが単なるリップサービスにすぎないのかどうかを見極める必要があります。言葉を額面通りに受け止めるのではなく、発言の背後を想像すること。言ってることとやってることを照らし合わせること。政治家がやってることと自分の暮らしを照らし合わせること。

で、橋下氏はさかんに「既得権益」というフレーズをくり返していますが、実際に彼がメスを入れた「既得権益」ってしょぼいですよね。冒頭のツイートはぼくの主観的な感想ですが、彼は脱原発のポーズをとったりもしたけど、電力会社の総括原価方式や発送電一体、地域独占にメスを入れるっていう具体的な話は聞かないですし。

当選直後の反橋下派の言い分はただの「懸念」でしかありませんでした。だから逆に叩かれてしまいました。その懸念が具体的な法案等となって実際に出されてきたいまこそ、そういう批判がなされて然るべきだと思います。ほんとうは新聞の社説や池上彰的なテレビニュースこそが、そういう大局的な視座に立った「検証」をする立場にあるのだと思うし、そろそろそういう言説が出てきてもいい頃だと思うのですが、メディアはそういうこと言わないですね。

橋下氏の「言ってること」と「やってること」に興味のある人は各自でぐぐってくださいね。各自が確認して、各自が自分なりの感想を抱くことこそが、大事だと思います。ぼくは、保育所面積基準の緩和や学童保育予算廃止というニュースを知った辺りから、信用できないと思うようになりました。

「教育」の出発点(大阪市の保育所面積基準緩和および学童保育予算廃止について)

この後に出てきた維新の会・家庭教育支援条例案も酷すぎて呆れました。やっぱり子育て世帯としてはこういうニュースには敏感になっちゃいます。いくら画面の中で「いいこと」を言われても、やってることが違ってたら詭弁にしか聞こえません。「言ってること」は、画面の中だけで完結します。画面の中の出来事を自分の意見や感情と取り違えちゃうような、劇場型政治の観衆になってしまったら、それこそ何でもかんでも都合の悪いことを「既得権益」で説明してしまう定型的な短絡思考に陥ってしまうでしょう。橋下流の話術とそれを受け売りする人たちのおかげで、「既得権益」という言葉の意味は死んでしまったかもしれません。

誰だって、何だって、自分と関わらない部分は既得権益に見えるっていうことですかね。隣の芝生は…ってやつでしょうか。そういう側面は自分の中にもあるということも頭に入れておきたいなとは思います。そういう意味でも「言ってること」と「やってること」を線でつなぐのは、各自が各自の立場と思いからでしか出来ないし、多様なソースと各自のバイアスに基づいて然るべきだと思います。与えられた情報をただそのまま消費するだけの、送り手にとって都合のいい消費者にならないように。

相田監督のツイートに同感です。
橋下氏や維新の会に違和感を憶えても、それをなかなか言語化しにくい人は多いのではないでしょうか。だからまずは言語化する。語彙を形成する。それが僕が最近ツイッターで行っている作業です。それは一種の「行動」ですよ。別に支持者を減らすのが目的ではありません。


ぼくがこうしてブログを記すのもそうですが、なんか違うなという違和感や、なんかいいなという直感をもとに、語彙を形成して、言語化するのは、隣の芝生をうらやむためではありません。自分の芝生を知るためです。

既得権益ってなに? 橋下市長の言ってることとやってることを線でつなぐ

既得権益ってなに? 橋下市長の言ってることとやってることを線でつなぐ 2012.05.14 Monday [政治・メディア] comments(2)
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勇ましいオレ

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数日前のお昼に入ったラーメン屋さんでテレビが付いてたので目に入ってきたんですが、お昼のワイドショーでも尖閣諸島のニュースばかりやってるんですね。例の石原都知事による買い取り発言がトピックになっているみたいです。まあワイドショーだし、日々の放射能情報よりも尖閣問題が重要だという認識でもそれは別にいいんだけど、散々時間を割いて、専門家風のコメンテーターが眉間に皺寄せて検証した後は、うって変わって芸能特集。なんというか、相変わらずプライオリティのバランスが気持ち悪いというか、尖閣諸島のニュースをやってもいいけど、だったら原発再稼働とか他にも検証したほうがいいことはたくさんあると思うんですけどね。もういっそ、芸能ワイドショーなら芸能だけやってりゃいいのにって思います。まあ都知事閣下は芸能ニュースみたいなものかもしれないけど。

だって、昼間からこういうの見て世界を知ったつもりになっちゃうわけでしょ。まるで尖閣諸島や北朝鮮なんかが日本にとっての最優先事項であるかのようにふるまうニュースを見て、自分自身にとってもそれが最優先の政治的イシューであると思い込む人が増えるわけで。嘘こけって思っちゃいますね、ぼくは。もっとプライオリティの高い問題がたくさんあるでしょうに。自分の生活を取り巻く問題がたくさんあるでしょうに。テレビの画面の中で演じられる物語を見て、そこに自分を投影させて、まるでそれが自分の感情であるかのようにふるまうのは、内田樹さん曰くところの「イデオロギーに身体実感という担保を付ける」という刷り込みです。

尖閣諸島がどのように国益に関与し、だからどのように日中関係に対応していくかを考えることと、尖閣諸島の問題に自分の生き様を投影することは、まったく別種類のベクトルだと思います。でもこれが、ごっちゃになっている気がする。

尖閣諸島がどれだけ国益に関与してるのか、ぼくはよく知らないけど、この手の話になると降って沸いてくる自称愛国者のみなさんはいったい何を愛してるんだろうかといつも疑問に思うのです。「日本を愛する」っていうフレーズの「日本」っていうのが正体不明で。日本の何を愛してるんでしょうか。国家?土地?日本語?ふるさと?文化?ひと?家族?それとも概念? ぼくはどうも彼らの言う日本という言葉からは概念的な印象しか受けなくて、だからそんなもの人によっていかようにでも解釈されるし、正体不明だなとしか思えません。そんな正体不明なものを旗印にしたら、愛国心なんていう言葉は、国家という権力側に立つ人たちにとって都合のいい言葉として利用されるに決まってるじゃないですか。

9.11を受けてブッシュがイラクを攻撃したのも、彼の暴挙であると同時にそれだけでは成立しないわけで、当時のアメリカ国民の多くがそれを支持した結果なわけです。9.11の瞬間にあの現場のビルに居た堤未果さんは、事件以降のアメリカを覆った異様な空気を伝えています。テロへの報復とナショナリズムの高揚。テロ後には「愛国者法」なるものまで制定されました。その後のアメリカは「テロとの闘い」という大義名分のもとに、監視社会、警察国家と化し、一般市民が「安心してふつうに暮らす」という、たったそれだけの権利が奪われています。かつて日本人が憧れた「自由の国アメリカ」は、もう存在しないのです。(参考:アメリカから消えた自由。日本に生まれかけた自由。

石原都知事の発言に関しては、この東京新聞の記事にぼくは共感します。
「尖閣」石原発言 都税は暮らしのために - 東京新聞

「都の貴重な税金は子育て環境の充実など身の回りのことに使ってほしいと願う都民は多いのではないか」というのは全くそうだと思います。それがプライオリティの問題です。

日本の未来が心配だとか、やれ政治がどうのこうの、国家がどうの、って眉間に皺を寄せて蘊蓄を語る憂国の士の口からは「勇ましいオレ」の話ばかりで、なぜか日本の未来を担うはずの「子ども」に関する話題はほとんど聞かないように感じます。それって、日本を憂うようなフリをしながら実は「勇ましいオレ」を愛しているだけなんじゃないか。子どものことを考えずに、自国の未来について語れるわけがない。子どものことを考えるならば、愛国心などという得体の知れないものよりも愛郷心だろうとぼくは思います。

愛郷心とは、イデオロギーからは生まれません。「勇ましいオレ」「清らかなオレ」「正しいオレ」そんな生き様をいくら叫んだって故郷を愛する心は生まれない。愛郷心とは、身体活動を通して獲得された経験の中からしか生まれない。そういうものだと、ぼくは思います。「日本を愛する心」を教える?それって教えてもらう種類のことなんでしょうか。君が代を強制することでそれが育てられるの?ぜんぜん意味わかりません。御託ばっか並べる前に、いいから目の前の子どもを笑わせてみろよって。子どもが笑顔でいられない社会なんて、誰がそんなもん愛するかって。日々、子どもの前で道化師となっている自分はそう思います。


先ほどの東京新聞にはこう書いてあります。
田中角栄、周恩来両首相は尖閣問題を棚上げして国交正常化を果たした。自民党政権時代には中国が日本の実効支配を黙認する代わりに日本も中国の体面を汚さない黙契があったとされる。


ぼくはぜんぜん外交のことに詳しい訳じゃないけれども、毅然とした態度もけっこうだけど、うまいこと棚上げするのも外交なんだなと思います。外交は「勇ましいオレ」をアピールする場じゃないだろと。一般市民が「安心してふつうに暮らす」ために、当面の危機をのらりくらりとかわすのだって立派な外交でしょう。国民の暮らしのためなら道化師にだってなってみせる。都知事みたいに「勇ましいオレ」を見て!っていう類いの話はもうたくさんです。

勇ましいオレ

勇ましいオレ 2012.04.21 Saturday [政治・メディア] comments(0)
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総合こども園という欺瞞と、衰退するマスメディア(子ども・子育て新システムをめぐって)

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5日ほど前に、「子ども・子育て新システム」の関連法案骨子を全閣僚による少子化社会対策会議で決定したというニュースが流れた。このニュースは、「幼稚園と保育所を一体化した「総合こども園」創設を柱とする」という内容で紹介されている。
子ども・子育て新システム:「こども園」法案骨子決定 国と地方の負担1対1 - 毎日新聞

この「子ども・子育て新システム」は、少子化対策の一環として、待機児童問題を解消するための“待った無し”の政策であるというふれこみである。ところが、保育所とくに現場の保育士の多くがこの新システムに反対の声をあげている。上記記事を読んでみても、幼保一体化のはずが、なぜか幼稚園については先送りされている。そもそも定員割れを起こしている幼稚園でも3歳未満の保育を行うことで待機児童を解消するという意味での「幼保一体」じゃなかったっけ? 保育所が総合こども園になることで、どのように待機児童が解消されるのか、その相関関係がまったくわからないのだけど、ぼくのあたまが悪いんだろうか。さらには待機児童の8割以上を占める3歳未満児の受け入れが総合こども園には義務づけられていないとのこと。で、いろいろと調べていくと「幼保一体化」や「総合こども園」という政策の「看板」が実はスケープゴートであることに気づく。これについては後述する。


『バンキシャ』で少子化対策について語る野田首相

日曜日、笑点からの流れでたまたまチャンネルを付けていた『バンキシャ』に野田首相が出演していた。仮にも一国の首相が出演しているというのに、どうせ他愛も無い内容だろうなとしか思えず、見る気がほとんど起きないというのは、いかにも日テレが「独占取材」してますよ的なオープニングにうさん臭さしか感じられないからなのか、首相自身に対する不信感なのか、福澤アナが時事ネタを読むうさん臭さなのか、近年のテレビ劣化を肌で感じてきた結果として当然であるのか、まあその全部なんだろうけど、にしても自国の首相に対してあきらめの感情しか沸かないとはヒドい話だよなあと思いつつも、「少子化」についての話題が取りあげられていたので少しだけ見てみた。

まずフランスの少子化対策を紹介するVTRが流れる。「少子化対策は国の未来に対する投資である」という旨のコメントが、野田首相ではなく、司会やコメンテーターといった出演陣でもなく、国内の政治家や官僚でもなく、海外の政治家(?だと思うたぶん)の発言として紹介された。ここ、ものすごく大事な部分だと思うのでくり返すけれど、少子化対策とはいったい何なのかという大前提の骨子の部分が、首相自身のことばとして語られるのではなく、誰だかよく知りもしない海外の偉い人のコメント(の翻訳ナレーション)として流れた。もうすでにここからして、首相が少子化対策にどれだけ取り組んでくれるか、期待できそうにないと思わざるを得ない。

フランスはヨーロッパの中でも抜きん出て出生率(合計特殊出生率)が高いことで知られる。とはいえフランスも他国と同様にいちどは出生率が落ち込んだ。それが近年回復しているということで、政府の少子化対策による効果があったのではないかと注目をあびているのだ。

フランスの出生率、またも上昇 差別なき子供重視が国を富ます - JB PRESSによると、国立人口統計研究所はフランスの高い出生率の要因を次のように分析している。
第1に、保育所の充実。子供を預けるのに親の負担が少ないうえに、施設のレベルが高い。
第2に、カップルの形態がフレキシブルで、婚外子が受け入れられやすいこと。
第3に、40歳以上の女性の出産が増えたこと。


フランスでは政府による養育費支援や家族支援手当が定着しているし、妊婦支援や育児休暇を提供する労働法が整備されたこともあり、若いカップルの育児が支援される環境があるのだそうだ(参考記事)。フランスの少子化対策について調べだすと、それだけでとんでもなく長い記事になってしまうので興味のある方は各自でぐぐってみて欲しい。一口に子育て政策と言っても要因はひとつではないだろうし、複雑な要素が絡みあっての結果だと思うので、各自がそれぞれの視点から考察してみる価値はある。(ちなみに北欧の子育て事情については以前この記事に書いた)

また単に政策だけではなく、国民性というか、民族的・文化的な性質もあると思う。個人を基本とするフランスとは異なり、日本では長らく、大家族による共同生活や地域社会のコミュニティといったものが、政府による支援(社会保障)の肩代わりとなってきたわけで、個別の家庭を支援する政策が必要とされてこなかった事情もある。大家族も、地域社会のつながりも機能しなくなってしまった近年、もともと社会保障という意識の薄い日本は孤立と貧困を増大させている。そんな現状にあって少子化対策と一口に言っても、フランスのように社会保障を充実させていくのか、それとも失われた地縁コミュニティを再生していくのか、その両方なのか。大局が示されなければ個別の政策は絵に描いた餅になりかねない。

話を『バンキシャ』に戻すが、同番組のVTRでもフランスの少子化対策への取り組みが紹介されていた。保育所だけではなく、ベビーシッターを雇うのにも補助金が出るので金銭的にはほとんど負担なく子育て・共働きができるそうだ。たしかに日本と比べるとため息しか出ない。子育て世代の若い夫婦も、くたびれた表情をしていたり目が血走ったりしていないようだ(これは主観だけど、彼らは子育てもおおらかに行っており、日本人のように「なにかに追われてる感」が無いように感じた)。

この辺りでようやく野田首相の登場。何をしゃべったかというと、要は、総合こども園の創出で(フランスのように)保育を充実させる、とこれだけ。幼保一体とは何なのか、総合子ども園とは何なのか、具体的にどのような制度設計が行われるのかという説明の無いままに、単に保育を充実させるという「決まり文句」だけなのである。冒頭にも書いたが、幼稚園を差し置いて保育所だけがこども園に移行することと待機児童の解消の間にどんな相関関係があるのか、ぼくはさっぱりわからない。野田首相はもちろんそんなこと説明しないし、テレビに出ている誰も聞きもしない。そもそも総合子ども園とは何なのか、どのような制度変更が行われるのかをろくに説明しないままに、「はたして出来るんですかねえ」なんてしたり顔をするような人しかテレビには出ていないのだ。

結局なにを言いたいのかというと「増税」なんである。保育を充実させるんだから増税もやむなしでしょ、ね、と言いたいのであろう。実際、番組はその後、増税についての話題へと移っていった。なんのことはない、政府と財務省による増税キャンペーンのプロパガンダじゃないか。少子化問題をエサにするとはなんとも腹立たしい。わざわざフランスの事例を直前に流して、今回の「子ども・子育て新システム」によって彼の国のように子育てしやすい環境を整備しますよ、という「イメージ」を植え付けたいだけである。くれぐれもこれは「イメージ」である。だって、子育て支援は国の未来への投資だというのは、フランスの閣僚の言葉である。野田首相は子育て支援について今後の国の大局的な展望を何も言っていない。また、具体的な政策についても「総合こども園」という名前しか言ってない。これも「イメージ」にすぎない。ところが、もっともらしいフレーズと先ほどの他国の言葉が重なると、不思議なことに、総合こども園で保育が充実してつまりは待機児童が解消して、日本も子育てしやすい国に近づくんじゃないかという気になってしまうものである。テレビは「イメージ」を売る装置であり、その伝搬力はすごい。そしてぼくたちの脳は割と簡単に勘違いをしてしまう。

というか、これを書きながらぐぐっていま知ったんだけど、ここではっきり言ってるじゃん。「税制改革関連法案と同時提出になる」って。

新子育て支援 総合こども園創設へ - NHKニュースより
会議の中で、野田総理大臣は「この新システムは、民主党を中心とする政権の真骨頂で社会保障改革の柱だ。税制改革関連法案と同時提出になるので、その準備もしっかりしてほしい。この新システムの意義を国民に広くPRし、法案を通すための総力を結集してほしい」と指示し、必要な法案を消費増税法案と一緒に今月末までに国会に提出し、成立を期す考えを示しました。
政府は今回の支援策を社会保障と税の一体改革の一環と位置づけており、消費税率の10%への引き上げが実現した場合、増収分のうち年に7000億円程度を充てる方針です。
政府はこうした子育て支援策によって少子化に歯止めをかけ、経済成長につなげたい考えです。


えーと、頭がくらくらしてきたんだけど、ぼくのあたまが悪かったらごめん。百歩譲って、子育て支援策のために増税が必要であるとしよう(本当はその支援策が具体的にどうなるのかが大事なんだけど、そこはすっとばして、仮にこの支援策が妥当なものであると考えよう)。で、その場合、「子育て支援策によって少子化に歯止めをかけ」ってのはわかるが、そこからどうやったら「経済成長につなげたい考え」となるんだろうか。それはあまりにすっとばしすぎというか、急に土俵の違う話が出てきてギャグなのかと思ってしまった。蕎麦を食べて、蕎麦湯を飲んで、ふうと一息ついたところに豚カツを出されて、え?え?となってしまった気分。こういうニュースに突っ込みを入れるにはどうしたらいいんだろう。

でもこれ、大まじめなんである。政府がやりたいのは増税であり、経済成長なのである。子育て支援が先にあるわけではなく、増税と経済成長のために子育て支援策が必要なのである。残念ながら、ぼくはそうとしか思えないのだが、穿った見方だろうか。


総合こども園という欺瞞

ここで「子ども・子育て新システム」について整理してみる。なんだかニュースでは「子ども・子育て新システム」=「総合こども園」みたいに語られているが、実はそうではない。こども園は新システムの中の一部にすぎない(それもほとんど形骸化している)。

猪熊弘子さんのツイートより
えーっと、今、NHKニュースで<新システムの「柱」は「総合こども園を作ること」>って報じてるんですけど、そうじゃなくって、ホントの「柱」は給付制にするっていうことですから〜。保育所も介護施設や障害者施設と同じように、自己責任で選べよ、市場化するからさ、ってことですから〜。


この方の指摘は非常に端的に的を得ていると思う。
ぼくは以前このブログで「子ども・子育て新システム」についての記事を書いている。基本的にここで書いたことが思考の土台になっているので、おヒマな方は読んでみてください。
「子ども子育て新システム」その後(2011.10.18)
幼保一元化を含む子ども子育て新システムについて(2010.11.20)

要点をまとめるとだいたい以下のようなところ(弁護士であり一児の父である川口創さんの解説を参考に、ぼくの主観で編纂しています)。

現在、「保育」は児童福祉法のもとで行政が地域の子どもの保育に責任を負うことになっている。そこで公立が原則となるが、民間に委託する形で「認可」保育園が認められている。市町村が「保育の欠ける」子どもを保育する責任を負い、入所を希望する保護者は市町村に申請する。行政が、公立・認可保育園に助成し経済的に支える責任がある。

新制度案では、市町村の保育実施義務を明記した児童福祉法24条が削除され、保護者と施設とが直接契約を結ぶことになっている。「認可」という制度もやめ、一定の基準をクリアすれば「指定」がなされ、保育園の市場化を進める。行政は保育園に直接財政の支出をしない。保護者へ一定の金銭給付がなされるが、保育料は親の収入に関係なく、保育時間に応じて一律に決まる応益負担となる。


つまり、新システムは保育に関して行政の責任を無くす。
市場化するから、あとはサービスを提供する企業と消費者の間でうまくやってね、ということになる。国はあなたの子どもに対して責任を持ちませんよということだ。え、民主党の理念って、子どもを社会で育てるんじゃなかったっけ? あれは遠い昔の世迷い言だったんだろうか。それとも子ども手当だけに付随する売り文句だったのか。

なんでこういう発想になるのか。待機児童の解消が先にあるわけじゃないからだ。政府がいちばんやりたいのは「保育の市場化」なのだ。新システムの、ほんとうの骨子とはそこなのだ。だって、そう考えるとすべてがつながるんだもの。

なんせ、待機児童が何万人もいるということは、掘り起こせばビッグビジネスになるチャンスがあるわけだ。だから「経済成長につなげたい考え」となるのである。保育市場に多くの企業が参入して財界を潤してくださいよということなのだ。つまりこれは経済界が主導する流れなのだ。川口さんも、新システムの議論はそもそも「経済成長戦略」の中で出てきたと指摘する。その上で、(実際には社会保障を削るような方向にもかかわらず)社会保障的な「イメージ」付け(端的に子育て支援=いいこと!という「イメージ」喚起)をすることで増税にまで結びつけたら一石二鳥である。

一億総中流→核家族化→自己実現と、消費の細分化とともに拡大してきた消費市場はもはや頭打ちとなり、資本は新たな市場を求めている。市場になるチャンスのある場所を。規制緩和とか民営化にはそういう一面がある。かつて介護の分野にも市場原理が導入された。介護保険制度は、2005年に財政抑制を目的とした「適正化運動」によって家事援助が大幅に削減され、多くの事業者が廃業・撤退した。多くの高齢者が、生活の支えを奪われる結果となった。

そういった規制緩和の次なるターゲットが「保育市場」というわけなのであろう。これは社会保障という概念を捨て去ることになる。介護の現場が市場化されて「介護ビジネス」になったのと、全く同じことをやろうとしているのが「子ども・子育て新システム」なのだとすれば、待機児童の解消という名目で「保育ビジネス」が展開される。そうなったならば、企業活動だから利益、効率が優先されるのは目に見えている(介護市場がすでに物語っている)。

「貴女らしい保育」とか「ほんとうに大切なものを」とか、きれいな広告もバンバンうたれ一見よさげに映るようになるかもしれない。たぶん、きれいな広告をうち出せる資本をもった大手企業がもてはやされるようになるだろう。いま現場で誠実に働いている保育士たちのように「子どもと向き合う」ことは、利益や効率優先の企業活動の中では、求められなくなるだろう。おそらく、保育現場がワタミ化するんじゃないか。だから現場ではたらく保育士の多くが新システムに反対しているのだろう。

保育現場ではたらくyamadanさんのツイートより
保育が市場化してもてはやされるのは、「安・近・長」の保育所か?保育料が安くて、近くにあって、長時間預かってくれるところ。でも質の向上を目指す我々の現場では、「安・楽・感」の保育所を目指したい。誰もが安心できて、子どもたちが楽しいと思ってくれて、卒園時に感動を味わえるようなところ。


このような意識を持って現場に携わる「プロ」の人たちを切り崩すことになりはしないか。保育現場がワタミ化、パート化しないか。もしそうなったら、犠牲になるのは「子ども」だ。「総合こども園」に関する話でいちばん不安なのは、当の「子ども」にまつわる話が全く出てこないことだ。

川口さんも指摘しているが、もともと保育は「儲かる」業界ではない。「保育市場」で利益を得るにはどうしたって、人件費などを減らしていくしかない。コスト削減のために、保育の現場が非正規職員ばかりになることは充分考えられる。「保育市場」とかんたんに言葉にしてしまったが、「子ども」は商品ではない。工業製品のように数値化して効率や生産性を比べることなどできない。ある意味では、子どもほど理不尽で非生産的な生きものはいない。子どものおもしろさは偶有性にこそある。保育の市場化によって、ひとりひとりの子どもの偶有性と向き合ってまじめに取り組む保育所ほど、潰れていくことになりかねないとぼくは不安に思う。

保育市場への企業参入によるリスクの高さについて、実例を紹介しながら詳しく説明されている記事があったので参考にしたい。
保育園が差押え!民主党の子ども子育て新システム「総合こども園」は幼児を不幸にする - Everyone says I love you !


こうやって見ていくと、「幼保一体化」や「総合こども園」というフレーズは、この政策の目を引く「看板」に過ぎない。それも羊頭狗肉みたいなものだ。幼保一体化と言いながら幼稚園は残したり、待機児童の解消をうたいながら、中身では、待機児童が問題となる3歳未満の子どもの受け入れ義務を導入しないわけだから。

川口創さんのツイートより
保育園は子どもの貧困の防波堤。ここ壊したら、セイフティーネットの底が抜けます。貧困と格差の世代間連鎖が拡大する。

20代30代では不安定雇用が多く、夫の収入だけでは妻子を養えない家庭がかなり多い。50代以上の方たちの時代と違うのです。新システムになると、高い保育料払えず保育園を断念する親がむしろ増え、さらに若い家族が孤立化しかねません。

総合子ども園は、消費税増税のために幼保一体化をしたフリをするために、保育園に看板をかえさせる。新たに子ども園がどんどん作られるわけではない。逆に自治体からの補助金をなくし、親への給付に変える結果、手厚い保育をしてきた保育園ほど経営困難になり潰れていく。


保育現場の崩壊が、杞憂で終わればいいのだが。

ちなみに、池田信夫氏はこども園による待機児童解消に疑問を呈しながらも、「こども園は全面的に規制され」「保育料金は保護者の所得に応じて決まり」など、新システムへの認識に食い違いが見える。
「総合こども園」で待機児童は解消できるのか 池田信夫 - Newsweek

こういうのを読むと、そもそも実際の政策がどのように提案されているのかもよくわからなくなってくる(内閣府のサイトに実際の資料が掲載されているが、お役所的な文章って読む気になれない…)のだが、基本的にぼくはこの池田氏の文章が何を言っているのかよくわからない。池田氏から見れば、あたまが悪いのだと思う。「社会が高齢化する中で幼児教育は重要」という意見には同意するが、待機児童解消を阻害する要因として「保育所の既得権」を挙げるあたりには共感できない。

総合こども園についてはここまで。
長くなってしまったが、ついでに話をもうちょっと続ける。


政治への失望感は誰の責任なのか

ぼくは冒頭で、「自国の首相に対してあきらめの感情しか沸かないとはヒドい話だ」と書いた。これっていったい誰がヒドいのか。首相自身の資質の無さが第一要因だろうか。たしかにそれもある。しかし、はっきり言ってこの国では誰が首相になっても政権運営は大して変わらない。首相さえもシステムの一部に組み込んで、いわゆる既得権益の利に沿うように社会を動かして行くような、そういう仕組みが出来ているからだ。もっと言うなら、首相は官僚の作文を読んでくれる人であれば誰だっていいのである。野田首相の場合は財務省の代弁者にすぎない(だからそれ以上のことは絶対に言わないことがわかる)。政権交代当初は自分のことばで喋っていた(ゆえに宇宙人と揶揄された)鳩山氏が、普天間の迷走の果てに最期には官僚の言葉でしか喋れなくなっていたのは記憶に新しい。すべてを解決してくれるスーパーマンのような人が首相になることを期待してはいけない。仕組みを変えない限りは誰が首相になっても同じなのだ。

首相や閣僚たちよりも、あるいはそれを裏で手に取る霞ヶ関(とはいえ、一口に官僚と言っても、優秀な人や誠実な人だっているはずということも頭には入れておきたい)よりも、「自国の首相に対してあきらめの感情しか沸かない」状況をつくっているいちばんの要因はマスメディアだとぼくは思う。この国の「空気」はマスメディアに支配されている(されていることになっている)。そしてその「空気」は、びっくりするくらい単純で幼稚な「イメージ」で左右されるからだ。

もちろん、「イメージ」だけでものごとをわかった気になってしまう、ぼくたち自身のメディアリテラシーの無さも大きな要因だ。情報を出さない側と、情報を求めない側が、相互補完しているのだ。


メディアリテラシーを拒むマスメディア

はっきり言うと、テレビは「イメージ」しか伝えない。表層だけを切り取って伝えるのは、必ず「編集」という過程を介する媒体の宿命でもある。それがいい場合もあるし悪い場合もある。問題なのは、「マスメディア自身にその自覚が無い」ということだ。

作り手の純然たる「意志」があって、その上で編集された番組はおもしろい。作り手の個性が表出するからだ。必ず「編集」という過程を介する媒体であるマスメディアとは、元来「偏向」しているものなのである。マスメディア自身がそのことをきちんと自覚しているならば、各社の色が出て然るべきであるし、多様な番組が共存することで、視聴者側も整合性が取れる。「偏向報道だ」などというデモも的外れになるだろう。しかし、日本のテレビはなぜか「公正中立」であることを自らの責務と課している。NHKだけでなく、どの民放も「仮想の世論」の顔色をうかがいながら、みんな同じことを喋る。

視聴者側のメディアリテラシーの無さと、テレビ側のもたれ合いは相互補完の関係にある。にわとりが先かたまごが先かという話になるが、しかしこれは情報を出す側であるメディアに責務があるだろう。「公正中立」を装ってみんなが同じことを喋る環境がデフォルトである状態で、視聴者側にメディアリテラシーが身に付くはずもない。

ぼくが今回とくにテレビに辛辣な気持ちになってしまうのは、たまたま最近この本を読んだからかもしれない。



まあ「うさんくさい」組み合わせの対談本である。タイトルの通り、二人とも地上波からは黙殺されてしまった存在なので、テレビ業界に対する恨み節と捉えることもできるかもしれない。しかしぼくは二人が共通して語る、現在のテレビの劣化について一視聴者として大いに共感できるし、その背後に電波利権という存在があるという指摘にも納得できる気がする。電波利権については詳しくは書かない(ぼくもよくわかっていない)。興味のある人はぐぐってみて欲しい。ふだん庶民の味方面をして既得権益を批判しているテレビが、実はいちばんの利権に預かっているという話。

もういちど『バンキシャ』の話に戻るが、ちょっとぐぐればわかるような「子ども・子育て新システム」の具体的な問題点や疑問を、テレビ側の司会者もコメンテーターも誰も指摘しなかった。野田首相の言うことを、能面みたいな顔をして聞いていただけである。それどころか、フランスの例を引き合いに出した編集で、政府の「イメージ」戦略の片棒を担いでいる。総合こども園って何なのか、誰も突っ込まない。ジャーナリズムなど存在しないし、出演者の誰もが子育て政策になんか興味ないのである。つまるところ、この番組は「独占取材」でもなんでもない、政府の広報機関としか思えなかった。

「総合こども園」という看板フレーズで、増税のための「イメージ」戦略を行う。○○というフレーズで○○のためのイメージ戦略を行うという手法は、小泉純一郎氏が「郵政民営化」で大成功して以来、官僚と政治家と広告代理店とマスメディアがスクラムを組んで行う、お決まりのパターンだ。小泉政権当時、若かりしぼくは、郵政民営化の意味もよく知らずに、公務員=怠慢、ゆえに民営化=善い事、という「イメージ」だけで捉えていた。思い起こせば「政権交代」だってそうだったのだろう。あの当時、自分は政権交代の意味をわかっていたのか。そのフレーズの背後にある複雑な世界(その中にいる多種多様な人たちのこと)を、はたして自分がどれだけわかっていたのか、ということを反芻しないといけない。

震災以降、そのことを自問し続けている人は確実に増えている。いまの若い世代が賢くて、驚くほど(ときに上の世代からは物足りないと見られるほどに)謙虚なのは、おそらく自問と内省の中に生きているからではないかと思う。だから表面だけのテレビ番組は見ない若者も多い。自身をきちんと認識できないマスメディアはいずれ衰退していくだろう。


そしてぼく自身が語るべきこと

メディアリテラシーが必要であるという概念、あるいはそういう視点の発想すらできなくなっている「思考停止」状態。カメラのフレームで切り取られた画面の外には、実際には大きくて複雑な世界が広がっている、ということをちょっと立ち止まって「想像」できるかどうか。たったそれだけのことなんだけど。おそらくぼくもインターネットが無ければ、メディアリテラシーなんて言葉に触れることすら無かったかもしれない。

先ほどの本の例でいうと、ぼくはホリエモンの言うことの半分くらいは同意できるし、半分くらいは違うんじゃねーの?と思う。それでいいんである。ホリエモンが善人なのか悪人なのか、あるいは正しいか間違っているかは問題ではない。というか、白か黒かという二元論ではよのなかは説明できない。右か左か、でもない。よのなかは、その中間にある無数のグラデーションで成り立っている。その中で自分の立ち位置をマッピングするために、ぼく(主体)は他者の意見に触れるのである。


ぼくが『バンキシャ』で子育て支援という話題に反応し、このブログで「子ども・子育て新システム」について何度か記事にしているのは、ぼく自身が小さい子を持つ父親という立場であり、2歳の息子をもうすぐ預けることを考えている境遇にあり、つまり保育所の問題が、まさにいま現実の問題として立ちはだかっているからだ。もしそうでなければ好き好んでわざわざ調べたりはしない。テレビか何かでうっすらと耳にして、ああそうなんだ〜、くらいの認識しか持っていなかったであろう。

子育て支援や少子化の問題について、べつに皆に知ってほしいとは思わない。ただ興味がないくせにしたり顔をしたり、「べき論」で語るのはやめて欲しい。テレビか何かで聞きかじった程度の情報で、したり顔をして語るっていうタイプの「議論ごっこ」が、テレビが庶民の代弁者面をして好き勝手している要因でもあり、この国の政治を貶めている要因のひとつであると思う。それで「こうすべき」だなんて一般論で他人を諌めるような発言をするくらいなら、よく知らないからと黙っててもらったほうがよっぽど害がない。つまりこういう現象。

津田大介氏のツイートより
個別の問題を一般化して語ることの気持ちよさって名前はついてないのかな。一般化してドヤ顔する快楽ってツイッター的なもので拡大してる気もする。


この手の「ドヤ顔」が、意外に幅を利かせているのである。そういう人って、自分の立ち位置をマッピングできていない。だから個別の問題をぜんぶ一般論に流し込んでわかったつもりになる。近年のテレビというものはそれを増幅する機械と化している。テレビの世界に埋没すると、実は自分は何も「わかっていない」のだ、ということが「わからなく」なってしまう。

子育てや家事を母親の忍耐力に押し付けておきながら、「政治的」な子育て政策について偉そうに語るのは、ちゃんちゃらおかしい。そういう態度が、政治を腐らせていくのだ。

児童虐待のニュースがある度に、すべてを母親の資質のせいにする風潮がある限り、児童虐待はなくならない。母性神話?親失格?ニュースのあいつだけが? おいおい、そうじゃないだろう。誰もがモンスターになり得るのだ。これは、自分もまがりなりにも育児に参加してみてつくづく身にしみて感じることだ。よのなかのほとんどのことは、やってみなければ「わからない」のである。だから、自分だけはぜったいに虐待なんかしない、と思っている人よりも、いつ自分も虐待してしまうかわからないと不安に思っている人のほうに、ぼくは共感するしそういう人の言うことのほうを信頼する。(くり返すが、そちらが「正しい」というわけではない。そちらに共感するということであり、ぼくは自身をそちら側にマッピングするということである。言うまでもなく主観である。)

さて、ぼく自身が語るべきこととは何なのか。自らが主体となって肉感性を伴った言葉が、政治の場にフィードバックされるにはどうしたらいいのか。それは「話し手」の意志を取り戻すことであり、政治のことを、テレビや新聞の中の出来事から、自分の暮らしや身体、いのちの側に引き寄せるということではないかと思う。

「清く正しい」ことばかり喋るのはやめようぜ、ということ。
嘘こいてんじゃねーよと自分の胸に手をあてて聞いてみること。
目の前の家族の顔をじっと見ること。

そこからでないと、はじまらない。

総合こども園という欺瞞と、衰退するマスメディア(子ども・子育て新システムをめぐって)

総合こども園という欺瞞と、衰退するマスメディア(子ども・子育て新システムをめぐって) 2012.03.07 Wednesday [政治・メディア] comments(0)
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続ゲロンパ 論理と直感と一般意志2.0

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硬直化する対立構図において反橋下派は永遠に橋下氏には勝てない。ゲロンパ。

前回のこの記事は、舌足らずだったかもしれない(もともと自分が感じる違和感をことばにしたかっただけなので、論理的な整合性がないのはわかってるし、見ず知らずの人から誤読されようがかまわないのだけど、自分でももうちょっと書き足したくなった)ので追記。

市職員への思想調査が、市長の裁量としてやりすぎなのは明らかであるし、こと細かに違法性を指摘するほど法律に詳しいわけでもないのでそういう批判は他の方に任せるとして、わざわざあのようなしちめんどくさい記事を書いたのは、今後この件に関して橋下氏への批判が増えてくるであろう中で、基本的にはぼくも橋下氏に対してはいい印象をもっていないので、批判の波に乗るうちにアドレナリンが分泌されて矛先があらぬ方向に向かわないように自戒をこめたつもり。

たしかにあのような思想調査を行うのは大いに問題だし、追求されて然るべきだと思う。しかし、橋下批判の矛先が彼のメンタリティを揶揄するような論調になっていったら、それはまたべつの話になるんじゃないかと。いや、すごくわかるんです。彼の政治手法が独善的で危ういというのは同感だし、実際に異分子を排除しようとするかのような発言や施策には、それが権力者であるがゆえに恐怖を感じる。だから市長というポストに置いておくのは危険じゃないかという気持ちはすごくわかる。わかるんだけど、わかるからこそ、そこはちょっと気をつけたいなと。独裁者を倒すという目的で、相手の人格を槍玉に上げるのはコーフンするし、それで連帯感をもちやすいのだけれども、なんかそれ違わねーか?っていう。前の記事にも書いた通り、そういう類いの揶揄を逆手に取って相手をやりこめるという技において橋下氏にかなう奴がいるんだろうか、という懸念もあって。


ディベート論理と「思考」は違う

だいたいもうすでに就任してしまったわけだから、いまさら市長としての資質とか人間性云々を槍玉にあげても仕方ない。個別の政策についてひとつひとつ考えていくしかないのだし、そこにおいて議論というものが成立する。

前の記事でぼくは「解論破」と書いたけれども、それはあくまでも、相手を打ち負かすための話術としての論の立て方(それはディベートの技として使われることが多い)から脱しようという話であって、話し合いや思考を放棄せよという意味ではない。個別の政策に関しては大いに吟味されるべきだと思うし、利害関係や立場の異なる1億2千万人が暮らしているのだから、妥協点を探って話し合うしかない(話し合うというのは、すべてを解決する万能のソリューションを見つけるために行われるのではなく、お互いの落としどころを探るために行われるものである。だから相手を打ち負かすことを目的としたディベートの話術は話し合いではない)。

橋下氏は以前から脱原発の発言をしているし、今朝はベーシックインカムのことをつぶやいていた(橋下徹×茂木健一郎:ベーシック・インカム 2012/02/15)。ぼくは脱原発およびベーシックインカムという政策については賛同する。であるならば、彼がどのようにしてそれらを実現するための具体策を出してくるのかを見ないといけない。政権交代前のマニフェストをあっさり放棄した民主党もそうであるように、口ではなんとでも言えるからだ。だから、たとえ賛同できる主張をしているのだとしても、それが単なるリップサービスにすぎないのかどうかを見極める必要がある。その上でおかしいと思うならば声を上げればいい。
だから以下のような指摘はたいへん的を得ている。

竹田圭吾氏のツイートより
あれだけ脱原発のことを言っていて、「船中八策」に原発のげの字もエネルギーのエの字もないのにはずっこけた。


こういうことをよく覚えておこう。それが積み重ねられていくと、彼が何かを言ったときにその言葉を額面通りに受け止めるのではなく、発言の背後を想像できるようになる。「言葉」を都合のいいように利用するのがディベート術であるならば、そこで使われる言葉は記号にすぎない。ある発言がリップサービスにすぎないかどうかを見極めようとするならば、その言葉(記号)に振り回されない所作を身につける必要がある。それは、言葉(発言)の背後を想像するということであり、文脈を読むということだ。それはひとつひとつ解きほぐように行わないといけないから、非常にめんどくさいのだけれども、それが「考える」ということなのだ。(めんどくさいのは嫌いなんだけれども、大人なんだからしょうがない。)

橋下氏のベーシックインカム発言については、下記のような見方もあることを付け加えておく。なるほどと思う部分もあるが、ぼくは橋下氏のツイートを読む限りにおいてはそこまでは読み取れないようにも思う。現段階では判断のしようがない。けっきょく言葉の背後をどこまで想像するのかという各人の解釈に委ねられるしかないのかもしれない。つまり「ベーシックインカム」という言葉が出てきたときに、その言葉そのものだけで判断するのではなく、どういう文脈でその言葉が使われているのかを考えないといけないという例である。

NPO法人POSSE編集部/坂倉昇平氏のツイートより
橋下大阪市長のツイートを読む限り、彼のベーシックインカム構想の中心は、結局福祉行政の削減にある。そしてそれらが不十分ながら果たしてきた生活保障の役割をNPOなどで代替し、行政としての責任を、BIを支給された「ユーザー」としての選択という自己責任に転嫁するということでしかない。

橋下市長の福祉行政削減目的のベーシックインカムでは、細かい長期的な自立支援など、貧困層の多様な必要性が無視されてしまう。本当の意味での自立のための必要性をくみ取るだけの福祉行政の職員が不足していることこそ、現状のセーフティネットが機能していない大きな原因の一つだろう。

もちろん福祉行政に対して、NPOの関与はありうるべきだろう。行政とNPOの連携によってこそ、貧困者の多様な必要性をフォローできることもあるだろう。でもそれはNPOへの丸投げと「ユーザー」への責任転嫁ではなく、その機能をチェックする行政の責任は果たされなくてはいけない。

橋下版ベーシックインカム構想が市民を「ユーザー」と名指すのは象徴的だ。市場を媒介して、市民が賢い「ユーザー」として商品・サービスを合理的に選択して生存するというモデルが機能しないからこそ、商品化されない生活保障をする福祉国家が歴史的につくられてきた。

とりあえず、橋下大阪市長のツイートのようなベーシックインカム案は、「貧困ビジネス丸投げ型ベーシックインカム」と呼ぶことにしよう。



経験則から生じる「なんとなく」

さて、世の中を変えたいとか自分の暮らしをよくしたいと思うならば、このように「考える」ことをたくさんしなきゃいけないわけだが、だからこそ「解論破」と言いたい。お互いの落としどころを探るために話し合うのが民主主義的な手続きであるとぼくは信じているわけだけれども、そこにおいて意志の主体となる自分は、自らのからだが実感していることを言葉にしなきゃいけない。当たり前のことなんだけど、それが当たり前になっていない場面が多々あるのだ。ディベートという「ケンカ」で勝つ術を追求するあまり、持論と意見が自らのからだと乖離してしまっている人をよく見かける。内田樹氏はこの記事で<イデオロギーが身体化してしまった人間>がいるとし、<長い自己欺瞞の訓練によって、イデオロギー主導で、ヒステリックになったり、激昂したり、涙ぐんだりできる人間たちが生まれた。>と考察している。

これは、戦後の教育がもたらした結果であるのかもしれない。ディベートに限らず、戦後の日本では経済が中心にあり、いかに経済をまわしていくかという処世術を追求することが「学び」だという教育がなされてきた。橋下氏が市民をユーザーと呼び、市政を会社経営のように行おうとしているのは、この何十年間のこの国の教育がもたらした帰結であるのかもしれない。ぼくらは社会において賢いユーザであることを求められている。そして自ら賢いユーザになろうとする。なぜならそうしたほうが利益が上がる(と教えられている)からだ。そうすることが正解である、と教えられてきたので、ある人は自らのからだが求める方向と反してまで賢いユーザになろうとする。からだを壊すまで働きづめたり、〜しなければならない、かくあるべし、みたいな義務感に雁字搦めになってしまうのは、いったい何に対する義務なんだろうか。

ぼくは、橋下氏にまつわる言説(支持派・反対派の双方とも)を単純に「恐い」と書いた。これはただの印象論である。「恐い」っていうのは、「なんとなくの違和感」である。ディベート論者にしてみれば取るに足らないものだろう。
けれども、ぼくはこの「感覚」って大事だと思う。感覚だけで終わってしまったらあまり意味がないけれども、なにかを「考える」ときにその感覚を出発点に据えることは大事なんじゃないか。なぜなら、感覚っていうのはそれまで自分が生きてきた中で感じてきたことの蓄積から生じる経験則であるからだ。だから正解などないし、1億2千万人がいれば1億2千万通り存在する。なにかを衆議する上では、それぞれが自分の感覚を起点にしないと「正しさ」と「実感」がどんどん乖離していくような気がするのだ。


「意見対立」と「人間対立」

「なんとなく」の感覚を選択するのは勇気がいる。誰だって自分の選択が正しいと信じたいし、そのための拠りどころが欲しい。だから「論理的な正しさ」をその論拠にしたがる。今までの日本には、多くの人が共有できる「論理的な正しさ」(のような空気)が存在した。論理的正しさ(のような空気)に頼ることに慣れてしまい、他人に「正解」を求めることが常態化した。自分で価値判断ができなくなってしまった。

「なんとなく」の感覚を選択するのは勇気がいる。原発事故での報道の錯誤はもとより、人類未踏の放射能汚染というタームに突入してしまったいま、なにが論理的に正しいのかなんて誰も説明できていない。「正しく怖がる」なんてことは不可能である。委ねられるのは各自の判断でしかない。

その各自の選択は尊重され得るべきだ。

福島では、県外へ避難した人は戻ってきても「逃げた人」とレッテルを貼られることがあるそうだ。
福島の実態 切々と 荒木田岳・福島大准教授が東海村で講演 - 東京新聞

福島産の野菜や牛乳を「地産地消、がんばろう福島」のキャッチフレーズのもと地元で消費し、給食に出すことが「論理的に正しい」こととされている。そういう空気を醸成している。ここでも福島の人たちは「賢いユーザ」であることが求められている。一方で、県外へ避難した人はそういう空気に違和感を感じているはずだ。だから論理的な正しさ(とされていること)よりも自らの「感覚」を選んだ。その選択は尊重されるべきだろう。
たんに選択の相違にすぎないはずなのに、「逃げた人」というレッテルが生まれるのは、一方だけを「正しい」とするために起こる差別意識である。「意見対立」が「人間対立」に先鋭化する場面は至るところに介在している。


熟議の限界と一般意志2.0

日本人は議論が苦手だとよく言われる。そもそも欧米型の議論を習得する必要がほんとうにあるのか。いくら表面上をビジネスライクな論理式で飾ったとしても、政治の場面では談合はなくならないんじゃないか。じゃあ逆に、談合って無条件に悪いものなんだろうか。たとえば書類上には表れないような類いのサービス(行い)というのもあるわけで、日頃お世話になっている人にお仕事をお願いしようと思うのは、不自然なことだろうか。効率化やコストパフォーマンスといった数値化できること「だけ」を、ぼくたちは基準にできるんだろうか。つまりこれって、いいとか悪いとかの問題じゃなくて、この国の営みに根付いてきた風土と言うものでもあり、日本人には日本人の気質に合った方法の話し合いが必要なんじゃないか。

思想家の東浩紀氏による「一般意志2.0」が話題になっている。
夢を語ろうと思う、という書き出しではじまる本書はいろいろと誤読されることも多いようであるが、下記リンク先のインタビュー記事を読むと、氏が語ろうとしている「夢」のだいたいのエッセンスがわかると思う。

「一般意志2.0」を現在にインストールすることは可能か?(1)東浩紀× 荻上チキ - SYNODOS

東氏の「夢」は、まず「熟議の限界」を認識することから始まっている。上記 SYNODOSインタビューの冒頭で彼はこう述べている。
ぼくが何を考え続けてきたかということですけど、それはいまチキさんが言ったとおりに「合理的な人間」の限界ということだと思います。

 (中略)

オタクという人たちは、いまでもそうだと思いますが、すごく「動物的」な人たちなんだと思います。動物的な快不快の感覚に忠実というかな。だからこそ、彼らのなかに人間の本性が現れていると思った。

〈人間の動物としての限界〉というのはぼくのなかでずっと生き続けている問題系で、そういう人間をまとめてどうやって民主主義をつくるかという課題への、ぼくなりのいまの時点での回答が『一般意志2.0』なんです。


「熟議の限界」はネットを見ていれば誰でもわかると東氏は語る。彼の言うように、<低線量被曝の健康被害がどれほどのものであるか、人々はいま膨大に「熟議」を重ねているわけですが、ほとんど何ひとつ結論は出ていない。>ということを、3.11以降多くの人は知ってしまった。

しかし東氏は熟議そのものを放棄せよと言っているわけではない。それどころか、政策決定の手段は代表者による熟議によって行われるという間接民主制であることには変わりがない。ただ、そのプロセスにおいて一般意志を可視化してだだ漏れさせようというのである。再びインタビュー記事より。

政治的な討議は一般に、自分の身元を明らかにし、知識を持ち、熟慮の上で議論に参加するべきものだと思われていますね。しかし、ぼくがこの本で述べているのは、そうではない参加のしかたもあっていいのではないか、という提案です。ただし、それは同時にすごく制限されたものにもなる。その制限された参加のしかたが、たとえばヤジとか拍手のようなものでもいいのではないか、ということです。したがってコメントには民度は必要ないんですよ。

古代のアゴラで、政治家たちが演説をしていたとする。そのときその周りにはもちろん政治家でもなんでもない人たち、市民が取り巻いているわけですね。その市民たちがヤジを飛ばしたり拍手をしたりしていた。彼らの意見のひとつひとつは演説している政治家にはわからない。でも「この主張が受けている」とか「これは方向が違う」とか、一種のフィードバックは起きているわけですよね。そのフィードバックを回復すべきであるというのが『一般意志2.0』の骨子です。

「大衆の無意識に従え」というわけではなく、かといって大衆の意志を排除して熟議だけで物事を決めろというのでもない。熟議と大衆の無意識のあいだのフィードバックをどうやってつくるか、それが重要だと考えています。

この本には書いていないけど、古来、多くの「みんなで決める」というのは、おそらくそういうフィードバックのプロセスだったと思うんですね。たとえば100人で何かを決めるとして、そのなかの専門家10人に決定を委ね、彼らが密室で決めたことに90人が従う、というのはやはりかなり人工的な制度です。いまはそうなってしまっていますがね。自然なかたちは、おそらく、10人が決めるその周りを90人が取り巻いて、その「空気」を見ながら10人も議論していたというものだと思いますよ。


これ、ものすごくおもしろくない?。ぼくはなんだかわくわくしちゃうんだけど。
「ヤジとか拍手のようなもの(二コ生に流れるコメントのようなもの)」による政治への参加の仕方っていうのは、東氏が言うところの「動物的」なものであると思うのだけど、それって「なんとなく」の感覚だと思うのだ。つまり、ある個人が生きてきた中での蓄積から生じる経験則だ。もし、それが可視化されて熟議の場に取り込むことができるようになるのならば、熟議の場というものは、ディベート論理が優位に立つ種類のものから、もっと肉感性を伴った話し合いの場になる可能性があるかもしれない。

さらに、そうやって可視化された一般意志に耳を傾けようが、無視しようが、それは熟議の代表者の自由であるとする距離感も非常におもしろい。ツイッター等で絡んでくる輩にいちいち返信しようがスルーしようがそれは主体者の勝手であるというのに似ている。(それを汲もうが汲むまいが)ただ傍らでこういう意見があるという事実が絶えず流れているということに意味があるというのだ。

そして、もしそういう仕組みが可能になったとするならば、橋下氏のようなポピュリスト(わかりやすいのであえてこう呼ぶけど)は、そのような一般意志を無視できないであろうというわけだ。下記 BLOGOSインタビューにて東氏はそのことを語っている。

「一般意志2.0」が橋下市長の“独裁”を止める?―現代思想家、東浩紀インタビュー - BLOGOS

仮に橋下徹氏がかぎかっこつきの「独裁」をしているとするならば、それを抑制するのに最良の装置こそ「一般意志2.0」なんです。橋下さんのキャラクターを考えると、もしそういうシステムが組み込まれていたら、敏感に反応すると思いますよ。例えば、「やっぱり民衆は道頓堀プールとか求めていないんだ」というのが、その場でわかるわけですから。


これはすごく頷ける。あるいはこの「夢」が実装された時に、一般意志2.0による政治のダイナミズムを感じさせてくれるのに橋下氏のような人物はうってつけだとも言える。ならば、この「夢」がいかにして実装され得るのか(単純に、会議場の傍らにスクリーンでツイッターのハッシュタグや、いいねボタンを流し続けるだけだっていいわけで)を考えたほうが、「ハシズム」を批判し続けるよりもよっぽどたのしい。
たのしい(気持ちいい)と感じることは、論理的に正しいということよりも、真実だと思う(これはぼくの感覚だけど)。だから東氏の語る「夢」について、ぼくも思いを馳せることにしようと思う。


ちなみに補足しておくと、東氏は一般意志(集合知)がすべてを決めるとは言っていない。集合知の暴走に歯止めをかけるのが熟議あるいは専門家の仕事であり、ただしその熟議決定の場が密室で行われるべきではないと主張しているのだ。政策決定はあくまで熟議によって進められるのである。これに異論は無い。集合知は暴走するという見方にも異論は無い。「意見対立」が「人間対立」に先鋭化するということは先に述べたが、それは集合知を生成する一般意志が「動物的」であるがゆえということなのだろう。

政策決定の場において、熟議(論理)は大事である。それに対して、そもそも熟議せざるを得ない要因である「多様性」つまり個人の一般意志の発露は「動物的」なのである。それは自分のからだが知っている「感覚」からしか生じないはずだ。そこに嘘をついてはいけないとぼくは思うのである。イデオロギーを身体化させてはいけないと。みんな自分の直感を低く見積もりすぎなんじゃないかと思う。それがいちばん言いたかった。いま感じている「なんとなく」がほんとうに自分のからだから生じているものなのか、あるいはテレビの画面を通してあたかも自分の感覚だと錯覚しているものなのか。(その「感覚」はそのもの自体で熟議の場にあげる類いのものではないが。その感覚がなぜ生じるのか、自らの頭で思考し問題点を整理できたときに、はじめて論理になり得るのでは。)

というわけで、まずは<国会の委員会がニコニコ動画で中継され、コメントが現場でスクリーンに出る>ようになるのを楽しみに待ってみよう。

続ゲロンパ 論理と直感と一般意志2.0

続ゲロンパ 論理と直感と一般意志2.0 2012.02.16 Thursday [政治・メディア] comments(0)
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硬直化する対立構図において反橋下派は永遠に橋下氏には勝てない。ゲロンパ。

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「話し合う」っていうことはいったいどういうことなんだろうか。
ツイッターは他者同士のやりとりをのぞき見できるので、いわゆる「論争」っぽいやりとりをしばしば目にすることがある。それらは一見すると話し合いの場であっても、ただ自分の意見を「話す」だけだったり、他人の考えを聞くのはそれを打ち負かすため(の戦略を練るため)だったり、内実は自己主張でしかない場面が多々あるように感じる。そういうのを目にする度に、どっちが正しいとかどうでもいいわー、なんか気持ち悪いわと思ってしまうのはぼくが日和見主義者であるからかもしれないが。

ディベートっていうのはいかにして相手を言いくるめるかの術(スキル)であるわけだから、論戦とか論争っていうのは自己主張の場ではあっても、「話し合い」ではないと思う。そこには「合い」が欠落している。

世間では、ディベートの達人が人気だったりする。
サンデル教授であったり、橋下徹大阪市長などはその典型であろう。彼らが支持されるのは、彼らの言うことが実に明晰で「論理的に正しい」からだ。こっちのほうが論理的に正しいと思わせることがディベートのスキルであり、彼らはそれに長けているわけだからそりゃ当然である。

ここで、「ディベート」の意味をおさらいしてみる。
ディベート - Wikipediaより抜粋
ディベートとは、ある公的な主題について異なる立場に分かれ議論することをいう。この定義から、ディベートは以下の2つの要素を持つ議論であるということが分かる。
公的な主題:公的な主題について行われる
意見の対立:異なる立場に分かれて行われる
ディベートの多くは、現実社会に何らかの影響を与えることを目的としておこなわれる(実質的意味でのディベート)。政治の分野における典型的な例としては、米国での大統領候補討論会、日本や英国での党首討論がある。また、司法の分野における裁判も広義のディベートに含まれる。

ディスカッションとディベートとは、意見対立の有無という点で異なる。ディスカッションとは、ある公的な主題について議論することをいうが、それに加えてディベートでは当事者間の意見対立が前提とされる。例えば、ある公的なテーマについての単なる意見交換は、ディスカッションとしてならば成立する余地があるが、ディベートとしては成立しない。この帰結として、意見対立を何らかの形で解消する必要がある場合には、ディベートでは第三者に、ディスカッションでは当事者に、その役割が期待されることとなる。


なるほど、ディベートという術(スキル)は、「意見対立」を前提にしているわけだ。そう考えれば、なるほどWikiのいうように裁判も広義のディベートに含まれるわけで、となれば、弁護士という職業を勤めてきた橋下徹氏がディベートに長けているのは当然である。彼にとってそれは職業上必要なスキルだったわけだから。

べつにそれ自体は悪くない。二項対立っていうのは現実に存在するわけだし。
じゃあなんで橋下氏をめぐる論争に、ぼくは居心地の悪さを感じるのか。それは橋下氏本人の発言だけじゃない。橋下氏を支持する人たちと、反橋下と言われている人たちの間の論戦っていうのは、(ちなみにぼく自身の立場を表明しておくと、反橋下的な言説に共感することが多いにもかかわらず)どっちの言い分もなんだか「恐い」。

これはいったい何なんだろう。

いままで橋下氏が主張してきたことをふり返ってみると、必ず「意見対立」を前提にして二項対立をつくり出している(ように感じるのはぼくの偏見も含まれているかもしれないが)。維新の会そのものが「既得権益」への対立軸として存在している(と主張している)わけだし、いつも物議をかもし出す君が代問題にしても、大阪市職員への対応にしても、単純に「従う者」と「従わない者」という分け方で語られる。今まで暴利をむさぼってきた悪代官を成敗してよのなかを「維新」するというのが彼の主張であり、基本的に「たたかう」ことを前面に出していることは誰もが感じるであろう。彼の挑発的な発言の数々は、“君はこの戦いに一緒についてくるのか(同志か)、そうでないのか(敵か)”と、部下を(ひいては有権者を)選別しているように見える。

ほにゃほにゃ vs 反ほにゃほにゃ という構図は、あちこちでよく見かける。原発(放射能)をめぐる見解の溝は一向に埋まらない。それどころか、この溝は永遠に埋まり得ないのだということをSNSによる多様な言論は可視化した。くり返すけれども、べつにそれ自体は悪くない。二項対立っていうのは現実に存在する。ところが、往々にして二項対立からの論戦というのは激論化し、先鋭化していく。挙げ句には相手の人格否定へと発展していくことすらある。「意見対立」だったはすが、「人間対立」になってしまう。ぼくはこの流れについていけないのだ。これが「恐い」と感じる要因だ。

橋本氏が二項対立を多用するのはディベートの術である。この二項対立による追い込みは、なにも橋下氏にかぎった話ではなく、政治的な場面では長らく使われてきた手法でもある。対立してくれたほうが、政治的に有利にはたらくということもあるのだ。五十五年体制における自民党と社会党(あるいは右や左)という「構図」も、意見の対立を持つ双方の受け皿としてふるまう(かのように思わせる)ことで、スケープゴートとして機能していた。実際にはこの構図はガス抜きにすぎず、双方の項はそれぞれの民意を代弁しているかのようで実は何もしない。そうやって、沖縄の基地は存続し、原発は55基も建てられてきたのだ。

大阪ダブル選挙の折、反橋本派は「ハシズム」などというつまらないレッテルを拵えて、彼への批判とした。橋下氏がお膳立てするまでもなく、彼ら自身が自らで二項対立の片一方に足を踏み入れたのだ。橋下氏が得意とする二項対立の枠組みの中で、スキルを持たない者がディベート合戦で勝てるわけがない。事実、反橋下派の主張はディベートにすらなっていなかった。しかもテレビに出たりなんかして、そのディベートの無能ぶり(彼らは「話し合い」をしようと思ったのかもしれないが、先に書いた通り話し合いとディベートは違う。テレビ及び視聴者が求めたのはディベート合戦だったのだ)によって尚さら評判を落とした。テレビなんてものは、編集なり何なりその特性を掴んでいるほうがよく映るに決まっている(公平性などは担保されない)。ディベートとテレビという橋下氏の得意な(というか彼の論理が推奨される)土俵でたたかおうとしたのだから無謀だったと言うほかない。
(ちなみに橋下氏がツイッターで挑発の矛先を向けていた内田樹氏は、橋下氏とはやり合わないほうが無難だと言っているらしい(平松前市長にもそう進言したとか)。これも考えさせられる。)

反橋下派としてやり玉に挙がっているのは、主にこの二人。テレ朝の番組に出演してスーパーフルボッコにされた山口二郎氏と、朝生に出演した香山リカ氏。

香山リカ氏は同番組への出演後に下記のような記事を書いた。
テレビの前で議論しても残る橋下市政への違和感 - 香山リカの「ほどほど論」のススメ
ぼくは番組を見てないので、どれほど無惨に打ち負かされたのかは知らない。しかしわざわざ出演の直後にこんな記事をリリースしたら言い訳がましいと見られるのがオチであろう。あまり読む気がしないし、たいしておもしろい記事でもない。ネット上では、香山氏を叩く意見が多いようだ。

ぼくはというと、香山氏にはなんの感慨もないが、この人のブログに共感した。
香山リカさんを「無能」と切り捨ててしまうことへの違和感 - 琥珀色の戯言

橋下氏の言説に違和感をもつ人は、たぶんこの記事に共感するんではないかと思う。反橋下派の知識人たちが叩かれているのは、「現場を知らない」「対案を示さない」という点であるようだが、そもそも橋下氏の言説に違和感をもつのは「なんとなく」なのである。小泉元首相との類似性を指摘するのも、個別の政策についてディベートした結果ではなく、「なんとなく」なのだ。ぼくは彼の教育観に危惧を抱いているが、それも「なんとなく」だ(君が代条例はその危惧をだいぶ具現化しているように思えるが)。

で、だいたいの人は取り違えるのだが、ディベートを交わした結果としての「論理的に正しい」ことよりも、「なんとなく」のほうが当たっていることが多いのだ。少なくとも当事者レベルではぜったいにそうであろう。自分にとっての正しさなんて自分にしかわかり得ない、というか自分が決めているようなものなのだから。
ディベートでの「正論」と、当事者としての「感覚」を混同してしまうから変になっちゃうのだ。

だから先ほどの記事のブログ主さんが言うように、<ああいう番組では、「まず、橋下さんの話をみんなで聞いてみよう」でいい>のである。<「いまはまだわからない。もうちょっと考えさせてくれ」という答えのほうが、「誠実」である場合>もあるのである。というか問題が大きくて本質的であるほど、即解決などできるわけはないのである。釈然としないまま終わるのは、およそテレビ向きではないが。

で、ぼくもまあ「なんとなく」橋下氏の言説に違和感をもちつつ、大阪どうなるんだろうなあと思っていたら、先日こんなニュースが。
大阪市、全職員アンケートに「不当労働行為」との声 - YUCASEE MEDIA
橋下市長が思想調査 全職員対象「政治家応援活動したか」 - しんぶん赤旗

こちらが原文とのこと。
大阪市職員へのアンケート原文

このアンケート調査は、任意の調査ではありません。市長の業務命令として、全職員に、真実を正確に回答していただくことを求めます。正確な回答がされない場合には処分の対象となりえます。


前文からして「恐い」が。
アンケートの内容は、組合活動や特定の政治家を応援する活動に参加したことがあるか、あれば「誘った人」も。参加したことがなくとも誘われたことがあれば「誘った人」を。など。ちなみに「特定の政治家を応援する活動」の中には、「街頭演説を聞いたりする活動も含む」のだそうだ。なんか、すごいな。

同志か敵かを「選別」するという以外にこのアンケートの目的があるんだろうか。ましてやチクリを推奨するかのような設問には、なんとなくどころかものすごく違和感。こんな職場で働きたくないわあ。「恐い」わ。
このような調査を職務命令として強制することは、憲法上も法律上もいろいろと問題があるらしい。くわしくは下記関連リンク先を。

橋下氏の言説に違和感をもつ人は、たぶんこういうことが起きるのを危惧しているんだと思う。こういうチクリ推奨の相互監視社会をつくろうとしているならば、大阪職員だけの問題じゃなくて、いつ自分の身にふりかかるかわからないからね。

今回の件を受けて、反橋下派としては「だから言わんこっちゃない」と言いたくなるけど、そこはぐっと押さえるのが公の席での作法だ。これをもって、ほらハシズムじゃないか、独裁のはじまりだと言ってしまうのは単細胞である。いや、その感覚は「なんとなく」としては正しい。でもそれはあくまで感覚である。ディベートの壇上には上がらない種類のものだ(逆に、だからこそ大事だとも言える)。それをもって橋下氏に勝とうと思っても、ふたたび二項対立の片一方に足を踏み入れるだけだ。ほんらいディベートの壇上に上らないはずの「なんとなく」をも取り込んで、テレビ向けにショーアップしたのが橋下氏のスキルなのだ。彼にしてみれば、独裁だ独裁だと言ってもらったほうが火がつくのであるし、それさえも利用していく間合いと話術はやはり素晴らしいものがある。(ある意味では、外交などに向いているのでは。)

ディベートをするならば、あくまでも個別の事案について、それ毎に行うべきだ。
橋下氏の手法が独裁かどうかはともかくとして、今回のアンケート調査が適当であるかどうかを考えるべきだ。そこを取り違えてはいけない。

ぼくが興味あるのは、橋下氏を支持する人たちは、このアンケート調査ををどう捉えるのかということ。橋下支持といっても、いろんな支持の仕方があるわけで、橋下氏は支持するけれども、思想調査アンケートについてはどうかと思う、それはやりすぎなんじゃねえの、という意見があってもいい。

橋下氏を支持することと、個別の事案を支持することはべつものなんだから。長々と書いてしまったが、要はそれだけのこと(当たり前のこと)だ。そして、そんなことをいちいち断らないといけないぐらい、橋下vs反橋下っていう二項対立の構図による論戦は硬直化している。

「正しい人」っていうのは「恐い」(もっと正確にいうと、自分の正しさと同じ正しさを他人にも強制しようとする人)。先のアンケート調査が「恐い」のは、それが正しいものとして行われようとしているからだ。二項対立による議論が先鋭化して「恐く」なっていくのは、お互いが自身の「正しさ」だけを主張し出すようになるからだ。
橋下氏の言説に対する違和感っていうのは、「正しさ」への違和感のはずなのだ。だから「なんとなく」でしかあり得ない。反橋下陣営は、自身が「正しい人」になろうとして自壊した。

ディベートという話術に夢中になるあまり、ディベートを成り立たせている二項対立という「構図」にいつのまにか依存してしまい、すべての問題の原因を二項対立に還元してしまうようになったら、その話術は硬直化しているといっていい。いちど硬直化してしまうと、その呪いを解くのは容易ではない。
「意見対立」が「人間対立」になってしまうことを意図的に好む人たちがほんとうの既得権益であることを思い起こしてみる。ならば。

ディベートとか、論理的な正しさとか、あんま興味ないっすわ。
それはそれで必要かもしれないけど、それですべてが解決するともぜんぜん思えないから。むしろ、もともと向いてないのにいたずらにチャレンジすることでの弊害のほうが大きい気がする。いちパンピーとしては、つねづね論争なんてものには巻き込まれないような意識でいたほうがいいんじゃあるめえか。ましてやそれで相手を打ち負かそうだなんて大それたこと。論争・論破からの解脱、解論破(ゲロンパ)っすよ。
正しさよりも気持ちよさのほうを選びたい。




追記 続ゲロンパ(2/16)

硬直化する対立構図において反橋下派は永遠に橋下氏には勝てない。ゲロンパ。

硬直化する対立構図において反橋下派は永遠に橋下氏には勝てない。ゲロンパ。 2012.02.14 Tuesday [政治・メディア] comments(2)
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