思想や良心という思い込みが生む差別や偏見

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田中ゆうたろう氏の場合

ツイッターで話題になっていますが、これはちょっとあまりにもアレだったものでぼくも反応してしまいました。待機児童問題に関して、杉並区の自民党議員が全国の子供を持つ親に喧嘩を売っているようなブログを公開。

一抹の忸怩なき待機親に一抹の疑義あり - 杉並区議会議員 田中ゆうたろうブログ

突っ込みどころがありすぎて唖然とします。
しかも、こういう記事を書く人が、議員として「信念:子育て先進地域・杉並を目指します」と謳っている事実には、くらくらと目眩がしてきますね。同じ杉並区の区議会議員もこのことを指摘しています。

堀部やすし 杉並区議会議員のツイート
思想・良心は自由だと思いますが、ご自身が以前示していた公約と著しく乖離した主張をされることには違和感が。この点は説明責任を果たしてほしいところです。


そうそう。こういう言説って、べつだん珍しいものでもなくて思想・良心の自由だし、個人の見解としてバカなオヤジが書斎で騒いでるだけならスルーなんですけどね。区議会議員がブログに公開しちゃうっていうのがなんとも…。親としての資格だの覚悟だの言ってますが、親になる資格なんてものを制度化するつもりなんでしょうか。

かまだメンバーさんのツイート
道徳教育でイジメやらなんやらの問題が解決するってのは、そういった問題の原因を「子どもの悪意や心の問題」に求めて、環境やらなんやらの要因をガン無視してる発想からきてるわけだから、笑っちゃうよね。


議員の仕事とは、心の問題を解決することではありません。社会の環境整備をすることです。そのためには、自分の担当区に暮らす人たちの多種多様な意見を聞く必要があります。その中には、自分の思想・良心とは相容れない意見もあるかもしれない。多様な意見を取りまとめて折り合いをつけるのが議員の仕事です。

「お願いです。私達の子育てをどうか手伝って下さい」という態度がマナーとして待機親に求められる社会が田中氏の理想とする子育て先進地域なんですかね。そんなところで子育てしたくないと思う親が圧倒的多数だと思いますけど。

「私が親なら、家で子供に暖を取らせつつ、待機児解消のためあらゆる施策を講ずべき旨、区に陳情書でもしたためるであろう。」って、そんなことは既にやってるのに全然解決しないからの抗議だろうに。区議会議員という立場でありながら、区民の意見を聞くという姿勢が感じられない点に、この傲慢な記事の問題点があると思います。


自民党の場合

区議会議員なのにこんなことをブログに書いちゃう田中ゆうたろうという人物が単にバカなだけだという話ならいいんですが、片山さつき氏の生活保護叩きや野田聖子氏の中絶禁止案など、国会議員も似たようなレベルであるというのがまたなんとも…。こういう人たちが議員になるようなバックグラウンドがあるわけで、先の自民党の圧勝とか、そういう世間の空気みたいなのを考えると絶望的な気分になります。

右翼化したいまの自民党議員たちは、自分たちが正しいと信じていて、自分たちが美しい日本を取り戻すと思っているようですが、彼らの言う「正しい日本」は、ぼくの感覚とはずいぶん乖離しています。彼らに共通しているのは「俺たちがやってやる」という気合いであると同時に、少数派に耳を傾けることにはあまり配慮しない傲慢な態度であるという点も気になります。

先の田中氏の記事のように、自分が正義の側だと思っていて、それを根拠に他者を貶めるという行為のタチの悪さったらないわけですが、本人は絶対にそのタチの悪さに気づかない。あるいは自覚のないままにそのようにふるまう人のほうが多いかもしれない。自分が正義だと信じてやまない人は、他人からの意見にも耳を貸さないでしょう。世間には多種多様な人がいて、自分の思想・良心では理解できないこともあるのだという「多様性に対する寛容さ」が社会的コンセンサスを得ないかぎりは、正義を標榜する人に何を言っても無駄だろうと。

とはいえ、「正しい日本人」なら誰でも心に持っている美しい日本をとりもどす、というのがいまの日本の主流みたいだから、多様性への理解が進むのは困難でしょうね。主流=多数派とは限らないけど、そういう政党が実権を握っているわけだから。「子育ては本来は家庭で行うもの」という田中氏が強く主張する考えが、いまの自民党の基本スタンスです。

その背後にどういう思惑があるのかは各自の想像にしかよりませんけれども、ぼくは田中氏のブログにも通じるようなグロテスクなものを感じてしまう。「よくもまあ貴君のような未熟者が結婚したなあ、子供まで授かったなあと驚き呆れる」…これがこの人の本音なんだろうなあというのが文章の端々から透けて見えるわけで、それが不快なわけです。だいたい「子供を持つ資格」なんて存在しない。あなたが自分自身に言い聞かせるのは勝手だけど、他人に強いるものではない。姑による嫁いびりと変わらないレベルですよ。

生活保護の件も、中絶禁止の件も、彼らはぼくたちに「正しい日本人」たれ、と言っている。けれども、彼らの言う「正しい日本人」は、ぼくの感覚とはずいぶん乖離しています。先の衆院選で自民党を大勝させ、アベノミクス効果で内閣支持率が上昇しているという世論調査のもととなった有権者の人たちは、そこのあたりをどう考えているのか、世代や性別ごとの統計を知りたいです。「正しい日本人」たるために、ぼくらを縛るような法案が今後増えそうだから…。

というような自民党への嫌悪感を書くと、サヨクとかいうレッテルを貼られてしまいそうですが、ぼくはイデオロギー原理の闘争にはあまり関心がありません。
ぼくが問題だと思うのは自民党そのものの存在ではなく、かつての自民党といまの自民党の実像がべつものであるということで、先の衆院選で自民党に投票した人の多くはそのことを理解しないままでいるのではないかという懸念にあります。先鋭化する国民感情を理由に右翼的な外交政策を大々的に掲げ(外交と言っても威勢がいいのは対アジアだけですが)、一方で内政はといえば高度経済成長時代の焼き直しのような公共事業バラマキ政策。内政に干渉するアメリカの影響があることは疑いようがありません。

そして、いま日本には、これに対抗する左派勢力というものが存在しません。

じこぼうさんのツイート
ぼくは戦後民主主義の支持者で、基本的には自民党の長期政権の時代を、保守の立場に立ちつつ左派の意見も取り入れつつ、バランスよくやってきたいい時代だったと思うわけですが、最近はそのバランス感覚が批判されていて、「左派掃討こそ正義」みたいな過激さが「保守」になっているのかしら。


自民党と社会党が均衡を保っていた55年体制とは、そのような時代だったのかもしれません。右翼も左翼も「自分が正しい」と主張する点においては変わらないけれども、自民党は中道右派の国民政党として両者の意見を汲み上げていた。

いまの自民党は、かつての自民党のような国民政党ではなくなってしまいました。保守本流とは言い難い。かつての自民党から受け継いだものといえば、対米従属の政策ぐらいで。日米同盟こそが肝であるとしか言わない外交が、自立した主権国家としての態度なのかどうか甚だ疑問なのですが、各種マスコミは安倍首相の日米首脳会談を絶賛し、視聴者はそんなものかと思ってしまう。

そうやって、自分では右傾化してるなんて気づかないままに、いつのまにか日本は国際社会から孤立していくという可能性を否定できないような空気が、いまの日本を覆っているように思えてなりません。
(過去記事)ふわっとした空気としての右傾化


ネット右翼の場合

先日、新大久保や鶴橋で行われた嫌韓デモの様子がTLで回ってきました。「朝鮮人を殺せ!」だの「ゴキブリ!」だの、とてもデモとは言えないような、読むに耐えない罵声が一方的に飛ぶヘイトスピーチだったようです。

新大久保反韓デモに遭遇した人たちの感想まとめ - Togetter
「日韓断交」ほぼ関係なし! ひたすら罵倒とヘイトスピーチだけの鶴橋デモ(2・24) - Togetter

韓国政府に対する抗議と、在日韓国人に対する嫌がらせの区別ができないのでしょうか。こんなものはデモでも表現の自由でもなんでもなくて、ただの差別です。でも、こういうことが、現実として起こっている。

このようなヘイトスピーチを行うネット右翼の象徴であり「行動する保守」の最大勢力である『在特会』については、安田浩一さんの著書『ネットと愛国』が非常に丁寧なルポで核心をついている良書だと思いますので、ご一読をおすすめします。
(過去記事)『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』安田浩一著を読んだ。

ネット右翼の主張って、「朝鮮人は美しい日本の富を不当に盗んでいる」「在日企業が蔓延っている」「だから朝鮮人は日本から出ていけ」「俺たちの言うことが理解できないのは朝鮮人だ」となるみたいですが、これってまるっきり中ニ病ですよね。小中学生ならともかく、いい年した大人が白昼堂々これをもっと下品にした罵声を喚き散らすような国はぜんぜん美しくない。

彼らの言うように朝鮮人が日本から出て行ったとして、残った彼らとはぼくは仲良くできそうにありません。ともに手を取り美しい日本を作ろうとも思えない。

ネット右翼はインターネットで「朝鮮人の真実」を知り、その不正を糾弾し、また無知な人々に啓蒙するために街宣活動をしているそうです。もし仮に、彼らのいう通りに朝鮮人が日本から消えたとしたら、…彼らの信奉するネットの世界にはまた新たな「真実」が出回るでしょうね。彼らが欲しているのは美しい国の実現ではなく、排斥して鬱憤を晴らす対象なのだから。

ネット右翼とは、愛国の名を借りた鬱憤ばらしに過ぎないと思います。彼らが守りたい日本って何なのかぜんぜん見えてこないし、彼らは保守でもなんでもない。彼らの行為はただのレイシズムであるということを、保守本流の方々はすでに見抜いていると思います。

実際に右翼陣営は、在特会をはじめとするネット右翼と自分たちの間には距離があると感じているようです。新右翼を代表する「一水会」の顧問である鈴木邦男氏は排外主義的な差別意識を「最も嫌悪して憎む」と言っています(出典)。

営利団体としての右翼=職業右翼の実像を書いたという本『右翼という職業』のレビュー記事でも、そのような指摘がされています(この本おもしろそうなので読んでみたい)。
ネット右翼は、本当の意味での右翼ではない - エキサイトレビュー


エセ保守って、自己を正当化するために、見下す相手を必要とするものなんでしょうね。昔はサヨクを見下してればよかったけど、サヨクが弱体化したいま、見下すターゲットを無自覚に探してしまうっていう。朝鮮人だったり、生活保護受給者だったり。排斥して鬱憤を晴らす対象がいなければ成り立たない保守活動なんて、保守ではないと思います。

っていうか、他にやることが無いから「ネットで真実」なんかを探しちゃうんでしょうかね。白昼にいい年した大人がヘイトスピーチを垂れ流すなんて、ほんの10年前なら考えられないですよね。世知辛いといいますか、人生の楽しさっていうものが相対的に減っているのかもしれないなと。


保守やリベラル、あるいは右翼や左翼という言葉

保守やリベラルという価値軸。あるいは右翼や左翼という相対軸。時代とともにその意味合いや内実は変化しており、ぼくらもそれらの言葉が内包する意味をアップデートしなければなりません。けれども、喋り手の立ち位置によって、それらの言葉の使われ方とその意味するところが違いすぎるから、どのようなニュアンスで使っているかをきちんと捉えない限りは、あまり意味の無い言葉になってしまっています。「分かりやすさ」を至上とするテレビの情報に慣れてしまった人にとっては、それらの言葉はただのレッテルと化しています。

だからあまり使いたくないし、ふだんの会話の中に出てくるような類いの言葉でもない。でもそれらの言葉って、ほんとうはもっと身近にあっていいはずです。イデオロギーを対立させるために存在しているわけじゃなくて、自分と社会と政治との立ち位置を確認してマッピングするために。右翼あるいいは左翼というレッテルを貼って、そこに属するものを一緒くたにしてしまうのは差別や偏見の構図と変わりません。ネット右翼にだっていろんな人がいる。言葉はもっと柔軟でしなやかであっていいはずです。

言葉は暴力にもなるし、その逆にもなる。

ぼん(Bong_Lee)さんによる、ネトウヨと朝鮮学校の補助金問題などに関するコメント - Togetter

他人を見下すための道具として、あるいは他人に対するレッテルとして用いられるのも言葉であるし、人の気持ちをすくいあげたり寄り添ったりするのもまた言葉だったりもします。放射脳という言葉も、あるいは御用学者という言葉も、安易なレッテルの言葉ですよね。


おそらく誰の中にも在特会の片鱗はあります。多かれ少なかれ、石原慎太郎や橋下徹の片鱗はあります。あるいは、誰の中にも日教組の片鱗はある。山河を愛し、国土を思う気持ちは誰にでもある。人権を尊重し、平和を訴求する気持ちは誰にでもある。それらは0か1かという極端なものではないし、そもそも対立する項目ではありません。

右翼とか左翼とかいうイデオロギーが人を分かつのではありません。ぼくらの中に依然として残されている「レイシズム」の欠片。嫌韓デモのように口汚く他人を罵ることはなくとも、オブラートに包んでやんわりとしながらも、どこかで他人を見下しているような心の欠片が存在するかぎり、在特会は存在し続けるでしょう。

寄せては返す波のように、排外主義は無くならない。
ヨーロッパでは右派が勢力を増しているという話も聞くし、昨年7月にノルウェーで起きた痛ましい事件は記憶に新しいところ。寛容な移民政策で知られる北欧で、数十人の死者を出すテロが起きたということがショックでした。アンネシュ・ブレイビク容疑者は、反多文化主義「革命」に点火するための行動だったと主張。

この事件を受けて出されたというノルウェー首相の声明が、ぼくは忘れられません。「テロと暴力にはさらに民主的に立ち向かい、非寛容と戦い続ける」というような内容でした。

ノルウェーの悲劇を乗り越えようとするストルテンベルグ首相のスピーチ全文 - 情報流通促進計画より
私たちのこの事件に対する答えはより民主的に、より開放的に、そして人間性をより豊かにする、ということです。

これらの哀悼の意が遺族の皆さんの損失を償うことはできません。何を持ってしても、皆さんの愛する人を取り戻すことはできません。しかし、人生が闇に閉ざされた時、支えと慰めが必要です。いま、皆さんにとって、人生が最も暗い闇に閉ざされた時です。私は、遺族の皆さんに私たちが皆さんに寄り添っていることを知ってほしい。


ぼくらの中に存在する「レイシズム」は、無くならないかもしれない。けれども、それを認識して、それと付き合って、それを乗り越えることはできるはずです。これからも在特会への取材を続けていくという安田氏や、一水会のメンバーがブログに掲載した差別的な言説を自らの問題として反芻する鈴木氏の態度、あるいはノルウェー首相や国民の態度に、そのヒントがあるような気がします。


思想や良心という思い込みが生む差別や偏見

思想や良心という思い込みが生む差別や偏見 2013.02.27 Wednesday [妄想] comments(0)
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杜で会う(社会のことや貨幣のこと)

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とある人から聞いた話。

社会という言葉は、「お祭りの日に、共同体の人々が鎮守の森に集って共同体のことを協議し、いろいろなことを相談すること」なんだって。
信仰、暮らすこと、共同体 がちゃんと目に見える感じ、さわれる感じ。
「杜で会う」から、社会。


社会という言葉の語源として正しいかどうかはともかくとして、すごく納得しました。
「杜で会う」から、社会 って、杜と社で字も違うし、こじつけっぽい気もするけど、でもなんかぐっとくるなあ。いいなあ、それ。

(ちなみにWikiによると、19世紀半ばまでの日本語には「社会」という単語はなく、「世間」や「浮き世」などの概念しかなかった。福地源一郎が1875年(明治8年)に『東京日日新聞』の社説で用いた「社會」がはじまりとのこと。)


いまぼくたちは「社会のこと」って、テレビや新聞で伝え聞くものだと思っていますよね。そういうマスメディアからの情報を熱心に読み聞きすることが「社会意識」が高いということだと思っている。「市民運動」なんてものは、自分とは関係のないものだと思っている。たぶんそういう人が大多数だと思います。実際にそれで社会が回っている。
だけどもテレビや新聞が伝える社会というものからは、「信仰、暮らすこと、共同体」は見えないし、さわれる感じもしません。地球の裏側で起こった事故や事件に眉をしかめたり胸を痛めてみたりして。自分の身体と乖離した場所に「社会」があると思っている。報道されるニュースが「他人事」だから、すぐ忘れる。

自分たちのことは自分たちで決める、という当たり前のことが、日本では当たり前のこととして機能していないようです。先の衆院選で自民党が大勝したという結果は、社会としての総意が「引き受ける政治」から「お上にお任せ」へと逆行したことを意味します。ほんとうに個々人の総数として有権者の意識が逆行したのかどうかは定かではありませんが、自民党という政権が選ばれたという事実は、日本という共同体が総意として「前のほうがよかった」という選択をしたということを事務的に示しています。選挙とはそういうものであるから、いくら自民党を能動的に支持する層が16%だったとしても、「前のほうがよかった」という前提でものごとが決められていく様を84%の人は指をくわえて見ているしかない。現状ではそういうしくみになっているということです。「自分たちのことは自分たちで決める」という当たり前のことが行政レベルでは全く機能しない。

それと同時に、「お上に任せる」ことをやめて自分たちで自主的にものごとを決めてクリエイトしていく人たちも増えているようにも感じます。行政レベルというよりも、もっとずっと小さくてローカルな規模で。

「共同体の人々が鎮守の森に集って共同体のことを協議し、いろいろなことを相談すること」が社会であるとするならば、それは「他人事」ではあり得ません。

ん〜、この感覚って最近どこかで聞いたことがあるような…と思い出したのが、Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ)というムーブメント。OWSって単なるデモじゃなくて、民主主義のあり方を問い直すことであり、共同体のあり方を問い直すことだというふうにぼくは受けとめています。多種多様な人たちが集い、自発的に皆の意見を聞き合うというあの「行為」とあの「場」っていうのは、ちゃんと目に見える感じがするし、さわれる感じがする。

詳しくは過去記事を参照。
官邸前デモの行き先としての、OWS(ウォール街を占拠せよ)という文化 「お互いの声を増幅させ、皆の声を聞き合おう」



OWSが"Occupy"する対象がウォール街であることも、示唆的だと思います。アメリカでは、1%の富裕層と99%のそれ以外の層との間の格差が大きく広がっています。OWSに集った99%の人たちは、1%の象徴としてウォール街(金融)をあげたのです。

貨幣って何なのか。生まれた時から、あまりにも当たり前に存在しているものなので普通は考えもしないことですが、貨幣のなりたちというものを考えていくといろいろと興味深いです。モノとモノとを交換する上で便利だから存在しているわけですよね、お金って。お金という物質それ自体だけでは、何にも使えない。けれどもお金は何にでも使えるというのが社会通念になっている。おもしろいですよね。つまりは貨幣のしくみって、モノとモノを交換する媒介としての「信用」がベースになってるわけで。こんなもの価値がねーやというコンセンサスが浸透しちゃえば、只の紙切れになっちゃう。これって、ある意味「信仰」ですよね。

この記事の最初に「鎮守の森」とか「信仰」という言葉が出てきましたが、いま現在の日本において唯一、ぼくたちが共通して「信仰」しているものは「貨幣」なのかもしれないなと。逆に言うと、「貨幣」だけしか皆が共通して「信仰」できるものが存在しなくなってしまった。

日本は近代化とともに「自分らしさ」の名の下に価値観が細分化され、しかしながら異なる価値観を持つ人たちはお互いの差異を認め合うのではなく、対立し分断化した。自分らしさを大切にしながら、異なる価値観を持つ人々が依って立ち、共通のコンセンサスを共有できるような大きな「信仰」の対象が無くなってしまった。唯一その役割を担ったのが「貨幣」だった。いま「社会」というものが、他人事のようになり、目に見えなくて、さわれる感じがしなくなったのは、そういった経緯によるのではないかと妄想します。


信用金庫は、もともと無尽講という地域の互助会的なものからはじまったという話を聞いたことがあります。講っていうのはたぶん目に見える、自分たちの手の届く範囲での信仰(信用)だったんだと思う。そこから派生した無尽講っていうのも、だから相互扶助的な色合いがあったんだろうなと。

『思想地図β vol.2』に掲載された津田大介さんのルポタージュで、ぼくは「講」というものの存在を知りました。震災直後、気仙沼、陸前高田、女川、荒浜、七ヶ浜、相馬などの被災地に足を運び、現地で多くの人々の声を聞いてきた津田さんは、東北地方で復興速度が遅く不満度が高いのは、総じて「平成の大合併」で巨大化した市や町だと指摘しています。合併により肥大化した行政が、被災地住民の細かいニーズをくみ取れず、機能不全を起こしている、と。そんな中、市などの行政区よりも小さな地区単位に存在するローカルコミュニティが中心となって、復興プランを作り具体的に動き出しているところもあるそうです。

『思想地図β vol.2』p66より
伊里前地区では高台に山林を所有する住民らが10万平方メートルにも及ぶ土地を地域に提供し、山林を切り開いた高台地区を住宅地として再開発し、集落全体で移住する計画を立てている。この計画を作ったのは、行政ではなくこの地区で強い影響力を持つローカルコミュニティである「伊里前契約会」だ。
伊里前契約会の歴史は古い。元々は江戸時代の元禄六年、この伊里前地区に移り住んだ五人を中心として、お互いの生活を互助し合う「契約講」を作った。そもそも「講」とは、この単語が生まれた平安時代には、同一の信仰を持つ人々による結社・集団のことを指す単語で、この単語や概念が中世に民間に浸透する過程で、様々な信仰集団や相互扶助団体に転用されるようになる。伊里前の契約講もそうした相互扶助団体という位置付けだ。


かつての日本に存在した「講」や「消防団」のようにローカルの結びつきが強い共同体は、震災の直後に生まれた(というか呼び起こされた)助け合いや相互扶助を基盤とした共同体のかたちです。市民の中から自発的に生まれたローカルコミュニティが、自発的に行動をしようと計画を立てる。そういう日本もまだ存在している。というか、最初の方にも書きましたが、そういう若い人たちも増えていると思う。

ほんとうは「経済」っていうものは、地域経済と言うか、共同体が回っていくための、手の届く範囲での営みなんだと思います。「貨幣」だって、地方ごとに固有のものがあったっていい。


信用金庫が相互扶助的な色合いを持つのに対して、銀行っていうのはもっとバーチャルで、暮らすこととか共同体を飛び越えて、貨幣への信仰だけで成り立っている感じがするんです。メガバンクなんていうのはグローバリズムの権化みたいなもので、共同体という概念は無い。小さな地方の信用金庫が、大きな銀行に吸収合併されていくのも、なんというか。

利子って、現実には存在しないものですよね。バーチャルな概念。「金融テクニック」とかって、いんちきだよな〜と思うんです。借金を先送りしているだけじゃねえかと。

ちきりんのツイートより
毎月、住宅ローンを7万円はらってる人。そのうち3万円くらいは利子ですよ。その分は家の値段(価値)にはなんの関係もないお金です。銀行のために払っている3万円です。年間36万円とか


そういうものだと言われれば、そういうものなんでしょうけれども。


TPP問題の本質っていうのも、グローバル経済(多国籍企業の利益)とローカル経済(国内の小さな共同体)のどちらに比重を置くかという選択ですよね。首相が言うように国を挙げて「世界一を目指す」んなら参加すればいいけど、無理でしょう。「強い日本」という標語を聞くと、時代錯誤だし、嘘こけって感じですごく寒々しい。いま日本の経済がこうなっちゃったその検証もろくにせずに、「俺は強い」「世界一になる」って。男らしさ=頼れる=間違わない、というマッチョ信仰ですよね。安全神話=事故は起きないという無謬性への信仰とおなじに見えます。

たぶん、講の時代にはあった「信仰」を、戦後日本は経済成長と引き換えに捨ててしまいました。で、貨幣への信仰をもとに、世界と競争して、世界に誇る技術力を以て、経済というゲームで勝ってきた。けどいま、むかしとおなじことしかできない人たちが権力の座に居座ることで、日本の技術力はすっかり時代遅れになっちゃった。経済というゲームで勝っても、何も残らなかった。

お金がすべてじゃない、なんて皆が言う。だから、お金だけじゃない「大事なもの」を取り戻そうとしている。たぶん多くの人がそうしているのだけど、たぶんその解釈に齟齬がある。日本は病んでいるとか、心の問題とかいうのって、その齟齬によるものなんじゃねえのと思うんです。講の時代にはあったであろう「信仰」とは、何を対象にしたものであったのか。日本の伝統って何なのか。親子の絆なのか。祖先への感謝なのか。武士道なのか。自然崇拝なのか。知恵なのか。教育なのか。しつけなのか。自立なのか。依存なのか。思いやりなのか。諦観なのか。実像としての「鎮守の森」を失ってしまったいま、たぶん1億2千万人が思い描く1億2千万通りのイメージがある。



社会が社会として機能していくために、ぼくたちは杜で会う。
いまの日本で、集うべき杜はどこにあるのか。
ぼくにも分からない。
あるいはひとつじゃないのかもしれない。
答えに辿り着けるかどうかも分からない。

けどきっとぼくらは杜で会う。
なんとなく直感でそう思います。

杜で会う(社会のことや貨幣のこと)

杜で会う(社会のことや貨幣のこと) 2013.01.30 Wednesday [妄想] comments(6)
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体罰と武力(憲法9条に関する内田樹さんの考察より)

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体罰の問題。ぼくのツイッターTL上では体罰否定派が圧倒的で、実際に体罰を受けてきたという桑田真澄さんの発言などが話題になっています。ぼくも、「子供のための体罰」はあり得ないと思っています。

小さい子供の「しつけ」について。どんなに柔和で温厚な人でも、際限ない子供のわがままにイラっとくるのは当たり前です。ぼくも毎日、3歳児相手に喧嘩しています。けど体罰を、体で覚えさせるとか規律を身につけさせるしつけとか子供のためとかいう詭弁で自己正当化するのは違いますね。自分のためです。体罰によるしつけは、自分にとって都合のいい規律を覚えろという意味でしかなく、相手のためでなく自分のためだと思います。自らの意思で体を動かして反復して覚えることと、他人からの暴力に恐怖する反射で覚えるのとでは、体で覚えるの意味が違います。

だから、橋下市長の体罰容認発言とか、猪瀬都知事の脳幹を刺激する(戸塚ヨットスクール出典)発言とかを聞くと、この人たちにとって「教育」とは誰のためなんだろうと思うし、子供と向き合って手を出したくなる自己に煩悶していないんだろうなと思うわけです。

おおがさんのツイートより
そもそも、暴力というのは「あってはならないもの」だからこそ、それを行使するために皆がそれを正当化しようとするのであって・・・「正当な理由があれば暴力振るっても良い」というのはただの同語反復に過ぎないよね。


世界では、体罰(教師による体罰はもちろん、親による体罰も)を法律で禁止する国々が増えているそうです。
体罰を全面禁止している国一覧 - 内閣府


ところで、体罰を容認するロジックというのは、割と右寄りの人たちの中に散見されます。そういう人たちっていうのは、もしかして「体罰」を「武力」と勘違いしているのではないかと思います。(言うまでもなく、ぼくは「体罰」とは「暴力」であると思います。)

思想家の内田樹さんが憲法9条について書いた文章があります。その中に、武道家でもある内田さんが「武」の本質について述べている箇所があります。長くなりますが、引用します。

9条どうでしょう』(ちくま文庫)より
「人を殺さなければならない場合がある」ということと「人を殺してもよい条件を確定する」ことのあいだには論理的関係はない。
なぜなら「人を殺してもよい条件」を確定した瞬間に、「人を殺してはならない」という禁戒は無効化されてしまうからだ。「人を殺してもよい条件」を確定してしまったら、あとは「人を殺したい」場合に「そのためにクリアーすべき条件」を探し出すことだけに人間は頭を使うことになるだろう。人間がそういう度し難い生き物である、ということを忘れてはならない。
「人を殺さなければならない場合がある」というのは現実である。「人を殺してはならない」というのは理念である。この相剋する現実と理念を私たちは同時に引き受け、同時に生きなければならない。

(中略)

自衛隊は「緊急避難」のための「戦力」である。この原則は現在おおかたの国民によって不文律として承認されており、それで十分であると私は考える。自衛のためであれ、暴力はできるだけ発動したくない、発動した場合でもできるだけ限定的なものにとどめたい。国民のほとんど全員はそう考えている。これを「矛盾している」とか「正統性が認められていない」と文句を言う人は法律の趣旨だけでなく、おそらく「武」というものの本質を知らない人である。
「兵は不詳の器にして、君子の器にあらず。」
これは老子の言葉である。
「兵は不詳の器にして、君子の器にあらず。已むを得ずして而して之を用うれば、恬淡なるをを上と為す。勝って而も美とせず。之を美とする者は、是れ人を殺すことを楽しむなり。夫れ人を殺すことを楽しむ者は、則ち以って志を天下に得べからず。」(第三十一章)
私なりに現代語訳すると老子の言葉はつぎのようになる。
「軍備は不吉な装備であり、志高い人間の用いるものではない。やむをえず軍備を用いるときはその存在は自己目的化しないことを上策とする。軍事的勝利を得ることはすこしも喜ばしいことではない。軍事的勝利を喜ぶ人間は、いわば殺人を快とする人間である。殺人を快とする者が国際社会においてその企図についての支持者を得ることはありえない。」
武力は、「それは汚れたものであるから、決して使ってはいけない」という封印とともにある。それが武の本来的なあり方である。「封印されてある」ことのうちに「武」の本質は存する。「大義名分つきで堂々と使える武力」などというものは老子の定義に照らせれば「武力」ではない。ただの「暴力」である。
私は改憲論者より老子の方が知性において勝っていると考えている。それゆえ、その教えに従って、「正統性が認められていない」ことこそが自衛隊の正統性を担保するだろうと考えるのである。
自衛隊はその原理において「戦争ができない軍隊」である。この「戦争をしないはずの軍隊」が莫大な国家予算を費やして近代的な軍事力を備えることに国民があまり反対しないのは、憲法九条の「重し」が利いているからである。憲法九条という「封印」が自衛隊に「武の正統性」を保証しているからである。私はそのように考えている。

(『9条どうでしょう』P30〜32 憲法がこのままで何か問題でも? より)



1979年に、世界に先駆けて体罰禁止の法律が生まれたというスウェーデン。1960年頃までは、スウェーデンでも体罰支持派が過半数以上と体罰に肯定的な風潮があったが、この法律の制定をきっかけに、今では社会的にも「体罰はいかなる理由があっても許してはならない」という考えが根付いているそうです(出典)。

これって、スウェーデンの親たちが、法律という「重し」を自分たちに課したということですよね。体罰を「封印」することで、大人たちの意識も変わっていったという。「叩かなければならない場合がある」という現実と、「叩いてはならない」という理念。おそらく、小さい子供と向き合っているスウェーデンの大人たちは、相剋するこれらの感情を同時に引き受け、同時に生きているのではないかと思います。

相剋することがらを引き受け、矛盾と付き合い続けながら生きる。白黒をはっきりさせることよりも、よっぽどしんどくてタフな作業です。その中を生きることが、ひょっとしたら大人の責務なのではないか。大人になりきれないぼくはそう思うのです。


体罰と武力(憲法9条に関する内田樹さんの考察より)

体罰と武力(憲法9条に関する内田樹さんの考察より) 2013.01.12 Saturday [妄想] comments(12)
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ふわっとした空気としての右傾化

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タカ派の姿勢を鮮明に打ち出す安倍さんが政権をとることが決まり、一気にきな臭い感じになりましたね。これから改憲だの国防軍だのいう言葉がメディアを賑わしていくのかと思うと憂鬱です。「きちんとした議論の上で項目によっては変える必要もある」という一般論と、「基本的人権を骨抜きにして憲法が憲法である意味を捨てる」という自民党案を、同じ「改憲」の2文字でごっちゃにして、改憲に賛成ですか反対ですかとか言うのだけはくれぐれもやめていただきたいです。

歴史的大勝利に沸く自民党ですが、世間はずっと覚めています。今回の圧勝劇は、有権者が自民党に積極的に期待しているという意思表明ではなく、民主党に鉄槌を下した結果だったということがあちこちで言われています。小泉進次郎氏は当選後「民主党があまりにもひどかった。自民党が支持されているわけではない」とリップサービス。さすが人の心をとらえるフレーズをよく知っています。

2009年は自民党にお灸を据えるという結果でした。2012年は民主党にお灸を据えるという結果でした。既存与党へのアンチテーゼだけで、相対的に野党が圧勝してしまう。二大政党制とは、ほんらい政策的に対照的な方向を志向する議員たちが大きく固まることによって、大きくざっくりと国の方向性を国民に選択してもらうという仕組みのはず。しかし実際には、この国がどういう方向に舵取りしていくのかという話はうやむやなままに、シーソーゲームのように政権が行ったり来たりしているだけです。
自民党の官僚主導政治がダメだったから民主党に変えてみました。民主党がけっきょく官僚主導政治を変えることができなかったので、また自民党に戻します。って、なんですかそれ。残念すぎますが、投票率の低さを考えても、この傾向はしばらく続くでしょう。


今回の選挙で「小選挙区制」がいかに民意を反映しない制度であるかが分かりました。決して多数ではない票が、多数の議席に結びついてしまう。けっきょくは資本(人とカネ)のあるところが優位に立てるし、ふわっとした空気に大きく左右されるわけです。ほとんどマスコミの報道によって決まると言っていいほどに(そのおかげで政権交代が起きたわけですが)。20%の得票が60%の議席を占めて、それで為政者が都合のいいイシューに対して勝手に「信託を得た」と解釈できるのはふつうに考えておかしいですよね。

衆院選:得票率と獲得議席に大きな乖離 - 毎日新聞
衆院選:自民、比例57 前回並み - 毎日新聞
比例は自219万減、公94万減 - しんぶん赤旗

鈴木耕さんのツイートより
今回の総選挙、自民の比例得票数は1662万票。惨敗した09年の1881万票よりも少ない。小選挙区でも自民の得票数は2564万票で、同じく惨敗した09年よりも165万票減っている。それでもこの大勝利。すべて小選挙区制の起した歪み。


17日の記者会見で、さっそく憲法改正への意欲を示したという安倍総裁(リンク)。海外のメディアでは、「日本の右傾化」を懸念する論調が目立っています。けれども実際には、安倍自民党に対する有権者の支持は多くはない。

『数字を見ると自民党への支持は増えていない。』
『日本社会が右傾化したのではなく国会が右傾化したのだ。』
という冷静な分析をよく目にします。その通りだと思います。その通りなんです。その通りなんだけど、国会が右傾化したということは、対外的には「日本は右傾化した」と見られることは間違いない。対外的に「日本は右傾化した」と見られるということは、日本は右傾化したに等しいのではないかと。少なくとも今回の結果は、日本の大人は何も考えてないと、原発事故があったのに原発のことなんかぜんぜん考えていないと、世界に示したようなものです。

詳しくはこちらの記事に書きましたが、戦前のドイツでさえ、ナチス党は全有権者から見た絶対得票率では過半数を超えなかったそうです。ナチスドイツというと、ヒトラーというカリスマに国民が酔いしれたという熱狂のイメージがありますが、どうやらそういうわけでもなさそうです。ひょっとして、当時のドイツは、現在の日本の空気と似ているんじゃないかという妄想が、ぼくは頭からずっと離れません。

「右傾化」とは、イデオロギー的な闘争で表面化するものではないのだと思います。街行くおっさんやおばさんが、軍隊や国防について雄弁に語りだすとは思えない。「愛国」とも違うと思う。もっとずっと気分的なものだと思うんです。「あいつが気に入らない」みたいな、攻撃対象を設定することで溜飲を下げるみたいな。経済的な格差が広がり、セーフティネットの底が抜け、みんな自分の生活が苦しくても自己責任だと思い込まされ…「行き場のない怒り」が向けられる場所が必要とされているのかもしれません(というのは数ヶ月前に中国で起きた反日デモを評したニュースの受け売りです)。

空気としての「右傾化」とはつまり、人々が「懲罰的」な選択を指向しているということの表れだろうと思います。民主党にお灸を据える。小沢一郎を叩く。ホリエモンを叩く。海老蔵を叩く。生活保護受給者を叩く。北朝鮮に制裁を加える。自らを高みに置いて「悪そうな奴を懲らしめる」ことに勤しむ。

実際に悪いかどうかは問題ではありません。「悪そうな奴」がいればそれでいいんです。まるで水戸黄門の番組でも観るかのように「悪そうな奴を懲らしめる」ことを傍観して、そうすることで自分は正義の側に立っていると錯覚することができれば、とりあえず自尊心を守れますから。傍観することは「懲らしめる」ことに加担しているのと同じです。

9条どうでしょう』内田樹氏のまえがきより
人は怒りだすときに「馬脚」を現す。「公憤」のかたちを借りて「私憤」を晴らそうとし、「義憤」と称して「怨憤」を正当化する。その様子を見れば人間の器は知れる。器の小さい人間は私的な怒りを「社会正義」の名で偽装し、器の大きい人間は社会的なアンフェアネスや不条理を自分自身の身体の痛みとして感じ取る。


「社会正義」という名の目には見えない「同調圧力」が、真綿で首を絞めるように当事者にのしかかります。相手の気持ちなんて考えない、部外者だけどとにかく正義を審判したい、説教たれたい。そういう、「自己責任」を曲解したような空気が瀰漫したおかげで、ずいぶんと息苦しいよのなかになりました。ちょっと目を離したすきに子供が誘拐された事件を指して、「目を離した親が悪い」という言葉が出てくるような社会は相当に病んでいると思います。「自力で生活できない人を政府が助ける必要はない」と考える人の割合が、日本はあの自己責任の本場アメリカを抜いて1位なのだそうです(リンク)。


ところで、自民党の圧勝よりも「空気としての右傾化」を体現しているのは、維新の会の台頭だと思います。そっちのほうが怖い。数字として見れば、自民党の支持数は増えていないわけで、じゃあ民主党を見捨てた人たちがどこに流れたかというと、いちばん多かったのがあろうことか維新の会だったわけで。政策的にも何を言ってるのかさっぱり判然としないのに、ここまで議席を獲得するとは正直驚きました。無党派層って、ここまで何も考えていなかったのかと。

橋下氏は言ってることに整合性がなくてめちゃくちゃ(過去記事)ですが、彼の主張を集約すると一貫しているのは「自分以外はみんな既得権だから懲らしめよう」という、ある種の排外主義ですよね。それが受けいられるという時代の空気はやっぱり右傾化してるのかもしれないです。公務員をバッシングしていればとりあえずウケるといった「懲罰的」な、「空気としての右傾化」は確実に広まっているように思えます。

議員定数の削減にしてもそうです。国民の代表である政治家を減らすということは、それだけ民意が立法府に届きにくくなるということです。日本の国会議員数は諸外国と比較しても少ないほうですし、ただでさえ「選びようがない」と言って投票しない人が多いのに、これ以上減らしたらますます選びようがなくなるだろうに。
それから注意して欲しいのは、野田さんが言っている「議員定数削減」は、小選挙区を5議席減らすのと同時に比例区を40議席減らすという案であるという点です。比例区を減らすということは、少数政党を切り捨てるということを意味します。ますます民意は遠くなります。

それでも「議員定数の削減」というフレーズはウケるんですね。「懲らしめる」という印象があるから。オレらの税金で高い給料貰って何もしない政治家に対して「懲罰」を与えるという快感に酔うことができるから。「議員定数の削減」というフレーズのイメージだけで、政治家自身が身を切るみたいに思っちゃうけれども、実際はそうじゃないわけで、その中身と意味を知る必要があるんですが、ふつうはなかなかそこまで考えないですよね。めんどくさいし、テレビは教えてくれないし。



今回の選挙結果によって、集団的自衛権を容認する議員が衆議院の8割を占めることになりました。民主党を「懲らしめた」だけのはずが、いつのまにか原発は再稼働され、自分や子供や孫が徴兵に駆り出されるはめになる可能性は否定できません。
誰かにお灸を据えたつもりになって安穏としていると、知らぬ間に飛び火して、気づいた時には自分が大火傷をしているということになります。きっと、なります。
そうなったとき、あなたが「懲らしめた」はずの人はなぜか無傷で対岸に立っており、あなたを助けてはくれません。きっと、そうなります。


ふわっとした空気としての右傾化

ふわっとした空気としての右傾化 2012.12.19 Wednesday [妄想] comments(4)
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美しいもの

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子供ができてから、ピカソよりもフェルメールが好きになった。

フェルメールっていうのは、まあひとつの例えで、格別にファンというほど詳しいわけでもないのだけれども、ああいう絵を見て素直にああ綺麗だなと思うようになった、という意味で。

ぼくは、学生の頃はピカソがとっても好きだった。青の時代も、キュビスムの時代も、ゲルニカも、どれも好きだった。というか常に変化し続ける求道者という彼のイメージが好きだったのだと思う。印象派のような絵画とか、宗教画のような具象的な絵は、どこかつまらないと思っていた。自分探しが好きな若者にありがちなオルタナ志向が強かったといえる。わざと訳の分からないようなモノをカッコいいと思ったり、人と違うようなモノを好んだり。自分が好きという点は、まあ現在もあまり変わらないけれども。

子供ができてから、自分の時間というものがぐんと無くなった。映画館にはもう何年も行ってないし、読書や音楽鑑賞をする時間もない。それを辛いと思うこともあるし、それ以上に子供と一緒にいることが楽しくもある。自分で選んだわけではないけれども、自然と趣味嗜好もいろいろと変化した。アバンギャルド的な音楽はまったく聴かなくなった。音響系やテクノもあまり聴かなくなった。さいきん聴くのは旧譜のロックばかりだ。“オルタナティブ”で“目新しい”刺激を求めて漁るように新譜情報をチェックしていた頃の自分とは隔世の感がある。自分に起こったそういう変化は、年をとって保守的になったということかもしれない。若い頃の自分から見たら、けっと思うかもしれないが。

ピカソについては、とりたてて意識していたわけでもなく。以前はピカソ好きだったけど最近そうでもないなあと漠然と思っていた程度だった。先日、とあるブログで、『ピカソは本当に偉いのか?』という新書についての書評を読み、そういえばピカソよりもフェルメールが好きになったよな、自分。ということに気づいた。

【読書感想】ピカソは本当に偉いのか? - 琥珀色の戯言

例えばゴッホは死んでから絵の価値が上がったという逸話をよく聞くが、ピカソは生前において名声も金銭的な成功も収めていた希有な画家でもある。時代的な背景もあるだろうし、いくつもの偶然が作用した結果かもしれない。ただ、どうやらピカソにはそういった時代の変化を読み取る嗅覚があり、偶然をたぐり寄せるだけの技術を持っていたということらしい。

同ブログより
ちなみに、「ピカソの絵は本当に上手いのか?」という問いに対して、著者はこう答えています。

この疑問については、驚異的に上手い、としか答えようがありません。
したがって、ピカソの絵は「美しくない」にもかかわらず「上手い」作品ということになり、これがピカソという画家の理解を複雑なものにしています。


新書を読んだわけではないのだけれども、自分がピカソのどこを好きだったのかを顧みると、なんとなく言わんとしていることはわかるような気がする。つまりピカソはすぐれた戦略家だった。絵の「美しさ」とは別の位相で、絵に対する付加価値を創出するのが抜群にうまかった。話題になり、人々が解釈したがるようなストーリーを提供した時点でピカソの勝ちだったのだ。だからといってピカソの絵が「美しくない」かどうかは、それとはまた別の話になると思うけれども。ぼくはいまでもピカソの絵は嫌いじゃない。

岡本太郎の作品は美術館で見るものであって、家には置いておこうとは思わない。あの激しさには畏敬の念を抱くし、時おり必要になるけれども、それを日常に持ち込もうとは思わない。だからといって岡本太郎の価値が下がるわけでもない。位相が違うだけだ。美術館に行ってヒリヒリそわそわしたい時もあるし、家でまったりしたい時もある。どちらかだけが正しいわけでもないし、どちらかだけが美しいわけでもない。


なんとなくぼんやりした記事になるだろうなと思ってここまで書いてきた。主張したいことや答えがあるわけではなくて、ただなんとなく、思索の途中にあるような、このふわふわした感触を書き留めておこうと思った。もうちょっとだけ続けてみる。




子供ができてから、ピカソよりもフェルメールが好きになった。

「動」と「静」の違いだろうか。年をとって、落ち着いた色やモノが好みになってきたとか。それだけじゃなさそうだ。

絵画だけじゃなくて、写真でも音楽でも小説でも、アートや表現物とされるもの全般に言えることだし、街を歩いていても、TL上のツイートでもそうなんだけど。「自分が」と主張するものには興味が薄れていってる。たぶん子育てで自分の時間が持てないことと関係しているような気がするんだけど。自分のことよりも子供のことをまず先に考えてしまうのは、生物的な本能じゃないかというぐらい自然にそうなってしまう。「自分が」と主張するものは、頭では理解はできるんだけれども、居心地がよくないのだ。

で、まあ自分もそういうオヤジになってきて、ところで若い頃の自分って何だったんだろうなと。「自分らしさ」とか「自分探し」の大半は、電通あたりのお仕着せだったりすることになんとなく気づいたり。核家族化や、個人主義の礼賛ってけっきょくは消費のパイを大きくするための戦略だったんだろうなと、資本主義の飽くなき肥大欲に茫然としてみたり。

「自分らしさ」とか「自分探し」を否定するつもりはぜんぜんなくて、若い頃には通過儀礼として必要だと思うし、それをターゲットにしたマーケティングが存在することも当然のことだと思う。ビッグになりたいという願望が不健全だとも思わない。ただぼくはそういうのに飽きてきちゃったということかもしれない。いい年していつまでも「自分探し」じゃあねーだろと思うし。


楠 正憲さんのツイートより
若い時分、自分をそれなりに信じてるんであれば、優秀な人が報われれば世の中は良くなるんだと素直に信じられる。子どもを持つようになると、子どもが平凡であったり、平凡でさえなかったとしても、それなりに楽しく生きてける世の中であって欲しいと希う


親になる、ってこういうことだよなと思う。
親の心をもった大人がいなくなったから、社会制度の設計がうまくいかないんだろうなと思う。誰とは言わないけど、いま第三極と持ち上げられているような政治家たちの言ってることって、いい年していつまでも「自分探し」のことばかり。誰とは言わないが、論理に破綻がないように見せる技術だけが「上手い」政治家もいる。人々が解釈したがるような話題を出した時点で彼の勝ちなのだ。でもそれってぜんぜん「美しくない」。


ピカソの絵は「美しくない」のか否か。フェルメールの絵は「美しい」のか否か。
そもそも「美しい」の基準はどこにあるのか。

どちらかだけが正しいわけでもないし、どちらかだけが美しいわけでもない。
「美しい」なんて千差万別であって、むしろ「美しい」ものも「美しくない」ものも混在していることそれ自体が美しいのではないか、という意見は優等生的すぎるだろうか。

言い換えると、何を「美しい」と感じるかは、現在の自分はどこの価値軸に比重を置いているかという「歪み」の問題にすぎないのだと思う。

自分だけは歪んでいない、と正義を主張したり(ツイッター)、歪んでいない綺麗な自分を当たり障りなく共有したり(フェイスブック)、こいつは歪んでいる、狂ってると吊るし上げたり(検察とかテレビとか)することが多いけれども、みんなもともとどこかしら歪んでいるものだ。それを自覚しないことには「自分の感覚」が発動しない。こうして文章を書くことは、自分がどう歪んでいるかを知るための一環でもある。


ぼくがいまピカソよりもフェルメールを好きなのは、ピカソのような「攻めの姿勢」よりも、ただ単にやさしくて多幸感に満ちたものを、「生活の傍らに」置いておきたいと思っているからなのだろうなと思う。

もっと端的に言うならば、3歳と0.5歳の子を持つ現在のぼくは、子供たちと一緒に見たいもの、一緒に聴きたいもの、一緒に過ごしたいもの、そういうものを「美しい」と感じるように、感覚が歪んでいるということだ。もちろんオルタナ的なものを好む自分も変わらず存在する。ただそれよりも家族のほうがいまの自分にとってはプライオリティが高いということ。


内田樹先生 街場の至言(非公認bot)より
あまり言う人がいないから言っておくが、「向上心はかならずしも人を幸福にしない」。幸福の秘訣は「小さくても確実な、幸福」(村上春樹)をもたらすものについてのリストをどれだけ長いものにできるか、にかかっている。


「小さくても確実な幸福」って何だろうな。
いつもいちばん早く目覚める息子がまだ布団の中、静かな寝室で家族4人寝転がっている休日の朝。ああ、オレいまなんとなく幸せだな、と思ったので忘れないようにここに記しておく。


美しいもの

美しいもの 2012.11.13 Tuesday [妄想] comments(5)
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存在しない「正解」に依存する日本人

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「発言する」とは「立派なことを言う」ことではありません。

これはすばらしいメッセージだと思います。身につまされて唸ってしまう。ほんとうは全文引用したいぐらいですが、長いので下記リンク先からどうぞ。政治学教員で物書きの岡田憲治さんが大学生に向けて書いた文章です。

愛おしき学生に告ぐ:「発言する」とは「立派なことを言う」ことではありません - 大人の政治読本&愛おしき学生に告ぐ

まず冒頭から唸ってしまいました。恥ずかしながら、ぼく自身も間違いなく「・・・」の人です。マンツーマンならともかく、大勢が集うような場で積極的に発言をするということは、ぼくの人生の中でまずあり得ません。

同記事より
ニッポン人は皆おしゃべりは大好きですが、発言はしません。「何か発言はありますか?」「・・・」「それでは終わります」「ガヤガヤガヤ・・・」これが私たちの社会の一般的特徴のひとつです。「発言」という日本語に含まれたニュアンスは、英語で言う”Saying”や”mention”とは異なる「大胆にも言ってしまった取り返しのつかないこと」という暗く切迫したものです。だから、ニッポン人にとっては「本当は発言なんかしないで沈黙を保っていた方が身のためだし、余計なこと言って後で責任取らなきゃならなくなったら目も当てられない」とか、もうそういうものです。

(中略)

どうしてこうなってしまうのでしょうか。ここにはどうにも強い思い込みがあるような気がします。それは、「世間様の前でもの言う時には、それなりの立派なことを言わなきゃならない」という、大変肩に力の入った、発言することを特別な行為だと決めつけた、何かに怯えるような態度です。


「何かに怯えるような態度」というのは、よく分かる気がします。なぜ「・・・」となってしまうのかというと、「なんか言えない空気」があるから(あると思い込んでいるから)です。べつに立派なことを言おうとしているわけではない場合でも、素朴な疑問やそもそも論というものは口にしづらいような、なんとなくの空気。放射能の話題なんかはまさにそうですよね。この手のツイートはほんとうによく目にします。

biscoさんのツイートより
この、「ものを言うな、黙って知らないふりをしろ」という空気が放射能そのものよりも恐ろしく感じる RT @kuminchuu: 国分寺にいる友達が、勇気を出して園長先生に放射能対策の話をしたら「他の父兄を不安にさせるので、なるべくそういう話はしないでくれ」と


ただ単に、不安だから話をしたい、確認したいという当たり前のことなのに、こうやって「他の人たち」を理由に敬遠されたり、「風評被害」と言って虐げられたりする。「ものわかりのいい大人」は、そこで波風を立てずに「うまく生きていく」ために杭を出さないようにするものなのかもしれません。けれども、子供の健康や生命にダイレクトに関わる問題をよく分からない曖昧なままにしておいて「ものわかりのいい大人」ではいられない。そういう「もの言う大人」が、震災後の日本では増えました。もちろん波風が立ちまくっています。

でもこれが仮に、ただちに害のない問題だとしたら、わざわざ波風立てることよりも「和」を尊ぶ「ものわかりのいい大人」が多くなるかもしれません。というか、震災以前までは、ぼくも含めて多くの日本人がそうだったのだと思います。ぼくなんかは自他ともに認める日和見主義者なのですが、考えてみると、なにかを「発言」することに対して怯えてしまうという態度は、小学生の頃からそうだったよなあという記憶があります。

同記事(愛おしき学生に告ぐ)より
大学の少人数導入授業では、課題図書の内容を再現する報告が済んで、それに対するコメントを数人にしてもらうと、議論しあうべき基本素材がまな板の上に出た所で、この場を展開させるために、発言を促します。「さて、ということのようですが、どうでしょうか?」です。ところが「コメントしてみようか」と促すと、多くの学生はやはり黙り込んでしまいます。「○○君、どう?」とつっついてみると「…、自分まだ考えとかまとまってないんでぇ・・・」となります。「またかよ」です。もう判で押したように全く寸分違わぬリアクションです。何十年もです。何かすっかりと出来上がった完成品を提出しなければいけないと相変わらず誤解をしているのです。いったい何故そんな誤解をするのでしょうか。この誤解を生み出すのは、「発言する時は、先生に尋ねられた質問に対して、ただひとつの回答を言ってみせる時なのだ」という思いこみです。子供の頃から、教室では先生が尋ねるやり方はいつもこうでした。

 「この答がわかる人は手を挙げて」

つまり、コメントするということは、「答を言うこと」なのだと思っていて、それが十九歳の今まで抜けないのです。


小学生の頃、学級会での定番シーンがありました。
立候補者がいなくて、仕方なく推薦で学級委員になった子が、議題についての意見を求めますが、誰からも手は挙がりません。仕方なく、机の前の方から指名して「なにかありませんか」と聞いていきますが、返ってくる答えは十中八九同じ台詞。
「いま考え中です」
椅子から立ち上がって「いま考え中です」とだけ言って座る。これが机の縦一列まるで伝言ゲームのようにくり返されます。たとえ何も考えてなくても(というかだいたいそうです)「いま考え中です」とさえ言えば、自分に向けられた「清水の舞台」を回避することができる。いわば免罪符のような台詞でした。学級会のたびに、免罪符がくり返される、まるで儀式のような時間。これにいったい何の意味があるのかと思いつつも、ぼく自身もまた「いま考え中です」と棒読みするだけでした。

この基本姿勢は、中学生になっても高校生になっても変わりませんでした。「発言」なんて、そんな畏れ多いものは、オレなんかが担うものではない、と。岡田さんの言う通り、「答を言うこと」だと思っていたし、自分に答えが出せるわけないと思っていたし、たとえ答えらしきものが浮かんだとしてもそれを言いだすことのできない引っ込み思案な子供でした。波風の立たないように、事なかれ主義で生きてきた。だから基本的に、「ものを言うな、黙って知らないふりをしろ」というのは、ぼくは得意なのです。なにもせずに惰性にまかせていると、自然とそういう方向に行っちゃうんです。

だから、下記のような視点を得たときは目から鱗でした。ぼくがこのことに気づきはじめたのは、30を過ぎて子供ができてからですよ、たぶん。

同記事(愛おしき学生に告ぐ)より
もし、学問の場での発言やコメントというものがすべて、「完成した答の提出」だとするならば、その場すべて死の沈黙の支配する場となってしまうでしょう。学問の世界には完成した解答など存在しないからです。このままでは先に進むことはできません。とにかく「すべての発言は未完成なもの」として、「コメントすること」の内容の振り幅を広げなければなりません。

(中略)

どうしてこんな「だらだら」でいいのかと言えば、もう一度繰り返しますが、議論の場においては、正解など最後まで出てこないからです。ここに列挙したコメントのどれをとっても、前提になっているのは「結論(暫定的な判断)はまだまだ出ませんが」という留保をつけるような基本姿勢です。要するに「話し続けて結論なんか出ないでしょうけど」という認識です。拍子抜けするでしょう?無理もありません。この認識は、大学の教室に入って来た人たちが12年間かけて身に付けてきた基本認識と「ネガとポジ」の関係にあるからです。正解が見つかったら勇気を出して答えを言ってみるトライを12年もやって来て、13年目にたどり着いた学校では、すべての発言が「正解なんか無いけど」とされるからです。シンプルに言ってしまいましょう。「正解などありませんから何でも言いましょう」です。

多くの人々は、議論をするということの目的を「正解を導き出すため」と思い込んでいます。実に不幸な勘違いです。それでは心も口も頭もこわばるわけです。学問の世界に足を突っ込んでかれこれ30年の私ですら、議論の場で「正解だけを発言願います」という縛りをかけられたら、永遠に沈黙を守りとおすことになるでしょう。
まずこの「正解」という言葉がいけません。お勉強から学問へと世界を変えるためにまず必要なのは、「答えは一つ」「真理は一つ」という考えを完全に捨て去ることです。


自分が大人の年齢になってみて分かったことは、「あれ?大人って意外に大人じゃないんだ」ということ。子供の頃は、「答え」を提示してくれる存在だと思っていた大人が、実はたいして「答え」を知っていなかったということ。自分で考えたわけではなくて、誰かから与えられた「答えのようなもの」(≠「答え」)を後生大事にしているだけだった。

そもそも「正解」なんてものは存在しない。岡田さんは学問の場合で述べておられますが、ぼくは子供が生まれて国内政治について生まれてはじめて真剣に考えた時に、そう思いました。すべてを解決する絶対解というものは存在しなくて、いまよりマシな最適解を探すのが、政治的思考なのだと気づいたときに、それまで雲を掴むような話だった政治の世界が、ずいぶんと身近に感じられるようになったことを覚えています。

今まで庶民にとって政治の世界はテレビの中だけの世界でした。政治家に不平不満や文句を言いながらも、「お上にお任せ」でなんとかしてくれるだろうという楽観がどこかにあった。これは「お上」が絶対解を知っているという根拠のない思い込み、あるいは依存心だったと思います。お上はお上で、「解」に至るプロセスというものをぜんぜん開示してこなかった。政治とぼくたちの生活は断絶していたわけです。たまに政治のことを考えるといっても、それはテレビの台本の上で拵えられた「答え」を、さも自分の知識のように勘違いすることで知ったつもりになっているにすぎなかった。

2009年の政権交代とその「失敗」は、ぼくたち庶民が「お上にお任せ」意識のままではどうにもならないということを示していると思います。民主党の変節ぶりの経緯をきちんと捉えている人もいれば、「やっぱり民主党はダメだった」で済ませてしまう人もいます。その差はどこにあるのか。「民主党はダメだった」と言う人は、絶対解が民主党には無かったと認識しているのではないでしょうか。もしそうだとするならば、どこかの政党(あるいはリーダー)ならば絶対解を持っていると考えるのか。そういう認識であるかぎりは永遠に絶対解にはたどり着かないし(そもそも存在しないのだから)、最適解さえも見えてこないと思います。「正解」への依存心は、政治家に対しても「立派なひと」を求めたがります。でもそんな人は存在しないのです。政治家が清廉潔白である必要なんてないし、いまよりマシな最適解を提示さえしてくれればそれでいい。そしてぼくらは、その最適解が官僚及び行政によって遂行されるかを見届ける必要があります。そして出来なかった場合には、なぜ出来なかったかを考える必要がある。その過程において「発言」する機会があるかもしれない。その際に必要なのは絶対解ではありません。多くの要素が絡み合って形成される社会の中で、最適解に近づくために、自分の身の回りにある「ほんのひとつの要素」を洗いだすことぐらいです。それは、ほんの些細な意見ですが、だから大事な意見になるはずです。ただひとつの「正解」に依存しない姿勢が、「お上にお任せ」からの卒業につながっていきます。

しかし「正解」への依存から逃れられない人もいます。まずはじめに「答え」ありきで、話をすすめようとする人たちです。自分が持っている「答え」は揺るがない。その上で「答え」を守るために、「答え」に合わせた理論立てをしていきます。厄介なことに、口が達者で「弁士」とか呼ばれるような人には、こういうタイプが多いような気がします。多少論理が飛躍していてもかまいません。はじめに自分が提示した「発言」こそが「答え」なのである、という「印象」「イメージ」を聴衆に抱かせることが出来さえすればいいのだから。

あるいは、自分の「答え」を守るために、相手を打ち負かすというのもよく使われる手法です。相手を徹底的に叩くことで、相対的に自分の側の「正しさ」を強調します。2ちゃんあたりでは「論破」という言葉が好んで使われるようです。ネットの掲示板やブログのコメント欄が炎上するのは、おもに岡田さんが指摘する以下の3種の発言によります。

同記事(愛おしき学生に告ぐ)より
もう一つの誤解が、人間が議論をする目的に関するものです。発言することをあまり大変な作業だと考えないためにも、一度立ち止まって考えてほしいのは、私たちが人と議論をする理由です。私たちのコミュニティでは、議論するということを「言いたいことをとにかく主張する」とか、「正しいかどうかは別として、とにかく思いの丈をぶつけてみる」、あるいは「言葉で切った張ったする」ことだと思っている人たちがまだ相当たくさんいます。とくに強いのは「文句を付けること」「気持ちをぶつけること」「反対者をコテンパンにすること」の三つが多いです。残念ですがどれも駄目です。道徳的に糾弾することはありませんが、それでは知的水準は上がりませんよということです。
あまり耳慣れない言い方かもしれませんが、私たちが議論をする理由は「自分はあの人といったいどこで分かれてしまったのかを確認するため」です。そうするとあの人と考えが違うことがはっきりするから、そうなればしこりも残すし後味も悪いではないですかと不安を訴える人もいます。もちろん議論の仕方によっては「今はもう遠い距離が二人を隔てているのだな」という気持ちを強めます。しかし、私がここで強調したいのは「異なる点」だけではありません。この前に「〇〇までは同じ道を歩いていたのだ」ということを確認することの大切さを強調したいのです。そして何が違うかだけでなく「何を共有しているのか」を確認することのポジティヴな意味を評価したいのです。議論によって対立点を明らかにするというのは、別に間違った物言いではないと思いますし、正確な認識を得るためには大切なことです。しかし、「ここまでは共有していた」ということを確認することで、では何を克服すれば共有地平を増やすことができるだろうかとなるわけです。


領土問題を解決するには、このような共通認識がなければ難しいと思います。竹島への韓国大統領上陸と、尖閣諸島への活動家上陸という騒動以来、領土問題が沸騰しており東アジア情勢は緊迫していますが、お互いに「正しさ」を主張し続ける限りは、武力による解決=戦争以外に終着点は見えてこないと思うのですが、どうなんでしょうか。

しかも、こういう時には「正しさ」を主張する政治家がもてはやされがちです。愛国報道は、前のめりになりがちです。ちっぽけな島をめぐる諍いが戦争に発展などしたら、犠牲になるのは弱い人たちです。領土をめぐるその感情は、ほんとうに「愛国」なのか。ただの「自尊心」ではないのか。守りたいものっていうのは何なのか。もし守りたいものっていうのが、自分の「正しさ」なのだとしたら、そのためにいたずらに傷を深くしているのだとしたら。

領土問題は、国内でも意見を二分してお互いが勝手に対立しています。なんとバカバカしい。どちらが「愛国者」でどちらが「売国奴」かを競い合うのはナンセンスです。保守だろうがリベラルだろうが、国を憂う気持ちにはほんらい変わりないはずです。

同記事(愛おしき学生に告ぐ)より
例えば、私は昔ある友人の言葉の端っこを過大に受け止めてしまって、「あの野郎はとんでもねぇ右翼だ」と決めつけて、売り言葉に買い言葉で相手もこっちのことを「左翼ファシストめ」と思い込んでいました。ところがひょんな機会にちゃんと話してみたら「自分の愛する故郷や地域の人間こそ最も大切な人達である」という基本姿勢と「大資本のスーパーよりも個人がやってる商店街にお金を落とすというように、虐げられている経済的弱者へのシンパシーを持っている」ことが完全に一致していました。えっと思ってもう少し話してみたら「そういう世の中を父親のような権威を通じてまとめるか、よたよたしながらでも皆で相談しながら決めて行くか」の部分で袂を分かっているに過ぎないことに気が付いたのです。考えてみれば、強力なリーダーに重きを置くことと、より民主的に物事を進めることの間にある違いは所詮は「程度」の違いに過ぎません。様々な中間領域があるからです。このやり取りの後、両者の心に残ったのは「俺らそんなに違わなかったんじゃん」という温(ぬく)い気持ちです。そして「俺らが本当の戦う相手」が誰なのかが問題となって行きます。つまり、議論をして袂を分かつのではなく、議論をすることで人間が結び付くことの方が、我々全体の水準を上げて行くと思うのです。そのために私たちは議論をするのです。
発言することに大仰な意味を込めすぎている人は、発言して議論して結論を出すなどと考えれば、とても億劫になってしまい、ギスギス感も増大しますし、自分にはそんな切った張ったはできないと思ってしまいます。ですからそうならないためにも、議論するそもそもの目的というものをもっと前向きに理解した方がいいと思うのです。ちゃんと話すと友人が増えるのだと。


とてもいい話ですね。
右翼とか左翼とか、誰かが勝手に作った「答え」に捕われてしまう心のクセがぼくらにはあります。なにか事があれば、安易に他人にレッテルを貼って、はい問題解決(決して問題が解決しないという意味での終着点)とする短絡的な心情がはたらきます。国を憂う気持ちがあるのならば、イデオロギーや出自は些細な違いでしかない、というのは卓見だと思います。頭では分かっていたとしても、そういうふうに立ち振舞うのはなかなか難しい。

「正解」を求める気持ち、もっと言うならば自分が信じたい「正解」に依存する心っていうのは、「何かに怯えるような態度」から生まれる方向性だと思うんです。自分の持っている「答え」が「正解」ではないと通告された時への恐怖かもしれません。「答え」がない状態で生きることを続けていくことの気持ち悪さに耐えられないからかもしれない。

同記事(愛おしき学生に告ぐ)より
かつて書いた本の中で、私は「考えがまとまってから何かを言おうとすると、永遠にものが言えません」と言いました(『言葉が足りないとサルになる』)。そして、とにかく出だしからエイヤッと言葉を使って話し始めると、自分の中に眠っていたいろんな考えが浮上してくるから、話し始めて考えればいいともいいました。心のもやもやに言葉を当てはめるんじゃない、言葉を使って心にある考えをはっきりさせて、引き出すんだといいました。言葉と心の順番を逆にしろと言うことです。何でもいいから声帯を震わせれば何とかなるのです。もちろんそれですべてがうまくいくとは言いません。しかし、この苦手な場をやり過ごそうと、例の、あの、いつものチキン振りを維持したままでは、貴方の人生は絶対に変わりません。学校に行った人間は、話して言葉を使って活路を見出す以外に生きて行く道はないのです。


考えがまとまらないし、知識もたいしてない、そんな状態でエイヤッと言葉を出すのは、気が引けます。気持ち悪いし、怖い。ぼくもそれで沈黙に陥ることがよくあります。でも、やってみると意外にクセになります。それから、みんなそうなんだなと思えてきます。学者さんだろうが弁護士さんだろうが政治家だろうが、誰も答えなんて知らないんです。そう思うと肩の力がぬけて楽になってきます。


最後に、岡田憲治さんのこの文章がすばらしいと思った理由。それは、この文章が「愛おしき学生」に向けられた「発言」であり、彼らへのエールであるからです。多くの日本人の「身に付いてしまった心の習慣」についての分析が的を得ていることはもちろんすばらしいのですが、ただそれだけではなくて、この文章(発言)には体温があるような気がするのです。「愛おしき学生」への愛情があり、彼らが自分のあたまで考えて自分の言葉で「発言」できるようになってほしいという「教育」姿勢があります。教育とは、押し付けがましい「答え」を教えることではありません。年少者が、自分のあたまで考えて自分の言葉で「発言」できるようにそっと背中を押してあげること。そういう環境を整えてあげること。それが、彼らよりもほんの少しだけ人生を多く生きてきた大人の役割であり、生きる知恵なのかなと思います。



存在しない「正解」に依存する日本人

存在しない「正解」に依存する日本人 2012.08.28 Tuesday [妄想] comments(10)
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「オレの場合」

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小島慶子さんの場合

ラジオパーソナリティーの小島慶子さんがTBSラジオの仕事を一休みし、BLOGOSでメルマガをはじめるというのでインタビューが掲載されていた。
「あなた」に向けてしゃべっています−小島慶子インタビュー - BLOGOS

TBSラジオ『キラ☆キラ』をポッドキャストで何度か視聴し、パーソナリティーとしてのバランス感覚のよさに感心していたし、ときおり見せる硬派な語り口からは本質を的確に捉える頭のよさを感じていた。このインタビューも彼女がずっと言ってきたことと重なる部分が多いけれども、彼女自身が体験して感じてきたことだけが語られており、そのリアリティにちょっと感動した。

震災後、マスメディアやネット上に溢れた多種多様な情報にぼくらは右往左往した。ただちに影響はない、いや危険だ、いや安全だ、復興だ、避難だ、やれこいつはなんとか厨だの何だの。なにが正しいのかはもとより、どの情報を取捨選択するかさえも自己の判断に委ねられるしかなくなった。いったい「正しさ」とは何なのか、デマとは何なのか。いやでもそんなことを考えざるを得なくなったのだが、その中でぼくが感じてきたこと、このブログにも自分を戒めるために何度も書いてきたことが、このインタビューの中に集約されている気がした。キーワードは「私の場合」。少し長くなるが抜粋。

同インタビューより
私に何が喋れるかなあ、何の専門家でもないし、ジャーナリストでもないしって思って、震災後しばらく何を喋ろうか考えた。TBSという放送局が出す情報は、きちんと伝えることが大事ですけど、同時に、世の中にはいろんな情報があふれていて、いまどれが信じるべき情報かみんなわからなくなっているのも現状。だけどね、私の場合は、この情報を選んだよ、なんでこの情報を選んだかというと、こういう動機があるからだよ、私にとっては、生活の最優先事項はこれだからだよっていう、「私の場合どうだったか」っていうことをずっと話しました。

何でかって言うと、それしか私に責任の取れる言葉がなかったから。東京の水に1歳未満の子供が飲めない放射性物質が含まれているのがわかったとき、息子たちは5歳と8歳でした。もちろん親としてはできれば飲ませたくなくて、でもミネラルウォーター買い占めちゃうと近所の赤ちゃんが飲むものなくなっちゃうし、どうすればいいんだろう。逃げていく田舎も無い。疎開できない。で、私は考えました、何より、子供にはご飯を食べさせなきゃいけない。食べさせなないと死ぬから。水を飲ませなきゃいけない、飲ませないと脱水症状で死ぬから。一番大事なのは子供が死なないこと。子供が今、死なないようにすること。だから私は、その水を長期間飲み続けなければ健康被害は少ないだろう、という情報を選択しました。

そして、ダシをとりながら、放射性物質も一緒に入っているんだなと思いながらお味噌汁を作り、そして子供たちと一緒に食べましたと、何とも言えない気持ちでした。でもいまこの場所で子供と一緒に明日を生き延びることが最優先事項だから、その情報を選択し、行動したんです、それはあなたの選択とは違うかもしれないし、あなたの最優先事項とは違うかもしれない、もし私に生まれたての赤ちゃんがいたら、仕事を休んでホテルを取ってでも疎開したかもしれない。そんな人がいたとしても何も不思議に思わない。たまたまその人と私は状況が違ったということです。そんな、何を選択し、どう行動するかは、自分にしか決められないんだと実感した、という話をしてました。ずーーっと。

だから、この学者を出演させるなんて、この番組は「御用学者」の肩を持つのかとか、あんなやつを出すなんて「デマ野郎」の肩を持つのかなんていろんな意見があったけれども、それはスタッフが考えた末に判断したことだし、まず、いろんな立場の人の話を聞くと言うことを大事にしました。私がいくつかの情報に触れた時に、信用できるかどうかを判断する基準は、その発信者が身元を明らかにしており、自分のキャリアに基づいて、一貫して「人の命を助けよう」という善意に基づいて、しかも批判を受けるリスクを犯しつつ、誠実に情報を出し続けている人かどうかということです。そういう人は何人かいました。何人かいますけど、その何人かの意見が違うこともありました。その結果私は、じゃあ、自分の生活の優先順位に照らして、そのどれを取るかって事を、私が決めるしかないなって思いました。

で、後々、そのデータって正確じゃなかったなとか、後になってみたら違う結果が明らかになってきたというリスクは引き受けるしかないと思いましたね。


すごいなこの人。なにがすごいって、この一文が持つ圧倒的なリアリティ。

ダシをとりながら、放射性物質も一緒に入っているんだなと思いながらお味噌汁を作り、そして子供たちと一緒に食べました。何とも言えない気持ちでした。

ニュースキャスターとか司会者とか、テレビや新聞に出てくる人たちはこういうことを言うことはなかった。マスメディアという特性を考えれば当たり前なのかもしれないが、キャスターが一個人としての私心を吐露することは珍しい。その根底には、報道は公平中立であるべきという、発信側と視聴者側の相互依存関係がある。クレームに過度に敏感になるのも同じ。みな自信がないのだ。結果として、テレビの画面からは学級委員長みたいなコメントばかりが溢れるようになった。

小島さんは敢えて「私の場合」のことを語った。ラジオというパブリックな空間で、パーソナルなことを語った。これはとてもたいへんなことだと思う。スポンサーとの関係やスタジオの空気、世論的な空気の中では、当たり障りの無いお約束事をしゃべっていた方がラクだ。むろんそこには「私の場合」は無い。だからみんな学級委員長になって同じことをしゃべる。それがふつうなのだ。そういう空気の中で、敢えて意識して「私の場合」のことを語る。決して自信や確信があるわけではないけれども、自分のことを語る。だから彼女は自身を、ラジオ「パーソナリティー」と形容しているのかもしれない。


マイノリティ憑依の場合

ジャーナリストの佐々木俊尚さんも、震災以降のメディアやネット上に流れる言説を通して「当事者意識」ということを強調している。「実際には存在しない(あるいは稀有な存在である)弱者の立場を、記者が勝手に代弁して書いた記事」のことを佐々木さんは「マイノリティ憑依」と形容している。いまやそれは左翼の専売特許ではなくなった。テレビがみんな「がんばろう」一色になり、学級委員長的なコメントを繰り返すのも、マイノリティ憑依によって自分たちが国民の声を代弁しているという錯覚によるものだ。

さらに、それを視聴している側もマイノリティ憑依する。ぼくたちは、テレビや新聞で聞きかじった程度の情報に勝手に感情移入して、わかったつもりになっている。さらには、憑依した感情をあたかも自分の感情であるかのように錯覚する。ツイッターなどで拡散されてくる情報にはそういう類いのものも多い。お互いが自己の正義をかざし合う。ネットの世界も学級委員長になりつつある。

この辺りのことは佐々木氏の新書『「当事者」の時代』に詳しく論考されているとのことなので、こんど読んでみたい。


政治の話って、目につくのは「ケシカラン」的な話法ばかりだ。他人の立場を代弁して(したつもりになって)熱弁をふるうという行為は、実はそこに自分のイデオロギーや感情を勝手に投影して自己満足しているという場合が多いのではないか。そういうご意見は、一見すると熱くて道理が通っていてもっともなように聞こえるのだけれども。

内田樹さんはこの記事で「長い自己欺瞞の訓練によって、イデオロギー主導で、ヒステリックになったり、激昂したり、涙ぐんだりできる人間たちが生まれた。」と論考している。「フェイクの生身」を操作して、イデオロギーに身体実感という担保を付けることに成功したのだと。いわゆるポリュリストと呼ばれる政治家たちが喋ることばは、分かりやすく、感情に訴えてくる。

同記事より
ポピュリズムとは、「生身を偽装したイデオロギー」である。
コロキアルで、砕けた口調で、論理的整合性のない言説を、感情的に口走ると、私たちはそれを「身体の深層からほとばしり出た、ある種の人類学的叡智に担保された実感」と取り違えることがある。


ポリュリストとそれに同調する人は声が大きい。自信を持っているように見える。「それはちょっと…」と言う人には「対案を示せ」と迫る。もともとアンタが出した案でもないのに。まるでオレの案であるかのように錯覚して、オレの身体が感じていて、オレの言葉で喋っているかのように凄んでみせて、他人を黙らせる。

私のこの苦しみの身体実感を、お前は想像できるか、追体験できるか、理解できるか、できはしまい…という「被抑圧者の肉声」の前に「市民」たちは黙り込む。これは私たちの政治文化に深く根をおろした、伝統的な恫喝の語法である。日本の知識人はこのような語り口に対して効果的に対抗する手段を持っていなかった。
結果的に、肥大した政治的野心をもつ人々は、どんな政治的主張であれ、最後に「お前らのようなぬくぬく暮らしている人間に、オレの苦しみがわかってたまるか」と付け加えて語りさえすれば、誰かも効果的な反論がなされないということを学習した。
これが「最強」であったのは、彼らのいわゆる「身体実感」がフェイクだったからである。彼らが実感していると称する「オレの生身」それ自体がイデオロギーな構築物だったからである。


声の大きな彼らが実感していると称する「オレの生身」それ自体はフェイクなのである。実はオレの身体じゃない。実はオレの言葉じゃない。実はオレの生身じゃないけれども、マイノリティ憑依して「オレのもの」になったふうに錯覚している。オレオレ詐欺にオレが陥っている。

「オレの生身」は、そんなに強くない。ほとんど何も知っていないし、何をどうしたらいいのかわからないことのほうが多いし、腹は減るし、すぐ疲れるし、傷つく。おまけに臭い。娘にチューしようとすると「パパちょっとくさい〜」と言われて死にます。とは、娘を持つパパ友の談。「オレの生身」なんてだいたいそんなものだ。

放射能の話に戻る。ほんとうの「オレの生身」は、イデオロギーでは出来ていない。イデオロギーで出来た生身ならば、いくら放射線を浴びても平気かもしれないし、プルトニウムだって飲めるかもしれない。しかしそれはイデオロギーによって構築された架空の身体なのだ。ほんとうの「オレの生身」は、放射能という未知の恐怖に怖れおののいている。安全なのか危険なのか、それを実証するだけの論拠は存在しない(諸説いろいろあったとしても、その真偽の程を疑っていくとどこまでもキリが無いし確かめようもない)。

判断のできないものに対して、人はどこか居心地の悪さを覚える。白黒はっきり付けたほうが誰だって気持ちがいい。安全なのか危険なのかわからないものを傍らに携えながら暮らしていくのは気持ちの悪いものだ。ぼく自身は「脱原発」を所望している。でもいまぼくが言えるのはせいぜいこのくらいだ。

東浩紀氏のツイートより
ぼく自身、最近ある若いひと(そのひとの仕事自体は注目している)が「岡山から東はもう子どもは住めないと思うんですよ」と言ったとき、なにも言わずビールを飲んでスルーした。もうこういうのは疲れたな、としか思わなかった。反論する気にもならなかった。そういう状況になっている。

そういうひとに会ったとき、いったいどういう態度を取るのが正しいんだろうね。わからないね。最終的にはぼくは、原発についても放射線被害についても素人でしかないしね。。



私の場合

さて、原発についても放射線被害についても素人でしかない「オレ」ではあるが、だからといってそこから目を逸らし続けるわけにもいかない。放射能について、福島について、口にするのもタブーになってしまうのはいちばん恐ろしい。素人でしかない「オレ」だからこそ、素人でしかない「オレ」の立場で、素人でしかない「オレ」の口から、「オレの言葉」を吐き出す。素人でしかないわけだから、それはたぶん「オレ」がびっくりするくらいしどろもどろで理路整然としていなくて、「オレ」が許容できないくらい気持ち悪いものかもしれない。それでも、素人でしかない「オレ」を抱えていく他ない。その気持ち悪さに耐えかねて、素人であることから目を背けて、どこかの誰かの言葉に憑依する道を選ぶのは容易いが、それがもたらすのは、イデオロギー主導でヒステリックな言説であることは先に述べた。

内田樹さんは先ほどの記事をこのように結んでいる。
私たちの言葉と彼らの言葉をわかつのは、そのような下品な言葉に生身の人間は長くは耐えられないという 、私たちの側の「弱さ」だけである。弱さは武器にはならない。
けれども、最終的に人間性を基礎づけるのは、その脆弱性なのだと私は思う。


もういちど、小島慶子さんの話をふり返ってみる。小島さんが語ってくれたパーソナルな心情は、決して「強い」類いのものではない。どちらかといえば「弱い」ものではないかと思う。けっきょく小島さんはこれが正解だというようなことは何も言っていない。ただ、「私の場合」はこう思ったし、こう行動した、ということをただ事実として吐露しているだけである。もちろん自分が正しいという確証だって無いだろう。確証のないことを、確証のないままに、さらけ出すのはとても勇気のいることだ。

反論が来ないようにあらゆる方向から予防線を張って、それでようやく胸を張って発言できる、っていうのが従来の知識人のやり方だった。それが「論争」に勝つための手段だったからだ。しかし、世の中のあらゆる方向について知っている人なんて存在しない。予防線というのは、他の方向に目が行かないようにするための目くらましの手段にすぎなかった。ということを震災はさらけ出した。

もはや「当事者」でない発言は意味を持たない。いや、以前からそれはそうだったのだけれども、経済成長というマジックの下にほんとうの「生身」は隠されてきた。みんながハイになっている状態では「生身」の傷は目立たなかった。そんな上昇気流の時には学級委員の言葉は有効に機能した。しかし長期にわたる景気の低迷は解決の糸口も見えず、非正規雇用は拡大し、貧困という言葉が使われ始めたように経済的にも格差が拡大し、将来に展望を抱けない人が増えている。挙げ句に震災が起こり、ぼくたちの「生身」はもう疲労の限界に近づいている。そのような状況下においては、学級委員の台詞では誰も救えないということがわかってしまったのだ。

まず「生身」をさらけ出すこと。そうしない限り、オレは「オレの言葉」を取り戻せない。なんどもくり返すが、小島さんのお味噌汁の話は、彼女の「生身」をさらけ出した「私の場合」の話で、だから「私の言葉」になっている。


男の場合と女の場合

日本の台所を預かってきた母たちは、家族のいのちを預かってきた。人間の身体を作るのは食である。食事の質が、身体の調子にダイレクトにつながっていることをぼくは妻から教えてもらった。震災が起こり、母たちは文字通り家族のいのちを預かることになった。もちろん今までだってそうだったわけだが、食事がファーストフード化するにしたがって、食が身体を作るという感覚は社会の中では希薄になっていた。放射能だけが身体に影響を及ぼす全てではない。生活習慣病の原因となるものはたくさんある。放射能もそのひとつにすぎない。けれどもやっぱり放射能というインパクトは強いし、実際のところの影響がわからないだけに怖い。

怖いけれども、ぼくたちは食事をしなければ生きていけない。怖いけれども、母たちは食事を作らなければいけない。安全なのか危険なのかわからないものと向き合い続けなければならない。そうして日本の母たちはタフになった。原発事故が起きた後に、子どものいのちを守ろうとしてきた原動力の殆どが母親の直感であることに異論のある人はいないんじゃないだろうか。母親たちの切実な願いがなければ「脱原発」の機運もどこまで高まっていたか、わかりゃしない。

翻って、男はどうなのか。
男は今回の震災と原発事故にどのように対峙してきたのか。

最新号の津田マガに、もんじゅ君と津田大介氏という異色の対談が掲載されていた。もんじゅ君は、ツイッターでのフォロワーが8万人を越える人気の原子炉である。稼働することなく維持管理だけで毎年無駄な予算を使い続ける自分を恥じ、早く引退したいと願う高速増殖炉。「脱原発」という立場は明確ながらも、マイルドな語り口で人柄を覗かせつつ、ものごとの核心を捉える鋭さは津田さんと相通じるものを感じる。メルマガの対談中で、「反原発」に対する男女の反応の違いが語られていた。

津田大介の「メディアの現場」vol.26 今週のニュースピックアップ Dream Expanded――高速増殖炉もんじゅ君の語る「ツイッター情報発信術」より
津田:まあ、「脱原発するしかない」と書くと、いろいろ言ってくる人は必ずいるよね。これは原発事故が起こって、本当に驚いたことなんだけども、「原発は必要なんだ!」と言ってくるのって、99%男性なんだよね。「こんなに男女で違うんだ!」って。

もんじゅ君:わかりますですだよ。ボクもよく文句いわれるけども、キホン、男の人からだから。

津田:原発問題については、男性と女性で態度が明確に分かれた気がするよね。日本の産業ではこれまで、製造業がメインだったから、それで「電力=原発が必要だ」というロジックを使う人がたまにいるんだよね。これって多分、「企業で働いてる自分」と「プライベートな自分」のアイデンティティが一体化しちゃってるってことなんじゃないかな。

もんじゅ君:「仕事=オレ」「電気=原発」っていう……。どっちも思いこみなのにね。

津田:そうそう。で、そういう人は「原発はなければダメなんだ」「原発をなくすのは夢物語なんだ」って意見が多い。

もんじゅ君:きっと「現実が見えている冷静な自分」を愛しちゃってるんじゃないかな、って思いますだよ。

津田:そう。「感情論やポピュリズムに流されないオレ、カッコイイ!」みたいにも見える。

もんじゅ君:あと、「冷静に、冷静に」っていうのも、それと同じなんじゃないかなって思うんだけど。あれってたぶん、本人はあんまり冷静じゃないと思うの。こころを乱されたくないから「冷静に!」っていっちゃうんだよね。
「仕事=オレ」っていう構図もあると思うんですけど、「自分がこれまでやってきたことを否定されたくない」「過去の選択が間違っていたことを認めたくない、だって責任問題になるから。だからあとには引けない。ダメだとわかっててもつづけちゃう」――そういうのがあると思うんですだよ。


「現実が見えている冷静な自分」を愛しちゃってる、っていう感覚わかる気がする。ぼく自身にもそういう感覚はどこかにある。やたらと声の大きい愛国者っていうのはけっきょく国の名を借りて自分を愛しているだけじゃないかということは以前の記事で書いた。このテのは圧倒的に男に多い。

些細な間違いを咎めたり、デマを流すなといって他人を糾弾したり、お前は何も知らないと言って鼻で笑ったり。これらは、自分と異なる意見を受け入れることができない故の行動だ。自分ではそれが正義だと思い込んでいるからやっかいである。なぜ自分と異なる意見を受け入れることができないのか。それって、自信がないからじゃないかと思う。自信がないから何かにすがりたいのだ。自分と異なる意見は間違っていると定義することで自己の正当性を担保したいのだ。

ある程度自己に自信を持っている、まではいかなくとも自分の頭で考えていこうとするならば、他者が何を言おうが関係ないのである。小島さんのように「そんな人がいたとしても何も不思議に思わない。たまたまその人と私は状況が違ったということ」と思えるようになる。他者に対して寛容になれる。多様性を認めることができる。自律とはそういうことだろう。そうやってはじめて「私の場合」で語ることができるのだ。

男というものは、自分の直感や感情よりも「立場」で語る。立場によってアイデンティティやイデオロギーを構築する。ほとんどの場合、その立場とは仕事(職場)のことを指す。それ自体が悪いわけではない。経済成長の時期はみなそうだった。はたらく父親の給料で一家を養い、母親は家庭を守るという家族像がロールモデルとされてきたし、それをもとに社会設計が為されてきた。だから「「企業で働いてる自分」と「プライベートな自分」のアイデンティティが一体化」するのも無理はないし、それがマジョリティだった。

しかし今はもうそういう時代ではない。父が一家を養う給与を得て、母は家庭に籠るというロールモデルは崩壊している。いまは共働きでなければ経済的にも立ち行かないのが事実だ。にも関わらず、母親にだけ家庭を守る役割を求める男がいまだに多いことは情けなく思う。もちろん仕事も自分が背負って立つ立場であることは確かだ。しかし多くの男は、自己の立場の中に「家庭」を勘定に入れていない。だからイデオロギーが暴走して、政治的見解と実際の家庭での暮らしが乖離する。

子育てや家事を母親の忍耐力に押し付けておきながら、「政治的」な子育て政策についてだけ偉そうに語るのは、ちゃんちゃらおかしい。そういう態度が、政治を腐らせていくのだ。

戦後の経済を牽引して来たのも、原発を誘致してきたのも男性的社会である。男性的社会に於いては「オレの場合」という主語は必要がない。主語が無い方がうまいこと立ち回れるような社会設計をしてしまったのだ。あれだけの事故を起こしても、東電の幹部たちの顔は見えない。結果として原発が今まで存続することに与してきたぼくたちの「無関心」も、主語を持たない態度であることに変わりはない。

いままで日本が依って立ってきた経済への信頼とか依存とかの前提が崩れ去ってしまった今、それを作ってきた男性的社会というものを少し見直してみてもいいんじゃないか。男系社会から女系社会へ変態するくらいの変化が出来たらきっとおもしろい。

「被災地が…」
「国が…」
「政治家が…」

そういう御託よりもまず先に、「オレの場合」はどうなんだ?
男どもに足りないのは、その自問ではないかと思う。

「オレの場合」

「オレの場合」 2012.03.28 Wednesday [妄想] comments(0)
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なにも願わない手を合わせる

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前回の記事「天皇の祈り」に愚樵さんからコメントをいただいた。一部転載する。

式典での陛下の姿は、生放送では見ることが出来ませんでしたけど、後でネットで見ました。

お言葉の方は、かくあるべしということをが平明に語られていて、それだけを取り出せば特に感銘ということはないのですが、印象に残ったのは、その姿です。

これも実は、私の目には「あたりまえ」に映りました。田舎のじいちゃんばあちゃんが、仏様に手を合わせる姿と被るのです。田舎住まいをしていたころ、じいちゃんばあちゃんたちのそうした姿に接するたび、これは自分にはできないな、と思っていました。ただ「手を合わせる」だけですが、その姿の様になっていること。「削ぎ落とされた姿」とでも言えばいいのでしょうか、あのような「形」にそう簡単になれるものではありません。

陛下と皇后のお姿は、それと同じものでした。「削ぎ落とされた姿」だと思いました。深いところでつながっているとすれば、そこのところだと思いました。


ぼくもまったく同じことを考えていた。
ぼくは核家族で育ったので、じいちゃんばあちゃんが仏様に手を合わせる姿を常日頃から見てきたわけではない。ずっと仏壇のない家で暮らしてきたし、自分が家族を持ったいまでもそうだ。盆と正月に親の実家に帰省するたびに仏壇を拝む祖父の姿は、幼い自分にとってはどこか異様に映ったものだ。自身の素養から言うと、ぼくは「削ぎ落とされた姿」からはほど遠い存在であろう。

その一方で、ぼくはブログを書き始めた頃(2年前)の記事でこんなことを書いている。

知的リソースについて(知識と直感)より
必至で社説を読み漁り、それを切り貼りして知識とし、他人の悪を断罪したがる「知識人」よりも、難しい事は何も語らなくとも、おてんとう様を拝み、ニコニコとした笑顔を絶やさない、名も無いおばあちゃんのほうに、ぼくは本来の人間の姿が見えるような気がしています。


この思いはずっと、ぼくの中にあるものだ。
ブログを書くようになって、ツイッターで様々な人たちからの情報をインプットするようになって、知識というものの重要性を前よりもずっと感じるようになり、それぞれの立場から情報を発信する人たちに敬意を抱くようになっても、この気持ちは変わらなかった。なにかそこは大事な砦のような気がした。


誰かを慕う誰かの姿を見て

昨夜、ツイッターで仲良くなったパパ友が天皇陛下のことをつぶやいていた。
天皇陛下は好きです。優しそうだしなんか知らんけどいい人だなぁと。そしてよくわからんけど尊敬しています。

今日の国会中継で自民党?(たぶん)の女性議員が天皇家の男系だの女系だの女性だので怒っていたけど…ラジオの向こうで、血管が破裂しそうな勢いで天皇家て叫ぶ政治家と、いつも語りかける様に話す天皇陛下との違いというか差は歴然だなぁと。

僕には信念というほどの想いは特になく、恋にも似た淡い気持ちがあるだけです。


このツイートを読んだ時、ぼくもその感覚がよくわかる(前回の記事の最後のほうにも書いた)なあと共感するとともに、彼についてのあるアイデンティティを想起した。それは、彼のおばあちゃんに対する慕情である。

彼は、ふだんからたびたび祖母に関してのツイートをしている。おばあちゃんの作るごはんの美味しさとか手の温もりとか家族を思う言葉とか、平素な文体でつづられる祖母への愛情にあふれるツイートを読むたびに、祖父母に囲まれて育ったことのないぼくは、ある意味うらやましく思っていた。会ったこともない彼の祖母のことを勝手にいろいろ想像してしまうのだ。

祖母と原爆と戦争。僕の思考の原点。


長崎原爆忌が近づく頃、彼はそうつぶやいた。
長崎に暮らす彼の祖母は、戦争と原爆を体験し、家族や友人達を亡くしている。「戦争は原爆は惨かとよ…」という祖母の言葉は、彼にとってとても重い意味を持つ。

ぼくはその言葉の重みの何十分の一も知らない。ぼくとっての戦争は、教科書の中にある遠い記録の中の出来事でしかなかった。原爆を身近に体験した、あるいはその土地で暮らす人たちのほんとうの気持ちを、どうやったら知り得るというんだろうか。できるのは、ただ想像するだけである。
ぼくはまた彼の祖母のことも知らない。どのような人物であったのか、まったく知らない。

にもかかわらず、彼の天皇陛下についてのツイートを読んだ時にぼくが連想したのは彼の祖母のことだった。いや正確には、彼の、祖母に対する慕情のことだ。彼が陛下について抱く「恋にも似た淡い気持ち」は、彼の祖母に対するそれと相通じるものがあるんじゃないかと、ふと感じたのだ。くり返すけれども、ぼくは彼の祖母のことを知らない。だからこれは単にぼくの見当違いな妄想かもしれない。

原爆という体験をくぐり抜けて、誰よりも家族のことを思い、畑と料理を愛し慎ましやかに生きた彼の祖母。おそらく大きなことを言うような人ではなかったのではないかと思う。難しいことは何も語らずとも、その姿からにじみ出る何かが彼に大きな影響を与えたのではないだろうか。つまり愚樵さんが言っていたように、ただ「手を合わせる」だけでその姿の様になっていること。

そのような「形」にはそう簡単になれるものではないのだろう。なりたくてなれるものでもないだろう。ただ自然にそうなっていくことでしか。

彼が祖母に関するツイートをするとき、ぼくはなんとも言えない気持ちになる。うらやましく思うとともに、読んでいるだけであたたかな気持ちになる。一度も面識のない、よく知らない家族なのに。それは、そのつぶやき自体が祈りだからなのかもしれない。


ただ手を合わせる

藤原新也氏が、亡くなった兄を追悼して四国霊場に赴き、ひたすら無心に手を合わせる自身の様を綴った『なにも願わない手を合わせる』という本がある。だいぶ前に一度読んだきりなのでどういう中身だったか忘れてしまったが、ふとこの本のことを思い出した。



『なにも願わない手を合わせる』という表題にすべてが表れているような気がした。
鎮魂とはそのようなものであるかもしれない。静かに耳をすませること。天皇陛下・皇后の祈りとは、そういったものなのかもしれない。

そしてひょっとすると、そのように「削ぎ落とされた姿」になった時に、人はその人の姿に仏を垣間みるのかもしれない。


なにも願わない手を合わせる

なにも願わない手を合わせる 2012.03.14 Wednesday [妄想] comments(0)
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天皇の祈り

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当日はニュースも見なかったので実際の映像は見ていないのだけれども、ツイッター上で天皇陛下のおことばが話題になっていたので全文を読んでみようと思った。

〈東日本大震災追悼式〉天皇陛下のおことば全文 - 朝日新聞より
東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。

 1年前の今日、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。

 さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。

 この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のために様々な支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。

 また、諸外国の救助隊を始め、多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。

 被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。

 今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。


ついでと言っちゃなんだけど、ついでに野田首相の式辞も全文転載しておく。

〈東日本大震災追悼式〉野田首相の式辞全文 - 朝日新聞より
本日ここに、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、東日本大震災1周年追悼式を挙行するに当たり、政府を代表して、謹んで追悼の言葉を申し上げます。

 多くの尊い命が一時(いちどき)に失われ、広範な国土に甚大な被害をもたらした東日本大震災の発生から、1年の歳月を経ました。

 亡くなられた方々の無念さ、最愛の家族を失われたご遺族の皆様の深い悲しみに思いをいたしますと、悲痛の念に堪えません。ここに衷心より哀悼の意を表します。また、今もなお行方のわからない方々のご家族をはじめ、被災されたすべての方々に、心からお見舞いを申し上げます。

 亡くなられた方の御霊(みたま)に報い、そのご遺志を継いでいくためにも、本日、ここに三つのことをお誓いいたします。

 一つ目は、被災地の復興を一日も早く、成し遂げることです。

 今もなお、多くの方々が不自由な生活を余儀なくされています。そうした皆様の生活の再建を進めるとともに、生まれ育ったふるさとをより安全で、住みよい街として再生させようとする被災地の取り組みに最大限の支援を行ってまいります。

 原発事故との戦いは続いています。福島を必ずや再生させ、美しいふるさとを取り戻すために全力を尽くします。

 二つ目は、震災の教訓を未来に伝え、語り継いでいくことです。

 自然災害が頻発する日本列島に生きる私たちは、大震災で得られた教訓や知見を、後世に伝承していかなければなりません。今般の教訓を踏まえた全国的な災害対策の強化を早急に進めてまいります。

 三つ目は、私たちを取り結ぶ「助け合い」と「感謝」の心を忘れないことです。

 被災地の復興には、これからも、震災発生直後と同様に、被災地以外の方々の支えが欠かせません。また、海外からの温かい支援に「恩返し」するためにも、国際社会への積極的な貢献に努めていかなければなりません。

 我が国の繁栄を導いた先人たちは、危機のたびに、よりたくましく立ち上がってきました。私たちは、被災地の苦難の日々に寄り添いながら、共に手を携えて「復興を通じた日本の再生」という歴史的な使命を果たしてまいります。

 結びに、改めて、永遠に御霊の安らかならんことをお祈り申し上げるとともに、ご遺族の皆様のご平安を切に祈念して、私の式辞といたします。


この両者の発言を、ぼくはツイッターのTLで知ったんだけど、ほとんどは天皇陛下の発言を賞賛するものと野田首相の発言をdisったもののようだ。いつもの光景といえばそうなんだけど。

さらに、NHKのニュースで天皇陛下の発言が一部カットされて放送された(「放射能の問題を克服しなければならない」の部分が削られたらしい)というので、恣意的な報道であるとか言論統制だというツイートも多くあるようだ。で、そういった脊髄反射的な反応に対する、脊髄反射的な批判も散見される。たしかにテレビが映像を編集するのは当然だし、ぐぐればすぐに全文読めるのでべつに言論統制とか隠蔽とか騒ぐほどのことでもないと思う。ただ、天皇陛下のことばぐらいはカットせずに流してもいいんじゃないかと思う。そんなに長いわけでもなし。

ひとつだけ首相を擁護しておくと、天皇と首相ではそもそもの立場が異なり、発言の土俵も異なる。祭祀をしごととし「祈る人」である天皇が、被災地や国民に対して文字通り「祈る」のに対して、政治的な立場で指揮をふるう首相の発言というものがいささか大仰になるのは致し方ないのかもしれない。まあそれを差し引いても野田首相の言葉がまったく胸に響いてこないというのは同感であるが。ありもしない「絆」を声高に叫ばれても、しらけるだけなのだ。首相の言葉は、震災以降、マスメディアに溢れたつるつるでのっぺらぼうな言葉の羅列なのだ。そこに政治的な意図が加わり、説教臭さが加味されるのも発言を寒々しくしている。

言わんとしていることは似たようなことなのに、なぜ天皇陛下のことばは多くの人に受け入れられるんだろうか。ぼく自身、今上天皇のことばっていうのは、すっと心に入ってくるような気持ちがする。

今上天皇のことばには説教臭さがない。国際社会を鋭く分析するわけでも、べつだん特別なことを言っているわけでもない。なのに、なにか事があると国民は天皇のことばを「待って」いる。そしてそのことばを聞くと、なにかに「包まれる」ような安堵感を抱く。程度の差はあれ、ぼくの中にもそういう気持ちが、ある。


天皇とわたし

日本人にとって「天皇」とは何なのか。いや、もっと具体的に。ぼくにとって「天皇」とは何なのか。それを考えることは、日本に住まう者として、自身をマッピングする上では避けては通れないような気がする。「日本国及び日本国民統合の象徴」とされる天皇が、自分にとって曖昧でもやもやとした存在であることは、自分が根無し草であるという思考回路に結びついているかもしれない、というのは考えすぎだろうか。

しかしそれを考える上でひとつ障壁がある。天皇に関する世間一般的な「情報」っていうのは、「皇室アルバム」みたいな当たり障りの無い報道か、もしくは「天皇制」をめぐる賛否的な論争か、であり、下手なことをいうと「不謹慎」だと噛み付いてくる人がたくさんいるような、ある意味ではタブーに近い話題なのだ。だからだいたいは「皇室アルバム」でお茶を濁す。ぼく自身は「天皇制」に対しては、とりたてて感慨を持っていない。というか議論をするほどよく知っていない。よく知らないけれども、今上天皇に対しては(テレビでの映像を通して見ただけだけれども)好意的な印象を持っている。

震災前の話になるが、内田樹さんと平川克美さんが対談の中で天皇について触れた部分がずっと印象に残っている。
たぶん月刊「はなし半分」2011−2月号 - ラジオデイズより
平川: 日本は権力が空白。これってすごいシステムだよね。
内田: たとえば日本の天皇制ってよくできてると思うよ。
平川: 中空にイノセントがあるんだよ。
内田: 名前を持たない人がいる。個人じゃない。住所が無いし、姓が無いし、選挙権が無いし、市民権が無い人がいて、その人が国家の統合軸になっていて、何をやってるかというと祭事をやっている。五穀豊穣を祈ってるんだよ、日々。宗教権威の人が国家統合の中心にいるなんて、よくできたシステムだなあと思うよ。
平川: これは世界に輸出できるね(笑)

 (中略)

平川: 昭和天皇がイギリスの立憲君主制に学んで「君臨すれども統治せず」というのが理想だと言ったけれども、実際には、君臨もしないし統治もしていないんだよ。尊敬とかパワーで押し付けるというんじゃなく、愛の対象みたいな感じで…、みんな好きなんだよ。
内田:好きだねえ(笑)。日本人ってこんなに天皇が好きなんだっけって思うよ。


そう、ぼくはたぶん他の多くの日本人と同じように、天皇が「好き」なのだ。とくに、天皇家(皇族)に対してはそれほどでもないのに、今上天皇に対しては敬慕の念を抱くのである。なぜなんだろうか。

それって、「人として」好きなのか。それとも「政治的に」好きなのか。あるいはもっと違う「なにか」なのか。

ただ単に人として好きであるならば「皇室アルバム」でもいいんだけど、なんだかそれだけでは足りないような気分になってしまった。かといって「天皇制」に関する話題に噛み付きたいわけではない。もっと「天皇」自身について知りたいと思うのだ。


天皇とは祈りの人である。

天皇は憲法の定める「公務」と伝統的な「祭祀」を行う。「まづ神事、後他事」の言葉があらわすように、最も重要視される「祭祀」は現在も大切に受け継がれ、古代からの方法で、祭儀が執り行われている。(引用元

宮中祭祀を執り行い、国家と国民の安寧と繁栄を祈る存在。
天皇は国民のほうを向いて祈り、国民は天皇のほうを向いて頭を垂れる。これは古来から自然発生的に行われるものであって、決して政治的な意図が先にあるものではないと思う。合理的な経済理論で説明できるものでもない。そうせずにはいられない「なにか」がぼくたちには内在しているのではないか、つまり八百万の神々を「祀る」ことを生活の傍らに置いてきた日本人の祖先から引き継がれる、DNAに刻まれた「なにか」なのかもしれない、と思うのは大袈裟だろうか。

冒頭に挙げた天皇の発言が、首相の言葉と異なり多くの人に受け入れられるのは、発言自体が「祈り」であるからだと思うのだ。「祀る」ことで、ぼくたちの心は癒される。この世に生を受けている者としての立ち位置を確かめることができる。

葬式って何のために行われるのか。死者を弔うとはどういう意味なのか。内田樹さんは「「聞こえていた言葉がしだいにか細くなってゆき、やがて聞こえなくなる」まで耳を澄まし続けるというのが服喪儀礼である。」と述べている。

内田樹Twitterより
宰我は孔子に「三年の喪は、期にして已に久し」と服喪期間が長すぎると不満を告げます。それに、まあ好きにすればいいよ言ったあと、孔子はこうつぶやきます。「子生まれて三年、然る後に父母の懐を免がる。予や、三年の愛其の父母に有るや」

赤ちゃんのとき父母から受ける愛を僕たちは主題的に意識することも、論理化することもできません。それはすでにそこに空気のようにある。やがて、子どもはその「コクーン」から出て勝手に大人になってしまう。

そして、父母を喪ったときに、はじめて自分に向けて父母が語りかけていた「赤ちゃんだったときには理解できなかった言葉」を遡及的に想像することになります。服喪とは自分自身の育ってきた過程を俯瞰的に把持することです。それは「愛」の意味について、もう一度徹底的に考えることです。

赤ちゃんが最初は理解を絶していた父母からの言葉をゆっくり理解し始めるように、服喪者は死者の声がだんだん遠く、やがて聴こえなってゆくまで耳を澄ませる。最後に何も聴こえなくなる。それが「聴く」ということの起源的な形態ではないのでしょうか。心耳を澄ませて無声の声を聴く。


「声なき者の声を聴く」ことが服喪だと言うのだ。ぼくはこの話をはじめて聞いたときに目から鱗が落ちる思いだった(もっと詳しい説明は内田氏のブログ「声を聴くことについて」を参照)。そして、「声なき者の声を聴く」とは、「祈り」にも通じる行為なのではないかと。

震災後の日本に、ほんとうに必要であったのは、「祈り」あるいは「喪」の作業だったのだ。

『原発と祈り』内田樹×名越康文×橋口いくよより
生き残った人間が死んだ人間に対して、鎮魂の儀礼をするっていうのが人間の営みのほとんど、8割ぐらいを占めているんじゃないかな。


内田さんはこの記事でも、今日本人がまずなすべきなのは「原発供養」であると言っている。震災後の日本に溢れた「がんばろう」や「つながろう」もたしかに大事だけれども、その前にぼくたちは喪に服する時間が必要だったのだ。声なき声に静かに耳をすませる時間が必要だったのだ(あるいはそれはいまもまだ必要なことかもしれない)。「絆」とはひょっとすると、そういった行為の後に、自然発生的に生まれるものなのではないか。

内田さんは服喪についてこう結んでいる。
服喪儀礼とは、死者に対して礼を尽くすことが目的ではない。
死者に対して礼を尽くすことを通じて、「存在しないもの」とかかわる術を学び、人間性を基礎づけることが目的なのである。


不測の事態に見舞われたときに、日本人が天皇のおことばを「待つ」ような心情になるのは、「祈り」や「喪」という行為の重要性を(あたまでは知らずとも)肌で知っているからなのかもしれない。

「祈る人」としての天皇に対して、多くの日本人は敬慕の念を抱く。ぼくもそうだ。今上天皇に対する好意的な感情は「政治的」なものでは決してない。天皇への敬慕を理由に、自身の政治的立ち位置を決める気にはなれないし、敬慕の念を抱くとは言っても過剰にベタベタしたくはない。

この辺りの距離感をうまく表してくれるような天皇論にぼくは出会ったことがない。「皇室アルバム」も「天皇制」もいまいち馴染めなかった。だから天皇はよく知らないし遠い存在になってしまうのかもしれない。


祈りのゼロポイント

「天皇と祈り」について、とても興味深い考察をされている愚樵さんのブログ。
祈りのゼロポイント - 愚樵空論

同記事より。
天皇とは「祈りのゼロポイント」なのかもしれない。
天皇は国と国民の平穏無事を祈る。国民は天皇の平穏無事を祈る。多様な祈りはゼロポイントに収斂し、再生され、循環する。そのような「流れ」の一部を観たような気がした。


ちなみにこれは「トーラス」という概念から想起されたものだそうだ。トーラスをイメージ化した図がこちら。
トーラス

自然=トーラス、循環し続けるもの。
この中心=ゼロポイントに限りなく近いところに天皇は位置するのではないかと愚樵さんは考察している。
たいへん腑に落ちる説明だとぼくは思った。ぼくが今上天皇に抱くイメージと、このトーラスのイメージ図は共鳴する部分が大きい。

「声なき者の声を聴く」ことが服喪であると先に書いた。これはまさに天皇の祈りでもあると思った。天皇は国民の繁栄を祈る。しかし国民のひとりひとりが自己の願いを天皇に届け出ているわけではない。天皇は選挙で選ばれたわけでもマニフェストを掲げたわけでもない。天皇と国民の声が交わる場というのはそんなに多くない。では天皇はどうやって国民の声を聴くのか。それが「祈る」ということなのだろう。「祈る」とはすなわち「声なき者の声を聴く」ということなのだ。

「祈り」は、天皇という立場によって無条件に与えられるものではない。明治天皇や大正天皇は宮中祭祀にあまり熱心ではなく、侍従らが代拝するのが主であったそうだ。昭和天皇、今上天皇・皇后は祭祀にきわめて熱心であり、ほとんどの宮中祭祀に代拝を立てず御自ら出席している(Wikiより)。

今上天皇がこれほど日本人に慕われているのは、今上天皇が誰よりも「祈る人」だからなのだと思う。「声なき者の声」に静かに耳を傾けるその姿に、ぼくは知っているようで知らないなにか、あるいは知らないようで知っているなにかを垣間見るのだ。

ぼくたち国民自身も「祈り」や「喪」の中に生きている。だから、天皇のことば=祈りを中心としてそのトーラスの流れの中に自己を感じるときに、なにか包まれるような安堵感を抱くのではないだろうか。



「祈る人」としての天皇に対して、多くの日本人は敬慕の念を抱く。今上天皇に対する好意的な感情は「政治的」なものでは決してない。と同時に、天皇とはどうしようもなく「政治的」な立場にある存在でもある。「天皇制」というシステムを政治的に利用しようとする人たちが少なからずいるようだ。天皇陛下自身の言葉と、「天皇制が好きな人」が語る言葉が乖離してるとさえ感じることもある(関連:国旗国歌問題)。

日本国の元首はいったい誰なのか、戦争と天皇について、なども考えないといけないだろう。ぼくは未だそれらに関する知識もないので、「天皇制」についてはここでは論じない。

天皇陛下自身を悪く言う人ってほとんどいないと思う。天皇制や君が代に対して嫌悪感を抱く人はいるかもしれない。それって、天皇や君が代それ自身に対する嫌悪じゃなくて、天皇制や君が代を利用して自己のイデオロギーを担保しようとする人への「ケシカラン」であると思う。でもけっきょくそれらって左右のふれ方が違うだけで、嫌悪感を表明することで自己のイデオロギーを担保しようとするという意味では同じなんだよなあと。どっちにしても天皇を利用しているように見える。

当の天皇陛下自身は、そんなものを超越したところに存在しているように感じるのだ。そう感じさせてしまうほどに、今上天皇は「祈りの人」である。

ぼくは天皇についてまだまだよく知らない。
ということは、自分自身のこともまだまだよくわかっていない。もっと耳をすましてみる必要がありそうだ。


追記:
この写真いいね。

天皇の祈り

天皇の祈り 2012.03.13 Tuesday [妄想] comments(2)
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日本語2.0 政治言語のアップデート

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ここ数日の記事で考えている、論理的思考と感性的直感とのことに関連して。

朝日新聞の「天声人語」を読んで、茂木さんが朝から憤慨していた。曰く、このコラム欄は季節の移り変わりなどのエッセイとしては秀逸だけれども、政治のネタになるとひどいと。「緻密なロジックと世界観で語るべきことを、花鳥風月でごまかすから、読むべき見識が一つもない」との指摘に、なるほどなあと思った。

茂木健一郎連続ツイート「天声人語はいっそのこと、紅旗征戒わが事にあらずを貫いてはどうか」 - Togetterより
日本における「随筆」という言葉は、たとえば吉田兼好や清少納言のそれを思い起こさせるのであろう。感性に根ざして、簡潔に自然の動きや心のゆれを表現する。短い文章の中で世界観を示すわざは、日本語の一つの「精華」であって、末永く受け継いでいかなければならない。

英語のessayを、吉田兼好的な随筆と、狭くとってしまっているところに、日本の文化の掛け違いが生じているように思う。たとえばノーベル賞学者クルーグマンのコラムはessayではあるかもしれないが、随筆では断じてない。政治や経済を論ずるのに、徒然草のスタイルはなじまない。

なごり雪や桜の花のほころび、子どもの笑顔を描写するのには適した「随筆」のスタイルは、残念ながら、政治や経済のことを論ずるにはまったくそぐわない。多くの人の利害にかかわり、場合によっては国の命運がかかることは、硬質で、論理的に緻密な記述にならざるを得ない。

朝日新聞の天声人語は、花鳥風月を論じたときにはさすがに冴えがあり、吉田兼好の伝統を引き継いでいると評価できる。しかしこれが政治や経済になるとからっきしダメなのであって、それはスタイルが合っていないのだということに、もうそろそろ気付いて止めたらどうか。

政治をあいまいな雰囲気で語り、最後は「こまったものですね」とか、「もっとしっかりして欲しいものです」と締める「天声人語」話法は、テレビを始め、日本のメディアを侵食して、政治的言説を劣化させている。時には、書かない勇気も必要。随筆家には随筆家の誇りを貫いてほしい。


庶民が政治のことを語るときって、論理的思考ではなく精神論や雰囲気(たいがいはケシカラン)で語られるのが常套であり、ぼくなんかもだから政治の話題は好きでなかったし、意見の違いが人間関係の対立になっちゃう場面もよく見かけるので、なるべく近づかんでおこうと思ってしまう。それは茂木さんの言う『政治をあいまいな雰囲気で語り、最後は「こまったものですね」とか、「もっとしっかりして欲しいものです」と締める「天声人語」話法』の弊害かもしれない。

新聞(権威)に書いてある、偉い人(権威)が書いた言説を、あたかも自分の政治的意見であるかのように錯覚する。さらには、ほんらい論理的であるはずの話に、自分の感情を勝手に投影してしまう。こういう政治談義をよく見かける。だから、政治の話はケシカラン的な話法ばかりになる。内田樹氏はこの記事で<長い自己欺瞞の訓練によって、イデオロギー主導で、ヒステリックになったり、激昂したり、涙ぐんだりできる人間たちが生まれた。>と考察している。他人の立場を代弁して(したつもりになって)熱弁をふるうという行為は、実はそこに自分のイデオロギーや感情を勝手に投影して自己満足しているという場合が多いのではないか。そういうご意見は、一見すると熱くて道理が通っていてもっともなように聞こえるのだけれども。

政治的議論っていうのは、すべてを解決する万能のソリューションを見つけるためではなく、お互いの落としどころを探るためにクールに論理的に話し合いをしなきゃいけない。だからまず自分自身の立ち位置をマッピングできなければ始まらない。政治的思考とは、テレビや新聞で展開される、彼らの尺度に沿った政治言語を、彼らの尺度に合わせて理解することではなく、自らのいのちと生活をもとにして、自分を主語に据えて、自分のことばにたぐり寄せること。

だからエッセイのような情にまかせた感覚ではなく、論理的な思考が必要であるという意見はその通りだと思うし全く同意するのだけれども、ぼくは同時に、はたして日本人に(庶民レベルで)論理的思考が可能か?とも思ってしまう。茂木さんの言うように、読み手の感性にたよるような花鳥風月の世界を表現するのに日本語はすばらしく長けている。でも、舶来モノの民主主義を咀嚼するのにはちょっと向いていないのかもしれない。

日本人は議論が苦手だとよく言われる。これって、国民性もそうだけど、日本語が欧米式の議論に向いていないという面もあるのかと思う。花鳥風月を愛し、季節の移ろいや、細やかな感情の機微を繊細に表現する日本語のもとで日本文化は育まれてきた。逆に言うと、日本文化(そしてそれを形成する人々の営み)が日本語にそのような役割を要請したともいえる。欧米のように、住民が自らの意志で民主主義を確立していくならば、人々がコミュニケートし意思伝達するためには、そのための言語が必要であり、だから英語とはクリアカットな言語なのではないかとぼくは想像する。

脳についての研究で知られる池谷裕二さんが、日本語と英語の違いについてたいへんおもしろい記事を書いておられる。

カタカナ英語でいいんじゃない?= 通じる発音イロハニホヘト = 池谷裕二

なぜ日本人が話す英語(ジャングリッシュ)は外人に通じないのか、主に発音に関しての考察が詳しく書かれている。おもしろいのは日本語と英語という言語の根本的な違いである。英語は「発声技巧」の言語、日本語は「想像力」の言語なのだと池谷さんは語る。これはとても重要な視点だと思う。以下、リンク先から抜粋しつつ説明する。

英語は、豊富な発音数を誇り、同じ発音を使って異なる意味を表すことが日本語に比べれば圧倒的に少ない。彼らは喉から出す「有声音」以外に、舌や唇や鼻をつかった「shシュ」「chチッ」「tsツッ」などという乾燥した音を出している。日本人にとって、あの音は単なる雑音にすぎないのだが、彼らはそれをも利用して単語を言い分けている。「close」と「cloths」を区別するためにはそうした子音を正確に利用できなければいけないのだ。まさに英語とは「発声技巧の言語」なのである。

われわれ日本人は、数多くある単語の中から、いま耳で聞いた「かこう」という音がどれに対応しているかを逐一判断しながら会話をしているのである。「手紙をかこう」と聞けば「書こう」を思い浮かべるだろうし、「墨田川で船に乗ってかこうまでかこうした」といえば「河口まで下降した」となるだろう。私たちは耳から聴いた言葉の意味を、無限の組み合わせの中から的確に選び抜いて、瞬時に理解するという過程を延々とくりかえしている。想像しながら聞く。日本語とは「想像力の言語」なのだ。


ここで説明されているのは、「いま発音されていることば」が「どういう単語」なのかを識別する、その識別の仕方の違いである。英語には同音異語が少なく、日本語には同音異語が多いということだ。池谷さんの言うように、ぼくたちは耳から聴いた言葉の意味を、多くの組み合わせの中から的確に選び理解している。たしかに英語の方がクリアカットであるが、日本語でも文脈を読んでいけば間違えることはあまりない。

ぼくが、欧米式の議論に日本語が向いていないのではと思ったのは、発音→意味への識別の相違そのものではなく、日本語と英語ではなぜそのような違いが生じたのかという理由にある。

英語の場合、音が発せられて空気を伝わる時にはすでに音表が細かく分化されているため、聞き手はただ聞こえたままを理解すればよいことになる。この意味で、英語は「話し手」の発声能力に依存した言語であるといえる。一方、日本語は「聞き手」の想像力を頼りに会話をする。相手任せの言語である。まさにこの相違点こそが問題なのだ。


ここから先はぼくの想像である。英語とは、人と人が協議し、民主主義的なプロセスを経てコミュニケートするために、情報を「正確に」伝達するために作られた言語なのだ。ひとつの発音にひとつの意味しか持たないので、論理的な議論の場において、誤読されることが少ないのではないかと思う。クリアカットな言語は、論理的にものごとを決める風土が要請したのである。「話し手」の意志がまずありきなのだ。

それに対して、日本語は「聞き手」の想像力を頼りにする。移ろい行く季節や、細やかな感情の機微など、聞き手の感性に依存するような風情を表現するのが、日本の風土であるとしたら、そのような風土が要請するのはクリアカットで正確な言語ではない。雰囲気のある情緒的な言語だ。だから日本語は、「話し手」の意志よりも「聞き手」の感性に委ねられる。

長らくそのように風情的なものとして紡いできた日本語を、戦後に輸入した民主主義にそのまま当てはめようとするところに齟齬が生じるのではないか。論理的な対話の場面でも「聞き手」の想像力に頼るという特性はそのままであるため、話し手の言葉がどんどん曖昧になってしまう。

政治の場でそれは顕著に現れる。民主党にしろ自民党にしろ、多くの政治家が話す言葉(すなわち官僚のつくった作文であるが)は、のっぺらぼうである。「話し手」の意志がない。首相や大臣の首が簡単にすげ変わっても政権がそれなりにやっていけるのは、政治の場において話し手はのっぺらぼうであり「誰でもいい」からである。話し手に意志がなくとも、ある程度のことが成立してしまうのは、「聞き手」が勝手に想像してくれるからである。ほんらい論理的であるはずの話に、自分の感情を勝手に投影してしまう。

たとえば「自己責任」という言葉。ほんとうは話し手がどのような文脈でこの言葉を使っているのか、背後関係を見なければならない。ところが、「自己責任」という言葉のもつイメージ、ニュアンスを聞き手が勝手に想像して、自分が受け取りたいイメージを勝手に投影してしまう。ある人にとっては自己を戒める言葉であり、ある人にとっては他人を断罪する言葉であり、往々にして発言する側にとっては責任転嫁の言葉でもあったり。政治の場で使われる言葉は漠然としていて気分や感情に訴えかけるものが多い。言葉がどういう文脈で使われているかの中身ではなくて、言葉が持つなんとなくのイメージ(質感)だけが先行してしまうことが実に多い。テレビは、いかに言葉のイメージを植えつけるかっていう情緒的な装置の王様だ。

イメージだけで互いの人格を罵倒しあって、それが「議論」だと思っている人がネット上には割と見られる。実生活ではそんな人ばかりではないのは分かっているし、たぶん少数派なんだろうけど、ネットの世界ではそういう声の大きな人の意見が目立ってしまう。発音→意味の識別だけではなく、その言葉の意味さえも聞き手の抱くイメージによって解釈が委ねられがちな日本語では、そもそも議論の土台そのものからすれ違いも多いような気がする。だから、日本語って、欧米式の論理的な議論には向いていないんじゃないかと思うのである。

これはべつに日本語が英語に比べて劣っているという意味ではない。花鳥風月を表現する日本語の繊細さはすばらしいし、そこから派生する日本文化もぼくは大好きである。「受け手」の感性に委ねるというのはある意味、本質的であるとさえ思う。たんに議論は得意ジャンルじゃないよねってことだ。であるならば、話は簡単だ。論理的な議論を行う時には日本語、少なくとも政治言語のアップデートが必要であるということだ。

今まで政治オタクたちが使ってきたような、自分を主語としない政治言語では花鳥風月にしかならない(いや、実際には花鳥風月どころか、属人的なケシカラン論にしかなっていないわけだが)。日本語に行われるべきアップデートとは、「話し手」の意志を取り戻すことではないかと思う。それはつまり、政治のことを、テレビや新聞の中の出来事から、自分の暮らしや身体、いのちの側に引き寄せるということでもある。

津田大介氏がやろうとしている政治メディアや、東浩紀氏の提唱する一般意志2.0のフィードバックっていうのは、政治の言葉を手元に引き寄せるってことになるんじゃないかと、ぼくは期待している。

以下、前々回の記事にも載せたが、一般意志2.0についての東氏のインタビューを再掲しておく。

「一般意志2.0」を現在にインストールすることは可能か?(1)東浩紀× 荻上チキ - SYNODOS

政治的な討議は一般に、自分の身元を明らかにし、知識を持ち、熟慮の上で議論に参加するべきものだと思われていますね。しかし、ぼくがこの本で述べているのは、そうではない参加のしかたもあっていいのではないか、という提案です。ただし、それは同時にすごく制限されたものにもなる。その制限された参加のしかたが、たとえばヤジとか拍手のようなものでもいいのではないか、ということです。したがってコメントには民度は必要ないんですよ。

古代のアゴラで、政治家たちが演説をしていたとする。そのときその周りにはもちろん政治家でもなんでもない人たち、市民が取り巻いているわけですね。その市民たちがヤジを飛ばしたり拍手をしたりしていた。彼らの意見のひとつひとつは演説している政治家にはわからない。でも「この主張が受けている」とか「これは方向が違う」とか、一種のフィードバックは起きているわけですよね。そのフィードバックを回復すべきであるというのが『一般意志2.0』の骨子です。

「大衆の無意識に従え」というわけではなく、かといって大衆の意志を排除して熟議だけで物事を決めろというのでもない。熟議と大衆の無意識のあいだのフィードバックをどうやってつくるか、それが重要だと考えています。

この本には書いていないけど、古来、多くの「みんなで決める」というのは、おそらくそういうフィードバックのプロセスだったと思うんですね。たとえば100人で何かを決めるとして、そのなかの専門家10人に決定を委ね、彼らが密室で決めたことに90人が従う、というのはやはりかなり人工的な制度です。いまはそうなってしまっていますがね。自然なかたちは、おそらく、10人が決めるその周りを90人が取り巻いて、その「空気」を見ながら10人も議論していたというものだと思いますよ。


「ヤジとか拍手のようなもの」による政治への参加の仕方っていうのは、東氏が言うところの「動物的」なものであると思うのだけど、これって自分を主語とした政治言語だと思う。つまり、ある個人が生きてきた中での蓄積から生じる経験則だ。もし、それが可視化されて熟議の場に取り込むことができるようになるのならば、熟議の場というものは、ディベート論理が優位に立つ欧米式の議論から、もっと肉感性を伴ったものになる可能性があるかもしれない。日本語がクリアカットな言語に生まれ変わることはないと思うが、「話し手」の意志を取り戻すことはできるかもしれない。

そもそも「政治」って言葉を聞いたときにまずはじめに受けるネガティブなイメージをなんとかしたいよね。政治家っていちばんクリエイティブな仕事だと思うよ、ほんらい的に。

日本語2.0 政治言語のアップデート

日本語2.0 政治言語のアップデート 2012.02.22 Wednesday [妄想] comments(0)
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