ちょうちょとButterflyと公とPublic

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
「ちょうちょ」って、英語で「Butterfly」じゃないですか。
これがどうもうまく飲み込めない。「蝶」が「Butterfly」と英訳されることは学校で習うわけだけれども、「蝶」=「Butterfly」として処理してしまうことにちょっとした違和感があるのです。


ぼくは蝶の標本にも興味がないような蝶の素人ですので、世界的にどのような蝶が存在してどのように分布しているのかぜんぜん知りません。なので、蝶博士や愛好家の方々からすればもしかしたら見当はずれかもしれませんが、科学的裏付けの無い、単なる印象論として「ちょうちょ」と「Butterfly」の差異について考えてみます。

「ちょうちょ」という言葉を聞いた時に、ぼくはどうしても、「♪ちょうちょ〜」というあの童謡が、まっ先に脳内に流れます。「ちょうちょ」という言葉とちょうちょの歌はワンセットになってる。(ちなみにあの童謡は、欧米各国に伝わる童謡に日本で独自の歌詞を付けた唱歌(参考)だったとは知りませんでした。)
で、その結果、「ちょうちょ」という言葉を聞いた時に想起されるのは、白や黄色の、ひらひらと舞う、かわいらしい蝶のイメージです。モンシロチョウやアゲハチョウ。

 
(画像はこちらこちらから拝借)

たぶんこれが日本人が「ちょうちょ」と聞いて連想するイメージのマジョリティなのではないでしょうか。というよりも、日本に住んでいて日常的に目にするのはこういった蝶であるから、この虫は「ちょうちょ」という可愛らしい語感を持った言葉で表されるようになったんじゃないかと。(いや待てよ、もっと昔は「てふてふ」と呼ばれていたはずだと思い出しましたが、めんどくさいので無視します。)

で、「Butterfly」ですよ。語感からして「ちょうちょ」とはまったく違うじゃないですか。(水泳のバタフライと被ってしまうせいもありますが)なんだか激しそうな、きらびやかな感じがする。モンシロチョウやアゲハチョウに慣れ親しんだ身からすると、これを「Butterfly」なんて名付けることにはちょっとした違和感があるのです。あの童謡も「♪バタフライ〜」じゃサマにならない。

ということは、「ちょうちょ」と「Butterfly」はそもそも指しているものが違うんじゃないか。英語圏に住む人が「Butterfly」と聞いて想起するのは、たぶんこういう蝶なのでは。

  
(画像はこちらから拝借)

ためしに、「ちょう」で画像検索した場合と、「Butterfly」で画像検索した場合を比べてみたのですが、色合いがぜんぜん違います。やっぱり「ちょう」は「ちょう」っぽいし、「Butterfly」は「Butterfly」っぽいんですよね。(こんな説明でうまく伝わっているかどうか分かりませんが、伝わる人には伝わっているという前提で話をすすめていきます。)

何が言いたいかというと、翻訳されることでイコールで結びつくと思っていたものが、実は同一のものを指しているとは限らないということ。同じ言葉だと思っていたものが、実は各々の立ち位置によってまったく違うイメージで使われていることがあるということ。

言葉というものは、絶対的な価値基準としてあるわけじゃなくて、その土地に暮らす人たちの生活文化の土壌に大きく左右されるものです。というか、文化的土壌とかバックグラウンドがまず先にあって、そこから必然的に生まれてくる。



日本という国は明治維新によって、近代国家へと変貌していったと言われています。黒船が海を越えて持ってきたものは、西洋の文化、制度や習慣。いわゆる文明開化です。このときに日本は西洋の文明をごっそりと輸入した。西洋の制度や習慣を輸入するために、それらの概念も、言葉として輸入した。「人権」や「自由・平等」といった概念もたぶんはじめて輸入された。もちろん、それによって日本は近代国家としての道を歩んでいくことになるわけですが。

たとえば「人権」や「自由・平等」といった言葉が、西洋の民主主義で使われているのと同じ意味で認識されているのかどうかは疑問です。人権感覚の欠如した人が政治家になり、大手を振って平気で人権侵害的な発言をしたりしている。輸入されたのは言葉だけで、日本には民主主義が根付く文化的土壌がまだ育っていないというふうにも見えます。

文化的土壌とかバックグラウンドがまったく異なる地に、異文化の「言葉」だけが輸入されたとしても、その真意は伝わらないわけです。字面だけで、自分が理解できる範囲で勝手に自分なりに解釈してしまう。だけど、相手の文化的土壌と自分の文化的土壌を知らなければ、ほんとうには理解できるはずが無いんですよね。


「公」という言葉があります。
公務員は、よく既得権益とされてバッシングの対象になります。公務員や議員を減らせという声が世論としての主流です。まるで公務員が多いことが問題であるかのように扱われていますが、日本は公務員の少ない国であり、すべての欧米先進国より少ないというデータがあります(参考)。

「滅私奉公」なんていう言葉があることから考えても、日本における「公」という言葉の位置づけは推して知るべしです。

nakanemisaさんのツイートより
7〜8年前、diversity MLで「公」の概念がヨーロッパと日本ではまったく違うことを知った時は衝撃を受けた。「公」というのは「自分たち」のことなんだと。

公とは「お上」のことではなく、「自分たち」の総意。教育の捉え方は、この「公」の捉え方で大きく変わる。今ある社会に適応させること。ここ数十年の日本の教育の主な目的はそれだった。でも本当はもう一つの大切な側面がある。どんな社会をつくりたいのか、自分の志向や意志をもつ人を育てることだ。


「公」という言葉の使われ方と、「Public」という言葉の使われ方がまるで違うんですね。それらの言葉を聞いて想起するイメージもたぶん違うし、それらの言葉が使われるバックグラウンドもまったく異なっている。

2009年の政権交代で民主党が、松井孝治参院議員が中心となって打ち出した「新しい公共」とは、つまりこの「公」という言葉を再定義しようという意味でした。いままでの「お上にお任せ」型の政治から、有権者が「自分たちで引き受ける」政治へ。鳩山由紀夫氏が言っていた「裸踊り」もそういう文脈であったわけです。これは日本の政治史において、相当にドラスティックな変化になるはずでした。当時のぼくは、その期待も込めてこんな記事を書いています→「公」と「私」

だけど、そういうことはあまりアナウンスされなかったし、そういう認識は人々の間にほとんど浸透しなかった。民主党の迷走とともに、「新しい公共」はいつのまにか立ち消えて、そして忘れ去られていきました。

3年前の松井孝治さんのツイートより転載します。
日本の文化を語れる政治家を育てなければ。経済も生活ももちろん大切。それらは必要条件。でも十分条件ではない。自国の文化を高めることがその国の教育や経済や政治の一義的な目標なのではなかろうか。

僕が「文化」というとき、狭い意味での芸術文化もさることながら、中央の「官」だけでなく、地域の人々が「公共」をささえるような、社会のありようまで含みます。豊かな日本独自の「文化」を更に深化させたい。前提として経済が大切であることとも、他国の文化を尊重することとも両立すると思います

「人間のための経済」。鳩山演説で問いかけたこと。2000年代、マクロ経済はそれなりには成長した。マクロの成長も必要。ただ、国民生活がどこまで豊かになったか、地域の絆が強化されたか、地方が空洞化していないかを振り返り、今の日本に必要な経済社会政策を立案しなければ。

その議論の中で、思い切った地域主権、「新しい公共」。これらは経済の活性化のためにも重要という方向性を、前内閣(編注:鳩山内閣)では見出しました。


「民主党」という言葉には、もう負のイメージがまとわりついてしまいました。民主党について書くことすら憚れるような雰囲気です。けれども、3年前に政権交代を託したときの「政治が変わる」というあの期待感のすべてが嘘だったとは、ぼくは思っていません。新しい政治の言葉を届けようとしていた人たちが少なからずいたこと、そういう気運が高まっていたことをぼくは覚えています。ぼくたちは政権交代に何を託したのか。何を目指していたのか。何がダメで何がダメじゃなかったのか。検証する必要があります(けれど主要な政治家は誰もしていません)。残念ながら松井孝治さんは政界を引退してしまいました。民主党内に「新しい公共」の意義を理解していた政治家がどれだけいたのかも、いまとなっては疑問です。

人々の意識下にある「お上にお任せ」は根強い。民主党が崩壊した後の自民党への振れ幅をみていると、そう感じざるを得ません。民主党がダメだったからやっぱり自民党、だなんて短絡的すぎる。知的な逡巡がなにも無い。だけどしょうがない。日本のバックグラウンドはそういう文化的土壌なのだから。一度や二度の政権交代で簡単に意識が変わるわけないんです。何十年もかけて、言葉とともに成熟させていかないといけない。

自民党にせよ、民主党にせよ、あるいは共産党にせよ、どれかの政党が「正解」であるはずだ(選挙は「正解」を選ぶレース予想だ)と考えているうちは、「お上にお任せ」の意識から逃れられません。まるで「民主主義」という「正解」が、異国の地にすでに完成系として存在していて、それを輸入すればOKみたいな態度では、民主主義が根付くわけがない。必要なのは、考えるちからです。

だからこそ、教育が重要です。

nakanemisaさんのツイートより
この世界のルールを知って従うことも必要。でも同時に、あなたは自由な意志をもって生き、この世界とルールをつくっていく一人でもあるということ。

意志をもつように育てるための何か特別な方法があるわけではないだろう。ただ言えるのは…子どもと、親や先生(学校)との間に、双方向のやりとりがあり、そのせめぎ合いで状況を変えていける体験することではないだろうか。一方的に押し付けるだけでは、考えない受け身な生き方を身につけさせてしまう。


「教育改革」が必要だと、誰もが言います。
だけど、どういうふうに変えていけば良いのか、その中身はそれぞれの考え方によります。自民党と民主党の教育観はぜんぜん違いました。「教育」という言葉で一緒くたにできない多様性をもっているのが、教育だと思います。言葉の字面通りの定義ではなく、話し手と言葉が含むニュアンスを見ないといけない。

「教育」という言葉を聞いた時に、ぼくたち大人は、自分が理解できる範囲で勝手に自分なりに解釈してしまいがちです。子供は、大人がもつ偏狭な理解や解釈を超えていく可能性をもっています。双方向のせめぎ合いを通して、言葉がもつ意味を再定義していくのも子供たちです。

「好奇心こそ、次の時代を拓く鍵である。これを追求し、果てしない努力をつづけるところに、子供の力がある。」(野口晴哉)

だいたいにおいて、「政治」という言葉を聞いたときにまずはじめに受けるネガティブなイメージをなんとかしたいですよね。政治家って、本当はクリエイティブな仕事であるべきだと思います。

フルタルフ文化堂 より
コトバが変わると人々の気持ちが変わる。政治が変わる。社会も変わる。人々のコミュニケーションのスタイルも変わる。だからリーダーこそが、しなやかなコトバ、自分のコトバで語りかけることは、本当に大切だ


もういちど言いますが、言葉がもつ意味を再定義していく可能性を秘めているのは、子供たちです。
まあ子供みたいな大人でもいいんですが。

ちょうちょとButterflyと公とPublic

ちょうちょとButterflyと公とPublic 2013.07.12 Friday [妄想] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

それって誰のもの

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
漫画家のとり・みきさんが、自身の作品がテレビ化された時のエピソードをこちらのコラムで綴っています。もう20年以上も前の出来事だそうですが、ここで書かれている「創作物をめぐるあれこれ」は、現在もあまり変わっていない状況であると思います。

青春の怒りとカネ とり・みきの「トリイカ!」 - 日経ビジネス・オンライン

同記事より
いまさら出来に文句をつける気持ちはない。
ショックだったのは、ドラマ化が決まっていく過程でのさまざまな出来事だった。

編集側はあきらかに舞い上がっていた。
基本的に「ドラマ化おめでとう。これで単行本も売れるね。ついに君もメジャーだね」という空気が、編集側からも局側からも同調圧力としてビンビン伝わってくる。ドラマ化に反対するような要素はすべて悪と見なされるような、そんな雰囲気だ。

色んな交渉ごとでも、編集側が作家よりもまず局側に気を遣っているのがわかる。こちらは「えっこの人たちはこっちの味方なんじゃなかったの」という不信感が増していく。

交渉が進むにつれて、局側の言葉の端々から、このドラマ化のプロジェクトが、まず主演の女性歌手を売り出すための企画であり、適当な原作はないか、とリサーチした結果、このマンガが浮上した、というような経緯が伝わってくる。そういうことを当の作者にいうのに、あまりてらいもない感じだ。


テレビがいかにメディアの王様であるかを物語っています。
それと同時に、「作品」とは誰のものか、という問いをも突きつけています。

同記事より
まず大きくは「作品は誰のものか」という古くからの命題がある。
話を拡げれば、出版社や映画会社(実質テレビ局ですが)という矮小な単位でなく「描かれた作品は作者のものか読者のものか」といういつものテーマが姿を現す。


音楽の分野でも、デジタルデバイスの普及にともなって、著作権保護がうるさく言われるようになりました。誰が主体的にうるさく言ってるのかというと、だいたいミュージシャンではないんですよね。作者ではなく、作者をとりまく周囲の人間が著作権を言い立てて大きな顔をし始める。いったい誰のための著作権保護なのか、実はよく分からないということが多いように思います。CCCDという愚行を犯した音楽業界は自分の首を絞め、結局そんなものはあっという間になくなりました。

著作権をめぐる問題について以前ぼくも書きました。
クリエイティブ・コモンズ(著作権による囲い込みから、おたがいさまの共有へ)

最終的には、作者への敬意があるかないか。それだけだと思います。

とり・みきさんは、「作品は誰のものか」という著作権の問題については、作者それぞれの考え方があり、それぞれのスタンスがあって然るべきだし、それでいいと言っています。自身の作品のドラマ化に関しても、自分の作風を一徹して守りたいというわけではないそうです。「原作とテイストが全然違っても作家性の強い監督が作る作品なら、私はそっちのほうを見てみたい」と。

だけど現実はそうじゃなく、作家よりもまず局側の意向が先に立っていた。たぶんドラマ化の現場では、作品に対するリスペクトはあまり無かったのではないでしょうか。とり・みきさんは「原作者だけ蚊帳の外」的な疎外感と不信感が膨らんでいった結果、こうなったそうです。

同記事より
なによりも、この不幸せな気持ちが、身近で一緒に作品を作ってきたはずの編集部に理解されていないのがいちばん悔しく情けなかった。やがて私はモチベーションが完全に折れ、連載の終了を申し出た。「テレビ化が決まってこれから本が売れるというのに、いきなりこやつは何をいいだすのだ。信じられん」といわんばかりに、当時の編集長はあきれた顔をした。

説得はされたが、けっきょくその、けっこう人気のあった週刊連載は、それから単行本1巻分も描かずに終わった。

(中略)

冒頭に述べた青二才ゆえの過ちだが、それくらい、当時の私は気持ち的に追い込まれていて、その場所からショートカットで脱出して違うところで自分の描きたいマンガを描きたい、と切望していた。当時の副編集長がやってきて「二度とこの世界で仕事はできないぞ」とすごまれたのを憶えている。


作者への敬意があるならば、こういう対応にはならないはずです。自分らのメシのタネぐらいにしか思っていないんじゃないでしょうか。自らの立場を利用して脅しをかけるなど論外だと思うのですが、こういうことは常套的に存在しているんでしょうね。選挙を前にして「いま自民党を敵にして農業が大丈夫だと思っているのか」というあからさまな恫喝もつい先日ありました(参考)。


作品は作者のものか読者のものか。どちらの意向を汲むべきか。忖度するべきか。0か1かの問題ではないでしょう。どちらの要素もあるし、互いに影響を与え合っている。どちらが正しいなんてことはありません。


先ほど唐突に選挙の話をもってきたので、むりやり政治の話にむすびつけます。
政治は政治家のものか有権者のものか。どちらの意向を汲むべきか。忖度するべきか。


森達也さんが、民主党への提言として寄稿した文章から転載します。

民主党 参院選スペシャルサイト声!より
多数決を原理とする民主主義は、メカニズムとしては市場原理だ。メディアが市場に迎合するように、政治も国民の多数派に迎合する傾向が強くなる。ポピュリズムが加速する。こうして国は判断を間違う。そんな事例は歴史にいくらでもある。前回はあれほど大勝し、そして今回はこれほど大敗した。圧倒的な世相の変化については、議員一人ひとりが実感しているはず。ならば開き直ることはできないか。多数派への迎合をやめる。選挙という市場原理に規定される政治家に対して、この要求がとても難しいことは承知している。でも試みてほしい。模索してほしい。

ドイツは改憲において国民投票を必要としていない。なぜならばかつて世界で最も民主的と謳われたワイマール憲法を掲げながら、結局は正当な民主的手続きでナチスドイツを誕生せしめたという記憶があるからだ。このリアリズムに僕は感動する。


市場原理にしたがって、最大公約数の意向を汲もうとすることで作品の質が落ちていくということは残念ながらたくさんあります。「その作品にとって、もっとも幸福な終わりのタイミングで終われない悲劇」もそうだし、手塚治虫の自身による過去作の度重なる改変が批判されたり「ディレクターズ・カットに名作なし」と云われたりする(前述のとり・みきさんの記事より)わけです。

どうしても選挙に勝たなければならない政治家は、最大公約数の意向を汲もうとします。少なくとも選挙中は、最大公約数の意向を汲むというフリをします。世論に迎合して、忖度する。

だけど、その世論って、実態のよく分からない、あるんだか無いんだか分からない代物だったりしませんか。少なくとも、テレビが喧騒する「世論」には、ぼくの声は入ってないなあと思うことが多い。あるんだか無いんだかよく分からない、幻想に向かって忖度しているような、そんなふわふわした空気を、森さんの指摘する「集団化」に感じます。

そんな中で一徹して自分の作品を作り続ける日本共産党はある意味、職人なのかもしれません。だから、自分の作品を守ろうとする向きがあって、それが自党のためなのか有権者のためなのか分からないなどとよく言われる。ぼくもよく分からないときがあります。

0か1かの問題ではないでしょう。どちらの要素もあるし、互いに影響を与え合っている。バランスだと思います。民主党が今後そのバランスを模索できるかどうか、あまり期待はしていませんけれども、民主党に限らず、ポピュリズムに陥らない飄々とした政治家、政党が出てきてほしいと思います。

それって誰のもの

それって誰のもの 2013.07.11 Thursday [政治・メディア] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

多様性って、肩の力を抜くことじゃないのかな

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
よく、こういう議論があります。

日本はどんどん非寛容な国になっている。

生活保護の不正受給へのバッシングを隠れ蓑にした、受給者への目に見えない差別。未婚の母に対する人権侵害的なアンケートを企画する出版社。警察という権力に守られながら、何の罪も無い市井の在日コリアンに侮蔑の言葉を投げつけるだけのヘイトスピーチ。放射能、原発の是非をめぐる同調圧力。

野合とポピュリズム、ギャンブラー的政治家の跋扈に象徴されるような、テレビが流す「風」によって決まる選挙。そういった空気に占拠される政治。メディア・リテラシーの欠落。一億総国民が、ひとつの方向に向かってガーッと極端に振れる「世論」。とにかく、ある方向に対して向けられる同調圧力っていうんですか、それも無意識の正義の押し売り。そういう傾向がありますよね。

森達也さんは、日本の現状を、「今のこの国の状況は(欧米のメディアが指摘するような)右傾化ではなく、 集団化だ」と言っています(森達也オフィシャルサイト巻頭コラムより)。

テレビを付けると、どの局も一律に横並びで同じようなニュースを流しています。だから森さんが指摘するように、徒党を組んでひとつの方向に走りやすい。数の論理に守られた無意識の人たちっていうのは、そこから外れる人を異端視したり敵視したり、しまいには迫害したりしがちです。多数派が徒党を組めば組むほど、その集団は、少数派に対して非寛容になっていきます。

首相自身が、自分の意見に反する人たちを「左翼」などとカテゴライズして、あからさまに見下すような態度を自身のFacebookで公開し、それに「いいね」してくれる賛同者がコメント欄に並ぶ光景は、ちょっと気持ち悪くてぼくは直視できないレベルです。これがどのメディアでも批判されない不思議。

ほんとうに、日本は非寛容な国になっている。あるいは、もともと非寛容な国であったけれども世間体や常識などといった蓋でいままで防護されていたものが、社会情勢の不安定化と、SNSの普及による身体性(イデオロギーを抑制するのは身体だという説)を超えた結びつきによって、その蓋が外れて噴出しているという現象なのかもしれません。

ともかく、日本はどんどん非寛容な国になっている。
この傾向を懸念する人たちは、日本人にはもっと寛容さが必要だと訴えます。寛容さというのはつまり、多様性を包み込む度量のことだと思います。だから、多様性を許容する社会であるべきだと。

そうすると、こういう議論が出てくるのです。

多様性を許容する社会であるならば、ヘイトスピーチのような差別的な発言も、多様な思想の一つであるはず。ヘイトスピーチも、言論の自由に守られるべきだ。

こういうことを言う人が必ず出てくる。
事実、在特会のヘイトスピーチが警察によって守られているのは言論の自由を論拠にしているわけです。
「それは違うだろう」と、思います。ふつうの感覚をお持ちであれば、それは違うだろうと思いますよね。

じゃあ、どこまでを多様性として許容して、どこからを許さないのか。きちんと定義できるのか。誰が定義するのか。そうやって線決めをすることは、多様性に対して寛容な態度だと言えるのか。そうやって考えていくと、頭の中がぐるぐるしてパーンとなります。

めんどくさいですね。定義、定義って。

すべての人に等しく当てはまる定義なんて存在するんでしょうか。定義にこだわることが、非寛容ってことなんじゃないですかね。定義にこだわらないのが、寛容な態度なんじゃないですかね。

コンプライアンスだの、プライバシーポリシーだの、著作権保護だの、なんでもかんでも杓子定規に当てはめようとする風潮がありますが、そういうのもケース・バイ・ケースでいいんじゃないでしょうか。

よく、誤字があったという理由でわざわざツイートを消して再投稿する人がいます。その律儀さは立派だなあと思いますが、少しの誤字くらい読む側が脳内で修正して読めばいいだけの話だとも思います。そんな立派じゃなくていいよと。


「世の中には「正しい」ことより大事なことがある(んじゃない?)」と、漫画家のとり・みきさんが言っています。

とり・みきの「トリイカ!」 - 日経ビジネス・オンラインより
いまのネットは、それが事実かどうか別に検証しなくていいことまで検証したがるシャレのわからない正義感であふれかえっている。冗談ひとつ発するのも気苦労だ。


すごく分かります。シャレのわからない正義感、「定義バカ」の話に付き合っていると、こっちまでおかしくなります。橋下市長の戦術はまさにそうです。別に検証しなくていい定義を追求して相手の頭をパーンとさせて、おかしくさせるのです。

「信を問う」だの、「毅然とした」だの、ほんとうに自分は普段からそういう態度でものごとに接しているのかどうかを考えてみてください。そうじゃないとしたら、それは煽り言葉です。

白か黒か。0か1か。
もうそういうの、疲れませんかね。

それが事実かどうか別に検証しなくていいことはほっとけばいいんです。少し聞きかじった程度で、ほんとは関心が無いのに社会派のフリをして眉間に皺を寄せる必要はないんです。自分にリーチすることだけ取り扱えばいいんです。
自分はめっちゃグレーというかニュアンスカラーな存在だし、0でも1でもない0.23ぐらいの輩であるということを自覚するといいです。0.84ぐらいだとサバを読んだっていい。

眉間の皺をほぐして、肩の力を抜いて、シャレの分かる人たちとおもろいことをツイートしていたいですね。各所にそれぞれの個性が点在して、それぞれが自分の好きなことを展開して、ときには助け合ったり合わなかったりする様子を、神様になって空から俯瞰したときに見える景色が、多様性ってことなんじゃないかなと。それはきっと創造的で、色とりどりなはずです。

多様性って、肩の力を抜くことじゃないのかな

多様性って、肩の力を抜くことじゃないのかな 2013.07.10 Wednesday [妄想] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

映画「立候補」その後 我ら平成よ、刮目せよ

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
公開から9日間連続の満席となった映画「立候補」。感想ツイートも続々流れてきますが、「とんでもなく良かった」「今年いちばん」「傑作」との声が多く、これからも話題を呼ぶことは間違いないと思います。(ぼくの感想1感想2

絶好調の同作ですが、予期せぬ意外な(?)ところから正念場を迎えています。

映画「立候補」facebookページより
いよいよ正念場!

映画「立候補」ですが、正直次の手に困っています。というのも出演者の参院選立候補で期せずしてバーチャルな状況になりプロモートの展開を大きく見直す羽目になってしまいました。
幸い観客のあたたかいご支援により公開劇場は連日大盛況。でも選挙後から始まる拡大公開が宣伝できない事態に陥っております。


何が起こったのかというと。7月4日に公示され、7月21日に投開票が行われる、この度選挙期間中の参議院選挙に、この映画の主人公をはじめ泡沫候補2名が立候補したのです(参考1参考2)。この事態を受けて、公式サイトはこんなことになっています。



この映画が「特定の政党や候補者を支持・応援する映画ではない」ことは、本編を観れば分かります。実際にぼくは、観終わった後、感動したけれども、あの人に投票したいとは全く思いませんでした。

映画「立候補」facebookページより
映画「立候補」は人生においての夢を諦めかけている人や、
踏み出す一歩にためらっている人を応援します。政治に限らず
すべての立候補者を称え、励ますことを目的とした映画です。

先ほど、17時に2013年参院選の届出が締め切られました。
映画「立候補」の出演者が2013年参議院議員選挙に立候補しました。本作は特定の政党や候補者を支持・応援する映画ではないとの立場から、また選挙の公平性を鑑み、今後7月21日の投票日まではウェブサイト等の宣材物から候補者の肖像・氏名を一旦削除します。なお公示前に掲示・領布された宣材物についてはその限りではありません。皆さまのご協力とご理解をお願いします。(明るい立候補推進委員会)


選挙期間に入ると、こういう「自主規制」を念頭に置かなければならない状況って、めんどくせーなーと思います。逆説的に、選挙とは「利権」で動くものであると言ってるようなものですよね。


数年前に劇場上映された『選挙』の再上映をめぐり千代田区立・日比谷図書館で起きたごたごたについて、想田和弘さんが考えたことを書いています。
日比谷図書館での『選挙』上映が一時中止された件について - 観察映画の周辺
千代田区の見解に対する僕の疑問と見解 - 観察映画の周辺

実際にこの映画が上映されることで損なわれる何らかの利権構造が存在するのかどうか、この事件の真相はたぶん解明されないままになるでしょう。想田さんもそこを追求したいわけじゃない。あるんだか無いんだか分からないけれども、それを先に汲み取って「自主規制」しようとする空気こそが、おかしいのではないかと言っています。きわめて同感です。

選挙前に選挙について語れない「空気」について - 観察映画の周辺より
今晩のJ-wave生出演中にも申し上げたのだが、「選挙前なので放送では政党名や候補者名を言えない」という放送各社の自主規制ガイドラインは全くおかしいと思う。選挙前だからこそ、報道機関は具体的な政党や候補者の政策や体質について詳報し議論すべきではないのか?


このガイドラインは、ぼくらの「思考」に枠組みを付け加えます。ほんらい政治とは、自分の生活実感から出てくる思いや願いであるはずなのに、利権の勢力分布を推し量ることが主眼になっていく。自分はそういう利権勢力とは関わりがないということをことさらにアピールしたくなる(無党派層という訳の分からないカテゴライズはそういう忌避感から生まれたものでしょう)。だから「選挙活動」には近づかないようにしとこう、となるし、「政治」には関わらないほうがいいし、よく分からないとなる。だから、選挙が近づくと大きくなる「政治的」な声は、真面目くさった声ばかりになる。きれいごとばかりになる(あるいはきれいごとばかり言ってはいけない、痛みに…云々という類いのきれいごと)。嘘こけっての。ふだんちゃらちゃらへらへらしているくせに、選挙のときだけまじめくさった顔をする意味があるのか。

だから政治が嘘ばかりになるんですよ。

ほんとはぐうたらなのに、みんなガンバッてるからとか、ガンバらないと怒られるからっていうので「ガンバリます」キリッって無理して作ってきたのが、これまでの日本経済を支えてきた「男社会」だと思うんです。その精神構造がブラック企業の存在を許している。ほんとはできないのに、やりたくないのに、「できます」「やります」つって。そうやって後戻りできなくなっていくという構図の象徴が原発なんだろうなと、ぼくは思っています。だから責任の所在が曖昧になる。「できない」ことを認めないのは、強さの証明ではない。



ということを踏まえつつ、氏の街頭演説を見てみました。

2013/07/05 【東京】「世界に先駆けて永世中立国宣言を」〜東京選挙区 スマイル党 マック赤坂候補 街頭演説(第一声) - IWJ

ぶっ。 こらこら、選挙で遊ばない。
これが率直な感想。

「言ってることはマトモじゃないか」という声もあります。たしかに、「世界で唯一の被爆国である日本は世界に先駆けて永世中立国宣言をすべき」「恒久平和」だのマトモなこと言ってるんです。だけど、それがちーっとも本気に見えない。見えないところが、逆にすごい。なぜハンストなのか。

映画「立候補」の木野内プロデューサーはこうつぶやいています。

木野内哲也さんのツイートより
1年半付き合って大好きな人なんだけど、やっぱりこの人に票を入れてはいけないと思う。ちゅーか、まじで上映していいのか悩む。http://iwj.co.jp/wj/open/archives/88977


大好きだけど投票はしないという感覚、すごくわかります。なんなんでしょうか、言ってることがちっとも本気に見えない、この軽薄さ。ガンジーに関する蘊蓄の薄っぺらさ。だけど憎めない。っていう、石田純一的な立ち位置。こういう人が「いる」というだけで救われる人がどれだけいるか。

同時に、ぼくはこう考えました。氏の出で立ちを見て、「おいおい、選挙で遊んでんじゃねーよ」とぼくも第一に思うわけですが、まじめな話、選挙で遊んじゃだめなのでしょうか。やっぱり、まじめくさった顔をするべきなのでしょうか。例えば、ぼくらは「遊び」を仕事にしているような人を羨むわけです。そういう人に政治家になってほしいとすら思ったりもする。政治家とは、ぼくらの代表です。ぼくらはどういう社会を作りたいのか。まじめくさった顔してウソをつく人と、どう見ても遊んでる人と、どっちがマシなんだろう。


「私は政見放送だけの男ではない」うん。「Youtubeだけの男でもない」う、うん。「インターネットで投票できたら私は5人のうちの1人に入ります」…お、おう。

っていうか、この人、めっちゃ映画に影響受けてるじゃないですか(笑)。
あれだけ本編を観ても分からなかった、供託金300万円を払ってまで立候補する理由についても、さらーっと言っちゃってるし。映画の宣伝してるし。

氏の今回の変化は、映画の影響だとぼくは思います。現実が先なのか、映画が先なのか。フィクションなのか、ノンフィクションなのか。その境目が現在進行形で入り組んで融解してきている。なんですかこれ。

木野内哲也さんのツイートより
参院選の立候補届け出が先ほど閉め切られた。映画「立候補」に出演する2人が国政に名乗りを上げた。ドキュメンタリー映画の特性なのか、映画という領域が現実とフィクションの差を余裕で越えている。

スクリーンに映り込む光と影が非現実世界だと誰が決めたのだろう。緩やかにプログレスする映画「立候補」。我ら平成よ、刮目せよ。我々は未だ真の現実を味わってはいない。


映画「立候補」は、現在進行形なのです。劇場の100分だけでは完結しない。

刮目しましょう、候補者を。
刮目しましょう、自分の生活を。

そして、できれば一票を投じてみたほうがいいと思います。それは「政治」を、「自分ごと」「自分の生活」に引き寄せる行為です。その結果が、7月21日では完結しないことは言うまでもありません。

映画「立候補」その後 我ら平成よ、刮目せよ

映画「立候補」その後 我ら平成よ、刮目せよ 2013.07.08 Monday [音楽・映像] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

映画「立候補」と観察映画

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
6月29日から東京・ポレポレ東中野で公開が始まった映画「立候補」が、4日間連続で立ち見を含め満席となり大きな話題を呼んでいるそうです。
映画「立候補」異例の大ヒット!4日連続満員御礼 - 映画.com




公開日直前には、高橋源一郎さんが森達也さんに誘われて試写会に出向き、見終わった直後に「感動して、涙が止まらない」とツイート。その数日後には朝日新聞の論壇時評でも大きく取りあげていました。
立候補する人々 ぼくらはみんな「泡沫」だ 作家・高橋源一郎 - 朝日新聞 論壇時評

これもいいレビューです。
京大出身、商社エリート、スマイル党代表。マック赤坂はなぜ戦うのか「映画『立候補』」 - エキサイトレビュー


映画を観た人のツイートなんかを見ても、評判は上々。
ぼくも、公開前に本編を観る機会に恵まれたのですが、めちゃくちゃおもしろかったです。全国での上映スケジュールはまだ決まっていない状況ですが、これは全国ロードショーされるべき作品だと思いました。こちらに感想を書いています。
映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由

「彼ら泡沫候補が存在する理由とは、すなわち、ぼくらが存在する理由でもあった」
これが、ぼくの感想です。悩みに悩んで死票を投じた昨年の衆院選を思い出しながら、投票するという行為とは何なのかについて考えさせられました。詳しくは上記記事を。

これはあくまでもぼくのパーソナルな体験を通じた、ぼくの感想です。ここ大事なんですが、たぶん観る人によって想起することが違う。観る人によっていろんなことを考えさせられる映画だと思うから、多くの人に観て欲しいと思うし、いろいろな人の感想を聞いてみたい。

そういう映画になっている。藤岡利充監督と製作・撮影の木野内哲也さんの二人でほぼ作られたドキュメンタリーだそうですが、たぶん、藤岡監督や木野内さんが意図して作ったもの以上の「なにか」が宿ってしまっている。その「なにか」は、観る人によってさまざまなことを想起させるはず。

そう思っていたので、或るレビューの中にあった一文が妙に引っかかりました。

マック赤坂、羽柴誠三秀吉氏…異色候補の本音に迫った「映画『立候補』」 - zakzakより
映画評論家の垣井道弘氏は「着眼点はいいし、マック氏ら取材対象者に迫ろうとしているのも分かるが、選挙のドキュメンタリーであるならもう少し批評的、ジャーナリステックな視線で取材対象者に迫るべきだった」という。


もし仮に、「もう少し批評的、ジャーナリステックな視線で取材対象者に迫った」ならば、この映画はまったく別のものになっていたと思います。作り手の「政治的な意図」が透けて見えたならば、聴衆はシラけてしまうと思います。「感動して、涙が止まらない」なんてことにはならないでしょう。クライマックスにかけて映画の神が降りてくる、あの奇跡的な展開は、決して意図して出来るものではないからです。だから感動する。それが「作られた」ものではないから、胸がふるえる。

もともとこの作品は、藤岡監督自らの“映画監督にかける夢”とリンクした「夢追い人」という企画からスタートしたもので、“あきらめない人”のモデルとして「泡沫候補」が取りあげられただけで、当初は泡沫候補だけに絞るつもりも無かったそうです。撮影も、外山恒一氏のインタビュー以外は難航したとのこと。マック赤坂は私生活に触れられることを嫌い、カメラを回すのも事前に許可を得られた時間のみで、気分が乗らない時は中断することもあったとか(参考)。

実際、この映画を観てもマック赤坂のことはほとんど分からないままです。彼はなぜ、供託金300万円を払ってまで、立候補するのか。政治家になって何をしたいのか。理解しようとすればするほど、理解できなかった。だって、マックが政策について語るシーンはほぼ皆無なんだから。マラカスを振って踊っているだけ。中身が何も無い。「ジャーナリステックな視線で」迫ることを、彼は拒否している。

なのに、「何も無い」はずのマック赤坂のすがたが、なぜこれほど胸を打つのか。それは、実際に映画を観て「体感」してほしい。そうしないとたぶん伝わらない。言葉や文章で簡単に伝わるようなものだったら、映画を撮る必要は無い。逆に言うと、だから映画を撮るんです、きっと。

ぼくが20代半ばのときに、「古寺巡礼」展示とともに目にして衝撃と大きな影響を受けた土門拳の言葉です。
『写真の立場』土門拳 - 土門拳記念館



ニューヨーク在住のドキュメンタリー映画作家、想田和弘氏は、自身の映像作品を「観察映画」と呼んでいます。想田監督のドキュメンタリーには一切の説明がありません。イントロもナレーションもBGMも敢えて排している。ごてごてと盛り付けて分かりやすさを演出する昨今のテレビ番組とは真逆です。もともとテレビ番組制作に携わっていた想田さんは、そこでの「決まりごと」の多さについて疑問を感じるようになったそうです。



想田監督は、アメリカのドキュメンタリー映画監督であるフレデリック・ワイズマンから影響を受けたと言っています(ぼくはワイズマンの作品を観たことはありませんが)。

同書より
ワイズマンの映画にはナレーションも音楽もテロップも何も無い。ただひたすら目の前に展開する現実を映像と音で描写するだけである。「オレからは何も説明しないよ。観る人が勝手に解釈してくれ」というワイズマンの素っ気ない声が聞こえてきそうだ。


テレビ番組が最大公約数の「分かりやすさ」を追求して、てんこ盛りになっていくのに対して、この「素っ気なさ」は、作り手の努力不足と言われてしまうかもしれません。けれども、解釈を受け手に委ねるということは、受け手の知性を信じているから出来ることだと思います。テレビが説明過剰になるのは、視聴者の知性を信じていないからです。

受け手の知性を信じるとは、受け手の解釈に委ねるということ。教育も、子育ても、そこが本質的な根幹にあるのだとぼくは思っています。もちろん、基礎となる学力(しつけ)も必要だけど、それは目的ではない。彼らが自分で自分のこととしてものごとを「考える」ようになるための手段です。主客が転倒しないように気をつけたい。

想田さんは、徹底して説明を省くのと同時に、だからといってドキュメンタリーが公正中立な客観性を保つわけではないとも言います。カメラのフレームを通した時点で、それは撮影者によって切り抜かれた映像です。そこからこぼれ落ちる現実も無数に存在する。



映画「立候補」は、特定の政党や候補者を支持・応援する映画ではありません。それどころか、たいして「政治的」な映画でも無い。なのに、観終わった後には、今までよりもずっと政治のことを考えるようになります。考えたくなる。それも、テレビが分かりやすく説明してくれる劇場としての「画面上の政治」ではなく、自分ごととして。自分の投票行為を省みたくなる。自分の生活を顧みたくなる。

「オレからは何も説明しないよ。観る人が勝手に解釈してくれ」

ひょっとしたら、映画の中でのマック赤坂はそう言っているのかもしれません。



最後に、木野内哲也さんのツイートを。
参院選の立候補届け出が先ほど閉め切られた。映画「立候補」に出演する2人が国政に名乗りを上げた。ドキュメンタリー映画の特性なのか、映画という領域が現実とフィクションの差を余裕で越えている。

スクリーンに映り込む光と影が非現実世界だと誰が決めたのだろう。緩やかにプログレスする映画「立候補」。我ら平成よ、刮目せよ。我々は未だ真の現実を味わってはいない。


なにが現実で、なにがフィクションなのか。ぼくらはどうやって判断するんでしょうね。

映画「立候補」と観察映画

映画「立候補」と観察映画 2013.07.04 Thursday [音楽・映像] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

My Back Pages マイ・バック・ページ / ボブ・ディラン、キース・ジャレット、まごころ

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
今日もタイムラインですばらしい曲を教えてもらった。高島千晶さんのツイートより。



キース・ジャレットによる、ボブ・ディラン「My Back Pages」のカバー。
このアルバムに収録されています。1968年のライブ盤。キースは当時23歳。


著者 : キース・ジャレット
ワーナーミュージック・ジャパン
発売日 : 2013-07-24



ディランの原曲は知っていましたが、まさかキース・ジャレットがカバーしているとは知らなかったので驚くとともに、その演奏の瑞々しさにオジさんは胸がときめいてしまいました。アルバムのレビューを見ても、とにかく1曲目「My Back Pages」がいいという声が多いですね。

しかしこれが68年ですか。自分が知っていた曲を、自分が好きなミュージシャンがカバーしていて、しかもそれが自分が生まれる前だったということを知るのは、なんだか不思議な感じがします。音楽は、色褪せないですね。


ボブ・ディランのオリジナルはこちら。地味です。




実はオリジナルよりも、バーズ (The Byrds) がカバーして有名になった曲なんだそうです。キースのカバーも、こちらの方をモチーフにしているとか。なるほどメロディアス。



ディランの30周年記念で歌われたという、エリック・クラプトン、ジョージ・ハリスン、ニール・ヤング、トム・ペティという豪華面子による共演も。



ラモーンズのカバーもありました。




ところで、ぼくが初めてこの曲を知ったのは、真心ブラザーズによるカバーです。



同曲が収録されているこのアルバムは若かりし頃によく聴いたなあ。


著者 :
キューンレコード
発売日 : 1995-05-01



真心ブラザーズの「マイ・バック・ページ」は、ニューエスト・モデルの「嵐からの隠れ家」と並んで、日本語詞によるディラン・カバーの名曲だと思います。ボブ・ディラン本人もこのバージョンを気に入ったという逸話もあるそう。

倉持さん(YO-KING)が訳した「マイ・バック・ページ」日本語詞

白か黒しかこの世にはないと思っていたよ
誰よりも早くいい席でいい景色がみたかったんだ
僕を好きだと言ってくれた女たちもどこかへ消えた
あのころの僕より今の方がずっと若いさ

自尊心のため無駄な議論をくり返してきたよ
英雄気取りで多数派の弱さを肯定もしてきたし
僕をすばらしいと言ってくれた男たちも次の獲物へ飛びついた
あのころの僕より今の方がずっと若いさ

穴のあいた財布が僕に金をくれ金をくれと言う
青空が僕にむりやりのんきさを要求する
僕を怖いと言ってくれた友人もはるか想い出の中
あのころの僕より今の方がずっと若いさ
あのころの僕より今の方がずっと若いさ


イントロから、出だしのワン・フレーズで持っていかれちゃいますね。
「白か黒しかこの世にはないと思っていたよ」
YO-KINGの歌声と、このワン・フレーズが耳について、ずっとこの曲が好きでした。

オジさんになったいままた聴いてみると、この歌詞が、ぐっと現実的になって胸に迫ってきます。このブログにぐだぐだと書いてきたことも、あのワン・フレーズに凝縮されているような気がする。「自尊心のため無駄な議論をくり返してきたよ」って、橋下批判ですか。いや、橋下批判を含めた橋下批判への批判ですね。自分へのカウンター。

あのころの僕より今の方がずっと若いかどうかは分かりませんが、あのころの僕より今の方がずっとドMにはなりました。ありがとう、ディラン。

My Back Pages マイ・バック・ページ / ボブ・ディラン、キース・ジャレット、まごころ

My Back Pages マイ・バック・ページ / ボブ・ディラン、キース・ジャレット、まごころ 2013.07.02 Tuesday [音楽・映像] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

ショッピングモールとパティ・スミスと漂白される時代

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
先日、イオンモールについて思うことをつらつらと書きました。ぼく自身、考えがまとまっていないままに書いたので、何を言いたいのかよく分からない文章になったなあと思います。イオンモールはつまらないと言いながらも、便利なのはたしかであり、実際にけっこう利用しているわけで、そのあたりの矛盾をどう消化したらいいのか自分でも分かりません。

現代において、ショッピングモールの存在は重要であり、若手論客を中心にして「ショッピングモール論」とでもいうべき論考がなされているそうです。震災前に刊行された、東浩紀さんの『思想地図β』創刊号もショッピングモール特集でした。個人的には、『ラーメンと愛国』で抜群の情報収集力と編集力を見せてくれた速水健朗さんのこの本を読んでみたいと思っています。

現代都市と、いまどきのショッピングモールは、少しずつ姿を変えながらにじり寄る関係にあり、近い将来、どこまでが “都市” で、どこから先が “ショッピングモール” なのか分からなくなってしまうだろう。つまり、ショッピングモールについて語ることは、現代の都市について語ることでもある。


ネットの時代だと、書籍を読む前についつい書評を読んでしまうことが往々にしてあるわけで、本書についての書評ブログをいくつか読みました。

ショッピングモールから都市論の深みにはまってみる - 風観羽

上の記事で、筆者は「かく言う私も、ショッピングモールと聞けば、ファスト風土化(大型店やチェーン店などが郊外に進出することで、その地域の個性が失われてしまう現象)の印象が強く、「地域共同体を崩壊させ、地域の特色をなくし、グローバルな大資本の横暴を象徴する存在」というようなネガティブな概念が思い浮かんでくる。」と語っています。ぼくが、前の記事で書いたのもほとんどそういう内容でした。ショッピングモールは忌み嫌われている存在であり、だからあまり真面目に語られることが無いという指摘は、なるほど自分もそうだなと。

しかし、速水さんの言う通り、現代の都市について語るときにはショッピングモール抜きでは語れないという時代になっているのかもしれません。

上記、風観羽の記事より
従来より利便性があがり、賑わいがあり、センスもよい環境につくりかえられている場所が増えていることは間違いない。私自身、胸に手をあてて自らに問えば、その恩恵を十分に感じている自分がいる。(中略)ショッピングモールを中心に開発された場所は、『ファスト風土化』で語られるような荒涼とした風景というよりは、『安全』、『清潔』、『バリやフリー』、『テーマパーク的な面白さ』等のキーワードが似つかわしく、より一層洗練されてきている印象が強い。


イオンモールはつまらないと文句を言いながらも、便利なのはたしかであり、実際にけっこう利用している自分がいるという矛盾がここにあります。グローバル化を嘆きながらも、ユニクロで服を買い、AmazonでCDをポチる自分がいる。

風観羽の筆者は「単なる『グローバル化批判』や『新自由主義批判』で使われる分析装置では、この違和感をすくいとることはできそうもない。」と言っています。そこで「身体的・動物的な共感可能性」なるものが出てくるのですが、まだ速水氏の『都市と消費とディズニーの夢』を読んでもいないので、ここまで理解の範疇が及びません。はたして「グローバル化」以外の視座からショッピングモール問題がクリアになっていくのか、たのしみです。


もうひとつ書評ブログより。

都市と消費とショッピングモール - 町田の独り言

この筆者も、同じように前置きをしながらも、ショッピングモールがもたらす景観の変化についてこう述べています。

私自身は昨今の、何もかもがピカピカ光ったようなショッピングモールの “明るく清潔な空間” というものに、どうしても馴染めないでいる。それよりも、「裏町」 とか 「場末」 と呼ばれるような、 “暗くさびしい” 空間を残している街の方が好きなのである。

(中略)

ショッピングモールというのは、そのような街の再開発の “総仕上げ” みたいなところがある。そして、確かにそれは、新しい 「消費」 と 「雇用」 を生み出す。だが、そこで必ず何かが失われていく ( … と私は思っている) 。
 
一言でいえば、それは 「街の陰影」 である。街というのは、人々に 「安全」 と 「清潔さ」 と 「快適さ」 と 「治安」 を保証しなければならない。しかし、それと同時に、どこか 「いかがわしい」 場所や、ほのかに 「危険な香り」 が漂う場所が残っているという、微妙なバランスの上で街というものは成り立っている。
 
ショッピングモールは、その 「陰の部分」 をきれいに拭い取っていく。だからそこには 「退屈さ」 しか残らない。さらに “美学的” なことをいえば、そこには 「デカダンス」 がない。

そういう “不健全な” 嗜好は、あまり多くの人の共感を得られないだろうと思っているから強く主張する気もないのだけれど、ショッピングモールの景観は、そういう私の嗜好の正反対にあるから、「嫌い」 なのである。


ぼくは、この感覚に「ああ、そうなんだよなあ」と共感します。それはもしかしたら、都市計画というタームでは測ることのできない問題なのかもしれない。この筆者の言うように、「それは、生活感覚や価値観の問題というより、趣味の問題である。生理的な問題といってもいい。」なのかもしれません。いわば性癖ですね。

『都市と消費とディズニーの夢』 では、都市そのものがショッピングモール化しているという事実を、事例を挙げて紹介されているそうです。いくら建築家や学者たちから忌み嫌われようとも、都市がショッピングモール化していくのは、他でもない「消費者」からの要請であり、それは避けられない趨勢なのだと。

それに対する、筆者の見解にも共感しました。詳しくは上記ブログ記事を読んでみてください。たぶん、速水氏が「ショッピングモールの愛好家」であり、このブログの筆者が「ショッピングモール嫌い」であるからなのでしょう。ああ、もうこの書評を読んでしまったら、このバイアス抜きでは本書を読めなくなってしまったな…。


前の記事にも書きましたが、あらゆるものを「消費」文化のものさしで測ろうとする傾向っていうのは、ほんとうに感じるし、想田さんが指摘するように、「おまかせ民主主義」とはつまり「消費者民主主義」であるという観点で、日本の政治のダメさも説明できると思います。

ショッピングモール問題について考えるということは、「消費」文化について考えるということであり、それは「都市景観」はもちろんのこと、それだけじゃなくて、あらゆる問題につながる現象なのだと思います。

フクシマ論』の著者である社会学者の開沼博さんが、下記のような連載を執筆していました。

開沼博 闇の中の社会学 「あってはならぬもの」が漂白される時代に ダイヤモンド・オンライン

開沼さんは「売春島」「偽装結婚」「生活保護受給マニュアル」「援デリ」など、タブー視される世界を取材することで、私たちがふだん見えないフリをしている「闇の中の社会」を描いています。『「あってはならぬもの」として社会からきれいに“漂白”されてしまった「ムラ」の中にこそ、リアリティはある。』のではないかと。


ショッピングモールは、人々に「安全」と「清潔さ」と「快適さ」と「治安」を保証し、人々の「消費」への欲求を満たすことを徹底的に追及して作られた施設です。それと同時に、ショッピングモールとは「漂白された」場所でもあります。作り手も、売り手も、買い手も、「個人」を見えなくさせることによって円滑なコミニュケーションが成立している世界です。時代は確実に「漂白される時代」へと向かっているというのが現実でもあります。

それが良いことなのか悪いことなのかは、簡単には決められない。「闇の中の社会」がすべてでもないし、「漂白された社会」がすべてでもない。どちらも自分の中にある一部だと思います。イオンモールはつまらないと言いながらも、けっこう利用しているという矛盾の中に自分は生きているのです。そもそも、ぼくはどちらかといえば「漂白された」環境の中で育ってきた。この矛盾は、簡単にはクリアにならないでしょう。もともと自分は矛盾した存在であると認識したほうがいいと思う。


唐突に話が変わりますが、昨夜ツイッターのTL上でパティ・スミスのカバー盤の存在を知りました。『Twelve』というアルバムで、ジミ・ヘンドリックス、ティアーズ・フォー・フィアーズ、ニール・ヤング、ローリング・ストーンズ、ビートルズ、ジェファーソン・エアプレイン、ボブ・ディラン、ポール・サイモン、ドアーズ、ニルヴァーナ、オールマン・ブラザーズ・バンド、スティーヴィー・ワンダーという錚々たるロック・レジェンドの名曲ばかりをカバーしたという逸品だそうです。ニルヴァーナ「Smells Like Teen Spirit」のカバーがこちらで聴けます。いいですねー。ロック好きなら感涙なのでは。

で、このアルバムを紹介しているブログの方が、これまた共感することを書かれてまして。

ロック好きの行き着く先は…より
やっぱりパティ・スミスという人は暗くて重い。…が、ロックって暗くて重くないとダメなんだよね


そうなんですよ。ロックって、基本的に暗い奴がやらないとダメなんです。クラスの中で進んで学級委員長になりたがるような明るく元気な優等生がやるものじゃない。落ちこぼれの、鬱屈した、うじうじした少年が、やむにやまれず表出させてしまった音っていうのがロックなのだと、ぼくは思っています。

ショッピングモールがきれいに拭い取っていった「陰の部分」が、ロックにはある。逆に言うと、陰のないロックはロックじゃないと思います。

この記事にも書きましたが、ピート・タウンゼントは、「ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。 」という至言を残しています。永遠のカウンターカルチャーとしてのロックが、ぼくは好きです。蒼臭かろうが、それだけでぼくにとってはロックはロックたり得る理由になる。そのきわめて「個人的な」衝動の中にしかロックは存在しないんじゃないかと、ぼくは思っています。

そして、それはやっぱり「漂白される」ショッピングモールとは相性の良くない存在であるだろうなと。パティ・スミスがイオンモールのひな壇で歌ってたら、ぼくはひっくり返ります。ああいう場所にはAKBが似合う。それって、やっぱり性癖の問題ですよ。生活感覚や価値観の問題というより、趣味の問題。AKBが似合うような「清く正しい」空間っていうのが、落ちこぼれの、鬱屈した、うじうじしたオジさんは苦手なんです。

そんなことをぐだぐだと考えながら、パティ・スミスのアルバムをポチります。ネット通販最大手のあのサイトで…。

ショッピングモールとパティ・スミスと漂白される時代

ショッピングモールとパティ・スミスと漂白される時代 2013.06.26 Wednesday [妄想] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

行列のできるイオンモール

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
トイザらスが入っているということもあり、週末にイオンに行くことがあります。その度に、この田舎にまあこれだけ人がいたのかと驚きます。まるで此処にしかお店が無いかのように市内中の人が集まり、大駐車場はいつも満車。店内を行き交う人々も、買い物を楽しんでいるというよりは、タスクに追われているという感じで、人混みが苦手なぼくはその場にいるだけでヘトヘトになってしまいます。

たしかに、子供連れにとっては便利であることは確かだし、それなりに利用もするわけで、イオンモールのすべてを否定するつもりはないけれども、生来のひねくれ者としては、やっぱりなんだかつまらない。イオンモールに限らず、マックスバリュや、ヤマザワや、おーばんであろうが同じ種類の虚しさを感じてしまう。

グダちゃんのツイートより
@sasakitoshinao 私のような若い世代だと田舎の人ほど恐ろしいほど「地元の人懐っこい買い物」をしないんです。田舎に住んでいるいとこや大学の地方出身の同級生から話しを聴くと「地元の商店街に足を運んだ経験」がそもそもないです

@sasakitoshinao 地方の若者はみな、生まれつきジャスコやユニクロがあるんです。そういう全国チェーンありきで生きているんです。外食だって、本来は地元のB級グルメを食べるはずが、味気ないフードコートが青春の味です。バイトの店員はブラックなはずです

@sasakitoshinao 平成の、特に2000年代以降の地方は私たちが本来想像するような郷土色の豊かなふるさとではなく、外国のようになってしまっています。東京以上に「消費文化に閉じ込められた空間」になっているんです。哀しいけど、これが現実です


考えてみれば、いまの若い世代にとって「地元の商店街」なんてものは、そもそも存在しなくて、歩いて行ける圏内にあるのはコンビニとドラッグストア。リアル店舗では、ジャスコやユニクロ以外の選択肢が無い。あったとしても、金銭的に選択できないか、そもそも全国チェーン以外のお店があるという発想すら出てこないか。囲い込まれてるなあと感じます。

かくいうぼくも、「地元の商店街」に触れて育ったわけではありません。小さい頃は2〜3年で転校をくり返していたし、それも中途半端な田舎街ばかりだったので、親は大手スーパーで買い物するのがデフォルトでした。だから、商店街が生きていた頃の「昔はよかった」と懐かしんで回想できる立場にはありません。


グダちゃんのツイートより
@sasakitoshinao 茨城県出身の友人を地元の個人経営の写真屋に連れて行った時、まるで説教前の子どものように怯えていたのを思い出します。不思議だったんですが、考えてみれば平成の田舎生まれの若者は「全国チェーンの店員」と「親しい同級生・家族」以外に接する機会がないわけです


ぼくはむしろ、こちら側の人間です。「地元の人懐っこい買い物」というのは苦手だし、だからこそ憧れもあったりする。

イオンモールが賑わいを見せる一方で、山形市にも個人で経営する小さいながらも個性的なお店がぽつぽつと出来てきてもいます。そういったお店で、店主と話をしながら買い物をするのは、全国チェーン店での買い物とはまた別の種類の充足感があります。そういう豊かさっていうのも、やっぱりあると思う。



なぜ田舎に、どこも同じような「大型全国チェーン」が出来て、地元商店街が衰退するのか。それは、田舎に住んでいる住民がそれを望んだからです。田舎は東京になりたかった。テレビに出てくるような東京と同じものが欲しかった(それは正確には「東京固有のもの」では無いわけですが)。

ぼくが中学生の頃に、はじめて山形にコンビニが出来ました。通学途中のそのコンビニで、おにぎりを買い食いするのもちょっとした冒険でした。それから「マクドナルド」が出来て、「モスバーガー」や「ミスド」が出来て、「ユニクロ」が出来て、「ヤマダ電器」や「ニトリ」が出来て。便利で、お手頃で、見た目に清潔感のあるそれらのお店は、いまも変わらぬ賑わいを見せています。

無闇に都会(テレビで見る世界)に憧れる若者は、そういった「チェーン店」が出店するたびに、「山形もがんばってる」なんてことを言っていました。チェーン店が都会のモノだと思っていた。それがふつうだったし、たぶんいまでもそう思っている人が多いのであろうことは、チェーン店が出店する度に行列ができるという光景を見れば分かります。

ある時から、ぼくはこの「山形がんばってる」という言葉が嫌いになりました。勤務先の東京から帰省していた友人が、山形にチェーン店が出店する様子を指して、例のごとく「山形がんばってる」と。その時になんだかひどく居心地の悪い気持ちを覚えたのです。「がんばってる」って何だよ、と。

別に、山形が「がんばってる」わけじゃない。全国チェーン店が出店するのは、大手企業が市場を開拓しているだけです。彼らにとっては、消費市場があればそれでいいわけで、それが「山形」である必要はどこにもありません。消費効率が悪くなったら撤退するだけの話なのです。


Punished Ryo1206さんのツイートより
イオンが出来る→商店街死す→イオンが撤退する→何も残らない
という田舎殺しの必殺フルコース


田舎に住んでいるぼくら自身が、「山形がんばってる」を求めてきた結果が、地元商店街の衰退と行列のできるイオンモールなんだなと、いまにして思います。くり返すけれども、山形が「がんばってる」わけじゃない。全国どこに住んでいても、全国同じものが手に入るということが良いのか悪いのかはまた別にしても。

山形は空気も水も美味しいとか言いながら、大手スーパーに並ぶのは企業の都合でどこからか輸送されてきた野菜であって、地元民がいちばん地元のものを食べていなかったりする。地元の農家にぜんぜんお金を落としていなかったりする。自分たちの手の届くところに経済圏を作れていない。

ああ田舎なんだなあと思うのは、周りの人たちが、買い物をする際のものさしが定量的な尺度でしか語られないということ。どこのお店が安かった、だの、コスパだの。あるいは美味しいと評判だの。ものさしが自分の中に無くなってしまっているんですね。外から測れるものでしか、価値を判断できなくなってしまっている。グダちゃんさんの言う通り、哀しいけれど、これが「消費文化に閉じ込められた空間」という現実なのだと思います。

これって実は、買い物とか経済圏だけの話じゃなくて、世界的なグローバル化と歩みを同じくして日本に輸入された新自由主義的な価値観のもとで、人々が、あらゆるものを「消費」文化のものさしで測ろうとする傾向は至るところで見られます。

政治に対する無関心というのもそこに由来するのではという想田和弘氏の指摘は言い得て妙だと思います。
「おまかせ民主主義」の正体は「消費者民主主義」である。 - 観察映画の周辺 Blog by Kazuhiro Soda

政治は「サービス」であり、有権者はそれを受けるために投票と税金という「対価」を払っているのだ、だから「つまらぬものは買わぬ」という態度になる。消費者には責任は伴わない。主権者として政治に参加するという責任を放棄する「おまかせ民主主義」とはつまり「消費者民主主義」なのだ。

なるほど、思い当たる点がたくさんあります。商品の「消費の仕方」さえも、全国チェーンのマニュアルに沿った形のイオンモールに行列ができるわけですから、政治の「消費の仕方」だって、中央発でマーケティングされるのは当然のことです。B層なんていう嫌なカテゴライズもありましたね。でもそのマーケティングが結果を支配している現実があります。

東京都議選での自公圧勝という結果を受けて、想田さんはこうつぶやいています。

想田和弘さんのツイートより
政治を左右するのが流行だとすれば、やはり日本の有権者は民主主義を「消費モデル」でイメージしているのではないか。少なくともこの傾向は「消費者民主主義説」を補強する。消費者民主主義では、いま売れている商品(=政党・人)に人気が集中する。


たしかに、世論調査って「いま売れているもの(=政党・人)」を宣伝するためのものになっています。開票1秒で当確の出る速報も、「どうせ結果は決まっている」という空気を演出するのに一役買っている。行列のできる店にはさらに行列ができ、ひとたび悪評が立つとたいして味も違わないのに閑古鳥というのは、ありがちな光景です。その心理をくすぐっているなあと。「自分が」その店の味を好きなのかどうか、よりも「皆から評価されている(=都会のチェーン店なら鉄板)」かどうか、で決まっちゃうんですね。


世界的なグローバル化、グローバル企業による世界のフラット化によって、今後もローカルなものが駆逐されていくという流れは避けられないでしょう。田舎では、選択肢の無いリアル店舗にわざわざ行くよりも、インターネットでショッピングしたほうがよっぽど多様なわけで。いち利用者としてAppleやGoogleはやっぱり好きだし。

ぼくは未だに音楽をデータで買うことに抵抗があるのですが、それでもCDはAmazonでポチることが殆どです。そもそもCDショップ自体が無くなってるし、あったとしても、お決まりのモノしか置いてない。店頭ではじめてジャケットを手に取って、試聴してみて、新たな出会いが、なんてことは出来ないわけです。そういうのは事前調査としてネットで済ませて、店頭では決め打ち(予約)しないといけない。それじゃあ、お店で買う意味も無いわけで、CDショップって、無くなるんでしょうね…。

おこづかいを握りしめて、はじめて一人でCD屋さんに行って、どきどきしながらB'zのシングルを買ったのを、懐かしく思い出すとともに、それは単なるおじさんの思い出であって、いまの若い世代にとっては、データだろうがCDだろうが関係ないし、店頭で買おうがネットで買おうが違いは無いのかもしれないなあと思ったりもしています。ただ、ぼくらはまだ店頭での買い物も経験してきましたが、ぼくらの子供らはCDショップが「無い」のがデフォルトになるわけだよなあと考えると、少し複雑な気持ちにもなります。

そう思いつつも、結局ぼくもAmazonでポチっとしているわけで、それがすべてだよなと…。



追記:速水健朗さんのこの本、読んでみたいです。

現代都市と、いまどきのショッピングモールは、少しずつ姿を変えながらにじり寄る関係にあり、近い将来、どこまでが “都市” で、どこから先が “ショッピングモール” なのか分からなくなってしまうだろう。つまり、ショッピングモールについて語ることは、現代の都市について語ることでもある。



追記:続編的な記事を書きました。→ショッピングモールとパティ・スミスと漂白される時代

行列のできるイオンモール

行列のできるイオンモール 2013.06.25 Tuesday [食・生活] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

棄権(意見しない)=全権委任(お上におまかせ)というサイレント・マジョリティ

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
めずらしく、新聞を読みました。妻の実家に泊まらせていただいたので、息子が寝た後にその隣で紙の新聞を広げてみたんです。元サブカル系男子としては、ピーター・バラカンという文字が目に留まらざるを得ないわけで、読んでみたらおもしろかった。投票、民主主義についてのオピニオン記事。WEB版から転載します。

(2013参院選)半分で決める民主主義 ピーター・バラカンさんほか - 朝日新聞
より以下引用

ピーター・バラカン氏
憲法は政治家のためではなくて国民を守るためにあるのに、今の政権は自分たちが人々を管理しやすくするために憲法を改正しようとしている印象がある。それは、大変な間違い。ぼくは外国籍だし、参政権もないけれど、日本の皆さんがそのことに気づいていないんじゃないかという危機感があるんです。


外国籍だし、参政権もないのに、ピーター・バラカン氏はそう考えています。だけども、バラカン氏が指摘するように、日本国籍を持ち、参政権を持つ日本人の多くは「そのことに気づいていない」でしょう。政治への無関心、忌避感はたぶん先進国の中でも突出していると思う。マスメディアは多くを伝えないし、多くの日本人はそのマスメディアに過多に依存している。バラカン氏はラジオDJであり音楽愛好家ですが、それと政治の話だって、ほんとうは地続きでつながっている。それを分断して別ものにしてしまうことで、政治の話がタブー視されていく。なぜそうなるかというと、日本での政治談義の多くが単なるレッテル貼りの域を出ていないからでしょう。日常生活の中で政治の話がタブー視されるのは本当はおかしなことです。

ピーター・バラカン氏
96条を改正して国会議員の憲法改正発議の要件が3分の2から2分の1に引き下げられ、9条が改正されて普通の軍隊ができたら、ゆくゆくは自分の子供が徴兵され、戦場から帰ってこないかもしれない。それでいいの? 先のことまで想像してみてほしい。一人ひとりがどういう国であってほしいかを考えてみる価値はあると思います。


自民党が何をしようとしているのか。あれほど96条改正に意欲を見せていた安倍首相ですが、参院選を前にして改憲に関する話題はトーンダウンしています。たぶん実際に投票日になる頃には、改憲のことなんて頭から消え去っている人のほうが多くなるでしょう。だけども、自民党は96条改正や9条改正を目指しているし、「公共の福祉」という文面を「公益及び公の秩序」と書き替え、国民の人権を軽く扱おうとしている。そういう政党であるということは、もうすでに示されているわけです。それは事実であるし、その方向性は撤回もされていない。ただ選挙の争点としてはトーンダウンしているだけです。

だいたいが「選挙の争点」っていうのもおかしな話で、争点はメディアの報道が決めるものではなく、また与党側が決めるものでもない。有権者であるぼくたちひとりひとりが、自らのプライオリティに基づいて、自分で決めることです。自分の原体験、つまり自身の生活、家族、はたらき方や子育て、生き方と向き合って、何が大事なのか、どういう国であってほしいかを考えてみるのが選挙です。候補者にとってもそうだし、有権者にとってもそうです。争点はひとつではない。勝手に簡単に決められてたまるかって。

自分の原体験を放り投げて、それよりもこっちが刺激的だろと、テレビの画面は誘導します。これについて君はマルがバツか、どう思うんだいと。当事者でもないのに答えを迫られる。選挙の争点はこっちだぜ、と誘導される。そうやって、政治がぼくらの生活から切り離されていくのです。政治のことを、自分の家族や生活をもとにして考えるのではなく、テレビの画面上に争点があるかのように錯覚して誘導される、すなわち選挙という行為を評論家感覚やゲーム感覚で捉えている人は案外多いのではないでしょうか。

今度の参院選で、自民党が96条改正に必要な3分の2の議席を狙っていることは明らかです。そのために、他党の取り込みを含めた謀略も出てくるでしょう。これが終われば、向こう3年間は国政選挙がありません。「自分の子供が徴兵される」改憲へと結びつく選挙になるはずです。だけど、それは争点になりません。争点になれば自民党が不利になるからです。アベノミクスへの信任選挙みたいな雰囲気になっている。なんですかそれ。アベノミクス(これもインチキな代物だと思いますが)で票を取った後は、自民党は必ず改憲へと舵を取る。そういうものです。選挙とはそういうものです。

同じく朝日新聞の記事より、千葉市長・熊谷俊人氏。

熊谷俊人氏
参院選は投票率が落ちるでしょう。18年ぶりに50%を切るかもしれません。でも棄権はノーにはならない。オール・イエスですよ。選挙結果を追認するだけだし、後で文句も言えない。政治不信だから投票しないというのもおかしい。私に言わせれば、それは政治過信ですよ。


棄権(投票しない)はオール・イエス。
これはほんと、みなが有権者として肝に命じてほしいです。昨年の衆院選の結果がそれを物語っていますよね。得票率の低さから、国民は積極的に自民党を選んだわけではない、というのは正論です。ですが、現実には得票率に比例しない高い比率の議席を自民党が占め、実権を握っている。投票しない、あるいは白票という行為は、「ノー」を意味しません。本人がいくらそういう意味を込めたとしても、仕組み上、そうは受け取ってもらえない。ただの自己満足にすぎないのです。

選挙に行かない人に対して、行けと訴えるほどの気概はぼくにはありませんけれども、少なくとも選挙に行かない=全権委任であるということは分かった上で、行かないという選択をしてほしいです。次の参院選でも投票しないという人は、「原発再稼働」と「改憲」の自民党に「全権委任」するということに等しい。後でこんなはずじゃなかったと言っても、なんにもならない。入れたい人がいないだなんて甘い言い訳です。

ぼくは昨年の衆院選で、自らの意思で「死票」を投じることによって、ずいぶんものの見方が変わりました(詳しくはこちらに書いてあります)。選挙とは、勝ち馬を占うレースに便乗するイベントではありません。いち生活者として、わたしはこの政策を支持しますと表明するのが投票という行為なのだとしたら、「死票」だの何だのは関係ないだろうと。何十年か後になって、自分がここに投票したということを自分の子供らにちゃんと説明できるところに票を投じようと心に決めたときは、なんだか胸がすーっとしていくのを感じました。

当選しないと分かっている人に票を投じる。特定の組織に属しているわけでもないし、別段イデオロギーに凝り固まっているわけでもないのに。それまで、「特殊な人」がするものだと思っていた「死票」を自分が投じてみて、ああ、こういうことかと。

選挙はとても重要です。だけども、選挙じゃ何も変わらない。それも現実。マイノリティにとっては常にそれが現実なのです。その現実に冷めた視線を送りつつ、それを踏まえた上で、それでもやっぱり選挙は大事なんです。

熊谷俊人氏
選挙することの大切な意義として、有権者と政治家が関係を持つことがあります。投票すれば、任期中もその政治家の行動に責任を持ち、次の選挙では自分の投票は正しかったか顧みて、一票を投じられる。その繰り返しで有権者は学び、政治家は鍛えられる。投票しなければ、有権者は無責任のままで、政治家も鍛えられません。


ぼくは自分が「死票」を投じてみて、はじめて気づくことがありました。原体験は何よりも大きな「学び」になります。政権交代とは、失敗をくり返すことで有権者と政治家が学び、民主主義の精度が少しずつ上がっていくものであるはずです。

当選はしない(議席は得られない)けれども、これだけ票を入れる人が存在するという事実を、当選した議員は、立場上、受けとめなければならない。それはつまり与党への圧力としてはたらきます。死票にはそういう意味もあるはずです。

ピーター・バラカン氏
2分の1だけで決める政治は乱暴ですよ。ある勢力が55%で勝っても、45%は納得していない。過半数がとれないからといって全部泣き寝入りしなきゃいけないのか。そんなはずはない。


自分の支持者だけでなく、負けた政党に投票した有権者のこともぜんぶ抱え込んで考慮するのが与党の仕事です。泡沫候補を支持するような有権者は切り捨てる、自分に反対する立場の人はおかしいとレッテルを貼る、それは与党の党首がやることではありません。

だからこそ、選挙では勝ち馬レースに関係なく自分の意思を表明することが大事です。無関心でいることは、サイレント・マジョリティであることを意味します。それは現状追認と等しい。

そして選挙の後は与党の言動をしっかりと注視することも必要です。違うと思ったらぼくら市井の人々が声をあげること自体に意味があります。デモだってそうだし、ツイッターでぼやくことだってその一種かもしれない。女性手帳は圧倒的批判で見送りになりました。自民党が政権をとったからといって、その後の運営を全権委任したわけではない。ここでも、サイレント・マジョリティであることは現状追認と等しくなる。意見しないことも、またオール・イエスなのです。

政治家だって超能力者じゃないんだから、声を挙げなければ届きません。

熊谷俊人氏
5月に市長に再選されましたが、投票率が31%。率直に言って、もう少し投票に行ってほしかった。
(中略)
私は市民と一緒に仕事をするスタイルで、市民の方々に関心を持ってもらわないと実現できない政策がたくさんあります。4年に一度の選挙にさえ行かない人に、一緒に汗を流しましょうなんて言えないでしょ。だからこそ、選挙に参加してほしかったんです。


市民と一緒に仕事をするってどういうことか。意見の相違だけではなく、声を挙げる方法だっていろんなやり方があっていいと思います。スピーチやプレゼンが得意な人もいれば、じっくり考えるのが得意な人もいる。選挙事務所に電話をしたり、メールしたり、ツイッターでつぶやいたり。デモに参加してみたり、横目で眺めてみたり。そういうのが「特別なこと」じゃなくて、ふつうになればいいと思う。それぞれの人に合った、それぞれのやり方で。

そのほうが、サイレント・マジョリティであることが「ふつうなこと」である現在の世相よりも、よほど風通しが良いと思います。ぼくもまた参政権を得てから長い間、棄権(意見しない)=全権委任(お上におまかせ)というサイレント・マジョリティの一員であったので、反省を込めてそう思います。

棄権(意見しない)=全権委任(お上におまかせ)というサイレント・マジョリティ

棄権(意見しない)=全権委任(お上におまかせ)というサイレント・マジョリティ 2013.06.20 Thursday [政治・メディア] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY

「予測不能」という豊穣性

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
なんだか中身のよく分からない「成長戦略のメッセージ動画」を発表した安倍晋三首相。株価を乱高下させ、おそらく大きくはじけるバブルとなるであろう「大胆な金融政策」、数十年前と同じ手法の大型公共事業による土建屋への「機動的な財政政策」。首相はこれらの政策による実績を強調していますが、少なくとも山形在住の一市民としては「生産も消費も確実に良くなって」いるという実感は、まったくありません。

諸々突っ込みどころの多い安倍政権ですが、中でもぼくがいちばん危惧しているのが「教育」分野です。このことは、安倍さんが自民党総裁に選ばれた時点で記事を書いています(戦後レジームという欺瞞)。

教育が国の未来をつくる基本だという前提には異論はありません。その通りだと思います。しかし往々にして混同されるのですが、しつけと教育は異なるものだと思います。自民党が主張している「教育」とは、しつけ的な要素が色濃く感じられます。「なんでも知っている」大人側が、「なにも知らない」子供に対して、正しい価値観を教授するという構図なのです。そこで主張される「正しい価値観」というものが「単一の価値観」として取り扱われ始めると、おかしげなことになります。

「反TPP」は「左翼」であると発言した安倍首相。その左翼が捏造したという「自虐史観」を払拭するために教科書を直そうというのが安倍首相の考える「教育再生」である。右翼思想であり、軍国主義へとつながる恐れがある。はじめは、そう思っていました。たしかにそういう側面もあります。だけど、そういうイデオロギー的な面よりもっと多くの人が共有出来る「単一の価値観」があります。安倍政権の唱える教育再生は「成長戦略」とむすびついています。「グローバルな人材」を育成するのがその柱とされています。海外で活躍できる人材を、と言いますが、それってつまり、グローバルな市場で「使える」コマを育てる、という意図があるわけですよね。一歩間違えれば、社畜育成と紙一重になる。グローバル市場には、グローバルな基準でグローバル企業が蓄積してきたノウハウがあります。つまり単一の価値観(答え)です。

実際に、自民党の「教育再生実行本部」が画策する「教育再生」とは、子供たちが「自分で考えるちから」を再生していくというような教育改革ではありません。あくまでも大人側が主体となって、(主にビジネスの現場で活用される)「答え」を教えていく、という位置づけなのです。たぶん、そこからこぼれ落ちる子供は「落ちこぼれ」とされてしまうでしょう。ものごとに対する「どうして?」という根源的な疑問よりも、答えを出すための最短ルートが重視されるようになるでしょう。そのような教育観に基づいた教育再生で、「チャレンジ」「オープン」「イノベーション」が生まれるとは到底思えません。

平川克美さんのツイートより
「何を教えてほしいかを明確に教科書会社に伝達し、それにのっとった教科書を作ってもらうようにしたい」と、教育再生実行本部主査。http://sankei.jp.msn.com/life/news/130612/edc13061223100002-n1.htm
これは教育ではなく訓致。これを思想統制という。何故メディアは批判しない。


現在のマスメディアには、教育再生実行本部が主張する教育観を批判するだけの度量がありません。なぜなら、メディア自身が台本至上主義に陥っているからです。最近のテレビ番組を見ていると、その傾向は顕著です。あらかじめ決められた答え(台本)の通りにしか、ものごとを決められない。クレームを恐れ、予防線を張りすぎて、その結果ガチガチの台本至上主義に自身が縛られていることに、たぶん自分自身が気づいていない。

教育とは、子供の「考えるちから」を育てることです。子育てをしている方なら分かると思うのですが、子供の考えるちからとは、大人には予測不能です。子供の発想や発言には、大人が数十年生きてきた中でいつのまにか降り積もった「常識」や「価値観」といったものをぶっとばしてしまうような、新しい発見があります。そういう中にこそ「チャレンジ」「オープン」「イノベーション」の種があると思います。

教育とは、「予測不能」なことを、予測不能なまま携えて、一緒に考えていけるようにサポートしてあげることなんじゃないかと、ぼくは思います。「出力が入力を超える」という点に教育の豊穣性がある、という内田樹さんの言葉に、深く納得します。

教育の奇跡 - 内田樹の研究室より
私が知って驚倒したのは、「教師は自分が知らないことを教えることができ、自分ができないことをさせることができる」という「出力過剰」のメカニズムが教育制度の根幹にあるということである。
それが教育制度の本質的豊穣性を担保している。
教師であるためには一つだけ条件がある。一つだけで十分だと私は思う。
それは教育制度のこの豊穣性を信じているということである。
自分は自分がよく知らないこと教える。なぜか、教えることができる。生徒たちは教師が教えていないことを学ぶ。なぜか、学ぶことができる。この不条理のうちに教育の卓越性は存する。それを知って「感動する」というのが教師の唯一の条件だと私は思う。


この文章だけで、ぼくは感動して泣きそうになります。
自分の子供たちに対する親の思いというものが凝縮されていると思う。

尖閣諸島の棚上げ論は、次世代の私たち世代よりももっと賢い人たちに解決策を委ねようというものでした。原子力発電所の核廃棄物の最終処理問題にしても、ぼくらの世代はなんら答えを見つけることができていません。次世代に丸投げするということと、次世代に委ねるということは違います。その分岐点は、「出力過剰」のメカニズム、豊穣性を信じているかどうかにあるのではないかと。子供のちからを信じるとは、そういうことだと思うのです。


何故メディアは、思想統制ともいえる「教育再生」の方向性を批判できないのか。自身が、台本至上主義に陥っているマスメディアには、教育の「予測不能」という豊穣性を受け入れる度量が無いのです。「台本」が無いものには対応できない。

たぶん日本社会全体がそういう体質になってしまったのではないかと思います。政治家は、官僚の台本を読むだけのお仕事になっています。台本に従って予算が決められ、台本に従って様々な基準値が決められ、台本に従って原発は再稼働されていく。台本に従ってTPPに参加する。選挙戦が近づけば、台本に従って選挙レースが演出される。多くの人はその台本にのっかって投票するだけです。ほんとうの住民の意思が政治に介在する余地はありません。

男って、どうしても結論ありきでしゃべりたがる生き物です。ただ話を聞いて欲しいだけの女性の愚痴にいらついて、こうしたらいいとかなぜこうしないのかとアドバイスしたつもりが反感を買うというのはよくある光景。さらには困ったことに、男脳ってやつは、自分が設定した、自分が信じたい結論いがいのものを信じたくないんだよね。だから、都合の悪いことには目を背けようとするし、はてには「無かったこと」にしてしまう。

橋下市長の弁論テクニックなんかも、結論をまず設定して、そこに向けて勝つ(相手を言いくるめる)ための論理を探してくるというものです。だから、橋下さんっていうのは、ある意味で戦後日本(男脳がつくった社会構造)の象徴みたいな存在だと思う。そして、慰安婦の強制連行は「無かった」と主張する人たちもそうだし、脱原発の声を風評被害だと主張する人もそうなんだけど、だいたいそういう男どもって怒ってる。「論理」だったり、大きな声という恫喝だったりで、相手を押さえつけようとする。

なぜ怒る必要があるのか? 信じたくないからだと思います。信じるのが怖いんです、きっと。そんな現実には、自分が「対応できない」ということが実は分かっているから。「予測不能」という豊穣性に、対応しきれずにオロオロする自分を許せないから。見たくないから。

見たくないけど、そこにあるものを見ないといけない。
自分が思い描く台本通りになんか何ひとついかない。
子育てはそんな日々でもあります。


「予測不能」という豊穣性

「予測不能」という豊穣性 2013.06.14 Friday [子育て・教育] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...