子どもから学ぶこと
2012.01.26 Thursday [子育て・教育]
2歳2ヶ月になった息子は、ものごとや言葉をどんどん理解しはじめている様子。感情や自我も大きくなり夫婦ともども手を焼くことが多くなりました。冬になるとどうしても外で遊ぶ時間も減り、アパートの室内では手狭になってきたようです。
第2子を妊娠中の妻はおなかも大きくなり、ハッスルする息子の遊びに付き合うのもツラくなってきたところ。一緒に遊べとつっつかれながら一日中家の中で悶々と過ごすのは想像以上にしんどいです。そろそろ一時保育などを考える時期かもしれません。
そんな折、先日友だちの家に遊びに行ってきたという妻のつぶやきに共感したので転載します。いい友だちが近くにいてくれてよかったよね、ほんと。
すこし補足をしておくと、友だちの子どもは小学6年生の男の子と3年生の女の子。ふたりともとってもやさしく息子に接してくれて、一生懸命に遊んでくれたそうです。ボールやら風船でたのしそうに遊ぶ子どもたちの動画を見せてもらい、ぼくもなんだか嬉しい気持ちになりました。「子ども同士」で遊ぶっていうのはやっぱりいろんな意味で別の世界なんでしょうね(やっぱり遊びへの向かい方が100%だから)。こうやって少しずつ社会の中に入っていく姿を見るのはなんとも言えない感慨深い気持ちになるものですね。
妻はじっさいに子どもたちに接することで「新しいベクトルの賢さ」を感じたとのこと。そしてそれは「古臭い価値観やら常識から解放され」て、自然体で子どもと向き合っている母親のもとで育てられたからであろう、と。概ね同意しますし、これからのぼくたち夫婦の子育てにおいてポイントであり立ち返る場所になってくるだろうと思います。
ぼくも古い価値観(しがらみ)は嫌いです。子どもには自由にのびのびと育ってほしいと思う。ところが、自分でも気づかないうちに古い価値観とか常識にハマり込んでいる(そしてハマり込んでいることにも気づかない)ということがよくあります。だからめんどくさいけどいつも自分のことばや考えの発露をチェックしないといけない。
ここで言う古い価値観というのは、けっきょくのところ、その価値観にしがみつこうとする気持ちのこと。すなわち、いま持っている「自分」を捨てることへの恐怖、つまり執着心です。自分はいったい何に執着しているのか。常識や価値観といったイデオロギーかもしれない。じゃあその常識っていうのはいったい誰のための誰に向けたものであるのか。単に他人の目を気にしただけだったりはしないか。あるいは自分らしさというアイデンティティなのかもしれないし、それを具現化するためのなにか具体的なモノかもしれない。その「自分らしさ」はほんとうに執着に値するものなのか。
なにかに執着するということは、同時に一方のなにかを捨てているということではないか。
子どもの健康と生命をおもって放射能被害から避難するのか、慣れ親しんだ土地での生活を大事にするのか。究極の選択ですよね。正解なんてないし、悩んだ末に決断した人々を責めたり揶揄したりすることはできない。どちらにしても、なにかを捨てなければならないのだから。その決断という意志は尊重されるべきでしょう。
何を捨てて、何に執着するのか。
たぶんずっとこの問いの繰り返しなのだと思います。めんどくさいですが、しょうがないです。親になって子育てに携わり、自分の時間を割かざるを得ないという環境の中で、そこは観念したというか、ある程度はあきらめがつくようになりました。
育児は育自、という言葉をどこかで聞きました。子どもに接することで日々自分の立ち位置を見つめさせられます。いや、もっと単純に、子どもを見ていると未来に対して希望的な感情がわいてきます。ぼくらよりもずっと賢いこの子たちはいったいどんな社会をつくっていくんだろうって。で、そう感じるからこそ、いま自分は自分の立ち位置を確認しておこうって思うんだと思います。何を捨てて何に執着するのか、優先順位の確認です。
捨ててもいいもの、でもなかなか捨てられないもの、いっぱいあるなあ…
第2子を妊娠中の妻はおなかも大きくなり、ハッスルする息子の遊びに付き合うのもツラくなってきたところ。一緒に遊べとつっつかれながら一日中家の中で悶々と過ごすのは想像以上にしんどいです。そろそろ一時保育などを考える時期かもしれません。
そんな折、先日友だちの家に遊びに行ってきたという妻のつぶやきに共感したので転載します。いい友だちが近くにいてくれてよかったよね、ほんと。
今日は夕方から友達が遊びに来てくれた。20年来の付き合いで、2人の子どもがいる。たまたま仕事が休みだったので来てくれたのだけど、流れでそのままその友達の家に行くことに。
実はすごい近所なのにお互い日常に追われてなかなか会えずにいたのだけど、やっぱり友達は大切だな〜としみじみ感じた。
友達の子どもたちが息子とずっと遊んでくれて、息子はほんとにほんとに楽しそうだった。
彼女は今シングルで2人を育てているのだけれど、固定観念が強くて亭主関白だった元ダンナと別れてからのほうが断然幸せそう。
離婚とともに古臭い価値観やら常識から解放された彼女は子どもと向き合う姿勢も自然体で、子どもたちもまっすぐに育っている感じ。
彼女と話すなかで、親が子どもにどれだけ理不尽な思いをさせるかによって、子どもの性質が変わってくるよねという話しに。
まぁ誰でも多少は親に対して理不尽さを感じるものだけれど、価値観が古い親ほどその傾向は強いように思う。
子どもは大人が思う以上にいろんなことを敏感に感じ取っているし、建前や嘘のない世界に生きてる。
うまく言えないけど、そういう理不尽さの少ない環境で成長している友達の子ども達には新しいベクトルの賢さを感じる。
私たちが親に対して古さや矛盾を感じるように、私たちの子ども世代もまた、私たちの中に古い価値観を感じるのだと思う。
そう思うと、私たちより確実に進化している子どもたちの成長を見守るということは、むしろ子どもから学ぶということだと思う。
子育てって、ほんとに貴重な経験です。たとえ自分の子どもでなくても、固定観念を捨てて向き合ってみるといろいろと新しい発見がある。
すこし補足をしておくと、友だちの子どもは小学6年生の男の子と3年生の女の子。ふたりともとってもやさしく息子に接してくれて、一生懸命に遊んでくれたそうです。ボールやら風船でたのしそうに遊ぶ子どもたちの動画を見せてもらい、ぼくもなんだか嬉しい気持ちになりました。「子ども同士」で遊ぶっていうのはやっぱりいろんな意味で別の世界なんでしょうね(やっぱり遊びへの向かい方が100%だから)。こうやって少しずつ社会の中に入っていく姿を見るのはなんとも言えない感慨深い気持ちになるものですね。
妻はじっさいに子どもたちに接することで「新しいベクトルの賢さ」を感じたとのこと。そしてそれは「古臭い価値観やら常識から解放され」て、自然体で子どもと向き合っている母親のもとで育てられたからであろう、と。概ね同意しますし、これからのぼくたち夫婦の子育てにおいてポイントであり立ち返る場所になってくるだろうと思います。
ぼくも古い価値観(しがらみ)は嫌いです。子どもには自由にのびのびと育ってほしいと思う。ところが、自分でも気づかないうちに古い価値観とか常識にハマり込んでいる(そしてハマり込んでいることにも気づかない)ということがよくあります。だからめんどくさいけどいつも自分のことばや考えの発露をチェックしないといけない。
ここで言う古い価値観というのは、けっきょくのところ、その価値観にしがみつこうとする気持ちのこと。すなわち、いま持っている「自分」を捨てることへの恐怖、つまり執着心です。自分はいったい何に執着しているのか。常識や価値観といったイデオロギーかもしれない。じゃあその常識っていうのはいったい誰のための誰に向けたものであるのか。単に他人の目を気にしただけだったりはしないか。あるいは自分らしさというアイデンティティなのかもしれないし、それを具現化するためのなにか具体的なモノかもしれない。その「自分らしさ」はほんとうに執着に値するものなのか。
なにかに執着するということは、同時に一方のなにかを捨てているということではないか。
子どもの健康と生命をおもって放射能被害から避難するのか、慣れ親しんだ土地での生活を大事にするのか。究極の選択ですよね。正解なんてないし、悩んだ末に決断した人々を責めたり揶揄したりすることはできない。どちらにしても、なにかを捨てなければならないのだから。その決断という意志は尊重されるべきでしょう。
何を捨てて、何に執着するのか。
たぶんずっとこの問いの繰り返しなのだと思います。めんどくさいですが、しょうがないです。親になって子育てに携わり、自分の時間を割かざるを得ないという環境の中で、そこは観念したというか、ある程度はあきらめがつくようになりました。
育児は育自、という言葉をどこかで聞きました。子どもに接することで日々自分の立ち位置を見つめさせられます。いや、もっと単純に、子どもを見ていると未来に対して希望的な感情がわいてきます。ぼくらよりもずっと賢いこの子たちはいったいどんな社会をつくっていくんだろうって。で、そう感じるからこそ、いま自分は自分の立ち位置を確認しておこうって思うんだと思います。何を捨てて何に執着するのか、優先順位の確認です。
捨ててもいいもの、でもなかなか捨てられないもの、いっぱいあるなあ…
子どもから学ぶこと
子どもから学ぶこと 2012.01.26 Thursday [子育て・教育] comments(0) |