「金曜の東京」から知る小沢健二

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
小沢健二が日本の音楽シーンの表舞台から姿を消して、もう何年が経つだろう。ぼくもけっこう好きなアーティストだったので、たまに名前を見かけると反応してしまう。ネットで検索しても、ほとんど情報がヒットしない時期もあったが、どうやら、アメリカに渡り、「うさぎ!」なる連載小説(童話)を書いているらしい、ということを数年前に知った。けれども、当時はそれ以上追いかけることはしなかった。ふーん、くらいの感じで。

2008年に、ふと思い出して『Eclectic』を聴いてみたらハマってしまった、という文章をぼくはこのブログで書いている(小沢健二 / Eclectic)。しかし、そこでも、彼が「いま」何をしているのかということについては言及していない。そこまで追いかけていなかったからだ。今年の春、東京でコンサートを開催というニュースを耳にしたときも、深く調べるには至らなかった。そんな程度のライトなファンだった。

先日、ツイッター上で小沢健二の文章が話題になっていたので読んでみた。東京で起こっている官邸前デモについて書かれたもので、公式サイト「ひふみよ」で発表された「金曜の東京」と題された文章。とても共感した。一部抜粋します。

金曜の東京 (2012年7月11日 小沢健二)より
僕がよく知っている街の一つメキシコシティーでは、ひと夏に800ものデモ行進があります。南米でもインドでもニューヨークでも、過去数世紀いつも抗議運動が起こっていて、どの街でも自然なものとして、ある意味しぶしぶ、行われています。(そりゃ抗議する必要のある問題がなければいいのですが、個人にも社会にも、問題ってのは必ずあるわけで。)
なので、そうですね、「普通」の都市では、デモは「是か非か」と論議するようなものではないと思います。車が走っている限り交通事故があるように、社会がある限りデモがある、という存在の仕方だと思います。

(中略)

むしろ訪れて怖いのは、デモが起こらない街です。いわゆる独裁者が恐怖政治を敷いている街では、デモは起こりません。そのかわり、変な目くばせが飛び交います。

(中略)

デモが起こらない、表面上は静かな都市には何か深い、暗い理由があることが多いと思います。まあどこかには理想郷のような国があって、みんなが笑いながら暮らしているのかも知れないけど…。
デモが起こる都市より、デモが起こらない都市の方が怖いです。

東京も割とデモが起こらない都市で、デモの起こるニューヨークやメキシコシティーから帰ると、正直言って不思議というか、中東の王国を訪れた時のような、ちょっとした緊張感がありました。
抗議するべき問題がないからデモがないのか。それともどこかの王国のように、心理的に、システマティックに抑え込まれているのか。何か他の理由があるのか。ひいき目も人情もあって、客観的に見ようとするのは、結構勇気のいることです。

(中略)

今の世界は、どこの国でもアングロ(イギリス)・アメリカ型の人間管理手法をコピペする世界です。日本だけが例外ということはなくて、「説明責任」とか「トリックルダウン」とか、そんな日本語あるの?みたいな言葉が、人間管理手法の輸入とともに、日本語の中に入ってくることに気づいている人も多いと思います。
イギリスは人間管理とか心理誘導の技術にとても長けていて、サッチャー首相の頃、80年代にはTINAと呼ばれる説得論法がありました。「There Is No Aiternative」の略。訳すと「他に方法はない」ということ。「他に方法があるか?対案を出してみろ!出せないだろう?ならば俺の方法に従え!」という論法の説得術。
しかし、これは変な話です。
医者に通っていてなかなか治らないとします。患者は文句を言います。「まだ痛いんですよ!それどころか、痛みがひどくなってます!他の治療法はないんでしょうか?」と。
それに対して医者が「他の治療法?どんな治療法があるか、案を出してみろ!出せないだろう?なら黙って俺の治療法に従え!」と言ったら、どう思いますか?
治療法を考えるのは医者の仕事ですし、治らなかったら医者を変えたり、漢方にしたりするのは自然です。患者がすべきことの一つは、痛い限りは「痛い!」と切実に訴えることです。その訴えを聞いて「これは新しい病気かもしれない」と気づいて治療法を見つける医者がいたりして、「医学の進歩」ってのがあるわけです。
患者が黙って、効かない治療を文句言わずに受け続けていたら、医学の進歩ってのはありません。むしろ医学は、痛みを訴える患者に感謝するべきところ。
同じように、社会をどうするのか考えるのは職業の人は、人の「痛い!」という切実な声を聞いて、心を奮い立たせて問題に取り組むのが正しいはずです。
なのに一般の人が「この世の中はヒドイ!痛い!」と声を上げると、「じゃあお前ら、対案は何だ?言ってみろ!対案も無しに反対するのはダメだ!」と押さえつける政治家とか専門家とか評論家とかがいるのは、むちゃくちゃな話です。
専門家同士が「お前の案は何だよ?」とやり合うのはわかります。お互いに怒り合うのが彼らの職業なのですから。
でもみんなが専門家になるべきでもありません。「何だか知んないけど痛いんだよ!どうにかしてよ!」と訴える人によって医学が進歩したように、ただ生きているのが痛いから抗議をする人は、「世の進歩」の一部を担っていると思うんですが、どうでしょうか。

音楽では、楽器も弾けない人に「あのアルバムは駄作だ!」なんて批判されるのは普通です。それに対して僕らが「じゃあ対案は何だ?言ってみろ!お前が良いアルバムを作れないなら、黙ってろ!」とやり返すことがあるでしょうか?
そんなことをするのは、よっぽど才能のない人だけだと思います。

それに、今の社会だって、最初からはっきりした「案」があって、その通りに出来てきたものではないのです。「とりあえず」とか「現場の折り合い」とか「意外な展開」とかが重なって、今の世の中が出来ています。
社会は巨大なものなので、最初から細部まで予測できる人なんていないし、予測できない細部が、決定的な違いを作ったりします。
だから、事前からみんなを完全に納得させられる「対案」を持っていた人なんか、実は歴史上いたことがないと思います。
過程、プロセスの中から、現実が生まれる。荒っぽさとか、偶然を経て。
思い当たる人は、多いと思います。


昨年からニューヨークで起きているOWS(ウォール街を占拠せよ)という動きがある。小沢健二の「金曜の東京」を一読すると、彼が、OWSに象徴されるような、反グローバリズム的視点、新自由主義的な資本主義経済に対抗する立場からものごとを見ているということが分かる。

いや、どうもそれは以前から衆知されていたようだ。しかし若干曲がったニュアンスで。つまり、小沢健二は「エコ活動」なり「エコロジカル」な「思想」に「傾倒」している、というような噂が立ったんですね、一時期。みんなから愛された、あの「オザケン」はもう居ないのだと、なんとなく敬遠されるようになっていた。ぼくがオザケンの情報についてあまり追いかけようとしなかったのも、多かれ少なかれそういったイメージが影響していたのかもしれない。

「エコ活動」に勤しんで、資本主義がもたらす自然破壊について警鐘を鳴らす活動をしている彼が、自身の曲(のカバー)を自動車のCMに使用されることを承諾したのは、矛盾しているのでは。という見方まであった。
小沢健二さんは何故、この曲の使用を許可したのでしょうか? - Yahoo知恵袋

そう、いまになってみて分かることなんだけれど、震災前までの日本では、こういった極論が「ふつう」だった。社会や政治のことについて語るのはダサいことだった。それは一部の人がやることだと思われていた。出る杭は叩くというか、何か少しでも自分と異なる、相容れないことをしている人を、自分の外側に「カテゴライズ」して安心する、自らの視線から排除するっていうのがふつうだった。かくしてオザケンも「過去の人」になった。少なくとも、そういうふうに「カテゴライズ」された。

このことについて、彼はこう書いている。

ひふみよに関するお問い合わせをして下さった、各方面の皆さまへ(2010.2.16) - ひふみよより
どこかのゴシップ雑誌に「小沢健二はエコ活動に没頭している」なる記事が掲載され、それがニュースサイト等で大きく扱われたことによって、そのような印象が形成されたということですが、私には本当に、自分がどんな「エコ活動」にどう「没頭」しているのか、さっぱり見当がつかないのです。


そしてまた、そんなゴシップが流布しているという話を彼が聞いたのは、ちょうど南米の山中を旅している時であったため、そしてその旅の時間をたいせつにしたかったため、あえて反論も対応もしなかったと。そのことについては後悔していないとのこと。



いま、この「金曜の東京」という文章を読んでみると、時代のほうが彼に追いついてきたんだなあと思う。ぼくはこの文章を、何の違和感もなく受け入れることができた。かつてオザケンの歌に慣れ親しんだパパやママの中にも、そういう人は多いのでは。あるいは、小沢健二という人物のことをぜんぜん知らない若い世代の人たちにも届く文章だと思う。

彼は「エコ活動」なんていう、狭い範囲だけを見ているわけじゃなかった。彼は、10年以上前から社会の中の「灰色」を見ていた。
そしてぼくたちは、震災と原発事故を通してようやく、自分たちの暮らすよのなかが「灰色」で出来ていることを知った。ほんとうは「灰色」で出来ているのに、見えないように蓋をして知らないふりをしてきたことがたくさんあったのだということを知った。原発だけじゃない。震災があぶり出した、日本が抱える構造的な問題。システマティックにぼくらを取り囲み、縛り付けるそれらの問題は、実はぼくたち自身の心の発露が原因でもあった。震災を通して、ぼくたちは日本の構造問題と向き合い、そして何より自分自身と向き合っている。


「うさぎ!」 の文章を一部紹介している記事があった。この文中で著者がオザケンに対して抱いた印象と、まったく同じことをぼくも思った。

小沢健二「それは、「自己責任」という言葉でした。」 - DDN JAPANより
そうやって人をまわりの者や自然とつなげている「親切」を、人の心の中から追い出していくために、灰色は、言葉をつくるのが上手い手下たちを使って、1つの言葉をつくり上げました。

それは、「自己責任」という言葉でした。

「自己責任」という言葉を心に叩きこまれると、人は、苦しんでいる人を見かけても、「あそこに苦しんでいる人がいるが、あれは自己責任で、私が感じる必要はない苦しみだ」と思うようでした。

(小沢健二「うさぎ!」  季刊「子どもと昔話」27号より)

ネット上に散らばる最近の小沢健二の言葉を拾い読みしてみた。一部のマスメディアに"エコの烙印"を押されている彼だけど、どう考えても単に"エコ"ではなく最近ほころびが顕著な僕らの「社会システム」に対する疑問や、大衆操作に対する問題提起を投げかけているとしか思えない


渋谷系の「王子様」ともてはやされた頃のオザケンと、こうして社会的なメッセージを投げかけるオザケンは、一見すると、まるで別人であるかのように映るかもしれない。昔のオザケンに戻ってほしいという声もあるかもしれない。でも、ぼくはあまり違和感を感じない。反グローバリズムを根幹にしているとはいえ、彼の文章からは、そんなに極端な原理主義的な主張は感じない。

ポップな音楽を奏でながらも皮肉屋であったり、社会派であってもチャーミングであったり。オザケンという個人が持つ資質みたいなものはあまり変わっていない気がする。彼はたぶん昔もいまも変わっていない。自分に正直なだけなのだろうと思う。

「金曜の東京」の文章からは、彼が活動家や思想家であるといった言論闘争的な匂いはまるで感じられない。子どもに聞かせるかのように、すごく丁寧にやさしく書かれている。あえて言うならば、かつての「渋谷系」がカルチャー的なもの、生活に添った“モノ”を愛でる文化であるとするならば、いま彼が立っている「ひふみよ」は、生活“そのもの”を愛でる文化なのではないかと思う。それは大人になったということかもしれないし、年をとったということかもしれない。

だって、何のために社会のことを知ろうとするのかといえば、不朽の名作『LIFE』で彼が歌ったような、あの抱きしめたくなるような、ラブリーな毎日を、自分の生活の側にたぐり寄せたいからに他ならないのだもの。ぼくもあの頃より少しだけ年をとったから、いまはそれが分かる。

小沢健二「うさぎをめぐる冒険」超詳細レポート、スチャダラパーのBoseと2時間に渡る濃密トークショーに - BUZZAP!より
Bose「『社会のことを考えるには真面目な人じゃなきゃいけない』という空気がある。反原発運動をしている人とかは『パサパサした雰囲気』があって。化粧しちゃいけないみたいな」

小沢「それは『貧しい人のことを心配するならお前がまず貧しくなれ』みたいな罠」「自分の生活を抑える必要はない、喜びをあきらめなくても社会のことを考えていい」「矛盾していて当然。パサパサした人になる必要はない」


官邸前デモが「ふつう」のことになりつつあるいま(過去記事)、彼のこの言葉はとても腑に落ちる。ぼくたちは、生活“そのもの”を愛でるために、社会のことを考えるのだ。そのために、生活“そのもの”を犠牲にする必要はない。というか、そうなったら本末転倒だよね。



「ひふみよ」に掲載されている他の文章も読んでみた。おもしろい。
で、いまになって知ったんだけど、2010年に「ひふみよ」サイトがオープンして以来、わりと精力的に彼の文章が掲載されているようだ。もったいないので後でゆっくり読んでみることにする。このサイト、ページのナビゲーションが分かりづらくて読みづらいのが難点。きちんとテキスト化されたら、おそらくもっと読まれるはず。下記関連リンクに各記事へのリンクを貼っておく。

で、最後にまあ贅沢を言わせてもらうと、そんな彼が、いま、奏でる「音楽」を聴いてみたいと思ってしまう。やっぱり、ね。



「金曜の東京」から知る小沢健二

「金曜の東京」から知る小沢健二 2012.07.13 Friday [音楽・映像] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

七尾旅人「圏内の歌」

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
震災前から名前はいろんなところでよく目にしていました。何度か試聴もしてみましたが、すすんで聴くには至りませんでした。震災後、近所の芸工大で「福興」ライブに来ていたらしいということをツイッターで知りました。ああそういうマインドの人なんだと漠然としたイメージを抱いておりましたが、やはり未聴でした。シンガーソングライターの七尾旅人(ななおたびと)さん。

ふとしたきっかけで、彼の「圏内の歌」という歌を聴きました。すばらしい歌だと思いました。心の深いところで感動した気がしました。下記の映像は、2011年9月17日に山形県長井市で行われた音楽フェス『ぼくらの文楽』での演奏です。(正確には、音楽だけでなくレクチャーやワークショップも開催される、「文化フェス」だそうです。ちなみに同フェスは今年も開催されます。)



とてもかなしくて とてもやさしい うただと思います。

日本のミュージシャンが原発や放射能について歌うことはあまり多くありません。センセーショナルな話題を呼んだ、斉藤和義さんの「ずっとウソだったんだぜ」は、ぼくもその内容には同感だし「ロックな」歌だと思います。あの時期にあの歌を歌った斉藤和義さんには拍手をしたい。ただ、これがずっと語り継がれていく歌であるかというと、ちょっと違うような気もします。あるタームにおいては、反骨を体現する「ロック」は必要ですが、いま日本の原発をめぐる状況は、すでに次のフェーズに突入しているように感じるからです。

七尾さんが歌う「圏内の歌」は、もっとずっと被災地に寄り添った歌です。この歌は、七尾さんが被災地の現場に足を運び、作られたものだそうです。国に対する不信や理不尽さに対する怒りがあるのはもちろんのことですが、もはやどうしようもないことだというある種のあきらめというか、被災地で、放射能の恐怖とともに暮らす人たちの、なんというか、「そのまま」があるように感じました。少なくとも七尾さんは、「そのまま」と向き合い、寄り添おうとしているのだと思う。

小さな子どもを持つ親としては、「こどもたちだけでも どこか遠くへ」という行では、やはり胸がきゅっと締めつけられるような想いになります。「離れられない 小さな町」は現地で暮らす人の正直な気持ちだと思うし、そうやって「何年も 何年も おばあちゃんに聞かされた寝物語 ここらへんのこどもたちは みんな知ってるやさしいお話」が、これから作られて語り継がれていくのだろうと。これは未来の歌でもあります。


原発事故、とりわけ放射能と向き合うことが、タブー視されるようになるのは、とてもおそろしいことです。「このくらいの放射能は問題ない。安全だ」という意見や、「もう日本はだめだ。東日本は人が住めない」という両極端な意見ばかりが目立つようになり、ふつうの人が放射能に対する素朴な疑問や不安を口にすることすらはばかれるといった空気が世間に瀰漫するならば、ぼくたちは自分の心に対しても、子どもに対しても、どこかウソをついていかなければなりません。ウソを積み重ねて、砂上の楼閣を作っていくことになる。それは「論理的」には正しいかもしれませんが。喉の奥に何かがつっかえているような違和感がつきまといます。


ぼくがこの曲を聴いてみるきっかけになったのは、リツイートでまわってきた七尾さんのツイートに感銘を受けたからです。脱原発をテーマにした音楽イベント『No Nukes 2012』での演奏(七尾旅人・大友良英・坂本龍一・ユザーンによる共演)を終えてのつぶやき。

七尾旅人さんのツイートより
音楽的な言語で 政治やジャーナリズムの言語では語りきれないものを捉えて鳴らそう 単純化されたスローガンに陥らないように 音の波をかきわけて どんな立場の方にも会いに行ければ良い 音楽は誰も排除しない


ああ、ぼくらが音楽を聴く理由がここにあるなと思いました。

言語化され、可視化されることによって、ぼくたちのコミュニケーションは円滑にすすみます。しかるにコミュニケーションに使われる言語は単純で明快なほど伝わりやすい。マスメディアはやたらと分かりやすいフレーズでものごとを説明しようとします。その結果、どこも画一的な表現になってしまう。逆に、知識人がやたらと難しい言葉で相手を説得しようとするのも、言語化され、可視化されるものこそが正解なのだという自負があるからではないかと思います。

でも、そうじゃないものってたくさんあると思う。単純明快な言葉で説明したとき、そこからこぼれ落ちてしまうものもたくさんあります。それはうまく言葉で言い表せないかもしれない。でも、言葉で言い表せないから「無い」わけでは決してない。もしかすると、言葉という媒体によって伝達され得ないからこそ、人の心の深くに根をはって住み込んでいるものかもしれない。

音楽には、そういった何ともいえない心象のようなものを、すくいあげる力があるのだと、そしてまた、そういった心象をもとにして、人と人がつながることもあり得るのだと、もしそれが可能ならば、ゆるやかでやさしい共同体ができるだろうなと、七尾旅人さんのこの歌を聴いて、思いました。




追記(7/17)
No Nukes 2012での「圏内の歌」動画がありましたのでリンク貼っておきます。
「圏内の歌」 七尾旅人 + 大友良英 + 坂本龍一 + ユザーン No Nukes 2012


「圏内の歌」も収録された七尾旅人ニュー・アルバムはこちら。


七尾旅人
SPACE SHOWER MUSIC
発売日:2012-08-08



七尾旅人「圏内の歌」

七尾旅人「圏内の歌」 2012.07.09 Monday [音楽・映像] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

Marcin Wasilewski / Faithful

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY


Marcin Wasilewski
Ecm Records
発売日:2011-04-12



単純に、音として、ぞくぞくする。
こういうインタープレイの妙が生き生きと刻印されている音に、ただただ身を任せている瞬間っていうのは至福の時間ですね。からだの中の細胞がぐるぐる動くのを感じます。

名前、なんど目にしても読めないし覚えられないんですが、マルチン・ボシレフスキ・トリオというポーランドのピアノトリオです。静謐な作品を数々リリースしている老舗レーベル、ECMからの3作目。


その前に「インタープレイ」について。
ジャズはあまり詳しくはないのですが、ピアノトリオは好きでちょこちょこ聴いています。ピアノ、ベース、ドラムというシンプルな編成で展開される、いわゆるインタープレイっていうんですか、まるで楽器を演奏している人のすがたが目に浮かぶような、スリリングな演奏の魅力を知ったときは、へえこんな音楽があったのかと驚きました。
ピアノトリオの中でもぼくは、ビル・エヴァンスの系譜といいますか、リリカルな音色のものがとくに好きなのですが、エヴァンスという人はインタープレイを取り入れることでピアノトリオの概念を覆した人なんですね。



Bill Evans
Riverside
発売日:2008-03-13



黄金のピアノトリオ - 編集長の身辺雑記帳より
エヴァンスは演奏スタイルで「インタープレイ」を早くから取り入れたことで知られている。エヴァンスの時代の前までは、ベースとドラムスは伴奏しか過ぎなかった。つまり音を刻むだけ。「刺身のつま」的なものだったのです。それをエヴァンスは、ピアノ・ベース・ドラムスを対等の立場とした。それぞれが対等の立場でプレーするのです。これが「インタープレイ」。今ならこんなの常識なのですが、50年ほど前の当時はそうではなかったということです。インタープレイによってトリオとしてのプレイに緊張感が生まれる。



で、このマルチン・ボシレフスキ・トリオの新作は、インタープレイによるピアノトリオの魅力っていうものが存分に味わえる作品。静謐な曲が大半を占めるのだけれども、それぞれの楽器が躍動する。生きている。粒の立ったECMの録音がそれをさらに引き立てていますね。


まあ、しのごの言わずに試聴してみましょう。




聴きましたね?

はい、深呼吸して。あとはもう何も言いません。
黙って下のリンクからポチってください。



Marcin Wasilewski
Ecm Records
発売日:2011-04-12



ポチりましたか?
くどいようですが、購入の際は上記リンクからポチっていただけるとぼくにおこづかい2.0が入ります。Studygiftとは何の関連もありません。ありがとうございます。

ところでまたひとつこじつけを思いついたのですが、「インタープレイ」の、誰が主役というわけではなく、それぞれがそれぞれの「個」を尊重し合い、魅力を引き出し、共鳴し合う、っていうスタイル。民主主義ってそういうことだよなと思いました。


Marcin Wasilewski / Faithful

Marcin Wasilewski / Faithful 2012.06.11 Monday [音楽・映像] comments(2)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

坂本慎太郎 / 君はそう決めた ( You Just Decided )

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY


「いいうた」を聴くと、ほんと余計な解説とかって野暮にしかならないですね。
これもそういう種類の「いいうた」です。PVもおもしろいので、ぜひ上の動画から試聴してみてください。

ただ傍らに在ること。

なんか、そういううたですね。生活の一部として音楽があるというか。あるいは寄り添うというか。押し付けがましくなく、ぼくはここにいるよと。君もそこにいるんだねと。
ああそうか、これも「抜け」がある音楽なんです。なんか傍らでぽこぽこ鳴ってる。これといった主張があるわけでもなく、ただ鳴ってる。とりたてて何かを語りかけられたり応援されているわけでもない。なんだけれど、ただ傍らに在るもののぬくもりを感じて、じんわりする。
いや、これたぶん逆なんですね。何かを語りかけられたり、応援されたりするとたぶんこういう「抜け」にはならない。重くなる。ただ傍らに在るだけだからこそ、じんわりとするんだろうなと。寄り添うってそういうことなんだろうなと。いろいろと過剰なものが削ぎ落ちた結果としてそうなるんだろうなと。

すんげえ抽象的ですみませんが、この曲を聴いてぼくはそう感じました。


ゆらゆら帝国の解散後およそ1年半で届けられたソロ・アルバムにこの曲は収録されています。ぼくはゆらゆら帝国を熱心に聴いていたわけではないので、坂本慎太郎さんの音楽的変遷を詳しく辿るようなレビューはできません。相変わらずゆらゆらしたボーカルだなあ、くらいしか分からない。インタビュー記事がけっこうあるみたいなので後で読んでみます。でも、そういう先入観や知識、あるいは過剰な演出やストーリーを抜きにしたところで、ただ単に音楽の「鳴り方」が心地いいというところがこの曲が「いいうた」たる所以です。たぶん、音とか声そのもの自体から、アルファ波というか何だか知らんけど気持ちいいものが出てるんだと思う。たぶんそれは「出そう」と力んでしまったら出ない類いのもの。

というわけで、他の曲も試聴してみたら同じように「抜け」てる曲ばかりでいい具合だったので、このアルバム買っちゃお。みなまさもよろしければ。くどいようですが、購入の際は下記リンクからぽちっていただけるとぼくにおこづかい2.0が入るので嬉しいです。



坂本慎太郎
zelone records
発売日:2011-11-18



これをステレオで聴きながら息子とドライブしたいなあ。なぜかいまPerfumem-floを気に入っている様子の息子が、どんな反応を示すかは分かりませんが…。

坂本慎太郎 / 君はそう決めた ( You Just Decided )

坂本慎太郎 / 君はそう決めた ( You Just Decided ) 2012.06.07 Thursday [音楽・映像] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

SPEED / リトルダンサー 齢を重ねること 機縁と本来性の実現

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
まさか自分がSPEEDの記事を書くとは。SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)じゃなくて、90年代中頃にヒットしたキアヌ・リーブスの映画でもなくて、90年代中頃にデビューした沖縄の4人組です。

先日、YoutubeでPerfumeの動画を見ようと検索していたら、Perfume SPEEDとの共演という動画を見つけて、そういえばSPEEDも再結成したといつだか小耳にはさんだような気もするなあ、なんて思いながらふと気づいたんですが彼女たちもいい年齢になってたんですね。「White Love」の頃の印象が強く、いまだに十代のイメージが残ってたものでなんかちょっと新鮮で。懐かしさとともに、試しに新曲(と言っても昨年の8月リリースですが)を聴いてみたくなりました。

で、その新曲「リトルダンサー」のPVを観てみたらこれがすごく良くて、思わず見入ってしまいました。この動画を見て感じたのは、過去を懐かしむという感傷ではなくて、現在の彼女たちのすがたがここにあるような気がして。ああ変わってないなあという部分と、ああ大人になったんだなあという部分と。



ついでにライブバージョンも。



ダンスがきびきびとキレがあって気持ちいいのは間違いがない。だけどそれだけじゃない気がします。なんというか、いろいろなものがいい意味で「抜けて」いる感じの、力みの無いさじ加減が非常に気持ちいいですよね。

一言で言ってしまうと、SPEEDも大人になったということなんだろうけど。動画を見たときに感じた「抜け」感っていうのは、単に「年をとった」というだけでは説明できないよなあと思うんです。もちろんぼくは、彼女たちが解散後いまに至るまでどんな経験をしてきたのか全く知りません。ソロ活動を追いかけていたわけでもない。それでも、彼女たちが仕事なりプライベートなりで各自さまざまな経験をして、それは楽しいことかもしれないし苦しいことかもしれない、それらをくぐりぬけてきたということは容易に想像できる。受け手にそれを想像させるのがアイドルなのか、想像させないのがアイドルなのかはわからないけれども。彼女たちのダンスは、思わずそう想像してしまうような表情をしています。

そんな表情を見たときにぼくが思い浮かんだ言葉は「年をとった」ではなく、いい具合に「齢を重ね」ているなあというものでした。って、20代後半から30代はじめだからまだ充分に若いですけどね。その人となりが出来上がるのに年齢はアテにならないというか、時間は黙っていても過ぎていくわけで、誰でも平等に1年に1つずつ年をとっていくわけだけれども、その1年をどういうふうに重ねていくかっていうのはぜんぜん平等ではなくて、そこには様々な要素が絡み合ってくるし、どう受け止めるかで結果さえも違ってくるのだと思います。


齢を重ねること

ところで「齢を重ねる」って、ふつうに使う言葉なのかなあとふと思い、ぐぐってみたら我が意を得たりの文章に出会いました。

歳をとる、齢を重ねる 佐藤 真理人 - 早稲田大学交域哲学研究所より
私の語感では、「歳をとる」という表現は否定的な意味合いをもっている。単に年齢が加算され、老いていくだけという含みがある。それに対し「齢を重ねる」は深さと重みを含意している。齢を重ねることによって、人は深みを増し、より人間味豊かになる。それは自分らしい自分になることである。実存哲学で言う「本来性」とはそういう自己固有性であると私は思う。(中略)齢を重ねることによって円熟することこそ、おのれの本来性の実現となるであろう。


おのれの本来性っていうのは、つまり自分らしい自分ということですよね。これって実はとてもやっかいなものだと思うんです。自分「らしさ」っていうこと。えてして若い人たちは「自分探し」の旅に出たりするわけで、それはそれで若い時分には必要というか、あっていいと思います。ところが、そうやって自分「らしさ」を一生懸命に探そうとすればするほど、逆にその「らしさ」に縛られてしまうという事態が発生してくることがあります。「らしさ」の呪縛ですね。ぼくもひととき父親像というものに思い悩むこともありました。

以前に書いた記事です。
らしさの偶有性 - yamachanblog

自分が実際に子どもを持ち、子どもと接する中で、そして子どもを介して他者と接する中で感じてきたことは、実のところ、「○○らしさ」っていうのは、他人との関係性の中でしか成立しないものなのではないかと思うんです。子どもとの関わりの間でしか父親・母親とはなり得ない。先生と生徒はその関係性の中でしか成立しない。政治家は有権者がいなければ存在しない。絡み合いの中ではじめて、相対的に「○○らしさ」が生じる。無数の絡み合いの中で、生じるもの。偶有性。

「○○らしさ」っていうのは、関係性の中でしか成立しない。であるならば、本来性というものは、偶有性の中で変化していくものなのでは。「父親らしさ」の呪縛からドロップアウトしたときにぼくはずいぶんと楽になりました。


機縁と本来性の実現

そんなことを考えている人は大昔からいるわけで、仏教の教えというものはそのあたりが中核になっているようです。仏教について詳しく知っているわけではないので大きなことは言えませんが、ポッドキャストでたまたまそんな話を聞きました。

中島岳志×平川克美「吉本隆明を語る」(ラジオデイズの番組「ラジオの街で逢いましょう」)の対談で、中島岳志さんが語っていたことです。20代の頃に仏教書を読み、「わたしはいないがゆえに、わたしがある」「絶対的なわたしというものは実在せず、わたしはただ縁(エン)によって構成される」、つまりわたしという存在は、様々な環境や要素の割合、機縁によっていかようにでも変わる可変的な存在である。という観念を知り、まだ「自分探し」の最中にあった20代の中島さんは驚愕したそうです。そんな、探そうとしている「自分」なんてものは実在しないんだよと。

さすが仏教すごいですね。たぶん聞きかじった程度ではその真髄には到達できないでしょうけれども、先に書いたように「らしさ」の呪縛から感じていたこと、つまり「○○らしさ」っていうのは無数の絡み合いの中で生じるっていう感覚と通じるような気がします。すなわち、無数の絡み合いというものを縁(機縁)と呼んでいるのではないかと。

その縁を受け取るのも、拒絶するのも自分しだいです。こんな縁はオレらしくないから要らねーぜ、と言ってシカトすることもできるし、袖振り合うも他生の縁と受け取ることもできる。あるいは、納得できないけれどもしぶしぶ受け入れることもあるかもしれない。ただいずれにしても、そういった縁が自分をつくる一要素になることは間違いがない。オレらしさに固執するあまりに縁を拒絶したら、それは実はオレらしさを狭める結果になるんですね。

芸術作品なんかでも、我が強い作品と我の無い作品とがあります。どっちがいい悪いっていうものでもないですが、年をとるにつれて我の強い作品は(嫌いじゃないですが)見ていて疲れるようになっちゃいました。我の無い作品って何なんでしょう。中島さんが仏教書に驚愕したように、ぼくは20代半ばの頃に土門拳の言葉に驚愕しました。

『写真の立場』土門拳 - 土門拳記念館より
写真家は、機械のうしろに、小さく小さくなっている。写真家が小さくなって、ついにゼロになることは、なかなかむずかしい。せいぜいシャッターを切るとき、あっちの方を眺めるぐらいなものだ。
写真の中でも、ねらった通りにピッタリ撮れた写真は、一番つまらない。
「なんて間がいいんでしょう」という写真になる。
そこがむずかしいのである。


我の無いっていうことは難しいです。ゼロになることは、なかなかむずかしい。ただゼロに近づいた時に、あるいは自分がゼロに近い存在なのだと認識した時に、相対的に対象物が大きくなる。これもまた表現なんですね。そうして相対物と対峙し、関係を紡いでいくことで、作者自身もオリジナルになっていくのかもしれません。

でも、かと言って、「自分探し」が無駄ってわけじゃないと思うんです。とくに若い人は思う存分探したらいいと思う。探して、迷って、探して、巡って、それでけっきょくここに戻ってきた、っていうプロセスが大事なんじゃないかと。そういうプロセスを経験するのとしないのとでは、たぶん「抜け」感に差が出る。だって、十代とか二十代で「本当の自分なんてものは存在しない」とか悟ってたら、気味悪いですよ。

ということは「齢を重ねる」とはつまり、他者との関係性(機縁)を重ねていくということに他ならないのだと、いまこれを書きながら結論に至りました。って、なんだかそれ当たり前だな。他者との関係性(機縁)を重ねていく中で、相対的に自我が小さくなっていくとでも言うんでしょうか。そして不思議なことに、自我が小さくなるほどに、その人「らしさ」が表出してくる。

SPEEDのメンバーにどんな機縁があったのか、なかったのか、ぼくは知りません。彼女たちのダンスが、力みが「抜けて」いるんだけれども、結果的に「らしく」て、それが観る人にも安堵感と高揚感を与えることができるのは、彼女たちひとりひとりがそれぞれの「機縁」を経て、「らしさ」というか自我というかを昇華して、メンバー自身が再結成を楽しんでいるからなのだろうなと。勝手ながら、そんな想像をしてしまいました。

なんてことをつらつらと思ったりしましたが、動画を見た瞬間にそこまで思い至ったわけではなくて、これを書きながら考えていった後付け理論です。見てる時は、SPEEDのみんなかわいいなあぐらいしか考えていません。そもそもなんでオメーはPerfumeの動画を検索してたんだと言われると、あの、好きだからです、すみません。



SPEED / リトルダンサー 齢を重ねること 機縁と本来性の実現

SPEED / リトルダンサー 齢を重ねること 機縁と本来性の実現 2012.05.24 Thursday [音楽・映像] comments(2)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

Ben Folds / Way to Normal

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY

ウェイ・トゥ・ノーマル
ベン・フォールズ
SMJ(SME)(M)
発売日:2008-09-17



これまた懐かしいですね〜。ベン・フォールズ・ファイブ。バンド名からファイブが取れて、ただのベン・フォールズという名前になってから久しいですが、ぼくにとってはずっとベン・フォールズ・ファイブ。という印象が強いのは、彼らのデビューアルバムがとにかく大好きだったから。前回の記事で書いたプライマル・スクリームとともに、90年代半ばの若かり頃にほんとうによく聴いた。コーネリアスの推薦文っていうのも、サブカル系好きの身としては嬉しくて。ピアノでロックっていうのも当時は新鮮で、遡ってジェリー・リー・ルイスとかも聴いたりしたなあ。なんと言ってもメロディの良さですよね。音楽の「楽しさ」が詰まった名盤だといまでも思います。

しかし2ndアルバム以降はちゃんと聴いてなかったので、今回手にしたのは10年ぶりぐらいかなあ。『宇宙兄弟』の新刊を買いに行った書店にて本作が500円で投げ売りされていたので思わず買ってしまったのですが、なんかすごく懐かしい旧友に会ったような気分で、ああ変わってないなあと嬉しくなりました。

たぶんこれも、子どもが生まれる前に聴いていたら印象が違っていたかもしれない。音楽の聴き方っていうのが、ぼくの場合ほんとうに移り変わってて。自分にとって音楽がたいせつな存在であることには変わりがないんだけど、接し方というか、聴く頻度やジャンルの選び方はその都度ころころと変わっちゃう。大学生の頃にロックにハマり、その後あちこちに触手を伸ばしていきながら打ち込み系の音楽に傾倒していき、近年ではジャズを聴きかじっていたような、飽きっぽくてミーハーな音楽の聴き方をしていた自分ですが、子どもができてからは音楽を聴く機会が激減しました。前みたいに新譜をチェックして聴き漁るようなことは全くしなくなった。単純に、買う余裕も聴く時間もなくなってしまったということですが。

子育てをするようになってから、自然と聴きたい音楽っていうのも変わってきて。その基準は、子どもと一緒に聴きたいかどうかってことなんです。あまり小難しいのを聴きたいと思わなくなっちゃった。だから近年個人的に傾倒していた音響系やジャズとは疎遠になってきて、偶然か否か、音楽を聴き始めた頃のロックっぽいやつに自然と手が伸びるようになりました(まあ実際に子どもが一緒に聴いてくれるかどうかは別のはなしですが)。それは新しい発見、っていうかぜんぜん新しくないんだけど、ああオレってこういうの好きなんだなあと再認識しているところです。子どもが成人したら、またヘンテコなの聴くようになるかもしれませんが。

で、ベン・フォールズですが。こういう「わかりやすい」音楽って、ちょっと前のぼくみたいに小難しいのを有り難がって音楽通みたいな面をしている人にとっては、鼻で笑っちゃうみたいなところもあって、だから2nd以降聴いてなかったというのもあるわけです。ところが、自分でも意図しなかったうちに音楽の聴き方が変わり、音楽を聴き始めた頃のロックっぽいやつに自然と手が伸びるようになったいま、このアルバムで鳴らされる彼らの「楽しい」音楽はきらきら輝いて聴こえます。語弊があるのであまり使いたくない言葉ですが、すっごい「ポジティブ」だなあと。音そのものが肯定感に満ちているというか。なんか、聴いているほうが嬉しくなってきちゃうんですよね。それってすごいことだよなあと、改めて思ったり。

あとでぐぐってみると本作は、ベン・フォールズ名義になってからは割としっとり落ち着いた印象の作品が続いていた彼らが、ファイブ時代の弾けるようなプレイを取り戻したアルバムだったようです。こんな胸キュンなメロディを瑞々しく演奏されたら、そりゃあ、かつてのファンにとっては溜まらないわけだ。ジャケットのふざけた感じも好きです。

ぼく自身もおっさんになって、音楽を聴くという行為自体にカッコつける年齢でもなくなり、新譜を発売直後にがつがつ追いかけるということはたぶんもうしないんだろうけど、音楽を聴くという行為は、やっぱり好きですね。そんなことを思い起こさせてくれました。数年前の新譜を今頃聴いて喜んでるような、ダサいおじさんになってしまったけど、そんな自分もまあ悪くないと思います。


Ben Folds / Way to Normal

Ben Folds / Way to Normal 2012.04.20 Friday [音楽・映像] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

Primal Scream / Beautiful Future

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY

ビューティフル・フューチャー
プライマル・スクリーム
Warner Music Japan =music=
発売日:2008-07-16


試聴

近所のレンタルDVD屋さんでCDの取扱いがはじまって、DVDを借りる度にキャンペーンでCDレンタル無料券をくれるのでいろいろ懐かしいのを借りてます。田舎のレンタルコーナーですから、まあ売れ線というか有名どころしか置いてないわけだけど、若かりし頃によく聞いていたロック群をさいきんだいぶ聴いていなかったので、ああ、この人こんなの出してたんだ、とかいまさら知ったりして、なんかね、たのしいです。10数年ぶりにU2の新作(といっても3年前のだけど)を聴いて、うわ、いいじゃん、とかね。

これは単なる懐古趣味、つまりむかしよく聴いていた旧譜を聴きかえす、っていう作業とはちょっと違って、現在進行形の新譜を聴くっていう「同時代性」的な感覚がやっぱり音楽を聴く上では重要なウェイトを占めるわけです、ぼくの場合は(とか言って数年前の新譜を今頃聴いて喜んでるわけだけど)。大学生の頃にロックにハマり、その後あちこちに触手を伸ばしていきながら打ち込み系の音楽に傾倒していき、近年ではジャズを聴きかじっていたような、飽きっぽくてミーハーな音楽の聴き方をしていた自分ですが、子どもができてからは音楽を聴く機会が激減しました。さいきんまた少しロックを聴くようになったのですが、その基準は、息子と一緒に聴きたいかどうかってことなんです。だからあまり小難しいのを聴きたいと思わなくなっちゃった(たぶん子どもが成人したらまたそっちにふり戻しが来るかもしれない)。それは新しい発見、っていうかぜんぜん新しくないんだけど、ああオレってこういうの好きなんだなあと再認識しているところ。


で、プライマル・スクリームの新譜『Beautiful Future』。
これも4年前の作品だけどはじめて聴きました。プライマルズのことはかなり好きで、個人的にオルタナ系のロックを聴くようになったきっかけ(このアルバム)でもあるし、その後もずっと追いかけて聴いていたバンドのひとつ。でも個人的にロック自体をあまり聴かなくなってきた時期と相まって『Evil Heat』あたりから聴かなくなり、『Riot City Blues』でもういいかなと思ってしまい、その後本作がリリースされたことはなんとなく知っていても、あまり気にも留めていませんでした。というかたぶん当時聴いていたらがっくりしていたかもしれない。

これね、ダサいですよ。すごく。
どなたかのレビューにもあったように中途半端だし、とっ散らかってるし、音楽的にはぜんぜん大したことないのでは。「過去を振り返るな!最高の未来だけを信じて突き進め!!」なんて歯の浮くようなコピーが日本盤の帯には書かれていますが、ぜんぜんそんな真剣で男臭い感じではないです(もう、ほんとこういう恥ずかしいコピーやめましょうよ。要らん評価のズレが起こるだけだから)。ユルいし、ダサい。

それでですね、ある種のファンにとってはこのダサさがいいんです。たしかにプライマルズに革新性を求めるファンもいることでしょう。『Screamadelica』や『XTRMNTR』といったアルバムは彼らを一躍、時代の寵児に祭り上げました。時代のその時々でカッコいいものに飛びつくボビー・ギレスピーの嗅覚も彼らの魅力のひとつではあります。ただ、彼らは決して流行の最先端を行くスマートなタイプって訳ではないんだよなあ。

長いこと彼らの作品を聴いてきたファンであるならば(特に2ndアルバムを愛してやまないファンならば)、今回のアルバムは思わずにんまりしてしまう類いの、懐かしい作品であると言えるかもしれまえん。それって最初に書いたような、ロックを聴き直すたのしさともつながってて。久しぶりに昔の友人に会ってみたら、見た目はおっさんになって腹も出ちゃったけど、 雰囲気とかひととなりはあんまり変わってなくて、ああやっぱりコイツとは話しやすいや、みたいな。

この方のレビューが、的確に表現してくれていると感じました。
Amazonカスタマーレビューより
レベル・ミュージック、音楽的先鋭性云々というより、ほとんどのファンはボビーのマンガのような長身痩身のルックス、音域は狭いが唯一無比スウィートな声、そしてコード数は少なくても、確実に耳に残るメロディ(というか独特の節回し)など、過激なサウンドの鎧の中に常に存在した本質的なキュートさを愛でていたはず。

今までのプライマル好きがひそかに愛でていた「スウィート」なボビー・ギレスピーがこれだけ堪能できれば充分じゃないだろうか。


次から次へと興味が移り、あちこち手を伸ばさないと気が済まないんだけど、何をやっても「本物」にはなれないという「やるせなさ」がボビー・ギレスピーの本質的なキュートさなのだと、ぼくは思ってて。そういう情けない感傷にシンパシーを感じていたんだと思う。だからぼくは、あのへなへなした声で歌われる感傷的なバラッドが大好きだったのです。

アルバム毎に作風をコロコロと変える彼らは、ロックオタクや音楽評論誌にとっては格好のネタでもあります。そこで語られるプライマル論っていうのは彼らの革新性に主軸を置いたものがほとんどで、たしかにそれも魅力なんだけど、なんかちょっと違うんだよなあと感じていて。こういうレビューをはじめて目にしたので、なんか嬉しかったのでした。またロックを聴きたくなってしまった。

ぼく自身もおっさんになって、音楽を聴くという行為自体にカッコつける年齢でもなくなり、新譜を発売直後にがつがつ追いかけるということはたぶんもうしないんだろうけど、やっぱり音楽を聴くという行為は、やっぱり好きですね。そんなことを思い起こさせてくれました。数年前の新譜を今頃聴いて喜んでるような、ダサいおじさんになってしまったけど、そんな自分もまあ悪くないと思います。

Primal Scream / Beautiful Future

Primal Scream / Beautiful Future 2012.04.16 Monday [音楽・映像] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

それでもロックが好きなんです。

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。
by ピート・タウンゼント

至言ですね。「悩んだまま踊らせる」?なんなんですかそれは。でもそれがロックンロールだよなあ。少なくとも、ぼくが心を鷲掴みにされたロックンロールはそういうものでした。悩める若者の、蒼臭い青春の、うじうじして鬱屈した思いを、岩(Rock)にぶつけて転がり回る(Roll)。ぼくにとってロックとは永遠のカウンターカルチャーでした。たぶんいまでもそうです。

一年半ほど前にCoccoの「ニライカナイ」という曲を聴いたときに、ぼくは久しぶりに音楽で衝撃を受けました。トシのせいでロックをあまり聴かなくなってだいぶ経っていましたが、ガツンと殴られたような気分でした。その時に書いた記事(Cocco / ニライカナイ)の中で、ぼくはロックの歴史をごく簡単にふり返っています。考えてみると、ぼくがロックを聴いていた90年代は、市場でロックがロックとして機能していた最後の時期だったのかもしれません。
息子が大きくなる頃には、いったいどんな音楽が鳴らされているんでしょうか。想像もできませんが、ただ、ぼくらが慣れ親しんだようなロックスター、武道館を満員にしたり、誰もが知っているようなカリスマ的な存在っていうのはもう出現しないだろうと思っています。

未来を考える新聞『TheFutureTimes』の中に、音楽雑誌『snoozer』の編集長であった田中宗一郎さんのインタビューが掲載されていました。ぼくは『snoozer』を読んだことが無かったのですが、たいへん興味深い記事でした。

過去と未来 | 田中宗一郎 - TheFutureTimesより
後藤:今の時代、音楽雑誌が機能しているとは、あまり思えないというか。機能の仕方も変わってきている。昔は“クラスタ”って言葉もなかったし、メディアとして“熱い”ものだったと思うんだけど。うまく言葉にできないけど中央集権的という意味で。例えば、『ROCKIN’ON』なら『ROCKIN’ON』に出たものがワーッと広がっていく様子って、20年くらい前には機能していたし、僕らもそれにワクワクしていた。そういうことが、インターネットの登場で再編されながらここまできたと思うんだけど。逆に今は音楽雑誌って、だんだん面白くなくなってきたっていうのが読んでいる側の皮膚感なんですよ。メディアとレコード会社の距離感っていうのも、幸せな距離感だと思えないっていうか。例えばレビュー。レコメンドなのか、宣伝なのか自分語りなのか、『これは何なんだ?』っていう。
 (中略)
田中「段階的にいろんなことが起った結果だと思ってる。でもネットっていうのは一番大きいかな。冒頭で話していた、雑誌で何かひとつのことが中央集権的に広がるっていうこと。これはポップスターが一夜にして出来上がって、誰もが長嶋茂雄を愛すみたいなことが、ネットっていうアーキテクチャーでは起りにくくなる。あと、ネットを介することで地球の裏側のことはわかるんだけど、隣村のことはさっぱりわからない、というか、興味を持たなくなる、っていうのが、今の時代の特徴だよね。
 (中略)
田中:YouTubeで何でも聴けるようになったせいで、誰も何も聴かなくなった。自分がもともと好きなアーティストの新しい曲は聴く、そこから繋がりのあるものを聴いたりはする、でも、それでお腹一杯になっちゃって、知らないものをわざわざ聴いてみようとは思わなくなった。
 (中略)
田中:さっき後藤君が言っていた“クラスタ”って言葉、以前なら、それに近い感覚を示す言葉が“トライブ”だと思っていて。いわゆる“族”ね。ただ、“族”の場合は、音楽だとか、服とかだけじゃない、ものの考え方そのものとも関係してる。例えば、モッズというトライブの場合、彼らが聴く音楽はアメリカのジャズとR&B。でも着る服はイタリアン・スーツ、そこにフレンチのタッチが入っている。尚かつ、ベスパやランブレッタみたいなイタリアのバイクに乗るっていうふうに、そのトライブの一員であることがすべてに影響を与えてる。でも“○○クラスタ”って言ったときには、あるひとりがいくつもの“クラスタ”に属してるんだよね。あるひとつの音楽に入れあげても、服装はそれに影響を受けないし、普段食べているものも影響を受けない。『食事をするときはこのクラスタ、ライブに行くときはこのクラスタ』っていうふうに。例えば、後藤君の世代だと、中学生のときに友達を作ろうとしたら、同じような音楽を聴き、同じような格好をし、同じところに遊びに行きってふうに、ライフスタイル全体に互いが影響を与えたることになったでしょ」


ぼくと同世代で音楽好きだった人なら頷けるんじゃないでしょうか。インターネット以降における音楽のあり方を的確に掴んでいると思いました。ここに記されている音楽市場の変貌は、なんだか寂しい気もしますが、必然的な流れだろうなとも思います。そう考えると、ロックと音楽雑誌がまだ元気で機能していた時代に立ち会えたぼくらの世代は幸運だったのかもしれません。

ぼくはもう新譜を漁るようにしてロックを聴くことはなくなってしまいました。過去を懐かしむような大人になんかなりたくないと思っていたのに。気がつけば90年代に聴いていたロックを手にすることが多いんです、最近。やっぱり青春時代に聴いていたものは別格なんですね。ある人にとってそれは60年代かもしれないし、ある人にとってそれは現在かもしれない。ぼくにとっては90年代だった。そういうはなしです。



昨日、大阪ダブル選挙が行われ橋下徹氏率いる維新の会が知事選、市長選をともに制しました。閉塞感が蔓延している政治的イシューの中で、既成政党への不信と「改革」への期待が相まった当然の結果であると言えるのでしょう。30代は圧倒的に橋下氏支持が多かったとのこと。
平成の維新を高らかに叫ぶ橋下氏の言葉は徹底してクリアカットです。ロジカルに敵をばっさばっさと切っていく姿は痛快でもあるでしょう。そのためにテレビ向けのわかりやすい二項対立を際立たせる戦術もさすがに巧い。それに対して、この記事が指摘するように「反橋下陣営」は余りにもお粗末だったのかもしれません。

「橋下イズム」と「ティーパーティー」その同時代性 - ニューズウィーク日本版より
まず、橋下新市長が「どうして日の丸・君が代にこだわったのか?」

「日の丸・君が代」で攻めれば「敵はきっとイデオロギーから反発して感情的になる」だろうというのが彼等の「狙い」なのです。そうして「庶民の生活レベルの話や、大阪全域の経済再建」などの実務的な、具体的な政策論を説く代わりに、イデオロギー的な橋下批判に彼らが専念すれば「シメシメ」という作戦です。

 イデオロギー的にカッカすることで、「反独裁」とか「反ファッショ」などという絶叫しかできない場所に追い詰められ、それが正義だと我を忘れた「反橋下」陣営を見ていると、中間層は選挙戦の展開を見ながら、これでは自分たちの民生向上にも閉塞感打破にも「全く役に立たない」という風に見てしまったわけです。

こうなると完全に橋下氏の「思うツボ」です。一旦自分たちがモメンタムを獲得してしまえば、反対派が「反独裁」を叫ぶということは「漠然と橋下支持を固めた中間層」に対して「お前たちはバカだ」と見下しているということになり、「叫べば叫ぶほど票が逃げていく」無限の循環に陥るからです。


ぼくは内田樹さんの言説に大きな影響を受けてきましたので、平松さんに期待していました。内田さんがこの記事で言っていることに全面的に同意します。君が代条例にしても、公務員に対する厳しい態度というよりも、教育は強制であると主張した橋下氏の教育観にぼくはつよい危惧を覚えました。未来を担う子どもたちを共同体の一員としてどのように育てていくかという視点が抜け落ちているように感じたからです。
これはたぶん2年間のツイッターやブログを書くという行為を通して、辛抱強く考えることを学んだからだと思います。「政策の適切性を吟味することよりも政策実現までの速度を優先させるのは病的である」(内田さんのツイートより)というのもその通りだと思います。
しかしそれでも、ファシズムという語感になぞらえたハシズムという揶揄の仕方(これは内田さんが言ってたわけじゃなくてどこかのコピーライターが考えたものでしょうけど)には、言わんとしていることには同意するけど、どこか違和感を覚えていました。安易にフレーズ化すると、そのイメージだけが独り歩きしてしまいます。そして人っていうのは安易なイメージだけでものごとを判断しがちです。

だからもしかしたら、数年前のぼくだったら喜んで橋下氏を応援していたかもしれません。小泉氏のリーダーシップいいじゃんと思っていたのと同じように。既得権益をぶっ壊す「改革」こそがロックだと持論をぶっていたかもしれない。

でもちょっと待って。

ロックンロールとは「悩んだまま踊らせる」ものだったはずです。別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。クリアカットな言葉で、わかったかのように、ものごとをずばずばと断罪する行為はぜんぜんロックじゃない。それってむしろ、権力側の行動原理じゃないですか。



大阪の選挙とロックをつないでくれたのは、福岡で音楽活動をしている聡文三さんのツイートです。僕と同世代である聡さんも大阪の選挙の結果を受けていろいろ考えたようでした。
SOH BUNZOHさんのツイートより
震災、特に原発事故以降って、割と多くの人が「今の日本のシステムはダメだ、何とか変えないと」という気分は共有していると思うんだよ。ただそこでどっかの頭の悪いパンクスみたいに「また一から始めるぜ何もかもデストロ〜イ!」みたいな考え方に行くのを、今の俺はあまりいいとは思わない。


それは「気分としてのラジカリズム」であると聡さんは指摘します。そして「気分としてのラジカリズム」の超克は自身のこれからの課題でもあると。その通りだと思います。ポピュリズム、とくにテレビを介した劇場型政治っていうのはほんとうに「気分」だけで移り変わる。終盤になってマスコミが橋下バッシングを始めましたが、それはソーシャルメディアによる連帯の中では「偏向報道だコノヤロー」という解釈になって、橋下氏の当選が「民意の勝利」になるんですね。これはベクトルが逆になっただけで、「気分」による行動原理という点でポピュリズムと同じ構造です。そこで展開されるのは実態の見えない何となくの「イメージ」だけです。くり返しますが、10年ほど前に小泉氏のリーダーシップいいじゃんと思っていたのはまさに「気分」だったとぼくは反省しています。

SOH BUNZOHさんのツイートより
そういえばこないだ、ジョージ・ハリスンの映画観に行った。ヘンな言い方だけど、映画観た後に行った理由が分かったのね。感想はここに書いたとおりだけど、ジョージのやろうとした事ってまさに「気分としてのラジカリズム」の超克だったんじゃないかなあと。
ほら、それこそヒッピー的なのってほとんどの場合、「気分としてのラジカリズム」で終わったわけじゃん。「ロックで革命を!」「ドラッグで意識を改革したら世界が変わる!」みたいな。で、まあ思いっきり挫折した後、大抵の奴は転向したり反動化したり夢を引きずったままダメになったりしたわけなんだろうけど、ジョージは多分、自分なりのやり方でそこに落とし前をつけようとしてたんだろうなあと。


2008年。ニール・ヤングが自作のドキュメンタリー映画『CSNY Deja Vu』の記者会見でこう語った事が、ちょっとしたニュースになりました。
音楽で世界を変えることができた時代は過ぎ去った。今、この時代にそういう考えを持つのはあまりにも世間知らずだと思う。


この言葉をどう捉えたらよいのでしょうか。ただ単に年寄りの悲観的な発言なのでしょうか。40年にわたり反骨精神としてのロックを体現してきた人物だけに、その発言には重い響きがあります。
これはもちろん「ラブ&ピース」の全否定ではありません。ただ、「ラブ&ピース」の「気分」だけでは世界は変わらない、戦争は無くならないと云うことをぼくらは歴史から学ぶことができます。そういう時代にぼくらは生きています。じゃあロックはもうお役御免なのか。なんの力もないのか。んなことはないですよね。ニールはその後、こう語っています。

「音楽が世界を変える時代は過ぎ去った」と話したニール・ヤングからの声明文 - Native Heartより
ぼくにわかっているのは、答がもし見つかれば、自分にはそのことについての歌ぐらいは書けるだろうと言うこと。そのときがくるまでは、ぼくに書けるのは、自分の探求についての歌か、すべての時間を探すことについやしているという歌だけ。でも、ひとつの歌だけでは、世界を変えることなどできやしないだろう。しかし、たとえ世界を変えられなくても、ぼくはこれからも歌い続ける。



さて、どうもロックの話になるとぼくは過剰に感情移入してしまうようです。勝手に自分なりのストーリーを投影してしまう。ほんとうはそんなもんじゃないかもしれない。たぶんそれは自分でもわかっている。ロックが世界を変えられないことも、ラブ&ピースの世界じゃないことも。わかっているけど、でも、それでもロックが好きなんです。


橋下氏は当選後さっそく「民意無視なら去ってもらう」と言っているそうですが、多数決によって勝利したロジックが「民意のすべて」であるかのように振る舞うことは民主主義における為政者の態度ではありません。少数者の意見にも耳を傾けるということが民主主義の根幹です。

平川克美さんのツイートより
民主主義は、効率やスピードよりも手続きやプロセスを重視するという知恵が発見した方法です。
選挙や多数決は、確かに民主主義を担保する意思決定手段です。しかし、少数者を尊重するという普段の努力こそが民主主義の根幹の理念です。


民主主義をつくるのは「少数者を尊重するという普段の努力」なんですね。これは他ならぬぼくたち自身のこと。ぼくたち自身が、多数派の中に埋もれる存在ではなく、ひとりひとりがオルタナティブな存在であるということを自覚すること。
自身の内面を徹底的に見つめた時に、人は「なにか」とつながります。表現者とは、そのつながる術を持っている人のことです。そうして生まれた作品には「なにか」のエッセンスが宿り、ぼくらはそれを介して(共感という術によって)他の人とつながることができる。共同体とはそうやってつくられるものなんじゃないかと思います。

田中宗一郎さんはインタビューの最後に「これから」のことについて語っています。
過去と未来 | 田中宗一郎 - TheFutureTimesより
田中:今は誰もが個人として、社会に対して、いろんな責任を果たそうという意識が強くなってきたよね。誰もが24時間生活して、家族を支えること以外に、いい意味で、社会の一員としての責任を果たすべきだと思うようになったし、悪い意味ではどこか強迫観念的にそう感じるようになった。そこをちょっと批評的に捉えたい。僕自身、社会の一員として世の中で起っていることに意見しなければいけない、加担しなきゃいけないってオブセッションがすごく強い時期が10年くらい前にあって。でも、今はむしろ逆で、自分のドメインに徹したいという意識が強い。自分っていうのはポップミュージックが作り手から送り手に伝わっていく媒介として存在している。その小さなドメインに徹すること。それは結果的に社会のひとつのモデルとなって、直接的に社会の一員としてのいろんな活動を行わなくても、何かしらのヒントになりうるんじゃないかって考えてる。もしくは、社会の一員として考えているアイデアみたいなものも相似形として自分の活動の中に反映されるようなことをやるんだろうな。


これって「新しい公共」の概念ですよね。「公」と「私」の境界が曖昧になるというか、どちらも双方の要素を含んでおり絡み合っているというか有機的というか。「私」をはなれた「公」は存在しないということ。ソーシャルメディアの普及によって加速度的にその感覚が浸透してきているようにぼくは思います(その感覚がマジョリティを形成するにはまだ時間がかかりそうですが)。

ユニコーンの記事に書きましたが、「私」が只やりたいからやるってこと。それが結果として「公」をつくっていく。ぼくらは、自分の身体性が担保する範囲でしか、つまり自分の身のほどの届く範囲のことしか語れないんです。達観したおっさんは、大きなことを語らない。ただ自分の身の回りを誠実に(愉快に)生きる。そうじゃなければRockがRollしない。

カウンターカルチャーとしてのロックが、ぼくは好きです。蒼臭かろうが、それだけでぼくにとってはロックはロックたり得る理由になる。そのきわめて「個人的な」パッションの中にしかロックは存在しないし、「個人的な」動機でしか世界は成り立たないんじゃないかと、ぼくは思っています。


それでもロックが好きなんです。

それでもロックが好きなんです。 2011.11.28 Monday [音楽・映像] comments(8)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

誰かのために。キース・ジャレットの旋律。

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
先日、ヘンリー・ダーガーという作家(本人は自分の作品が世に出るのを望んでいなかったそうなので作家という呼び方でいいのかわかりませんが)の生涯を通して、芸術家がなぜ作品をつくるのかについて書きました(ヘンリー・ダーガーの孤独(なぜ作品をつくるのか))。ぼくはそこで「なにか」とつながるためって書いたけど、実はたぶんほとんどの場合、なにかを作っている最中の本人はそんなことべつに意識してない。「なにか」とつながるためっていうのは、無意識レベルでの話、あるいは結果としてそうなるっていう後付けの理由であろうということを補足しておきます。

芸術家がなぜ作品をつくるのかの根源は「表現せずにいられない」ってことだと思います。まず前提として、自分の内から湧いてくるどうしようもない衝動がなければ芸術作品とはなり得ません。そりゃそうですよね、誰かに言われてしぶしぶやっていたり、報酬(対価)のために仕方なくやったり、マスマーケティングという一種のゲームに乗っかるように画策したりして出来たものは芸術作品とは呼びません。そういう採算を度外視しても、というかはなから採算のことなんか頭にない状態で、ただ「表したい」という思いがあるはず。
じゃあなぜ表したいのか、って後から考えてみたときに、なにかとつながりたいからなんじゃないか、なんて思ったわけです。ここで言うなにかとは前に書いたようにうまく言葉にはできない「なにか」かもしれないし、あるいは「誰か」かもしれない。目の前にいる誰かかもしれないし、遠く離れたところにいる誰かかもしれないし、あるいは未だ見ぬ誰かかもしれない。

先の記事のコメント欄で愚樵さんが仰っていたのですが、自己を見つめて掘り下げていくことで個を確立していくのを「垂直型」、人間関係のなかで個を確立していくのを「水平型」という見方があるそうです。これはたしかに分かりやすい考え方で、ダーガーは徹底した垂直型であったわけですね。

ぼくは若い頃は「垂直型」こそが芸術であって、両者のバランスを取ったものはつまらないと思っていました。いまでも「垂直型」の作品は好きなんですが、年をとるにしたがって両者のバランスが大事だと感じるようになりました。垂直型の個を確立していくことと水平型の個を確立していくことは矛盾しないというか、垂直型の個を確立していく過程で水平的な人間(他者)とつながることはすごくいいことで、それによって新たな視点が開けたりしてまた垂直方向に自分を見つめることができるようになったり。それがまた垂直型の個の確立にも還元していくんじゃないかと。循環しているような。
たぶんその垂直軸と水平軸のバランス配分で、「気持ちいい」と感じるポイントが人によって違うんだろうなと。同じ人物でも経験や月日を通してそのポイントが移り変わっていくんだろうなと。


そんなことを考えていたら、ぼくの大好きなソロ・ピアノ作品、キース・ジャレットの『メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー』のことが思い浮かびました。これって、ずっとアーティスティックに垂直型の作品を追求してきた人が、ふっと差し出した水平型の作品ではないかと思ったんです。


Keith Jarrett
Ecm Records
発売日:1999-10-19


試聴

2005年に書いたレビューを再掲。

断言します。綺麗なピアノの音が聴きたくてこのCDを買った人は、絶対に失望する事はありません。

ECMよりキース・ジャレットのスタンダード・ソロ・ピアノ(99年)。本作は、慢性疲労症候群という病気のために活動を休止していたキースが、療養中に自宅のスタジオで録音したソロ・ピアノ集。ピアノひとつで、自宅にて制作されたという事が感じられるような、とてもリラックスした静かで穏やかな作品。一音一音を慈しむように弾かれるピアノが本当に美しい。いったいこのキース・ジャレットという人はどうしてこんなに琴線に触れるフレーズを奏でることができるのでしょうか。とてつもなくシンプルな演奏なのに、こんなにも豊かな表情を見せてくれるのでしょうか。

「綺麗」という言葉は、こういう作品のために使うんだな、と思う。それは、いわゆる「小綺麗」とか「綺麗にまとまってる」などとは180度異なるから。それがつまり「美」であるのだ。あまりにもピュア(音一粒一粒の純度がなんと高いことか)であまりにも優しいその音色の前では、どんな理屈も理論も通用しない。ただその美しい調べに身を任せるだけでよいのだ。わき上がる涙が頬をつたうならそれもよい。まるで大きな愛に包まれたような気持ちにさせてくれる。先ほどの自分の問いに答えるならば、この人は宇宙に繋がっているのだきっと。

ちなみに、これを演奏したときの観客はたったひとり、彼の奥さん。そしてジャケットの写真は奥さんによるものだそうです。す、すてきすぎる。



なんだかちょっと大げさなレビューですが基本的な感想はいまも変わっていません。
ただちょっと違うなと思うのは、「この人は宇宙に繋がっている」のはたしかにそうなんだけど、それは『ケルン・コンサート』のように研ぎすまされた緊張感に覆われる完全即興ソロ・コンサートの場合に言えることであって(「メロディが天から降りてくる」というキースの言葉はたしかこのアルバムのライナーノーツに書いてありました)、本作の場合は観客はたったひとり、彼の奥さんであったのです。つまりこれは奥さんに向けて演奏されたものであり、奥さんのために作られたアルバムと言えるんじゃないかということ。

特定の「誰か」のために。

本作が、彼の他の諸作に比べておだやかでやさしい音色を奏でているのは、療養中であるということも影響しているでしょうが、たいせつな「誰か」のために何かをしているという行為が生む結果であると思います。それこそが、心が洗われるようにピュアで美しい旋律の理由なのだとぼくはいま信じています。それと同時に「宇宙に繋がっている」という感覚もまた間違いではないと思います。というか、そこがたぶん大事なポイントで。

垂直軸で「なにか」と繋がるのではなくて、水平軸で他者と繋がることで「結果として」なにかと繋がっている。別の言い方をするならば、人はたいせつな誰かとつながることで大きな愛に包まれたような気持ちになり、その瞬間に「なにか」とつながる。神が宿る、と言ってもいいかもしれません。

「垂直型」と「水平型」の考え方っていうのは3次元的なイメージですが、ほんとうのところは垂直軸と水平面が入り乱れて4次元的?な感じというか流動的な感じというか有機的な感じというか、タテでもありヨコでもあり、みたいな感じなのかもしれないなあと思いました。

もうひとつ、ぼくがいま暮らしの中でいちばん感じていることを。これは後からもういちど書きたいと思いますが、子どもとの関係っていうのは他者との関わりであるから「水平型」なんだけど、すっごい垂直軸にも向かってる感じがするんです。よく言われることですが、子育てって子どもを育てているようで自分が育てられるんですよね。乳幼児の子育てをしていて思うのは、子どもの生命力であるとか本能とか好奇心や可能性をどれだけ信じられるか、が大事だということ。そしてそれを阻害するのが常識とか先入観やレッテルという自明性への依存。だから子育ては自問の連続性です。「これやっちゃ(やらしちゃ)いけない」とか「これしなきゃいけない」とかいうのは、いったい誰のためにそう思うのか。よそ様に迷惑をかけたくないからなのか、それとも他人にいい親だと思われたいからなのか、はたまた自分が不快だからなのか。で、子どもの目線で考えたときにどうなのか。そんなことを後になってから自問するわけです。ああ、あの時言ったあれはどうだったんだろうって。

家族っていうのは共同体の最小単位だと思いますが、水平的な繋がりの中で垂直軸を育むんだなあと思って。“親に感謝しよう”とか“家族のきずな”とか、そういうのが言葉として先走って「標語」みたいになっちゃうと嘘くさくてぼくは信用してないんだけど、ほんとはそういうのって「自ずと」培われていくわけでそれってとっても大事で本質的なことなんだなあと最近しみじみと感じています。不特定多数の誰かのためじゃなくて、特定の「誰か」のためってことが。






追記(11/25):
愚樵さんがこの拙い記事へのアンサーソングを書いてくれました。
コミュニケーションにおける水平型/垂直型 - 愚樵空論
「シャーマニズム的霊性」と「アニミズム的霊性」かあ、なるほどねえ。なんだかわくわくします。
こうやって、水平的コミュニケーション(対話)によって思考が展開していくのは完全に自己をこえたところからもたらされるものであり、その流れに身を委ねるのはとてもおもしろいです。




誰かのために。キース・ジャレットの旋律。

誰かのために。キース・ジャレットの旋律。 2011.11.24 Thursday [音楽・映像] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

須藤元気のWORLD ORDER

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
元格闘家の須藤元気が「WORLD ORDER」というパフォーマンス・ユニットで音楽活動をしていることを先日知りました。
まずはこちらをご覧ください。2011年7月10日、LAで開催されたマイクロソフト社主催のイベント「WPC2011」初日のオープニングアクトで1万人以上の観衆を沸かせたパフォーマンス。



びっくりしました。格闘家とは思えない繊細なセンス。格闘家ならではの身体感覚が生み出す動きの美しさ。静と動の、きわめて日本文化的な抑揚バランス。一糸乱れぬ機械的パフォーマンス。すばらしいと思います。会場からステージを見入る聴衆の映像、ラストの大きな拍手に思わず鳥肌が立ちました。

古いしがらみに捕われて身動きのできなくなっているオヤジどもやら、島国根性まるだしの英語コンプレックスで、閉じた世界の住人になっている日本人がくだらないことをうだうだ繰り返しているうちに、この人たちはそんなもの軽々と飛び越えちゃってる。そんな痛快さを感じました。

このパフォーマンスのもととなる彼らのオリジナルPVです。

MACHINE CIVILIZATION / WORLD ORDER
WORLD ORDER in New York
MIND SHIFT / WORLD ORDER
BOY MEETS GIRL / WORLD ORDER

音楽だけを抜き出すと、いかにもシャレオツな感じの打ち込み系でちょっと貧弱な印象は否めず、これだけだったらとくに聴きたいとは思わなかったかもしれません。またロボットダンス自体も、特に目新しいものではないのかもしれません(ダンスについては全く詳しくないのですが)。ところが、こうしてPVを見るととてもおもしろいし、クセになる。ついつい何度も見ちゃいます。

肉体美に支えられたダンスの動きの完成度は言うまでもなく、アート然とした小難しさに陥ることなくエンタテイメントに徹して、非常にあっけらかんと、楽しそうにやってるのがとってもいいと思います。背景の通行人たちのリアクションも普通でいいなあ。それも含めてひとつの絵になっているんですね。

ところで、これらの動画はすでにいろいろな国でも人気らしく、Youtube上には彼らへのトリビュート動画もたくさんアップされていました。完成度の高いものから、グダグダしつつもほのぼのするようなものまで。いくつかリンクしておきますね。

TRIBUTE TO WORLD ORDER
TRIBUTE TO MIND SHIFT: MetroCon 2011 Tampa, FL
MIND SHIFT(C) Ver.WORLD ORDER(C)

なにがいいって、みんな外でロケやってるのがいいですね。オリジナルと同じように、背後の通行人も含めて絵になってる。やっぱり、こういうふうに突き抜けてバカやってるやつらがいると、その周りもなんだかほわんとした気分になるんじゃないかなあ。バカの連鎖反応っていうか。ぼくはこういう人たち好きです。

もともと音楽分野ではない人が、歌と踊りでこのように多くの人の心をつかみ、一体となって躍動する様子にぼくはものすごく感動してしまいました。音楽と踊りには、本来的に人を笑顔にして一体化させる可能性があるのだとゾクゾクしました。

ちなみに須藤元気という人はスピリチュアル系の書籍も出しているようで、それで敬遠する人もいるようですが、思想的にもおもしろいものを持っているからこういうことが出来るんだろうなあと思います。たとえば「世の中を変える一番の近道は、自分が変わること」といったような台詞を、たぶん、ただ言ってるだけじゃなくて自らの身体に落とし込んでいる人なんだろうなと。漠然とですが、なんかそんな気がします。WORLD ORDERの活動がとてもポジティブなオーラに満ち、見る人を楽しい気分にさせるのは、おそらく彼のそういうバックグラウンドがあるからなんじゃないかと。精神性と身体性のバランス感覚。センス。うーん、ただものじゃないですね。こんど書籍も読んでみます。


WORLD ORDER
P-VINE RECORDS
発売日:2010-07-07



須藤元気のWORLD ORDER

須藤元気のWORLD ORDER 2011.08.19 Friday [音楽・映像] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...