子ども子育て新システムから感じること

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戦後最大の保育改革とも言われる「子ども子育て新システム」。でありながら、その実体を知っている人はほとんどいないのではないでしょうか。これを進めようとしている政治家自身でさえもよくわかっていないのではと思うことがままあります。ぼくもこのブログで「子ども子育て新システム」について何度か取りあげましたが、その全容は掴めていません。というか、問題が大きすぎて何から考えたらいいのかよくわからなくなります。いまもぜんぜん考えがまとまっていませんので書き散らかしになりますが、自分自身のあたまを整理するためにも書いてみます。たぶんすごく長くなります。

で、まず前提として。何を目指しているのか。何のために新しいシステムが必要なのか。

待機児童の解消。

これは間違いがないです。でも、待機児童の解消だけが目的であるならば単に保育所を増やせばいいっていう話ですよね。ところが、新システムで計画されているのは幼保一体化だの総合こども園だの民間参入だの、なんかよくわからないところで多岐に渡っており、保育を申し込もうとする親の側からしてみても、いままでとはずいぶん仕組みが変わるようです。で、実際に新システムによって待機児童は解消されるのか。そこんところがよくわからないです。


子ども子育て新システムの概要

実際に法案を読もうと思っても、そもそもどこにあるのか、おそらく下記サイトあたりから辿っていけばよいのでしょうが、どこから何を読んだらいいのか分からないし、だいたい役所の書類ってまわりくどくて何が書いてあるのかよく分からないので読む気になりません。

子ども・子育て支援ホームページ - 内閣府
子ども・子育て新システム検討会議ウォッチング

そこで、まずは「子ども子育て新システム」について分かりやすく解説されていると評判の記事を取っ掛かりにしたいと思います。5月28日の毎日新聞に掲載された、内閣府政策統括官として法案策定に取り組んできた村木厚子さんのインタビューです。記事はこちら

以下にて書き起こししました。
子育てに社会の応援を
毎日新聞 2012年5月28日

内閣府政策統括官 村木厚子さんに聞く

ーーなぜ、新システムが必要なのですか。

村木さん 子育てをめぐり、三つの課題があると考えます。まず、教育や保育を支える基盤が非常に弱くなっています。大都市では保育サービスが足りず、一方で子どもが減った地方では、幼稚園や保育所の運営が成り立ちにくくなっています。
 二つ目は、お母さんの子育てへの負担が重くなっていることです。家族の単位が小さくなったうえに、地域のつながりも弱まった。お母さんは、働いているか専業主婦かに関係なく、24時間365日の子育てを迫られています。地域での子育て支援など、社会のサポートが欠かせません。
 三つ目が就学前の教育の充実。就学前教育をきちんとすることが、小学校からの教育効果を高めます。

ーー今の制度では解決できないのですか。

村木さん 待機児童問題では、小泉政権で「待機児童ゼロ」を掲げ、菅政権も特命チームを作りました。今の仕組みの中でできることは、何代もの政権が取り組んできたのです。でも、待機児童の数は2万数千人で、あまり変わりません。
 若い人の給料はそれほど高くないので、働くお母さんはこれからも増えるでしょう。こうした保育の潜在的なニーズを含めて準備しないと、需要との追いかけっこが続いてしまいます。その地域で本当にどれだけの保育が必要かを自治体がきちんと把握し、需要を満たすための整備を進める。そのための「仕掛け」が必要です。

ーー保育所などの設置を「認可制」から「指定制」に変えるとありますね。何がどう変わるのですか。

村木さん 認可制は自治体が、一定の条件を満たした施設を保育所と認めます。でも、自治体は保育サービスが必要な子どもがいても、財政難を理由に保育所を認可しない、つまり作らないこともできたわけです。「何年か先には子どもが減る」とか。
 指定制になれば、一定の基準を満たしたサービスを行える人たちなら、誰でも保育サービスに参入できます。「需要と供給の差を埋めなさい」という責務を自治体に課すのですから、今まで通りの保育所だけでなく、小規模の保育や家庭的な保育、一時預かり保育などの多様なサービスも作ります。国も財政的な支援をします。

ーー指定制にすると「不適切な事業者が入ってくるのでは」「保育サービスの価格が自由化され、格差が広がるのでは」という声も聞きます。

村木さん 質の確保は大前提です。今の認可保育所の基準をベースに、その基準を満たすことを参入の最低限の条件にします。保育サービスを行う事業者に対しては、今以上に情報公開を求めます。職員が非正規雇用の人たちばかりだとか、職員の定着率が悪いとか、そういうことも分かるようにします。公定価格ですから、価格競争がなされることはありません。
 今も認可保育所に入れず、諦めて無認可施設を使用している人がたくさんいます。認可水準のサービスの「量」を確保することが必要です。

ーー「幼稚園と保育園を一体化しても、待機児童対策にはならない」とも聞きます。

村木さん 施設の統合が目的なのではありません。幼稚園と保育所をバラバラに管轄していた仕組みを改め、住民に最も身近な市町村が、子どもに必要な幼児教育と保育の両方のニーズを把握し、トータルで保障できるようにすることが大事なのです。「総合こども園」には、幼稚園と保育所の機能に加え、家で子育てしているお母さんを支える「子育て支援拠点」の機能を持たせたいと考えています。

ーー新システムは、高齢者が中心だった社会保障サービスの給付を子どもや現役世代に向けることが目的ですね。でも高齢化が進むなか、本当にそれは可能でしょうか。

村木さん 子育て支援の必要性がいわれ始めて20年あまり。「団塊ジュニア」(71〜74年生まれ)が30代後半にさしかかった08、09年ごろには「少子化対策は一刻の猶予もない」と言われ、消費税を財源とした対策が議論されていたのに、そこからもう3年以上がたっている。今度こそ安定した財源を得て、問題を抜本的に解決しなければ。この少子化の時代に子どもを産み、育ててくれている若いお父さん、お母さんに、教育や保育という必要最低限のサービスは用意しなければなりません。
 最初の子どもを産んだ時に孤立感や負担感を感じた人は、明らかに2人目を産んでいません。「また産みたい」と思えるような、社会の応援が必要です。
 上の世代は「自分たちは人に頼らず子育てできた」と思っていますが、環境が違います。賃金が低く、長時間労働を強いられる若い世代の厳しい環境が理解されていません。子育て世代は日々の生活で精いっぱいで、子ども自身は声を上げられない。誰かがちゃんと代弁してあげないといけないと思います。


この記事、ある意味では分かりやすいし、ある意味ではよく分からないです。
分かりやすいのは、何のために新しいシステムが必要なのかという点。理念の部分ですね。ぼく自身も子育て世帯なので、子育ての環境をめぐる現状の分析には共感できるし、だから子育て支援が必要なのだという主張にも大いに賛同できます。単に、待機児童の解消という問題の解決だけではなく、国としての子育て支援を根本の制度設計から見直すというならば、たしかに大掛かりな改革が必要であるということも理解できます。もっと言うなら、子育て支援っていうのはすなわち少子化対策であり、未来の国の構成員である子どもを産み育てるという、国づくりの根幹に関わってくる問題です。

ただ、一般的な世間への浸透として「子ども子育て新システム」は待機児童解消という視点でしか捉えられていないようにも感じます。あとはせいぜい幼保一体とか。たしかにそれも新システムの重要な案件のひとつではあるけれども、それが新システムのすべてではなくて一部分にすぎないということはまず押さえておいた方がいいですね。そういう認識がないと、ちょっと専門用語を聞きかじった程度ですぐに分かったつもりになってしまうから。

村木さんの言う三つの課題。一つ目、都市では保育サービスが足りず、田舎では逆に運営がきびしいという点。どうやって保育サービスを整備するかという問題であり、親の側からすると待機児童の問題ですね。たしかに待機児童の解消が喫緊の課題であるということは間違いがありません。

二つ目、お母さんへの子育て支援。ぼくはこれが最も重要な視点だと思います。小さな子どもを育てるということがどれだけ大変なことであるか、恥ずかしながらぼくは自分が子どもを持つまでさっぱり分かりませんでしたし、思いを馳せることすらしませんでした。

妻のお腹に生命が宿り、十月十日の歳月を経て、出産に立ち会い、はじめて新生児を触り、昼夜授乳に明け暮れる妻の姿を目の当たりにして、これはなんとえらいことであろうかとびびりました。はじめておっぱいをあげるのに合宿が必要だとか、授乳の度に痛みに耐え、夜は2時間ごとに起こされほとんど寝れないなんて知らなかった。24時間体制で、自分の時間ってなに?状態になることがこんなにしんどいとは。文字通り身を削って赤子の世話をする妻のすがたを見ていると、母親ってほんとすごいなと頭が上がりません。

村木さんの言うように、むかしといまは環境が違います。賃金が低く、長時間労働を強いられる若い世代の厳しい環境もそうだし、核家族化による子育て世代の孤立化も子育てをより大変なものにしている大きな要因です。地域のつながりといっても、見ず知らずの人に負担を共有しろとは言いません。ただちょっと声をかけてもらえるだけでもずいぶん楽になるんです。それだけ追い詰められているお母さんは多いと思いますよ。

なので、この記事での村木さんの指摘は、子育てをめぐる現状を的確に代弁してくれていると思います。「親学」なんつって教育を語るふりをしながら自己愛に浸っている輩なんかとは比べものにならない。

そういうことを踏まえた上で、この記事を改めて読んでみると、新システムが必要な理由は全く同感なのですが、なぜ新システムで「認可水準サービスの量が確保」できるのかがぼくはよく分かりません。「情報公開を求めます」とありますが、それだけで保育の質と量が担保できるのでしょうか。
つまり「理念」の部分では大いに共感しますが、それを現実に着地させるための方法論としての新システムはどうなのかがさっぱり見えてこないという不安なのです。

認可制をやめて指定制にすることで、さまざまな事業者が保育サービスに参入できるようにするというのが、新システムのいちばん大きな改革だと思います。いわゆる規制緩和ですよね。これによって保育所が増えて、多様なサービスを提供できるようになるとのふれこみですが、さて。

民間企業に門戸を開けさえすればサービスは向上するという市場理論にはぼくは同意できません。というか、子育てや教育という分野に市場理論はそぐわないと思っています。「公定価格ですから、価格競争がなされることはありません」と村木さんは語っていますが、小泉政権の規制緩和がもたらした結果を顧みると、懐疑的にならざるを得ません。「多様な(あなたらしい)働き方を選べる」と宣伝された規制緩和は非正規雇用の過酷な労働環境と格差を生みましたし、介護の現場は市場化されて「介護ビジネス」となりました。価格競争の末にバスが事故を起こしたのも記憶に新しいです。市場は必ずしも「安全」を担保しません。むしろ相性はよくないでしょう。

三つ目の、就学前の教育の充実という点。ぼくは自分が子どもを持つまで、保育所と幼稚園の違いもほとんどろくに知らなかったです。こちらのページに詳しくまとめられていますので参考までに→(幼稚園・保育園・認定こども園 - のぞみ幼稚園)。保育所は厚生労働省、幼稚園は文部科学省で管轄が違うということは分かりましたが、そもそも現場レベルでは実際にやってることってそんなに違うんでしょうか。いや、そもそも幼児教育って何なんでしょうか。これは、保育所は待機児童でいっぱいで、幼稚園は定員割れを起こしているという問題とも重なってくるかもしれません。すなわち幼保一体化の根拠。

くり返しますが、新システムをつくるきっかけとなった子育て支援の理念にはぼくは大いに賛同します。だからこそ、新システムが実質的にいかなるものなのか、どのようにぼくたちの暮らしを変えるのか、その具体的な仕組みを知りたいと思うのです。


新システムをめぐる論点

ニコニコ生放送とBLOGOSによる番組の中に、「子ども子育て新システム」を取りあげたものがありました。民主党、自民党、公明党の議員と、NPO法人フローレンス代表の駒崎弘樹さんを交えた討論番組で、新システムについてかなり掘り下げた話がなされていました。

この動画でアナウンサーの方が冒頭で述べているように、「子ども子育て新システム」っていうのは、子どもがいる、結婚している「リア充」だけの問題だからオレには関係ないやって思われているフシがあって、だからネット掲示板を界隈とするWEB上ではあんまり話題にならないのかなという気もします。

でも先ほども書いたように実はこの新システムは、待機児童の解消だけの問題じゃなくて、国としての制度設計を見直すということでもあり、日本における社会保障制度の根本を考えることであり、そういう意味ではいま物議を醸している生活保護の問題ともつながってくるわけだし、増税となったら誰しもが無関係ではいられないわけで、子どものいる人もいない人もまずはその概要を知っておいた方がいいと思います。

こども子育て新システムって結局どうなんですか? - ニコ生×BLOGOS



こちらに文字起こしもあります。
「こども子育て新システム」は日本の運命を決める法案 - BLOGOS

この動画を見ていちばん不安に感じたのはですね、民主党の泉健太という方の言うことが、はっきり言って何言ってるのかぜんぜんわからなかったという点。法案にどれだけ関与しているのか知りませんが、この人はただ教科書に載ってることを喋っているだけで、新システムによって何を解決したいのかというビジョンを明確に持っているとは思えないし、問題点を把握しているようにも見えない。そういう人たちが進めようとしている法案に不安を感じるなというほうが無理です。逆に、自民党の田村憲久議員と公明党の高木美智代議員のほうが問題を的確に指摘していると感じました。野党としての自民党は何の期待も抱けない残念な感じしかしませんが、このように過去をきちんとふまえて批判してくれればお株が上がると思います。この動画を見る限りでは、法案を潰すためにまず反対ありきで批判しているとは思えません。

たとえば、幼保一体化によって出来る総合こども園では最も待機児童が多いとされる0歳から2歳の子どもの預かりを義務づけていないので、待機児童の解消にはつながらないという田村氏の指摘に対して、泉氏は何も答えていません。なぜ総合こども園が必要なのかぜんぜんわからない。「小規模保育」とか「多様な保育をやっていこう」というビジョン自体には賛成ですが、それは先ほどの指摘に対する答えになっていないですよね。これが官僚答弁ってやつかと。至極いらいらしました。

ということはですよ、やっぱりこれは官僚主導の流れであって、結局は増税のためのお題目づくりなんじゃねーかと、ぼくなんかは邪推してしまいます(これは後の章で述べます)。村木さんの記事を読むと、この人は誠実に少子化問題を考えているんだろうと伝わってくるし、駒崎さんのことはよく知りませんが保育の現場に立っているわけで、そういう人たちがこの問題をなんとかしようと画策してくださっているのはよくわかります。それには頭の下がる思いです。ただ、そうやって理念を持って臨んだ人たちも、政府の側にいるといつのまにか政府の側の言葉遣いになっちゃう、という印象を受けたりもします。

と、ここまでは前置きとして(なげーな)、「子ども子育て新システム」の論点を洗っていきたいと思います。


待機児童の問題

まずはうちの事情を書きましょう。待機児童の問題が他人事ではなくなっているので。

わが家は、ぼくと妻、2歳半の息子と生後1ヶ月の娘の4人家族です。もともと夫婦共働きでのほほんと生活していたところに、第一子が生まれ慌ただしい日々が始まりました。妻が仕事を辞めたぶん家計は厳しくなりましたが失業手当などでなんとか乗り切った感じです。息子が1歳を過ぎたあたりで妻は新しい仕事を見つけました。週に2〜3日、息子を妻の実家で見てもらっての勤務でした。その職場にもだいぶ馴染んできた頃に、第二子を授かりました。息子は2歳になり、いわゆる「魔の2歳児」と云われる傍若無人ぶりを見せるようになってきました。大きくなっていくお腹を抱えながら、付きまとう2歳児の相手をするのは想像以上に大変でした。臨月を迎える頃にさすがにしんどくなり、保育所に預けようという話になりました。市役所に相談してみると、出産の前後2ヶ月は優遇措置を図ってくれるとのこと。ああこれで少しは楽になるとほっとしたのもつかの間、選考に漏れる毎月が続いています。こないだ聞いてみたら第一希望の近所の保育園で9人待ちとのこと。しかも出産後2ヶ月がすぎるとまたがくんと優先順位が下がると。どう考えても入れません。

そもそも保育所は「働く」母親を前提としており、働いていない人は蚊帳の外という印象があります。認可保育園の選考基準は「保育に欠ける」児童です。申請の際には両親はもちろんのこと、両祖父母の就労状況もこと細かにチェックされます。たとえ同居していなくても、じじばばの手が空いているならそちらで面倒見てもらいなさいよという考えが前提にあるんですね。

最近物議をかもしている生活保護の問題でも、親族が面倒見るのが当たり前だろという風潮がバッシングの背景になっています。でも家族間の関係なんて人によって千差万別だし、様々な事情があります。親族だからという理由で一般化できるものではなく、個別のケースによって吟味されるべき問題ではないかと思います。

たとえばこれ、妻が復職しようという段になったらどうなるんでしょうか。知り合いからこんな話も聞きました。

企業「お子さんは、今はどなたか面倒みてくれているんですか?」母「今のところ私しか…」保育所「仕事してない場合は入れません。」母「再就職しようといろいろな会社の面接受けてるところなんですが…」の堂々巡り。

働く母親の支援にもなっていないのでは。なんたって保育所の数が足りないのだと感じています。


幼保一体化

幼保一体化については、理想と現実がめちゃくちゃになっている部分ですね。

泉議員の言うような、「すべての子供に教育を。すべての子供に福祉を。」という理念には賛同します。「子どもを社会で育てる」のが(子ども手当を後退されるまでは)民主党の党是だと思っていましたし。そのために公的資金を投入しなきゃならないのは当然だし、そのために管轄が複雑で融通の利かない仕組みを変えようというのも理解できる。でも実際には、言ってることとやってることが違います。

泉氏はこんなことを言っています。
「幼稚園はですね、今まで3歳以上の子供だけみていましたから、それで0歳〜2歳をみようとすると、調理室を作るなど新しい設備をちゃんと作らなきゃいけない。人も雇わないといけない。長時間保育しなきゃいけないとか色々あって大変なんです。」
これって、実質的に幼稚園では0〜2歳児は預からなくていいと言ってるようなものですよね。そして実際に、幼稚園が総合こども園に移行する場合は0〜2歳児の預かり義務はないと決められている。総合こども園って、幼保一体化っていったい何なんでしょうか。よく分かりません。幼稚園に設備や人件費が足りないのだとしたら、そこに公的資金を投入したらいいと思うのですが、なにか問題あるんでしょうか。でなければ、総合こども園だなんて余計なものにお金をかける必要がある意味が分からない。

高木議員はこう言っています。
「幼保一体化のそもそものはじまりは、働きたい女性が継続就労できない。必ずどこかでキャリアを断念せざるを得ないとか、子育てかキャリアかって選択をせざるを得ないっていう現状をちゃんと変えましょうよっていうところからそもそもはじまって。教育の質とか保育とか、それをちゃんと確保しましょうっていうのが出発点だったんですけど。出来あがったものは“一元化どころか多元化”で、全くわからなくなってしまっている。」

というか動画では、自民党の田村氏は新システムの中の幼保一体化に反対しているし、民主党の泉氏や駒崎さんは幼保一体化は新システムの中の一部分にすぎないと言っています。ということは、あまり必要でないという認識では誰もが共通しているのでは。ますます総合こども園の存在意義がわかりません。少なくとも、これによって待機児童は解消されない。

こちらはもっと的確です。学習院大学経済学部の鈴木亘教授による指摘。
参入はよいが「幼保複雑化」には反対 賛成派でも意見が分かれる新システム - ダイヤモンド・オンラインより
反対の理由の1つは、待機児童解消のためと言いながら、最も待機児童の多い0〜2歳までを預かる総合こども園が増えないこと。幼稚園が『総合子ども園』に変わることで増えるかと思われたが、結局、幼稚園が総合子ども園になる場合は0〜2歳児を預からなくてもよいと決まってしまった。総合子ども園という同じ名でありながら、中身の違う様々な施設ができることになる。これでは、幼保一体化ではなく、幼保複雑化だ。

7000億円が投じられるにもかかわらず、実態は既存の認可保育園と幼稚園がほとんどを受け取る可能性がある。認可外や保育事業所の増設に補助金が使われるのではなく、すでに『保育の質』が高い状況であるはずの認可保育園や幼稚園に、補助金が使われるのはおかしい。この補助金の使われ方は、待機児童解消と全く関係がない。


そもそもですが、うちはまだ子どもを預けたことがないのでわからないのですが、幼稚園と保育所の管轄が違うということは分かりましたが、じゃあ現場レベルで実際にやってることってそんなに違うんでしょうか。特に0〜2歳児に対してなんて「教育」と言えるような指導が必要なのかなあ。というか、子どもの育ちを見守ることイコール教育だと思うので。

保育士さんが、ただ単に子どもを「託児」しているだけの存在だとは思えません。現場で働く人たちはすごく誠実に子どもに向き合ってくれていると思います。保育士さんたちのツイートを目にするとそれがよくわかる。それって、子どもの「育ち」にとって充分に「教育」と言えるんじゃないかな。タテマエとしての幼保一体化とか総合こども園にお金をかける必要がほんとうにあるんですかね。

じゃあ、幼保一体化はあまり必要でないとして、この新システムのいちばんの核となる部分は何なのか。それは「多様な保育サービス」の実現であり、そのための手段として認可制から指定制への改革。その話に行く前に、財源について。


財源の問題

この「子ども子育て新システム」、制度設計の作り直しであるために莫大な予算がかかるとされています。その額はおよそ1兆円とされています。またその財源確保ために消費税増税の根拠のひとつとも言われています。動画に出演していた各党の議員も財源が無ければできないという点では一致していました。

ところで「子ども子育て新システム」は、日本の社会保障制度を見直すという意味でもあったはずです。動画の中で駒崎さんは、日本では子どもに対する社会保障と高齢者に対する社会保障の割合は、1対11であると述べています。これは先進諸国の中では著しくバランスを欠いていると。この割合がどこから算出されたものかは知りませんが、これまでの社会保障サービスが高齢者中心だったことについては、たぶんほとんどの人が同意できるのではないでしょうか。

厚生労働省HPによると、平成21年度の社会保障給付費は99兆8,507億円。部門別内訳で見ると「医療」30兆8,447億円(30.9%)、「年金」51兆7,246億円(51.8%)、「福祉その他」17兆2,814億円(17.3%)。9つの機能別分類で見ると「高齢」49兆7,852億円(49.9%)、「保健医療」30兆2,257億円(30.3%)、「遺族」 6兆6,969億円(6.7%)、「家族」 3兆3,106億円(3.3%)、「障害」 3兆2,072億円(3.2%)、「生活保護その他」 2兆7,198億円(2.7%)、「失業」 2兆5,243億円(2.5%)、「労働災害」 9,384億円(0.9%)、「住宅」4,427億円(0.4%)だそうです。

項目に「子育て」が見当たらないのですが、「家族」あたりに入るのでしょうか。それとも保育所の整備は直接給付じゃないから社会保障給付の内訳には入っていないのでしょうか。素人にはよく分かりません。ちなみに、2010年の記事ですが、待機児童4万人の改善のために子育て施策関連の費用として補正予算に1千億円を計上とありました。結局これは待機児童の解消に効果がなかったわけですけれども。

ちなみに「子育て」関連として追記しておくと、民主党が政権交代時のマニフェスト通りに子ども手当を全額支給すると財源は約5兆円だそうです。現在の児童手当は3党合意により2.2〜2.3兆円程度。自公時代の児童手当は1兆円。ただしこの増額も扶養控除の廃止とセットになっているので、子育て世代の負担は実質的にさほど変わりません。

こちらの年齢別人口分布(2009年)を参考にすると、0〜15歳の人口は約1千822万人。65歳以上が約2千900万人(65〜74歳が約1千530万人。75歳以上が約1千371万人)。何歳までを子どもと捉えるかにもよりますが、いずれにしても、年金にかかる費用と子ども子育て新システムや子ども手当などにかかる費用の割合を比べてみると、駒崎さんが指摘するように社会保障費の割り振りが偏っているということは言えるでは。年金はバラマキと言われないのに、子ども手当はバラマキと言われるのは、いかにも選挙用のバラマキトークだなあと思います。

なぜ日本の社会保障が高齢者に偏ったかは簡単で、政治家が票集めのためにそういうリップサービスをしてきたからです。選挙権のない幼児向けのサービスを訴えるよりも、選挙権もあり人口も多い層への優遇をアピールしたほうが得票できるから。目の前の餌に釣られる有権者と、目の前の票を取りたい政治家によって作られてきたといえるでしょう。選挙のたびに、将来の子どものことを考えて投票していたかどうか、自分の胸に手をあててみるとぼくはわかります。反省しています。

社会保障の充実のためには増税が必要であることは間違いありませんし、それが消費税になる可能性は大きいということもある程度は納得できます。財源が無いから増税しなければ、というのは一般論として当たり前の話です。それよりもっと議論されるべきなのは、じゃあ増税でどれくらい予算が確保できて、それをどのように公的資金として割り振るかという問題です。社会保障制度を見直すってそういうことに他ならない。

村木さんが言う「子育てに社会の応援を」とは、子どもに向かう姿勢という内面的な問題はもちろんですが、それが政治として形になるのは、育児や教育にどれくらい公的資金を投入するのかという外形的な問題です。予算をはっきりと公開して、どのように割り振りするのかを明確に提示して、選挙で国民に選択してもらうのが、議会制民主主義のはず。新システムをめぐる議論でそういう話をあまり聞いたことありません。

社会保障は天から降ってきて与えられるものではありません。資源の再分配です。その割り振りをするのが国の役目であり、その道筋を選択するのが有権者です。

これは別に子育てに限った話ではありません。スキャンダルによって降って湧いたように起こる生活保護に対するバッシング。下記のようなツイートを見るに、日本で資源の再分配がうまく機能するという気が全くしません。

大野更紗さんのツイートより
生活相談ホットラインの回線が、パンクしているという。ただでさえ人員が足りず、かかりづらい回線に〈お前らは間違ってる〉〈怠けてるやつに生活保護をとらせやがって〉「相談ではない」電話が、絶え間なくかかってくるという。肝心の本当に必要な相談電話が、つながらないのだという。


「働く」人がいちばん偉い。そうでない者は怠けている。そういうコンセンサスがあまりに根強く浸透しているんですね。社会保障なんていうものには、自分だけはお世話にならないと思っている。だから怠けている奴になんか支援する必要ないだろう、と。ほんとうはいつ自分が逆の立場になるかわからないのですが。

で、気付いたんですが、生活保護問題と待機児童問題の根っこは一緒なんじゃないかと。仕事してるんなら(してないなら)家族で面倒見れるだろっていう。新生児を抱えながら、走り回る2歳児の相手を24時間毎日休みなくするって、仕事するより大変なんですが、「働いて」いなければ、認可保育所には入れません。出来ないのは「怠けている」からなのだそうです。「親学」あたりはそう言ってますね。子育ての現場をまったく理解せずに、道徳的であるとか倫理的であるとか「善いこと」だけを大きな声で言う人たちが、現場で人知れず苦労している人たちの声と精神を押しつぶしているということに気づかないかぎりは、資源の再分配であるとか社会保障の充実なんて夢のまた夢だろうなと思います。


多様な保育サービス

「子ども子育て新システム」による制度改革のいちばんの核は、幼保一体化でも総合こども園でもありません。おまけにそれらは待機児童解消につながらないという見解は、賛成派も反対派も一致しています。では何をもって「子ども子育て新システム」が待機児童解消の根拠と言われているのか。それは、認可制から指定制への変化です。つまりは規制緩和、保育の市場化ですね。ここがいちばんの論点になります。なるはずです。

猪熊弘子さんのツイートより
えーっと、今、NHKニュースで<新システムの「柱」は「総合こども園を作ること」>って報じてるんですけど、そうじゃなくって、ホントの「柱」は給付制にするっていうことですから〜。保育所も介護施設や障害者施設と同じように、自己責任で選べよ、市場化するからさ、ってことですから〜。


保育を申し込もうとする親の側からしてみても、いままでのように市役所を介することが無くなるわけです。施設との直接契約になる。市役所を介する必要がなくなるということは、名目上の待機児童が居なくなることを意味します。市役所が管理しないんだから当たり前ですね。もちろんこれはあくまで書類の上でのことで、実際にどうなるのかはまた別問題ですが。

このあたりの要点をまとめるとだいたい以下のようなところ。以前の記事に書いたものですが、再掲します。

現在、「保育」は児童福祉法のもとで行政が地域の子どもの保育に責任を負うことになっている。そこで公立が原則となるが、民間に委託する形で「認可」保育園が認められている。市町村が「保育の欠ける」子どもを保育する責任を負い、入所を希望する保護者は市町村に申請する。行政が、公立・認可保育園に助成し経済的に支える責任がある。

新制度案では、市町村の保育実施義務を明記した児童福祉法24条が削除され、保護者と施設とが直接契約を結ぶことになっている。「認可」という制度もやめ、一定の基準をクリアすれば「指定」がなされ、保育園の市場化を進める。行政は保育園に直接財政の支出をしない。保護者へ一定の金銭給付がなされるが、保育料は親の収入に関係なく、保育時間に応じて一律に決まる応益負担となる。
※注 ちなみに最後の行の「応益負担」案は、議論の終盤で「応能負担」の枠組みに変更になったそうです(ただし、現在の応能負担とは違う形になり、現実には皆等しく負担が増加するだろうという指摘もあるようです)。


市役所がひとつひとつの申請をチェックして、「保育の欠ける」順番に割り振りをする、という行政の仕事が無くなります。どこを選ぶか、入れるかどうかは、良くも悪くも、親の「自己責任」になるわけです。認可制から指定制へとはつまり、新システムは保育に関して行政の責任を無くすという方向にあるわけです。

では、なぜそれが待機児童の解消につながるのか。まさか名目上だけの待機児童が居なくなることを目指しているわけではないでしょう。
村木さんの記事によれば、ハードルを下げることによって誰でも保育サービスに参入できるようになり、今まで通りの保育所だけでなく、小規模の保育や家庭的な保育、一時預かり保育などの多様なサービスができるようになると。動画の中の泉議員や駒崎さんの発言からも、「小規模保育」とか「多様な保育をやっていこう」というビジョンが先にあることがわかります。

このビジョンそのものに対しては大いに共感します。多様な保育、多様な教育、という社会環境ができればいいなあとぼくは常々夢見ています。多様な教育と聞いて、ぼくが具体的にイメージするのは北欧諸国。たとえば、デンマークの育児支援事情が下記にて紹介されています。

世界の子育て事情 デンマーク - FQ JAPAN 男の育児online

ぼくはこういう記事を読むと、楽しくなってきちゃいます。だって、こういう多様な子育てのできる社会環境を実現している国が実際にあるって知るだけで、わくわくしちゃう。デンマークといえば、ロラン島の「森の幼稚園」が有名ですが、ああいった子育て支援が存在できるのは、「子供の自主性に任せて各々がやりたい遊びをさせる」というコンセンサスが根付いているからだと思います。

ちなみにこのブログでも何度か北欧について書いていますので参考までに。
オランダのオルタナティブ教育について
ノルウェーの出生率上昇について

先ほどのデンマークの記事でいうと、「各家庭がニーズに合わせて施設を選べる」という点を「子ども子育て新システム」は重視してるわけですけれども、もっと大事なのは「子供の個性と独創性を尊重すること」だとぼくは思っています。

多様なサービスが出ることによって、都市部では待機児童の解消につながると見られています。それも一理あるかもしれません。家庭や親の事情があるために多様なニーズがあるという側面もたしかにありますし、それに応えることも大事です。母親への支援という視点が新システムの出発点にもなっています。

ただ同時に踏まえておきたいのは、順番としては、子どもの個性と独創性を尊重するがゆえに、結果として多様なサービスが存在するというのが子育て支援においては本来のすがたではないかと。その視点が抜けてないかどうか、いつも立ち返る必要があると思います。そうでないと本末転倒になりかねません。


民間の保育所参入について

だんだん論点が見えてきました。
「多様な保育サービスを実現する手段として、民間企業の保育所参入は有効か?」ということを突き詰めて考える必要がありますね。

下記の記事は、民間の保育所参入という点に的を絞った論考です。

待機児童を救う民間の保育所参入は“悪”なのか?「子ども・子育て新システム」に募る異論の中身 - ダイヤモンド・オンライン

この記事の冒頭に書かれているフェスティバルのことをぼくは何も知らないし、実際にどのような呼びかけやパフォーマンスが行われたのかも分からないのですが、これをもって反対派が民間参入=悪だと主張しているとするのであれば、これはすり替えです。民間参入に反対する人すべてが、民間が「悪」だなんて言っていません。少なくともぼくは、民間企業が「悪」だから反対しているわけではないです。駒崎さんの言うような「供給量が上がれば、今より保育の質は上がる」という見方に懐疑的なのです。子どもを預ける立場として不安なのです。

なぜか。民間企業が「悪」だからではありません。ぼくは地方在住の一市民にすぎませんが、それでも生活実感として、市場が淘汰するということの帰結をいろいろと見てきたからです。

上記記事の中で駒崎さんは、 「現在はそもそも保育園の数が少なく、一部の親は(劣悪な環境の)ブラック保育園を選ばざるを得ず、たとえブラックであることに気付いても他に行くところがない。供給量を増やせば、質の悪い保育園は選ばれなくなる」と言っています。一般論で言えば、なるほどもっともです。それが市場原理なのだから。

で、市場原理の導入と浸透によって現実はどうなっているか。地方都市で暮らす身としましては、大資本によってローカルな個人経営が駆逐されていくという場面を多々目にするわけです。
どこに住んでいても全国同じようなものが同じような価格で買えるようになりました。バイパスを走るとどこに行っても同じような、なんとかモールとかタウンが立ち並んでいます。そのほとんどは、消費者がより安い価格を求め、企業側がそれに応えていった帰結です。大量生産のできる大資本企業に地元の商店街が価格で太刀打ちできるはずがありません。これは結果として囲い込みになっています。一円でも安いものを求めていく消費者。企業としては人件費を抑えるために労働環境は劣悪になっていきます。金が回らない経済の循環は、巡り巡って自分の首を締めることになっています。多様なサービスを選べるはずが、実際には安いものしか買えない。多様なサービスを選べるはずが、実質的には選択肢がなくなっていく。そういうことが身の回りにたくさんあります。

だから、保育の場合だけは民間参入によって多様なサービスが保たれ、さらに保育の質が向上するというイメージを抱くことはできません。それちょっとお花畑的な幻想じゃないかと思っちゃいます。

民間企業が「悪」だなんて思っていません。かといって、ボランティアでやるわけでもありません。社会貢献という名目があったにせよ、企業の本質は利益を出すことであるし、それが悪いだなんてぜんぜん思わない。ただ、やるべき場所と、そうでない場所があるんじゃないかと。子どもの命を預かる場であり、また子どもの教育の場でもある「保育」の現場には、そぐわないのではないかと思っているのです。それでもやってみなけりゃわからないじゃないか、という一般論を差し出されると反論のしようもありませんが。ただ、やっぱり親としては不安ですよ。

内閣府参事官講師の「新システム」学習会に参加したという方の感想。
坂井和歌子さんのツイートより
内閣府参事官講師の「新システム」学習会に行った。「指定性にすることで一気に保育園増えます」ていう話に不安が増大。企業=悪ではないだろうが、安全守る仕組みづくりはこれからなのに、一気にいろんなところが参入してきて、そのなかから安全な園を自分で選び取って…と考えたら気が遠くなる。

「潜在的な待機児童もすべて把握して保育園をつくる」と言っていたけど、今もできていないものをどうやってやるのか方法を質問したけど明確な答えがなかった。あと、直接契約について「困難な方は援助して、力のあるお母さんはご自分で探していただきます」と。力のあるってずいぶん抽象的だよな〜。

「今まで改善されてこなかった子どもをめぐる環境を新システムを機によくしたい」という議論はやっぱり腑に落ちない。本当に困ってる人たちの生活や、大切な命が脅かされるんじゃないかっていうのが不安。


新システムは保育に関して行政の責任を無くします。市場化するから、あとはサービスを提供する企業と消費者の間でうまくやってね、ということになる。国はあなたの子どもに対して責任を持ちませんよとも聞こえます。駒崎さんは「いままでだって責任なんか持ってこなかったんだから」と言いますが、だからといって制度そのものから削除してしまってほんとうにいいのか、ぼくはよく分かりません。

オランダでオルタナティブ教育が浸透しているのは、国による支援があるからです。オランダでは一定数の生徒が集まることが証明できれば、市民団体が私立学校を建てることもできます。それがどのような教育理念に基づくものであれ、どのような宗教的倫理に基づくものであれ。校舎や施設の提供は自治体の責任で、学費は公立も私立も変わらないそうです。
そう考えると、民間に門戸を広げることが悪いとは一概に言えないとも思います。ただ、理念よりも空気を大事にし、ムラの掟の中で長いものに巻かれる人のほうが多い日本社会でそれがうまく機能するのかと考えると、ぼくはやっぱり懐疑的になっちゃうんですね。


ここから先はぼくの邪推になるんですけれども。泉議員が官僚答弁に終始していたことが象徴しているように、この新システムっていうのは、「子育てに社会の応援を」という理念をダシにして、実質的な仕組み作りの部分では完全に官僚主導になってしまっているんじゃないかと。

これだけ新システムに取り組んでいながら、なんで待機児童の解消が見えてこないのか。待機児童の解消が先にあるわけじゃなくて、政府がいちばんやりたいのは「保育の市場化」だからです。そう考えるとすべてがつながってくる。もっと言うならば、政府がやりたいのは「増税」であり「経済成長」。子育て支援が先にあるわけではなく、増税と経済成長のために子育て支援策が必要なのです。残念ながら、そう考えたほうが辻褄が合うようにぼくは思うのだけれども、穿った見方でしょうか。

野田首相は、この社会保障改革を増税の根拠としてしきりにアピールしています。『バンキシャ』に出演したときの胡散臭さを以前書きました→総合こども園という欺瞞と、衰退するマスメディア。このときのNHKニュースで、「政府はこうした子育て支援策によって少子化に歯止めをかけ、経済成長につなげたい考えです」と報じられていて、びっくりしました。「子育て支援」が「経済成長」?意味が分からない。

けれども、政府がやりたいのは「増税」であり「経済成長」であるのだと考えるならば、分かります。なんせ、待機児童が何万人もいるということは、掘り起こせばビッグビジネスになるチャンスがあるわけで。だから「経済成長につなげたい考え」となるんですね。未開拓である保育市場に多くの企業が参入して、「財界」を潤してくださいよということなのでは。つまりこれは経済界が主導する流れなのでは。弁護士の川口創さんは、新システムの議論はそもそも「経済成長戦略」の中で出てきたと指摘しています。

価格競争を是とする経済市場の拡大は割とすぐに飽和します。その度に新たな消費の場を開拓しなければなりません。地方進出や海外進出を展開するグローバル企業は永遠にパイの拡大を求め続けなければならないというジレンマを構造的に抱えている。
一億総中流の時代から核家族化が進み、自己実現がもてはやされるようになった流れは、国内消費という面で見ると、市場の細分化と拡大を意味します。すなわち、多世代が同居する大家族よりも単一世代がそれぞれの家で暮らす核家族のほうが冷蔵庫は多く売れるし、一家に一台よりも一部屋に一台テレビがあったほうがより多く売れる。あなたらしさとか自分探しっていうのは、消費市場の開拓のための宣伝による部分もかなり大きいわけです。

しかし、そうして拡大してきた消費市場も国内ではもはや頭打ちとなりつつあります。ということは、資本は新たな市場になるチャンスのある場所を求めているはずです。規制緩和とか民営化にはそういう一面があります。かつて介護の分野にも市場原理が導入されました。介護保険制度は、2005年に財政抑制を目的とした「適正化運動」によって家事援助が大幅に削減され、多くの事業者が廃業・撤退し、多くの高齢者が、生活の支えを奪われる結果となったそうです。

もし、そういった規制緩和の次なるターゲットが「保育市場」というわけなのだとしたら、これは社会保障制度の見直しどころか、社会保障という概念を捨て去ることになりはしないでしょうか。アメリカは先んじて自国で教育や医療の現場を市場化し、大きな格差を生んでいます。怪我をしてもお金持ちしか病院にかかれないという現実。この辺りは堤未果さんの著書『ルポ貧困大陸アメリカ』を読んでいただくと詳細にリポートされており、対米従属の姿勢を続ける日本も同じような道を辿るのではと考えると背筋が寒くなります。

介護の現場が市場化されて「介護ビジネス」になったのと、全く同じことをやろうとしているのが「子ども子育て新システム」なのだとすれば、待機児童の解消という名目で「保育ビジネス」が展開されます。そうなったならば、企業活動であるがゆえに利益、効率が優先されるのは目に見えているように思えます。

「貴女らしい保育」とか「ほんとうに大切なものを」とか、きれいな広告もバンバンうたれ一見よさげに映るようになるかもしれません。たぶん、きれいな広告をうち出せる資本をもった大手企業がもてはやされるようになるでしょう。いま現場で誠実に働いている保育士たちのように「子どもと向き合う」ことは、利益や効率優先の企業活動の中では、求められなくなるでしょう。それが進んでいくと、おそらく、保育現場がワタミ化するんじゃないか。

川口さんも指摘していますが、もともと保育は「儲かる」業界ではありません。保育市場で利益を得るにはどうしたって、人件費などを減らしていくしかない。コスト削減のために、保育の現場が非正規職員ばかりになることは充分考えられます。

いま現在でさえ、保育士に対する待遇は良いとは言えません。だからこそ現場ではたらく保育士の多くが新システムに反対しているのではないかと思います。

保育現場ではたらくyamadanさんのツイートより
保育が市場化してもてはやされるのは、「安・近・長」の保育所か?保育料が安くて、近くにあって、長時間預かってくれるところ。でも質の向上を目指す我々の現場では、「安・楽・感」の保育所を目指したい。誰もが安心できて、子どもたちが楽しいと思ってくれて、卒園時に感動を味わえるようなところ。


このような意識を持って現場に携わる「プロ」の人たちを、切り崩すことになりはしないか。保育現場がワタミ化、パート化しないか。もしそうなってしまったら、犠牲になるのは「子ども」です。新システムに関する話でいちばん不安なのは、当の「子ども」にまつわる話が出てこないこと。

「保育市場」とかんたんに言葉にしてしまいましたが、「子ども」は商品ではありません。工業製品のように数値化して効率や生産性を比べることなどできない。ある意味では、子どもほど理不尽で非生産的な生きものはいないとさえ言えます。子どものおもしろさは偶有性にこそあると、子どもと付き合ってみて日々感じています。保育の市場化によって、ひとりひとりの子どもの偶有性と向き合ってまじめに取り組む保育所ほど、潰れていくことになりかねないとぼくは不安に思っています。

保育市場への企業参入によるリスクの高さについて、実例を紹介しながら詳しく説明されている記事があったので参考に。
保育園が差押え!民主党の子ども子育て新システム「総合こども園」は幼児を不幸にする - Everyone says I love you !

保育現場の崩壊が杞憂で終わればいいのですが…。


教育について

最後に、幼児教育って何なんだろうという問いを。

新システムをめぐる議論の中に「保育の質」というキーワードがたびたび登場します。これは実はとても重要な部分で、じゃあ「保育の質」って何なのかと問われると、おそらくその言葉からイメージするものは人それぞれなのではないかと思います。人によっては事故が起きないような環境整備かもしれないし、のびのび運動できる広いグラウンドかもしれないし、お昼ごはんやおやつのメニューかもしれない。あるいは幼児教育の充実かもしれない。幼児教育といったって千差万別で、エリート教育かもしれないしオルタナティブ教育かもしれない。「質」という言葉ひとつで、すべての人に適合するものさしで測ることはできないのではないかと思うんです。とすると、この言葉だけがひとり歩きしていくのは厄介だぞと。

ぼくが親として望む「保育の質」とは何か、いまはまだうまく言語化できません。以前の読書メモより抜粋します。大宮勇雄さん(福島大学人間発達文化学類教授)の著書『保育の質を高める―21世紀の保育観・保育条件・専門性』の冒頭に描写されたある現場での一場面、それに対する著者の視線に、ぼくはたいへん共感しました。

ある幼稚園。運動会が近づいて、五歳時が園庭でリレーをやっていた。すると一人の男児が、顔を真っ赤にして赤白帽子をたたきつけるように捨てて「もうやめた」とクラスに戻っていく。その子は足が速いが、彼のチームは何度やっても勝てなかったらしい。よほどくやしかったのであろう。

たかがリレーである。何ということもない、たわいのない遊びである。しかしそんなささいなことに、外聞もなく自分をさらけだしてくやしがれる時代はもう二度とこない。同じチームの仲間が懸命に走ったことは彼にもわかっている。だから、くやしさをどう表現していいのかわからない。自分をおさえきれないのだが、仲間に対しては自分をおさえようとしている。見ている側も切なくなる。しかしこういうことを繰り返しながら彼は、他者の気持ちと向き合い、自分の気持ちに気づいていくにちがいない。

こんなとき、保育者っていい仕事だなあと思う。子どもの息づかいや感情の揺れ動きがビンビンと感じ取れる近さで子どもと関わるとき、子どもも幸せだが、保育者も「子どもと生きる幸せ」を感じているのだろうと思う。


可愛い自分の子どもを他人に預けるということは、預ける側への信頼がなければ出来ないことですよね。現場で子どもたちと真摯に関わる保育士や幼稚園の先生たちは、ほんとうに大変な仕事をしていると思います。そしておどろくほど純粋に子どもと向き合ってくれていると思います。そういった現場のプロに対しては、ぼくは敬意を払いたいです。そして、だからこそ安心して子どもを「任せ」られる。

このような保育者としての視点を知ったときに、そしてそれがぼくの思い描く「保育の質」と近いところにあるように感じたときに、じゃあ「保育の質」と「教育」って何か違うんだろうかという疑問が出てきます。管轄が違うとか、資格が違うとか、親の就労状況によって選択できたりできなかったりとか、そういう「大人の事情」をさっ引いたときに、単純に子どもにとって「保育の質」と「教育」って何が違うんだろうと。保育所が「保育」だけで、幼稚園が「教育」だけってことはぜんぜんないだろうと。

教育については以前書いた記事(教育の出発点)から抜粋します。

教育問題を語ろうとするばらば、まず自分が「教育」の出発点に立っているのかどうか、足下を見つめることから始めないといけません。自分の足下をふり返らずに、子どもを教育しようとするのは、子どものすることです。子どもを教育する立場に立とうとするならば、ぼくらは大人にならないといけません。

沼崎一郎さんのツイートより
絶対に操ろうとしないこと、それが相手を人間としてリスペクトすること。子供も人間としてリスペクトし、操ろうという誘惑に負けず、子供を「自由」にすること、それが「教育」の出発点。


「しつけ」と言いながら実は自分(親)がラクをしたいだけだっていうことはよくあります。ぼくも多々あります。しょっちゅう鬼を召還してるし。それから、「しつけ」が子どものためであるという顔をしながら、実際は親の世間体を守るためになっているのではないかと思うことが多々あります。子どもと向き合って子育てしている人ならば、本当の意味で「しつけ」をしたいと思っている親ならば、おそらくそう感じたことが必ずあるはずです。子どもと向き合うということは、自分と向き合うということです。それが教育問題の核心だと思います。

子どもが自分の好奇心を自由に広げることができるように、後ろから環境整備をしてやることが親の役割なんじゃないかと、息子が2歳になったいまはそう思います。でもこれが存外に難しいんですね。やっぱり今まで自分が生きてきた価値観とか常識とか、あるいは時間とか云うものさしが働いてしまうから。沼崎さんの言うように、それは「誘惑」だと思うんです。子どもの目線で、いま何が大事なのか、をいつも常に確認し直さないといけない。それくらい、大人はしがらみの中に生きているものなのだと実感します。

子どもは生まれた時点ですでに親の尺度を超えている。だから子育ては最高におもしろい。最高にクリエイティブ。子どもとあそぶことで、子どもにふり回されることで、凝り固まった大人の脳みそがほぐされます。だから、子どもは子どものままで存在することが、それ自体が唯一無二で、貴重なんですね。


内田樹さんの以下の記事も素晴らしいのでぜひご一読を。
教育の奇跡 - 内田樹の研究室

子どもを育てること。その支援の直接的な受給者は親にあるかもしれません。わざわざ国に言われなくても「子どもは親が育てる」のは本能レベルで当たり前のことです。ではなぜ「子どもを社会で育てる」のか。これは長いスパンで考えないと理解できません。というのは、子どもを育てることの最終的な受益者は共同体そのものであるからです。子供たちを知性的・情緒的・身体的に成熟させないと社会制度そのものが存立しなくなるからです。

オランダの教育基本法とも言える憲法第23条には、はじめにこう書かれています。

オランダ憲法第23条 1. 教育は政府の持続的責務の対象である。


ぼくは、この1行に教育というものの真髄が込められているように思います。
オランダでは、この憲法を拠り所にした充実した教育制度が整っているそうですが、そこに至るまでは決して平坦な歴史があったわけではないといいます。90年にもわたる国民的な議論によってようやく市民的合意を得るようになったのだそうです。ひとりひとりが自分のあたまで考えることでなにがしかの合意を獲得していくしか、民主主義の深化はあり得ません。





いろいろ書きましたが、親の側からしてみれば、幼保一体化とか管轄がどうとか、そういった行政側の事情ははっきり言ってどうでもいいんです。喫緊の課題として待機児童の解消。それから長期的な視点では社会的な子育て支援。具体的な対策としてそれだけが納得できればいい。でも、現在の新システムをめぐる論議からはそこのところの整合性がよく見えないので不安なのです。それだけです。子どもがどのような環境で育っていくのか、ということは親としていちばん大事に考えるところです。

ずいぶん長くなってしまいました。これ他人の記事だったらぼく読みませんね。最後までお付き合いいただいた方、ありがとうございました。抜けている視点もたくさんあると思います。あくまでも二児の父(36歳・中産階級)の立場から見た、偏った備忘録として記憶の片隅にでも入れていただけると幸いです。





追記(6/12)
こんなニュースが。
株式会社の学校縮小へ 政府、特区を全国解禁せず
やはり、学校教育とビジネスマインドは相性がよくないということの証明だと思うのですが。さらに小さい乳幼児でこれをやろうとするのはちょっと疑問ですね。

子ども子育て新システムから感じること

子ども子育て新システムから感じること 2012.06.02 Saturday [子育て・教育] comments(13)
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オルタナティブ教育

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学校って私塾でいいんじゃないか。
いままで世間一般で常識とされてきたことや、子どもに全国一律の教育をほどこすことに対して疑問を感じることが多くなり、学校って私塾でいいんじゃないかと最近つくづく思います。が、それと同時に、いまの日本で自分の子に小学校をドロップアウトさせるだけの度胸もないであろう自分も存在していて、自己の二面性を感じています。

以前の記事にも書きましたが、橋下市長をはじめとする教育改革の論調には違和感を覚えます。彼らの主張が「教育」の出発点に立っているように思えないからです。と同時に、現場ではたらく先生たちには信頼したい人たちもたくさんいます。学校そのもの自体が、教育委員会のお偉方と現場の先生方との間にあるギャップで揺れ動いているのかもしれません。もし学校というものが、橋下市長の掲げるような「教育」機関、つまり公務員=国畜による一律指導の場に一斉になるのだとしたら、いっそのことドロップアウトする覚悟もつくのかもしれません。でも現実には現場の先生方すべてが先の教育改革に賛同してそれに従おうとしているわけでもない。そのギャップというか二面性の中にこそ、世の中の複雑さというものが反映されているのかもしれないとも思ったり。そう思うことで、煮え切らない自己の二面性を正当化してみたり。

平川克美さんのツイートより
ウチダブログの利益誘導教育の破綻、面白い。半端な政治家、ビジネスマンも、必ず「教育が悪い」「教師が悪い」と言う。俺は「教育が悪い」という奴は、信用しないことにしている。

伊藤仁斎が江戸に私塾を始めたとき、門前列をなしたという。町屋遊びに興じていた旦那衆までが、「学問はなんて面白れえんだ」と。教育ができるのは、学びの面白さを伝えるところまでだ。

「教育を何とかすれば世の中がよくなる」なんて思っている教育再生会議的ひとびとは、教育と馴致を取り違えている。教育の効果が現れるのは、教育で学びの面白さを知ったものが自ら学び始めた後の話であり、自ら学び始めれるということはインプットとアウトカムが必ず非整合的であるということ。

教育の奇跡とは、まさに「止揚」の奇跡なのだと思う。分かりにくくてすまないけど、そういうことなんだと思うよ。つまり、教育ってのは「俺はそんなことお前に教えたつもりはない」という形で実現されるということです。


「教育ができるのは、学びの面白さを伝えるところまで」ほんとうにその通りだと思います。昨今の教育改革は、「教育」と「指導」を混同している。全国一律の指導要項があって、どこに行っても同じことを同じように教えるというのは、教わる子どももそうですが、親の考える力を奪います。そしてレールから外れた人を非難しちゃう。それってすごく定型的ですよね。子どもを決められたマニュアル通りに指導することが教育だとは思えないし、ましてや親の責任でもない。親は子どものいったい何に責任を持つのか。

さまざまな私塾が混在して、多種多様な選択肢があれば、親は子どものために必死で考えると思います。自分の子に責任を持とうとすると思います。ひとりの親として自分の選択に責任を持とうとするでしょう。となると同時に、異なる考え方にも寛容になると思う。




リヒテルズ直子さんの著書『オランダの教育』を読んで知った同国のオルタナティブ教育ってのを思い出しました。かつて「オランダ病」と揶揄された財政赤字の時期を経て、いまは「オランダの奇跡」と呼ばれるほど「豊かな」国になったオランダ。ワークライフバランスを見直し、子どもたちの「育ち」を大切にしたことが要因のひとつだそうです。同著は、オランダで実際に子どもを育てた日本人女性による、オランダの教育についてのレポートです。

印象に残った点を列挙しておきます。
オランダでは学校の数だけ教育方針があり、学校を選ぶのは親の自由であり責務。

オランダの小学校。校区がない。“学校は一つひとつ違うもので、学校を選ぶのは親の自由”という考え。人口8万人の小都市でも28校があり、歩いて買い物に行ける距離に3つや4つも学校がある。選びたくなくても選ばざるを得ない。

オランダでは一定数の生徒が集まることが証明できれば、市民団体が私立学校を建てることができる。それがどのような教育理念に基づくものであれ、どのような宗教的倫理に基づくものであれ。校舎や施設の提供は自治体の責任。学費は公立も私立も変わらない。

同じ年齢の子を一つの教室に集め、先生が教壇に立って、主に一方通行で知識を伝達し、子どもはそれを受身に習う、という既存の教育に取って変わる別の教育をオルタナティブ(刷新)教育という。オランダでは、教育というものは時代とともに常に新しく刷新されていくものという考えが根づいている。モンテッソーリやシュタイナー教育はオランダでは、古典的な刷新教育と呼ばれている。


「多様性」ということがオランダの教育の根底にあることがわかります。日本では先進的、というかちょっと変わった人扱いをされるモンテッソーリやシュタイナー教育、イエナプラン等がオランダではすでに「古典的」と呼ばれているわけですから。

オランダの多様な学校教育を保障するのが、同国の教育基本法にあたる憲法23条。
その冒頭の一節。

オランダ憲法第23条
1. 教育は政府の持続的責務の対象である。


ぼくは、この一文に教育というものの真髄が込められているように思います。
子どもはいったい誰のものなのか。親のものなのか、社会のものなのか。それは二者択一で説明出来るものではなく、両方の性質を併せ持つものなのだと思います。自民党の言う「子どもは親が育てる」という座標軸と、民主党が政権交代前後に言っていた「子どもを社会で育てる」という座標軸は、決して相反するものではなく、相互に影響を与えながら交わり合うものだと思うんです。親が自分の子に責任をもつのは当たり前のことであって(誰だってそうしますよね?)、「いや、子育てについては社会(行政)が責任を負うべきだ」という名目でもって親としての責任を矮小化するつもりはありませんし、だからといって「親のしつけがなってないから今の子どもはこうなってしまった」とすべての原因を親に求めるのも違うと思います。極論だけの座標軸は交差しません。実際にはその中間だと思います。子どもは親のものでもあり、社会のものでもある。

「子どもを育てることの最終的な受益者は共同体そのものである」と内田樹さんは常々申されています。共同体として子どもを育てていくことが、国をつくるということです。共同体の未来を担う構成員として、成熟した大人を育てることが、大人の責務です。その環境を整備するために政治があり、政策とは未来への贈与に他なりません。ある政策の結果というものは、市場経済における等価交換の公式のようにすぐに結果の出るものではありません。

「教育」の出発点に立つということはつまり、自分たち及び自分に関係する世代の豊かさよりも、未来の世代への投資に価値を見いだすことができるということ。自己利益を追求する「市場経済の原理」から逸脱した、「わけのわからない」ものを見守ることができる社会。共同体として、そういうマインドを共有しているということなのだと思います。いつの時代でも、イノベーションは「わけのわからない」ものから始まります。大人が出来ることっていうのは、イノベーションの方法をマニュアル的に「教える」ことではなくて、彼らが自発的にイノベーションできるような環境をつくって「見守る」ことなのではないかと思います。

子どもがどれだけ自由にものを考えられるかという場を与えてあげることは、そのまま大人自身にはね返ってくるものです。他者に対して寛容な社会、他者への想像力がはたらく社会というものが、なにより子どもを持つ親にとって子育てをしやすい環境であることは言うまでもありません。子育てをしている人ならそれがわかるはずです。

平松さんの支援集会で話したこと - 内田樹の研究室より
ある教育方法を導入してから、その効果を検証をするまでには、10年から20年、場合によっては30年、40年かかります。2年や3年で効果が分かるはずがない。教育は生身の人間が相手の仕事です。


オランダで「憲法第23条体制」が確立するまでには、90年にも渡る政治議論があったそうです。この学校法闘争はオランダ政治史のなかでも重要で、オランダ人の民主主義についての考え方の根本を成しているとのこと。まさに、共同体として子どもを育てていくことが、国をつくっていったということの証左であるように思います。

イエナプラン教育がいいのか、モンテッソーリがいいのか、ぼくにはよくわかりません。でも、それらが公教育として並列に共存することのできる社会は、懐の深い社会だと思うし、子どもにはそういう多様性の中で育ってほしいとぼくは思います。思ってはいますが、どうしたらいいのかはまだわかりません。

オルタナティブ教育

オルタナティブ教育 2012.05.11 Friday [子育て・教育] comments(4)
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維新の会・家庭教育支援条例案

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橋下市長率いる維新の会をdisるのも飽きてきたけれど、ゴールデンウィーク期間中に飛び込んできたニュースがあまりにもアレだったもので…。

最初に目にしたのはこのニュース。

親も教育…虐待・モンスター防止へ維新が条例案

一読して、バカじゃないの。親をバカにすんな。と思いました。国旗国歌問題に象徴されるような、橋下氏がいままで推進してきた「教育」の流れからいえばここに行き着くの必然とも言えるけど、橋下さんはこの意味分かってるのかなあ。「結婚や子育ての意義を記した家庭用道徳副読本を高校生以下の子どものいる全世帯に配布」って、結婚や子育ての意義を知らない人の発想だし。

親になる心の準備のないまま親になるのも、途方に暮れるのもふつうだと思う。少なくともぼくはそうだった。自分が親になるなんて思ってなかったし、どうしたらいいかなんて全然わからなかった。でも、わかんないからこそ毎日子どもと一緒に考える。そうやって少しづつ親になっていく。

誰かから、はいこれが正しい親の理想像ですよ、と提示されるものに何の価値があるのかさっぱりわからない。そんなのは親の勝手な都合で、自己満足にすぎない。親にとっては目の前にいる子どもが最高の教師だとぼくは実感している。


「テレビや携帯電話を見ながら授乳している「ながら授乳」が8割を占めるなど、親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題があると思われる」子育てをやったことのない人の発想だね。子どものことは母親がぜんぶやっとけ的な亭主関白がかっこいいと思ってんだろうなあ。




橋下氏自身は否定的な見解であると、さっそく火消しをしていたようですが、彼のそういった「論理的」発言が、だんだん責任逃れにしか聞こえなくなってきます。

大阪の条例案は「親学」が元ネタらしいけど、「親学」って自分を棚上げにした学問なんですかね。親をやってて痛感するのは、親だけでは子育ては出来ないということ。祖父母親類や地域社会などいろんな人にお世話になりっぱなし。だから逆の立場になったらよその子にも優しくしてあげようと思うわけで。

教育や子育てにおいて、子どもの自主性に「任せる」ことをよしとせず大人のコントロール下に置こうとする日本の自称「伝統」のおかげで、国自体が活性化せずにジジイ化している。それが目に余るほど顕在化してきたってことかも。次の世代に「任せる」ことをしていかなかったら、細胞が死んでいくよね。


保育所面積基準の緩和や学童保育予算廃止というニュースを受けて、2週間ほど前の記事でも書きましたが、維新の会の具体的な方針が明らかになってくるにつれ、橋下氏の発言っていうのが単体ではもっともらしく聞こえても、それが積み重なってくると矛盾が出てくることに気付く人が増えてくるのではないかと思っています。

維新の会そのものがいったいどういう方針を目指した団体であるのかは、まだよくわかりませんが、橋下氏が目指しているのは「競争社会を勝ち残る人材」を育成することであるということは、彼の発言の節々から伺えます。いわば弱肉強食、働かざるもの食うべからずを徹底した市場の形成であり、質の悪いものは市場(ユーザー)によって淘汰されるという考えが根底にあるように感じます。だから、新自由主義的な面々が彼の周りを取り巻くのも自然なことですが、しかし橋下氏自身はそれほどイデオロギーに固執しているわけでもなく、むしろ論戦の波に乗ること自体を楽しんでいるようにも見えます。

彼のもっとも大きな主張であり、彼が支持される要因でもある「既得権を解体する」というスローガンは、それ自体が何かの方向を指し示すものではありません。解体して、じゃあどこへ向かうのか。彼が目指す社会像というものがいまいちよく掴めないのは、ぼくだけでしょうか。取り巻きの連中によって新自由主義的な政策が掲げられているけれども、橋下氏自身がそんなに世直しに熱心というわけではなく、彼はただ神輿に乗っかっているような気がしてならないのですが。



経済成長が手段ではなく目的となってしまった資本主義的価値観の中では、競争・勝敗=ディベートの論理がもてはやされるのかもしれない。金儲けってある意味ゲームみたいな感覚だよね。

橋下氏の教育改革に子どもへの視線が感じられないのは当たり前かもしれない。子どもは非論理的で非効率的で経済資本的に見たらぜんぜん採算のとれない生きものだから。

橋下氏が支持されるということは、子どものような非論理的で非効率的で経済資本的に見たら採算のとれないものは軽視されるのが主流のよのなかになってるということだね。だからこんなにも子育てがしんどい社会になっちゃった。

子育て世帯がマイノリティ感覚を強いられるって、ヤバくないですか。


維新の会・家庭教育支援条例案

維新の会・家庭教育支援条例案 2012.05.07 Monday [子育て・教育] comments(0)
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入学式で考えた ぼくには「常識」がない? 高橋源一郎(朝日新聞 論壇時評)

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これは書かずにいられない。今朝の朝日新聞に掲載された高橋源一郎さんの「教育」についての記事。ちょうど一昨日ブログに書いたこととかぶるし、大事なことがたくさん書いてある。転載せずにはいられない(著作権云々で怒られたら消します)。

入学式で考えた ぼくには「常識」がない? 高橋源一郎
朝日新聞 平成24年4月26日朝刊 論壇時評より

 1年前、長男のれんちゃんが小学生になった時のことだ。最初に、校長先生が、舞台中央の演壇に向かって深くお辞儀をした。でも、演壇にはなにもない。「はて?」と思って、よく見ると、左奥に日の丸の旗がある。誰に向かって、何のためにお辞儀をしているんだろう。まるでわからない。ぼくには常識がないからなのかな。しばらくして、「国家斉唱」の番になった。そしたら、ぼくは、なんだか憂鬱になった。誰がこんなやり方を決めたんだろう。半月前の保育園の卒園式には、あんなに感動したのに。
 で、突然気づいたんだ。卒園式では、子どもたちがたくさんの歌を歌った。みんな、子どものための歌だった。でも、小学校の入学式で歌うのは、子どものための歌じゃない。これは、子どもたちのための式じゃなかったんだ!だから、こう思ったよ。「小学校の入学式は、たぶん、キョウイクイインカイとかそれを指導しているエラい人のための式なんだ。だから、イヤになっちゃうんだ。現場の先生に任せたら、もっと嬉しいものになったのになあ」って。
 家に戻って、「入学式」のことをちょっと調べてみた。アメリカでは、登校する最初の日、みんな講堂に集合する。真ん中にテーブルを置いて、そこにジュースやチョコレートを並べる。雰囲気は、まるでパーティみたいだって書いてる人がいた。それって式じゃないよね。オーストラリアやイギリスでも、入学式はないみたいだし、そもそも「入学式」自体が、「常識」ってわけじゃなかったんだ。ランドセルは、もともと「軍隊」と共に輸入された背嚢が起源だし、日本で最初に運動会をやったのは海軍兵学校だった。「入学式」って、実は「入隊式」なんじゃないのかな。

 今月、「教育」について論じたものが多かったのは、「教育」に、たいへんなことが起こっているからなんだろうか。
 大活躍しているのは尾木ママこと尾木直樹さん。二つも雑誌に登場している(※1・2)。
 尾木さんがいっているのは、(日本の)みんなが「常識」だと思っていることが、実はそうじゃないってことだ。 この国の外では、教育はどうなっているのか。世界を飛び回って、尾木ママは調べる。たとえば、「世界で大学入試試験をやっている国はほとんどない」とか、日本のパパやママは、世界の平均の2倍から3倍も教育にお金を払わされているとか。知らないことばかりだよ。オランダでは、「朝学校に行って1時間目から5,6時間目までの時間割を決定するのは子どもたち自身」で、先生はそれを支援する役目。そして子どもたちは「自分が決めたことだから自分で責任を持とう」とするていうんだ。宿題だってまったくないってさ(※1)。それでも、160カ国からも移民が集まるこの国で、日本と学力が変わらないのは、「子どもたちの人権」こそ最優先だ、という考え方があるからなのかもしれないね。
 あなたの国では子どもたちが悲惨な状態のまま放置されている、っていわれたら誰だって驚くよ。しかも、その場所が「学校」だっていうんだから。桜井智恵子さんの『子どもの声を社会へ』(※3)の最初の方に書いてあるのはこのことだ。国連・子どもの権利委員会が、厳しい競争環境が子どもたちをイジメや精神障害といった不幸な状態に陥らせていると日本に勧告した(※4)。へえ、そんな風に見られていたのか。ぼくは「世界の常識」を知らなかったんだ。
 日本で初めて「子どもの人権オンブズパーソン」制度を作ったのは兵庫県川西市で、桜井さんはそのオンブズパーソン。競争社会は、弱い者に負担を強いる社会だ。そして、もともと弱い者とは子どものことだ。桜井さんは、疲れ傷ついた彼らの声に耳をかたむけ、立ち上がる手助けをする。その過程で、桜井さんは気づく。子どもたちが、悲鳴のように、この社会の構造を変えてほしいって訴えてることに。桜井さんは、こういう。
 「私たちの社会は子どもたちが引き継いでくれる。だから大人は、子どもに失礼のないように、思考停止をしてはいけない。」

 その通りだ。この社会は、やがて子どもたちに引き継がれる。なのに、ぼくたちの「常識」には「子どもに失礼のないように」ということばがないんだ。
 「常識」があてにならないのは、それだけじゃない。ぼくたちは、ギリシャをヨーロッパの一部だと思っている。でも、村田奈々子さんは、確かに古代ギリシャ文明はヨーロッパ文明を産んだけど、中世以降、正教会に属するキリスト教の地だったギリシャはヨーロッパではなかったと書いている(※5)。だから、ヨーロッパはギリシャに冷たいんだってさ!
 それから。北朝鮮の「ミサイル」発射の件もなんか変な気がするんだよ。海外のメディアは、「ロケット」と呼んでるみたいだけど、日本にいると、目に飛び込んでくるのは「ミサイル」ということばだ。弾頭を装着すれば「ミサイル」で、宇宙開発が目的なら「ロケット」というらしいんだけど、そんな違い、なんか意味があるのかな。っていうか、その「ミサイル」より、アメリカ軍が持ち込んでいるかもしれない核兵器や福島第一原発4号機の燃料プールの方がずっと怖いと思っちゃうのは、ぼくに「常識」がないからなんだろうか。


※1 尾木直樹「子どもたちの新しい人権のために」(現代思想4月号
※2 尾木直樹・上肥信雄の対談「学校を死なせないために」(世界5月号
※3 桜井智恵子『子どもの声を社会へ』(岩波新書、2月刊)
※4 国連子どもの権利委員会の「最終見解:日本」(外務省のホームページから、http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/pdfs/1006_kj03_kenkai.pdf
※5 村田奈々子「ギリシャはどれほど『ヨーロッパ』か?」(中央公論5月号


子を持つ親として、「常識」がない大人として、まったくもって共感します。
大人の都合に合わせた教育改革が幅をきかせるようになりました。それって子どもが育つための教育じゃなくて、大人がラクをするための教育です。子どもたちが、自分が決めて自分で責任を持とうとするためには、大人が裏から支援する必要があります。それを阻害するのは、実は国旗でも国歌でも教育委員会でもなく、自分自身だったりします。子どもを絶対に操ろうとしないことが実はいちばん難しい。一昨日のブログ(「教育」の出発点(大阪市の保育所面積基準緩和および学童保育予算廃止について))に書いたことですが、くり返します。子どもと向き合うということは、自分と向き合うということです。それが教育問題の核心だと思います。子どもがどれだけ自由にものを考えられるかという場を与えてあげることは、そのまま大人自身にはね返ってくるものだと、ぼくは実感しています。「子どもを育てることの最終的な受益者は共同体そのものである」という内田樹さんの言葉がありますが、オランダをはじめとする北欧あたりの教育観って、たぶんそのことを理解している成熟した大人たちによるものだと思うんです。

ぼくはまだ2歳児の父親であり、目の前の子育てに向き合うだけで精一杯なので、小学生の親という立場になったときに、たとえば国家斉唱の場面でどのようにふるまったらいいのかなんて見当もつきません。高橋源一郎さんは今朝のツイートで、自身のふるまい方についても考えを述べています。

高橋源一郎さんのツイートより
@kenichiromogi 読んでくださってありがとうございます。小学校1・2年の子どもという「当事者」を持つ者として、大学教員として、(公)教育は、とても切実な問題です。おそらく、この社会にとっても要となることがらだと思います。

森岡さんへの返信に書いたように、ぼくは、「国歌斉唱」時、できるだけそっと席を離れています。心をこめて国歌を歌っている方の気持を害したくないからです。歌いたい人は、歌いたくない人の気持に配慮し、歌いたくない人は歌いたい人の気持を慮る。そういう国であったらいいと思います。


こういう大人にぼくはしびれます。自分もそうありたいと思います。
高橋源一郎さんが、親という立場から発する言葉にぼくはいつも大いに共感しています。親という立場からの視線を感じる『「悪」と戦う』は、ぼくにとって大切な一冊です(ぼくはあの小説は、子どもが見る「彼岸」を描いた物語だと思っています)。息子が0歳6ヶ月の頃、夜中に一気読みしてしばらく放心した後、隣でくーくー寝ている息子を抱きしめたい気持ちになったことをよく覚えています。ここ数日中に産まれてくるであろう娘の顔を見ることができたら、もういちどこの本を読んで、「子どもの声」へ思いを馳せたいと思っています。



パパ友のつぶやきです。
山中俊人さんのツイート
生まれたままの赤ん坊を、この手で初めて抱いた時感じたこと。あの日の感覚が残る今しか生めない言葉があると、僕は信じています。


ぼくもそう信じています。
生命が産まれる瞬間に立ち会ったときの感覚が子育ての原体験にあります。ここに書いていることも、あくまで2歳児の親としての感覚です。いつもいましか書けないなあと思いながら書いてます。小学生の親になったら、びしっと起立してめっちゃ気合い入れて歌ってるかもしれません。そのときはごめんね。

入学式で考えた ぼくには「常識」がない? 高橋源一郎(朝日新聞 論壇時評)

入学式で考えた ぼくには「常識」がない? 高橋源一郎(朝日新聞 論壇時評) 2012.04.26 Thursday [子育て・教育] comments(8)
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「教育」の出発点(大阪市の保育所面積基準緩和および学童保育予算廃止について)

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橋下市長の大阪改革が着々と進んでいます。既得権益としての公務員をバッシングして、とにかく無駄を削れという分かりやすい主張が絶大な人気を受けているようです(民主党の事業仕分けが発足当初に人気だったのと同じですね)。彼は、教育の現場からも「無駄」を排除していく方針のようで、このたび以下の制度が「無駄」の認定を受けました。

保育所面積基準の緩和
大阪市、保育所面積基準0歳児5m²・1歳児3,3m²を、0〜5歳児すべて1,65m²へ。東京も0〜1歳児3,3m²を2,5m²へ。橋下市長は地域主権改革一括法「(国から地方に)与えられた裁量を使うのは当たり前」と。0〜5歳児全て一緒という乱暴さが、わかってないなぁとよくわかる。
平松知子さんのツイート

学童保育予算を廃止
大阪市内の「学童保育」の施設は、106か所。約2000人の児童が通っています。その運営費用は、大阪市と保護者会が半分ずつ負担してきました。橋下市長は、その予算を廃止すると表明。学童保育は廃止せざるを得ません。若い子育て世代を直撃する、ひどい決定です
新日本婦人の会(大阪・都島)のツイート


ぼくはこのニュースを知った時に、「橋下市長が子育てしていないことがよくわかる」と真っ先に思いました。保育所の面積基準を一律で引き下げるとかいう発想は、保育の場を等価取引のビジネスの場としか考えてない証左だと思います。実際に0歳から自分の子を育てているならば、そして子どもの生態を知っているならば、親の心情を経験しているならば、そんな発想は出てこない。彼は政界に出る前からテレビで、子だくさんであることをアピールしていましたので、なんとなく子煩悩というイメージが世間的にはあるかもしれないけれども、子どもがいることと子育てに関わることは別です。

保育所面積基準緩和とは、言うまでもなく「詰め込み」です。完全なる「大人の都合」です。大人の都合に合わせるためにいろいろと理屈をこねていますが、そこに子どもへの視線は感じません。治部れんげさんの記事がわかりやすかったので紹介します。
大阪市の保育所面積基準緩和=詰め込みに反対します - RengeJibuの日記

同記事より
待機児童が増える中、保育所を増設するのではなく、今あるところに詰め込むことで対処しよう、という発想です。働く母親として、この発想に反対です。

この議論で大事なのは「ひとり当たり何平方メートル以下に詰め込むと、子どもに害が及ぶのか」データで検証することではありません。詰め込み容認派は必ずこういう主張をするので(「今の定員に何人増やしたら子どもの発達に悪影響があるか、というデータはないから、まあ、いいんじゃないでしょうか。待機児童解消にもなるし」)、あえて言っておきたいと思います。

可愛い盛りの赤ん坊を預けて仕事に戻ることを後押ししてくれたのが保育園です。十分な広さが確保されたゼロ歳児の部屋は、1歳以降のクラスと3つ以上の扉で仕切られています。いつも笑顔の先生方は専門的な教育を受けたプロで、看護師や栄養士の先生も常駐しています。上の息子が受けた手厚いケアを思い出し、この保育園に入れるなら、ゼロ歳復帰もできる、と考えました。


橋下市長ぐらいになると仕事が忙しくて子育てに関わる余裕がないっていうのはよくわかります。それが一概に悪いとも言いません。でもだったら、奥さんの声を聞くとか、保育の現場の声をすくい上げるとか、想像力をはたらかせること、それが現場を知るということに繋がるのでは。

「彼の現場」と「わたしの現場」は違うんですよね、当たり前だけど。橋下市長はディベートでよく相手に対して「あなたは現場を知らない」と仰ってドヤ顔をするけれども、そんなこと当たり前なんです。だからこそ、自分が知らない側の人たちからの声を汲み上げるのが、組織の上に立つ人間のすべきことだと思います。

彼が決まり台詞のように言う「現場」とは、行政組織の中だけのことで。だからコストや効率という側面ばかりが焦点になるのだけれども(それはそれで必要な議論だと思います実際)、たとえば保育所面積基準緩和や学童保育予算廃止という政策を、コストや効率という「行政の現場」の都合“だけ”で決定してしまっていいものか。

子どもの安全基準というものが、大人の都合で簡単に書き換えられるという場面は、震災後の日本で幾度も目にしてきました。幼保一体化や総こども園を売りにしている「子ども子育て新システム」も、大人の都合だけで話が進んでいるという点ではまったく同じです。「子育ての現場」とはいったいどこにあるのか。

大阪府のホームページに、保育所の面積基準の緩和について知事時代のメッセージが掲載されています。
保育所の面積基準の緩和について(私の考え)橋下知事のメッセージ - 大阪府

橋下氏の言う「現場」からの改革には、親と子どもとの関わり、保育士と子どもとの関わり、つまりは大人と子どもとの関わり方という視点がすっぽり抜け落ちているんです。彼は「子育ての現場」を知っているのか。知らないならば、知ろうとしているのか。彼の視線は、ぜんぜん子どものほうを向いていないように見えます。そういう人が、教育改革を語る。子どもにちゃんと向き合っていない(ように見える)人が教育改革を叫ぶことに、みんな欺瞞を感じないんでしょうか。

彼は「無駄の排除」というフレーズと、それをかっこよく言い回すことで人気を得ているけれども、今回のように実際に何を「無駄」と認定するか、その中身がわかってくるにつれて、世間の彼への共感は覚めてくるのではないかと予想します。だからこういう感想はしごくもっとも。いくら口でいいことを言っても素地がバレちゃう。

井戸雅子さんのツイート
学童保育がなくなる。六歳の子供が14時頃帰ってくる。お母さんは17時すぎまで仕事。子供が3〜4時間一人になる。子供が心配。女の子なら別の意味で不安。事件ありましたよね。仕事やめればいいってか?橋下市長は七人子供いても共働きでなくても全然生活困らないんですね。わかります。


ところで、橋本氏を支持する人たちの多くは、「彼の現場」を「わたしの現場」と錯覚してしまっているように思います。行政改革は確かに必要です。でもそれ自体が目的化してしまったら本末転倒です。何を「無駄」と認定するのか、それは各自が携わっている現場によって異なるはずです。哀しいけれども、こういう意見もまたひとつの現場の声なのでしょう。

リア充ざまあw。オレは子供が居ないから保育所の補助金なんて税金の無駄遣いだと思う。必要な人間が自分の金でやるべき。子供の姿が見たければビデオアーカイブで見れば良い。


いわゆる自己責任論を支えているのはこういったマインドだと思うのですが、子を持つ親の立場でもこういうふうに思える人っているんでしょうか。橋下氏の教育改革を支持するということは、子どもを大人の想定下(コントロール下)に置きたいということですよね。子どものいない若い人がそう思うのはまだわかるけど、親の立場でそれを支持するっていうのは、ぼくは理解できない。子育てに関わってもなお、そう思える人って、ほんとうに子どもと向き合っているのかな。わが子も自分のコントロール下に置きたいと思う親が多数派なのだとしたら、問題は深刻ですね。

「しつけ」と言いながら実は自分(親)がラクをしたいだけだっていうことはよくあります。ぼくも多々あります。しょっちゅう鬼を召還してるし。それから、「しつけ」が子どものためであるという顔をしながら、実際は親の世間体を守るためになっているのではないかと思うことが多々あります(Ryo Yoshidaさんのツイートより)。子どもと向き合って子育てしている人ならば、本当の意味で「しつけ」をしたいと思っている親ならば、おそらくそう感じたことが必ずあるはずです。子どもと向き合うということは、自分と向き合うということです。それが教育問題の核心だと思います。

教育問題を語ろうとするばらば、まず自分が「教育」の出発点に立っているのかどうか、足下を見つめることから始めないといけません。自分の足下をふり返らずに、子どもを教育しようとするのは、子どものすることです。子どもを教育する立場に立とうとするならば、ぼくらは大人にならないといけません。

沼崎一郎さんのツイート
絶対に操ろうとしないこと、それが相手を人間としてリスペクトすること。子供も人間としてリスペクトし、操ろうという誘惑に負けず、子供を「自由」にすること、それが「教育」の出発点。


子どもが自分の好奇心を自由に広げることができるように、後ろから環境整備をしてやることが親の役割なんじゃないかと、息子が2歳になったいまはそう思います。でもこれが存外に難しいんですね。やっぱり今まで自分が生きてきた価値観とか常識とか、あるいは時間とか云うものさしが働いてしまうから。沼崎さんの言うように、それは「誘惑」だと思うんです。子どもの目線で、いま何が大事なのか、をいつも常に確認し直さないといけない。それくらい、大人はしがらみの中に生きているものなのだと実感します。

もうまもなく、ぼくたち夫婦に第二子が生まれようとしています。いったいどんな子が生まれてくるのか想像もつかないし、自分が娘とどんなふうに接していくのか全くわかりません。布団の中で、わが娘と初対面する瞬間を妄想しながらふと思ったんですが、子どもは生まれた時点ですでに親の尺度を超えてるんじゃないでしょうか。親の思い通りにいくことなんて滅多に無いのがデフォルト。それを苦ととるか(だから操ろうとするか)、楽ととるか(流れに身を任せるか)は親次第ってわけです。

子どもは生まれた時点ですでに親の尺度を超えている。だから子育ては最高におもしろい。最高にクリエイティブ。子どもとあそぶことで、子どもにふり回されることで、凝り固まった大人の脳みそがほぐされます。だから、子どもは子どものままで存在することが、それ自体が唯一無二で、貴重なんですね。

そして、そういう真理が世の中にはちっとも伝わっていないですね。世の親たちはいったい何を伝えてきたのか。しつけ=教育?教育とは強制である(キリッ?バカ言ってんじゃないっつーの。そんなことより、子育ては最高におもしろくて、クリエイティブだということを、これから子どもを持つ人たちに伝えましょうよ。

山中俊人さんのツイート
目の前の採算性だけを考えれば子育てなんかまったく元なんてとれない。だけどそれでは語れない物語がそこから生まれるから親は子どもを育てると。


ツイッターを通して友だちになったパパ友のリアルな(同時代を生きる同世代の)つぶやきには、どんな教育書よりも共感します。型にはめるための教育的観点から見れば「無駄」だけど、ぼくにとっては大事なことばです。

「教育」の出発点(大阪市の保育所面積基準緩和および学童保育予算廃止について)

「教育」の出発点(大阪市の保育所面積基準緩和および学童保育予算廃止について) 2012.04.24 Tuesday [子育て・教育] comments(2)
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子に受け継ぎたいもの(2)いい加減な親になりたい

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前回の続き。

目の前の息子と娘に、ぼくはいったい何を受け継ぐことができるのか。日々自問します。
むかしであれば、子に受け継ぐといえば家であったり財産であったり。っていうのが親の責務だったのかもしれないけれども、ぼくらはそれら財産を食い潰してしまった世代で、いま目の前の生活だけでも手一杯な経済状況では子に受け継がせるだけの遺産も無いわけで、葬式とかいったいどうすんだろうと思っちゃいます。

親として、毅然とした規範を示せることなんて、たぶん何もない。ぼくはそこまで自分に自信をもてません。というか、それでいいんだと開き直っています。子どもたちが元気でいられるような環境を差し伸べてあげることが、大人の責務だと思います。それってどういうことなのか。「正しい」ことや「正解」を教えてあげることが大人の役割なのか。ぼくは、できる限り、いいかげんでちゃらんぽらんな親になりたいと思っています。「いい加減」のできる大人でありたいと思っています。

大学における教育-教養とキャリア - 内田樹の研究室より
ほんとうに個性的な生き方をしている人間は今のメディアには出てきません。メディアのアンテナがそういう人は探り当てられないんです。でも、ほんとうはそういう人たちのはげしく個性的な生き方を見せてあげることが若者たちにとってはいちばんの励みになるんです。「なんだ、こんなふうにしてもいいんだ」と思えると、人間はほっとする。メディアがほんとうに若者の不活動的傾向を何とかしたいと思っているなら、どうすれば若者たちがまわりを気にしておどおど怯えなくて済むように定型から解放してあげることが第一の仕事なんじゃないですか。


いまの世の中が息苦しくなっているのは、いいかげんな大人がどんどん少なくなっているからです。規律を重んじ、コンプライアンスの遵守を至る所まで適用して、自らもがんじがらめになっている。「立派な大人」を演じている。自分がこんなに必死でいろんなことを我慢しながら立派な大人を演じているんだから、当然他人も演じるべきだと思うわけで、他人に対してもコンプライアンスの遵守を強いる。そこから外れた人をよってたかって糾弾する。で、ところで、なんでそんなに「決まり」が大事なんですか?

そもそもなんのためにその決まりが作られたのかを考えずに、コンプライアンス遵守という事実だけをがなり立てるのは、大人のふるまいではありません。しつけ、教育、常識。それらが存在する理由を考えることなしに、ただ子どもにそれらを押し付けるのは大人のすることではない。小学生の「言〜ってやろ言ってやろ、せ〜んせいに言ってやろ」と同じレベルのマインドセットです。それらのしつけや教育が逆に子どもを苦しめることになりはしないか。まわりの目を気にしておどおど怯えるような人格形成に寄与することになりはしないか。

増田聡さんのツイートより
オレはやっぱ「社会はけっこう甘い」ことを身体張って証明しようとする大人に惹かれるし自分もそうなりたいと思うけどなあ。「社会は甘くない」って若い人に言うことだけを生き甲斐にするような大人になりたいか?まあなりたくないわな普通


「大人なのにそんなんでいいんだ」っていう姿をさらけ出すことは、「立派な大人」を演じている人からすれば恥ずべきことかもしれません。しかし、子どもたちを定型から解放してあげるには、まず大人自身が「立派な大人」という定型から解放されていることが大きな道しるべになるのではないかと思います。

だって、自分がいい年になってみると、子どもの頃に漠然と抱いていた大人のイメージとはぜんぜんほど遠いじゃないですか。ぜんぜん「立派な大人」なんかじゃないじゃないですか。なのに、ただ年くってるからといって、さも物を知っているかのようにふるまったり、若年層に偉そうにふるまうっていうのは滑稽です。そういう口うるさい人の論拠となっているものって、常識だの、しつけだの、社会的道義だのって。ぜんぶ自分とは離れたところに責任を置くんですよね。オレを見ろって言わないの。自分はなってないくせに常識がどうの、倫理がどうのって、そんなもん言われた側からしてみれば、嘘こけって思いますよね。

いいからもう嘘こかないで、ゆる〜くやればいいじゃん。ガンバル人は頑張ればいいし、ガンバラナイ人は頑張らなくていいじゃん。他人のことをあれこれ目くじら立てることないじゃん。もっと自分のことを楽しめばいいじゃん。

内田樹さんのツイートより
みんなが上機嫌で、開放的で、innovative なマインドセットになるためにはどんなシステムを設計したらいいのか。そのためにはまず自分自身が上機嫌で、開放的で、innovative でなくちゃいけない。怒らない、恨まない、悲観しない。


いいかげんでちゃらんぽらんな大人の例として、ピエール瀧という人物がいます。ぼくは彼らのことが好きだと以前の記事(電気に魅せられて)で書きましたが、なぜ彼らがかっこいいオッサンであるかというと、彼ら自身が人生を楽しんでいるからだろうなと思います。それがどうしようもなく伝わってくるから。そういう人の周りにって、自然に人が寄ってくるんですね。それも類は友を呼ぶというか、同じように人生を楽しんでいる、あるいは楽しみたいと思っているような人たちが寄ってくる。

もうひとつ大事なのは、そうやって自分が楽しんでいる人っていうのは、他人に対して寛容になれる。自分が充足されていると、他人の揚げ足をとるようなせせこましい気分にはならない。他人を糾弾したくなるのは、自分が満たされていないからです。自分はこんなに我慢しているのに、自分はこんなに苦労しているのに、自分はこんなに不運なのに、っていう恨み妬みがある。他人にも同じような我慢や苦労を強制したくなる。そうやってどんどん規制をかけてコンプライアンスが強化されていく。いまの日本ってそういう悪循環にハマっている気がします。

「むかしはよかった」と言う老人たちが思い描く「むかし」っていうのは、いまよりもっとずっとゆる〜い感じの共同体なのではないでしょうか。むかしは、何の仕事をしているのかよくわからない正体不明の大人がふらふらしていたという話を聞きます。そういう大人がいることが許されていた。つまり共存していた。みんな違ってみんないい、というフレーズがわざわざ取り上げられる必要がないくらい、多様な人たちが共存している社会だったんじゃないかと想像します。で、そういういいかげんな大人が許されるっていうのは、自分もいいかげんな大人であるっていうことをわかっていたからなのではないかと。

本当は、ほとんどの男はいいかげんでちゃらんぽらんなんじゃないかと思います。いいかげんでちゃらんぽらんなのに、真面目なフリをしすぎたんだと思います。「立派な大人」を演じているうちに、イデオロギーと自分の感情の区別もつかなくなってしまった。本当はいいかげんでちゃらんぽらんなくせに、立派な大人のフリをして、経済成長のために原発をたくさん作った。でも本当はいいかげんでちゃらんぽらんだから何百年も後のことまでは考えていなかった。事故が起こってしまったときに、いいかげんでちゃらんぽらんな素地が露呈した。それがもうバレているのに、この期に及んでまだ真面目なフリをしているのが痛々しい。

自分がいいかげんでちゃらんぽらんであることを自覚しているならば、原発なんか作れません。いいかげんでちゃらんぽらんな奴にコントロールできるわけないから。こんなにいいかげんでちゃらんぽらんなオレたちでもなんとか楽しくやっていけるような仕組みを作ろうぜっていうのが、上機嫌で、開放的で、innovativeな態度なのではないかとぼくは思います。

財源が無いと言って血相を変えたり、増税の根拠にしたりする政治家ばかりですが、財源が無いならば無いでしょうがないじゃないですか。人口は減る一方なんだし。カネがなくても、それなりにみんなが楽しく暮らせるような仕組みを考えるのがほんとうは政治なのだと思うのですが、そういう声は永田町からは全く聞こえてきません。

「贈与経済」論(再録) - 内田樹の研究室より
かつて青島幸男は「ぜにのないやつぁ俺んとこへこい 俺もないけど心配すんな 見ろよ 青い空 白い雲 そのうちなんとかなるだろう」というすばらしいフレーズを植木等のために書きましたが、こういうセリフがさらっと言える人間が「ぐるぐる回る」活動のハブになる。そういうのが理想の社会だと僕は思っています。


なんか政治の話になっちゃいましたが、子育てもほとんど同じです。毎日子どもの顔を見ていると、どうやったら子の子が元気に育ってくれるだろうかと考えます。どうやったら定型に捕われず、まわりを気にしておどおど怯えなくて済むように育ってくだるだろうかと考えます。内田さんの言うような「贈与経済」が実現可能であるならば、そういう未来をぼくは子に与えたいなあ。よってぼくは、いいかげんでちゃらんぽらんな親になることを目標にします。

とはいえ、難しいですよね。

とくに原発事故の影響を考えると。子どもの命に関わる問題にまでいいかげんでちゃらんぽらんではいられない。(経済成長について真面目なフリをしている男どもにかぎって、放射能の問題についてはいいかげんなんですよね。)さて、どうしたものか…。

子に受け継ぎたいもの(2)いい加減な親になりたい

子に受け継ぎたいもの(2)いい加減な親になりたい 2012.04.13 Friday [子育て・教育] comments(0)
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子に受け継ぎたいもの(1)魂がカチカチになる前に

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入学シーズン。親御さんに手を取られて入学式へと向かう子どもの姿を見るとなんともほっこりとした気分になります。数年前まではそんな感傷はなかったのですが。

目の前に小さな子どもがいると、どうしても子どものことばかり考えてしまうし、なんでもかんでも子どものことや子育てに関連づけて考えてしまいます。ぼくは自分が父親という立場になることではじめてそのように考えるようになりました。それまでは自己実現や自己表現ということに興味はあっても、子どもという存在にはあまり興味も感心もなかった。それと同じように、テレビや新聞といったマスメディアが報じる情報も、基本的にそれに乗っかっているだけの世間で交わされるヨタ話も、自己実現の話ばかりで、子どもの存在が感じられないと思うようになりました。子ども番組や子育て番組は、メインとなるニュースやバラエティ番組とは完全に切り離されたポジションにあるような。別にゴールデンで子育て番組をやれっていう意味じゃなくて。テレビを観ていると、あまりにも現実の生活とかけ離れているなあとしか思えなくて。なんか、子育て家庭はある意味マイノリティというか、特殊な立場にいる人たちなのだという気分になってきます。そうすると社会に対する恨み節ばかりが募って、出てくるのは愚痴ばかり。それじゃいかんなあと思いつつ。

ほんとうのところ、子育ては特別な事業でもなんでもなく、というか人間が生きて行く上での中核をなすと言っていいくらいの仕事だと思います。家でも親戚でも町内会でも市町村でも日本でも地球でもなんでもいいんですが、自分が所属する共同体がずっと存続していくためには、子どもの存在が不可欠です。当たり前すぎるくらいに当たり前です。少子化っていうのは人口が減っていくことを意味します。物理的に考えても、共同体には子どもは欠かせない。言うなれば、子どもは親だけの所有物ではなく、共同体の所有物ということもできる。子どもは共同体の未来そのものです。ところが現在は、子どもは親のものっていう通念が、親の側からも(いわゆるモンスターペアレンツに通じる自己愛)、社会の側からも(いわゆる自己責任論に象徴される責任転嫁)云われていて、それがかえって息苦しさを助長しているように思うのです。

日本の未来が心配だとか、やれ政治がどうのこうの、北朝鮮がどうの国家がどうの、って眉間に皺を寄せて蘊蓄を語る憂国の士の口からは、なぜか子どもに関する話題はほとんど聞きません。それって、日本を憂うようなフリをしながら実は自分を愛しているだけなんです。子どものことを考えずに、自国の未来について語れるわけがないでしょう。子どものことを考えるならば、愛国心などという得体の知れないものよりも愛郷心だろうとぼくは思います。宮崎駿さんはそのことをよーくわかっている。これは彼が作るどの映画にも根底に流れている礎みたいなものだと思います。

宮さん(宮崎駿)botのツイートより
日本人の没落というときに、何が一番気になるかといったら、今後右肩上がりの経済成長が続くとか、マルチメディアがどうしたとかいうことよりも、この国にいる子供たちが元気なのかどうかということが、僕は一番気になります。


子どもたちが元気でいられるような環境を差し伸べてあげることが、大人にできること、つまりは共同体の責務なのではないかと思います。いやいや、もっと単純に、目の前の子どもに笑顔でいてもらいたい。という自然に湧いてくる感情こそが、人間をいままで存続させてきた源なんじゃないでしょうか。

でも、自分が父親という立場になるまでは子どものことがまるで見えなかったように、とくに男性っていうのは子どものことが元来あまりわかっていない生き物なのかもしれません。母性愛は女性にそもそも存在するけれども、父性愛っていうのは自分が親にならないと発動しないという話もどこかで聞きました。父親が子育てに関わるっていうのもごく最近になってようやく出始めた風潮です。仕事に邁進する「忙しい」お父さんはそれどころではなかったのかもしれません。で、だから、子どもを持たない頃の自分には当然のごとく子育てのことなんて伝わってこなかった。テレビや新聞からは子どもの影は感じないわけですし。

だからこそぼくは、自分が父親になってみてはじめて気づいたこと、はじめて得た視点というものをアウトプットしておきたいと思うのです。親バカだと思われようがくだらないことであろうが、子どものことをツイートし続けます。こうしてブログを書くのはもちろん自分のためっていうのがいちばんですが、偶然通りかかった誰かにも、子育てのことの一端でも伝われば嬉しいなという思いもあります。



魂が傷つき、病んでいる

なぜこの国の大人たちは子どもに関心がないのでしょうか。社会の場からどんどん子どもの姿が消えているからです。自分自身の成長や自己啓発には熱心でも、他者の成長には関心がない。自己実現や自己表現にばかり目がいっていたからです。あるいは自分の思い通りに育てることが教育であるとか、相手の成長だと勘違いしている。経済的に合理的で即物的な「正解」ばかりを求めてきたからです。

子どもは非効率的な生き物です。子育てをしていると、自分の時間などないし、予定通りにいくことなんてほとんどない。晩めしは早食いになるし、ラーメンは伸びたのがデフォルトです。言うことなんて聞くわけないし、意味もなく泣いたりわめいたりするし、かと思ったらへらへら笑ってたり。真面目に付き合っていたらこちらの身が持ちません。短期間での効率や合理性を求める資本主義、企業活動と子育ては相容れない。企業活動のスパンは四半期、せいぜい数年ですが、子育てや教育は数十年しないと結果はわかりません。正解なんてなかなか見いだせない。しかし、経済成長をすべての前提と考えてきた日本人は、経済的に合理的で即物的な「正解」を求め続けました。

そのおかげでぼくたちの暮らしは豊かで便利になりました。と同時に、「正解」以外のものはどんどん社会から排除されるようになってしまいました。ぼくたちの身の回りがグローバル企業で占拠され、学校がまるで企業活動のようにビジネスを教えるようになったことと、「子どもは親のもの」という通念がまかり通るようになったこと、社会の中から子どもの姿が消えていったことは相関関係があるように思います。

ちょっと話とびますが、先日ツイッター上で目にしたジャーナリスト岩上安身さんのつぶやきに深く心を打たれました。岩上さんがKGBの将校にインタビューしたときの逸話です。ソ連時代の秘密警察、人民統制、相互監視社会についてはよく知らないのでリアリティのないながらに想像するしかありませんが、ここで岩上さんが言っていることは単に政治の話というだけではなく、社会の話であり、教育の話であり、自己の内省の話であるように感じました。

岩上安身氏のツイートより下記にて抜粋。
全文はこちらにまとめられています→ 岩上安身氏、KGB将校を泣かす - Togetter
お風呂に浸かりながら、ふと考えた。ぬるいお湯でも、冷え切った身体だと、最初、「痛い」とさえ、感じる。身構えていた身体が、温まって力が抜けるまで、しばらくかかる。同じように、心身が痛めつけられていると、人の優しさや情に身構えてしまうこともあるのではないか。

これまで数多くの人にインタビューしてきたが、思いがけない変化を示した人が幾人かいた。その一人、あるKGBの将校。がっちりと鍛え上げた大男で、強制収容所や刑務所の管理の任務ばかりついてきた、という人物。彼の父親も秘密警察で、同じように監獄の獄卒だった、という。

初めは、ロシアの闇社会、組織犯罪の世界について聞いていたのだが、次第に囚人を閉じ込めている看守の側の話に。看守という人生について、耳を傾けているうちに、彼らもまた囚われの身なのだと気がついた。彼は愚痴めいた話し方は一切しないのだが、心の奥にカチカチに固まった塊を抱えていた。

文字通り、彼は崩れ落ちそうになり、その場に同席していた私の友人のロシア人ジャーナリストが、とっさに彼を抱きとめた。しばらく、その友人が泣き崩れる将校を抱きしめ続けた。思いがけない場面展開に、僕は驚いたが、すぐに悟った。彼は「話す」ことで、「崩れた」のだと。

僕は彼に対して、特別、優しい言葉や、温かい言葉をかけたわけではない。ただ、普通に彼の話を聞いていただけだった。それでも、きっと「こたえた」のだろう。国家権力を背景に、人を暗い牢獄に閉じ込め、時に痛めつけるのを仕事とする人生は、彼自身を痛めつけてきたのだった。

大きな、逞しい体の中に、彼は涙をいっぱいに蓄えていた。それがあふれ出てしまったのだろう。感心したのは、友人のミーシャの素早い反応だった。間髪入れず、泣き崩れる男を抱きとめ、その後も泣き止むまで、ぎゅーっと無言で抱きしめ続けた。その痛みなら、わかっているよ、という様子で。

ロシアは傷ついている、と思った。横暴なまでに力を振るい、他者を支配しようとし、社会の様々なレベルで権力闘争を繰り広げてきたロシアは、魂の深いレベルまで、傷ついていると。

ベラルーシ大使のスピーチを聞いて、ロシア語の響きを思い出し、風呂に浸かり、さらにこのツィートを書く直前に、公務員に対して、あなた方は国民に命令するのだ、と訓示したという日本の市長のエピソードを読み、昔の記憶が引っ張り出された。ロシアだけではない、日本も、傷つき、病んでいる。

他者に命令を下し、従わせる権力の究極の形は、監獄の獄卒である。それは、国家権力の凝縮した姿でもある。「国民に命令する公務員」の、煮詰めた姿とは、そのようなものだ。そういう者が、歌までを人に強制する。国家権力への従属だけではなく、歌うことさえ。無粋きわまりないことに。

力を乱用して、服従を強制するものは、憎まれ、恨まれこそすれ、決して愛されない。尊敬も、感謝もされない。横暴な力を振るいながら、自ら、その身と心を頑なにし、強張らせる。散々、人を泣かせ、その挙句、自らもいつか泣く。必ずや泣く。


権力を乱用することは、力の犠牲になる側だけではなく、力をふるう側の身と心を頑なにし、泣くことになる。これって、命(魂)をどう受け継いでいくかという点で、全てに繋がる話だと思ったのです。社会の中から子どもの姿が消えていくことは、その社会が魂の深いレベルで傷つき、病んでいるからなのだと思います。岩上さんの言う通り、日本も、傷つき、病んでいる。

この話がなぜぼくの心に響いたのか。内容がリアルでロジカルだからではありません。語り手の根底にあるのが親の視線だ(とぼくは感じる)からです。命を受け継ぎ、次に引き渡す者として、現状を憂慮し、子の幸福を願うという親の視線。ツイートの背後に、ぼくは勝手に岩上さんのお孫さんの存在を想像します。もちろん想像にすぎず、なんでもかんでも子どものことや子育てに関連づけて考えてしまう、ぼくの妄想かもしれません。というかその可能性の方が大きいでしょう。でも、いまぼくがいる場所からは岩上さんの言葉はそう見える。子育ての最中にいる者として、その感じたことをアウトプットしておこうと思いました。

目の前の息子と娘に、ぼくはいったい何を受け継ぐことができるのか。日々自問します。


いい加減のできる大人

子どもたちが元気でいられるような環境を差し伸べてあげることが、大人の責務ではないかと先ほど書きました。それってどういうことなのか。「正しい」ことや「正解」を教えてあげることが大人の役割なのか。ぼくは、できる限り、いいかげんでちゃらんぽらんな大人になりたいと思っています。いいかげんでちゃらんぽらんな姿を見せることが、親としてできることじゃないかと思ったりもしています。

大学における教育-教養とキャリア - 内田樹の研究室より
ほんとうに個性的な生き方をしている人間は今のメディアには出てきません。メディアのアンテナがそういう人は探り当てられないんです。でも、ほんとうはそういう人たちのはげしく個性的な生き方を見せてあげることが若者たちにとってはいちばんの励みになるんです。「なんだ、こんなふうにしてもいいんだ」と思えると、人間はほっとする。メディアがほんとうに若者の不活動的傾向を何とかしたいと思っているなら、どうすれば若者たちがまわりを気にしておどおど怯えなくて済むように定型から解放してあげることが第一の仕事なんじゃないですか。


これは内田樹さんがメディアについて言及した箇所ですが、おんなじことがぼくたち大人に対しても云えると思います。ぼくは自分の子に、魂まで傷つき、病んでほしくない。自ら、その身と心を頑なにし、強張らせてほしくはない。おどおど怯えなくて済むように定型から解放してあげることが、親として、大人として第一の仕事なのではないかと思います。いいかげんでちゃらんぽらんって言うと聞こえが悪いかもしれませんが、「いい加減」のできるってことですよね。魂がカチカチに固まってしまわないように。

長くなったので続きはまた次回。
子に受け継ぎたいもの(2)いい加減な親になりたい

子に受け継ぎたいもの(1)魂がカチカチになる前に

子に受け継ぎたいもの(1)魂がカチカチになる前に 2012.04.12 Thursday [子育て・教育] comments(0)
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子どもが見る彼岸

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前回のエントリー「なまはげの潜在的需要」を愚樵さんがおもしろがってくださり、コメントを残してくれた。おふざけ半分の記事だったのが、なるほどそういう視点もあるのかと、一気に哲学的に思えてきた。

人間は彼岸より来て此岸にいたり、彼岸へと返る

子どもって言うのは彼岸に近い存在ですよね、大人よりずっと。中国ではお化けは「鬼」になるらしいですが、いずれにしても両者は彼岸の存在。これから此岸の只中へ向かおうとする子どもは、彼岸の存在であるところの「鬼」を恐怖する。が、此岸の只中へ来てしまうと、つまり、大人になると「鬼」はあり得ない遠くの存在になって、恐怖の対象でなくなる。


「人間は彼岸より来て此岸にいたり、彼岸へと返る」
これ、いい台詞だなあ。仏教の教えについてよく知っているわけではない(というかほとんど知らない)けれども、なんとなく「彼岸」「此岸」(あるいはもっとわかりやすく「あの世」と「この世」)という感覚は頭のどこかにうろうろとつきまとっている気がする。そういうものが在ることを普段とりたてて意識しているわけでもないけれども、無意識のうちに在るものとして認識しているような感覚。

彼岸会(お彼岸)という、祖先を供養する行事がある。この行事を彼岸と呼ぶのは、この期間中は「彼岸」から「此岸」への門が開くという意味なんだろうか、よく知らないが。そもそも仏壇の無い核家族で育ったぼくは、お彼岸という行事自体もほとんど経験が無く、何をするものなのかよくわかっていないのだ。ちょうど一昨日は彼岸の入りだったことを妻から聞いて知ったぐらい。共通認識の土壌が違うとはこういうことかと思う。
彼岸 - Wiki

ともあれ、「彼岸」の存在を信じている(それがなぜなのかは自分でもわからないが)ぼくにとって、「人間は彼岸より来て此岸にいたり、彼岸へと返る」という台詞はなんとなく心に響いたし、子どもが彼岸に近い存在であり、であるから同じく彼岸の存在である鬼が見えるという説には、なるほどなあと思ってしまった。

愚樵さんは、さらに関連記事を書いている。
霊から貨幣へ(6)〜〈霊〉の潜在的需要 その1 - 愚樵空論

ぼくが書いたのは、子どもを諌めるために親が「鬼(なまはげ)」を利用しているという世俗的な旨の記事であったが、この行為は「子どもという彼岸に近しい存在が、近いゆえに彼岸を信じるという普遍的特性を利用して、「なまはげ」を子どもたちを此岸に適応させるためのツールとして使う」のだという解釈。おもしろい。実におもしろい。

「此岸に適応させるためのツール」とは的を得たり。此岸で生きていくためには此岸の技法を学ぶことが必要であり、それを教えるためのツールなのだ、と解釈するとなんだかもっともらしい。けれども実際に親はそんなこと考えてはいない。鬼(なまはげ)の登場は、あくまでも「親の都合」に合わせた、自分勝手な願いであることはわかっている。わかっちゃいるけどやめられない。

そんな親としての愚痴に、愚樵さんはこう応える。

「なまはげ」もまたその地域の霊的作法だっだということではないでしょうか。「親の都合」はそうでしょうけれども、それだけに留まらない感じも強くありますよね。その留まらない部分が霊的作法の部分だったのでしょう、たぶん。現代ではそこのところが忘れられて、「親の都合」だけが残ったのではないでしょうか。


霊的作法。
内田樹氏はこの記事で「それぞれの社会集団は、「恐るべきもの」と折り合うために、それぞれ固有の「霊的作法」を持っている」と述べている。子が生まれればお宮参りをし、建物を建てる際には地鎮祭を執り行い、天皇陛下は五穀豊穣を祈る。それってべつに科学的根拠があるわけではない。そうせずにはいられない、ということじゃないかと思う。そしてその感覚っていうのは実は大事なんじゃないか。

かつて子どもの頃は見ていたはずの彼岸。ぼくたちは、大人になるにつれ「そんなガキな夢を見ることから卒業」し、物理法則が支配する「この世」に慣れていく。そのようにして彼岸から遠ざかって行く大人にとって、鬼(なまはげ)っていうのは、子どものためだけではなく大人自身が「彼岸」と「此岸」を繋ぐためのツールだったのかもしれない。だからこそ、伝統行事として今日まで受け継がれてきたのかもしれない。

原発供養 - 内田樹の研究室より
私はこの宗教的態度を日本人としてきわめて「伝統的」なものだと思う。
ばかばかしいと嗤う人は嗤えばいい。



子どもが見る彼岸

子どもが見ているであろう「彼岸」とはいったい何なのか。盒狂三賚困気鵑痢悄岼」と戦う』は、まさに子どもが見る「彼岸」を描いた小説だった(と、ぼくはいま解釈した)。行間から、そんな夢見る子どもたちへの愛情が溢れていた。



刊行当時の感想文がここにあった。そう、ぼくはこの小説を読み終えた時に息子を抱きしめたい気持ちになったのだ。それこそ、なにも願わずに、ただぎゅっと。

親になってはじめて子どもへの愛情というものを知った。子どもへの愛情っていうのは、此岸を支配する物理法則よりも、ずっと「彼岸」に近い質感のように感じる。「彼岸」へと向かう子どもたちの姿(きっとそうなんだろうと想像することで)を見て、同じく彼岸に近いところの愛情が誘発されたのかもしれない。もし、そこのところでつながっているのだとしたら。


息子が「抱っこ」とせがむ。
此岸の用事(雑事)で面倒なときもある。しかし、息子を抱っこしたときの、息子のにまっという笑顔は何ものにも代え難い。そんな気持ちを味わえるのもあと何年だろうか。いまはこの限られた時間を大事にしたい。この質感をいつまでも覚えておきたい。

子どもが見る彼岸

子どもが見る彼岸 2012.03.19 Monday [子育て・教育] comments(2)
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なまはげの潜在的需要

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前回の記事で「なにも願わない手を合わせる」なんてことを書いたが、ぼくはそのように「削ぎ落とされた姿」にはなれそうにもない。なにかを願わずにはいられないから。子どもができてから、なによりもまず家族の安寧を願うようになった。

というと聞こえはいいが、実際の子育ての現場は戦場である(特に男児の暴れん坊ぶりにわが家はいつも修羅場ラバンバ)。ツイッターで愚痴でもこぼして同じように苦労されている子育て世代の方々と共感しなければやってられない。

子どもが2歳をすぎる頃から、こう感じることが多くなった。

子育てに必要なもの
1. 忍耐力
2. 寛容力
3. 鬼(お化け可)

鬼にはほんとお世話になっている。
子どもが言うことをきかなくて困り果てたとき、最終的にはいつも鬼にご登場願う。なにも願わずに手を合わせる暇などない。一刻もはやく恐ろしい鬼が聞き分けのない子を諌めてくれることを願う。まあなんと自分勝手な願いであろうか。

「鬼来るよ」

この台詞がこれほどの効果を発揮するとは。子どもが0歳の頃、ぼくたち夫婦は育児漫画『ママはテンパリスト』を読みげらげら笑っていた(この漫画はほんとうにおもしろいよ)。鬼がのり移ったという設定で迫真の演技を見せる東村先生の姿や、それを本気で怖がって泣くごっちゃんがなんとも可笑しく愛らしいなあと思っていた。しかし、しかしである。わが子が2歳となるあたりからまさかわが家にもこんなに頻繁に鬼が来ることになろうとは。そして鬼の効果がこれほど絶大だとは。

鬼ありがとう。鬼こわくてありがとう。
鬼なしの生活なんて考えられない。神話の国ニッポン。


鬼をも超える(らしい)なまはげ

そんなことをふとツイッターでつぶやいたら、なんと上には上がいるものである。こんど秋田からなまはげのお面を取り寄せするというママがいた。ぶっ。なんと本格的な。そ、そんなにですか。面をお取り寄せして活用する夫婦の光景を思い浮かべて笑ってしまうとともに、いま息子は2歳3ヶ月だけど(そのママの息子はわが家の息子より半年ほど年上である)、これからそんなに手に負えな度が増していくのかと末恐ろしくも思った。

さらに、なまはげの画像をプリントアウトして触ってもらいたくないところに貼ってるという人も。効果は絶大だそうだ。なんだなんだ、なまはげってこんなに育児シーンに出没するものだったのか。知らないのはぼくだけだったのか。

ところでなまはげってどんな顔してるんだっけ、と思い画像検索してみた。


(画像はなまはげ館より)

こわすぎ(笑) こりゃ泣くわ。

なまはげの需要を肌で感じた。


なまはげとは

そういえばなまはげの行事ってなんとなくしか知らない。子どもの頃、秋田県(能代市)に住んでいたことはあるが、家になまはげは来なかった。さて、これからなまはげにはなにかとお世話になるんだから、いったいどんな奴なのか知っておくのが礼儀だろうと思い、この機会にぐぐってみた。

なまはげ館より
ナマハゲ行事は毎年、大晦日の晩に男鹿半島のほぼ全域で行われます。ナマハゲは真山・本山に鎮座する神々の使者と信じられており、年に一度各家庭を巡り、悪事に訓戒を与え、厄災を祓い、豊作・豊漁・吉事をもたらす来訪神として「怠け者はいねが。泣く子はいねが」と練り歩く、古くから伝統を受け継ぐ民俗行事です。昭和53年に「男鹿のナマハゲ」の名称で国重要無形民俗文化財に指定されています。

どうやら鬼じゃなくて神々の使者らしい。厄災を祓い、豊作・豊漁・吉事をもたらす来訪者として、来訪を受けた各家では丁重にもてなすとのこと。なまはげ 男鹿半島に伝わる民族行事 - あさかぜネットには、なまはげ由来として4つの説が載っている。

それらの説は説として、しかしこの行事が今日まで受け継がれているほんとうの理由はこれじゃないだろうか。

なまはげ 男鹿半島に伝わる民族行事 - あさかぜネットより
子供にとって、これほど恐ろしい事はありません。
これを体験した後は、子供が言うことを聞かないときに、「なまはげ」というキーワードを口にするだけで、約99% の子供は言うことを聞くようになるといいます。


ちょ、99% って。
しかもキーワードを口にするだけでですと。

ふむ。子どもにとって、これほど恐ろしいことはないでしょうが、大人にとって、これほど便利なことはありません。効能は約1年間なんでしょうか。夢のようですな。

なるほど、だからなまはげのお面はこんなに恐いのか。節分の時期に巷にあふれる鬼のチャラチャラしたお面とは格が違う。職人さんが精魂込めて作っているのが伝わってくる。なぜなら、なまはげのお面は恐ろしくあれという、子を持つ親たちの潜在的需要があるからなのだ、きっと。

そしてそんな潜在的需要は全国至るところの親たちにも大いにある。
なまはげ、日本全国的にやったらいいんじゃないか。

そんな、恐怖で言うことをきかせるなんて、それでほんとうにいいんですか、と子来先生に聞きたい気もするが、でもムリだ。もうぼくの心はなまはげの虜になっている。なまはげさま〜、どうか〜。なまはげさま〜。寝室からそんな声が聞こえてくる日も近い。


世界のなまはげ

おまけ。
「なまはげ」でぐぐっていたら、こんな恐ろしいものを発見した。
気絶するほど恐ろしい! 北欧の「なまはげ」は大人もビビるレベル - ロケットニュース24

やること一緒じゃないですか(笑)





追記(3/16)
コメント欄にて珍説を披露してくれた愚樵さんが関連記事を書いてくださった。
霊から貨幣へ(6)〜〈霊〉の潜在的需要 その1 - 愚樵空論

おもしろいので次のエントリーにて。

なまはげの潜在的需要

なまはげの潜在的需要 2012.03.14 Wednesday [子育て・教育] comments(2)
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災厄は突然やってくる

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災厄というのはほんとうに理不尽に起こるものなのだな…

この一年、誰よりも息子に対して時間と愛情を注いできたのは妻である。
一緒に暮らしているぼくが言うのだから間違いない。
1歳から2歳になり、目まぐるしい成長を続ける息子。パワー全開の遊びの相手をし、ときに手に余るほどエンドレスな要求の相手をし、ときに応えきれない自分への自己嫌悪に陥りながら、さらに第二子の妊娠も重なり、身体的にもつらい時期と重なりながらも、ずっと息子と向き合ってくれている。ほんとうに感謝している。

先日、山形市が記録的な豪雪に見舞われたその夜、妻のiPhoneが起動しなくなった。
画面にはリカバリー(復元)モード。PCにつなぐと「復元しますか」の表示。



画面の指示通り復元すれば機器は治るだろう。
しかし、自宅のPCが不調であったこともあり、昨年の3月以来バックアップをとっていなかった。つまりこの一年撮りためていた写真が消えてしまうのだ。
まずはソフトバンクとAppleに問い合わせるが、復元するしかないとの返答。これは想定内。最後の手段として、一縷の望みをかけてデータ復旧業者に問い合わせる。がしかし、リカバリーモードのiPhoneからはデータ復旧できないとのこと。

喪失感がハンパない。

たしかにバックアップをとっていなかったのだから仕方ない。
そのうち自宅用のMacを新調するからその時には整理しようと思っていたのだが…。
しかしなぜ妻のiPhoneなのか。
なぜよりによって、この一年、誰よりも息子に対して時間と愛情を注いできた妻の、その一年間の写真なのか。なぜ、妊娠と子育てでただでさえ苦労をしている妻をさらに痛めつけるのか。
なぜこんな理不尽な災厄が…。恨み節が止まらない。

皮肉にも、ぼくは自身のiPhone写真データを数週間前に会社のPCにバックアップしたところだった。なぜ妻のもしなかったのか。悔やんでも悔やみきれないが、すべてあとの祭り…。夫婦で写真を眺めるのが老後のたのしみだったので、しばらく立ち直れそうにありません。


と同時に思うのは、昔は写真なんてあまり無かったわけで。
ぼくが子どもの頃の写真も、そんな毎月毎日分あるわけじゃない。ぼくら夫婦が2年間で撮影した子どもの写真はもうすでに何千枚。それほんとに全部見るのかって感じだけど。デジタルになってから圧倒的に撮影枚数は増えた。とりあえずデータをぶっこんでいるだけで、なかなか整理できていないけれど…。でも、昔に比べたらとんでもない容量の写真が「記録」されている。今後はクラウドサービスが普及することでバックアップもより容易になるでしょう。いったいどこに「記録」されているのかよくわからないような…それこそ宇宙データベースの一部というか。

と、「記憶」を「記録」するのはどんどん容易に、そして便利になっていく。それと呼応するように、そのデータが無くなったときの喪失感というリスクも増えていく。モノが増えれば増えるほど、執着心が生まれる。ましてや思い出と結びついたモノは捨てられない。

これって、ひょっとして便利という名のシステムに依存しているのではないか。なんて、ふと思ったりして。断捨離すれば、もっと軽やかになるんでしょうか。それはわからないし、思い出のモノはやっぱり捨てれそうにないのですが。昔のひとは思い出っつったら文字通り思いしかなかったんだよなあ、なんて思いながら。あるいは魂が身体から離れるときが来たら、いつでも思い出の場面にアクセスできるようになるのかな、とか。

どうしようもないとはわかっていても、まだ復元ボタンを押すふんぎりがつかないので、動揺の気持ちのままに書いてみた。
これからまた撮りまくってバックアップしまくってやる!
クラウドサービスを絶賛駆使してやる!


災厄は突然やってくるもの。それも理不尽に。
東日本大震災で思い出のアルバムはもとより、家や家族を失った人たち、いまも避難生活を余儀なくされている人たちの喪失感は、おそらくぼくには想像もできないほどのものでしょう。その痛みは当事者でなければわかり得ない。
それに比べれば、写真データの喪失などは小さな痛みかもしれません。ただし、これもぼくら夫婦自身にしかわからない。
他人にはわかり得ない(ことがある。というかほとんどのことはそうである。)ということがわかったときに、じゃあ自分も他人に対しては、寄り添うことぐらいしかできないよねってはなしになる。自分が自身を当事者として認識できたときに(それは自らを俯瞰で捉え、マッピングするということにつながるのかもしれない)、はじめて他者に対して寄り添うことができるようになるのかもしれないと思いました。

災厄は突然やってくる

災厄は突然やってくる 2012.02.06 Monday [子育て・教育] comments(2)
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