子どもから学ぶこと

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2歳2ヶ月になった息子は、ものごとや言葉をどんどん理解しはじめている様子。感情や自我も大きくなり夫婦ともども手を焼くことが多くなりました。冬になるとどうしても外で遊ぶ時間も減り、アパートの室内では手狭になってきたようです。

第2子を妊娠中の妻はおなかも大きくなり、ハッスルする息子の遊びに付き合うのもツラくなってきたところ。一緒に遊べとつっつかれながら一日中家の中で悶々と過ごすのは想像以上にしんどいです。そろそろ一時保育などを考える時期かもしれません。
そんな折、先日友だちの家に遊びに行ってきたという妻のつぶやきに共感したので転載します。いい友だちが近くにいてくれてよかったよね、ほんと。

今日は夕方から友達が遊びに来てくれた。20年来の付き合いで、2人の子どもがいる。たまたま仕事が休みだったので来てくれたのだけど、流れでそのままその友達の家に行くことに。

実はすごい近所なのにお互い日常に追われてなかなか会えずにいたのだけど、やっぱり友達は大切だな〜としみじみ感じた。

友達の子どもたちが息子とずっと遊んでくれて、息子はほんとにほんとに楽しそうだった。

彼女は今シングルで2人を育てているのだけれど、固定観念が強くて亭主関白だった元ダンナと別れてからのほうが断然幸せそう。

離婚とともに古臭い価値観やら常識から解放された彼女は子どもと向き合う姿勢も自然体で、子どもたちもまっすぐに育っている感じ。

彼女と話すなかで、親が子どもにどれだけ理不尽な思いをさせるかによって、子どもの性質が変わってくるよねという話しに。

まぁ誰でも多少は親に対して理不尽さを感じるものだけれど、価値観が古い親ほどその傾向は強いように思う。

子どもは大人が思う以上にいろんなことを敏感に感じ取っているし、建前や嘘のない世界に生きてる。

うまく言えないけど、そういう理不尽さの少ない環境で成長している友達の子ども達には新しいベクトルの賢さを感じる。

私たちが親に対して古さや矛盾を感じるように、私たちの子ども世代もまた、私たちの中に古い価値観を感じるのだと思う。

そう思うと、私たちより確実に進化している子どもたちの成長を見守るということは、むしろ子どもから学ぶということだと思う。

子育てって、ほんとに貴重な経験です。たとえ自分の子どもでなくても、固定観念を捨てて向き合ってみるといろいろと新しい発見がある。


すこし補足をしておくと、友だちの子どもは小学6年生の男の子と3年生の女の子。ふたりともとってもやさしく息子に接してくれて、一生懸命に遊んでくれたそうです。ボールやら風船でたのしそうに遊ぶ子どもたちの動画を見せてもらい、ぼくもなんだか嬉しい気持ちになりました。「子ども同士」で遊ぶっていうのはやっぱりいろんな意味で別の世界なんでしょうね(やっぱり遊びへの向かい方が100%だから)。こうやって少しずつ社会の中に入っていく姿を見るのはなんとも言えない感慨深い気持ちになるものですね。

妻はじっさいに子どもたちに接することで「新しいベクトルの賢さ」を感じたとのこと。そしてそれは「古臭い価値観やら常識から解放され」て、自然体で子どもと向き合っている母親のもとで育てられたからであろう、と。概ね同意しますし、これからのぼくたち夫婦の子育てにおいてポイントであり立ち返る場所になってくるだろうと思います。

ぼくも古い価値観(しがらみ)は嫌いです。子どもには自由にのびのびと育ってほしいと思う。ところが、自分でも気づかないうちに古い価値観とか常識にハマり込んでいる(そしてハマり込んでいることにも気づかない)ということがよくあります。だからめんどくさいけどいつも自分のことばや考えの発露をチェックしないといけない。

ここで言う古い価値観というのは、けっきょくのところ、その価値観にしがみつこうとする気持ちのこと。すなわち、いま持っている「自分」を捨てることへの恐怖、つまり執着心です。自分はいったい何に執着しているのか。常識や価値観といったイデオロギーかもしれない。じゃあその常識っていうのはいったい誰のための誰に向けたものであるのか。単に他人の目を気にしただけだったりはしないか。あるいは自分らしさというアイデンティティなのかもしれないし、それを具現化するためのなにか具体的なモノかもしれない。その「自分らしさ」はほんとうに執着に値するものなのか。

なにかに執着するということは、同時に一方のなにかを捨てているということではないか。

子どもの健康と生命をおもって放射能被害から避難するのか、慣れ親しんだ土地での生活を大事にするのか。究極の選択ですよね。正解なんてないし、悩んだ末に決断した人々を責めたり揶揄したりすることはできない。どちらにしても、なにかを捨てなければならないのだから。その決断という意志は尊重されるべきでしょう。

何を捨てて、何に執着するのか。
たぶんずっとこの問いの繰り返しなのだと思います。めんどくさいですが、しょうがないです。親になって子育てに携わり、自分の時間を割かざるを得ないという環境の中で、そこは観念したというか、ある程度はあきらめがつくようになりました。

育児は育自、という言葉をどこかで聞きました。子どもに接することで日々自分の立ち位置を見つめさせられます。いや、もっと単純に、子どもを見ていると未来に対して希望的な感情がわいてきます。ぼくらよりもずっと賢いこの子たちはいったいどんな社会をつくっていくんだろうって。で、そう感じるからこそ、いま自分は自分の立ち位置を確認しておこうって思うんだと思います。何を捨てて何に執着するのか、優先順位の確認です。

捨ててもいいもの、でもなかなか捨てられないもの、いっぱいあるなあ…

子どもから学ぶこと

子どもから学ぶこと 2012.01.26 Thursday [子育て・教育] comments(0)
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控除から手当へ(子ども手当再考)

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子ども手当については過去に何度か書きました。

子ども手当は誰のため
「子ども手当」にかかわる3党合意について
子ども手当廃止について(1) 子ども手当とは何なのか
子ども手当廃止について(2) 財源論という罠

ぐだぐだと長い文章ばかりで今読み返すとなんだコイツはという感じですが、要約すると、子ども手当っていうのは子どもに等しく支給されるものであって、それって利権の分配に勤しんできた今までの日本の政治構造からすると結構ドラスティックな変化なんじゃないかということでした。すなわち「子どもを社会で育てる」という理念を体現する象徴的な政策であると思い、支持していました。

いまも基本的な考えは変わっていませんが、ちょっと思うことがあったのでメモっておきます。


扶養控除の廃止をはじめて実感

先日、確定申告の書類を書きまして、子ども手当の開始に伴う「扶養控除の廃止」をはじめて実感しました。というかその仕組みをはじめてちゃんと知りました。無くなった控除額が大きかったのでええ〜と思いつつ(参考:扶養控除Wiki)。

よく試算してみると「児童手当→子ども手当の増額分」と「扶養控除廃止による増税分」は、ほとんどトントンであるようです。3歳未満の場合、児童手当から子ども手当になったことで増えた金額は5,000円(3党合意による改変前までは3,000円)。×12ヶ月分で6万円。一方で、16歳未満の扶養控除廃止により所得税は38万円、住民税は33万円の控除が無くなります。控除廃止による増税額は所得によって変わるので一概に言えませんが、わが家の場合は微増といったところのようです。高所得世帯では負担増になるとのこと。(計算は苦手で、まだ完全に把握したわけではありません。間違っていたらすみません。)

というわけで、子ども手当の導入によって子育て世帯の金額的なメリットが増えたというわけではないことを、(頭だけでなく)身を以て実感したわけです。さて、じゃあ子ども手当っていったい何なのか。

ホリエモンの言うように(これこれ)、親の所得に関係なく一律支給とすることで役人の仕事を減らして費用を浮かすというのも子ども手当のメリットのひとつだと思います。上杉隆氏は著書『上杉隆の40字で答えなさい』の中で、官僚の仕事とは「無意味な仕事を勝手につくり、次にそれを守るために一丸となって、予算の獲得に努めること」だと述べています。警察の天下り先として悪名高い交通安全協会をはじめ、地デジ騒動もそうだし(参考:地デジとはつまり景気対策。でも強制はよくないよね。)、ETCとかエコポイントとかもそうだったのであろうということは振り返ってみると頷けることです。

だからして「単に金持ちに子ども手当を出すのがムカツクという、レベルの低い妬みのために手間のかかる手段を使わざるを得ない状況っていうのは公務員の思うツボ」というホリエモンの指摘には同意しますし、そのために子ども手当への悪い「イメージ」が先行して流布されているような気もします。子ども手当でツイッター検索すると、とにかく子ども手当憎しみたいなコメントがけっこう多くてげんなりとしちゃう。それも若い人に多かったりするのはオイオイと思いますが。

単純に金額を比較すればたしかに子ども手当による受給のメリットはあまりない。だからこんなのはまやかしだとかバラマキだという批判も出るのもやむを得ないでしょう。ぼくも正直言えば、ちっ、なんだそれと思います。でも、それでも「控除から手当へ」という点においてぼくは子ども手当を支持したい。

2007年に民主党税制調査会がまとめた「民主党税制改革大綱」には、「人的控除を精査した上で、必要なものについては、相対的に高所得者に有利な所得控除から手当へと転換する」と記載されているそうです(参考:【子ども手当】税制の「控除→手当」の大原則)。ちなみにこのブログを書かれた方は、「税制の透明化」という民主党税制の基本スタンスが「控除から手当への流れ」なのだと指摘しています。これはなるほどと思いますし、さっきのホリエモンの話にもまた繋がってきます。


控除から手当へ

「控除から手当へ」これが大きなテーマなんですね。
ところがそんなことは全然アナウンスされない。子ども手当をめぐる報道は、単に損か得か、あるいは言った言わないの政局レベルでの話ばかり。日本のマスコミは目先のことしか報じないのでそれは仕方ないにしても、当の民主党自身でさえもきちんと説明しているとは言えない(というか本当に理解してる議員なんてどれくらいいるのか疑問)。それで損得勘定以外の意味を見いだせと言われても難しいでしょう。

だから「子ども手当が貰えると喜んでいる家庭も実は控除廃止で増税されるんですよ」的なことを聞くと、その事実だけに目を奪われて(知ったつもりになって)、なんだよインチキじゃねえかって話になる。でも、ほんとうはその事実から考えるということが「はじまる」はずなんです。ぼくは増税という事実を踏まえた上でこう思います。

「控除から手当へ」の流れによって、税制が透明化されて、官僚による無駄な仕事の創出が少なくなることは歓迎です。それによって政治はもっと身近なものになると予想します。政治が身近になるということは、自分のことを自分で考えるようになるということです。お上(密室)にお任せ、から責任と自由を自分らで引き受ける政治へ…実現するには数十年単位での期間がかかるだろうし、存命中に叶うことはないかもしれません。でもその「流れ」を次世代に引き継ぐことはできる。

さらにもっと大事だと思うのは、子ども手当に限って言えば「控除」と「手当」では家族手当というものに対する考え方がまるきり違うということ。「控除」とはすなわち親の所得によって決まるものであり、子を持つ「親」への措置です。児童手当もその延長上にあるものでした。つまり親の都合に大きく左右されます。それに対して「手当」は、親の所得に関わらず「子ども」へ等しく支給されるものというのが当初の子ども手当でした。すなわち、受給となる対象が違うわけです。

けっきょくは親の口座に振り込まれるんじゃねえかと言われれば、それはそうです。しかし、控除として減税措置されるのと、子どものためにと支給されるのでは「親の側の受け止め方」が違ってきます。子どものためという名目で振り込まれたものならば子どものために使ってあげたいと思うし、やむにやまれず生活費に消えたとしても手当を受けとったという事実は子どもへ向かう態度となって表れます。きれいごと?いえ、これって本能レベルでの話だと思います。ふつうそうですよね。ぼくは自分が親になることではじめてそういうふうに考えるようになりました。

そりゃ中には親のパチンコ代に消える家庭もあるでしょう。でもそれは各家庭の子育てのスタンスであって、そこまで強制できるものではないと思います。政治は道徳の場ではありませんし、ましてや信仰や思想の自由を強制などできない。子ども手当が親のパチンコ代に消えると批判するならば、年金の使い方だって規定されなきゃならないのでは。けっきょく政治に何を求めるのかということに立ち返って考える必要があると思います。


と、あくまでも子ども手当を受給している中産階級という立場からの現時点での感想を書き留めておきました。べつにこれをもって反対派の人たちを論破したいとかいうわけではまったくありません。立場が違えば意見が異なるのは当然です。なんでわざわざめんどくさいことを書いているのかというと、頭の中でぐだぐだと考えていることを、書くという行為によってアウトプットすることで、頭の中が整理されていきます。人の記憶なんていいかげんなものですし、画一的な報道によって簡単になびきます。

ぼくは今回あらためて子ども手当というものに対する考えを確認することができました。こうして書いておくと、記憶に残っていなくても記録には残ります。たとえば今後また子ども手当に関する報道がなされる頃にはまた考えが変わっているかもしれません。コイツはこんなこと考えてやがったのか、と鼻で笑う結果になるかもしれない。だからこそ、いま自分が置かれている現場で感じたことを随時書き留めておくことはいましかできないし、それって大事なんじゃないかと思っています。


控除から手当へ(子ども手当再考)

控除から手当へ(子ども手当再考) 2012.01.20 Friday [子育て・教育] comments(0)
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Happy Birthday

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11月18日。息子は2歳になりました。
病気やけがもぜんぜん無く、すこやかに育ってくれてほんとうに感謝です。

お祝いのコメントとともに、魔の2歳児だの、絶賛イヤイヤ期だの、先輩パパママからのおそろしい言葉をいただき、現在ですら手を焼くことが多々あるわたくしども夫婦の育児生活はいったいこの先どうなっていくのか、やだーん、こわーい。

まあでも、子どもの親孝行は3歳までの愛くるしさで完遂するとも言いますし、たぶんそうなんだろうなあと思うので、いまは家族での時間(楽しいこともいやなことも含めて)をめいっぱい満喫したいです。ちょうどいまは言葉をどんどん覚えている途中なので、舌足らずでいろいろな単語をマネして一生懸命にしゃべるのがとてもかわいいです。ちなみに最近は「だめ〜」が口ぐせ。おむつ替えようよと言うと「だめ〜」、お風呂に入ろうよと誘うと「だめ〜」…。うーむ、どこで覚えたのか…胸に手をあてて考えてみます。

それから2歳を目前に控えて、あれほど大好きだったおっぱいを自然にやめたのにはびっくり。妻が妊娠して母乳の味が変わったのかもしれませんが、乳にゴルゴを描いたり、辛子を塗ったりすることもなく、いったいコイツはどうやって卒乳するんだろうと思っていたこちらが拍子抜けする感じでした。そのおかげでようやくパパにも寝かしつけができるようになり(ママ2年間毎晩おつかれさまでした)、抱きつきながらの耳たぶを触ってきたりするのが超たまらないです。

でもあれですね、子育てしてる最中はおもしろいことが山ほどあって笑ったり泣いたりしてるのですが、いざパソコンの前であらたまっていろいろな出来事について書こうとするとなかなか出てこないものですね。次々と新しいことが起こるので、たぶん次々と忘却していくんでしょうね。もったいないなあ。
でもぼくは、じじいになっても余韻にひたって生きるのです。思い出にすがって生きるのです。むはは。

ところで、ツイッターで息子の写真を見た友だちからのコメントが妙におもしろかったので書いておきます。
かわいいね〜。山ちゃんの絵に似てるのがふしぎ。二歳おめでとう☆


こんなことを言われたのははじめてだし、自分でもそういう視点はまったくなかったのでなんか新鮮で。
10年くらい前、ぼくがまだ学生をやっていた頃にインターネットを始めて自分のホームページを作って公開していた頃に、同じように自分の描いた絵をホームページで公開していた方です。ぼくはその絵が好きだったのでやりとりするようになり、東京に行った時には妻と一緒に会ったりしました。その後、それぞれ自分のホームページも放置状態になり疎遠になっていたのですが、このあいだ偶然ツイッターで再会したところ。

絵なんてもう長いこと描いてなかったので、息子の写真が自分の絵に似てるなんて思いもしなかったし、そういう発想すらなかった。というか、そう言われてなんかハッとした。いや、似てるかどうかはわからないですが、その視点がすげえなと。

ずいぶん昔に未来を見てたようなふしぎな気持ちになりました。子供は未来だね〜。すてきんぐだね〜☆☆☆


うわあ、なんかすごいあたまがぐらんぐらんするわ。まだうまく言語化できませんが、ぼくもとってもふしぎな気持ちになりました。うん、子どもはほんとうに未来そのものだね。ありがとう。



いまから2年前。
息子の人生がはじまりました。

いまから2年前。
ぼくの人生は変わりました。

あの日、妻と一緒に陣痛室ですごした夜のこと。
命をかけて生んでくれた妻と、命をかけて生まれてきてくれた息子。
生まれたばかりの息子と妻と3人で病院に泊まったこと。
あの日のことは、子育ての原体験になっています。
たぶん一生忘れないでしょう。

来春には第2子が生まれる予定です。
息子がお兄ちゃんになるのかあ。どうなるんでしょうね、ぜんぜん想像がつきません。こんどは4人家族になるんですよ、ぼくんち。いったいどうなるんでしょうね。ぜんぜん想像がつきません。えっ、風呂とかどうやって入れるの?2回戦?魔の2歳児と新生児をどうやって一緒にみるの?やだーん、こわーい。

ともあれ、そんな不安も含めて家族の時間をたいせつにしたいと思います。

Happy Birthday

Happy Birthday 2011.11.18 Friday [子育て・教育] comments(0)
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「子ども子育て新システム」その後

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現在、政府内で法案化が進められている「子ども子育て新システム」の現状について、弁護士の川口創さんが解説されています。10月12日の最新版です。

えっと、このブログには「子ども子育て新システム」で検索して来られる人がたいへん多いんですが、1年前の記事しか無くてすみません。これが法案化されると保育や教育の現場はどうなってしまうのか、気にはなりつつも、なかなか調べるのがめんどくさ…あ、いや、いろいろあったじゃないですかぁー、震災とか。まじで。つうか、1年経って新システムの中身もだいぶ詰められてきたんじゃねーかと思うのと、息子も来年で3歳なんで、そろそろちゃんと知っておかないとなと思っていた矢先。昨日、北欧の子育て事情についての記事を書いたところ、川口さんにRTしていただき、その流れで川口さんが数日前にブログで新システムの解説をされているのを知りました。

非常に丁寧に説明してくれていますので、以下にそのまま転載します。これを読めば、新システムの概要がだいたい掴めると思います。

「子ども子育て新システム」の現状 - 弁護士川口創のブログより
第1 今の保育制度が根こそぎ破壊される
今、政府内で法案化が進められている「子ども・子育て新システム」をご存じでしょうか。去年6月25日に概要が示され(わずか10頁)、現在もワーキンググループで議論が進んでおり、ワーキングチームの「中間報告」がこの7月に出されました。そこでは、12年中に法律を作り、13年に実行に移すという拙速なスケジュールが示されました。

 この制度は「待機児童をなくすため」というのが表向きの理由ですが、この「新システム」の本質は、行政の保育責任の放棄です。この法案が通れば、待機児童解消どころか、「保育制度」そのものが破壊されてしまいます。

第2 現在の児童福祉法上のシステムと、新システムの対比
 1 現行制度
 現在の児童福祉法上のシステムは、行政が地域の子どもの保育に責任を負っています。親が共働きであるなどの場合には、行政は子どもを保育する責任があります。

 そこで、①公立保育園が原則となりますが、民間に委託する形で、「認可」保育園が認められています。名古屋市などは社会福祉法人にのみ認可を与えており、企業の参入は今のところ認めていません。
 ②市町村が「保育の欠ける」子どもを保育する責任を追っており、保護者は子どもを保育園に入れたい場合には、市町村に申請に行きます。
 ③行政が公立はもちろん、認可保育園に助成し、経済的に支える責任があります。
 ④保育料は、親の収入に応じて決まる形となっており、これを応能負担、といいます。 親の収入の多寡により、保育が受けれなかったり、保育の質が異なるというような不平等を生じないようにしています。

 2 新システムでは?
 これに対し、新システムの本質は、行政の子どもに対する直接の保育責任を放棄する、という点にあります。

 まず、①公立保育園は一部を残して廃園にしていきます。「認可」という制度もやめ、一定の基準をクリアすれば「指定」がなされ、企業立保育園なども積極的に「指定」をしていき、保育園の市場化を進めることになります。

 また、②保護者と保育園との直接契約になり、行政は親の保育時間の認定をするだけで、子どもを保育園に入れる責任を放棄します。この結果、理論上行政に「待機児童解消」の責任自体がなくなります

 ③行政は保育園に直接財政の支出をしません。保護者への一定の金銭給付がなされますが(金額も割合も決まっていません)、その給付も含めた保護者からの保育料だけで、保育園は園の経営を成り立たせなければならなくなります。このため、保育園の経営は不安定になり、しっかり保育をしようとしてきた保育園の多くは廃園を余儀なくされると心配されています。

 ④保育料については、親の収入に関係なく、保育時間に応じて一律に決める応益負担に変えます。これは子どもの貧困が問題となっているさなか、さらに追い打ちをかけることになります。長時間預ければ、当然費用は高くなります。その結果、子どもを預けることが出来ない親が増えてしまいかねません。もともと、共働きをせざるを得ない貧困家庭が増えている中で、「応益負担」に変えること自体、「待機児童をなくす」という目的に反しています。

3 さらなる問題
 ① 新システムでは、3歳未満と3歳以上とで制度を分けます。自分で食べたりすることもできない0歳児1歳児などの保育を責任もって行うためには、人手がどうしても必要です。現在、0歳児についてはおおむね3人に保育士1人、というように「最低基準」が定められてます(この最低基準の問題も別にありますが、ここでは述べません)。

 本来は、3歳児未満が待機児童が多いのですから、ここを手厚く、という方向に進むべきですが、新システムでは、そういう方向に進みません。

 3歳未満については、園での保育ではなく、マンションの一室などでの「保育ママ」制度を積極的に導入しようとしています。
 この「保育ママ」は、保育士の資格はいりません。介護保険同様、一定の研修を受ければ資格が取得できることになります。
 これは、保育を、素人による「託児」化、「パート」化していくことを意味します

 小さい子どもを預けなくてはいけない親は、プロの保育士さんがちゃんと子どもを見てくれる、保育園で子どもらしい生活が保障されている、と思うから安心して預けることが出来るのです。ただ預かってさえくれればいい、というわけではありません。
 新システムは一番手厚く支援しなければならないところを切り捨て、保育の質を保証しない。保育事故が増加することが強く懸念されます。

 ② さらに、企業参入促進のため、使途制限を撤廃します。
 現在は、企業参入を認めている自治体でも、保育料で得たお金は保育に使用するように制限がかかっています。これを、新制度では取っ払います。

 例えば、レストランチェーンが保育に参入し、保育で稼いだお金を、本体のレストランの利益に回すことも可能になります。厚労省はこれを売りにして、企業に参入を促しています。

しかし、もともと保育は「儲かる」「業界」ではあり得ません。
 それを「儲ける」のためには、人件費などを減らし、利益に回していくかが重要な関心事になってしまいます。「コスト削減」として人件費が削減され、職場は非正規職員ばかりにせざるを得ません。保育の質が低下していくことが目に見えています。

 保育を産業にすることで、子どもたちの命が犠牲になりかねません。
 
第3 新システムの制度はどこから来たのか。
 この新システムの議論はどこから出てきたのでしょうか。

 これはもともと、「経済成長戦略」の中で出てきた議論です。保育、幼児教育の分野が既存の幼稚園、保育園に「独占」されているととらえ、その規制緩和を図ることで、新たな市場が生まれ、雇用が生まれる、という発想から出発しています。
 ですから、この制度の狙いは、企業の「新規参入」を容易にすることにあります。

 したがって、もともとこの制度の出発点は、待機児童解消の目的でもなければ、子どものためでも、働く親のためでもないところから始まっているのです。

 さらに、厚労省側の要求として、「介護保険」や「障がい者自立支援法」と同様、「行政は直接市民と関わらず、現場を民間任せにする」という制度に一体化したいという要求があります。同時に、財務省の「財政支出の抑制を容易にしたい」という要求も加わります。

 介護保険制度はどうなったか見てみましょう。介護保険制度は、2005年に財政抑制を目的とした「適正化運動」が展開され、家事援助が大幅に削減されました。その結果、家事援助事業を展開していた多くの事業者が廃業し、あるいは家事援助から撤退したりしました。そのため、多くの高齢者が、生活の支えを奪われる結果が生じました。
 保育の分野でも、「社会保障支出の抑制」によって、保育への支出を常に削られる不安定な状況が作り出されてしまいます。

第4 保育園はつぶれていく
1 新システムでは保育園はどうなっていくでしょうか。
 これまで見てきたように、新システムによって保育の質は低下していくでしょう。

 また、保育料が応能負担から応益負担に変わるために、保育園(こども園)に預けることが出来ない親が増えてしまいかねません。

 また、基本的に保育園(こども園)は親からの保育料だけで経営をしなければならなくなり不安定な経営を余儀なくされます。現在も行政から親に出される手当がどのくらい出されるかも全く決まっていません。今後金額は決められるでしょうが、明確な基準がないため、国は一端決めた金額も、いつでも減らすことが可能となります。
 支給する金額が少なくなってしまえば、当然親の負担は増加しますし、園は常に不安定な経営を余儀なくされます。
 残るのは、高い保育料が必要な「ブランド園」と、非正規雇用ばかり雇っている企業園、そして、マンションの一室で行う「保育ママ」チェーンということになりかねません。

2 この7月の中間報告
 特に、この7月の中間報告で、既存の幼稚園制度も残し、3歳児未満の受け入れ義務を入れないことになりました。
 もともと、このシステムの必要性の建前として、待機児童の解消と幼保一体化の必要性がいわれていました。
 しかし、中間報告では既存の幼稚園を残す選択肢も残したため、結局幼保一体の建前自体がどこかに行ってしまいました
 もともと、幼稚園と保育園が別々だから不便だ、などという親からの不満はありません。
 この議論の建前の1つである幼保一体化の必要性は全くなかったのです。
 制度としても幼保一体化をしないのであれば、新システムの建前の一つが崩れています。

 さらに待機児童の点ですが、確かに、待機児童問題が緊急であることは言うまでもありません。
 しかし、中間報告では、待機児童が問題となる3歳未満の子どもの受け入れ義務を導入しないとしました。最も待機児童が多いのは3歳未満児です。ここの拡大をしようとしないのでは、待機児童の解消にはなりません。

 「新システム」の建前はすでに崩壊しています。

 本当に待機児童を解消しようと思えば、「新システム」などという制度破壊をしている暇はないはずです。今の制度で十分対応出来るし、すべきなのです。
 
 また、制度の根幹から考え直すなら、イギリスのように、貧困層の子どもたちに対する手厚い保育を、という方向に進むべきですが、子ども子育て新システムにはこういった視点はありません。
 
第5 最後に
 子どもは、0歳でも個性ある存在です。この制度は、子ども達を個性ある存在としてとらえず、「サービスの対象物」として扱うに等しいものです。
 この制度に関するワーキングチームの議事録を見ても、子どもに軸をおいた議論がされていません。


 「子ども・子育て新システム」の下では、保育事故が増え、子どもの貧困が固定化し、少子化に拍車がかかりかねません。個人の尊厳を柱とする日本国憲法の理念と相反する機械的な「保育」が広がるでしょう。
 こんな制度が現実になれば、本当に取り返しのつかないことになります。

 民主党の他の政策を見ても、どれも場当たり的で、およそ現状を分析した上での議論がなされているとは思えません。
 そして、子ども手当も結局廃止される、というのです。
 新システムは、園への支給から親への現金給付に変えますが、その給付は子ども手当に上乗せする設計ですから、土台の子ども手当をなくす以上、「子ども子育て新システム」の議論自体中止すべきです。

 すでに千葉県弁護士会などでは、この制度の導入に反対する弁護士会会長声明が出されています。
 本当に待機児童を解消するには、行政の保育責任を放棄し、制度の根幹を解体する「新システム」などでなく、現行の保育制度を前提に、スピード感を持って幅広い育児支援の量と質の拡大をしていくことこそ求められています。

 子どものことを、将来の日本のことを考えて、保育、幼児教育のあり方について、一端議論を白紙にして議論をし直すことが必要です。
 来年の法案提出を何としても阻止していくことが大事です。そのため、署名などを積極的に取り組んでいきたいと思います。ご協力よろしくお願いいたします。


以上、川口さんのわかりやすく詳細なまとめに感謝。なるほどよくわかりました。ぼくが「子ども子育て新システム」について知ってから1年が経過しましたが、ワーキンググループの議論によって何も進んでいないということが。というか、1年前の記事に書いたような「子どものためになるのかどうか」という、親がいちばん大事にしともらいたい論点がすっぽり抜け落ちたままで、「実施する」という事実を事実にするためだけに、稚拙な議論が繰り返されているんだろうなあと想像しちゃいます。なぜなら、閣僚と官僚と財界が結びついたときにこの国の政治はそういう方向にしか動き得ないのだということをぼくらは震災後に身を以て知ってしまったからです。

上記で川口さんが指摘している点は、ほんとうに危惧すべき点です。いかにも起こりそうなことじゃないですか。だって、ぼくらはそういう場面を何度も目にしてきました。川口さんが指摘する介護保険制度の崩壊もそうだし、多様な働き方が選択できるというふれこみで導入された非正規雇用などの規制緩和は、低賃金な上に労働条件の厳しさが高まるという結果になっています。そして何より、政府というものは国民のいのちよりも、東電という一企業を優遇するというどうしようもない事実を、震災後に痛感しました。打ち出される法案や基準値は、国民のことを考えた末に出されるものではなく、いかに一企業を守るかという点から逆算して出されるものであるということをまざまざと見せつけられました。

挙げ句の果てに、震災復興もそこそこに野田政権がやろうとしているのがTPPというリーサルウェポン。さいきんTPPに対する反対意見をよく目にするようになったので、これがどういう性質のものであるかご存知の方も多いと思います。ここでは詳しくは書きませんが、非関税障壁の撤廃により、国民生活を守るために定められている法律.規制.技術基準.規格.表示などが無力化されてしまい、アメリカをはじめとする多国籍企業の利潤追求がなによりも優先される、グローバル経済の恐るべき末路です。その先にあるのは、ほんの一握りの大金持ちと、ふつうの人たちのふつうの生活がないがしろにされる広大な貧困です。当のアメリカ自身が、医療保険や教育現場の市場化によりとんでもない格差社会をつくってしまったその姿を日本の政治家の方々は見ていないんでしょうか。

なんでわざわざこんな危険なことをやろうとしているのか。
全部おなじ構図です。財界(ってつまり米国に株主を持つ多国籍企業ですよね。)が主導する「金儲け」に、官僚がお膳立てして、政治家が乗っかるっていう。戦後日本が長らく続けてきた「政治」です。日本ではこれを「政治」と言ってきたんです。それで経済成長しちゃったから、日本で「政治」と言えばこのことなんです。だから、繰り返しますが、閣僚と官僚と財界が結びついたときにこの国の政治はそういう方向にしか動き得ない。

つまり民主党は小泉竹中構造改革をぜんぜん総括できていないということです。国民のために政治をする人がいない。みんな大企業のために政治をしている。いや、そうじゃない議員ももちろんいるのですが、それでは政権を維持できない。っていうね。

このまま凋落を続けるであろうアメリカとともに没落していくのか、それとも。
そして、その選択権は有権者であるぼくたちに託されているのか。
わかりません。
わからないけれど、未来をつくるのはぼくたち自身であると信じるしかないですよね。政治をつくるのも、政治家のレベルをつくるのも、ぼくたち自身であるのだと。

だから、いま何が行われようとしているのかを知る必要があるし(ほんとうは政府がしっかりと情報を開示して国民の支持を仰ぐ義務があると思うのですが、もうそこまでは求めません。)、それをもとに一人一人がそれぞれの立場から考える必要があります。

子どもは生きものです。扱うのはいのちです。子育ては、等価交換の資本主義経済の中に組み込まれるものではありません。そのようなシステムを採択したならば、かならず歪みが生じます。子どもの生態は、企業の営利活動には手に余る。そうして犠牲になるのはシステムの側ではなく、いのちの側になるでしょう。「保育」「教育」という、いのちと向き合う現場を、まるで商取引の現場に仕立て上げてしまうような、システム改変にはぼくは反対です。「金儲け」が悪だとは言いません。それはそれで自由な競争をやればいい。ただし、やっていい場所とやってはいけない場所くらいはわきまえようよ。大人なんだから。

今後も「子ども子育て新システム」の行き先に注目です。




追記(2012.06.04)
その後いろいろと得た情報をもとに、改めてまとめてみました。
子ども子育て新システムから感じること

「子ども子育て新システム」その後

「子ども子育て新システム」その後 2011.10.18 Tuesday [子育て・教育] comments(0)
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北欧の子育て事情を支えるもの

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北欧は福祉国家であるという認識はだいぶ浸透していると思います。高い税金を納め、そのぶん充実した社会保障を受けることができる国。市民自身がそういう選択をした民主主義の国。なかでも、子育てするのにお金の心配をする必要がないそうで、保育・教育制度や育児休業の保障など、子育てに関する行政の充実ぶりは日本と比較するとため息しか出なくなるほどです。ノルウェーは「母親にとって最も子育てしやすい国」と言われているし(男性の育休取得率が90%だとか)、幸福度ランキング世界一のデンマークは大いなる信頼社会であり、買い物に行っても赤ちゃんを乗せたベビーカーを店の外に置きっぱなしにできるほど信頼感が街にあふれていると言います。

とはいえ、彼の国々もはじめからそうだったわけではなく、徹底した民主主義と男女平等(国会議員の男女比もおよそ半々)が少しずついまのカタチをつくっていったと考えたほうがいいでしょう。そう、彼らは自分たちで自分たちの社会を選択してつくっていったんです。ではなぜ、彼らは高い税金による手厚い保障を選んだのか。クーリエジャポンの2010年12月号「ノルウェーの幸せな母親たち」にこういう記事があります。

保育園の受け入れも、父親の育児休業も法律で保障されているこの国の根底にあるのは、男女が同じように働き、同じように家事をすることが、合計特殊出生率の上昇につながるという共通認識だ。


ちなみに日本の合計特殊出生率は1.3、ノルウェーは1.9です。少子化対策に本気で取り組んでいること、子どもの存在こそが物理的にも精神的にも国の未来をかたちづくるということを前提にしていることが伺えます。しかし昔から盤石の体制だったわけではなく、紆余曲折を経ています。石油フィーバーがもたらした産業の発展は社会にマイナスの影響ももたらし、70年代半ばには同国の合計特殊出生率は1.5まで落ち込んだそうです。その後、地域や女性たちのネットワークの力強い働きが国民の思いを後押しし、政治を動かしました。育児休業の拡大、男女平等法、そして初の女性首相の誕生。86年以来ノルウェーでは女性閣僚の割合が40%を下回ることはないそうです。

3児の母でもあり、現在の出生率上昇に大きく貢献したという女性大臣は「いま私たちが手にしている権利は、政治的決断の結果です」と語っています。

「男女が平等な社会を実現させるための政策は、経済を潤す石油よりも大切です。」
「私たちが実現した政策は、社会の接着剤のような役割を果たしているのです。男女が同じように家事を行えば、離婚率が下がり、出生率も上がるのです。」

(以上、クーリエジャポンの2010年12月号「ノルウェーの幸せな母親たち」参考)


この大臣の発言はとてもユニークですよね。男女が同じように家事を行えば離婚率が下がり出生率も上がるだなんて、日本だったら笑われるかもしれない。でも核心なんじゃないかなあと思います。

戦後日本のロールモデルは、働くお父さんと家事をするお母さんだったわけで、完全に分業していました。父親が子育てにタッチすることは少なかった。核家族化が進む中で、お母さんがひとり育児に奮闘するのがふつうだったわけです。経済成長の時代はそれでうまくまわっていました。右肩上がりの成長を続ける日本企業の、年功序列や終身雇用といったモデルがある種の社会保障の役割を果たしていたとも言えます。

しかし社会構造の変化とともに共働きがデフォルトになってきたにも関わらず、人々の意識にあるロールモデルがたぶんまだ分業時代から抜け出せていないために、いろいろな歪みが生まれているのだと思います。共働きでなければ生活が成り立たないようないまの日本の社会構造の中で、社会保障もいいかげんであるならば、子どもを持つことによってリスクと負担が増えるということを考えれば出生率が下がるのは合理的に考えて当然のこと。もはや右肩上がりの経済成長など望めないのは明らかであるから、ロールモデルを書き換えなければならない。なのに、この国のロールモデルはいまだに働くお父さんと家事をするお母さんを想定しているように思えます。

何度も言いますが、ぼくは自分の子が生まれるまで、自分が子どもを持つなんて想像もできなかったし、他人の子にもほとんど関心がありませんでした。ところが、子どもが生まれることで一変しました。生まれ変わったと言ってもいいかもしれない。子どもの存在がこんなに愛しいものだとは知らなかったし、足りないながらも子育てに参加することで、育児がこんなにしんどいということを身を以て知りました。そうすると、妻との連帯意識が強まったのはもちろん、ふしぎなことに他人の子も可愛く思えてくるようになり、親への感謝の気持ちも生まれ、いろいろなことに寛容になりました。想像力の容器が少しずつ大きくなっていくような感覚とでもいうか。

政治のことを考えるようになったのも、子どもがいるからです。目の前で日々じぶんのちからで成長していく我が子のすがたを見ていると、ああ、世界をつくっていくのはまぎれもなく自分自身なんだと気づかされるし、そうして、未来の子どもたちが暮らす社会をつくるのが、いまの一票なのだとはじめてわかりました。ぼくは自分の子どもに笑顔で暮らしてほしいと願います。だからそのために、ただそれだけのために、いろいろと考えるのです。


今日、ちょっといい話に出会いました。
フィンランドで妊娠・出産を経験し、現在も育児中の女性による連載。
フィンランドで妊娠出産 #5 赤ちゃんを取り巻くモノ - 北欧×AREAより

これは、夫が赤ん坊の頃着ていたベビー服。なんと37年前に着ていた夫からのお下がりです。私がこのベビー服を初めて見たのは夫と暮らし始めたころで、クローゼットの中に無造作につっこまれていました。

『??‥‥なんでベビー服が彼のクローゼットに?』と不思議に思い聞いてみると、それは彼が赤ちゃんの時着せられていたもので、彼の母親がずっと大切に保管して、彼が一人暮らしを始める時に、一緒に持って行ってと渡され、何度も引越しを繰り返す間もずっと彼のクローゼットにしまわれ、彼とともに時を過ごしてきた服なのでした。

ちょっと感動して、できればこの服を私達の子供に着せたいと思うようになりました。

だけど、そんなにうまく物事はまわっていきません。それから数年、私達に子供は授からず、どうも不妊らしいということがわかり、外で赤ちゃん連れの母親を見かけては辛い気持ちになったり、友人に子供が授かっては複雑な感情に苛立ったり、でもあきらめもつきかけ、歳をとり、4年が過ぎた頃、夫の妹に男の子が誕生しました。

そして夫は、あっさりそのベビー服を甥にあげてしまったのです。

『いつまでも着られないまま、しまわれていてもしょうがないものね』、と自分に言い聞かせ、夫のお下がりのベビー服を着た甥の写真を眺めて、私はやっぱりちょっと傷ついていました。

あきらめがついて、もういいや、私には仕事があるし、夫と二人で中古の家を買って、自分達で手を入れて、時間をかけて好きな空間を作って、そうやって暮らしていこうと決心し、いろいろ物件を見てまわっていたときに、私達に子供が授かりました。

夫の妹は、私が子供を待ち望んでいたこと、夫のお下がりのベビー服を自分の子供に着せたいと思っていたことを、知っていたようでした。甥を抱っこした義理の妹は、そのベビー服を甥に持たせて、『妊娠おめでとう!貸してくれてありがとうね』と、私達に微笑みながら返してくれたのでした。

そうやって私達夫婦、それから義理の妹家族の間にずっと一緒にあったベビー服は、私の息子が使い、それももう小さくなって着れなくなって、今は夫が作った額縁のなかに納められ、私達の寝室に飾られています。

このベビー服、よく見ると、胸のアップリケはどうも彼の母親が手縫いでつけたもののよう(彼女は裁縫があまり得意ではないので、その仕事を見ていると微笑ましい)。姑が夫を産んだのは20歳で、姑夫婦は一軒家の2階を間借りして、小さな赤ん坊だった夫を抱えて暮らしていたのでした。

モノは言葉を話しはしませんが、私達のそばにあって一緒に時間を重ねて行きます。モノが人の気持ちを波立たせたり、しみじみとした喜びを与えてくれたり、それを取り巻く人々によって大事な記憶の形となります。


つまりこういうことじゃないかなあ、大事なことって。
ノルウェーの大臣はなぜ男女平等な社会が出生率上昇につながると思ったのか。デンマークではなぜ買い物に行っても赤ちゃんを乗せたベビーカーを店の外に置きっぱなしにできるのか。北欧の充実した社会保障はいったいどこから生まれているのか。

それらを選択するのはぼくたち自身だし、選択する基準になるのは思いです。
ぼくたちは何をたいせつにしたいのか。
経済なのか、いのちなのか。取り扱いは異なります。

いまの日本では子育て世代が少数派だそうなので、子育てに関する社会保障を手厚くするのは難しいかもしれません。子ども手当の処遇を見ればそれはわかります。子ども子育て新システムの行く末も不安です。でもたとえば、いま少しずつ増えている育児に積極的に関わろうとする男性がもっと増えていけば、あるいはイクメンたちが還暦を迎えるくらいの世代交代が進めば、「男女が同じように働き、同じように家事をすることが、合計特殊出生率の上昇につながる」という共通認識が浸透するようになるかもしれません。いや、もちろん北欧でのロールモデルがそのまま日本でも通用するとは限りませんが、どのようなかたちであれ、社会のあり方やしくみをラディカルに考えて、それを選んだ人の思いが実現されるような「政治的決断の結果」を手にできるようになりたいですね。

そのときのために、ぼくはいま現在、子育てで日々感じることを忘れないようにしたいと思います。

北欧の子育て事情を支えるもの

北欧の子育て事情を支えるもの 2011.10.18 Tuesday [子育て・教育] comments(0)
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子ども手当廃止について(2) 財源論という罠

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子ども手当についてのビラを民主党が配布したことに自民党が反発して、再生可能エネルギー法案の委員会審議、本会議が来週に先送りになるそうです。ええと、いい大人がそろいも揃ってなにをやっているんでしょうか。ツイッターでも「ビラ」に関するツイートがたくさん回っていますが、ほとんどが「うそつき民主党」への反発意見で、肝心の「子ども手当」についての意見は少ないという事態を見ると、自民党の口撃は効果があったと言えるんでしょうね。その後の民主党の言い訳にもがっかりしました。

どっちもどっちだと思います。
そもそも先日の3党合意で、所得制限を設けたという事実によって子ども手当の理念が揺らいだということは言えると思います。そこを妥協した民主党執行部は敗北です。じゃあ自民公明の言うように子ども手当そのものが間違っていたのかというと、ぼくは全く思わない。

なんで子ども手当がこれほどやり玉に挙げられているのか。野党が反対しているからです。じゃあ、なんで野党は執拗に反対しているのでしょうか。なぜ所得制限にこだわるのでしょうか。

ひとつ意味がわからないのは、民主党は「所得制限基準以上の世帯に対しても何らかの手当をあてることについては妥協できないと協議の場で強く主張した」と言っていますが(参考)、もともと財源を確保するために所得制限を設けるという話だったんじゃなかったでしたっけ?だとすると、そこに何らかの手当を付けるのであれば、財源の問題はなにも解決しないんじゃないでしょうか。と、素人の素朴な疑問なんですが。

所得制限は年収960万円以上の世帯になるそうです。受給世帯のうち、どのくらいのパーセントの世帯が該当するのかはわかりませんが、財源を根本的に切り詰める措置にはならないでしょう。3党合意の文書を見ると、給付総額は、(現在の子ども手当法)2.7兆円→(3党合意)2.2〜2.3兆円になるそうです。かつての児童手当は1兆円。名称が児童手当に戻ったとしても、もし仮に「財源」を問題にするのであれば、今回の合意内容は子ども手当に近いです。これで財源の問題に切り込んだと言えるのか、民主党が掲げた理念と引き換えにするほどの金額ではないように思えます。にもかかわらず、所得制限がこの論争の中心になっているのは、これ、「財源」の問題じゃない。

子ども手当の本質は、育児や教育にどれくらい公的資金を割り振りするのかという話です。つまり子どもに向かう姿勢の問題です。自民党が所得制限にこだわるのは、そこに「子ども手当」の生命線があるからです。子ども手当を潰したという事実だけが欲しいから、中身はどうあれ、所得制限という事実が欲しいのです。繰り返しますが、財源の問題じゃない。

河野太郎氏のブログによると、所得制限によって捻出される震災復興の財源は約1300億円だそうです。1300億円という金額だけを見ると多いように見えますが、子ども手当の予算である2兆3000億円の中の5.65%であると考えると少ないようにも思えます。復興支援の財源と、子どものための財源を天秤にかけること自体がナンセンスだと思います。天秤にかけるんなら、もっと他の無駄遣いがたくさんあるでしょうに。子ども手当はバラマキだと非難する自民公明やマスコミは、官僚の給与や天下り、議員年金等については言及しません。原子力マネーも、いままで闇に葬られてきたわけです。毎日新聞の8月19日の記事『この国と原発:第1部・翻弄される自治体(その2止)原発マネーが侵食』によると、自治体に流れた「原発マネー」総額(判明分)は、2兆5353億233万円だそうです。これって、原発を安全に運営・管理するためのお金じゃないですよね、原発を誘致した自治体にもたらされるボーナスみたいなもんでしょう。

そもそも日本の国家予算がどのように成り立っているのか、ぼくはぜんぜん知りません。素人が「財源が…」なんて訳知り顔で語ることになんの意味も感じない。おかしな話ですよね、自分たちで納めた税金がどのように使われているかを公開するという意思が財務省には希薄なようです。というわけで、日本の国家予算っていくらなんだろうとぐぐってみたら、民主党の財政改革を最初に主導したという石井紘基議員のことを知りました。“マスコミは一般会計(85兆円)しか報道しないが一般会計との重複分を除く特別会計の支出(175兆円)のほうが多く、実際の日本の年間歳出は双方を合わせた260兆円である”、と国会で指摘して日本の財源のあり方にメスを入れようとした同氏が刺殺されたことに、深い闇を感じるなというほうが無理でしょう。

ちなみに厚生労働省HPによると、平成20年度の社会保障給付費は94兆848億円。内訳は「医療」29兆6,117億円(31.5%)、「年金」49兆5,443億円(52.7%)、「福祉その他」14兆9,289億円(15.9%)。で、「子ども手当」の給付総額は(現在の子ども手当法)2.7兆円→(3党合意により)2.2〜2.3兆円。自公時代の児童手当は1兆円。「高齢者」と「子ども」に対する給付額のバランスがあまりに偏っているように感じるのはぼくだけでしょうか。ちなみに民主党のマニフェスト通りに子ども手当を全額支給するとなると約5兆円が必要になるそうです。ところで財務省によると、特別会計の見直し対象が11.2兆円あり、そのうち5.4兆円は公共事業に使われているそうです。ぼくは数字には弱いタチなので、これらの金額が単純に比較できるものなのか、よくわかりません。財源ってよくわからないですね。誰も教えてくれないし。ただ、よく知りもしないのに「財源が…」と素人が心配するのは、財務省の思うつぼにしかならない気がします。

繰り返しますが、子ども手当は財源の問題じゃない。公的資金の割り振りの問題です。育児や教育にどれくらい公的資金を投入するのかという、子どもに向かう姿勢の問題なんです。予算をはっきりと公開して、どのように割り振りするのかを明確に提示して、選挙で国民に選択してもらうのが、議会制民主主義のはず。

だから、自民党のやり方はフェアじゃないですね。
財源の問題ではないところで難癖をつけて、その部分で民主党が見直しに応じると「もともと財源的に無理な政策だった」等と言うのは、ぜんぜんスジが合っていない。自分たちが何をしたいのかをはっきりと言えばいいんです。子どもは親が育てるものという基本方針を守りたい(だから公的資金を投入するプライオリティは低い=子どもにお金をかけたくない)のだと。経済活動に与しない子どもに公的資金をかけるくらいなら、原発にお金を投じて経済を活性化させた方がいいのだと。そうはっきりと言うならば、スジが通っている。自分たちの立場をはっきりとさせた上で、保守層の支持を仰げばいい。それもひとつの考え方なのだから。その上で国民が判断するのだから。ところがそうせずに論点をずらして財源論に落とし込むような、こういう姑息なやり方しか出来ないのは、彼らがほんとうの保守ではないからでしょう。「原発マネー」は守って「子ども手当」は潰そうとするのが彼らの本音ということです。これで調子にのった自民党は高校無償化も潰そうとしているそうです。時代を取り違えているかのようにセンスの無い主張を繰り返す自民党はいったい、この国をどうしたいのでしょうか。


ここでもういちど、子ども手当とは何なのかを考えてみます。前回の記事『子ども手当廃止について(1)』で書いたことを突き詰めると、子ども手当とは「親が子どもにどう接するのか」という問題なのだと思います。これは、直接的な親と子の関係すなわち家族形態の問題でもあり、親を政府に、子どもを国民に置き換えてもそのまま当てはまる問題だと思います。

まとめると、だいたい以下のようなことです。

  • 自公政権の児童手当は、親に支給されるもの→「子育ては親の責任」
  • 所得の低い世帯への応援という意味合いが強い。国としての経済成長のために教育水準の向上があり、「経済社会の発展に貢献」するような子どもを育てるのが親の責任。
  • 子ども手当の考え方のベースは「社会全体で子どもを育てる」
  • 所得制限とか、保育所の整備とか、大人の都合はいったん置いておいて、文字通り「すべての子ども」に均等に贈られるもの。大人の都合で子どもの「機会」に差が出るのはいくないよね、ということ。だから、所得制限は子ども手当の生命線であった。
  • 純粋な手当にすることで使い道は各自に委ねられる。
  • 多様性を担保して、選択の自由を保障し、子どもの自主性と主体性を育てること。
  • 子どもに財を投じるのは、何十年というスパンでの国づくりを考えること



大事なのは「経済社会の発展に貢献」するために教育があるという戦後マインドから脱却して、子どもの自主性と主体性にまかせる教育すなわち子どもの育ちを大切にして社会で見守っていくという、国(=親)の子どもに対する態度の変化です。子どもにどれだけの「機会」を与えるかという、教育観の問題であり、それって実はとんでもなくドラスティックな社会構造の変化になります。

自民党が執拗に子ども手当に反対する理由はここにあるのでしょう。本来、自民党はパターナリズムを体現する政党だったのだと思います。子どもたちにいいものを食わせたい、いい暮らしをさせたい、という父権的なおせっかいがそもそもの出発点にあったのではないかと。明治維新も、戦後の経済成長も、おそらくそういったパターナリズムが牽引してきた。それ自体は悪いことじゃない、というかむしろそのおかげで今日の日本があるという事実には感謝しないといけません。ただ、明治維新はいささか急進的すぎて古来のにほん的なものを捨ててしまった側面もあるし、戦後の経済成長に成功した自民党がずっと同じ方法でうまくいくと思っているのは、おせっかいが大きなおせわになる。さらに長い利権政治の中で、既存の構造を守ることが第一になってしまった彼らは、はじめにあった父権的なおせっかいすらも忘れてしまったようです。子どもたちにいいものを食わせたい、いい暮らしをさせたいということよりも、経済成長自体が目的になってしまった。立ち止まって内省することを忘れていたのだと思います。

だから立ち止まって自分自身を見つめ直すことの出来ない人には、子ども手当=社会構造のドラスティックな変化なんて受け入れられない。というか、そもそもその議論の入り口にすら行き着かない。子ども手当は一種のベーシックインカムであるという見方もありますが、日本ではそういったラディカルな議論が行われないことが当たり前になりすぎています。民主党はもっときちんと説明しないといけない。

子どもを育てること。その支援の直接的な受給者は親にあるかもしれません。わざわざ国に言われなくても「子どもは親が育てる」のは本能レベルで当たり前のことです。ではなぜ「子どもを社会で育てる」のか。これは長いスパンで考えないと理解できません。というのは、子どもを育てることの最終的な受益者は共同体そのものであるからです。子供たちを知性的・情緒的・身体的に成熟させないと社会制度そのものが存立しなくなるからです。

オランダの教育基本法とも言える憲法第23条には、はじめにこう書かれています。

オランダ憲法第23条 1. 教育は政府の持続的責務の対象である。


ぼくは、この1行に教育というものの真髄が込められているように思います。
オランダでは、この憲法を拠り所にした充実した教育制度が整っているそうですが、そこに至るまでは決して平坦な歴史があったわけではないといいます。90年にもわたる国民的な議論によってようやく市民的合意を得るようになったのだそうです。ひとりひとりが自分のあたまで考えることでなにがしかの合意を獲得していくしか、民主主義の深化はあり得ません。


所得制限について妥協した民主党執行部をぼくは支持しません。と同時に、その内実よりも所得制限したという事実だけが欲しいがために子どもを政争の具にして、その結果を財源論に矮小化する自民党はもっと支持しません。財源のことなんか、財務省に知り合いもいないので知りません。

所得制限を導入することで子ども手当の理念は色あせました。しかし、それで終わりというわけでもない。民主党執行部がほんとうに理念を捨てたのかどうか、それは誰にもわからない。というか、これからの政策の進め方によってしか明らかにならない。だから各自が自分の持っているモノサシをもとにして、各自で判断するしかないのだと思います。この政争に意味があるとすれば、これをきっかけにして子ども手当の理念とは何なのか、子どもを社会で育てるってどういうことなのか、ちゃんと考えたり議論するようになること。ぼくは自分の考えがぜんぶ社会的に正しいとは思っていません。だからこそ、考え続けることが必要です。民主党によってポンと与えられた子ども手当であるなら意味がないし、このようにすぐ揺らぐ。市民ひとりひとりが自分のあたまで考えて自分の意思で社会的合意として子ども手当を獲得したときに、はじめて子どもを社会で育てることが可能な社会になるのでしょう。そうでなきゃ意味がないですね。

子ども手当廃止について(2) 財源論という罠

子ども手当廃止について(2) 財源論という罠 2011.08.19 Friday [子育て・教育] comments(0)
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「放射線」教育で教えることとは

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来春から中学校で「放射線」教育がはじまる、というか30年ぶりに復活するとのこと。理科の教科書に「放射線」についての記述が盛り込まれるそうです。

中学理科教科書:来春から「放射線」復活 指導に悩む教師 - 毎日新聞

学習指導要領には「エネルギー資源についての学習の中で原子力にも触れ「放射線の性質と利用にも触れること」」と明記されており、内容としては「放射線が医療や物体内部の検査に活用されていることや原発の仕組みなど」が教科書に盛り込まれるそうです。08年に改定された学習指導要領で復活が決定していたそうですが、原発事故が起きる前と起きてしまった後では意味合いがまったく違ってくるでしょう。

さらに今回の事故を受けて、文部科学省は放射線の基礎知識を教えるため副読本を全国の小中高校に配布することを決めたとのこと。「正しい知識が普及していないことで、福島県から県外に避難した子どもたちがいじめられることなどが心配されており、正確な知識を伝えるため」だそうです。

放射線副読本、全国の学校に配布 文科省決定、9月にも - 朝日新聞

こちらの内容は「基礎的な知識を身につけることに重点を置き、ウランなどの放射性物質から放射線が出されることや、自然界や医療現場でも放射線を浴びることがあることを説明。どの程度の放射線を浴びたら体にどんな影響が出るかや、ベクレルやシーベルトといった単位の違い、人から人へ放射線がうつることはないといった基礎知識」「さらに、原発事故が起きた際には国や自治体からの情報に注意して避難するといった、いざというときの対応や防護策」を教えるそうです。教え方は現場に任せるとしています。

いわゆる「風評被害」を防ぐために、正しく怖がるように、ということですね。ぼくは世代的に、放射線についての指導は受けていませんでしたし、原発事故を受けてはじめて放射能と放射線と放射性物質の違いであるとか、シーベルトやベクレルという単位を知ったクチです(大半の人はそうだと思いますが)。たしかに、事故後にあわててそれらをググってにわか勉強をして、少し落ち着いたり、やっぱり不安になったり。その繰り返しです。もちろん今だってわからないことだらけです。

放射線についての基礎知識を教えることに異論はありません。それが「考えること」のベースになっていくと思います。ただし、事故後の世界において、すべての「答え」を教えることは不可能です。先ほどの毎日新聞の記事に、「生徒からの質問に的確に答えられないのでは」と指導に悩む教師との記述がありましたが、おおいに悩んだらいいと思います。さらに、悩んでいることを隠す必要もないと思います。

少なくとも、放射能が人体に与える影響について、人類は未だ明確な科学的知見を持っていません。なぜ専門家の間で見地が分かれるのかというと、経験がないから推測でしかないから。だってそれは臨床的にしか知り得ないことであり、チェルノブイリの事故による影響だって未だ進行中であるのだから。事故の影響は事後的にしか確認されないし、原因と結果の因果関係が指摘されてそれが実証されるまではさらに月日を要する。人類が直面したことのないレベルの事故が起きた後にあって、世界中のどんな科学者であっても、放射線の核種や線量を根拠に、人体に影響が無いとか安全だとか言い切ることは出来ないと思います。「わからない」と言うのがほんとうに科学的な態度なんじゃないでしょうか。

「わからない」ことは「わからない」と言うこと。

放射線の問題に限ったはなしではなくて、これが教育においてとても大事な態度だとぼくは思います。わからないから、共に学んでいく。先んじて生を受けた大人が、子どもたちに教えることが出来ることがあるとしたら、それは「わかる」ことの「答え」ではなくて、どのようにしたら「わかる」ことができるか、という「考えかた」のサポートをしてあげること。そうじゃないと、問題の「答え」にはたどり着けないのではないかと思います。

「風評」を作るのは、じぶんの頭で考えることのできないままに、他所に「答え」を求めようとする心理の中にあるように感じます。正しく怖がるときの「正しさ」を決めることができるのは自分以外にいません。ぜんぶがホントでも、ぜんぶがウソでもない。事故後の日本を覆うバタバタを通してぼくたちが知ったのは、そういうことでした。

「放射線」教育で教えることとは

「放射線」教育で教えることとは 2011.08.17 Wednesday [子育て・教育] comments(0)
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バスの運転手さんからの贈りもの

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日に日に、クルマ好きっぷりが増していく息子。朝の目覚めと同時に「ぶーぶー」と叫んでミニカー遊びを始めるのが日課になっております。なかでもお気に入りはバス。「バス」とはまだ言えないらしく一生懸命に「バぁバぁ」と申しております(ちなみに婆ちゃんが勘違いして「ばぁちゃんか〜」と寄っていくのもご愛嬌)。そのうちミニカーだけでは飽き足りず現物が見たくなってくると、玄関を指さして「バス見に行くど!」というゼスチャーで外に連れてけと主張、そこから朝のお散歩またはドライブへと繰り出すのも、日課とまではいきませんが習慣になりつつあります。

そこで最近ぼくがよく連れて行くのが、近所にあるヒルズサンピア(旧厚生年金休暇センター)。ここには施設専用のバスが4台いつも停まっている上に、路線バスの始発点になっており、回送してきた山交バスが10分程停車しているのです。息子はこのバス見学スポットが大好きで、駐車場に車を止めて「着いたよ〜。バス見る?」と聞くと、いつも満面の笑みで大興奮。間近に見えるバスの勇姿を食い入るように見ています。



先日も朝からバス停の付近で待っていると、回送の始発バスが到着。しげしげと眺める息子。やがて出発10分ほど前になると、アナウンスとともにドアが開きます。乗車するわけではないので、運転手さんに「すみません、息子がバスが好きなもので見学に…」と言うと、「まだ時間あるからどうぞ乗ってください」とあたたかな返事。恐縮しつつも、お言葉に甘えることに。

息子、生まれてはじめてバスに乗車。バスのミニカーを握りしめながら、椅子にちょこんと。とっても嬉しそう。

また別の日には、違う運転手さんでしたが、運転席にまで乗せてもらいました。
帽子をちょこんと。



息子は家に帰ってからも嬉しそうでした。ぼくも幸せな気持ちになりました。こういうちょっとしたことが、子育てライフの栄養源になります。道を歩いていても、見知らぬ人からかけられるほんのささいな挨拶や、あたたかい視線が、どれだけ親の気持ちを楽にしてくれることか。自分が親になるまでそんなことちっとも知りませんでした。

バスの運転手さんにしてみれば、こういうことは勤務外であり、なんの得にもなりません。バスのミニカーを握りしめる息子をめんごがってくれたのかもしれないし、気まぐれかもしれない。いずれにしても、運転手さんの勤務内容からは逸脱した行為です。こういう「やさしさ」は、市場原理やマーケティング論からは生まれません。なぜなら、等価交換の貨幣価値に換算できないからです。

「やさしさ」って「おせっかい」かもしれない。そして、「子どもを社会で育てる」って、そういうちょっとした「おせっかい」のある社会なのかもしれないなあと思ったのでした。

バスの運転手さんからの贈りもの

バスの運転手さんからの贈りもの 2011.08.16 Tuesday [子育て・教育] comments(0)
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子ども手当廃止について(1) 子ども手当とは何なのか(子どもを社会で育てることの意味)

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子ども手当について。
8月5日、子ども手当が廃止さてて児童手当に戻るというような印象報道がなされました。民主党はマニフェストの看板政策を反古にして、自民公明時代の政策に逆戻りする、結局は国の未来たる子どものことよりも票集めできる組織や老人のほうが大事なのかとたいへん憤慨しました。もう民主党は終わりだなと思った。ところが、その後、民主党内で行われた政調合同会議での資料の内容(「子ども手当」にかかわる3党合意について)を見て、単純に廃止→逆戻りという話でもないことを知りました。たしかに、所得制限を設けることで子ども手当の理念は揺らぎます。その後退感は否めない。当初マニフェストで掲げた金額ははるか彼方です。しかしその一方で、中身をきちんと報道しない上に、明らかに恣意的に「廃止」というワードを利用しているマスメディアのほうに、より悪意を感じるしタチが悪いと思います。とにかく鬼の首を取ったという印象を与えたい自民公明のメディア戦略(「廃止」を強調しているのは産経と読売みたいですし)ということなんでしょうか。子どもを政争の具にするのは最低ですね。

さて、それはそれ。3党による合意で子ども手当の形が変わることは事実です。今回の合意はどういう意味を持つのか、ほんとうに子ども手当の理念は変わっていないと言えるのかどうか。その詳しい給付内容について考える前に、まずは、そもそも子ども手当はなぜはじまったのか、どういう理念だったのかを考えてみたいと思います。ぼくもよくわかっていないし、いろいろとごっちゃになっている部分が多いので、自問しながら、自分のためだけに自分が関心のあるところだけを書きます。

まずはじめに。子ども手当は、経済のはなしではありません。「経済」と「子育て」はまるで別のものです。経済がうまくいく論理と、子育てがうまくいく論理はぜんぜん一致しない(だから同様に、子ども・子育て新システムについても経済的側面からばかり論じられると変な方向に行ってしまうと思います)。子どもは、大人から見るとわけのわからない生き物です。ほんと、大人の都合なんかぜんぜん関係なく「いまを生きる」だけの毎日で、何をしでかすかわからない。泣いたと思ったら笑ってる(それだからこそ、最高におもしろくてかわいいんですが)。そうやって毎日を精一杯に生きる中で、育っていく。こっちがびっくりするくらい育っていく。その育ちの中には、市場原理が介入する時間も必要もありません。子どもの「育ち」と、「経済」は本質的なところでは関係がないと思います。そりゃ経済的に豊かなほうが、なにかといい思いをさせてあげられるかもしれません。ぼくだって、もっとお金を稼いでおいしいものを食べさせたりいい服を着せたりオモローなおもちゃを買ってあげたい。でも、無けりゃ無いなりに、幸せな家庭を紡ぐことはできる。親がただ子どもに向き合ってさえいれば、子どもは最高の笑顔をくれます。「子育てに向き合うこと」だけが、子どもを笑顔にさせて、親も幸せになるただひとつの方法なのだと思います。震災を機に、家庭の大切さを見つめはじめたお父さんも多いそうです。高度経済成長時代から続く、経済至上主義のマインドが、結果として子どもたちを豊かにしたのかどうか、そもそも豊かさってなんだったのか、原発の事故が起こってしまった後ではその見えかたが違ってくるのではないでしょうか…胸に手をあててふり返ってみる。それはとても重要なことです。民主党のマニフェストを支えるのが子ども手当であるならば、その子ども手当を支える根幹は、ぼくたち子育て世代が「子どもに向き合うこと」。そして、親が「子どもに向き合える」ような環境を整備していくことが「子どもを社会で育てる」ことの意味だと思います。ここを勘違いしてはいけない。子育ての環境整備ということで待機児童解消の問題がよく挙げられますが、いかに子どもを預けて働くことができるような環境をつくるか(もちろんそれも大事ですが)、ということが主眼になってしまうと、それは「子育て」じゃなく「経済」の話になってしまいます。それはあくまでも親(大人)の都合であって、子どもの育ちとは関係がない。

じゃあ、何なんだ。子ども手当ってお金の話だろう。そう、お金の話です。でも市場経済じゃなくて、所得の再分配の話です。そこで考えたいのは、「子ども手当は誰に支給されるものなのか」ということ。もちろん物理的な面で言えば親であったり養育者の口座に入るわけですが、所得の再分配という観点から見たときに、親に支給されるものなのか、子どもに支給されるものなのか、という視点を持つことが、子ども手当の理念にかかわってくるのだと思います。(子ども手当のターゲットについて、たいへん興味深い論考がありました。→ 子ども手当ての本当の問題点 財源論ではない

「自公政権の児童手当」は、親に支給されるものでした。児童手当の背景には、「子育ては親の責任」という考えがあります。「72年のスタート時は、低中所得世帯の第3子以降に支給。お金のない子だくさんの世帯だけを対象に作られた制度だった」そうです(参考)。児童手当は、あくまでも子どもを育てる親に支給されるものであり、だから親の所得に応じて制限があったりするわけです(一方で、扶養控除は高所得者ほど利益が大きいというよくわからない仕組みになっていますが)。実際に自民党は「子どもは親が育てる」ものだと明言しています(自民党国家戦略本部 第6分科会資料)。それもひとつの考え方で、この資料にもあるように「戦後のわが国の教育は、教育水準の向上を通じ経済社会の発展に貢献してきた」ことは事実です。ここで言う経済とは市場経済のことであり、子どもの主体的な育ちという観点よりも、国としての経済成長という観点に主眼が置かれてきました。だから戦後のお父さんたちは家庭よりも仕事だったわけです。穿った見方かもしれませんが、自民党の児童手当には、“子育てをするのにお金がなくて大変な貧乏者にはめぐんでやるから、しっかりと「経済社会の発展に貢献」するような子どもを育てなさい”、という「わが国の教育」メッセージが含まれているようにも思えます。それが明治維新での富国強兵政策から続いてきた「わが国」の伝統であるとするならば、この国の与党はそこから逃れられないのでしょうか。もはやハコもの公共事業で景気を賑わして経済を活性化させる時代は終わりました。平成のこの時代になって「「子どもは社会が育てる」という誤った考え方でマニフェストを作り」と言ってしまうセンスはちょっとどうかと思います。逆に、ここまで言い切ってもらえると現在の自民党に期待することは無くなったわけですっきりしますが。

民主党がマニフェストで掲げた子ども手当の背景には、「社会全体で子どもを育てる」という考えがあります。Wikipediaによると「次代の社会を担う子ども1人ひとりの育ちを社会全体で応援する」こと及び「子育ての経済的負担を軽減し、安心して出産し、子どもが育てられる社会をつくる」ことを政策目的としたのが子ども手当法だそうです。

なぜ所得制限を設けないのか。「控除から手当へ」の意味は。
子どもは親を選べません。親の所得によって子どもの養育や教育に差がつくのでは、生まれてくるすべての子どもが平等であるとは言えません。だから所得制限を設けないし、親の所得によって上下する「控除」制度から、純粋な手当へと移行する。つまり、子ども手当は子どもに支給されるものと考えていいと思います。文字通り「子ども」に贈られるもの、というのが子ども手当の理念の根幹を成すものだと、ぼくは考えています。(だから子ども手当がバラマキだという批判はまったくの的外れですね。子どもには選挙権が無いんだから。)子育て支援に関して言えば、諸外国の手当額に比べて日本の支給額は微々たるものです。でも、支給額の問題よりもそこがいちばん大事であり、いつも立ち返らなければならない原点だと思います。

なぜ子どもに支給されるのか。先ほども書いたように、親を選んで生まれてくることのできない子どもを平等に扱うこと、つまり「すべての子どもの育ちを支援すること」がひとつ。しかもそれは機会均等であって、目的均等であってはなりません。つまり教育を受ける権利は平等に与えられるけれども、何のために教育を受けるのかまでを強制することはできないということ。自民党の話に戻りますが、戦後の教育は「経済社会の発展に貢献」することが第一義的な目的であるかのようなふるまいをし続けてきました。その結果、教育というものが損得勘定になってしまいました。内田樹さんは教育現場の現状を「自己利益のために教育を受け、そこで得られる学歴や資格や免状や技術で自分自身を飾っていこうとする。まるで商品を買うように、お金を出して「教育という商品」を買おうとする。」(参考)と指摘しています。ここでも学びというものが「経済」にすり替わってしまっているんですね。ほんとうはそうじゃなくて「学び」っていうのは、本来的にわけのわからないものだと思います。大人の都合なんかぜんぜん関係なくただ「知りたい」ってことだと思います。そうやって毎日知りたいと欲する中で、学んでいく。こっちがびっくりするくらい学んでいく。その学びの中には、市場原理が介入する時間も必要もありません。

純粋な手当であることにも意味があると思います。たとえば、「子どもに支給」されるというのであればお金ではなくてベビー用品や参考書の支給であるとか、あるいは保育的なり学術的な施設を建てたりすることも支援であろうという見方もできます。でもその場合は、どうしても画一的になりがちで、子どもの主体性にまかせた「育ち」や「学び」からは遠くなります。だから純粋な手当として、その目的は子ども(あるいはそれを実際に使用する親)にまかせることで、給付を受けるひとりひとりの自主性と多様性を重んじていると見ることもできると思います。育ちや学びへの機会は平等に、そして育ち方や学び方の過程に関しては、その子の自主性にまかせる。それが「子ども1人ひとりの育ちを社会全体で応援する」ということにつながります。これって実はすごいことで、「経済社会の発展に貢献」するために教育があるという戦後マインドからいよいよ脱却して、子どもの自主性と主体性にまかせる教育すなわち子どもの育ちを大切にして社会で見守っていくという、国(=親)の子どもに対する態度の変化です。それって実はとんでもなくドラスティックな社会構造の変化になります。

子どもに財を投じることの価値は、子どもだけにあるものではありません。子ども手当法の政策目的として、「子ども1人ひとりの育ちを社会全体で応援する」の他にもうひとつ、「子育ての経済的負担を軽減し、安心して出産し、子どもが育てられる社会をつくる」というのがありました。すなわち、子ども手当には、いま存在する子どもへの支援だけではなくて、少子化対策という意味もあります。この場合は、子どもを出産する「親に支給」されると捉えることもできるし、これから生まれてくるであろうまだ見ぬ「子どもに支給」されると捉えることもできるでしょう。

子ども手当そのものが、少子化対策に結びつくのかどうかはわかりませんが(単純に、手当がもらえるから子どもつくろうとはならない)、いずれにしても、考え方としては「共同体の未来」に対して贈られる、と捉えることができると思います。ぼくたちが暮らしている共同体が存続し、共同体としての利益を享受していくために(つまり共同体が幸せになるために)、先行投資として支給されるのが子ども手当なのだという考え方です。市場経済の原理から考えれば子どもを持つことは不利にしかなりません。母親は働けない(稼ぎが減る)し、出費もかさむ。そういう観点からでは、子どもを持ちたいとは思えないかもしれません。だから「負担を軽減し、安心して出産し、子どもが育てられる社会」というコンセンサスを形成することが必要だという考えです。

これはとても重要な視点です。ぼくたちがいかなる共同体を形成していくのか、という国づくりの根本的な理念になってくるからです。またもや内田樹さんの言葉を引用します。

教育というのはもともと共同体の責務なんですよ。成熟した市民を一定数、継続的に供給していくことは社会の存続のために不可避の義務なんです。

自分たちの共同体を形成する年若いメンバーたちを育て、支援し、激励してちゃんとした市民に育て上げること。自分たちが老いて死んで去って行った後に、「この共同体を次は君たちが支えてね」と伝えること。この支え手を育成していくという集団的な営みに教育の目的はあるんですけどね。この根本のことを繰り返し思い出してほしい。

- 平松邦夫×内田樹「『教育はビジネス』という勘違いがクレーマー親を生む」「教育は誰のためにあるのか」とことん語ろう 第1回より


国を守り、ふるさとを守り、山河を守りたいならば、軍事費に何兆円もの金を費やすことよりも、共同体として子どもを育てていくことにお金を投じた方がよっぽど効果的だと思います。そのほうが、結果として自分たちが所属する共同体の利益になると、ぼくは信じています。国益ってほんらいそういうことじゃないのかな。

かつて「オランダ病」と揶揄された時期を経ていまは「オランダの奇跡」と呼ばれるほど「豊かな」国になったオランダ。その要因はワークライフバランスを見直し、子どもたちの「育ち」を大切にしたところにあります。オランダの教育を考える上での指針となるのが同国の教育基本法にあたる憲法23条なのだそうです。その冒頭の一節。

オランダ憲法第23条
1. 教育は政府の持続的責務の対象である。


ぼくは、この一文に教育というものの真髄が込められているように思います。共同体として子どもを育てていくことが、国をつくるということです。そのために政治があり、政策とは未来への贈与です。それは市場経済における等価交換の公式のようにすぐに結果の出るものではありません。自分たち及び自分に関係する世代の豊かさよりも、未来の世代への投資に価値を見いだすことのできるということ。けっきょくのところ、「子ども手当を容認できる社会」というのは、それだけ「寛容な社会」ということなのだと思います。自己利益を追求する市場経済の原理から逸脱した、わけのわからないものを見守ることができる社会。共同体として、そういうマインドを共有しているということなのだと思います。他者に対して寛容な社会、他者への想像力がはたらく社会というものが、なにより子どもを持つ親にとって子育てをしやすい環境であることは言うまでもありませんよね。子育てをしている人ならわかるはず。

「子どもは親が育てる」のは、わざわざ国に言われなくても当たり前のことです。言われなくても本能レベルでそうします。ただ親としてはちょっとだけ休憩したい時だってありますよね。そんな少しの贅沢も許されないような他人の目という縛りが、いまの世の中には確かに存在します。公共の場に子どもがいることが、邪魔扱いされる空気があります。子どもが泣くのは親のせい、とか。子育ては、ただでさえ24時間体制なのに、その上、一時も休むことが許されないような「がんばり」を親に求めるのは酷です。そうやって母親は疲弊して孤独になっていきます。子育てをしている親がいちばん求めているのは、お金でも設備でもなく、周囲の人が自分の子どもを見守ってくれる環境なんです。ほんの少しの休息で生き返るし、ほんのちょっとした気遣いやあたたかい言葉で励まされるんです。そうすると親も笑顔になれるし、それで子どもも笑顔になれる。そんな「寛容さ」が当たり前にある社会だったら、さぞかしいいだろうなあと毎日妄想しています。

子ども手当が「子どもを社会で育てる」の全てではありません。仮に、子ども手当がマニフェスト通り満額支給されるようになったからといって、日本の子育て支援が完結するわけではありません。子ども手当はあくまでも「子どもを社会で育てる」のひとつの象徴です。しかしだからこそ大切な象徴です。子ども手当を容認できる社会は、それだけ寛容な大人がある一定数以上存在する社会です。子ども手当は「子どもを社会で育てる」の象徴だけど、実はそうすることで大人(社会)が育てられるものかもしれません。


というところで、長くなったので今回はここまで。次回は、子ども手当の制度設計について勉強してみようと思います。年少扶養控除の件などもあり、ぼくに理解できるかどうか不安ですが…。

→子ども手当廃止について(2) 財源論という罠

子ども手当廃止について(1) 子ども手当とは何なのか(子どもを社会で育てることの意味)

子ども手当廃止について(1) 子ども手当とは何なのか(子どもを社会で育てることの意味) 2011.08.06 Saturday [子育て・教育] comments(2)
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子どものいる風景(海江田発言とノルウェー首相発言を隔てるもの)

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日曜日。いつものように、わが家でいちばんの早起きくんである息子(1歳8ヶ月)に起こされ、寝起きのぶーぶーを見に行こうとせがまれ、歩いて10分ほどの国道へ車を見に行きました。あまり人の歩かない国道沿いの歩道で30分近く佇んでいる親子は傍から見ると変態だろうなと思いつつ、息子の笑顔にはかなわないので、変態だろうが親バカだろうが好きに思うがいい、へへへ、と若干クールぶって付き添いをしつつ、持参したiPhoneでツイッターを眺めていたらこんなニュースが。

「線量計つけず作業、日本人の誇り」海江田氏が称賛

なんで今さら過去の話を持ち出したのか知りませんし、ほんとうにこう思ったのか、なにかのサービストークなのか知りませんが、これは酷いですね。思わず散歩中にツイっちゃいました。戦時中の思想になぞらえる見方もありますが、戦後の日本人はずっとこういう思考の発露でやってきたのも事実でしょう。おおっぴらに「お国のために」とは言わないけれども、自己責任という便利な言葉で、国は自らの責任を矮小化してきました。ぼくら自身の中にも、滅私奉公的なマインドが美徳とされるような風潮があります。道徳心や利他心といったものが偽りだとは言いませんが、それは為政者にとっては利用しやすい言葉であるということも踏まえておく必要があると思います。

大臣である海江田氏の発言は、国の立場からの発言です。であるならば、国民を守るということが先ず発露になるはずだし、であるならば線量計をつけずに作業させた東電を叱責することや、自らの監督不行きを詫びるのがスジじゃないんでしょうか。実際に現場で作業した方々には敬意を表したいですが、国の立場にある人物が自らの責任を無視して、わざわざ英雄化するのは非常に気持ち悪いです。

「国」というかたちの共同体って、いったいどういうものなんでしょうか。日本という国は、「国民を守る」という点では共同体としてまったく機能していないことが3.11以降多くの人の目に明らかになりました。

放射線の問題では国の対応は遅々として進まず、刻一刻と進行する汚染に対して、福島での校庭の表土除去や山形秋田での肉牛全頭検査など、県や市町村などの自治体が率先して独自で対応しているのが現状です。国よりも地方自治体、市よりもご近所、町内会よりも家族。共同体の規模が小さくなればなるほど、動きやすくきめ細やかになりますし、主体と対象がわかりやすい。共同体の構成員を守るという意識はその規模に反比例すると言っていいのでは。手の届く範囲になるのだから、当たり前といえば当たり前なんですが。じゃあ国ってなんなのさ、って思っちゃいますね。日本という国の括りって、ほんとうにこの規模の括りでいいんだろうかと。誰も手の届かないところから、誰も手の届かないままに、責任も自由も生まれない場所から、主語の無いことばが垂れ流されることに、いったい何の意味があるのかと。そんな無駄なことをしている間に、現実に生命が危機に晒されていくのに。(これはぼくたち自身にも問題があって、いままでは国の規模が大きいという事実に対して無根拠な幻想を抱いていたのかもしれないと思いました。実情ではなく、ただ単に規模で、なんとなく大丈夫だろう、と。)

自分の子どもを守れない人にぼくは国のことを語ってほしくありませんが、「線量計つけず作業、日本人の誇り」という台詞を、海江田氏は自分の子どもに言えるんでしょうか。言えるんなら人として(生き物として)どうなの、と思いますし、言えないんなら自感覚と実際の発言が乖離するような、せざるを得ないような国という規模の共同体なんて嘘っぱちだと思います。


というようなことを息子を見守りつつ考えていたら、続いてリツイートされてきた文章にハッとさせられました。

子供をハグした人は、実は自分が子供にハグされたことに気付く。子供を愛した人は、実は自分が愛されていたことに気がつく。子供は愛を教えてくれる。血がつながっていようがいなからろうが関係ない。愛するということは、愛されるということ。 - 天気さんのTwitterより


さっき、国道沿いの歩道で30分近く佇んでいる親子は傍から見ると変態だろうなと書きましたが、実はそうでもないことをぼくは知っています。同じように、車や電車を見に何時間も一所で過ごした親御さんはたくさんいるし、「かわいいね〜ウチもそうだった〜」と声をかけてくれる方もいます(ロコヒロさんからのリプライ参照)。そう、実際にぼくも子どもと一緒に歩いていると、にこやかに微笑まれたり声をかけてもらうことがたくさんあります。これは子どもができてはじめて知ったことでした。子どもができてはじめて、世間はこんなにやさしかったんだと実体験から知ったんです。

そうすると、当たり前のはなしですが、他人の子どもに対してもやさしい視線を注げるようになります。ぼくは以前は子どもという生き物にどう接したらいいのかわからない男でした。ところがいまは街を歩いていても子どもにばかり目がいきます。これ、とっても大事なので何度でも言いたいのですが、女性が子どもを生んで変わるように、男性も子育てをすることで変わります。ものの見え方が変わります。他人への接し方が変わります。ほんとうです。

そしてその変化は、子どもと向き合った瞬間からはじまります。ハグした瞬間から。ぼくは出産に立ち会ったことがけっこう原体験になっていて、夜通し苦しみ続けた妻のすがたであるとか、一生懸命に生まれてきた息子の第一声の泣き声とか、その夜病院にお泊まりしてはじめてウンチを替えたこととか、脳裏に焼き付いています。生まれた瞬間から可愛くて仕方なかったなあ、ふしぎなことに。そこから文字通り息子中心の生活がはじまりますが、よろこびも幸せも息子が運んできてくれるようでした。ぼくら夫婦はもちろんのこと、じいちゃんばあちゃんも、親戚も、ご近所さんも、みんな笑顔になる。息子のおかげでみんな幸せになれる。こんな気持ちになったことはいままでなかったなあ。子育てはほんとうに大変でしんどい、と、子どもはほんとうにかわいい、がおんなじ意味だということ。



で、だから、戦後の日本が自己責任ということばで親としての責任を軽視してきたのもわかるような気がしたんです。戦後の日本は、経済成長だけが至上の目的とされて、父親は仕事に一直線でした。うちの親もサラリーマンでしたから、昼夜を問わず、とにかく働き続けた。そのおかげで日本は世界の大国になりました。それには敬意を表したいけれども、その一方で、子育てはすべて母親に丸投げしてきたというのも事実です。だから子どものことが「わからない」。実際にやってみるとわかりますが、オフィスワークよりも子育てのほうがよっぽど大変です。男女共同参画というものにしても、子育てのことが「わからない」人が主導していくと頓珍漢なフェミニズムになってしまう。分業の効率化が目的ではありません。男女の性差は自明のものとして存在する、その上で子育てやはたらき方を「共有」するのが、夫婦という共同体なのだと思います。

「わからない」ことは罪ではありません。ただ、子どものことが「わからない」オヤジたちがつくった社会が、子どもにやさしくない制度設計になるのは当然の帰結です。子どもをハグしたことのないオヤジたちには、子どもをハグしたくなるような場所はつくれない。予算の付け方にしても。たとえば、立派な子どもランド的な施設を作って、はいおしまいじゃあ自己満足にすぎません。そんな、たまにしか行かないフェスティバル的なものにお金をかけるよりも、インフラ整備してくれたほうが親としてはありがたいわけで。たとえば、ベビーカーに子どもを乗せたままバスに乗り降りできるとか。じゃないと子どもランドに行くのにも一苦労ですもの(首都圏はまた違うのかもしれませんが、地方では車を所有していない人は外に出れないという感じです)。そして、なによりそこで、子どもと大人のふれあいが生じるんですよね。いい人も悪い人もいるんだろうけど、そこで子どもは大人を知り、大人は子どもを知っていく。

いまって「公共の場に子どもがいること」が、邪魔扱いされる空気がありますよね。お母さんは申し訳なさげに肩身をせまくしてる。たしかに、子どもは大人から見ると「非効率」的な生きものだから、大人の尺度で測れば邪魔でしょうがないです。だから、子どもランド的な施設を作って大人と子どもを線引きして隔離しようとするのでしょうか。住み分けをすることで、子どもの居場所はどんどん限られていく。たしかにそれは大人の目から見れば「効率的」なのかもしれません。でも、それは子どもの生態をまるで理解していない合理的発想だと思います。社会のなかで子どもは育ちます。そうすることで大人も育つんです。社会のなかに子どものいない景色は不幸です。

子育てはしんどいです。子どもができてからは、自分のものなんか買えないし、自分の時間はどんどん無くなってくし、自分の感情を逆なでするようなことばかりしたがるし、ほんとうにしんどい。原因不明でのけぞってギャン泣きしていたかと思えば30分後にはニコニコとチューしてくる。まったくもって非合理的で理不尽です。でも、でもね。そうして自分が打ち砕かれることではじめて見えてくることがたくさんあります。そうやってぼくらは他者に対して寛容になっていくんです。それが大人になるってことじゃないかと思います。

自民党から民主党への政権交代は、家父長制度からマイホームパパ路線への転換というイメージが当初はありました。しかし、けっきょくほとんど変わらなかった(20msvの話が出たときも、この人たちは子どもの生態をまるで理解していないと思いました)。爽やかなシャツに眼鏡で颯爽と理想を掲げた彼らは、インテリで頭が良いのかもしれませんが、子どもをハグしたことがなかったんじゃないでしょうか。実はそういう単純なことなんじゃないかと。大事なことは。

ツイッターでいただいたリプライを紹介します。

子どもを大切にしたら世の中もっと良くなるのにと思います。 RT @singstyro: 社会のなかで子どもは育つ。そうすることで大人も育つ。社会のなかに子どものいない景色は不幸だよ。 - おかかんさんのTwitterより
まさしく『子は宝』ですよね。いろんな意味でそう感じます。大人になっていくら偉そうにしてても、始めはみーんな赤ちゃんで、いろんなひとに育てられてきたんですからね。みんながそういう視点を持ち続けられたら、もっと優しい社会になりそうな気がします。 - がらがらどん3さんのTwitterより
人のつくった社会というのは、自由な発酵場所だと思います、本来。その中で子どもは最高の勝手気ままな発酵体ですね。互いに響きあい成長し合える余地がたくさんある。それを望まない社会は、要するに管理・監視社会ですね。
 - satomi araiさんのTwitterより


ぼくは、日本を変えることができる具体的方法は子育てだと思います。まじで。



先日、ノルウェーで恐ろしいテロが起きました。
ノルウェー連続テロ - Yahoo!ニュース

7月22日、ノルウェーの首都オスロの政府ビル近くで午後3時半ごろ、爆発テロがあり、数十人が死傷。その約2時間後、オスロ北西部にあるウトヤ島で開催されていた連立与党・労働党の青年部集会で、男が銃を乱射し、80名以上が死亡、多数が負傷した。


逮捕されたアンネシュ・ブレイビク容疑者は、反多文化主義「革命」に点火するための行動だったと主張しているそうです。北欧諸国は寛容な移民政策で知られており、同時に、移民排斥の主張を通じて支持を集める政党も存在します。ほんとうにそれが犯行の動機だったのかは未だわかりませんが、今回の事件を受けて、同国の移民問題についての議論が巻き起こるのは必至です。

日本では、高福祉というイメージで語られることの多い北欧。自殺率の高さも以前から指摘されていますし、北欧神話の崩壊か、という意見も必ず出てくるでしょう。ぼくは北欧諸国の経済政策や移民問題について詳しく知らないのでこれから勉強したいと思っています。いまでもロールモデルとなり得る諸国だと思っているから。そう思うのは、ぼくが北欧に興味を持つようになったきっかけが政策や理論ではなく、イメージ(像)だったからです。この記事にも書きましたが、歴史とモダンが息づく街中を、ベビーカーを押す男性の姿、トロッコのような押し車で子どもを保育園へと連れて行くお父さん、嬉しそうな子どもの笑顔。店先にベビーカーを置いたままちょっとした買い物をするママたち。子どもを中心に談笑が連鎖する街。旅番組の映像や写真を通して、こういったものが息づいているように感じたからです。

社会の中に子どもがいる風景。
それを大切にできるのは、大人たちが寛容であるからであり、それが成熟社会と言われる所以であるように思います。テロのように理不尽な暴力に対して、どのようにふるまうのか。こういうときに人間の本性が出るのかもしれません。ブッシュは力には力で報復しました。その負の連鎖はまだ終わっていません。日本ならお茶を濁して、時間が経って人々が忘れるのを待つでしょう。今回の事件を受けたノルウェー首相の声明は以下のようなものだったそうです。

「テロにはより強固な民主主義とより大きな寛容性で報復する」
  もっと正確に翻訳すると
「テロと暴力にはさらに民主的に立ち向かい、非寛容と戦い続ける」


どう感じるかは人しだいでしょう。ぼくは感嘆しました。
心から、うわすげえ、と思った。

子どもたちの社会をつくるのは、大人たちの選択しだいです。ノルウェーの首相が、なぜこんなことが言えるのか、じっくり考えたいです。また息子といっしょに国道へ車を見に行きながら、のんびりね。




追記(7/28):
ストルテンベルグ首相のスピーチを紹介してくださっているブログがありました。たいへん心を打たれる記事でしたので転載させていただきます。

【24日には国王やストルテンベルグ首相をはじめとする政府首脳らが出席して、犠牲者を追悼するミサがおこなわれた。ノルウェーメディアは涙をこらえてスピーチを読み上げるストルテンベルグ首相の様子を繰り返し報道している。ストルテンベルグ首相は、銃乱射のあったウトヤ島の生き残りであり、CNNの取材に答えた女性の一言をスピーチで引用した。「ひとりの男性がこれだけの憎悪を表すことができたのです。私たちが共にどれだけ大きな愛をみせることができるか、考えてみてください」。】

あれだけの恐怖にさらされた女性がこのセリフをいえる社会、首相がこの言葉を引用できる社会…。 - 情報流通促進計画より


同記事でヤメ蚊さんがおっしゃっているように「民主主義が成熟した国」であるからであり、「必要な情報を知り、自分たちが判断しているという自信が彼女の崇高な言葉の背景にある」からなのでしょう。信じられないけれども、ほんとうにこんな国があるんですね。これが成熟した大人であり、親としての寛容性なのではないかと感じます。

こちらで首相スピーチの全文も掲載してくださっています。
ノルウェーの悲劇を乗り越えようとするストルテンベルグ首相のスピーチ全文 - 情報流通促進計画

私たちのこの事件に対する答えはより民主的に、より開放的に、そして人間性をより豊かにする、ということです。

これらの哀悼の意が遺族の皆さんの損失を償うことはできません。何を持ってしても、皆さんの愛する人を取り戻すことはできません。しかし、人生が闇に閉ざされた時、支えと慰めが必要です。いま、皆さんにとって、人生が最も暗い闇に閉ざされた時です。私は、遺族の皆さんに私たちが皆さんに寄り添っていることを知ってほしい。


日本ではこういうニュースが報道されないので、何度も言いたいですが、ほんとうにこんなことを言える首相が実際にいるし、おなじ人間が集まりながらこんな国が実際にあるんですね。それを知るだけでも希望が見えてくるようです。そう、知ることから。


子どものいる風景(海江田発言とノルウェー首相発言を隔てるもの)

子どものいる風景(海江田発言とノルウェー首相発言を隔てるもの) 2011.07.25 Monday [子育て・教育] comments(0)
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