映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由

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ぐいぐい引き込まれて目が離せませんでした。まさに、いま観るべき映画だと思います。縁あってこのタイミングで本編を観ることができたことに感謝。




映画「立候補」公式サイト

「泡沫候補たちはなぜ300万円も支払って選挙に立候補するのか? 橋下維新で盛り上がりを見せた2011年の大阪府知事選挙を軸に、その原動力を探ったドキュメンタリー映画」




先日、この予告編を見て映画にたいへん興味を抱き、また合わせて「選挙って何なんだろう」と考えたこと(それは昨年の衆院選以来考えさせられてきたことでもあります)について書きました(→映画「立候補」予告編 有名人候補と泡沫候補)。マック赤坂さんや外山恒一さんの政見放送も、この映画に先立ってぜひご覧いただきたいです。

泡沫候補と呼ばれる彼らは、自身が当選しないということを分かっている。
じゃあ、なぜ供託金300万円を払ってまで、立候補するのか。
「売名行為」だと結論づけるのは簡単ですが。不思議ですよね、なぜそこまでするのか。300万円をドブに捨て、嘲笑と罵声を一身に浴びながら、なぜ負けると分かっている戦いに挑むのか。この映画を観ることで、その理由の一端を垣間みることができるのではないかと期待していました。ひょとしたらマック赤坂のファンになってしまうのではないか、そんな自分はちょっと怖いなと若干の警戒心を抱きつつ。

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結論から書きます。疑問は少しも解けませんでした。あえて言うならば、分からないということが分かった。マック赤坂という人物について、理解しようとすればするほど、理解できなかった。それどころか、頭の中は以前にもましてハテナが増えました。マック赤坂には「スマイル」以外の何も無かった。いや、ほんとうに何も無いのか、それともあえて何も無いように振舞っているのか、それすらも分からなかった。

本編を通じて、マック赤坂が考える政策の話はまったく出てきません。政見放送では「スマイル」だけだし、街頭ではマラカスを振って踊っているだけ。呆れるくらい、ほんとうに何も無い。これで投票しろというほうが無理でしょう。一応、小さな政府を指向するという旨は主張していたものの、なんだか取って付けたような感じで、「スマイル」以上の説得力はありませんでした。

政治家の仕事といえば、予算の割り振りをすることと法律を定めることですから、マック赤坂さんのいちばんの主張である「スマイルの普及」に直結するような仕事ではないわけで。街頭でマラカスを振って踊ることでスマイルを普及させるのであれば、その手段が「立候補」である必要はまったくない。記者がスマイル党の党員数について質問する場面では、党の活動についてはクローズドだという答え。まったくもって意味が分かりません。なんのために政治家になりたいのかが見えてこないんです。当選したら何をしたいのか。いや、そもそもほんとうに政治家になりたいのか。この映画を見ても、ぜんぜん分かりませんでした。

唯一、あ、ほんとうのことを言ってるなと感じたのは、候補者届出の現場で選挙管理委員会の人に詰め寄るシーン。「同じ供託金300万円を払いながら、新聞紙上では「おもな候補」と「その他」に分けられるのはおかしい」と。至極もっともです。この映画を観るかぎり、マック赤坂が立候補し続ける原動力とはここにある(そしてここにしかない)ように、ぼくは感じました。自ら宣言していましたが、彼は「体制に迎合する男ではない」のです。警官にはやたらと好戦的だったり。

2011年の大阪府知事選は、「おもな候補」3名と「その他の候補」4名による選挙戦でした。マック赤坂のほかにも3名の泡沫候補が登場します。彼らはみな、自分が当選するとはまったく思っていない。供託金300万円を払いながら、金がかかるからという理由でそれ以外の選挙活動を一切行わずほぼ家にいたという候補。公約というウソを付くのがいややから、という理由で「こんにちは、よろしく」という挨拶だけをくり返していた候補。妻に先立たれ、ひとり娘を喜ばれるために泡沫の中での一番を目指す候補。率直に言って、この人ら、なんておもしろいんだと思った。そして、やっぱり分からなかった。
だから、なぜ供託金300万円を払ってまで、立候補するのか。

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ここでいったん映画から離れ、自身の経験として昨年12月の衆院選のことを振り返ってみます。ぼくは山形1区の有権者でした。1区は、自民党の遠藤利明と民主党の鹿野道彦による事実上の一騎打ちとされていました。そこに共産党の候補を含めて、小選挙区での選択肢は3つ。民主党には失望していましたが、だからといって自民党はあり得ない。だけども菅政権、野田政権という流れの民主党執行部は信じられない。かなり悩みました。選挙というものが分からなくなった。そのときの経緯をこのブログに記しています(選挙のジレンマ選挙の憂鬱選挙の曙光)。けっきょく未来の党に託した希望は打ち砕かれる散々な結果となりましたが。それはそれとして、小選挙区で「選びようがない」という立場に置かれたことで、いろいろと考えさせられました。

最終的に、ぼくは小選挙区で誰に投票したのか。生まれてはじめて共産党の候補者に一票を投じました。共産党アレルギーを克服できたのかどうかは分かりません。だけど単純なことだったんです。脱原発やTPPをはじめとした政策論点で考えたらここしかないんだもの。いち生活者として、わたしはこの政策を支持しますと表明するのが投票という行為なのだとしたら、ここしかないだろうと。じゃあなぜ悩んだのか。「死票」になることが分かっていたからです。共産党候補に一票を入れても、彼が当選することはあり得ない。それは必ず死票になる。

たとえば消去法(TPPには慎重であろうという希望的推測)で鹿野氏を選んだとします。その場合、ぼくは鹿野道彦を選んだことになるのか、民主党を選んだことになるのか。後者ならば、野田民主党を承認したという意味になるのか。理屈としては、鹿野道彦という人物を選んだはずですが、彼が民主党内でどれだけ影響力があるかはまた別問題。民主党執行部は、鹿野氏個人への信任というよりも、民主党執行部が信任されたと解釈して、自分たちのやりたいことをやるための根拠にする。鹿野道彦がTPPに慎重だったとしても、執行部の都合で推進するでしょう。ほんとうに「人」で選ぶ意味があるのか。選挙というものが分からなくなりました。

いくらネット調査で生活党の支持がダントツでも、自分の住む選挙区に候補者が立たなければ選びようがない。未来の党と共産党が両立する選挙区では、なぜ選挙協力しないのか、理念よりも党が大事なのか、という批判がおもに未来の党支持層から共産党に向けてありました。ぼくも少なからずそう思っていた。だけど、衆院選で実際に自分が「死票」を投じてみて、少し考えが変わりました。

「死票」だ何だと小賢しいことを考えるのをやめようと思ったんです。何十年か後になって、自分がここに投票したということを自分の子供らにちゃんと説明できるところに票を投じようと心に決めたときは、なんだか胸がすーっとしていくのを感じました。

当選しないと分かっている人に票を投じる。特定の組織に属しているわけでもないし、別段イデオロギーに凝り固まっているわけでもないのに。それまで、「特殊な人」がするものだと思っていた「死票」を自分が投じてみて、ああ、こういうことかと。

府知事選での勝利後に、橋下徹大阪市長が語っていたセリフが映画にも出てきます。“選挙で負けた候補者については知りません。負けた候補者に投票した市民の声には耳を傾けます(要旨)”。橋下氏が実際に大阪市民の声に耳を傾けているかどうかは甚だ疑問ですが、ここで彼が言っていることが、民主主義の原則なのだなと。そして選挙の意味、ぼくらが投票する意味もここにあるのだと。多数派が正解(絶対正義)だということを決めるために選挙をやるわけじゃない。むしろ、社会の多様性を担保するためにこそ、代議士による議会制民主主義が存在しているはずです。

勝ち馬に乗ろうとすることが、投票の意味ではありません。そのためにどの候補が「勝ちそうか」を比べることに何の意味も無い。たとえ自分がマジョリティであろうがマイノリティであろうが、自身の生活、家族、はたらき方や子育て、生き方と向き合って、そこから考え得る最適解にいちばん近い候補者に票を投じなければ、いくら勝ち馬に乗ったって意味が無い(皮肉なことに、ぼくは子供を持つことで自分がマイノリティであることを痛感させられました)。

どうせ比例区でしか議席を獲れない共産党が全ての選挙区で候補者を立てるのは、有権者にとっての選択肢を増やすためでしょう。当選はしない(議席は得られない)けれども、これだけ票を入れる人が存在するという事実を、当選した議員は、立場上、受けとめなければならない。それはつまり与党への圧力としてはたらきます。原発事故以降、共産党の存在が無かったらと思うとゾッとしますね。共産党は批判ばかりして建設的ではない、という意見もよく聞きます。ぼくも以前はそう思っていましたが、これも考えが変わりました。選挙に限らず、ぼくら市井の人々が声をあげること自体に意味があります。デモだってそうだし、ツイッターでぼやくことだってその一種かもしれない。女性手帳は圧倒的批判で見送りになりました。

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閑話休題。

映画「立候補」に登場する泡沫候補が立候補する理由、それはそれぞれ違うみたいです(当たり前だけど)。でも彼らに共通している点があります。それは、「組織に属さない」ということ。選挙に必要だと言われる3つの「バン」、つまり「地盤」(組織力)・「看板」(知名度)・「鞄」(資金)のどれか(あるいはどれも)が圧倒的に不足している彼らは選挙戦では圧倒的不利な立場に立たされる。その中でも、「地盤」(組織力)の力は強大です。

「組織に属さない」ということの「マイナス」を痛いほど見せつけられるのが、この映画のおそろしいところでもあります。これが現実だと思うと、途方もない無力感と孤立感に襲われる。無視されながら、嘲笑と罵声を浴びながら、それでも街頭に立ち続ける彼らを見ていると不思議な気持ちになってきます。「帰れ」コールが連呼される中でマック赤坂が「なにものか」と対峙するラストシーンは鳥肌が立ちました。

マック赤坂が対峙し続ける「なにものか」とは、ぼくらが対峙しなければならない「なにものか」であるような気がします。だからこそ、「何も無い」はずのマック赤坂のすがたがこれほど胸を打つのだと思います。彼はいったい何と戦っているのか。


泡沫候補には、例外なく「イロモノ」というレッテルが貼られます。ぼくらはそういう目で彼らを見る。ぼくもそう見る。どうしたってそう見てしまう。そういう心のクセがあるからです。「組織に属さない」人を、ぼくらは「特殊な人」と見る。べつに「イロモノ」でなくとも、見知らぬ顔に対しては、出る杭を打とうとする心理がどこかではたらく。

出る杭を打つことで、人は自分が勝ち組の中にいるような錯覚を覚えるものです。だから泡沫候補をバカにする。見下す。目を逸らし関わらないようにする。彼らを「腫れ物」として排除しようとするぼくらの心のクセが、排他的で同調圧力的な社会をつくっているのかもしれません。「帰れ」コールのおそろしさは、集団のおそろしさです。


何度も300万円を捻出できる資金力を考えれば、マック赤坂さんはむしろ「勝ち組」側の人間であって、ぼくみたいな庶民の感覚とは離れた感覚をお持ちなのかもしれません。対立候補の眼前で、まるで妨害するかのように辻立ちしBGMを流す行為が好ましいとは思わないし、京都大学の入口にこれまた妨害するかのように選挙カーを横付けし、「学祭なのでどいてもらえますか」と訴える学生に「公職選挙法違反だよ。就職できなくなるぞ」などと脅しをかけるに至っては、いよいよこの人が分からない。

もしぼくが2011年11月に大阪府民だったとしたら、マック赤坂には投票しなかったでしょう。この映画を観終わって、マック赤坂に幾分かの親近感を抱くようになったけれども、やはり彼には投票しないと思います。それでも彼には出続けてほしい。もし街頭で出会う機会があったら声ぐらいかけてみようかとは思うようになりました。

そういう社会がいいと思うんです。
個人的には、マック赤坂の踊りをべつに見たいとも思いません。けれども、彼が踊れるような社会のほうがいいとは思います。

人によってこの映画から感じることはさまざまでしょう。正解なんて無い。多種多様な立場からの、多種多様な真実が入り乱れている。誰にでも簡単に説明できて、誰からも理解されるようなことなんてほとんど無い。そういう社会にぼくらは生きています。誰か「偉い人」が作った教科書をなぞらえていれば、勝利やおなぐさみが確約される、そういう時代はすでに過ぎ去ったと思いたい。
圧倒的アウェー環境の中で、咆哮したりしなかったりする泡沫候補。体制に迎合しない彼らは教科書から逸脱した存在です。

なぜ供託金300万円を払ってまで、立候補するのか。
映画「立候補」を観ても、ぼくにはその理由が分かりませんでした。けれども、もっと大事なことが分かりました。
彼ら泡沫候補が存在する理由とは、すなわち、ぼくらが存在する理由でもあったのです。

彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由。そんなもの簡単に分かるものか。分かってたまるか。簡単に分かるような理由なんて、ペラペラの嘘っぱちですよ。分かった風なことを聞きかじって、分かったつもりになって、分かった風な口をきくことの軽薄さ。分かったつもりになって「勝ち馬」に投票することの底浅さ。


§



参院選が目前に迫っています(7月4日公示)。だけど世間はあまり盛り上がっていません。たぶんまたぎりぎりの直前になってから、誰が勝つだの負けるだの、にわかにお祭り騒ぎ的な様相を呈してくるのでしょう。そしてお祭りが過ぎれば、ほとんどの人は自分が投票したことなんか忘れる。

参院選が盛り上がらないのは、結果が見えているからでもあります。このインタビューで、小沢一郎が今回の選挙の展望について語っています。

同記事より要旨
民主党は結局(憲法でもTPPでも)意思決定できない。このままだと参院選までに受け皿の構築は無理ですね。去年と同じように自民党に対する積極支持はないけれど、最終的に自民党が勝つということになるでしょう。しかし、まあそこからです。3年後には、絶対また政権交代になると思っています。そのために小選挙区制にしたんだから。大多数の民主党の人たちはTPP賛成、原発OKではない。ただ、幹部の中に自民党志向の人たちが多いわけです。だから、民主党の中で考え方の相違がいずれ出てくる。具体的な動きとして出る。そうすると、政界の新しい再編になるのではないかと思っています。


小沢氏のこの見立てには、おおむね同感です。ですが、「3年も耐えられるんだろうか、こっちの生活が…」というのが率直なところ。3年後の政権交代を指を加えて待っているわけにはいきません。これからの3年間でどれだけ生活が壊され、格差が拡大するかがとても心配です。「出戻り自民党のお手並み拝見、だめなら3年後に審判を下せばいい」だなんて悠長に、斜に構えている場合ではないと思います。政治のことを自分の生活にたぐり寄せて、自分ごととして考えていかないと、いつかきっとしっぺ返しを食らいます。

選挙では勝ち馬レースに関係なく自分の意思を表明すること、その後は与党の言動をしっかりと注視すること、それから違うと思ったら声をあげることがとても大事だと思います。それがたとえ、他人から見るとマック赤坂のように滑稽に映ったとしても、そんなことはぜんぜん関係ありません。



追記:ちなみにこの映画には、ラストが近づくにつれ明らかになるもうひとつの核となるストーリーがあり、監督も「泣きながらカメラを回した」というクライマックスには、ぼくも大いに感動させられたのですが、ネタバレになるのでそちらは映画を観てのお楽しみということで。

映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由

映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由 2013.05.31 Friday [音楽・映像] comments(0)
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George Barnett 若者の才能とおじさんの目頭

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世界中で話題を呼んでいるらしいDaft Punkのニューアルバム『Random Access Memories』、まだ試聴したばかりの段階ですが、スイートでノスタルジックで脳みそとろけそうになりますね。ぼくも大好きです。

ダフトパンク新曲に対しての世界中の盛り上がりがすごい - NAVERまとめ

その中で見つけた、この青年による「Get Lucky」(Daft Punkのオリジナルはこちら)のカバーがとってもいいなあと思いまして。誰?って感じですが、まあ聴いてみてください。



ノスタルジックなDaft Punkのオリジナルも良いですが、若い衝動がぎゅっと詰まったようなこのタイトな演奏にはまた違った魅力がありますね。

George Barnettさん。ググってみたものの日本語の情報が乏しいので本国での知名度や名前の読み方など詳しくは分かりませんが(ジョージ・バーネットでいいのかな)、UK出身のミュージシャン・モデルさんで、なんとまだ19歳?? ドラム、ピアノ、ギター、ベース、トランペット、ハーモニカを演奏するマルチプレイヤーで、オリジナル曲もつくってるみたいです。

これとかいいなあ。すごい好き。





PVの雰囲気もグッとくるものがあって、なんだか泣きたくなります。すっごいよね。バーネット君。若い才能がほとばしってる感じ。きらきら輝いてるもの。
おじさんは良い歌を聴かせてもらってありがとうという気持ちでいっぱいです。

しかし、これくらい若くて才能あるアーティストのPVを見てると、以前みたいに単純にかっこいいなあというよりも、自分の子供のことを連想してしまうようになったよ。。。勝手に(もうほんとうに勝手にで恐縮なんですが)いろいろ重ね合わせて目頭が熱くなる。年とったなあ自分…(悪い意味ではなく)。日本でもこういう才能ある若者が出てこれるかなあ。出てこれるような環境を、社会を、俺たちおじさんはつくってあげられるかなあ。せめて自分の子供たちにはキラキラ輝く世界を見せてあげたいなあ、って。ああもう泣きそう。


2012年にリリースされたアルバムが下記に公開されています(日本のアマゾンでは取扱いしていないみたいです)。


George Barnett - 17 Days (Full Album)

なかなかバラエティに富んだ楽曲が揃っていて、荒削りな部分も含めてとっ散らかった印象もありますが、自分の好きなものを詰め込みましたって感じが、それも若さの魅力だなと。近い将来、なにかのタイミングで、日本でもブレイクしそうな逸材だと思います。ルックスもいいし。まあ日本でブレイクしようがしまいが、個人的にはなんだか無性にグッとくる若者で、今後も追いかけたいなと思ったので記録として残しておきました。

George Barnett 若者の才能とおじさんの目頭

George Barnett 若者の才能とおじさんの目頭 2013.05.23 Thursday [音楽・映像] comments(0)
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橋下徹氏が政治家になった理由

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もうこの人は終わりなんだなと思うと、哀れになるだけで、不思議と腹が立たなくなってきました。

アメリカにも激怒された、橋下徹大阪市長による慰安婦発言に端を発する数々の詭弁。同氏は発言を取り消そうとせず、「誤報された」とか「日本人は読解力不足」などと言って自己正当化を図っていますが、その詭弁術は目に見えて劣化しており、論旨がおかしいのは明らかです。彼のそういうレトリックを小馬鹿にしたり軽蔑したりするのは簡単ですが。いまもって「マスコミの伝え方が悪い」とかいう擁護の意見を少なからず目にすると、ああなるほど日本人は読解力が不足してるという点だけは当たってるなと。

橋下徹氏は69年生まれのテレビ世代。政治家に転身する前からテレビに出ている姿を見ていると、テレビの世界が好きなんだろうなという印象はあります。もちろんぼくなんかもテレビ世代なわけで、彼を選んでしまう日本人も含めて、ある意味、時代の申し子なのではと。橋下現象とは、橋下氏個人の問題だけではないはずです。

いまはまだテレビ世代が大手を振る時代。橋下徹氏はその最後の砦なのかもしれません。欺瞞がボロを出して崩壊している。なぜこうも恥ずかしいことを恥ずかしげもなく言ってしまうのか。そして、日本人はなぜそういう人たちを選んでしまうのか。橋下現象とは、橋下氏の欺瞞であると同時に、ぼくら日本人自身が作ってきた社会というものが抱える欺瞞を見せつけられているような気もするのです。


で、ぼくがどうしても分からないことがあるんです。橋下さんって、どうして政治家になろうと思ったんだろう。だって、あれだけの詭弁術があれば、金儲けなんていまよりぜんぜん出来てただろうに。地位、名誉?政治家ってそんなに地位や名誉のあるお仕事なんでしょうか。っていうか地位や名誉ってそもそも何なんだろうと考えると訳が分からなくなったり。テレビでちやほれされたい? それだけ?

もちろん本人に訊かなければ分かりませんし、訊くつもりもありませんが、橋下現象って、なぜその現象が起きているのかという出発源を考えると、不思議だよなと。

ツイッターでリプライいただいたご意見を幾つか紹介します。

ひっさんより
僕ら大阪人も橋下さんが選挙に勝ったことより、彼が政治家を選んだことのほうがある意味解りません。収入は以前のほうがはるかに多いはず。一つ考えられるのは市管理の賭博と風俗の利権を狙ってるのか


府知事を辞めて市長になったわけですよね。なぜか。大阪都構想を実現するため、二重行政を解消するためというのが一般的な認識とされています(参考)。もちろんこれは橋下氏の言い分です。読解力があれば俺の正しさが分かるはずだという主張をそのまま読解する人は読解力がないということを、彼は身を以て教えてくれたので、こういうのはまず疑うクセがついてしまいました。

ぼくは大阪府や大阪市の実態を知らないし、生活実感も無いので、大阪都構想というものがどれだけの妥当性と実現性を持つ改革案なのか、よく分かりません。平松邦夫前大阪市長は、大阪府・市の水道統合頓挫について「二重行政の問題ではない」と言っています(参考)。この辺りは、他所から論理戦を傍観していてもどちらに理があるのかはたぶん分からないと思うので、あまり追求しません。賭博と風俗の利権がちらついているのかどうかも知らない。

ただ、「収入は以前のほうがはるかに多いはず」というのは、そうだと思うんです。政治家なんかにならなければ、彼の「心理戦で絶対負けない交渉術」はボロを出さずに、もっと大きな利権にあずかれるだけの才能があったと思うんですよね。だから、彼が欲しかったものは「利権」ではないように思えます。じゃあいったい何なのか、というのが、ぼくの疑問の出発点です。

知事と市長のどっちが偉いなんてことはないでしょうが、市長への転向は「改革のために敢えて降格した」という印象を与える結果にはなっているような気もします。「利権」ではないとしたら、やはり「政策実現のため」だろう、と思うのは推論として的外れではありません。けれども、これまでの橋下さんの発言を振り返っていくと、自分が置かれた論戦状況によって、その場だけ正しいことを言い続けてきたということが見えてきます。結果として、言ってることがコロコロ変わり、発言が簡単に撤回されることもしばしば。実現したい政策が先ずありきであるとはとても思えません。


村上研治さんより
著書によると権力欲がすごいみたいです。
橋下氏曰く「政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。
自分の権力欲を達成する手段として、嫌々国民のため、お国のために奉仕しなければいけないわけよ。
ウソをつけない奴は政治家と弁護士にはなれないよ!嘘つきは政治家と弁護士の始まりなの。」


橋下さんのこの言葉はこの著書からの引用みたいですが、すごいですね。これが彼の「本音」なのだとすると、慰安婦発言にも通じるように「本音を言って何が悪い」的なメンタリティなんでしょうか。こういうことを本に書いておいて、それで実際に政治家になっちゃうって、たいぶ錯乱しているように思えますが、大丈夫なんでしょうか。

彼の言う権力欲、名誉欲っていうのは何なんでしょう。政治家ってそんなに権力あるのかなあ。そんなに名誉なお仕事かなあ。いまどき政治家が「イケテル」なんて思ってる若い人はいないでしょうし、権力や名誉のために政治家になろうと思うなんて、相当に古い感覚じゃないかと思うのですが、橋下さんってそんなに古臭いメンタリティをお持ちなのでしょうか。まあたしかに、発言の端々から男尊女卑的な感覚が垣間見えますし、石原慎太郎さんと同調したりしているので、そっち寄りの価値観をお持ちなんでしょうが、それにしても。「茶髪の風雲児」などともてはやされた時期もありましたが、それって単なるヤンキーって意味でしかなかったのかなあ。“日本社会にヤンキー文化が拡大している”という斎藤環氏の記事は興味深かったですが、その中で斎藤さんは「維新の会はヤンキー色が濃すぎる」と述べています。これは同感で、その辺りを合わせて考えると、実際に権力や名誉が欲しいというよりも、「権力や名誉が欲しいとぶっちゃけて言う俺ってかっこいい」っていう精神構造だったりするのかな、とも。


ɐʞoɐƃɐu ɐʎuıɥsさんより
「変えたい(既成のものを壊す)」と思ったんじゃないですかね。それはとても「快感」です。←批判一辺倒で言ってるわけではありません。


なるほど、「快感」。個人的にはこれがいちばん納得のいく理由ですね。

橋下さんがこれまで展開してきた「論戦」は、ぜんぶ自己正当化のためのレトリックです。自分以外はみんな既得権になっちゃうし、誤報したり読解力の無い相手が悪いことになる。どっちが正しい、どっちが悪い、そういう話ばっかり。彼の言葉から、大阪市民の顔はぜんぜん見えてこない。ほんとは政策なんてどうでもいいんです。そこに暮らす人の息づかいなんてどうでもいい。
「論戦に勝つこと」それ自体が目的化してしまっているのではないか。怒涛のツイッターはそれを象徴しているように思えます。

なぜ「論戦に勝つこと」それ自体が目的化するのか。それが「快感」だからです。
なぜ「改革」は支持されやすいのか。それが「快感」だからです。

どっちみち橋下徹氏が政治家になった本当の理由なんてたぶん理解はできません。ここに書いてあることは、ぼく個人のお気楽で勝手な妄想です。だけど、ああいう人物が出てきて、そしてそれなりの支持を得てきたっていうのは、橋下氏がとくに金や権力の権化だったとか、理解し難い変人だったというだけではなく、時代感覚的な要因もあると思うんです。橋下現象とは、テレビ世代の隆盛と終焉とでもいうか。

テレビ番組がつまらなくなったとよく言われます。ぼくもそう思います。説明過多で、とにかくやかましくなったと感じます。台詞にはテロップを流して、効果音を付けて、ワイプを付けて、もうゴテゴテにてんこ盛り状態。1秒たりとも静寂が訪れないようにしている。静寂が無いということは、視聴者が「考える時間」が無いということ。「どういうふうに考えたらいいのか」、さらには「どういうふうに感じたらいいのか」までもテロップや効果音で説明してくれるんだから。静寂があって、地味で、考えさせられるような番組、受け手である視聴者の感性に委ねるような番組は好まれない。刺激的でパッと目や耳を引きつけるもてはやされる。それが「快感」だからです。

「快感」が要請する衝動に沿って番組作りを続けてきたのがテレビの世界であり、その延長線上に橋下現象があるのではないかと指摘しつつ、誰か戦後のテレビ史と政治史を絡めた考察をしてくれないかなと他人任せにして終わります。





追記(5/23)

橋下さんの「日本人は読解力が無い」から文脈を読めなくて誤報をするのだ、という主張は、猪瀬直樹東京都知事の「真意が伝わっていない」とまったく同じ心理から出てくる言葉ですよね。「俺が本当に言いたいことはそういうことじゃ無かったんだ」と「事後的に」釈明する。「真意はそこじゃない」と事後的に釈明することで前言をうやむやにできるならば、何でもかんでも無茶苦茶なことが言えます。「そんなこと思っていなかった」という言い訳を大のおとなが繰り返している光景は見苦しいです。

この、「真意はそこじゃない」と事後的に釈明する心理って、「いまの自分はほんとうの自分じゃない」と自分に言い訳をする心理と似ているように思います。「いまの自分はほんとうの自分じゃない」から、自分探しに出る。ほんとうの自分はもっと出来る。明日になったら本気出す。いまここにある自分から目を逸らして夢見るような心のクセって、ぼくにもあるよなと思うんです。

いまここにある現実は「ほんとうの姿」ではない。
最終処理が決まっていない原発は「ほんとうの姿」ではない。いつか本気出して最終処理を決める。だからとりあえずこのままで。
沖縄ばかりに負担を押し付ける米軍基地は「ほんとうの姿」ではない。いつか本気出して解決する。だからとりあえずこのままで。

戦争に敗れ占領下にあったという事実から目を逸らし、その後も対米従属が今日まで続いているという事実から目を逸らし。いまここにある現実から目を逸らそうとする心のクセ。見たくないものに蓋をして、その現実が無かったことにすらしようとする心理っていうものが、戦後日本人の特徴なのかもしれないなと。都合の悪いことをフレームアウトさせるテレビ番組の作り方もまったく同じ傾向にあります。

戦後のテレビ史と政治史を絡めた考察を誰かしていただける際にはそんなことも踏まえていただけるとありがたいです。


橋下徹氏が政治家になった理由

橋下徹氏が政治家になった理由 2013.05.22 Wednesday [政治・メディア] comments(2)
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映画「立候補」予告編 有名人候補と泡沫候補

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気になる映画を見つけた。



映画「立候補」公式サイト

「泡沫候補たちはなぜ300万円も支払って選挙に立候補するのか? 橋下維新で盛り上がりを見せた2011年の大阪府知事選挙を軸に、その原動力を探ったドキュメンタリー映画」だそうです。夏の参院選を目前に控え、想田和弘監督の「選挙2」と合わせて観たい作品ですね。


泡沫候補といえば、東京都知事選ではマック赤坂や又吉イエスといった個性的な人たちが立候補するのが恒例となっており、ぼくもYoutubeで政見放送なんかを面白半分で眺めながら、なんだこれと笑ったり、政見放送っていちばんアバンギャルドな放送帯なんだなと感心したりしていました。



マック赤坂さんは有名ですね。
コスチュームをはじめ、何とコメントしたらいいのか、どこまで本気なのかぼくには分かりません。その辺りもこの映画を観れば分かるのでしょうか。知りたいような知りたくないような…。



こちらの政見放送は初めて見ました。
「どうせ選挙じゃ何も変わらないんだよ」と言い放ち、中指を突き上げる外山恒一候補。2007年当時、この動画はネット上ではたいへん人気を呼んだそうです。他の泡沫候補同様にキャラ立ちが全てであり、シュールな映像に仕上がっていますが、そのメッセージはいま見るとなかなか卓見ですね。オチも上手いし。
ちなみに本人は、政見放送はウケ狙いだったと語っているようです。興味を持ったのでさらにググってみると、こちらの動画ではグローバリズムを批判するなど、まともなことを言ってます。さらに、実際に選挙演説(飲み会?)に行かれた方の記事(泡沫候補研究)を読むと、外山恒一という人物像がなんとなく見えてくるような気がします。「アブナい人」というイメージ作りをされていますが、なかなか深いんですね。


彼ら泡沫候補には、例外なく「イロモノ」というレッテルが貼られます。ぼくらはそういう目で彼らを見る。ぼくもそう見る。どうしたってそう見てしまう。そういう心のクセがあるからです。べつに「イロモノ」でなくとも、見知らぬ顔に対しては、出る杭を打とうとする心理がどこかではたらく。

昨年の衆院選で、脱原発を訴えて出馬した目黒区のデザイナー丸子安子さんは「普通の人」でした。
「普通の人」出馬できる 目黒のデザイナー 脱原発訴え - 東京新聞

「私たちの一票で社会は変わる」という当たり前のことが実現するためには、さまざまな壁があります。「候補者乱立を防ぐ」という名目で設けられている世界一高い供託金(小選挙区で300万円、比例区で600万円)。さらには候補者への「売名行為」という陰口。「政治には関われない」という空気。こういった村八分的な「風習」が、政治というものをぼくらの生活から切り離しています。

上記記事より
二人の娘の母親でもある丸子さんは福島原発事故後、放射能汚染から子どもを守る活動などをしてきたが、出馬を知って離れた仲間がいた。「売名行為」と陰口もたたかれた。「私は何も変わっていないのに『政治には関われない』と言われる」
「有権者は望めば立候補できるはずなのに、まるで議員は別の立場のように思われ、両者が分断されている。子どもたちへの投票教育を怠り、あれもこれもだめという選挙制度が、日本の民主主義をだめにしてきた」
「署名やデモの次の自然な活動の姿として、今がある。誰だって選挙に出られることを知ってほしい」と力を込める。


政治のことを、自分の家族や生活をもとにして考えるのではなく、テレビの画面上に争点があるかのように錯覚して誘導される、すなわち選挙という行為を評論家感覚やゲーム感覚で捉えている人は案外多いのではないでしょうか。

選挙は知名度がいのちです。テレビに出ているタレント候補が組織力と組めば簡単に当選します。選挙時期が近づいてくると、各党がいかに有名人を擁立するかが選挙の焦点になったりする。候補者が何を言ってるのかよりも、ナントカガールズ等とあだ名を付けることのほうに一生懸命になる。そういうレッテルだけで分かったつもりになって多くの票が投じられる。現在の日本の選挙とは人気投票です。小選挙区制という制度の導入によって、その側面が大きくなってきたとも言えます(だから政権交代しやすい仕組みではあるわけです)。

橋下徹氏にしろ、石原慎太郎氏にしろ、猪瀬直樹氏にしろ、なぜこうも恥ずかしいことを恥ずかしげもなく言ってしまうのか。そして、日本人はなぜそういう人たちを選んでしまうのか。彼らはみな有名人候補です。有名人候補だから悪いとは限らないけれども、選挙結果が知名度によって支配されるという現状は、議会制民主主義を標榜する国の仕組みとしては良くない傾向であると思います。

橋下徹氏は「誤報された」とか、「日本人は読解力不足」などと言って自己正当化を図っていますが、その詭弁術は目に見えて劣化しており、論旨がおかしいのは明らかです。けれども、いまもって「マスコミの伝え方が悪い」とかいう擁護の意見を少なからず目にすると、ああなるほど日本人は読解力が不足してるという点だけは当たってるなと。

橋下徹氏は69年生まれのテレビ世代。もちろんぼくなんかもテレビ世代なわけで、彼を選んでしまう日本人も含めて、ある意味、時代の申し子なのではと。橋下現象とは、橋下氏個人の問題だけではないはずです。

テレビ世代からネット世代への世代交代は必ず起こります。いまはまだテレビ世代が大手を振る時代。橋下徹氏はその最後の砦なのかもしれません。欺瞞がボロを出して崩壊している。それは橋下氏の欺瞞であると同時に、ぼくら日本人自身が作ってきた社会というものが抱える欺瞞を見せつけられているような気もするのです。有名と泡沫を隔てるもの、その筆頭はテレビです。そのうち「読解力のある」ネット世代が出てくれば、政治なんて必然的に変わるんじゃないでしょうか。もちろんネット世代のすべてが「読解力がある」わけではないし、むしろ二極化あるいは蛸壺化が進むのかもしれないけど、すべてを同じ色で塗りつぶしてしまうテレビよりはマシだろうなと思います。有名人候補がテレビを栄養にし、泡沫候補がネットを栄養にするというのも象徴的だなと。


泡沫候補をバカにする心のクセ、出る杭を打とうとする心理は、無くならないかもしれない。けれども、そういう自分の傾向を、認識して向き合うことはできます。その上で、人気投票やお祭り騒ぎだけでない、もっと冷静に選挙というものに向き合い、投票できるようにならないといけないですよね。

映画「立候補」は、そのことを認識する上で今まで気付かなかった視座を与えてくれるような気がします。彼らはなぜ300万円も支払って選挙に立候補するのか。知りたいです。


ところで、この映画がとくに気になったのは予告編がとても良かったからです。本作監督の藤岡利充さんは76年生まれ。ぼくと同い年です。予告編で流れるBGMやその編集センスに、同世代の感覚を感じました。



Youtubeで見ると「イロモノ」でしかない泡沫候補ですが、この予告編では一大叙情詩になっている。選挙によって向き合うのはPCやテレビの画面だけではありません。自身の生活、家族、はたらき方や子育て、生き方と向き合うということです。候補者にとってもそうだし、有権者にとってもそうです。

同世代の監督が、泡沫候補という対象をどのように切り取ったのか、そこから見えてくるものは何なのか、とても興味があります。


公式サイトfacebookに掲載されている感想も参考までに転載。
「しつこい。しつこいほどに深く対象者を捉えている。良し。」ジャーナリスト 田原総一郎

「政治家とは何か。私たちが政治家を選ぶとはどういうことか。深く深く考えさせられた。われわれの社会に刃を突きつける、驚くべき傑作。」ジャーナリスト・作家 佐々木俊尚

「群衆の罵声を浴びながら踊り続けるマック赤坂の姿に泣きたくなった。見事だ。ありがとう。」映画監督 森達也

「とにかく面白い。あれやこれやと引き込まれ、最後は涙流す自分にびっくり」俳優 近藤芳正

「バカにするがいい。その分、感動に撃たれるから。」映画監督 松江哲明

「登場する立候補者たちの広々とした心に感銘した。これぞ泡沫の底力だ。」元東京都知事候補・現代美術家 秋山祐徳太子

「立候補する事に意味があるかどうかは、あくまで候補者が決める事だと気付かせてくれる作品。信じる力は偉大だ。」MC・Producer shing02

「泡沫と笑うは易し。でも彼らはまぎれもない”意義申し立て者”だった。懸命さが愛おしくなった。」アジアプレス・インターナショナル大阪オフィス代表 石丸次郎

「爆笑と驚嘆の果てに、民主主義の光と影だ現出する恐るべき人間ドラマだ!日本人必見。」東京国際映画祭 プログラミング・ディレクター 矢田部吉彦

「マイノリティとマジョリティについて深く考えさせられた作品。観終わった後、一人で唸った。」
WKA世界ムエタイウェルター級・WPKC世界ムエタイスーパーウェルター級王者 佐藤嘉洋

「ラストは鳥肌が立つと同時に、ウルッときて、背筋がゾッとした。」元川崎市議会議員 山内和彦(『選挙2』の主人公「山さん」)



追記:本編を観ました。感想など→ 映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由

映画「立候補」予告編 有名人候補と泡沫候補

映画「立候補」予告編 有名人候補と泡沫候補 2013.05.22 Wednesday [音楽・映像] comments(0)
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河野談話

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前の記事で「村山談話」について書きました。初めて読んでみたあの談話は、いたってまともな文章だったし、目くじらを立てる程の自虐史観が織り込まれているとは思わなかった。正直言って、「あの程度」の談話すら無かったことにしようとする方々の見識はちょっと異様であると思います。ところで、そういった保守派というか“日本大好き”な方々が「村山談話」よりも忌み嫌う「河野談話」について。こちらも読んだことが無かったので全文を掲載します。村山談話の2年前、平成5年8月に宮沢改造内閣の河野洋平内閣官房長官が発表した談話です。

「村山談話」が、首相としてのメッセージ性を前面に出しているのと比べると、こちらの「河野談話」は当時の内閣官房長官による談話であり、割と事務的なトーンです。内容としては、従軍慰安婦問題についてかなり踏み込んだものとなっています。平成7年に出された「村山談話」は、この「河野談話」での報告を事実として踏まえた内容であることが分かります。

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 - 外務省より転載
 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

平成5年8月4日



“日本大好き”な方々にしていれば、耳を塞ぎたくなるようなことが「調査の結果」として報告されたのですね。結果的にこの談話をもって、日本政府が従軍慰安婦の存在を公式に認め、また政府の関与する強制性についても認めたとされているようです。

「長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したこと」「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」

下村博文文部科学大臣や稲田朋美内閣府特命担当大臣、そして安倍晋三首相など、「河野談話」を無かったことにしたいという意図が見受けられる人々は、何をもって、これらの調査結果を「嘘」「デマ」だと言うのでしょうか。

311があぶり出した、およそ民主的とは言えない日本の基本的構造があります。お上にお任せで政治に無頓着だった庶民と、米国と財界が主導しながら三権分立ならぬ三権両立ともいうべき利権システムを守り続ける官僚。地域差別を前提として進められた沖縄基地や原発の問題は、政治に無頓着な庶民と利権を守り続ける官僚という双方の日本人が作り上げたものです。今まで(自民党という強固な長期政権による「上手な」政権運営によって)隠されてきた、日本という国のオヤジ的な体質の軽薄さが、民主党の「下手な」政権運営と稀に見る大震災とによって、隠しきれずにぼろぼろと本性を現してきている。いま社会問題として噴出している殆どの問題がそうだとぼくは思います。

「女性手帳」なんて、出産や子育てという重荷をぜんぶ女性の側に押し付けようとする女性依存的発想の表れです。仕事だけに邁進して子育てにタッチしてこなかったようなオヤジが考えそうなことですよ。「父親は仕事、母親は家事育児」なんていう戦後日本のロールモデルはもう成立しないっていうのに、未だに「家事育児」は母親のもの、そのくせ「女性の社会進出」で母親は仕事までしないといけない。ってどんだけ日本の女性の我慢強さに依存してるんだよっていう話です。骨太の少子化対策とやらが「女性手帳」だの「育休三年」だの、ズレすぎてて話にならないですよ。社会構造が戦後とはまるきり変わってしまったという事実に目を向けずに、利権構造や三丁目の夕日的美意識を大事にしたかのような論点ばかりが出てくるのは、現実逃避しすぎでしょう。現実を直視せず、負の部分を女性に押し付けるという点で少子化対策と慰安婦問題は地続きです。見たくないものは見えにくくなるという人間の性質は分かりますが、慰安婦の存在を「デマ」だといって否定することで保たれる「尊厳」とか「美意識」なんてクソの役にも立ちませんよ。そんなもんで子育てできるかって。放射能を恐れる母親たちの声を「デマ」だといって退けてから成り立つような「絆」なんてぼくは信じません。

体罰の問題がクローズアップされていますが(参考)、体罰文化とでもいうべき土壌が日本にはあるのだと感じます。よく家父長制度なんて言いますけれども、家父長が強権的にふるまうことが善しとされる「男らしさ」への憧れがあるんじゃないでしょうか。もしかしたらそれは、敗戦後の日本を経済復興へと導いてくれたマッカーサーへの憧憬と重なるのかもしれません。だから男は「強く」ふるまおうとする。強くふるまおうとするのは結構ですが、その裏の見えないところで妻や母親など主に女性による苦労と犠牲があることに耳を傾けようとせずに、○○だったら○○して当たり前だなんて偉ぶるのは「男らしく」ないです。亭主関白なんていうのはマザコンの裏返しだと思います。

話がだいぶ逸れましたが、そういう家父長への憧憬という土壌があり、その土壌に依って作られた日本の基本的構造がある。だって日本の基本的構造って、ほとんど男性社会ですから。体罰の問題はそれらが顕在化しているという現象だと思う。であるならば、「河野談話」が示すような事実は存在したと考えるほうが自然であるように感じます。これを否定するならば、美談や精神論でない具体的な根拠を示さないといけないわけですが、慰安婦の存在(あるいはこれが強制であったという事実)が「デマ」であると主張する人たちが共有するような事実ってあるんでしょうか。そこまで調べる気にならない(面倒だし)のでご存知の方がいたら教えて下さい。

“日本大好き”な方々が、いちばん癇に障るのはこの一節でしょうね。

「戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。」

もちろんこれも「デマ」なのです。彼ら(朝鮮人)は本人たちの意思でそうした。だから謝る必要などないし、このような「デマ」を垂れ流しているから奴らはつけあがるのだ。格下国に対しては毅然とした態度を貫かねばならない(韓国・中国に息巻く人たちは沖縄問題や日米地位協定についてはスルーしがちです)。
在日コリアンは、本人たちの意思で日本に潜り込み、在日特権にあずかって日本の財産を食いつぶそうとしている。奴らは嘘つきなのだ。マスコミは奴らの巣窟だ。報道を信じるな。真実はネットにある。

デモという名目で、「ゴキブリ」「日本から出て行け」「殺せ」等という暴言が市井の在日コリアンに対して浴びせられているという事実もネットには記録されています。そんなことをして守りたい「尊厳」って何でしょう。そんな“日本”好きじゃねーし。

「河野談話」が示すような事実は、「あってはならないこと」です。歴史認識においてズレがある人たちの間でも、この「感覚」は共有しているはずです(橋下徹大阪市長のようにウルトラC級の放言を公的な場で放ってその前提を覆そうとする人もいますが…)。「あってはならないこと」をしてしまったことを反省するのか。「あってはならないこと」は絶対に「あってはならないこと」であるという尊厳や美意識を大事にするのか。「あってはならないこと」だから、そんなことは「無かった」はずだという結論がまずありきで、そのための論理を探し出すということはないか。経済活動がまずありきで、そのための「基準値」が拵えられるのと同じように。

ぼくなんかは家父長にはなれない優柔不断なタイプの人間ですが、自らを守ろうとするあまり「あってはならない」けれども「してしまったこと」を「無かったこと」にしようとする心のクセってあるよなと、自分を顧みて思います。


河野談話

河野談話 2013.05.20 Monday [政治・メディア] comments(0)
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村山談話

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海外から大批判を受けている橋下慰安婦発言。みんなの党をはじめ、維新の会との連携を見直す動きも続出しています。国内メディアもこぞって批判的な論調になってきましたので、内田樹さんも仰っていましたが、維新の会はもう終わりという予感がします。海外からの評価(外圧)によってしか国内世論が動かないというのは情けないですが、これも日本という国の政治のカタチを象徴する出来事だなあと思うばかりです。

自民党はどうするんでしょうね。以前は、維新の会と歩調を合わせるようなことも匂わせていましたけれども。というか、維新の会が第二自民党というか自民党をさらに先鋭化させた新自由主義右派路線であることはもうすでに衆知の事実だったわけで。体質としてマッチョイズムが根底にあるという点では、橋下氏の言う「本音」のところでは自民党も維新の会も同じ穴の狢だろうと、素人ながらに訝しげな目で見てしまいますが、そこはやはり自民党には長年政権与党を担ってきた知恵があります。なんだかんだで昨年末の衆院選を圧勝した実績もある。維新の会が政権運営の足を引っ張ることになると判断したならばあっさり切るんじゃないですかね。

内田樹さんのツイートより
NYTの社説、かなり長文の橋下批判でした。最後のパラグラフはこうでした。「火曜日に日本政府は橋下氏のコメントへの違和感を表明した。しかし、安倍氏と指導部はこのコメントを徹底的に糾弾する(condemn them outright)ところまで歩を進めるべきである。」

今安倍政権は「国内の右派層の支持を固めて次の選挙に備える」か「アメリカから『長期政権をまかせてもいい』という外交的な担保を受け取るか」の二者択一を前にしています。

僕の予測は、安倍総理は最終的には「アメリカの支持」の方が「国内右派の支持」よりたいせつだという政治判断を下すだろうというものです。選挙は一回負けても次があるけれど、アメリカから見捨てられたら、財界もメディアも二度と支持してはくれない(それは鳩山政権で学習したはずです)。


「安倍総理は最終的には「アメリカの支持」の方が「国内右派の支持」よりたいせつだという政治判断を下す」という内田さんの予測には同感です。でも、「国内右派の支持」を失ったとしても、それが参院選の敗北に繋がるとも思えないんです。昨年末の衆院選で自民党が圧勝したのは「国内右派の支持」が原因だとは思えない。Facebookで熱狂するような「右派」の方々が、安倍は裏切り者だ!売国奴!となったとしても、70%の支持率を誇る内閣にしてみれば大したダメージでは無いはず。それどころか穏健右派や無党派層、とくにおそらく最大多数派である「なんとなく自民」で投票した人々にしてみれば、安倍首相が「マッチョな歴史認識」を修正し「良識的な見解」を示すことでかえって信頼感が増すのでは。維新の支持層がどこに流れるかだけど、それにしても自民党の優位は変わらないと思います。

参院選でも自民党はたぶん勝つ。それを覆すような要素は見当たらない。つまり参院選後も自民党が多勢であることに変わりはない。けれども、安倍政権は今までよりもアメリカからの外圧を気にしながらの運営(安全運転)を余儀なくされる、といった感じじゃないでしょうか。


ところで最近よく耳にする「村山談話」。その談話が意味する方向性はなんとなく認識していましたが、実際に本文を読んだことがぜんぜん無かったのでこの機会に転載します。

「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話) - 外務省

以下引用。
 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。

 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。

 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。

 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

平成七年八月十五日
内閣総理大臣 村山富市



とくに重要なのは、この一節ですね。

わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。


橋下氏の一連の発言を見ていると、この村山談話を踏襲するつもりが無いということだけは如実に伝わってきます。戦争への道という国策を選んだのが誤りだったのではなく、戦争に負けたことが誤りだったという態度なのだから。

安倍首相は4月22日の国会答弁で、村山談話を「そのまま継承しているわけではない」としていましたが、5月10日に菅官房長官が「(談話)全体を歴代内閣と同じように引き継ぐと申し上げる」と軌道修正しました(参考)。さらに5月15日の参院予算委員会で、安倍首相自身が「村山談話」について「政権としては全体を受け継いでいく」という考え方を明らかにしました(参考)。

ちょっと前には首相自身が侵略の定義がどうのこうのと言い出したり、閣僚の中には村山談話や河野談話を見直すべきだという意見も存在するなど、現在の自民党執行部の方々がおよそ村山談話に沿った歴史認識を共有しているとは思えないし、事実、海外からは「Japan Moves Right」という警戒の目で見られているということは、この政権を選んだのが日本人自身であるということも含めて、事実として受け止めなければならないと思います。

その上で繰り返しますが、安倍さんは村山談話を踏襲すると明言しました。安倍さんや自民党の閣僚たちが一個人としてどのような信条や歴史認識をお持ちであるのかはいろいろと憶測の及ぶところではあります。ですが、それはそれとして、安倍首相は「村山談話を踏襲する」という見解は「内閣の考え方」であると言っています(参考)。つまり国の見解としては「村山談話」を引き継ぐということ。首相の個人的見解がどうであれ、一国の長という立場で公的に「我が国は、かつて多くの国々、特にアジアの人々に対しては多大な損害と苦痛を与えた、その認識としては安倍内閣としても同じ」と発言した。このことはよく覚えておく必要があります。

安倍首相がこう言わざるを得なかったのは、外圧によるものであり、それに逆らわないという判断こそが、長年政権与党を担ってきた自民党の知恵でしょう。もともと対米従属を地で行く安倍政権ですが、「歴史認識」とやらでちょっと調子に乗りすぎてアメリカからお咎めを受けたというのはなんとも皮肉な話。皮肉な話だけど、それが政権の暴走に対するストッパーになり得るいちばん現実的な可能性なのかもしれません。

だけど、アメリカは決して日本の「お仲間」ではありません。不況だなんだといっても世界有数の個人資産を誇る国を放っておく手は無いというだけの話で、搾れるうちは徹底的に寄ってくるでしょうが、用済みになったら簡単に捨てられる可能性は否定できない。いつまでも「外圧」だけをあてにはできません。改憲やTPPの問題ではアメリカも自民党も利害は一致しているように見受けられるわけですし。


1996年当時、「戦後五十年問題プロジェクト」の事務局を担当していた田村重信氏(現自民党政務調査会調査役)によれば、村山談話には上記の「いわゆる村山談話」の他に、その一年前に発表された談話があるそうです。こちらの談話はもう少し具体的に踏み込んでいます。従軍慰安婦問題についても「女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」とし、女性の地位向上や女性の福祉等の分野における経済協力にも言及している。
村山談話について - たむたむの自民党VS民主党

「村山談話」とは、歴史認識を対外的にどうエクスキューズするかという際の物差しです。田村氏は記事の中で、歴史認識問題を決着させて現実の政治を動かしていくための「ガイドライン」が村山談話であると述べています。村山談話を踏襲すれば歴史認識問題で辞めることがないという防波堤を作ったのだと。「村山談話は、「村山富市という社会党の総理だから、駄目なんだ」という主張もありますが、これは、自・社・さ連立政権の時にできたのです。これは、従来の自民党の総理大臣の見解など政府の考え方を踏まえて「村山総理談話」という形にまとめたものなのです。」と。なるほど。

そういう「建前」としての「ガイドライン」の役割が村山談話にあるということは事実でしょう。また歴代の内閣がこれを踏襲してきたのも、そういうことなのでしょう。それと同時に、ぼくは「もうひとつの村山談話」を読んでみて、これは他国に対する防波堤であると同時に、自国がどのような方向に向かって舵取りしていくのかという指針でもあると感じました。

ぼくは「いわゆる村山談話」を読んで、率直に悪くない文章だと思いました。そして現政権からはひっくり返っても出てこないような文章だと思った。だから「踏襲」するだけでもまあよしなのかなと。

安倍さんは首相として、歴史認識を軌道修正せざるを得ませんでした。これをひとつの根拠として、これから内閣が「独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進」していくのかどうか、国内のジャーナリズムは追求していく必要があります。有権者のひとりひとりが見極めていく必要があります。それが政権の暴走に対するストッパーとなり、政治を動かす力となるのが、「普通の国」であると思います。参院選の結果、たとえ自民党が多勢であったとしても、それは可能であるはずです。


村山談話

村山談話 2013.05.17 Friday [政治・メディア] comments(0)
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わかりあえないこと(橋下市長の国際感覚と「グローバル化」について 平川克美さんのツイートより)

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話題沸騰中の、橋下市長による慰安婦発言。

橋下氏発言、議論呼ぶ 「慰安婦制度は必要だった」「米軍、風俗業活用を」 - ハフィントンポスト
橋下発言、ツイッター上で批判殺到 石原氏「軍と売春はつきもの」と擁護 - ハフィントンポスト

橋下さんお得意の炎上マーケティングなんでしょうか、その真意はよく分かりませんけれども、こんなもの「議論を呼ぶ」までもなく、ただただ呆れるほかないです。「死の街」発言で一発退場をくらった閣僚が少し前にいましたが、橋下さんのこの失言は致命傷にはならないんでしょうか。対外的に見た「国益」の損なわれ具合は、「死の街」とは比較にならないと思うのですが(「今回の橋下発言は間違いなく日本の国際社会における信頼と評価を大きく損ないました」という内田樹さんのツイート)。けっきょくのところ、「失言」が「政治生命」に与える影響なんて、マスコミのさじ加減ひとつということです。

「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」なんていうことを、公的な場で語ることの異様さ。皆が腫れもののように避ける案件にオレが切り込んでいったと言わんばかりのドヤ顔が嫌悪感に拍車をかけます。その後もぐだぐだと言い訳を続けていますが、墓穴を掘る一方なのでもう喋らないほうがいいと思います。

橋下さんは、世界に通用する「グローバルな人材」を育成するための教育改革をかねがね訴えていますが、その前にまず誰かこの人に、居酒屋でのオナニー談義と公的発言の区別を教えてあげる必要があると思います。教科書が教えない真実の「歴史認識」とやらに拘り、勝手にオナニーやってる分には構いませんけれども、対外的な立場でオナニーを披露された日には、こっちにまで被害が及ぶので黙ってはいられません。「グローバルな人材」とは、グローバルなマナーをわきまえた人のことでしょう。


以下、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』の著者である平川克美さんのツイートを軸に話を進めていきます。

平川克美さんのツイートより
首相にせよ、市長にせよ、都知事にせよ、とても国際感覚があるとは言い難い発言を繰り返している。かれらが推奨する、グローバル化とかグローバル人材の育成って何なんでしょうね。


橋下さんや石原さんの言葉が海外に流布してくのが、ただただ恥ずかしいです。日本男児、だっせーと思う。維新の会が支持される根底には、男性社会のマッチョイズムがあると思います。女性手帳という発想が出てくるのもその延長線上にあるし、亭主関白とは本質的に女性依存(マザコン)の裏返しだと思う。ほんと、その手の「男らしさ」って、だっせーですよ。

橋下さんは「勝てば官軍」というような旨のことを語っています。戦争に負けたから悪いのだと。彼が言う「グローバル化」とは、そういう階層での話なんですね。世界というライバルに立ち向かって勝負に勝つのだと。猪瀬知事は五輪誘致をめぐる失言の後で、これで敵と味方が分かったなどとツイートしていました。橋下さんにしろ猪瀬さんにしろ、政府にしろ、「グローバル化」を推進する人たちは、「勝負ごと」にこだわっている。だけど、世界はそんなに「勝負ごと」ばかりで成り立っているのだろうか。「グローバル化」とは「勝負ごと」の土俵で語られるべき事象なのだろうか。

「グローバル化」という言葉を聞いて人が連想するイメージと、実際に「グローバル化」政策として進められる案件との間に、齟齬があるのだと思います。前者は、インターネットの普及に代表されるような点と点を結ぶイメージ。あくまでも、それぞれのローカルを起点にして、ハブによってそれらが繋がるという現象。後者は、単一の価値観を共有していくイメージ。金融と多国籍企業による市場支配は、アメリカを起点として加速しています。同じ「グローバル化」という言葉によって糊塗されていますが、これらの現象は似て非なるものです。「グローバリゼーション」とは「アメリカという価値観のローカリゼーション」なのだという説明が今はよくわかります。つまり「勝負ごと」とは、アメリカという価値観によって拵えられたルールなのです。(この辺りは内田樹さんの考察が的確だと思いますので、ご参照を。)

「勝負ごと」の世界観だけが突出していくと、橋下さんのようなロジックが出てくる。そしてそのロジックに違和感を覚えない人が増えていく。資本主義市場的にはそれでオッケーなんでしょうけれども、やっぱりそれは違うとぼくは思う。「グローバル化」という言葉を聞いてぼくが連想するイメージは、以下のようなもの。

平川克美さんのツイートより
アメリカの友人はカタコトの日本語、俺はカタコトの英語。お互いに通じない部分があって、その通じない部分がお互いの興味をかきたてる。母語でしか語れないことをお互いが確かに持っている。通じないということが、異文化交流の基本となる。

その母語でしか通じないことが、貧困なものでしかないとすれば、いくら外国語が達者でも異文化交流などできっこない。あたりまえだけどさ。

国際化とは、共通言語を持つということではないだろう。お互いが、翻訳できない母語の世界を持っていることを共通認識すること。そこで初めて、外国語の学びというものが起動する。


英語教育に関しては、TOEFLを義務づければ英語力が付き「グローバルな人材」が育成できる、というこれまた田舎者の考えそうなことが「教育再生会議」で議論されている(参考)というんだから、くらくらと目眩がしそうです。ここで言う「グローバルな人材」が、アメリカという価値観によって拵えられた「勝負ごと」に勝つことができる人材という意味で使われていることは容易に想像できます。

外国語を学ぶって、そういうことじゃないですよね。
たしかに、国際競争で生き残るためという側面もあるかもしれない。けれども、その前にまず身につけておかなければならない力があります。とても国際感覚があるとは言い難い発言を繰り返す日本の政治家たちは、それが欠落しているのでは。そもそも、日本語の読解力も無いような状態で英語力だけが付くわけがないです(参考:山形1区選出の遠藤利明議員と荻上チキさんとのTOEFLについての対話はまるで不条理の世界)。

外国語を学ぶことで、ぼくらは異文化の存在を知ることができます。通じないものがあるということを知る。そこにどう対峙するか、ということが外国語を学ぶスタンスに表れるのだと思います。ぼくは、思春期に洋楽が好きだったから、タイトルや歌詞の意味を知りたいと思って、せっせと辞書を引いたものです。知りたいと思うことからコミュニケーションが始まる。

平川さんの上記のツイートに対して、ぼくは幾分シニカルに以下のようなメンションをしました。外国の文化のほんとうのところなんて、そこに住んでいる人以外には分かりっこないと思っていたから。

『「わかりあえないということ」をわかりあうこと』でしょうか。RT @hirakawamaru 国際化とは、共通言語を持つということではないだろう。お互いが、翻訳できない母語の世界を持っていることを共通認識すること。そこで初めて、外国語の学びというものが起動する。

それに対して、平川さんが返事をくれました。

平川克美さんのツイートより
少し違うんです。かれが伝えられない何かは、わたしが伝えられない何かと同じ種類のものであり、とても大切なことだということはわかるということ。

かれが持っている母語でしか伝えられない何かと、わたしが持っているものを繋いでいるのは、国境を越えた普遍的な価値の共有ということ。それらは、ともにローカルな価値であるけれど、同時に普遍的なものでもあるわけですな。


このお返事にぼくは感銘を受けました。
ぼく自身は人生経験も希薄ですので、“かれが伝えられない何か”と“わたしが伝えられない何か”との間に「国境を越えた普遍的な価値」があるということを実感として持つことはまだできません。でも、そうであったらいいなとは思う。というか、きっとそうであるはずだと、たぶんずっと信じてきた。だけどそんなの幻想じゃないかとも思っていた。だから、年長者である平川さんがこのように言い切ってくれたことに感銘を受けたのです。

そう、だから知りたくなるんですね。うまく伝えられないけれども、「同じ種類のものであり、とても大切なことだということはわかる」から。だから知りたいと思う。音楽やアートもそうだと思います。

平川克美さんのツイートより
そうだと思います。この伝えられないが大切な何かを共有できるかどうかが、グローバルな人材には第一に求められている。しかし、それは「育成」によってできるものではないんですね。@singstyro おおっ。だから知りたくなるんですね。


平川さんや内田樹さんの言葉が腑に落ちるのは、「論理的に正しい」からではありません。ぼくが感じていることと「同じ種類のものであり」、それが「とても大切なことだということはわかる」からです。
橋下さんの言葉に違和感を覚えるのは、たとえそれが「論理的に正しい」としても、ぼくが感じていることとは違う種類のものであり、大切なこととはズレていると感じるからです。言い訳を重ねれば重ねるほど、そのズレが開いていく。

異文化交流とは、外国語でのコミュニケーションのことだけではありません。橋下さんや石原さんはもちろんのこと、自民党の議員の方々をはじめ、それを支持する人たち、特にネット上で熱狂的に対立を煽る人たち。この人とは「わかりあえない」だろうなと思う人がけっこういます。価値観が異なるというのもそうだけど、その前に話がぜんぜん通じないだろうなと思ってしまう。

言葉の壁よりも大きな壁があると感じる。

それをどうすればいいのかは分かりません。そういう人たちとも異文化交流できるのか。たとえば在特会のような人たちとも対話できるのか(したくないけど)。「国境を越えた普遍的な価値」なんてものを共有できるような気はさらさらしません。それでも。

平川克美さんのツイートより
人間の本音が生み出す、敵意、憎悪、差別というものの連鎖をすこしでも緩和するために、先人は民主主義や平和主義、人権といった概念を作り出してきた。そこには、幾分かの「嘘」があある。

しかしだからと言って、「嘘」を暴くことで、ふたたび敵意や、憎悪による殺戮や差別の世界へ戻るべきではないし、戻りたいとも思わない。本音を礼賛することの幼児性とは、この先人の積み上げてきたものが見えていないということ。


平川さんのような大人がいるということに一縷の希望を感じます。「国境を越えた普遍的な価値」とは、もしかしたら「嘘」なのかもしれませんが、その「嘘」によってかれとわたしが繋がるのならば、ぼくもその「嘘」にのっかってみることにしようと思います。


わかりあえないこと(橋下市長の国際感覚と「グローバル化」について 平川克美さんのツイートより)

わかりあえないこと(橋下市長の国際感覚と「グローバル化」について 平川克美さんのツイートより) 2013.05.15 Wednesday [妄想] comments(0)
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『ホテル・ルワンダ』は繰り返す。

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ルワンダで1994年に起こった大虐殺を描き、話題になった映画『ホテル・ルワンダ』。
昨夜ようやく観ました。もともとルワンダの虐殺については聞きかじった程度(たしか森達也さんの著書で「ツチ族への憎悪を煽るラジオ放送が大量虐殺の導火線になった」とかそういう内容だったと思う)で、この映画も話題になったのは知っていましたが、あまりに重そうなので観るのをためらっていました。

きっかけになったのはテレビ番組。GW初日の4/27に放送された「世界一受けたい授業」に、この映画のモデルになったホテル支配人のポール・ルセサバギナさんが出演していたのです。そこで語られる大量虐殺の様子があまりに壮絶で。穏やかな表情で淡々と語るポールさんの言葉が耳から離れなくて。


ポールさんは、大虐殺が起こったルワンダのまっただ中でツチ族を自分のホテルに避難させ、銃口を突きつけられながらも1200人あまりの命を救ったという人物。映画『ホテル・ルワンダ』の主人公でもあります。

もともと緊張関係にあったフツ族とツチ族。フツ族の大統領が暗殺されたことが大量虐殺の引き金となります。暗殺はツチ族の仕業であるという流言がラジオに乗って拡散。多数派のフツ族による少数派のツチ族への虐殺は麻薬のように感染していきました。ナタでアキレス腱を切ってからじわじわとなぶり殺すという恐ろしい光景が各所で繰り広げられ、わずか100日間で100万人が殺されたといいます。


ちなみにこの映画は、採算がとれない等の理由で当初日本公開の予定がなかったそうです。映画評論家の町山智浩氏の呼びかけが署名運動にまで発展し、無事日本公開される運びとなったとのこと。

実際に映画を観てからそのことを知ったのですが、町山さんがここで言ってることに100%同意します。
「ホテル・ルワンダ」と「帰ってきたウルトラマン」 - ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記

同記事より
『ホテル・ルワンダ』を観て、「アフリカは悲惨だな。先進国が何かアフリカのためにしてやれることはないか」と思うのは、間違っている。

(中略)

わかりやすく言ってしまうと、
「アフリカのことは置いといて、とりあえず、これを観た一人一人が各人の生きている場所で隣人を愛してください。
一人一人がポールさんになってください。普段の日常から。それが始まりです」
ということですよ。

(中略)

ポールさん自身は英語版DVDの付録で『ホテル・ルワンダ』を見た人に求めることとして次のように言っている。
「ルワンダを教訓にして、この悲劇を繰り返さないで欲しい」
つまり、ルワンダへの寄付ではなくて、あなた自身の生きる場所でルワンダの教訓を活かせ、と言っている。

この映画の虐殺は「たまたま」ルワンダで起こったが、「アフリカ版『シンドラーのリスト』」と言われているように、このような虐殺はアフリカ、いや「後進国」だから起きたのではない。
世界中のどこでも起こるし、これからも起こるだろう。
そもそも『ホテル・ルワンダ』の監督テリー・ジョージはアフリカへの関心からではなく、北アイルランドで生まれ育ち、カソリックとプロテスタントの殺しあいの板ばさみになって苦しんだ自分をポールに投影して、この映画を企画した。
だからルワンダよりもポール個人に焦点を絞った。
つい、この間も「先進国」であるオーストラリアで群衆がアラブ人を無差別に襲撃する事件が起こった。ボスニアの民族浄化もついこの間のことだし、関東大震災の朝鮮人虐殺からもまだ百年経っていない。もちろんアメリカでもヘイト・クライム(差別による暴力・殺人)は起こり続けている。


他に書き足すことがないくらい、その通りだと思います。

そう、映画の感想としては、町山さんが言ったことに書き足すことはないのだけれど。どれだけ上手くルワンダのことを伝えられるか、映画のことを伝えられるかじゃなくて、ルワンダで起きたことを知って胸がざわざわしたという事実を、忘れないように記録しておきたくなったのです。だからもう少しだけ書いておきます。

実際、この映画を観た後に、なにかを軽々しく語る気にはなれません。それくらい重い映画でした。だけど画面から目が離せませんでした。これは遠い世界の出来事、アフリカという未開の地で野蛮な土人同士がやり合ったとかいう内容じゃぜんぜんない。1994年、まだつい最近のこと。ぼくが18歳の時に、多数派が少数派をナタで叩き殺すという光景がルワンダでは起きていた。

映画では、フツ族がツチ族を「ゴキブリ!」と呼ぶ場面が何度も登場します。それからツチ族への憎悪を煽るラジオの存在も。

虐殺の現場にはいつもラジオが聞こえていたそうです。

ルワンダ虐殺の被害者映像と煽動者たち - NHKスペシャル(Youtube)より
マリファナ吸ってもりあがろうぜ
ゴキブリどもを血祭りにあげよう

心配いらない ラジオが味方だ
だから武器を取って家を出よう


ポールさんによれば、ホテルの周りには麻薬でハイになった民兵がウロウロしていたそうです。

在日朝鮮人を「ゴキブリ!」と罵るデモが存在します。「殺せ」という文字まで出ている。もちろんそんなものは市民権を得ていませんけれども。現在進行形の日本の話です。彼らは麻薬はやっていませんが、ある種の“お祭り”的な連帯感、団結感に熱狂しているようにも見受けられます。在特会のひとりひとりは真面目な若者なのです、と同団体を取材し続ける安田浩一さんは語っています(参考)。

ジェノサイドなんて近代社会で起こりっこない。日本で虐殺なんて起こりっこない。そう考えるのがふつうです。ぼくも、まあそう思っています。ただ、虐殺は起きなくとも、陰湿ないじめならいくらでも起こりますよね。それはたとえば生活保護の問題や、体罰の問題などとして顕在化している。これからもっと出てくるでしょう。

実際にラジオを聞いていたルワンダ人は、「ラジオからは人殺しがいいことのような放送が聞こえていた。まるで殺すのが当然みたいに。」と語っています。

ルワンダ虐殺の被害者映像と煽動者たち - NHKスペシャル(Youtube)より
家に隠れていた子供たちを僕が自分で殺しました。
ラジオが村を変えました。仲の良い隣人や家族までお互いを疑うようになっていったのです。
(4人の子供を殺害したという20歳の若者)


生活保護受給者を叩くのはまるでいいことであるというような空気が醸成されつつあります。密告を推奨するような動きまである。

日本で虐殺なんか起こりっこない。そう思う人は、在特会でググって動画でも見てみてください。胸くそ悪くなりますが…。それが現在進行形の日本です。近隣諸国との火花を煽る首相に、中東に対して無用な喧嘩を売る都知事。世界からは「Japan Moves Right」と見られているのは間違いないでしょう。

そんな、いまのこの時流の中で、「世界一受けたい授業」という番組がゴールデンタイムにポールさんを出演させたというタイミングの意味を考えています。お食事時のお茶の間に合う内容ではない。誰の意図かは分かりませんが、メッセージを感じずにはいられない。政府(=米国と財界)に追随して大本営発表に終始するマスコミ各社に対する、制作側のせめてもの抵抗なのではないか、とか。


番組中でポールさんはこう言っていました。

フツ族とツチ族にはもともと違いがないのです。

ぼくはこれがいちばんの驚きでした。フツ族とツチ族というのは、もともと人種も言語も文化も宗教も同じであり、ルワンダがベルギーの植民地になったときに、ルワンダがひとつにまとまらないように職業などによって適当に分けられたものなのだそうです。なのに今でも根深い対立が存在するといいます。フツ族とツチ族の夫婦はたくさんいるし、職場や生活圏では両者は普通に共存しているにも関わらず。

どうしたって、重なって見えます。関東大震災の時に起きたというあの事件と。そして新大久保などで現在進行形のデモという名のヘイトスピーチと。あるいはそれだけじゃなく、何かしらの意図をもって作られた対立構造というものがあちこちに存在してやしないかと。


もうひとつ町山さんの記事より引用。

『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない!この人を見よ! - ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記より
このルワンダの事件を、遠いアフリカの出来事として観ても意味がない。虐殺は、どこの国でも起こってきたし、これからも起こり得ることであって、私たちは誰でも、人を差別して迫害する、虐殺の種を秘めている。


もういちど繰り返しますが、フツ族とツチ族にはもともと何の違いもありません。植民地化された時に宗主国の都合で作られた対立なのです。

そしてぼくらは誰もが虐殺の種を秘めている。

大事なのは、そのことに自覚的であるかどうか。なぜなら虐殺を煽動したのはラジオ放送というメディアだからです。自分はぜったいに差別なんかしない、不正は許さない、毅然とした態度を貫く。そういうふうに思い込んでいる人ほど、直情的な報道に煽られやすいものです。差別する意図は無かったなどと言い訳しながら差別をするのはそういう人です。ナタを持って踊りに行くのはそういう人です。

政治の2ちゃんねる化と蛸壺化が加速しています。報道はすさまじい速度で劣化している。たぶんもう止まらないでしょう。有権者の2ちゃんねる化と蛸壺化も同じです。行くところまで行かないと気付かない。そうなった時にせめて自分の家族だけでも沈没しないように手綱を編んでおくというぐらいしか、もう出来ることはないんじゃないか。ポールさんは結果として1200人を救うことになりましたが、彼がいちばん救いたかったのは家族です。そんなことを思いました。


『ホテル・ルワンダ』は繰り返す。

『ホテル・ルワンダ』は繰り返す。 2013.04.30 Tuesday [音楽・映像] comments(1)
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GM(遺伝子組み換え)作物との付き合い方 まずは存在を知ること

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ドイツ在住の方のあるつぶやき。

加納織る子さんのツイートより
原材料表示で「遺伝子組み換えでない」はよく目にするが、初めて「遺伝子組み換えである」と明記された欧州販売用の日本製のお酢を発見した。素直に表記してくれた事に感謝するが、ここで疑問。日本でこの表記にお目にかかる事ってあったっけ? http://twitpic.com/chprpb


その後のやり取りが興味深かったので、こちらにまとめさせて頂きました。
欧州販売用のミツカン酢には「遺伝子組み換えである」が明記 - Togetter

欧州で販売されているミツカン酢には「遺伝子組み換えである」と明記されているそうです。日本で販売されている同じ商品には記載されていません(参考)。

以前、モンサント社について調べた時(過去記事:モンサント社は何をしようとしているのか。)、日本に流通している大豆の約60%は遺伝子組み換えであるということを知りました。遺伝子組換えが混入しても5%以下であれば「遺伝子組み換えでない」と表記してもよいという決まりがあることも。

kurikuri321さんのツイートより
ブドウ糖液糖、とか果糖液糖、という表示に誤魔化されるけど、これらは実はコーンシロップ。ほとんどのコーンシロップは遺伝子組み換えの加工用コーンから出来ている事実を踏まえると巷に売られているお菓子・ジュース何もかもが遺伝子組み換え品でできている。避けて暮らすのは至難の技( ´_ゝ`)

納豆自体は遺伝子組み換えでなくても、添付されてる「タレ」はブドウ糖液糖(遺伝子組み換えコーンシロップ)を含んでいてアウト! ポップコーンのコーン自体は遺伝子組み換えでなくとも、使っている植物油(混合加工用油は表示義務なし)は遺伝子組み換えコーンを含んでいていてアウト! など。

遺伝子組み換え表示義務品が少ないため、実は遺伝子組み換え品を知らないうちに大量に食べさせられているのが日本。混合加工食用油(=植物油、と表記される)は基本的に大豆や菜種、コーン由来。でも表記義務ないので書かない。良心的なところは一応「不分別」ぐらいは書くけど。四面楚歌日本!!

日本で放射性物質を完全に避けて暮らすことと、遺伝子組み換え食品を完全に避けて暮らすことは同じくらい困難を極めていると思う、というのが素直な観察的感想。それくらい、遺伝子組み換え食品は加工品として姿を変え食卓にのさばっている。その事実に対してどうアクションするかは人それぞれ。


ヨーロッパではGMO(遺伝子組み換え作物)に対する反対運動や規制が行われています。

遺伝子組み換え作物を拒否するヨーロッパ - patagonia パタゴニア・ウェブサイト
によれば、1996年にモンサント社のラウンドアップ耐性大豆が承認されてから、EUではGMOに対する市民の反対運動が本格化したそうです。その結果、GMOのラベル表示や食品製造工程のすべての段階における追跡調査を可能にすること、さらにGMOの承認時には常に「予防の原則」に基づくことを強制しているそうです。ミツカン酢の欧州と日本における表示の差異には、きちんとした経緯と理由があるのです。

農林水産省のウェブサイトも参考まで。
EUにおける遺伝子組換え食品等の表示制度及び実施状況 ... - 農林水産省

で、そういったヨーロッパの動きに対してGM企業側から下記のような牽制も当然あります。モンサント社ならそういうこともやりかねないとぼくは思っています。
WikiLeaks: モンサントの遺伝子組み換え作物を拒む欧州に米国が報復を検討 - Democracy Now!

さらにはこんなニュースも。
米モンサントの除草剤訴訟、原告勝利で賠償命令 フランス - AFPBB News
遺伝子組み換え作物の承認凍結をEUが決定 - webDICE

これは現在進行形の出来事です。最後の、2013年1月の記事には「欧州委員会は遺伝子組み換え作物の承認手続きを2014年末まで凍結することを決定した」とあります。

GMOをめぐる攻防、つまりぼくたちの食をめぐる環境は、現在も世界中で綱引きが続いている状態なのだと推測できます。日本ではあまりGMOについてのニュースは話題に上りませんが、これはTPPにも大いに関わってくる問題です。TPPに参加すれば、遺伝子組み換え食品は必ず増えます。それも品質表示の規制撤廃という手段を使って。この攻防もまた、資本主義と民主主義のせめぎ合いなのです。

パタゴニアの記事より
GMOに関する闘争は、一方に環境保護および消費者団体を、他方に強力な多国籍企業とGMO支持の政府を、小さなダビデと巨人ゴリアテに例えられながら続いています。


巨人ゴリアテにとっていちばん都合がいいのは、人々が無関心でいてくれること。知らないうちに表示方法を変えて、知らないうちに流通してしまえば、誰も気付かない。誰も傷つかない(傷ついていることにすら気付かないで済む)。

これはGMOに限った話ではなく、巨人ゴリアテの常套手段です。そういう視点で身の回りをよーく見回してみると、いろいろ腑に落ちることがあるはずです(無いかもしれません)。

「巷に売られているお菓子・ジュース何もかもが遺伝子組み換え品でできている」
「避けて暮らすのは至難の技」
「表記義務はない」
などと言われると、「じゃあ何も食えないだろ」「陰謀論」「悪影響の科学的根拠が無い」と拒否反応を示す人がいます。これもGMOに限った話ではありません。

いろいろ書いてますけれども、実際にはぼくも食に対する意識が決して高い方ではありません。カップラーメンも好きですし、全然ストイックではありません。それでも、なるべく安心な食材をと思うと、どうしても値段は高めになります。だから、拒否反応を示したくなる気持ちも分かります。必要以上に攻撃的になるのは、きっと自分自身に対するエクスキューズなんだと思う。

だけど、これって0か100かという問題ではないはずです。あるものは仕方ない。0にすることは無理でも出来るだけ避けたいわけで、そのためにこういうことを認識しておくことは必要だと思います。認識した上で、その先は個々人の選択に委ねられるというだけの話なんですよね。

めんどくさいから嫌になるけど。誰だって好き好んでそんなめんどくさいことしたくないですよ。だから拒否反応を示しちゃうのかもしれない。希望的観測、楽観論にすがりたくなる。たしかにそれは分かるけど、だからといって他人の選択を貶めたりデマ扱いするのはまた違うと思います。体に良いか悪いかなんて誰にも分かっていないんだから。

「それが入っているかどうかが最大の問題なのではなく、それが入っているかどうかを判断するすべが奪われているのが最大の問題」(参考)なんですね。

なにかを判断するための材料が与えられた上で、各自が自分の立場や環境、家族構成や家計、イデオロギー、なんでもいいんですが、とにかく自分のあたまで考えて自分で価値判断すること。これが成熟した民主主義社会における市民のスタンスだと思います。その前段階で情報をコントロールしようとするのは、主体者に対して敬意を欠く態度だと思います。風評被害だとかデマを流すなとかいうのは情報統制でしょう。

だって、いくら機会を与えられたって、けっきょくは届く人には届くし、届かない人には届かないんですよね。人って、自分の見たいものしか見ないし、自分の信じたいものしか信じないものです。ぼくもまさにそうです。だからせめて、こっちの見たいものを勝手に決めないでほしいです。


GM(遺伝子組み換え)作物との付き合い方 まずは存在を知ること

GM(遺伝子組み換え)作物との付き合い方 まずは存在を知ること 2013.04.08 Monday [食・生活] comments(0)
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ごまかしの美辞麗句(給食・ワクチン)

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数日前に、「福島県産の野菜を給食に取り入れる市町村には食品購入費という補助金が出る」という情報がタイムラインに流れてきました。もともと学校給食には胡散臭さを感じていたので、充分あり得る話だと思いましたが、それにしても、よりによって子供の給食に汚染された可能性のある食材って…なんなんでしょうこの国。子供の健康より、生命より、経済活動が大事だと宣言しているようなものです。なぜそこまで子供を軽視するんでしょうか。

ちなみにソースは「福島民友」だったようで、福島県の方針だそうです。こちらに詳しく書いてあります。
福島県、来年から福島産の野菜を給食に取り入れた市町村に補助金!県外産使用は適応外 - 正しい情報を探すブログ

学校給食のお題目としてよく挙げられる「食育」っていったい何なんでしょう。子供のためだと言って、しょうもないスローガンばかり掲げて、実際にやってることは自分らの経済活動なのです。大人たちって、そうなのです。それはもう、震災前のずっと昔からそうだったのです。

元豊島区議会議員の橋本久美さんが、「学校給食はいつも政治利用されてきた」と言っています。共感する部分が多かったので、こちらにまとめました。
橋本久美さんの学校給食に関するツイートまとめ - Togetter

原発事故以降、政府と東電の発表が信じられないということも手伝って、世の母親たちは子供の食事を作るのに神経をすり減らしています。自身も6歳の娘さんを持つ橋本さんは、小学校に食材の安全性と弁当持参の有無を確認しただけでモンスターペアレンツ扱いされると言います。自炊の食材をチェックするだけでも労力なのに、さらに学校給食が同調圧力となるならば、これは相当なストレスです。というか、おかしいですよね。子供に食べさせたくないという親の任意が、白い目で見られるなんて。


ぼくが学校給食に胡散臭さを感じるようになったきっかけのひとつが、速水健朗氏の『ラーメンと愛国』に記載されていた或るエピソードです。同書はラーメンをめぐる変遷で戦後史を考察するという、とてもユニークな本です。なぜ日本でラーメンが国民食となったか、その原因のそのひとつとして戦後の食料不足とアメリカの小麦戦略があったことが挙げられています。その中で学校給食の話もちらっと出てきます。以下引用(要旨)。

速水健朗『ラーメンと愛国』より
戦後、重度の食糧難に陥っていた日本に、食糧援助という形で真っ先に手を差し伸べたのはアメリカの慈善団体だった。援助の物資は、衣料や食料、医薬品などで、ララ物資と呼ばれていた。ララ物資は46年から52年まで継続的に届けられ、これによって困窮から立ち直った人々は数多く存在する。

日本中の小学校で学校給食が維持されたのは、ララ物資以外にもアメリカから小麦などの援助物資が届いたからである。当時、アメリカの小麦農家は大量の余剰在庫を抱えていた。国内市場では供給過剰。このままでは小麦の価格が暴落し、農家は大きな損失を抱えかねなかった。
米陸軍のガリオア資金も日本への給与分は7割がアメリカの余剰農産物の購入に充てられた。日本が小麦を購入する見返りとして、アメリカは学校給食として使う分の小麦を無償提供した。こうした小麦の無償提供には、純粋な慈善精神から生まれたと思われるララ物資とは異なる意図が含まれていた。

戦争が始まると大量の兵食が必要になる。戦時下のアメリカ農家は大型の農機具を購入し農産物の大量生産に乗り出していた。だが戦争が終わると、規模を拡大した農家はその生産力を持て余す。国内の小麦市場は暴落しるが、持て余した生産力をいまさら縮小させるわけにもいかなかった。こうした事情を抱えたアメリカ農務省は、中長期にわたり余剰穀物を海外に輸出する策を考えざるを得なくなっていく。

余剰穀物は、まずはヨーロッパへの食糧援助という形で利用されることになる。これは単なる人道援助ではなかった。共産主義陣営の拡大阻止が、ヨーロッパへの食糧援助の目的である。第二次世界大戦で戦場となり、爆撃によって都市の生産機能が失われていた欧州諸国は疲弊していた。多くの軍事力を温存していたソビエト連邦はこれに乗じることで勢力を拡大できる。それを食い止めるためにアメリカはヨーロッパの西側諸国の一刻も早い経済復興を見据えた援助を行った。
この欧州復興のためのアメリカの援助がいわゆるマーシャル・プランと呼ばれるものである。マーシャル・プランにはもう一つ、アメリカの欧州市場への進出という目的もあった。だがマーシャル・プランは52年で打ち切られる。朝鮮戦争の勃発である。アメリカの余剰農産物は再び戦地に回された。だが、この戦争が終わると、アメリカの小麦農家は再び大量の余剰在庫を抱えることになった。この頃すでに欧州諸国の農業は復興を果たしていた。そこでアメリカの余剰小麦は、新たな売り込み先を必要としていた。

農業会をバックに持つアイゼンハワー大統領の指示のもと、全米製粉協会のボールズ調査団が世界中を調査した結果、余剰穀物の販売先として最もふさわしいと結論づけられたのは、日本であった。余剰農産物処理法は日本をターゲットとした形で法案が通過し、日本が主たる交渉相手となった。
日本は、余剰農産物処理法に基づいた二度の協定締結で総額720億円の余剰農産物を購入。その約半分を小麦が占めていた。余剰農産物処理法によれば、購入した国は、すぐにその代金をアメリカに支払う必要がない。それどころか、被援助国は農産物を国民に売って得た代金を自国の経済復興支援として使えることになった。自国の産業発展のためにアメリカが低金利で資金を貸してくれるのだ。食糧までセットにして。

ここで起きた問題の一つは、日本の小麦農家が壊滅的な被害を受けたことである。安価なアメリカ産の小麦に対して、国内の小麦農家は価格競争で太刀打ちできなかった。
もう一つの問題は、大量に購入した小麦の使い道である。日本が余剰農産物協定を締結した主たる目的は、復興資金の借り入れである。小麦はあくまでおまけに過ぎない。米を主食にしてきた日本人にとって、大量の小麦は手に余る代物だった。日本政府は小麦を国民に消費させなくてはならなかった。

小麦の使い道は、日本政府単独でなく、アメリカ農務省と日本の各省庁が共同で取り組むことになった。余剰農産物交渉における政府間の話し合いには「粉食奨励費」という項目が存在した。つまり小麦食の普及を促すための広告宣伝費が設定されていたのだ。アメリカ農務省は当時の額で4億2000万円の資金をもって、小麦食を普及させるキャンペーンを行った。これには日本の厚生省、農林省、水産省、文部省などがそれぞれ外郭団体をつくることで手足となって動いたという。特に厚生省は「栄養改善運動」としてパン食奨励運動の旗振り役を務めた。

1954年の「学校給食法」の施行によって、全国の小学校でパンと脱脂粉乳による給食が実施されるようになった。「パン又は米飯、ミルク及びおかずである給食」と定義づけられているが、実際には完全にパンを中心としたものが四半世紀続いた。米飯が用いられるようになったのは70年のこと。
食糧事情が悪く、育ち盛りの子どもたちの栄養不足が懸念される時代に、大量の援助小麦、および日本がアメリカから購入した余剰小麦が給食に提供されたことは、日本側にとっても都合が良く、悪いものではなかった。だが一方では、日本の食文化に変化を与えるきっかけにもなった。
子ども時代からパンを主食とした食生活を送れば、それがライフスタイルになる。給食のパン統一は、日本人の主食を米からパンにすることを意味した。余剰農産物処理法におけるアメリカ農務省の目論見とは、一時的な余剰穀物の輸出ではなく、小麦の市場開拓と長期的な輸出であったのだ。

「粉食奨励費」の問題はそれだけではない。厚生省が外郭団体として立ち上げた日本食生活協会は、キッチンカーを稼働し料理講習会を開くというキャンペーンを行った。「栄養改善運動」の一環として全国を走り回ったキッチンカーは、走る栄養教室、働く台所としてもてはやされたが、ここで教えられる料理は必ず小麦と大豆を使ったものでなくてはならなかった。もちろんスポンサーであるアメリカ農務省の意向である。キッチンカーは総勢200万人を動員したが、これが小麦食を奨励するための広告費にひも付いたキャンペーンだったことには誰も気づいていなかった。うした奨励運動の中には、米食に対するネガティブキャンペーンが含まれていたこともあるようだ。「日本人の早老短命は米の大食偏食」などの言葉を記したパンフレット配布などが行われたケースもあったという。


給食の問題はもとより、いろいろと現在の問題と重なることが多く、考えさせられる事案だと思います。このアメリカの小麦戦略はTPPにも通じますね。アメリカは商品の魅力で輸出するんじゃなくて、非関税障壁だ何だと難癖をつけて相手国に無理やり市場を作っちゃうわけで。一国の文化を書き換えることだって、そんなに難しいことじゃない。アメリカの対外戦略はこの頃から現在まで変わっていないということです。

給食のパンと言えば、袋に入ったマーガリンが定番でした。トランス脂肪酸たっぷりで、なにが栄養改善運動だよ。でも植物由来だからバターよりもヘルシーだという刷り込みがずっと支配的だったんですよね。キャンペーンの成果でしょう。牛乳が毎食出るのもキャンペーンの賜物ではないかと思います。

べつにパン食を批判したいわけではありません。パン屋さんは好きだし、家族でよく行きます。米が日本の主食になったのだって、実際のところいつからなのか分からない。思い込みかもしれない。少なくとも東北が米どころとして認知されるようになったのは、戦後に東北が政治利用された結果だといいます。それはそれとして、日本の食環境が多様な食文化を体験できるものになっていることはすばらしいと思う。現場で給食を作る栄養士さんたちは、ほんとうに子供のことを考えて調理してくれていると思う。批判すべきは現場ではなく会議室です。すなわち学校給食が大人たちの都合で政治利用されてきたという点にあります。だから現在となっては合理的でもなんでもないものが惰性で続いている。

戦後の学校給食がどのような背景で維持されてきたかをこうやって顧みていくと、福島産の野菜使用で補助金という発想が出てくるのも頷けます。すべては子供の育ちよりも大人の都合が優先されるのです。経済活動という大義名分のために。ぜんぶそういうことですよね。しかも、自分の好きなものしか食べない大人と違って、子供が自分で選ぶことができない学校給食は、供給する側にとって都合のいい市場です。

大人の都合でそうなるならそう言えばいいものを、わざわざ食育などといって自己正当化し、美化してごまかそうとするのは、やましいからでしょう。選べないものにかぎって、美辞麗句が並ぶのは鉄則です。だいたいは子供がターゲットになる。


こんなニュースもありました。
子宮頸がんワクチンは効果がないことを厚労省が認めた il-manoのアロマでサンバ

子宮頸がんワクチンに対する懐疑的な見方は、ワクチンに対するリテラシーの高い人たちの間ではだいぶ共有されていましたので、今さら驚くことでもないですが、日本はワクチン後進国です。昨年ようやく認可されましたが、不活化ポリオワクチンという安全なものがあるにも関わらず、接種される側にとってひとつもメリットの無い生ポリオワクチンを延々と続けていたのは世界の先進国で日本ぐらいです。

接種しないリスクと接種するリスク。双方のリスクを知らせた上で、親の任意で受けさせるのが予防接種のはずです。にも関わらず、ほとんどの親御さんは何も考えずに、小児科から言われるがままに予防接種スケジュールをこなしているのだと思います。ワクチンは「打たなければならない」という強迫観念が強い。知らせない方が悪いのか、知ろうとしない方が悪いのか。

田辺あゆみさんのようにワクチンは接種させないという選択肢もあります(参考)。そこまで徹底する度胸もぼくにはありませんが、重篤な副作用が出てから初めて慌て始めるのでは手遅れになる可能性があります。少なくとも、「接種させないという選択肢もある」という認識だけは持っていたい。



ワクチンビジネス、教科書ビジネス、制服ビジネス、給食ビジネス、どれもはじめから選択肢が無いと思い込まされるという点では、電力会社やNHKと共通しているかもしれません。ビジネスならビジネスと言えばいいものを、相手が子供だからといって、教育だの食育だのなんだと美辞麗句でごまかすところが本当にいやらしい。

給食やワクチンという現場にかかる同調圧力。それを政治的に利用する大人たち。多様な選択肢や考え方を認めないのは、想像力が足りないからです。原発の問題にしても体罰の問題にしても、想像力の欠如という差別の問題だと思います。オヤジどもが美辞麗句を重ねれば重ねるほど、若い人たちは嘘こけって思うだけですよ。

東電がいくら「できます」「がんばります」つったって、もう誰も信じないでしょ。クールジャパンつったって全然クールじゃないし、農業を守るつったって根拠が無い。言葉だけなんです。つるつるで空疎な言葉が政治とマスコミを支配している。そういうスローガンはもう要らないんです。

佐藤亜美/Ami Satohさんのツイートより
ブレませんとか、クリーンです!とかもうそういうのはなくていいんだよ、って私より上の人たちに言ってあげたい。私より下になればなるほど、そんな完璧なことは誰も期待してないし、完璧であることよりも自分の変化を素直に伝えることのほうが、若い世代にとっての誠実なんだよ。


ぼくもオヤジと言われるような年齢になってしまったので、気をつけて、出来る限り、いいかげんな大人でありたい。いいかげんな大人でいたほうが、実は子供たちにとっての財産になるのではないかと。あ、こんなんでいいんだと気が楽になるなら。

以下は、デンマーク在住の方のツイートです。

さわぐりさんのツイートより
今乗ってるバスの運転手が「あ、ルート間違えた!回り道して戻ります!」だって。ちなみに「申し訳ありません」とかは、ない。乗客も「え?!あっそ。」


このユルさ、いいですね。特に「え?!あっそ。」という描写にグッときます。

自分が思うほど、他人に完璧を求めてなんかいないし、自分も完璧を求められてなんかいないのです。日本社会がどんどん息苦しくなっているのは、自分で自分の首をしめている人が多すぎるからだと思う。

子供の育ちよりも大人の都合が優先されるのはなぜなのか。ビジネスのために子供を犠牲にしてやれという、性根の悪い奴らが政治を牛耳ってるんでしょうか。(そういう部分もなきにしもあらずかもしれないけど)そういうわけじゃないと思う。なぜ、美辞麗句でごまかすのか。ビジネスのための売り言葉でしょうか。(電通が発信元かもしれないけど)それだけじゃないと思う。

給食のことも、ワクチンのことも、積極的に知ろうとしない大人たち。知らないがゆえに想像力の欠如が生むレッテル貼りや差別。それが同調圧力となって、どうでもいいことばかり気にするようになって、結果として大人の都合がいいように利用されることになる。

積極的に知ろうとする、ということは、正しいことを知るということとは違います。正解のない問いに向き合うということです。目の前の子供を見つめて、自分のあたまで考えるということです。誰も正解なんか教えてくれません。自分が下した決断が正解かどうかだって、分からないのです。この気持ち悪さに耐えることが、大人だと思います。自分の立場や生活環境を顧みて、自分の価値軸で判断をすることができたならば(そこに至るまでの紆余曲折を経験したならば)、価値観の異なる他人の存在も認めることができる余裕が生まれます。

家入一真さんのツイートより
他人に嘘をつくことは自分自身を騙すことでもある。そんなの悲しい。嘘だらけの世の中で、せめて自分にだけは正直に。コンプレックスをさらけ出しちゃえば生きるの超楽になるよ。多少の失敗や遅刻も許してもらえるようになる。だってダメ人間だもん笑。その分他人の失敗も許してあげたらそれでいい。


ほんとはダメ人間なのに、みんなガンバッてるから、ガンバらないと怒られるからって無理してきたのが、これまでの日本経済を支えてきた「男社会」だと思うんです。できないのに、やりたくないのに、「できます」「やります」つって。そうやって後戻りできなくなっていく構図の象徴が原発なんだろなと。

今度はクールジャパンなんて言い出しましたけど、全然クールじゃないですよね。つるつるで空疎なスローガンは要らないです。家入さんのようにダメ人間を自称したり、ジョンレノンのようにI'm just a jealous guyと歌ったり。そういう自分のダメさ具合を認めて、受け入れたときに、初めてクールジャパンのスタートラインに立てると思うんです。


橋本久美さんのツイートより
学校給食の私の一連のツイートにたくさんの方々が反応してくれた。ところで植民地支配政策は「食文化」と「言語」の破壊から始めるといわれている。日本の公立学校もグローバル化の名の下でずっとターゲットになっていたのかもしれないと、TPP問題で気づく。


「みんながやってるから」「そうしないと白い目で見られるから」という理由で、なんとなく流されること。そうやって消費者を囲い込むことで成り立つビジネスがあるのでしょう(それをビジネスと呼んでいいのかは分かりませんが)。TPPをはじめ、政府は規制緩和に躍起になっていますけれども、ほんとうに規制緩和すべきは、そういったぼくら自身の思い込みや同調圧力マインドなのかもしれません。美辞麗句によってぼくらがごまかされているという側面と同時に、ぼくら自身が美辞麗句によって自分をごまかしていないかどうか、自分自身が同調圧力の一端を担っていないか、立ち返ることも必要だと思います。が、あんまり根を詰めるとマジメになりすぎるので、まあ、いい加減で。


ごまかしの美辞麗句(給食・ワクチン)

ごまかしの美辞麗句(給食・ワクチン) 2013.04.04 Thursday [子育て・教育] comments(0)
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