選挙の憂鬱

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クリスマスなんか来なければいいのに…
12月24日が近づくと憂鬱になる人が増えるのは、クリスマスを商業イベントに仕立て上げた広告関連産業の人たちにとってはべつに打撃にはならない。彼らはクリスマスを楽しむ人に向けて商品やサービスを提供するだけだ。街をあげての商業イベントからこぼれ落ちる人にまで差し伸べる手は無い。当たり前である、それが資本主義なのだから。

選挙なんか来なければいいのに…
12月16日の総選挙が近づくにつれて、ぼくはその思いがどんどん強くなっている。街をあげての喧騒がどんどんおかしな方向に向かっているように感じるからだ。

「民主党は無い」という漠然とした理由だけで選ばれる自民党や維新の候補者がどれだけいるかと思うと暗鬱とした気分になる。どうせ死に票になるから…という消極的な理由で投じられる票のほうが多いだろう。しかしそれで当選した議員は民意を代表するというタテマエになってしまい、国会を動かし、法律が作られる。そのツケは、ぼくら自身とその後の世代に降りかかってくる。選挙はクリスマスのようなただの消費行動とは違う。

民主党がダメだったのはたしかだけど、じゃあ3年前の民主党に自分は何を期待してたのかを具体的に説明できる人はどれだけいるんだろうか。もしそれができないなら今回も曖昧な理由でしか選びようがない。選挙の争点が自分で分からないから、テレビが代弁面してさかんに喧噪する争点に引っ張られる人がどれだけ多いか。

「民主党にやらせたけどだめだった。自民党がもう1回頑張ってほしい」などと牧歌的なことを考えている人に、いまの自民党はあなたの思い描く古き良き自民党ではないということを知らしめる術はないものだろうか。国防軍だの改憲だの威勢のいいこと言う人にかぎって、米軍基地や社会保障、少子化問題はスルー。いったい誰から「日本を取り戻し」て、何から「日本を守る」のか、そもそもこの人たちの言う「日本」には誰が入っていて誰がはじかれているのか、ぜんぜん分からない。

国防軍=戦争ではない、安倍自民党は戦争に向かっているという批判は選挙にあてた中傷だという声があるけど、そういうことじゃなくて。いまのこの時代に、震災復興でもなく、原発でもなく、社会保障でも少子化問題でもなく、徴兵制や改憲を第一の争点にもってくるというその感覚がまったく理解できないという話なのだ。

テレビの人たちも、軍隊がどうのこうのって眉間に皺寄せて議論するんじゃなくて。そんなことはどーでもいいから、原発どうすんのよ、社会保障どうすんのよ、TPPどうすんのよ、ってなんで誰も言わないのだろうか。是非を問うとかの前に、「それ」が争点になってること自体がおかしいって。あんまり「それ」ばっかりやってるとそのうち感覚マヒしてくるよ。それが狙いかもしらんけれども。

小野昌弘さんのツイートより
原発政策・TPP・社会福祉・外交という重要な争点を軸に今回の衆議院選挙を見ると、仝業推進・対米従属・強者優先の「自=維新=公=民」vs反原発・自立外交・弱者配慮の「生活=脱原発=新党大地=みどり」という実に明確な対立がある。民意の多数は△世蹐Αこの争点を隠して得をするのは



「候補者乱立を防ぐ」という名目で設けられている世界一高い供託金(小選挙区で300万円、比例区で600万円)。
衆院選:「緑の党」、候補者擁立断念 「比例代表4人」分、供託金めど立たず
さらには候補者への「売名行為」という陰口。「政治には関われない」という空気。
「普通の人」出馬できる 目黒のデザイナー 脱原発訴え - 東京新聞

こういった「伝統」が、政治というものをぼくらの生活から切り離している。自分の家族や生活をもとにして考えるのではなく、テレビの画面上に争点があるかのように錯覚して誘導される、すなわち選挙という行為を評論家感覚やゲーム感覚で捉えている人は案外多いのかもしれない。原発事故後に石原氏の都知事再選とかちょっと理解できないもの。

「民主党は無い」という空気だけをもとにした投票原理って、マズイという評判が広まったらーめん屋に対する世間の空気みたいなもので。あんな店で食うなんて無いわ〜、と実際に食ったことがない人までもが分かったかのように思い込むというあの感じ。
国道沿いに華々しく立ち並んだ麺屋民主はたしかに看板に偽りがあったし、経営者が変わってからピンハネするようになった。しかし各地にチェーン店を持つらーめん自民に往時の面影は無く、現在は賞味期限切れの食材を平気で使おうとする程に質が下がっている(その一方で、ネット上の某掲示板にはジミリアンと呼ばれる熱狂的支持者も存在する)。そして、マスコミで話題の維新工房は派手な宣伝で評判を呼んでいるが、添加物まみれの劇薬である。そんな中、麺屋民主の志を引き継ぎ、住宅街にひっそり佇む店があることを知る者は少ない。食べログでは評判の同店だが、いかんせん知名度が無い。行列ができるのはやはりマスコミが取りあげるお店ばかりだし、地方では、味が変わったことにも気づかず昔から在る店への愛着を語る人も多い。


ぼくは今回の選挙区で選ぶ人がいないという立場になることではじめて、小選挙区制という仕組みの胡散臭さに思い至った(前回記事)。いくら自民党が金属疲労で狂っていても、ネット調査で生活党の支持がダントツでも、選挙区に候補者が立たなければ選びようがない。それって、一票の格差どころの話ではない。

世界一高い供託金と小選挙区制度は、選挙を恣意的にコントロールできる要因であることをはじめて知ったわけだが、だからと言って今回の選挙はどうにも出来ないというジレンマ。まあ民主党が政権執るまでも何十年もかかったわけだし、考えてみればたった3年でやっぱりダメだったというのもすいぶん短絡的な反応である。ある政策の成果なんて数年で結果の出るものではない。こんながんじがらめの制度なんて、ちょっとずつしか良くならないだろう。

子供たちが選挙権を得る頃には、もう少しマシな制度にしてあげたいよね。
子を持つ親としてはそれを投票原理にするしかないと思っている。

右に行けばワニ、左に行けばアナコンダというような究極の選択で、いかに最善の選択をするかっていうのは大事だけど、内田樹さん曰くそもそもそんなところに行かないようにするのが武道だと。こんな究極の選択を強いられる選挙制度になったのはなぜなのか。世界一高い供託金や、小選挙区というしくみが、どうやら民主主義の機能を阻んでいるように見えるならば、制度を変えるしかないんじゃないかと思ったり。でも制度を変えるのもまた政治家で。野田さんが言ってる議員定数削減はまやかしだし。

けっきょく制度を変えるより、いまある制度の中でいかにうまく立ち振る舞うか(勝ち馬に乗るか)を多くの人は選んできたわけで。根本を見ずに蓋をしてきたそのツケが回ってるということなのだろう。一億総中流という夢の時代は覚め、勝ち馬に乗れる人はどんどん限られてきている。大きいものに巻かれたほうが「得をする」っていう時代はもう終わると信じたいが…。

選挙の憂鬱

選挙の憂鬱 2012.11.26 Monday [政治・メディア] comments(0)
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選挙のジレンマ

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けっきょく個々の政策についてよりも、「人」で選ぶしかないってことなんですかね。前回の記事で、選挙の争点は自分で決めるものだなんてことを書きましたが、実際問題としては、自分が住む選挙区に自分の感覚と近い候補者が立つとは限らないわけで。まだ告示前なのでどうなるか分かりませんが、山形なんて、いつものように民主・自民・公明・共産しか選択肢が無い可能性が高くて、そうなると小選挙区制ってよく分からない選挙制度だよなと思います。自分の感覚と近い脱原発の候補を選ぼうといっても、選択肢が無ければ誰を選んだらいいか分からないじゃないですか。

12月の総選挙において、民主党は「無い」ってのが有権者のコンセンサスになってると思うし、まあぼくもそうなんですが。ちょうど2009年の総選挙で自民党が「無い」だったのと同じように。でも、小選挙区に生活党(国民の生活が第一)の候補者という選択肢が無い場合は、有権者は何を選び得るんでしょうか。民主党は無いけど、自民党はもっと無い。政策だけみれば共産党しかないけれど、絶対に当選はしない。

おそらく山形1区から立つであろう鹿野道彦。代表選での演説を聞いても、古いタイプの政治家だしぜんぜん期待してないけど、自民党にしたくないという理由だけで選ばざるを得ないかもしれません。TPPには慎重であろうという希望的推測を含め、あっちよりはマシだろうってだけでポジティブな意味合いは無いのですが。「民主党は無い」という空気に呑まれて、民主に投票するなんてダッセーぜというだけの理由で、自民とか維新に投票するようなことだけは避けたい。

国民が直接的に政治に関わる手段は選挙しかないということをよく聞きます。いくらデモをしたって、署名をしたって、政治は変わらないと。でもその唯一の手段である選挙において選択肢が無いというならば、民意っていったい何なのか分からなくなってしまいます。現行の選挙制度って、ほんとうに民意を反映できるように出来ているんでしょうか。

ツイッターやSNSなどのインターネットによるつながりが、有権者のリテラシーを底上げしていることは間違いありません。でもいくら小沢一郎の裁判が理不尽なものであることを知り、無罪判決が当然であることに同調し、検察とマスメディアの理不尽さに腹を立て、自分と子供たちの生活を守りたいならば生活党しか無いだろうと思い、生活党をスルーし続けるマスメディアを横目に、さあ選挙でぼくたちの民意を示そう、と言っても、自分の住む選挙区に生活党の候補者が立っていなければ選びようがありません。現在生活党の所属議員は50数名なので、全ての選挙区で候補者が立つことはないでしょう。

比例区があるじゃないかという意見もあります。その通りです。じゃあ、もうぜんぶの議員を比例代表制での選出にしちゃったほうが分かりやすいと思うのですが、だめなんでしょうか。考えてみれば、現行の選挙制度ってどういう経緯で出来上がったのか、ぜんぜん知りません。

そういえば、アメリカ大統領選の各州選挙人総取りっていうのも不思議なしくみだなあと思いながらオバマの勝利を眺めていたのはつい先日です。ジャーナリストの堤未果さんは、アメリカでの大統領選挙を「ショーとしての政治が娯楽性を増す裏で、民主主義の根幹である選択肢が失われつつある」と警鐘を鳴らしています。
「アメリカ大統領選挙2012〜切り捨てられる少数政党」 週刊現代 掲載記事 - ジャーナリスト堤未果のブログ - Yahoo!ブログ

小選挙区制っていうのは、小さな政党にとって不利な仕組みだそうです。なるほど考えてみればそうかもしれません。候補者をバンバン立てられる議員数と資金のある政党ほど有利になる。小選挙区制がメインで比例代表制はおまけみたいな扱いということは、まだまだ利害関係による組織票が選挙を実行支配しているということなんでしょうか。何の利害関係にも組織票にも属さないために、消去法で受動的に選択するしかない小選挙区での1票と、比例区で能動的に投票する1票が同じっていうのは、どうも納得がいかないような…。

いや、同じじゃないですね。現在、衆議院議員の定数は480人で、選挙制度による内訳は、小選挙区選出議員300名、比例代表選出議員180名だそうです。小選挙区のほうがウェイトが大きい。議席数が多いということはすなわち国会での発言力が高まる。


なんてことをぐだぐだと考えているうちに、なるほどやっと分かりました。野田首相が解散の条件として挙げた議員定数削減の意味が。「0増5減」で小選挙区での定数を5議席減らすことが目玉になっていますが、民主党はそれと同時に比例定数の40議席削減をセットで盛り込んでいます。小選挙区よりも比例代表制の議席数を大きく減らすということは、そのぶん小選挙区での議席の比重が増して、小さい政党がますます不利になるということ。つまり、既得勢力にとって有利であり、少数派の意見をますます軽んじるという方向性なわけです。民意はいまよりも反映されにくくなる。

これを見るとその意味が分かります。
衆議院が解散し事実上の選挙戦がスタート。政党が乱立する乱立する状況ですが、比例区でどの政党に投票するか決まっている? - Yahoo!みんなの政治

ヤフーみんな政治って、決してリベラルな意見が集まる場所ではないけれども、このアンケートでは圧倒的に生活党の支持が多い。過半数を超える52%というのは自民党15%を大きく引き離す数字です。マスメディアの世論調査とあまりにも異なりますね。もちろんネット投票のほうが真実であるというわけではなくて、マスメディアはマスメディアなりに、ネットはネットなりに歪んでいるという結果なのでしょうが。それでも。

首相は、一票の格差を是正するための定数削減だと言っていますが、こうして見るとどうもそうは思えない。一票の格差という問題については、詳しく中身を知らないので今度気が向いたら調べることにしますけれども、ふつうに考えると、全ての議席を比例代表制にしちゃえば一票の格差は無くなるのでは??とすると、比例定数を削減するということは逆に一票の格差を広げることになるのでは?よく分かりませんが。ともあれ、少数派や弱者の声が届きにくくなるっていうのは、民主主義とは逆行していると思います。

フレーズに騙されているだけなんですね。単純に、政治家は金に汚ない、給料を貰いすぎてケシカランというイメージだけで、議員定数削減=いいこと、政治家自身が身を切るみたいに思っちゃうけれども、もともと議員数と資金を確保して小選挙区で勝てる党にとっては、比例区での議員数削減なんて痛くも痒くもない、というかますます優位に立てる訳です。

こういうことを、ぼくらはほとんど知りません。マスメディアが報じないので。しんぶん赤旗は、ぼくの中では震災後にもっとも信頼を増したメディアのひとつです。議員定数削減についての記事も納得です。
「0増5減」 小選挙区固定化・比例削減ねらう - しんぶん赤旗

その一方で、共産党の、全ての選挙区に候補者を立てるというやり方っていうのもなんか違う気がするんです。震災を経たことで、政策だけを見れば共産党でおっけーなはずなのに、そういう気にもならない。なぜなんでしょうか。ぼくはそこにずっと引っかかっていたんですが、少しだけ分かった気がします。共産党が全ての選挙区に候補者を立てるというやり方って、イデオロギー>人なんですね。本人には失礼ですが、候補者自身が立ってるというよりも共産党が立ってるという印象が強い。

選挙って、政策で選ぶのか、人で選ぶのかというと、たぶん両方なんですよね。どちらかだけじゃなくて。とくに小選挙区という制度の上では「人」の占める割合が大きくなる。共産党にはこの視点が欠落しているように感じるのです。ただ、野党として居てくれないと困る存在ではあります。


堂々巡りになりますが、けっきょくは「人」で選ぶしかないようです。でもそれっていちばん難しいですよね。メディアを通した人物像が「人間的魅力」とはかぎらないわけで。選んだ後になってから、裏切られただの騙されただの言うのは簡単ですが。正直言ってぼくは人を見る目に自信がありません。限られた選挙の期間と限られた情報だけで、どれだけその「人」のことが分かるかなんて、懐疑的にならざるを得ない。だから所属する政党である程度推測するしかないのでしょうし、多くの人はそうしているのだと思います。

けど例えば山形1区に民主党から鹿野道彦が出馬したとして、他に目ぼしい人もいないので消去法(TPPには慎重であろうという希望的推測)で鹿野氏を選んだとします。その場合、ぼくは鹿野道彦を選んだことになるのか、民主党を選んだことになるのか。後者ならば、野田民主党を承認したという意味になるのか。理屈としては、鹿野道彦を選んだというにすぎないはずですが、実際問題としては民主党執行部はそうは受け取らないでしょう。執行部が信任されたと解釈して、自分たちのやりたいことをやるための根拠にする。鹿野道彦がTPPに慎重だったとしても、執行部の都合で推進するでしょう(民主党が政権を執ることは無いでしょうけど)。

さらに、野田首相は衆院選公認の条件として消費税増税やTPP賛同など党の方針に従う誓約書の提出を要求。承服しかねる鳩山氏は不出馬を表明、そして引退へ。ってもう執行部に歯止めをかける人たちすらいなくなった民主党は自民党と何が違うのでしょうか。鳩山グループの他の議員はどうするんでしょうね。
ほんとうに「人」で選ぶ意味があるのか。ああやっぱり堂々巡り。

いずれにしても憂鬱な選挙になりそうです。

選挙のジレンマ

選挙のジレンマ 2012.11.21 Wednesday [政治・メディア] comments(0)
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選挙の争点

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本日解散で来月総選挙だそうです。急ですよねいつも。考える時間を与えないというか。ほどなくして公職選挙法により政治家のネットは閉じられるわけで。クリスマスモードで浮かれているうちにあっという間に選挙ですよ。みんな何を判断材料にして投票するんですかね。国のカタチを決める選挙なんだから、アメリカ大統領選みたいにじっくりやればいいのにと思います。

ぼくは政治的な人間ではありません。数年前までは政治にも政局にもほんと無関心無頓着で、投票なんかもべつに行っても行かなくても関係ねえべやと思ってました。幸か不幸か、小沢一郎がいかに「金に汚く」て「悪い人」であるかも知りませんでした。政治に関心を持つようになったのは、子供ができてから。子育てにまつわる行政のさまざまな制度設計を肌で感じるようになってから、ああそうか、投票って自分の生活をつくるためのものなんだなとはじめて知ったのです。折しも政権交代の時期と一致しました。

何を判断材料にして投票するのか。

これってすごい大事なんですが、大手メディアはこの選挙の争点というものを絞ろうとするわけです。頼んでもいないのにプッシュ送信で。勝手に。郵政民営化というワンフレーズで圧勝した小泉政権以降、この傾向は加速しています。メディアは分かりやすい二元論を好み、とにかく分かりやすい言葉で斬るような、画面に映える政治家がもてはやされるようになりました。勝手に。かくして選挙は人気投票と化しました。

いや、もしかしたら選挙とはそもそも人気投票のようなものなのかもしれません。

想田和弘さんのツイートより
ポピュリズムと呼ばれる現象は、「政策ではなく人間的魅力で人を選ぶ傾向」という人間の基本的な性質に根ざしている。ただし、それは単に「大衆」がそうなだけではなく、政治家やジャーナリストの間でも同じ。人間は誰しも、人間的魅力に弱い。この基本的な認識から政治の動きを観る必要がある。

そういう意味では、少なくとも民主制での政治は、すべてがポピュリズムなのかもしれない。つまり、人気のある人が仕切る。これは、学校や部活動、会社などにおける、たいていの人間関係に当てはまる原理だろう。したがって正しい可能性が高い。むしろ政治は例外だと考えることの方に無理がある。

もちろん、それで良いのかどうかは、まったく別の問題。先述した通り、人間的に魅力的な政治家が、必ずしも望ましい施策をするとは限らない。また、望ましい施策を実行する政治家が、人間的に魅力的であるとは限らない。


そもそも政策のこと全てを有権者が把握するのは無理なわけで、だから代議士による間接民主制というものが存在しているわけです。だから大同小異で選ぶしかない。だいたいのおおまかな路線に共感する人を選んで、細かなところはお任せするという、そういうことですよね。だから、その大同小異の選択の過程において「人間的魅力」という要素が介入してくるのは、当然なのかもしれません。

ぼくが問題だと思うのは、その「人間的魅力」つまりは「人気」というものが、多くの人にとっては「テレビの画面を通した」きわめて限定的な側面でしかないという点。そして漫然と画面を眺めている限りは、その台本を鵜呑みにしてしまうという人間の習性。

たとえば、いま現在の政局において太陽の党や維新の会といった人たちは頻繁に画面に登場し、第三極と名付けられていますが、国民の生活が第一やみどりの風、平安党などはあまり取りあげられません。そもそもそういう選択肢があることさえ忘れている人は多いのではないかと思います。これって政治の話にかぎったことではなくて、人気や流行はそのほとんどが、文化的な素地から生まれるものではなく、マーケティング的な戦略から作り出されてプッシュされるものです。

大手メディアによる取捨選択の仕方に、意図的な何かがあるのかどうかは各自の判断でかまいませんが、テレビとはそういうものであるという認識は必要だと思います。「画面を通した」時点で、必ず何かが切り捨てられている。良い悪いではなく、編集とはそういうものであるということです。

もういちど、想田和弘さんのツイートより
あと、今日の大発見は、テレビなどのメディアを通じて伝わる「人間的魅力」と、実際に会って伝わる「人間的魅力」とでは、魅力を感じる原理がかなり根本的に異なるということ。後者での「魅力」は、主に「自分に対してその人がどう振る舞うか」で決まる。前者では「自分」がその場から欠落している。

どんなにメディアで見た限り印象の悪い人でも、実際に会った時その人が自分に対して好意的に誠実に振る舞うならば、その人に対する印象はガラリと良くなり魅力を感じる。逆にメディア上で魅力を感じた人でも、実際に会ったときに自分に敵対的なら魅力は感じない。人間とはそういうもの。

基本的にゲンキンな生き物なんですよ、人間って。そして、たぶんそれは、生存本能と関係がある。政治という世界は、たぶんこの本能が最も活発に発揮される、動物的な分野なのだろうと思う。



選挙の争点について、もういちど考えてみます。
野田首相は解散と引き換えに、議員定数の削減を自民党に要求しました。自民党は改憲を争点にすると以前から言っています。石原慎太郎氏は「小異を捨てて大同団結しないといけない」と言っています。太陽の党と減税日本は、消費税増税や原発政策で隔たりがありますが、石原氏や河村氏にとってそれは「小異」なのだそうです。

選挙の争点って誰が決めるんでしょうか。

何が小異で、何が大異なのか、その判断基準はいったい誰がするのか。それは、プライオリティの問題であり、歪みの問題です。原発政策が重要だと考える人もいれば、尖閣諸島が大事だと考える人もいる。経済を守るのか、子供の健康を守るのか。要は、自分は何のイシューに比重を置いているかという歪みの問題にすぎないと思います。

自分だけは歪んでいない、と正義を主張したり(ツイッター)、歪んでいない綺麗な自分を当たり障りなく共有したり(フェイスブック)、こいつは歪んでいる、狂ってると吊るし上げたり(検察とかテレビとか)することが多いけれども、みんなもともとどこかしら歪んでいるものです。それを自覚しないことには「自分の感覚」が発動しません。「自分の感覚」が発動しなければ、選挙の争点を決めることはできません。

「自分の感覚」が発動しなくても、選挙の争点を決めてくれるのがテレビです。テレビが決めた争点に従って、それが正しいか正しくないかをジャッジして政治に参加しているつもりになっていたのが、数年前までの自分です。選挙の直前になってから政治家を「品定め」しているだけで、あたかも政治のことを考えている気になるものです。人気投票というなら、それでもいいのかもしれないけど。

自分の生活に重ね合わせて考えないかぎりは、それは「政治」ではありません。

選挙の争点とは、自分が決めるものです。

100人いれば100通りの争点があってしかるべきです。みんなそれぞれ違った歪みを持っているのだから。みんな「正しい人」を選ぼうとするから失敗するんです、きっと。テレビの画面の中だけで「正しさ」を判断しようとするから。テレビが伝える「正しさ」だって、「歪んで」いるものですよ。

何を判断材料にして投票するのか。まずは自分がどう歪んでいるのか、マッピングするところから始めましょう。それができて初めて、いろいろなことが自分の感覚で比較検討できるようになるはずです。あと1ヶ月しかありませんが。代議士って文字通りぼくらの代理なんだから、自分の感覚に近い人を選んだほうがいいです。人間ってゲンキンな生き物ですから。ぼくもそうします。

選挙の争点

選挙の争点 2012.11.16 Friday [政治・メディア] comments(2)
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戦後レジームという欺瞞

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2012年9月26日、自民党の総裁に安倍晋三氏が選ばれました。

ここ数週間、テレビは総裁選の話題ばかりで、まるで自民党の総裁が次期首相のような扱いで報じられています。でもそれは次期選挙で自民党が与党になることを前提としている話であって、ずいぶんと有権者をバカにしてるなあと思います。テレビだけを見ていると自民、維新、民主ぐらいしか選択肢がないように思えてしまうけれど、これらはみんな新自由主義路線です。みんなの党も含めて、方向性は大して変わらない。いまぼくたちは小泉改革時代のツケを支払わされているわけですが、同じ轍を踏もうとしている。

その対抗軸が無いわけではありません。新自由主義に警鐘を鳴らし、対案を提示する政治家はちゃんといる。共産党や社民党もそうだし、民主党から離党した議員の多くがそうです。マスメディアが、第三の道として国民の生活が第一(生活党)を取りあげないのは、国民から敢えて選択肢を奪おうとしていると邪推されてもおかしくないです。維新が第三極だなんて嘘っぱちもいいところ。

マスコミはなんでも既定路線で語るのが好きです。自分らはなんでも知ってる風にちょっと高い所から語りたがります。自民党の劣化(右翼集団への変質)を一般の人はなんとなくでも嗅ぎ取っていると思うんだけど、マスコミだけはまるで何も無かったかのように党内の投票レース分析などしてる。ほんとうは答えが分かっていることなんて何もないんですよ。自民党が与党に返り咲くかどうかだって、選挙をしてみなければ分からない。でもマスコミは既定路線で語る。

問題は、そういうマスコミの既定路線「気分」に視聴者が簡単に流されちゃうことです。映像の「気分」喚起力は侮れません。ぼーっと眺めているとなんかそういう「気分」になってくる。どうせ次は自民党だから選挙になんか行っても無駄、と無党派層が思ってくれるのが既成勢力にとってはいちばんありがたいわけです。ちなみにこの場合の既成勢力っていうのは、自民党っていうか、天下り先を確保したい官僚機構のことです(彼らにとって自民党は都合がいいというだけの話)。

ぼくらは何のために選挙をするかというと、自分(と家族)の生活を守るためです。つまらない美意識とか誇りとか、あるいはテレビ画面から流れてくる「気分」とかはどうでもよろしい(そういうのが選挙の争点になるのはおかしい)。生活を守るために、社会のしくみというものを俯瞰してロジカルに考えることも必要です。

安倍さんに対してはさっそく批判的な意見がたくさん出ているようです。ぼくも否定的ですし、次期首相だなんて認めたくありません。であるからこそ、なんとなくダメという理由じゃなくて論理的な批判でなければ意味が無いと思います。安倍さんはダメ、またお腹こわす。じゃなくて、安倍さん(に象徴される自民党)のどういうところがダメなのかを、少なくとも選挙までには整理しておきたいですね。そうすれば、じゃあ維新はどうなのか、生活党はどうなのかってのも見えてくるのでは。



で、安倍さんは政治家として何を言ってるのか。
少し古いですが、安倍さんの公式サイトに掲載されている基本政策を見てみます。

■外交

「外交」(2009年06月12日)安倍晋三 公式サイトより
日本外交の基軸は日米関係であり、「世界とアジアのための日米同盟」が外交の要であることは言うまでもありません。

安倍さんは今回の総裁選うでも「日米同盟の強化」を訴えていましたので、日米同盟を基軸にしていることは間違いないでしょう。と同時に、日米同盟を基軸にした自民党議員の多くは「対米従属」路線の政策を行ってきたことは歴史的な事実として記憶にとどめておきましょう。

近年の例で言うと、アメリカ側の要望である年次改革要望書の通りに労働者派遣法改正、郵政民営化といった規制緩和を行った小泉改革が記憶に新しいです。「自分らしい多様な働き方」を選択できるはずだった労働者派遣法の改正が、結果として派遣切りによる格差拡大を招いたことは多くの人が実感しているではないでしょうか。

また、政権交代後の鳩山内閣は、長年続いてきた「対米従属」路線からの脱却を目指していました。年次改革要望書を扱う日米規制改革委員会の廃止、東アジア共同体構想、「最低でも県外」宣言といった事実は、ことごとく「対米自立」路線を示しています。その結果アメリカの怒りを買い失脚させられた、というのは推測ですが、その後の菅内閣が年次改革要望書と同様の日米経済調和対話を開始させ、野田内閣がTPPへの参加に邁進しているという事実は、「対米自立」路線で潰された鳩山を反面教師にして、民主党執行部が「対米従属」路線へと舵を切ったことの表れであり、であるから小沢一郎をはじめとする生活党の議員は離党したのだ、と考えると筋が通ります。

アメリカからの圧力が日本の政治を大きく動かしているという事実については、孫崎享さんの『戦後史の正体』がとても興味深いです。ご一読をおすすめします。

また、タカ派のイメージが先行する安倍さんですが、首相時代には日中関係を改善させたという見方もあるようです。

「外交」(2009年06月12日)安倍晋三 公式サイトより
一方、私は総理大臣に就任して初の訪問国として中国を選びました。「政冷」と言われていた日中関係の打開が目的でしたが、両国が経済、環境、エネルギー問題などでお互いの協力を必要としていることは明らかです。日中首脳会談で「戦略的互恵関係」を追及することで合意しました。


宋文洲さんのツイートより
それが日中のズレだ。中国が嫌っているのは日本政治の一貫性のなさだ。安倍さんは前回日中関係を建て直した功労者。@sakurabanaoya どちらも対中強硬派ではないですか?“@sohbunshu: 安倍さんに1位になってほしかったが、石破さんも悪くない。


尖閣諸島をめぐる対応に関しては強硬路線を堅持している安倍さんですが、小泉政権下で冷え込んだ日中関係の仕切りなおしとして2006年に安倍首相・胡錦濤主席の首脳会談で「戦略的互恵関係」が打ち出されたという事実も踏まえておきたいです。(それがアメリカからの指示のもとであったのかどうかは分かりません。)


■教育

「教育再生」(2009年06月12日)安倍晋三 公式サイトより
教育再生を内閣の最重要課題と位置づけ、自由民主党はもちろん、多くの良識ある国民にとって60年来の悲願であった教育基本法改正を成し遂げました。同時に教育職員免許法、学校教育法、地方教育行政法の教育3法の改正も実現しました。

教育再生の目標はすべての子ども達に高い学力と規範意識を身に付ける機会を保障することであり、新しい教育基本法には「公共の精神」「道徳心」「国や郷土を愛する心」「職業教育・環境教育」などが盛り込まれました。

(中略)

まず、生徒児童の基礎学力向上を目的とし、小中学校とも主要科目の授業時間が約1割増加しました。地域間の教育格差解消も重要な柱であり、全国学力・学習状況調査の結果をもとに、各教育委員会が改善計画を策定、地域間の格差解消のために交流を実施し、全国のレベルアップを図っていくことになります。

また、真の国際人を育成するためにも国旗「日の丸」、国歌「君が代」の教育指導に力を入れる必要があります。教育現場では単に「国歌は君が代です」とだけ教えて合唱もせずに授業を終わらせる無責任な教師がいるのも事実です。そこで今回の学習指導要領では「君が代を歌えるようにする」と書き改めました。サッカーのワールドカップで勝ったチームのサポーターは声高らかに国歌を唄います。日本も同じように誇らしく「君が代」を合唱しようではありませんか。

さらに規範意識や他人を思いやる心を育むために道徳教育を充実させます。生徒児童が感動を覚えるような教材を開発、活用することになります。生命の尊厳、社会への主体的な参画などの重要性についても教えることになっています。

このほか、平成24年度からは中学校で男女とも武道が必修となります。体育の授業で剣道、柔道を取り入れることは、武道には日本の伝統文化が息づいているからです。


ぼくが自民党にいちばん違和感を感じるのは、この教育観です。
教育が国の未来をつくる基本だという前提には異論はありません。その通りだと思います。しかし往々にして混同されるのですが、しつけと教育は異なるものだと思います。自民党が主張している「教育」とは、しつけ的な要素が色濃く感じられます。これは維新の会を率いる橋下徹氏の教育観にも共通することなのですが、(なんでも知っている大人が)単一の価値観を教授するという構図なのです。

現行の教育基本法は、安倍政権時の2006年12月22日に公布・施行されました。安倍さんの説明によれば、「公共の精神」「道徳心」「国や郷土を愛する心」「職業教育・環境教育」などが盛り込まれたそうです。その具体的な策として、授業時間を約1割増加、「日の丸」「君が代」の教育指導、武道必修化などが挙げられます。安倍さんはこれらの教育が「美しい人づくり」になると位置づけているようです。

「公共の精神」「道徳心」「国や郷土を愛する心」。どれも耳障りがよく、美しい言葉です。それらの言葉だけを聞いて反対する人はいないでしょう。じゃあなぜぼくは違和感を覚えるのか。それらの言葉を使う人たちが、実際にやっていることはぜんぜん美しくない、という事象をいくつも目にしてきたからです。

「公共の精神」や「道徳心」という言葉は「自己責任」という言葉と結びつきます。それだけならまだいいのですが、「自己責任」論を強調する人の多くは、「自己責任」を自分のこととして内省するためではなく、他人を評価し断罪するために使っているのです。「公共の精神」や「道徳心」が単一の価値観となり、社会共通の価値軸となったとき、人は人から叩かれないように、出る杭になることを避け、一見おとなしく良い子を装いながら裏ではチクり合うような息苦しい社会になることはおおいに予想できることです。「公共の精神」や「道徳心」は、その価値観から外れる人に対して、言葉の(あるいは無言の)暴力となり追いつめることになるでしょう。

そのように単一の価値観が尊重される社会は、経営者にとっては管理のしやすい社会であると言えます。その反面、独創的なイノベーションは生まれにくい土壌であるとも言えるでしょう。橋本市長が行政を経営になぞらえる結果として、単一の価値観を尊重するという方向へ向かうのは必然ともいえます。

ここで大きく違和感を覚えるのが、単一の価値観として「公共の精神」や「道徳心」が挙げられている点です。たしかにそれらは大事なことだと思いますが、そういったものが、黒板や教科書に書いてあることのように画一的に教えられると考えることに対しては大きな危惧を抱かざるを得ません。

nakanemisaさんのツイートより
改悪された教育基本法に加えられた「公共の精神を尊び」という文言。この「公共」の捉え方がくせもの。自民党が言いたい「公共」とは、体制に柔順で、世間体を重んじ、個人の自由な発言を制限するようなイメージ。本来の「公共」とはまったく意味が違う。

本来の「公共」は、自分たちに主権があることを自覚し、自分たちの主張をもって話し合って政策を決めることができるという、民主主義の根幹になる姿勢のこと。思想や発言を制限しようとするのは、そのまったく逆の発想。民主主義の本質がわかってない。


これは、自民党が今年発表した改憲案にもまったく共通する考え方です。(次の項目で書きますが、安倍さんは改憲を基本政策のひとつに挙げています。)

「美しい国」とは、一律の価値観のもとで一糸乱れぬ連帯を人々が持っている国ではなく、多様な人々が多様な価値観を持って多様な文化が混ざり合うことを許容することができる国のことだと、ぼくは思います。

ましてや「国や郷土を愛する心」というものは、本人の経験から実感として得られる以外に、教え込むことなんてできない類いのものだと思います。「国を愛する」と「ふるさとを愛する」は似て非なるものです。ぼくらが実感できるのは「ふるさと」でしょう。「国」という言葉は漠然としています。ふるさとの拡大版と捉えることもできるかもしれないし、政府を指すかもしれない。文脈によっていかようにでも顔を変えることのできる言葉です。「国を愛する」という言葉は、それがどういう文脈で使われているかを見る必要があります。


オランダのオルタナティブ教育に代表されると思いますが、北欧あたりの子育てや教育現場では、「子供の自主性」が最大限に尊重されるそうです。モンテッソーリやシュタイナー教育の考え方の基礎もそこにあります。子供のやりたいようにやらせることで、子供自身が主体的な立場から学んでいく。大人は余計な口出しをせずに、環境づくりをしてあげ、時にはそっと背中を押してあげる。自民党の教育観とは、「教育」に対する考え方がまるで違うのです。

じこぼうさんのツイートより
子どもの育て方が良かったか悪かったかなんて誰にもわからないし、親が考えるチンケな意図などは常に裏切り続けるのが、子どもという存在であると思う。「親学」などという理解不能な代物に群がる人たちは、「こう育てたらこうなる」という確かさが欲しいのかも知れない。

「こう育てたら必ずこう育つ」などという確かさなど、子育てにはない。触法少年の親は市中引き回しにしろなどと吠えていた人の子どもが人殺しになることもある。そして、あえて「親になる覚悟」というものがあるとすれば、子どもにどれだけ意図を裏切られ続けても彼を許容し続ける覚悟なのだと思う。


「しつけ」と言いながら実は自分(親)がラクをしたいだけだっていうことはよくあります。ぼくも多々あります。しょっちゅう鬼を召還してるし。それから、「しつけ」が子どものためであるという顔をしながら、実際は親の世間体を守るためになっているのではないかと思うことが多々あります。子どもと向き合って子育てしている人ならば、本当の意味で「しつけ」をしたいと思っている親ならば、おそらくそう感じたことが必ずあるはずです。子どもと向き合うということは、自分と向き合うということです。それが教育問題の核心だと思います。

教育問題を語ろうとするばらば、まず自分が「教育」の出発点に立っているのかどうか、足下を見つめることから始めないといけません。自分の足下をふり返らずに、子どもを教育しようとするのは、子どものすることです。子どもを教育する立場に立とうとするならば、ぼくらは大人にならないといけません。

沼崎一郎さんのツイートより
絶対に操ろうとしないこと、それが相手を人間としてリスペクトすること。子供も人間としてリスペクトし、操ろうという誘惑に負けず、子供を「自由」にすること、それが「教育」の出発点。


子どもが自分の好奇心を自由に広げることができるように、後ろから環境整備をしてやることが親の役割なんじゃないかと、息子が2歳になったいまはそう思います。でもこれが存外に難しいんですね。やっぱり今まで自分が生きてきた価値観とか常識とか、あるいは時間とか云うものさしが働いてしまうから。沼崎さんの言うように、それは「誘惑」だと思うんです。子どもの目線で、いま何が大事なのか、をいつも常に確認し直さないといけない。それくらい、大人はしがらみの中に生きているものなのだと実感します。

子どもは生まれた時点ですでに親の尺度を超えている。だから子育ては最高におもしろい。最高にクリエイティブ。子どもとあそぶことで、子どもにふり回されることで、凝り固まった大人の脳みそがほぐされます。だから、子どもは子どものままで存在することが、それ自体が唯一無二で、貴重なのだと思います。


■憲法

「憲法改正」(2009年06月12日)安倍晋三 公式サイトより
戦後レジームからの脱却を成し遂げるためには憲法改正が不可欠です。

(中略)

安倍内閣は憲法改正のための手続き法である国民投票法を成立させました。保守合同によって昭和30年に自由民主党が結成されましたが、その原点は自主憲法の制定でした。これまで憲法改正問題が放置されてきたのは残念ですが、国民投票法の成立によって大きな一歩を踏み出しました。今後も憲法改正に向けて全力で取り組みます。


現在の憲法はアメリカから押し付けられたものである。時代環境の変化にそぐわない内容になってきている。もっともな話です。憲法を改正するということ自体には正当性があると思います。実際、諸外国の多くは何度も憲法改正を繰り返しているわけだし。ただ日本の場合は憲法改正イコール9条改正みたいに語られることが多いので、憲法改正という言葉にアレルギーを感じる人も多いのだと思います。

当たり前の話ですが、変えていい部分と変えてはいけない部分があります。

今年、自民党が改憲案を発表しました。
日本国憲法改正草案 - 平成24年4月27日 自由民主党

条文を詳しく読み込むほどの知識がないので、分かりやすく解説されている方のツイートまとめをリンクしておきます。

「国民の基本的人権は国家が自由に剥奪できます」という自民党改憲案のトンデモ内容まとめ - Togetter
【個人の尊重の否定】公民の先生が呆れかえる自民党改憲案の問題点の凄まじさ【立憲主義の否定】 - Togetter
(追加あり)立憲主義を知らない自民党「憲法起草」委、事務局長、「礒崎陽輔」議員に関する法律関係者のコメント - Togetter

指摘されているのは、9条云々という以前の、憲法の根幹に関わる部分です。主権は国民にあるという立憲主義そのものを覆すようなことを自民党は言っているわけです。憲法には国が守る規定ばかり書いてあって、国民の義務について書かれていない、と国会で述べた議員もいたそうですが、そもそも憲法が何であるかを分かっていないようです。憲法と法律は違います。法律は国民が守るものですが、憲法は国家が守ることを規定したものです。国家権力などと言うと、黒くて悪い人たちというイメージを連想するかもしれませんが、そうではなくて、そもそも国家とは権力を持っているものです、良い悪いではなく構造上の問題として。だから権力が暴走しないように抑制するものが憲法であるはず。主権はあくまでも国民の側にあります。

上記Togetterより
立憲主義とは為政者による権利侵害を防ぐために国民が国家権力に縛りをかけるという考え方です。


ところが自民党は、「美しい国」を作るために、国民が守るべき規定ばかりを憲法に盛り込もうとしています。まるで主権が国民の側から統治する側へと移行したかのような考え方です。これは彼らの教育に対する考え方とも相通じます。非常に傲慢だと思います。

上記Togetterより
自民党改憲案の第102条を見て仰天。「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。」 実質的にはこれは9条の変更より大きい。ほとんど憲法の精神を180度転換するものだ。ていうか自民党の国会議員はこの辺りの意味合いをまるで分かっていないのではないか・・・?


上記Togetterより
「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」にすり替わっている点に注目してもらいたい。「公共の福祉」とは人権相互の矛盾衝突を調整するために認められる衡平の原理のこと。この公共の福祉の概念があるからこそ、多様な社会が構成されているといえよう。ところがこれが「公益及び公の秩序」となると話が全く変わってくる。「公益及び公の秩序」だと、端的に言えば国家や政権政党の設定した利益や秩序を意味する事になる。つまり国家や政権政党に逆らう者、都合の悪い者は一切の権利を剥奪しても合憲であるという事になるのだ。


北朝鮮みたいな国になりそうですね。
憲法というものの意味を分かっていない人は意外に多いと思います。法律の親玉くらいにしか捉えられていないのではないかと。ぼくも数年前に或る書籍で知るまではそうでした。まず基本前提を押さえていなければ、その後に続く議論はあらぬ方向へ行きかねません。この辺りは池上彰さんあたりにしっかり解説していただき、きとんと衆知されてほしいです。

ところで、安倍さんにとっての本丸が9条の改正にあり、徴兵制にあることはよく知られています。

布施剛さんのツイートより
安倍晋三が津波に流された南三陸の職員を「国民の誰かが命を懸けなければ日本を守ることができない」と褒めていたが、命でなく論理と権謀を駆使して国民の生命を守るのが政治家だろう。このように死を美化する政治家は非常に危険。美化する前に政治家として職員の命を守れなかった事を恥じてほしい。


安倍さんの「美意識」がよく表れているエピソードだと思います。お国のために命をかけるのが「美しい人」だと言いたいのでしょう。南三陸の職員には頭がさがる思いです。しかし、津波のその刹那、ほんとうに「日本」を守るだなんてことを思っていたでしょうか。統治する側がその種の言葉を使うとき、「お国」とは権力を指すことになります。そんなもののために死ねるかっての。ぼくらが命をかけることのできるのは、顔の見える身近なたいせつな人だけです。

神直子さんという方が、元日本兵の方々に過去の体験を語ってもらったインタビュー映像があります。

07-07. そういう話には乗らないでほしい―元日本兵の証言02 - ブログメンタリー

同インタビューより或る日本兵の証言
戦争が終わったら「本当に馬鹿らしい事した」と。
そう言っちゃ死んだ人に悪いから アジアの国が独立できて、共栄していると、
戦死した人たちの手柄でもあると言っているんだけれども、
現地で実際に、死んでいった人間はそんな事は思わない。
死ぬ時は「天皇陛下万歳」と言うっていうけど、ほとんど珍しい事で、
子どもがいれば子どもの名。新婚早々なら女房の名。独身なら「お母さん」と呼んで死んでいった訳です。


ぼくはこの言葉に戦争の真実があるように思います。ぼくはわが子を戦場に送りたくないので徴兵制には反対です。自分勝手な理由ですが何か問題あるでしょうか。子供を戦地に送ろうとする社会と、大人が子供を守ろうとする社会のどちらが国家として存続していけるかは明らかなように思います。



安倍さんは緊迫する日中関係を受けて、「日米同盟の強化」を掲げています。と同時に「戦後レジームからの脱却」を宣言して憲法改正を目指しています。どちらもその部分だけを読めば、一応はなるほどと思うようなことが書いてあります。「強い日本」として毅然とした態度で自立するんだ、と解釈することもできるでしょう。けれども、ぼくは矛盾を感じる。

だって、戦後レジームの礎って日米同盟じゃないですか。

アメリカの意向を忖度する政治が、戦後レジームを形作り存続させてきたのでは。戦後レジーム自体が欺瞞だと思いますが、戦後レジームという言葉の使われ方も本質から外れたところで闊歩する欺瞞であるように思えます。

だいたい、戦後レジームを象徴するものが原発をめぐる(政官報を含めた)産業構造であることは、いまや多くの人の共通認識となっています。であるにもかかわらず、ましてや悲惨な事故が終息していないにもかかわらず、ためらいもなく原発推進を掲げる自民党の皆さん。ずいぶんと庶民の感覚とは乖離したところで政治をしているようです。

すなわち、安倍さんの言う「戦後レジーム」は、庶民が一般的に想像する「戦後レジーム」とはかけ離れたものを指しているのだと思われます。政治家の使う言葉は、言葉そのもののイメージだけじゃなくて、それがどういう文脈で使われているか、背景や意図をしっかり読まないといけないです。


以上、ぼくが安倍総裁と自民党を支持しない理由について書きました。

安倍さんの公式サイト上には基本政策として、上で挙げた「外交/教育/改憲」の3つしか掲載されていません。また安倍さんという人物についての言説もほとんどそういう切り口ばかりです。彼が社会保障の問題や国内経済についてどのように考えているのかはよく分かりません。

安倍さんは会見で「強い日本」を目指すと。安倍さんの言う「強い日本」っていうのはどういう意味なんでしょうか。他者に対して毅然とした態度を取ることでしょうか。「強い」ってどういうことでしょう。

言葉には事実を表すものと気分を表すものとがあると思います。気分な言葉は、曖昧で、受け取る側によっていかようにも解釈される。安倍さんの言う「強い日本」っていうのはいかにも気分な言葉に聞こえます。気分が一致する人にはウケがいいのでしょう。でもそれってあくまで気分にすぎないと思う。いまの自民党って、「強い自分」に満足したいために吠えているだけのようにぼくには見えます。

ま、それはあくまで印象論です。安倍さんが首相在任時に教育基本法を改正したとか、憲法改正のための国民投票法を制定したとか、今回の総裁就任会見で平河クラブ以外からの質問を禁止したとか、そういう「事実」を粛々と記憶していくしかないです。事実の積み重ねから方向性が浮かび上がってくるはずです。



戦後レジームという欺瞞

戦後レジームという欺瞞 2012.09.30 Sunday [政治・メディア] comments(2)
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領土問題のプライオリティ

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韓国大統領の竹島上陸と尖閣への香港の活動家の上陸で、メディアが騒然としています。韓国や中国はけしからん!許すまじ!という気分になりますよね、テレビを見ていると。そういうふうに編集しているんだから、そうなるのは当たり前ですが。ぼくなんかは根性の曲がったひねくれ者なので、そうやって煽られると逆に覚めちゃうんです。なんでそんなに横並びで騒いでるんだろうって。ツイッターをやっていると(自分の選り好みしたTLなので当たり前ですが)割と覚めた意見が多くて、ふふーんとなっちゃうんですが、世の多勢はやっぱり「けしからん!」なわけですよね、おそらく。

だから政治家諸氏が「世の多勢」におもねるために愛国を装うのは、共感はまったくしませんが、構造としてはまあ分かります。でも、そうやっておもねられる愛国者たちが、国政よりも領土問題が大事だと考える感覚は、ぼくにはちょっとよく理解できなくて。領土問題って、なぜか大好物にしている人たちがいて、その手の話をするとウヨウヨと湧いてくるのはアレ何なんでしょう。何の面識もない人がWEB上で突如ケンカ腰で噛み付いてくるというのはだいたい領土問題で。そんなに領土が大切ならば、掲示板や他人のブログじゃなくて、竹島や尖閣を見張ってればいいのにと思います。

ホリエモンが以前なにかの番組で、そんな小さな無人島がなんかあげちゃえばいいじゃん、というようなことを言っていて、他の出演者からは話にならないという具合に馬鹿にされてたんだけど、そもそも、人が住んでいないような小さな島がなぜ大事なのかということを、感情論ではなく合理的に説明してくれる人ってなかなかいないですよね。ぼくもよく分かっていません。でもそういうことを言うことは許されないという空気があり、領土問題は一種の踏み絵のような性格を帯びています。

領土問題に関わる「論争」って、「お前はモノを知らない」と言ったほうが勝ちという知識の競い合いになることが多く、知らない奴は引っ込んでろ的な空気があります。ぼく自身は、そういう人に絡まれるのを好まないので、領土問題について見識を広げるのは気が進まない、というかそもそも竹島と尖閣諸島の違いもよく分かっていないぐらいに無知だったので(テレビは感情を煽ることはしても、領土を巡る歴史や経緯を説明してはくれませんし)、今回のごたごたを機会に様々な人の意見を知ることができて、領土問題についてだいぶ整理されました(ようやく取っ掛かりができたという程度ですが)。領土問題のプライオリティについてはまだ漠然としていますが、領土問題について考えるときに、これまで歴史や経緯を踏まえておくというのは考える上での取っ掛かりになります。その備忘録として一端をここに記しておきます。


元外交官、元防衛大学校教授であり、日本のインテリジェンス(諜報)部門の第一人者とも言われる孫崎享氏。外務省の国際情報局で分析官、分析課長、国際情報局長、駐ウズベキスタン大使、駐イラン大使を歴任した、外交のプロフェッショナルです。詳しい人物像は、まんが「実録・孫崎享」 - まんがイラスト ぼうごなつこのページをご覧下さい。
先日孫崎氏が出版した『戦後史の正体』は、「アメリカからの圧力」を軸に戦後70年の対米外交を読み解いた、かつてない書として大きな話題を呼んでいます。(ぼくはいま積ん読状態です)

李明博・韓国大統領の竹島上陸について、孫崎氏の記事が日経ビジネスオンラインに掲載されています。李明博大統領の対日強行策は、あくまでも国内へのアピールであり、日韓関係を若干犠牲にしても支持率回復を優先させたということである、とした上で、竹島をめぐる歴史について下記のように解説しています。

竹島問題の国際司法裁への提訴は日本の平和姿勢を示す - 日経ビジネスオンラインより
(1)日本は1945年8月14日ポツダム宣言を受諾。本州、北海道、九州、四国は日本の主権、それ以外の地は「連合国側が決定する」ことに従うとした。

(2)連合軍最高司令部訓令(1946年1月)は、日本の範囲について「竹島、千島列島、歯舞群島、色丹島等を除く」としている。

(3)サンフランシスコ講和条約では「第二章 領域、第二条(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」としている。放棄の対象とする島として、竹島を明記してはいない。

この点に関して、米ラスク国務長官が韓国大使宛に1951年8月10日に発した書簡がある。「我々は日本との平和条約に関する韓国側要請を受理した。独島を権利放棄の中に含めるようとの要請に関しては、応ずることは出来ない。我々への情報によれば独島は朝鮮の一部と扱われたことは一度もなく、1905年以降島根県隠岐島司の所管にある」。

 この時点では、米国は竹島を日本領と見なしている。

(4)米国に地名委員会がある。同委員会は1890年の大統領令及び1947年の法律により設置されたもので、外国を含め、地名に関する政策を扱う。2008年、ブッシュ大統領は訪韓する直前に、韓国大使と会談した。ブッシュ大統領はこの後、ライス国務長官に竹島について検討するよう指示し、同島を「韓国領」に改めた。米国地名委員会は今日でも竹島を、韓国側の名称である「独島」と記載している。

 この動きに対して同年7月31日付朝日新聞は「町村官房長官は7月31日の記者会見で、“米政府の一機関のやることに、あれこれ過度に反応することはない”と述べ、直ちに米政府の記述の変更を求めたりせず、事態を静観する考えを示した」と報じている。


2008年にアメリカが竹島の領有権についての認識を改めたという点は、とんでもなく重要だと思うのですが、それに対する町村官房長官の対応はまさに対米従属そのもの。とにかくアメリカを怒らせてはいけない、という見識しか感じられません。

さらに、このことについて知っている人は日本にあまりいないそうです。なぜなら、こんなに重要なことをメディアは大きく取りあげなかったから。誰それが近づいた、上陸した、という話題には飛びついて延々と映像を流し続けるメディアが、同盟国であるアメリカが領有権についてどのように認識しているかを取りあげないというのは、いささか現実感を欠いているのでは。そのくせ、有事の際には、日米同盟を根拠に米軍が出動してくれるだの何だのいう議論を延々としている。平和ボケというか、親米ボケです。


下記の動画でも同様のことを孫崎さんが解説しています。
‪孫崎享「今だからみえる原発と日米の関係」 - YouTube

領土問題に対するアメリカの態度はあくまでも中立。安保第5条には、管轄値が攻撃されたら応戦するとあります。管轄が他国に移った場合は米軍は出てこない。そういう条約。これをいちばん最初に指摘したのは駐日大使。1996年くらい。すぐ首になった。

『戦後史の正体』で孫崎氏は、「米国との関係は、その時の状況によって変化する。米国の対日政策は米国の環境変化によって大きく変わる。」と指摘しています。日米同盟を根拠に米軍が出動してくれる、アメリカが日本を守ってくれると考えるのは親米ボケでしょう。逆に、すべてはアメリカの陰謀だと考えるのも極端です。アメリカは、ビジネスライクな国です。日本が自国にとって利益をもたらしてくれる存在であるならば喜んでお付き合いするし、そうでないならば冷たくなるでしょう。そして、それはその時の状況によって変化する。

冷戦時代のように、敵・味方に分けさえすれば問題が顕在化するような時代はとうに終わりました。どこの国だって、自国の利益が最適化するように他国とのお付き合いを考えるのは当然なことです。外交とはそういうものであるはずです。日本はいまだに、アメリカからどう思われるか、世界からどう思われるかばかりを気にしている。自分が思うほど他人は自分のことを気にしていませんよ、おそらく。


平川克美さんのツイートより
領土問題がかまびすしい。二国がお互いに自国の領土を主張し、黒白明確にすることを求めた場合、解決策は戦争以外にはなく、戦争は新たな領土問題を生み出すことになるだろう。(お互いに相手の立場に立てば、同じ主張をすることになる)グレーゾーンというものがあるとまず認めるところから始めないと。

グレーゾーンの存在を認めれば、様々な方策がそこから出てくる。グレーゾーンは政治的な対立軸ではなくて、ブリッジだという発想ができないか。


グレーゾーンという存在を認めることで、お互いの利益が最適化するならば、それはおおいにアリだと思います。逆に、何の問題があるのか。実際、尖閣諸島は「棚上げ」という合意のもとで、日中国交は正常化し、お互いの経済を活性化させてきたという経緯があるわけです。おまけに尖閣諸島を実効支配しているのは日本ということになっています。

2010年の記事ですが、尖閣諸島問題の棚上げ経緯について。
尖閣諸島問題は"棚上げ"が正しい! ── 前原外相の強硬一本槍が禍の元 - THE JOURNALより
72年9月に田中角栄が訪中して行われた周恩来との会談で、その数年前から領有権と周辺の海底石油資源の開発権をめぐって日中台で応酬が続いていた尖閣諸島について、田中が「どう思うか」と持ち出したのに対して、周は「今回は話したくない。石油が出るからこれが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない」と、事実上の"棚上げ"方針が示され、それを前提としてその2日後に日中共同声明に合意、日中国交正常化が実現した。続いて、78年10月に日中友好条約の批准書交換のため小平副首相が来日した際にも、日本記者クラブでの会見の席上、次のような有名な台詞を述べて"棚上げ"を再確認した。

「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない。というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」

 この意味について、孫崎享=元外務省国際情報局長はビデオ・ニュースの番組で要旨次のように解説していた。

「72年の日中国交回復以来、日中両国政府は両者の言い分が食い違う尖閣諸島の領有権問題は『棚上げ』にすることを申し合わせてきた。これは尖閣を実効支配する日本にとって、支配が継続することを意味する有利な取り決めであり、事実上、中国が日本の実効支配を認める取り決めだった。その『棚上げ』合意に基づき、日本は尖閣を自国の領土と主張しつつも、周辺海域で国内法を適用することはしなかったし、同じく中国側も表向きは領有権を主張しつつも、政府として目立った行動は取ってこなかった。そのような微妙なバランスの上に実質的には日本が実効支配したまま、両国ともにこれを大きな外交問題としない範囲で慎重に扱ってきたのが、これまでの尖閣問題だった」

 その通りで、これは棚上げと言っても足して二で割っただけの単なる妥協策ではない。

 まず第1に、タテマエの次元では、日中共に領有権を主張していて、当たり前の話だが、双方が領有権を主張しているということは尖閣諸島をめぐって「領土問題は存在する」。それを「存在しない」と言うのは、それぞれの主観的な立場の表明であって、双方がそう言っている状態を客観的に見れば領土問題をめぐる見解の相違が明白に存在するということである(余計なことだが、蓮舫は正しい)。

 第2に、その主張の相違をそのまま野放しにしておけば、ドンパチ戦争するしかなくなってしまうが、尖閣如き問題で争えば日中共にその何百万倍かの利益が失われる。だからホンネの次元では、こんな面倒な問題はなかったかのように、お互いに言動を抑制して表だった外交問題としては封印してしまいたい。

 ところが第3に、現実の政治と外交が作動するのは、このタテマエとホンネの中間の領域であって、そこでは双方は......

(1)中国は、日本が尖閣諸島を実効支配している----ということは(実体的には)海上保安庁の巡視船が同諸島を常時警戒している----という現実を暗に認めつつ、

(2)しかし、中国側では、軍、江沢民系反日派、民族主義的過激派などが尖閣をめぐる譲歩に反対して挑発的な言動を撒き散らそうとするので、これを出来るだけ抑制する。

(3)日本も、露骨に領有権を主張するような言動を避け、中国の人士・船舶の侵入に際しても、いきなり日本の国内法を適用して攻撃、逮捕など事を荒立てるのでなく、警告、退去勧告、強制退去などソフトに対応して収める。

 ----といった、一種の闇のルールが成り立っていて、孫崎が言うように、日本の実効支配を事実上認めるという意味では、やや日本に有利に傾いた暗黙合意だった。


さらに、竹島と尖閣諸島、それから北方領土をめぐる問題について、岩上安身さんの一連のツイートがとても分かりやすくまとまっていました。これを読むだけでも、領土問題についての考え方というものがだいぶ整理されると思います。

120819 岩上安身による日本の領土問題に関する連続ツイートと視聴者ツイートまとめ - Togetterより
日本がまだ占領下にあった50年代、竹島を実効支配した李承晩に対して、それでも日韓国交回復と経済交流を優先したのは当時の自民党と政府。それが間違いだったとは言い切れない。だが、今になって突然、領土問題が生じたかのような騒ぎを、当の自民党議員が繰り広げるのは滑稽。歴史を知らないのか。

50年代には日本の漁船が韓国側に拿捕されるなどの流血沙汰もあった。ハーグ司法裁判所への提訴を日本政府はその当時から検討。しかし、韓国は同意しなかった。「領土問題は存在しない」という態度をとったからだ。世界中に国境紛争はあるが、実効支配している側の態度は本来、そういうものだ。

日本は韓国との間で竹島問題を、ロシアとの間に北方領土問題を、中国との間に尖閣諸島問題を抱えているとされる。だが、日本政府は竹島と北方領土に関しては、領土問題があるとしているが、尖閣諸島に関しては、領土問題があるとは公式には認めていない。

なぜか。竹島、北方領土は、韓国、ロシアに、それぞれ、実効支配されているが、尖閣諸島は日本側が実効支配しているからだ。実効支配している側は、領土問題が存在することを認めず、その土俵に上がらないのが原則。戦争や紛争の空気を醸成するだけでもマイナス。係争中と認めることになる。

89年から94年にかけてたびたび、旧ソ連、ロシアに取材に出かけたが、北方領土問題にになるたび、ロシアの政治家や外務省の役人らは、「北方領土は返すのは難しい。だけど、日露は仲良くしよう、交流を深めよう」と回答した。これが領土を実効支配している側の「教科書的」な答え方である。

その上で、今回の韓国サッカー選手の竹島問題アピールを考えてみると、五輪の場に政治を持ち込まないという五輪憲章に抵触する、という問題はひとまずおくとして、どうして実効支配している側が国際社会にわざわざ領土問題の存在をアピールするのか。これは明らかに敵失である。

韓国側が領土問題の存在をしきりにアピールしてくれたのだから、日本政府はハーグの司法裁判所への提訴を行えばいい。韓国側はこれまでも同意してこなかったが、竹島へ大統領が訪問するなどの政治的アピールを韓国側がしたのだから、遠慮をする必要はない。

他方、尖閣諸島は日本側が実効支配している。竹島問題とは全く違う。表向き、日中双方が領有権を主張してきたが、日本の実行支配を事実上認める合意が日中間で形成されてきた。日本は「このまま」を継続するのが一番の得策である。漁船や活動家の船などが接近、上陸を試みても、大事にしない。

何しろ、日本にとって、中国との間では、「領土問題は存在しない」のだ。挑発に乗らないのが何より肝要である。ロシアの体操選手が、「北方領土は我が領土」というプラカードを掲げることなど考えられない。実効支配している側の態度とはそういうものだ。

政治問題や外交問題にはしない、争いを大げさにして拡大方向へもっていかない。しかし、守りは静かに固めるべきである。尖閣問題を騒ぎ立てながら、米軍の支援に期待するのは愚の骨頂である。05年に結ばれた日米同盟には「島嶼部の防衛は日本側がすること」と明記されている。

尖閣諸島での日中衝突を前提に、この日米同盟条約について、私はかつて岡田元外相、前原前外相に、外相在任当時、公式の外務大臣記者会見で問いただした。両外相とも、有事の際は米軍ではなく、自衛隊が出動する、というものだった。日米安保はお題目だけ、実戦には米軍は出動しないのである。


実効支配している側としては「領土問題は存在しない」という態度をとるのがセオリーなので、尖閣諸島の棚上げ合意はたしかに日本にとって得策です。実効支配しているのにわざわざ騒ぎ立てるのは、領土問題が存在していると国際社会にアピールすることになるし、互いの国民感情をヒートアップさせるだけの愚策です。結果としてどのような利益を自国にもたらすかは全くの不明瞭なのだから。

ところが、そういう「強行策」って、感情論と相まって国内ではある程度の支持を集めやすいんですね。だから政治家は、たびたびその種の踏み絵を利用して支持率の回復を狙うわけですが、小泉純一郎や前原誠司がほんとうに国のことを思っているかというと、これは大きな疑問。

そういう意味では、李明博大統領の竹島上陸は愚策だったわけで、同氏が韓国内でそれほど追いつめられているということの表れでしょう。

堀茂樹さんのツイートより
韓国・李明博大統領の竹島上陸は、「国内問題」を国際的に露出する、かっこ悪い振る舞いでした。李明博氏個人は勿論、韓国自体が、海外進出好調などという派手な評判とは裏腹に、ただならぬ苦境に追い込まれている事が窺われます。米韓FTAはその原因の一つであり、結果でもあるかと、私は思います。


米韓FTA(米韓自由貿易協定)は2012年3月に発行。5年以内に95%の品目への関税が撤廃されます。詳しくはググっていただくとして、この米韓FTAは、自由貿易協定とは名ばかりの不平等条約であると言われています。韓国ではすでに国民皆保険制度の崩壊が懸念されているそうです。他にも懸念事項が盛りだくさんの米韓FTAは、TPPとよく似ています。
韓米FTA、韓国「壊国」を懸念 - JAcom

米韓FTAで自国をアメリカに売り渡しながら愛国を気取る李明博は、10年前に郵政民営化と規制緩和で日本を壊しながら靖国や拉致問題で日本を愛した小泉純一郎の姿とかぶります。自国民の生活をめちゃくちゃにした彼らのどこが「愛国」なのでしょうか。

TPPをめぐる日本の現況と沸き上がる愛国報道にもまったく同じ危うさを感じます。いま「新自由主義+愛国」という組み合わせにいちばん近いのは橋下徹氏率いる維新の会だと思うし、彼らが支持を集めているという状況は、小泉改革の再来を予感させます。あの時もいまも、メディアはなんとなくの「イメージ」しか伝えません。なんとなくの「イメージ」を印象づけるのに、愛国心や強行策は手っ取り早く機能してくれます。「イメージ」の裏側で、具体的にどのような改革が行われるのかを、メディアは伝えてくれません。


愛国報道は、前のめりになりがちです。消費税増税も、原発問題も、オスプレイも、TPPもニュースからふっとんでしまいます。ACTAはそもそも話題にすらなっていない。情報を受け取る側としては、自分もそういうプライオリティでいいのか考える必要があります。ちっぽけな島を争うことで、目の前の自分の暮らしにどのような影響があるのか。合理的に天秤にかけてみていもいんじゃないかと思います。
ちっぽけな島をめぐる諍いが戦争に発展などしたら、犠牲になるのは弱い人たちです。領土をめぐるその感情は、ほんとうに「愛国」なのか。ただの「自尊心」ではないのか。守りたいものっていうのは何なのか。実体のあるものなのか。立ち止まって自省する時間を持つことはべつに弱腰ではありません。
目の前の自分の暮らしと、目の前の家族、とくに子供たちを守ること。そのために様々なリソースを天秤にかけて分配して利益が最適化するように考えること。それが愛国者だと思います。

領土問題のプライオリティ

領土問題のプライオリティ 2012.08.22 Wednesday [政治・メディア] comments(2)
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オスプレイの危険性よりも怖いもの

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オスプレイに関しての専門的なことはほとんど知らないし、安全保障に関する知識もないので、あまり口を挟みたくないのですが、どうも最近のオスプレイを巡るニュースや論議を見てるとズレというか違和感を覚えるので少しだけ備忘録。

新型輸送機「オスプレイ」。その安全性に焦点が当てられています。事故率をもとにして、危険であるとか、いや安全であるとか様々な憶測を呼んでいます。政府は、安全性の確認が前提であるとしています。野田首相はアメリカのドニロン大統領補佐官と会談し、安全性の確認や事故の調査結果などについて協力を要請したそうです。
総理がオスプレイ“安全性”確認で米に協力要請 - テレ朝ニュース

もちろん安全性の確認はとても大事なことです。ないがしろにしてもいいなどとは思わない。ただ、安全であるかどうかという点ばかりが争点になることで、じゃあ安全だからオッケーでしょっていう話に結びつきそうな懸念を拭えません。もし安全だったならば、地域住民はこれを受け入れないといけないのかというと、それはまた別の話で。

そもそもこの新型輸送機「オスプレイ」っていうのは何故に必要なのでしょうか。そこのところの説明がぜんぜんなされていないと思うのですが。意味はわからないけど、安全なんだから、無いよりあったほうがいいに決まってるという、タダなんだから貰っといて損はないみたいな考え程度の認識ぐらいでしか動いてないんじゃないかという気がしてならないのです。アメリカさんが言ってるんだから、そうするしかないんだっていう。

ぼくが、オスプレイ自体の安全性云々よりももっと怖いのは、この思考放棄的な発想の回路です。野田首相は先日、オスプレイ配備については「日本からどうこう言う話でない」と言ったそうですが(朝日新聞)、これはついうっかり出た本音だと思います。

簡単におさらいしておきます。先日の記事で書きましたが、鳩山政権は自民党時代から続く「対米追随」の姿勢を転換させようとしました。政権交代はその絶好の機会でした。政権が変わったんだから、外交の方針が変わったとしても不思議ではない。しかし鳩山政権は、アメリカの意向を忖度する官僚やマスメディアの抵抗にあい潰されました。これを見ていた菅首相はただちに「対米追随」路線へと舵を切り替え、政権交代で民主党が謳ったマニフェストを次々と方向転換させていきます。さらに官僚の中の官僚と言われる財務省の大臣だった野田氏が首相に就任することで、民主党政権は自民党化=「対米追随」路線まっしぐらです。もはや国民の方をまったく見ようとしない傀儡政権であることは多くの人の目に明らかであると思います。

日本はいまだもってアメリカの植民地である、と言われてピンと来る日本人はほとんどいないでしょう。直接的な力で支配されているわけではなく、巧妙に張り巡らされた支配構造が存在している、なんてことを言うと陰謀論みたいに聞こえるかもしれません。しかし、日本を取り巻くさまざまな諸問題が、「対米」という軸を中心に据えて眺めたときに、するすると引っ張られるように1本の糸で繋がって見えることは間違いないとぼくは思っています。

オスプレイについても、「アメリカに物申せない日本」という姿が浮かび上がっています。野田首相の発言はまさにそれを象徴しているわけですが、実はもっとヤバい状況にあるのかもしれません。どういうふうにヤバい状況なのかというと、内田樹さんは以下のように推測しています。

米軍のフィリピン移駐について考える - 内田樹の研究室より
政権交代で首相になった最初の人物はあからさまな対米自立派で、「基地はできれば国外」というようなことを言ってしまった。
彼が引きずり下ろされた後には、あれこれとアメリカのご意向を忖度してくれる親米派の政治家官僚が出てきたが、これもひたすら忠義面をしてへこへこしているだけで、表舞台に出て、矢弾を浴びながら、「基地問題についての日本の立場」を内外に公言し、説得できるほどの度胸も才覚もない。
属国が従属的であるのはけっこうだが、あまりに従属的になりすぎて「使いものにならなくなった」というのが現在のアメリカ政府の日本理解だろうと思う。
いったい、誰と話をつければ、ものごとが前に進むのか、今の日本を相手にしているともうわからない。


まあそうだろうなと納得できる話です。いわゆる先進国が集う首脳会談等の席での日本政府の存在感の無さは半端ないなあといつも思いますが、最近では明らかに他国から軽んじられているような空気をひしひしと感じるのは、ぼくだけでしょうか。でもそれも当然といえば当然のことで、あまりに無能なんだから、話したってしょうがないと思われているのだとしたら。

自民党の時代には、自民党議員は属国であることをもしかしたら意識的に選択していたのかもしれません。安全保障的な観点と国内でのパワーバランスをある程度配慮して、裏方にも筋目をつけた上で、「敢えてアメリカには物申さない」という「対米追随」路線を選択的に採択することで、自国の経済成長を目指していた、というのならばまだ話は分かります。主体的に選ぶというならば、それはそれでひとつの選択肢ではあると思います。

ところが、時代はもう冷戦構造ではありません。グローバル化が進み、世界はフラット化しています。アメリカが必ずしも日本を贔屓にしてくれるとは思えない。アメリカはビジネスライクな国です。アジアにおける戦略だって10年前とは大きく変わっているはずです。日本が垢のついた日米同盟にすがりついている限り、アメリカはそれを利用するだけです。日米同盟が、ほんとうに日本の国益に適うものであるのかどうか、そこから吟味しないといけないのに、日米安保の話になると金科玉条のごとくアメリカの言うことを聞くのが自明の理であると考えるのは、はたして主権国家と言えるのでしょうか。

日本政府の対米姿勢って、「物申さない」がいつしか「物申せない」になり、さらには「なんだかよくわからないけど今まで通り物申さないほうがいいんじゃね?」ぐらいの思考放棄的な発想の回路に今ではなっているのだろうと思います。最前列にいる政治家が、おそらくその程度の認識なんだろうということが透けて見えるということが、ぼくはいちばん怖いです。そういう人たちがものごとを決めているということが。


「安全性」というのは、作られるものです。頭の良い官僚たちが一生懸命に作文して、よく分からない法律を作ってもっともらしい文言で装飾すれば、「安全」と認定される。「安全」という言葉はだいたいそんな程度のものでしかありません。

遺伝子組み換え種子の安全性は「実質的同等性の原則」が根拠とされています。しかしこの原則は、作物全体としての安全性は調べられておらず、臨床実験や第3者機関による安全性のチェックも行われていないそうです。安全を守るために制度をつくるのではなくて、まず権威付けのために先に制度(原則)をつくってしまって、その制度を理由に安全を主張する。まったくあべこべの理論ですが、案外それがまかり通っていることが多い。(遺伝子組み換え種子について、詳しくはこちらにまとめてあります)

原子力発電所の安全性というものが、いかに杜撰な管理のもとで「安全」だとされてきたか。水俣病だってアスベストだって、犠牲者が多く出るまでは「安全」だと見なされてきたはずです。「安全性」というのは、作られるものです。場合によっては政治的な意図をもって。

放射能が人体に及ぼす影響について、人類は未だはっきりした指針を持っていません。ぼくらはせいぜい安全性については「分からない」としか言えないはずなのに、安全だ、いや危険だ、デマだ、と終わることのない対立が、原発事故以降ぼくらの生活のまわりを囲んでいます。それはこれからも続くでしょう。行政の都合で、無責任な数値がひとり歩きすることが無いとは言えません。放射能が人体に及ぼす影響は、事後的にしか分かり得ない。それはこれから何年後になるのか分かりません。


対米関係において、従属的になりすぎて使いものにならないと思われるような政府が、安全性について主体的な行動を起こしているとは到底思えません。遺伝子組み換え作物の輸入に関しては、厚生省の食品衛生調査会が安全性評価指針に適合しているかどうか調べているのですが、それは企業が提出してきた資料を見るだけの審査で、第3者機関による追試はなされていないそうです。

オスプレイの安全性というのも、これから実地で何度も試験が行われて実証されるわけではありません。あくまでも書類上での確認だけになるはずです。もういちど言いますが、「安全性」というものは書類上で作られるものです。それはたぶん、ぼくらが体感的に想像する「安全性」とは乖離した存在であると思います。住民の目に見えない不安は書類上には表れません。日常的に生活する上空を、他国の軍隊がプロペラの爆音とともに低空で飛び回ることの違和感や恐怖を、現地から遠く離れた地に暮らすぼくはうまく想像することすら出来ません。

対米関係を金科玉条として最優先させることで、犠牲になる自国の人たちが存在します。原発が日本に建て続けられた構造と同じ、中央と地方の差別的な構造問題です。政府はもちろん、政治家を選ぶぼくたちの側も、その差別構造に関しては驚くほど無頓着なのです。基地問題にしても原発問題にしても、自分の身にふりかからない限りは自分のこととして考えられない。それはもう仕方のないことかもしれませんが、もうそろそろ限界に来ているような気もします。

沖縄出身で先日民主党を離党した瑞慶覧議員のインタビューを読むと、沖縄の人たちの生活実感からの基地の存在、そこから見える日米関係というものがよく分かります。
オスプレイ問題はもはや沖縄だけの問題ではない 瑞慶覧 長敏議員インタビュー - BLOGOS

このインタビューもそうですし、沖縄タイムスや琉球新報の記事を読んでみると分かりますが、沖縄の人たちは意識が高く、日本の構造的な問題を捉えています。それは彼らが当事者意識を持たざるを得なかったからだと思います。そういう立場に置かれたから。震災と原発事故でようやく当事者意識を持ち始めた本土のぼくらにとって、なしのつぶてをくり返しながらもずっと反基地活動を続け、自分たちの生活と向き合っている沖縄の人たちは先輩のような存在だと思います。

従属的になりすぎて「使いものにならない」というのが現在のアメリカ政府の日本理解である、という内田さんの意見にはぼくも同意です。と同時に、政治家を選ぶぼくたちも主体性が無さすぎて、あるいは同じ国に暮らす同胞への想像力や当事者意識が無さすぎて「使いものにならな」かったわけだし、そんなぼくたちがようやく示した政権交代を無に帰すような豹変ぶりで政党政治や民主主義の意味を貶めた現政権は「使いものにならない」というどころではなく、オスプレイよりも怖いと思います。

オスプレイの危険性よりも怖いもの

オスプレイの危険性よりも怖いもの 2012.07.31 Tuesday [政治・メディア] comments(0)
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ふたたび鳩山政権をふり返る

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7月20日金曜日、再稼働反対の官邸前抗議行動に鳩山由紀夫元首相が参加しました。「官邸と国民の声があまりにもかけ離れてしまっている」「これから、みなさん方の声をおうかがいをして、私1人で官邸の中に入らせてもらいたいと思っています。みなさんの声をぜひ伝えたいと思っています」と発言し、官邸内の藤村官房長官に「民意を直接野田総理に伝えられる機会を作ってもらいたい」と伝えたそうです。

首相官邸前での原発再稼働反対行動での鳩山由紀夫元首相の発言 - 赤旗政治記者
120720 首相官邸前抗議 鳩山由紀夫議員スピーチ Ch5(動画)
「再稼働反対大集会」 - 鳩山由紀夫オフィシャルホームページ

「野田総理は市民の声を直接聞いた方がいい」「民主主義の新しい流れを無視するべきではない」と決然と語った(朝日新聞官邸クラブ)と伝えられるも、党内は冷ややかな反応であるとか言行不一致であるとか、さまざまな反響を呼んでいます。

ぼくは、このニュースをツイッターでリアルタイムに知った時の気持ちを以下のようにツイートしています。正直な気持ちです。
絶対に叩かれるし揶揄されることが分かっていながら、のこのこと官邸前デモにやって来た鳩山さんに感動した。この人ほど誠実な政治家をぼくは知らない。人がよすぎるがゆえに政治家には向いていないのかもしれないが、今回の行動はかっこいいよ。断固支持。
こういう人を周りが支えないといけなかったんだよ、民主党は。


ところで、この鳩山氏の参加には伏線があって、デモの2日前に行われたこのインタビューから繋がっています。もっと言うなら、ここで語られている民主党崩壊の理由から繋がっている。ジャーナリストの岩上安見さんによる、鳩山由紀夫氏へのインタビュー。期間限定で無料公開されています(期間終了後は会員限定公開)ので、視聴はお早めに。※終了しちゃいました。
2012/07/18 鳩山由紀夫議員インタビュー - IWJ Independent Web Journal

訥々とした喋り口から人柄まで伝わるようなインタビューになっています。鳩山=ルーピーと云う人にはまず見てほしい。とにかく鳩山さんはバカ正直な人であると、ぼくは思います。この映像からもそれが伝わってくる。と、まあそれはさておき、鳩山氏個人の評価は別にしても、歴史的な政権交代から鳩山政権はなぜ瓦解したのかについて、元首相自身の口から語られるというのは価値あることですし、そこから現在の原発をめぐる問題にも繋がる、この国の問題点というものが浮かび上がってきます。それをうまく引き出した岩上さんに拍手。

このインタビューをちゃんとご覧になった人ならば、大手紙が報じたこの記事がいかに歪んだ印象操作であるか分かるはずです。
<民主>鳩山氏も「離党カード」、政権ゆさぶる - 毎日新聞
「離党カードをちらつかせた」とか、この映像からぼくが受けた印象とはぜんぜん違います。どちらかというと、岩上さんにそそのかされたって感じですよね。だいたいあの内容で、なぜそこだけを取りあげるのか。そこまでして政局にしたいのか。インタビューの核は、鳩山政権がなぜ瓦解したのかという点です。そこのところに大部分の時間を割いているわけだし、内容的にも非常に示唆に富んだものになっている。現在の日本が抱える構造的問題を考える上では、無視して通れない話になっている。なぜそこに少しも触れないのか。そこを徹底的に検証しないで、現在の野田政権の問題点をきちんと捉えられるのか。意識的に避けているとしか思えません。ちなみに出典元であるIWJの名前を明記せず「インターネット番組」としているのもフェアじゃないですね。


鳩山氏の辞任から2年。いまや民主党は政権交代時の彼らとは別人になってしまいました。財務省の意向にしか耳を傾けない野田政権は、国民からもそっぽを向かれ、崩壊直前と言っていいでしょう。小沢一郎とそのグループは離党し「国民の生活が第一」を結党。マスメディアは相変わらず政局的な報道しかしていませんが、3党合意により一体化した「民自公」と、「国民の生活が第一」との対立軸というものを、ぼくらは有権者としてきちんと認識しておく必要があります(ここで書いたようなこと→これからの政治のはなし)。次の投票の指針を、選挙前になるとワンフレーズがくり返されるメディアの喧噪に騙されずにしっかりと見ないといけない。

いまここで鳩山政権をふり返ることはとても大事だと思います。

というわけで、再度IWJのインタビューより。
2012/07/18 鳩山由紀夫議員インタビュー - IWJ Independent Web Journal
(無料公開期間が終了したので、現在は会員のみ視聴可となっています。有益な映像を提供し続けるIWJの活動を支えるためにも、ぜひサポート会員になってご覧下さい。)
岩上さんの要点ツイをまとめたものがこちらにあります。
2012/07/18 IWJ鳩山由紀夫議員インタビュー - togetter

同togetterより
岩上 民主党はなぜこれ程までに変節した?
鳩山 私の不徳の致すところ。既得権と戦おうとして勝てなかった。アメリカにものを言い、官僚主導を脱却しようとした。執行部はこれを反面教師として、既得権と戦わないようにと。

岩上 なぜ辺野古は失敗したのか?誰が抵抗したのか?
鳩山 まわりをぐるっと包囲された。県外を探そうとしていたのは官房長官だけ。アメリカが反発したというよりは、その意向を忖度して、官僚が鳩山おろしを。主に外務省と防衛省。官僚だからケンカ腰で来るわけではない。『探したけどありませんでした』などと、どんどん範囲を狭めてくる」

岩上 日本の官僚達は、ボスはワシントンにいると刷り込まれている?
鳩山 岩上さんは言い過ぎだが、そうだと思う。孫崎享氏の『戦後史の正体』を面白く読ませていただいている。日本の戦後は『対米依存派』と『対米自立派』の戦いだったと。対米依存の吉田茂などは長く政権の座につける。一番悲惨なのが石橋湛山。理由なく公職追放に。


この期に及んで離党しない鳩山さんを歯がゆく思う気持ちもあります。いまの民主党を立て直せるわけが無いじゃないかと。何をそんなにこだわっているのかと。インタビューを見て分かったのですが、鳩山さんは自分が一から民主党を作ったという自負とそこへの愛情があるようです。それから他人を信じすぎるんですね。菅首相の不信任決議案騒動の時も右往左往して、どこまでお人好しなのかと呆れたことを思い出します。

民主党瓦解の理由を問われ、「私の不徳の致すところ」としつつも、現執行部の変節は、財務省をはじめとする官僚の意向におもねる政治、アメリカの意向を忖度する政治であると指摘。つまり鳩山政権が9ヶ月で崩壊したのは、既得権へと切り込んだためにそれに反対する勢力に負けたということ。財務省をはじめとする官僚、経団連、マスメディア、党内の裏切り。そしてアメリカ。鳩山さんはこのインタビュー中で「忖度する政治」という言葉を何度も口にしています。

これは以前から内田樹さんあたりが指摘していたことほとんどそのままです。それを当事者である元首相が、自分の失敗を認めて言及したということは、意味のあることだと思うのですが、このことをどこのメディアも取りあげないという事実が、マスメディアも既得権であるということの信憑性を高めています。

鳩山さんは5月の時点で、内田さんの記事を引用してこうツイートしています。
鳩山由紀夫氏のツイートより
今も「最低でも県外」という気持ちに変わりありません。しかし「忖度」がもし存在するならその道は遠のくばかりです。─「忖度」する人たち(内田樹の研究室) http://bit.ly/Jc0IUK


さらにインタビュー中で鳩山さんは「既得権と対峙しない民主党には存在価値がない。自民党と同じになってしまう」と述べています。彼は、実際にそれをやろうとしていました。インタビュー中では詳しく語られていませんが、年次改革要望書の廃止、事務次官会議の廃止、会見のオープン化など具体的な処方を伴って。年次改革要望書の廃止については過去記事を参照ください。これは「対米自立」の象徴だったはずです。

これらの革新的変化は菅政権以降、すべてなし崩しになりました。自民党政治への逆戻り。アメリカによる日本改造指令とでも言うべき年次改革要望書は日米経済調和対話として復活、それはTPPへと繋がっています。鳩山さんはTPPの危険性として、遺伝子組み換え企業の進出と同社の訴訟戦略、経団連米倉会長との関係を指摘しています。まさか鳩山さんの口からモンサントの話が出るとは思いませんでした。モンサントについては過去記事を参照ください。TPPは、アメリカ(多国籍企業)による日本の植民地化に等しいとぼくも思います。

言葉ヅラだけでなく、このインタビューでの語り口からは誠実さを感じるし、マスメディアは報じなかったけれども実際の政策で「対米自立」を示していた鳩山氏。民主党の崩壊は、彼を追い込み「対米自立」を捨て去った時から始まったと言えます。政権交代でぼくたちが選んだ民主党は9ヶ月しか持たなかった。菅政権以降の民主党はまったくの別ものです。「民主党」という括りで一緒くたにして見るとそれが分からなくなります。そうじゃなくて、「対米従属」「対米自立」という大きな流れで捉えると、鳩山政権がやろうとしたこと、やれなかったことが分かってきます。こまかいことよりも、まずはその大まかな流れを見ることが必要です。

戦後史の正体』の著者である孫崎享氏は、「日本の戦後史は、アメリカからの圧力を前提に考察しなければ、その本質が見えてこない。」と指摘しています。
「戦後史の正体」について 孫崎享(動画)より要約
日本が独立した1945年から、「対米自立」と「対米追随」対立は続いてきた。
この日米関係の特色は、アメリカが「この人は望ましくない」と日本側に伝える。そうすると日本人が「望ましくない人」を排除していく。その道具のひとつが検察。もうひとつは新聞。新聞がターゲットの人格批判をして、排除されるのが当然という空気を作っていく。そうしてメディア・官界・政界が一体となって米国に追随していく。


小沢一郎に対する検察の異様な態度を見ると、納得できる話です。新聞もしかり。これはまさしく「忖度する政治」そのものですね。民主党が打破しようとしてできなかったことです。できなかった結果、いままで以上に劣化した思考停止の状態で「忖度」するようになってしまったというのは笑えません。

下記記事は、内田樹さんによる民主党についての総括です。
プレス民主でのインタビュー 「民主党への建設的提言 各界識者に聞く」 最終回 今求められているのは国の統治機構について率直に言えるリーダー - 内田樹の研究室より
鳩山さんの最大の誤算はアメリカの日本に対する影響力の強さを見誤ったことでしょう。鳩山さんは、日本はアメリカに軍事的に従属しているので、主権国家であれば当然要求できることさえ要求できない立場にある、とはっきり言うべきだったと思います。日本は敗戦国であり、国土を外国軍に長期的に占拠されており、国防や外交について自己決定できる主権国家ではないのだ、ということを明言すべきでした。
今の日本の統治者に必要なことは、「ほんとうのこと」を言うということです。そこからしか始まらない。敗戦国なんだからしかたがないんです。日本は主権国家でない。安全保障、国防・外交に関しては、日本の国益を最優先するという政策選択ができない、と。日本はこうしたいが、アメリカがそれを許さない。だからアメリカに従うしかない、とはっきり言うべきです。敗戦国の屈辱の上にしか国家は再建できません。主権国家でない国が主権国家であるかのように偽装的にふるまうから、政策判断がわかりにくくなるのです。今の日本のリーダーに求められていることは、われわれの国の統治機構について率直に事実を言える人です。


「ほんとうのこと」を言う人がいないんですね。ほんとうのことを言うと、バカにされたり、叩かれたり、捕まっちゃったりする。まるでどこかの独裁国家みたいな話ですが、この国の空気はいまそんな方向に向かっている気がしてなりません。それも、独裁者による強権ではなく、「忖度」することで国民自らその道を行っているような気味の悪さ。その「忖度」には主語が無く、揚げ足を取り合うことの帰結として自分たちの首をしめているような気がしてなりません。

温室効果ガス25%削減のために原発を増やそうとしていたのは鳩山政権じゃないかという指摘があります。もっともな話です。しかし、ぼくは事故が起きる前までは原発の恐ろしさを何も知りませんでした。原発に関して本当のことっていうのは表には出てこなかった、ということをぼくは事故後に知りました。長年野党という立場にいた人もそれは同じだろうと思います。鳩山さんだけではなくて、民主党の多くの議員は原発について知らなかったんじゃないでしょうか。事故前から反原発運動をしていたならともかく、自分も知らなかったくせに、コイツは過去にこう言っていたと後だしじゃんけんのようにふるまうのは便乗批判だと思います。

それでも分からないのは、事故後に話の出た地下式原発推進なんたらに鳩山さんの名前があったこと。これは事故後に発足した話なので問題です。単に事故直後なので原発のことをまだよく知らなかった(学べば学ぶにつけ)というオチだといいのですが、彼が現在もそれを推進すべきと考えているのかどうか、知りたいです。いまぼくはだいぶ鳩山さんの肩をもっていますが、人を見る目にそんなに自信があるわけではありません。「現時点での再稼働は無理」という発言を評価するにしても、そこは注視すべき点だと考えます。


ちなみに1年半ほど前に、ぼくは鳩山政権をふり返るというタイトルで記事を書いています。いちおう連載という形でもっと続ける予定でしたが、めんどくさくなって頓挫していました。「新しい公共」とか「友愛」とか、知りたいテーマはまだあったので、気が向いたらまた書きたいと思います。
鳩山政権をふり返る(1) 序
鳩山政権をふり返る(2) 沖縄米軍の抑止力
鳩山政権をふり返る(3) 記者会見のオープン化

鳩山政権崩壊の原因でもあった沖縄米軍の問題については、オスプレイが問題になっているいま、再考するべき時期でもあると思います。その際に考えなければならないことは、オスプレイの安全性云々というよりも、「日本からどうこう言う話でない」とついうっかり「ほんとうのこと」を言ってしまった(朝日新聞)野田首相に象徴されるような「対米姿勢」について。原発の問題とも相通じるように、なにか大きな存在(アメリカとか既得権とか)に依存して単一的なフレーズで思考停止するのか、自立するために自分のあたまで考えて自分のことばを吐き出すか、という話です。
こちらの内田樹さんの記事もご一読を。
米軍のフィリピン移駐について考える - 内田樹の研究室


とにかく鳩山さんはバカ正直な人であると、ぼくは思います。ブレまくるのもそのせい。揶揄したい人は揶揄すればいいし、ぼくは支持したいので支持します。同時に、地下式原発の件も含め今後の原発政策をどう考えているのか注視します。この人は、野田首相とは違って、聞く耳を持っていると思うから。「ほんとうのこと」を言ってくれるという点では期待してしまうから。
ぼくはやっぱり鳩山さんの訥々とした喋りが好きなんですね。決して声を荒げず他人を非難しない友愛の人。こういう人が政治家として立てるような懐の深い社会であればなあと思います。甘いと言われるでしょうけど。

政治家って、ぼくらの代表なんであって、何でも知ってる訳じゃありません。ぼくらとたいして変わらない。すべての問題に対案を示せるスーパーマンは存在しませんし、逆に、政治家が専門家であっては困るんです。政治家は、ぼくら一般市民の目線から、一般市民の声を聞いて、それを国政に反映するのがお仕事なんであって。もちろん、それらを消化する上で専門家の見識は必要になりますが、それが出発点になってはいけない。アメリカや官僚の意向が出発点になってはいけない。出発点はあくまでも「国民のみなさん方の声」です。よね。

だからぼくらが政治に参加するっていうことの意味は、政治家に騙されないように誰それの言動や派閥を注視してグループ分けしたりラベリングしたりすることなんかよりも、政治家と一緒に考えることっていうのが本質だと思います。一般市民の立場で、自分のあたまで。だからこそ、統治者に必要なのは「ほんとうのこと」を言うこと。学べば学ぶにつけ、でいいじゃないですか。




追記(8/27)
8月18日に行われた、鳩山由紀夫氏による民主党政権の3年間を振り返る講演のアーカイブ
民主党政権の3年間を振り返る──鳩山由紀夫が「大山村塾」で講演 - THE JOURNAL

ふたたび鳩山政権をふり返る

ふたたび鳩山政権をふり返る 2012.07.23 Monday [政治・メディア] comments(0)
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再稼働の理由

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で、けっきょくのところ、なぜ原発は再稼働したのか。
大飯原発の再稼働はほんとうに夏場の電力不足を補うための暫定的な処置なのか。だとしたら、今夏を乗り切ったならば、止まるのか。今後、他の原発は再稼働されるのか。諸説諸々あって、誰の言ってることがほんとうなのか分からないので推測するしかないのですが、今の日本では、たぶん政府の言ってることは信じられないという人のほうが多いんじゃないかとぼくは思ってるんだけれども。ぼくもその肌感覚は正しいと思うし、ぼく自身もそうなんだけど、だからといってただ単に「政府はウソつき」と言ってるだけでは何にもならないわけだし、じゃあ、なんで政府はウソをつくのか、なんのために原発は再稼働するのか、ということをひとりひとりが整理しておく必要があると思います。

「原発再稼動をめぐって」と題された金子勝さん(経済学者/慶應義塾大学経済学部教授)の記事が的確にまとまっていて良記事でした。震災以降にぼくたちが接してきた、原発をめぐる政府の方針やマスコミの報道、ツイッターなどでまわってくる情報や視点などをひっくるめて照らし合わせると、ここで金子さんが言っていることは、ほんとうに腑に落ちる。
神戸新聞の記事より転載します。元記事はこちら

原発再稼動をめぐって   金子勝・慶応大教授に聞く

神戸新聞 2012年7月8日

夏の電力不足などを理由に関西電力大飯原発の再稼働を決めた政府。金子勝慶応大教授に、その背景にある「本質的な問題」を聞いた。

 * * *

政府や電力会社が再稼働を急ぐのは、無理やりにでも動かさないと経営がもたないからです。安全性が怪しくて動かせない原発は多額の減価償却費と維持管理費だけを生み、赤字を膨らませる「不良債権」なのです。
一方、減価償却を終え、安全対策に投資をしていない原発ほどコストが安く、利益が上がる仕組みになっている。危険な原発に依存するビジネスモデルを続けてきたことに問題の根があります。関電は発電総量の約5割を原発が占め、「40年で廃炉」となると8年以内に全11基の原子炉のうち7基が止まる計算です。再稼働は、実はエネルギー不足問題ではなく電力会社の経営問題なのです。

東京電力の総合特別事業計画をよく読むと、年間20ミリシーベルト未満の地域の住民は帰宅することにして賠償費用を計上していません。また除染費用も計上していません。この賠償費用の「値切り」で放射線被害者を切り捨てる一方、経営責任も問わずに家庭用電気料金の値上げで賠償費用を国民に払わせようとしている。そこに財政赤字を膨らませたくない国と、貸し手責任を問われたくない金融機関の利害が絡み、柏先刈羽原発の再稼働への圧力になっている。

注視すべきはこうした「論点のすり替え」です。エネルギー不足、燃料費上昇、安価な原発…。いずれも、政策を正面堂々と展開できないため、ロジックをごまかし、国民世論をトリックにはめるための論点設定です。
それは税と社会保障の一体改革も同じ。最初は社会保障を充実させるから増税を受け入れろ、だったのが、いつの間にか消費税増税だけが先行している。そうなると今度は「『決められない政治』からの脱却」と言う。私たちはそうしたすり替えを見抜き、厳しく批判しなければなりません。

今行われている政治は、旧来型の永田町のパワーバランスの下で「失われた20年」に戻ろうとする“先祖返り”です。このままでは「失われた30年」に向かってしまう。

しかし、国民世論のスタンスはぶれていません。原発の即時停止は2割強、漸進的な脱原発は4割強で、再生エネルギーへの期待も約7割で安定している。消費税増税も社会保障が充実するならいいと一貫している。そして、原発問題も含めて、市民の側から今の社会を変えようという動きも各地で起こっています。

政党政治が壊れつつある中、政策に従って市民が個々の政治家を選別する状況が生まれてくるでしょう。小泉純一郎や橋下徹のような「劇場型政治」の観客にならず、いかに地に足のついた政治とコミットしていくかに今後がかかっています。

電力会社は地域独占や総括原価方式で守られ、政治家には献金、官僚には天下りがある。原発は旧来型の政財官一体構造の「ど真ん中」にあります。簡単に手放すはずがない。この「ど真ん中」に対抗するには強いロジックが必要です。その出発点は何か。「フクシマ」以外にありません。
被害に苦しむ福島の人々の現実を、われわれの倫理的な出発点とする。その場所から訴え続ける限り、あらゆるロジックに負けません。そういう意味で、私は現状に悲観はしていません。


「政財官一体構造」という言葉がすべてを物語っていると思います。もちろん「政財官」と密接に関わるアメリカの存在があることは言うまでもありません。そういう視点でニュースを読み解いていくと、いろいろなことが線でつながってくる。「政財官一体構造」という「本質的な問題」をなんとかしない限りは、日本が抱える様々な本題は解決していかないわけで、だからこそ民主党は政権交代時に「国民の生活が第一」を旗印に、国民から信託された政治家が政策を決めていくという政治主導への転換を訴えたわけです。

野田民主党は自民党化したと言われますが、それはつまり「政財官一体構造」への逆走ということ。首相の会見は、官僚の作文そのままです。しかもタチが悪いのは、もともとその構造を打破しようとしていた政党が180度変節した結果、裏社会へもコネクトしてある程度のパワーバランスを保っていた自民党よりもはるかに国民へのパフォーマンスが悪くなっているという点。この政権の下ではもはや国民の声を届ける術など無いのではとさえ思ってしまいます。


再稼働の理由

金子さんの記事にとくに付け足すことはありません。その通りだと思います。そこで、ここから先は蛇足になりますが、この機会に、再稼働に至る経緯というか理由について自分なりにふり返ってみたいと思います。

官邸前で行われた大飯原発再稼働反対のデモが、再稼働直前の週には何万人とも言われる「声」を届けたにもかかわらず、関西電力の大飯原子力発電所は、2012年6月16日に再稼働を正式決定、7月1日に3号機を再起動、7月9日にフル稼働に達しました。

けっきょくは、6月8日に野田首相が記者会見で再稼働についての声明を発表した通りの筋書きになったわけです。あの欺瞞だらけの声明文を、いまさらあれこれ検証するのは骨が折れるので、簡単に、首相が再稼働の理由として挙げた2点をおさらい。

ひとつは、「福島を襲ったような地震・津波が起こっても、事故を防止できる対策と体制は整っている」という点。もうひとつは「計画停電や電力料金の大幅な高騰といった日常生活への悪影響を避ける」ため、すなわち「仮に計画停電を余儀なくされ、突発的な停電が起これば、命の危険にさらされる人も出ます。仕事が成り立たなくなってしまう人もいます。働く場がなくなってしまう人もいます。(中略)日常生活や経済活動は大きく混乱をしてしまいます。」という点。
つまり、電力が足りないから原発の再稼働は必要です。そのための安全対策は十分にされています。という説明でした。

この声明が出された時点で、この説明は欺瞞であるという指摘は至るところでされていました。これを聞いた人の中にも、首をかしげる人が多かったのではないでしょうか。ぼくもこれは聞くに堪えない代物だと思いましたし、なんのことはない、話中の「国民」を「経団連」に置き換えれば、野田首相のやりたいことが手に取るように分かるじゃねえかと思いました。すなわちこれは、国民の生活を守るための判断なんかじゃない、経団連の利益を守るための判断なのだと。

実際に、再稼働が為された後になってから、首相が上げたふたつの理由は欺瞞であったことが早くも露見しています。昨年12月から半年間にわたって福島原発事故の究明を続けていた国会事故調(国会 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会)は、7月5日に報告書を提出しました。この報告書において、委員たちは「今回の事故は「自然災害」ではなくあきらかに「人災」である」と指摘しています。“今さらかよ”という思いがわいてきますが、おそらく誰もがそう思っていながら公式の場では決して語られることのなかった「人災」という認識が、公の機関から提出されたということの意味は小さくはないのではないでしょうか。

福島第一原発の事故が「人災」であるならば、「福島を襲ったような地震・津波が起こっても、事故を防止できる」という首相の宣言は、まったくの筋違いになります。「自然災害」に対応し得る設備が整っているかどうか、ということではなく、その安全対策がきちんと機能する体制が新たに構築されているかどうかが問題だからです。事故以降に行われた数々の会見をふり返るに、この「人災」はまさに「政財官一体構造」から起こったものであり、東電や政府の後だしじゃんけんのような隠蔽体質や言葉あそびのような責任逃れ答弁はまったく変わっていないとしか思えません。そんな人たちがいくら安全ですと言ったって、信じられるわけがない。

金子さんの言う通り、原発は旧来型の「政財官一体構造のど真ん中」にある。国会事故調のレポートも、冒頭でまずそのことを宣言しています。

国会事故調報告書より
想定できたはずの事故がなぜ起こったかのか。その根本的な原因は、日本が高度経済成長を遂げたころにまで遡る。政界、官界、財界が一体となり、国策として共通の目標に向かって進む中、複雑に絡まった「規制の虜」が生まれた。
そこには、ほぼ50年にわたる一党支配と、新卒一括採用、年功序列、終身雇用といった官と財の際立った組織構造と、それを当然と考える日本人の「思い込み(マインドセット)」があった。経済成長に伴い、「自信」はしだいに「おごり、慢心」に変わり始めた。入社や入省年次で上り詰める「単線路線のエリート」たちにとって、前例を踏襲すること、組織の利益を守ることは、重要な使命となった。この使命は、国民の命を守ることよりも優先され、世界の安全に対する動向を知りながらも、それらに目を向けず安全対策は先送りされた。そして、日本の原発は、いわば無防備のまま、3.11の日を迎えることとなった。

3.11の日、広範囲に及ぶ巨大地震、津波という自然災害と、それによって引き起こされた原子力災害への対応は、極めて困難なものだったことは疑いもない。しかも、この50年で初めてとなる歴史的な政権交代からわずか18ヶ月の新政権下でこの事故を迎えた。当時の政府、規制当局、そして事業者は、原子力のシビアアクシデント(過酷事故)における心の準備や、各自の地位に伴う責任の重さへの理解、そして、それを果たす覚悟はあったのか。この事故が「人災」であることは明らかで、歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった。

この大事故から9ヶ月、国民の代表である国会(立法府)の下に、憲政史上初めて、政府からも事業者からも独立したこの調査委員会が、衆参両院において全会一致で議決され、誕生した。
今回の事故原因の調査は、過去の規制や事業者との構造といった問題の根幹に触れずには核心にたどりつけない。


いまの「政財官一体構造」を踏まえなければ原発事故を総括できないし、「政財官一体構造」を変えない限りは原発は止まらない。ましてや「国民の生活が第一」が実現できるはずもない。だから小沢一郎をはじめとする約50名は民主党を離党して、政権交代時の初心に戻り構造改革を目指しているのだ、と解釈するのが妥当だと思います。


それから、再稼働の理由であった「電力が足りない」という言説は、やはりまやかしであったようです。関西電力は、大飯原発がフル稼働すれば、代わりに燃料費が高い火力発電所を8基止めるとの計画。節電目標は15%から10%に下げることにしたとのこと。あまりに早い手のひら返しには、笑ってしまうしかありません。

最大8基の火力発電所(計384万キロ・ワット)の運転を停止する計画 - 読売新聞
大飯フル稼働 火力8基停止 関電に怒り “電力不足ウソか” - しんぶん赤旗

実はこれ、5月の時点で報じられていたんですね。関西電力自身が、「原発を動かすのは、電力需要とは関係ありません」と言っている。

テレビ朝日『モーニングバード』2012年5月3日
こちらに文字起こし記事もあります。





(動画 11:53より)
「基本的に安全な原子炉は稼働させていただきたい」
「需要の問題とは切り離して考えております」
「夏場の需要とは関係を考えておりません」

え、言ってるじゃん。関西電力が、自分で言ってんじゃん。

夏場の需要とは関係を考えておりません

もうこの人たち、自分で言っちゃってるんですよ、電力不足とは関係ないけれども、原発を動かさせてくださいって。じゃあその理由はなんなんだっていうと、VTRの中で古賀茂明さんも述べているように、関電の経営の問題。冒頭で金子さんが言っていた通り、無理やりにでも動かさないと経営がもたないからと考えるのが妥当だと思います。それもう自分で言ってるようなものですよね、関電が。それを、周りがああでもないこうでもないって、電力需要をめぐって勝手に対立して、なんだかバカみたいですね。

こうした「論点のすり替え」っていうのは、政治的なイシューではごくふつうに氾濫しています。というか、立場が違えば重要視する論点が異なって当たり前なんですよね。だからこそ、相手のくり出す土俵に乗っかるのではなくして、一市民の立場としての自分なりの論点を拠点にしないと政治というものがどんどん生活感覚から乖離していくわけです。専門的な知識なんて、一般人は知らなくて当たり前なんだから、自分が暮らしている「今ここ」を出発点にしないと。そしてそこからすり替えの欺瞞を見抜き、自分たちの生活を守らないといけないのですね。めんどうくさいですけど。

再稼働の理由

再稼働の理由 2012.07.11 Wednesday [政治・メディア] comments(0)
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官邸前デモをめぐるあれこれから感じたこと

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首相官邸前の原発再稼働反対デモが大きな広がりとうねりを見せている一方で、ネット上ではデモに対するバッシングのような冷笑的な意見がだいぶ出回っているようです。デモなんかしたって意味がないとか、反原発のデモをするなら電気を一切使うなとか、対案を示せとか。いかにも2ちゃんねるあたりが好みそうな言説ですが、なぜ彼らはわざわざ権力側が喜びそうなことを、進んでやっているんでしょうか。正義の仮面をかぶって弱い者をバッシングすることで、いったい何を目指そうとしているんでしょうか。彼らだって既得権益側ではなくて弱い者だろうに、不思議でなりません。

デモだけでなにか問題がすぱっと解決するわけないです。デモに問題解決能力を求めるほうがおかしい。それじゃ議会なんていらないわけで。デモじゃ何も変わらない、対案を示せ、っていうデモに対する嫌悪感は、デモに過剰期待しすぎで、依存の裏返しなんじゃないかと思ったりします。いつかスーパーマンが対案を持ってやって来て問題を全て解決してくれるとでも。

デモというのは、意思表示のひとつの手段です。「対案を示せ」という恫喝は、人に意志表示の気持ちを萎えさせます。よく知らないからしゃべる資格ないとか、間違ったらどうしようとか、他の人の顔色うかがっておこうとか。そういう社会は、とても息苦しい社会になります。弱い者同士で叩きあってくれれば、問題の本質に触れられたくない既得権益側の人にとっては好都合です。

schizoophrenieさんのツイートより
昨日あたりから、デモ参加者の発言を取り上げて罵り、彼らの事実認識や対案の不在をあげつらう向きが散見されるが、デモになぜすべての機能を求めるのか。デモには、「デモのある社会をつくる」という最も重要な機能がある、と柄谷は言っていた。(デモが日本を変える──柄谷行人氏「9・11原発やめろデモ」でのスピーチ - associations.jp

デモではなく投票を、ロビー活動を、という「理性的」な言説がとびかっているが、2つの点でデモの本質を見誤っている。代議士が民衆を代表する間接民主制がうまく機能していないときに働くのがデモだからである。

もう一つは、デモの最中に傍観者がそのデモの意味(の不在)を客観的かつ理性的に判断できるというある種の素朴な思い込みである。いったい誰がフランス革命の最中にその意味を客観的かつ理性的に判断できたというのか。デモが"出来事"であれば、その意味は後からしか決まらないのだ。

デモ参加者が子供を連れてきているだとか、お祭りのノリが気持ち悪いだとか、自分が批判できる細部をみつけることによってデモという運動全体を批判する身振り。それは自分が理解したくないものをみないでおくための技法であり、あなた自身の欲望の発露なのである。


デモは、起こるべくして起こるものです。デモは議会ではありません。
鳥越俊太郎さんが言っていたように、今回の再稼働反対デモは労組主導の組織的な動員によるデモではありません。ツイッターなどでつながり広がっている、60年安保以来の日本ではじめて起こった「市民デモ」です。「代議士が民衆を代表する間接民主制がうまく機能していないときに働くのがデモ」であるという上記の指摘は、今回の再稼働反対デモが起こった理由を的確に表現していると思います。

すなわち、原発再稼働という重要な決定が十分な議論や説明、根拠もないままに行われようとしていることを、多くの国民は知っているからです。自分たちの意志が少しも官邸に届いていないと感じているからです。こうする以外に声を届ける術がないからです。
3年前の政権交代では、民主党が示した「国民の生活が第一。」という方向性を国民は支持したのです。鳩山政権はたしかに不器用ながらも、そこに向かって歩いていました。対米従属から、対米自立へと舵を切り自国のことは自国でやろうとしていた(その根拠として年次改革要望書の廃止が挙げられます)。しかし国民の生活よりも大企業(主に多国籍企業)の利潤を守りたい(今までの産業構造を変えたくない)霞ヶ関の官僚や、それにおもねるマスコミのバッシングにより鳩山政権は潰されました。菅政権も野田政権も、それを見ていたから官僚の意向に逆らわないように振る舞いました。いま野田首相が政治生命をかけてやろうとしている消費税増税はあきらかに財務省の意向です。経団連の意向です。社会保障を先送りしてまで、増税だけを先行して決めようとする態度からは、首相は、国民の代弁者ではなく官僚や経団連の代弁者なのだとしか思えません。総選挙など国民の信託のないままに、政権交代時の「国民の生活が第一。」とはまるきり逆の方向に向かっているのです。これでは選挙の意味がないし、民主主義の機能を否定する態度です。

こんな状態で、デモ以外に国民が自らの意思を表示する方法があるならばそれこそ対案を示して欲しい。
今回デモに参加した人の多くは、やむにやまれず、とび出したのです。


もうひとつ。デモの本場でもあるパリのデモを見学してきた國分功一郎さんによるデモの考察。ぼくはここで國分さんが言っているデモのあり方にたいへん共感します。

【再掲】「パリのデモから考える」(スタジオジブリ小冊子『熱風』2012年2号「デモ」特集号掲載) - Philosophy Sells...But Who's Buying? 國分功一郎より
日本の脱原発デモについて、何度かこんな話を聞いた。デモに来ている人たちは原発のことを理解していない。彼らは何も分かっていない。お祭り騒ぎがしたいだけだ、と。
先に紹介したパリでの経験を踏まえて、私はそういうことを言う人たちに真っ向から反対したい。

デモとは何か。それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。だから、デモに参加する人が高い意識を持っている必要などない。ホットドッグやサンドイッチを食べながら、お喋りしながら、単に歩けばいい。民主主義をきちんと機能させるとかそんなことも考えなくていい。お祭り騒ぎでいい。友達に誘われたからでいい。そうやってなんとなく集まって人が歩いているのがデモである。

デモのテーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないなどと主張する人はデモの本質を見誤っている。もちろん、デモにはテーマがあるから当然メッセージをもっている(戦争反対、脱原発…)。しかし、デモの本質はむしろ、その存在がメッセージになるという事実、いわば、そのメタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることこそが重要なのだ。

フランス人はよく日本のストライキをみて驚く。「なんで日本人はストライキの時も働いているの?」と言われたことがある。何を言っているのかというと、(最近ではこれはあまり見かけないけれど…)ハチマキをしめて皆で集会をしながらシュプレヒコールを挙げている、あの姿のことを言っているのである。ストライキというのは働かないことなのだから、家でビールでも飲みながらダラダラしているのがストライキというのがフランス人の発想である。私はこの発想が好きだ。

デモも同じである。デモにおいて「働く」必要はない。高い意識を持ってシュプレヒコールを挙げたり、横断幕を用意したりしなくていい。団子でも食いながら喋っていればいい。ただ歩いていればいい。なぜなら、単に群衆が現れることこそが重要だからだ。


この引用部分以外にも、國分さんが見たパリのデモの様子、特に清掃部隊がやってくるあたりはとてもおもしろいので、ぜひ原文を読んでみてください。
なんていうか、悲壮感がないんですよね。ぷらぷらっとやって来て、だらだらと歩けばいい、っていう。これ好きだなあ。

もちろん現在の原発問題は、放射能という現在進行形でいのちに関わる問題をはらんでいるため、真剣にならざるを得ないのは承知しています。必要以上にへらへらするのもおかしい。本気で脱原発しようと思ったら、放射性廃棄物の処理や廃炉の管理など解決しなければならないことが山積みです。だからこそ脱原発デモは、息の長い、文化的な運動になったほうがいいと思うし、それが疲れちゃう類いのものでは長続きしないわけで、ある意味ではだらだらとやる覚悟も必要だと思います。

っていうか、オレらって基本だらだらじゃないですか。オレらっていうと語弊がありますね、少なくともぼくはそうです。できるかぎりだらだらしたいです。そんな奴がデモの時だけキリッって顔しても、ウソこけってなっちゃうような。だから個人的には、だらだらしたデモっていうのが定着するといいなと思ってます。だらだらした自分をさらけ出せる「場」としてのデモ文化。

ほんとはぐうたらなのに、みんなガンバッてるからとか、ガンバらないと怒られるからっていうので「ガンバリます」キリッって無理して作ってきたのが、これまでの日本経済を支えてきた「男社会」だと思うんです。ほんとはできないのに、やりたくないのに、「できます」「やります」つって。そうやって後戻りできなくなっていくという構図の象徴が原発なんだろうなと。(小田嶋隆さんはこのコラムで原発はマッチョであると述べていましたが、至言だと思います。)

だから脱原発の運動が、女性、とりわけ小さい子どもを持つ母親を中心にしているということは必然であるし、ものすごく大事なことだと思う。この声に耳を傾けないのは、いままでの「男社会」を崩したくなくて必至に耳を塞いでいる、変わることが怖い人たちだと思います。
逆に、脱原発の運動があんまり「ガンバル」方向に寄っていっちゃうのも、それはそれで「男社会」化していく危険性があるなあと思ったりもしています。たとえば、再生可能エネルギーは、ぼくたちの暮らしや、中央集権的な縦割り行政の仕組み、独占的な電気産業構造を変える契機となるもののはずです。それが単に、原発で足りないエネルギーを補うという数字の枠組みの中だけで捉えられたりするのは「男社会」的な考え方だと思います。節電をガンバルってのもそう。再生可能エネルギーの本質は、エネルギーの自治、自給自足です。中央集権機能に対するカウンターカルチャーであり、価値観のドラスティックな変化です。

原発の是非をめぐる問題を、経済の維持や成長という「商品」的価値観で語るか、自分の生活や生き方という「文化」的価値観で語るか、これはどちらが正しいという問題ではなく、位相の異なる話なんですね。自分は何を大事にしたいのかという選択の問題です。


子を持つ親として

デモに対する批判でいちばんタチが悪いなと思うのは、「子どもを盾にするな」という主張です。特に今回の再稼働反対デモには、子どもを連れた家族がいままで見たこともないくらい参加していました。彼らがほんとうに子どもを盾にしているのだとしか見えないのだとしたら、その想像力の欠如はちょっとかわいそうなくらい悲しいです。

なぜデモの参加者に小さな子ども連れの親が多いのかについて、世に倦む日日さんが書かれた文章がとてもよかったので紹介します。2歳と0歳の子どもを持つ親として、たいへん共感します(太字は筆者編)。

なぜデモの参加者に小さな子ども連れの親が多いのか - 世に倦む日日より
一見すると、政治的な示威と興奮の坩堝であり、群衆で騒然となったデモの現場に幼児を同伴する行為は、常識から外れた、教育上謹むべきことのようにも感じられる。しかし、よく考えてみると実はそうではないのだ。逆だ。幼い子どもを持った親、特に母親こそが、再稼働を止めなければならないという動機を最も強く持つ市民なのである。彼らは、自分の子どもが可愛いから、可愛い子どもを守ろうとする思いで、この抗議行動に参加したのである。子どもは自分の手で守らなくてはならないから。

子どもの命を守るためには親は手段を選べないから。世間から何と言われようが、過激だ非常識だ左翼だと罵られようが、子どもを守ろうとする親にとっては関係ないのだ。1歳、2歳、3歳の子どもは本当に可愛い。4歳、5歳、6歳も可愛い。親になって人は初めて生きる意味を知る。この子のために犠牲になるのが自分が生きる意味なのだと確信する。人として生きる喜びや感動の本質を悟る。子どもの命は自分自身の命だと信念する。そうした小さな子どもを持つ親が、昨年からずっと思い悩まされてきたことは、他の何でもなく、原発と被曝の危険の問題であり、放射能の害毒からどうわが子を守るかという難題だった。そしてネットで情報を探し回り、食品の安全情報を仲間内で交換し合い、福島の事故や原発に関わる政治の動向に目を懲らしてきたのだ。子どもを持つ親こそが、野田政権の原発政策に対して強い憤りを持ち、国民無視の暴政に怒りを募らせている。再稼働によって最も脅威と不利益を蒙るのが自分たちであり、何とか抵抗しないといけないと焦って思っている。だから、このデモは、まさに彼らこそが運動の中心になって担うべき政治主体なのだ。

それでは、彼らは何で自分だけで参加せず、子どもを混雑するデモの現場に連れて来ているのだろう。言うまでもない。片時も放っておくことができないからである。預かってもらえる場所がないからだ。彼らは、彼らの子どものために個人としてデモに参加し、デモに加わろうとすれば子どもを誰かに預けなくてはならず、それができないから、仕方なく現場に連れて来ているのである。一緒に参加しているのではない。個人としてデモに参加し、その必然として、やむを得ず子どもを同伴させる形になっているだけなのだ。子どもにデモを見せているのではない。趣味や娯楽ではない。パフォーマンスでもない。小さな幼児には、母親は傍を離れることができないのである。その幼児を守るために、敢えてリスクを冒して、母親は意を決してデモに飛びこんでいるのだ。


子どもを盾にしているとか、パフォーマンスだとか言っている奴は、母親がどんな気持ちで子育てしているか全く分かっていないバカだと思います。どれだけ身を削って、思い悩み、ふらふらになりながら子どもと対峙しているか。

子育ての心情を吐露した、くわばたさんのブログがまたたく間に広がったのも、大きな共感を呼んだからでしょう。とてもいい文章だと思います。
しんどいよな - くわばたりえオフィシャルブログ

デモの件に限らず、母親をバッシングしたり、親の自己責任を強調する人たちは、こういう子育ての現場に対する想像力がひとかけらも無いから、無神経なことが言えるのでしょう。他人事だから。とはいえ、ぼくも自分が親になるまでそんなこと想像もしませんでした。子育ては驚きの連続です。自分が子どもを持ってはじめて分かったことが山ほどある、というか知らないことしかなかった。自分はほんとうに何も知らなかったんだということが分かりました。「親になって人は初めて生きる意味を知る」とは、まさにその通りだと思います。

なぜぼくは自分が親になるまで子育てのことを想像もしなかったのか。まわりにそういう情報源がなかったからです。もちろん自ら積極的に情報を収集しようとすれば知ることはできたでしょうが、ふつうにテレビを見てのんべんだらりと生活をしている人には、子育てをする母親たちの声が届く術なんてほとんどない。テレビは、いろいろな企業やお店で働く父親や母親の姿は取りあげても、育児をする母親や父親は取りあげません。ニュースバリューがないから。子育てする母親は、耐え忍ぶのが当たり前みたいな空気が、たしかにあるわけです。その無言の圧力がどれだけ当人にプレッシャーをかけて追いつめているかは知らないままに。

子どもがいない人にまで、子育てのしんどさを共有して欲しいとは言いません。子育ては親の責任です。ただ、しんどい時はしんどいと言ったっていい。そんな他人の愚痴すらあげつらうような「道徳」なんて要らんです。自分の中の狭い価値軸で説教たれる前に、ちょっとだけでいいから、他者への想像力を持ってほしい。すなわち、知らなかったということを知ること。

今回の再稼働反対デモに、母親たちは、やむにやまれず、とび出したのです。
野田首相が再稼働の口実として述べた経済の安定とかいう「男社会」的な価値観が、母親たちをそこまで追いつめているということを、ぼくたちは官邸前デモの映像から感じ取ることができるはずです。「子どもを盾にするな」と言う人は、おんな子どもは意思表示するなと言いたいのでしょうか。傲慢ですね。

デモはこわい。デモはダサい。デモはイデオロギー。だからオレには関係ない。それらはぜんぶ刷り込みであったことが分かってきました。官邸前のデモはたしかに官邸に向けられて発せられる声です。しかしそのニュースを見たぼくは、そこに参加している人たちから大きなメッセージを受け取っています。

Entelchen Quakelmannさんのツイートより
「デモは危険」「子供を連れて行くところでない」という意識を世論にしみこませるのは権力者のデモ対抗手段。そうやって今後デモに行く人と行かない人を分裂させ、デモに行きづらい雰囲気作りをつくろうとすることは十分考えられる。ドイツでもそうだから。


デモの本質とは何か。ぼくはこう考えます。

「こんな人もいる」ということを知らせること。

為政者にそれを知らせるのが目的であることは言うまでもありません。と同時に、国民自身も知らなかったことを知るのだと思います。デモに参加しない人は、黙って見てればいい。ああ、こんなことを考えてる人もいるんだなあということを知ることに意味があります。同じ考えだけじゃない、多種多様な人たちが、お互いの存在を認め合うということ。そういう社会は、暮らしやすいと思いませんか。

スタバ行く?デモ行く?くらいの感じで、っていうとちょっと軽すぎるかもしれませんが、少なくとも選挙で投票に行くのとたいして変わらない態度で、デモというものが市民権を得て定着するといいなと思います。個人の政治的見解の違いなんて、昼めしマクドナルドにする?モスバーガーにする?それとも思い切って寿司?くらいの選択の違いでしかないです。たぶん。


官邸前デモをめぐるあれこれから感じたこと

官邸前デモをめぐるあれこれから感じたこと 2012.07.04 Wednesday [政治・メディア] comments(0)
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官邸前デモの行き先としての、OWS(ウォール街を占拠せよ)という文化 「お互いの声を増幅させ、皆の声を聞き合おう」

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官邸前の原発再稼働反対デモが広がりを見せています。毎週金曜日に行われているこのデモ、最初は300人で始まり、週を追うごとに規模を大きくしています。先週(6/22)の参加者は1万1千人とも4万5千人とも言われていますが、いずれにしてもこれまで報道が黙殺してきたにもかかわらず、Twitterなどのつながりでここまで人が増えたことはすごいと思います。このデモをきちんと報じたのは報道ステーション(と赤旗)だけでしたが、ぼくはこのニュースを見て、潮目が変わったのを感じました。今後も参加者は増え続けるでしょう。

ところで、ぼく的には、原発再稼働に反対する官邸前デモと、アメリカのOWS(ウォール街を占拠せよ)がどうしても重なって見えてしまうのです。その理由は後で述べるとして、OWSの現在が気になったので少し調べてました。


Occupy Wall Street(オキュパイ・ウォールストリート)(ウォール街を占拠せよ)は、抗議デモ活動というよりも「文化」と呼びたい

2011年9月17日、アメリカのウォール街で、社会的経済的格差に不満を持った若者たちが抗議デモ活動を自発的に始めてから、まもなく1年が経過しようとしています。当初は1ヶ月の予定だった抗議活動ですが、全米あるいは世界に広がっていると報じられたのも記憶に新しいところ(このブログにも書きました)。
最近ではOWSのニュースもめっきり見なくなりましたが、現在はどうなっているのか。

どうやら2011年11月に、活動の拠点であるズコッティ公園で、ニューヨーク市警による退去の強制執行があり、公園内のテントや寝袋を解体、参加者たちが持ち込んだ物品を一切合財没収し、抵抗した70人以上を逮捕したとのこと。印象的だったキッチンも私設図書館も医療設備も無くなってしまったそうです。

「ウォール街を占拠」ズコッティ公園から強制退去 - Democracy Now!

その後運動は小規模化し、消滅の可能性もささやかれていたそうですが、2012年5月1日のメーデーを機会に、再び盛り上がりを見せているとのこと。

ウォール街を占拠せよ、その後 - もうすぐ北風が強くなる
オキュパイ運動のメーデー1 - 折原恵のニューヨーク写真日記    

けっきょくこのOWSは何かを変えることができたのか、と問われれば、おそらく目に見えるかたちでは何も変わっていないでしょう。アメリカの格差社会は果たしてこれから改善に向かうのか。それも分かりません。おそらく誰にも分からないでしょう。
それでも、このOWSが簡単に終息するとは思いません。公園を追われたからといって、あるいは目に見える形での集会が減ったからといってOWSが終わったとは思えない。
というよりも、この運動は「デモ」という括りで説明できるのかどうか。

過去記事にも書きましたが、このOWSはシングルイシューを争点にしたデモではありません。だから掴みどころが無いし、主張が分からないとよく言われています。明確な主張をもとにして集まった人々ではない。問題があるということはわかっているけれども、彼ら自身も、具体的な手だてはわかっていない。

じゃあなぜ集まっているのか。

OWSの空気をよく表している動画があります。



見ましたか?この動画を見ていただかないと、今回の記事の意味が伝わらないと思うので、とばした人は見てくださいね。お時間のある方は、より詳しく解説された下記記事もどうぞ。

ソーシャル・メディアを利用した革命、OWS(オキュパイ・ウォール・ストリート)とは何か─現地NYからレポート - webDICE

簡単に言ってしまうと、OWSとは、民主主義を取り戻すための草の根ムーブメントなのだと思います。

問題があるということはわかっているけれども、彼ら自身も、具体的な手だてはわかっていない。だから、話し合う。わかっているのは、問題の根が短期的に解決できるようなものではないということ(だから具体的な主張に乏しい)。しかしそれでも声を上げずにはいられないくらい彼らが切羽詰まっているということ。だからこそ、話し合う。これって民主主義じゃないですか。

それは古くさい様式のアナログな小さな集まりかもしれない。けれども、もう何十年もアメリカの市民が忘れてしまっていたものなのかもしれません。自分たちが暮らすまちは自分たちの手でつくるということ。オバマにチェンジを託したけれども、けっきょく変わることのできなかった自国の構造を、それこそを変える必要があるのだと。そのために、「この場所」に居続けること。自らの身体をもって「土地に根をはる」ということ。

これって、自分の生き方を自分でつくっていくということであり、それって「文化」ではないでしょうか。OWSはただのデモじゃない。民主主義のあり方を問い直すことであり、共同体のあり方を問い直すことです。多種多様な人たちが集い、自発的に皆の意見を聞き合うという「共同性への萌芽」は、この運動が文化的であるからこそ生まれたものなのだと思います。


人間マイクロフォン

反グローバリゼーションの旗手であり、OWSにおいても重要な論客となっているカナダのジャーナリスト、ナオミ・クライン。10月6日、リバティ広場での彼女のスピーチがYoutubeにアップされています。





スピーチの内容はOWSの核にもなっているもので、非常にすばらしい視線だと思います。ここではその内容は置いておいて、注目したいのは彼女のスピーチの伝わり方。リバティ広場では拡声器が禁止されていたため、「人間マイクロフォン」を使って遠くにいる人にも聞こえるようにしています。「人間マイクロフォン」って何か。すごく単純です。最初の動画でもそうでしたが、ワンセンテンス毎にスピーチの言葉を周りの人たちがくり返して喋るのです。

オキュパイ運動のメーデー5(最終回) - 折原恵のニューヨーク写真日記より
まず演説する人が「マイク、チェック!」というと、聴衆の大勢が同じように「マイク、チェック!」と答えます。演説のすべての言葉を、このように復唱するのです。復唱することでその後ろのみんなにも聞こえるというだけでなく、言葉を自分のものとして噛み締める、つまり参加の能動性という二重の効果があります。


動画を見ていただくと分かりますが、復唱すると言っても、デモでおなじみのいわゆるシュプレコールとは雰囲気がずいぶん違います。伝言ゲームのようでもありますし、この広がり方は、まるでツイッターのようだとも感じました。実際に言葉を口に出して伝えるっていうのは言霊のちからでもあると思います。拡声器の禁止という逆境から生まれた、ずいぶんとアナログな手法ですが、とてもおもしろいと思いました。

人間マイクロフォン。これも民衆の中から生まれた、ひとつの「文化」だと思います。


原発再稼働反対デモの行き先

官邸前デモのはなしに戻ります。

原発の問題はシングルイシューのようで、実はシングルイシューではありません。ひとくちに再稼働反対といってもさまざまな理由やさまざまなレベルでの意見があり、それは再稼働容認の立場でも同様です。あまりに多くの課題を内包しているので、原発推進/反対という対立軸だけでは説明できません。無理矢理その二元論で解決しようとすると、なにか大事なものが抜け落ちてしまうような気がするのです。

安冨歩さんのツイートより
官邸周辺で集まっている人へ。官邸に怒鳴るのではなく、互いに、それぞれの考えを語り、聞き合おうではありませんか。そうやって互いに渦を作らないと、何も起きません。


安冨さんのこのツイートとまったく同じことを、最初の動画で人間マイクロフォンが伝えています。偶然でしょうか。
「お互いの声を増幅させ、皆の声を聞き合おう」

官邸前デモが、再稼働反対というシングルイシューを達成するためだけのものであるならば、たぶん原発問題は解決しません。いや、再稼働が止まるならば今回はそれでいいかもしれない。もし仮にこのデモで再稼働が撤回されたならば、それはたいへん素晴らしいことだと思います。ですが、それはゴールではなくむしろスタートになります。たしかに現在、日本の原発はすべて停止しています。けれども野田首相の再稼働声明を聞く限り、庶民の声よりも経団連の意向が優先される限り、同様の事態は何度も起こってくるでしょう。本気で脱原発しようと思ったら、放射性廃棄物の処理や廃炉の管理など解決しなければならないことが山積みです。だからこのデモは、息の長い、文化的な運動になったほうがいいと思う。

ぼくがはじめてOWSの写真を見た時に感じたのは、なんだか楽しそうだなという印象でした。
運動は根気づよくやらないといけないというのは事実だと思いますが、そうは言ったって、脱原発運動が疲れちゃう類いのものじゃ長続きしないし、ヒステリックになったらいつまで経ってもマイノリティ的立場から抜け出せないように思います。シュプレヒコールってどうも苦手なんですよね(とはいえ、6/22のデモにおける「再稼働反対」の声声声を動画で見た時には感動しましたが)。いつまでも眉間に皺寄せてたら誰だって疲れちゃいます。脱原発運動は、息の長い、文化的な運動になったほうがいいわけで、ある意味ではだらだらとやる覚悟も必要だと思います。

今回、あらためてOWSの動画を見て、ああこれってデモっていうか「文化」なんじゃないかと思いました。権威に対抗し得るのは文化なんじゃないかと。そして文化っていうのは庶民の生活から生まれるものなんじゃないかと。
グローバリゼーションとそれを加担する政府によって格差が助長され、それに対抗する文化としてOWSが生まれたと考えると、この運動が長続きすること、その中からアメリカの民主主義がもう一度再生されることを夢見ます。

マーケティングやら何やらで企業から与えられるのは「文化」ではなくて「商品」です。グローバリゼーションが扱うのって「商品」なんですよね。橋下徹さんあたりが文化を蔑ろにするのも、「商品的価値観」でしか「文化」を測れないからだと思います。行政の「サービス」というものも、上から与えてやる「商品」として考えているわけだし、オレの売り方に文句がある部下は辞めちまえとなるわけです。
そういった「商品的価値観」の土俵上で、彼とやりあっても意味がありません。あるいは、権威に対抗し得るのは文化であるということを直感的に分かっているから、文化を封殺しようとしているのかもしれません。日本全体で見ても、違法ダウンロード刑事罰化であったり、表現の自由を規制しようとする動きが顕著なのも、その表れかもしれない。

そしてそれに対応し得るのはやっぱり「文化」だと思います。
ぼくたちの生活から生まれる「文化」。

原発の問題も、経済の維持や成長という「商品」的価値観で語るか、自分の生活や生き方という「文化」的価値観で語るかではまったく位相が異なります。どちらかが正しいというよりも、自分は何を大事にしたいのかという選択の問題です。ぼくは文化を選びたい。


ぼくが感じていることとまったく同じことを書いて記事があったので紹介。そうそう、「あたたかい、喜びに満ちた連帯」ってことなんです。
ウォール街を占拠せよ:今世界で最も重要なこと - 西瓜糖とサクランボより
この動画の中で、人間拡声器として、ナオミ・クラインの言葉を繰り返す人たちの喜びに満ちた雰囲気は、ただ不安にかられて繋がりたい欲求を満たすためにそこにいるのではなく、「よりよい未来を作るのは自分たちだ」という、その明るい未来へ向かう「個」としてのひとりひとりが、そのことにコミットしようとしている喜びに基づいていると思います。この人たちはただお上や富裕層に唾棄しているのではない。長い時間がかかるとしても、「まともな社会」を作ろう、そのことに自らコミットしよう、としているわけです。


かつて日本が憧れた「自由の国アメリカ」。
いまでは見る陰もない同国ですが、ぼくがOWSに惹かれるのは、21世紀における「ほんとうの自由」の萌芽がここにあるような気がしてならないからです。





追記(6/30)
このブログを読んで、そして15万人が集ったとされる6/29の官邸前デモを受けて、ツイ友の山中さんがつぶやいていたことを転載します。

山中俊人さんのツイートより
(内田樹『街場の読書論』より)
贈与の本質は「これを受け取ってください」と差し出すことです。その時手渡される「これ」にはあまり意味はありません。
そうではなくて、「はい、どうぞ」という贈与行為そのものが重要なのです。というのは「はい、どうぞ」は「あなたはそこに存在する」という重大な認知的言明を含んでいるからです。
贈与に対する「確かに受けとりました」という返礼も同じです。 それは「私に贈与したあなたはそこに存在する」という鏡像的な言明が返される。
この相互認知、お互いに「あなたはそこに存在する」という言葉を贈り合うこと、それがすべての夾雑物を削ぎ落としたときの贈与の本質だと僕は思います。
メッセージが運搬しうるもっとも重要なメタ・メッセージは「宛て先が存在する」であるということです。
(以上、内田樹『街場の読書論』より)

OWS(オキュパイ・ウォールストリート)で僕が印象に残ったシーンがあります。それは『あなたたちを愛してます。』という言葉から始まる、ナオミ・クラインの声です。彼女は空を見上げ一つ一つ言葉を噛み締めるように話し出します。その生のままの声は人間マイクロフォンとなって次々と伝播していきました。
『私は今、数百人のあなたたちに「あなたを愛してます」 と大声で返してくるように、とは言いませんでしたね。これは明らかに人間マイクロフォンのボーナス機能です。他の人たちからあなたへと言われたことを、あなたから他の人たちへと言ってください、もっと大きな声で。』
そうしてナオミはこう続けます。『 昨日、労働者のデモで講演者の一人 がこう言いました。「我々はお互いを 見つけたのだ」と。この感想は、今まさにここで形成されているものの美しさを捉えています。より良い世界を望むすべての人々が、お互いを見つけるために、大きく開かれた空間を。』

この言葉を聴いてると、声(言葉)は贈り物だったんじゃないかと思ったんです。ナオミ・クラインに限らず、OWSで人間マイクロフォンとなって響いた様々な声は、あの場所に集まった人びとや動画を見た世界中の貴方への贈り物だったんでしょうね。

リーダビリティの本質はコンテンツにあるのではなく、「そのメッセージは自分宛てのものだ」と直感する人を得ることにある。待場の読書論という本で内田樹さんはそう書きました。

昨日のデモで印象に残った件があります。
それは、官邸に響いた10万の声を野田総理大臣はちゃんと聞いていて、そしてその声に対する声が『大きな音ですね』だったということです。(時事ドットコム:野田首相「大きな音だね」=官邸周辺の反原発デモに

彼には声として聴こえていなかったんですね。確かに昨日のデモの声はOWSのような人間マイクロフォンではなく、騒がしいシュプレヒコールというものでしょうけど。それでも聴こうとすればその言葉の意味を感じられた筈です。
だけれど野田さんには、それが大きな音、noiseとしてしか届かなかった。

市民からの贈り物は彼には届いていないんだなぁ。と。野田さんの言葉を思い出せば、そりゃそうだと思いますが。。

だけれど、僕らは互いの存在に気付く為に声を出すんでしたね。明日もまた。


同デモの様子は、NHKや報ステでもニュースとして取り上げられました。報ステでは鳥越俊太郎氏が「今回のデモには労組の旗がない。これは52年ぶりに起きた、生粋の市民によるデモだ。非常に感慨深い。」とコメントしていました。
また、特にいい取り上げ方だと思ったのはTBSのニュース23。官邸前の現場だけではなく、草の根的に広がる再稼働反対の声を紹介。小さい子どもを持ち、現地のデモに行けないママたちがツイッターで呼びかけ合い、カフェに子どもたちと一緒に集い、デモが行われている間の時間を共有していました。
「官邸に声が届くわけではないけれど、こういうふうに集まったり思っている人がいるということをツイッターで発信して、気持ちを共有できれば」
というママのコメント。大事なことだと思いました。

デモはこわい。デモはダサい。デモはイデオロギー。だからオレには関係ない。それらはぜんぶ刷り込みであったことが分かってきました。官邸前のデモはたしかに官邸に向けられて発せられる声です。しかしそのニュースを見たぼくは、そこに参加している人たちから大きなメッセージを受け取っています。大飯原発前でのデモもまた然り。
自分の言葉を出しづらいならRTだっていい。その声は誰かへの贈り物になるはずです。ぼくたちは、お互いの声を聞くために、お互いの存在に気付くために声を出すのです。明日もまた。


官邸前デモの行き先としての、OWS(ウォール街を占拠せよ)という文化 「お互いの声を増幅させ、皆の声を聞き合おう」

官邸前デモの行き先としての、OWS(ウォール街を占拠せよ)という文化 「お互いの声を増幅させ、皆の声を聞き合おう」 2012.06.29 Friday [政治・メディア] comments(4)
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