『ホテル・ルワンダ』は繰り返す。

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ルワンダで1994年に起こった大虐殺を描き、話題になった映画『ホテル・ルワンダ』。
昨夜ようやく観ました。もともとルワンダの虐殺については聞きかじった程度(たしか森達也さんの著書で「ツチ族への憎悪を煽るラジオ放送が大量虐殺の導火線になった」とかそういう内容だったと思う)で、この映画も話題になったのは知っていましたが、あまりに重そうなので観るのをためらっていました。

きっかけになったのはテレビ番組。GW初日の4/27に放送された「世界一受けたい授業」に、この映画のモデルになったホテル支配人のポール・ルセサバギナさんが出演していたのです。そこで語られる大量虐殺の様子があまりに壮絶で。穏やかな表情で淡々と語るポールさんの言葉が耳から離れなくて。


ポールさんは、大虐殺が起こったルワンダのまっただ中でツチ族を自分のホテルに避難させ、銃口を突きつけられながらも1200人あまりの命を救ったという人物。映画『ホテル・ルワンダ』の主人公でもあります。

もともと緊張関係にあったフツ族とツチ族。フツ族の大統領が暗殺されたことが大量虐殺の引き金となります。暗殺はツチ族の仕業であるという流言がラジオに乗って拡散。多数派のフツ族による少数派のツチ族への虐殺は麻薬のように感染していきました。ナタでアキレス腱を切ってからじわじわとなぶり殺すという恐ろしい光景が各所で繰り広げられ、わずか100日間で100万人が殺されたといいます。


ちなみにこの映画は、採算がとれない等の理由で当初日本公開の予定がなかったそうです。映画評論家の町山智浩氏の呼びかけが署名運動にまで発展し、無事日本公開される運びとなったとのこと。

実際に映画を観てからそのことを知ったのですが、町山さんがここで言ってることに100%同意します。
「ホテル・ルワンダ」と「帰ってきたウルトラマン」 - ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記

同記事より
『ホテル・ルワンダ』を観て、「アフリカは悲惨だな。先進国が何かアフリカのためにしてやれることはないか」と思うのは、間違っている。

(中略)

わかりやすく言ってしまうと、
「アフリカのことは置いといて、とりあえず、これを観た一人一人が各人の生きている場所で隣人を愛してください。
一人一人がポールさんになってください。普段の日常から。それが始まりです」
ということですよ。

(中略)

ポールさん自身は英語版DVDの付録で『ホテル・ルワンダ』を見た人に求めることとして次のように言っている。
「ルワンダを教訓にして、この悲劇を繰り返さないで欲しい」
つまり、ルワンダへの寄付ではなくて、あなた自身の生きる場所でルワンダの教訓を活かせ、と言っている。

この映画の虐殺は「たまたま」ルワンダで起こったが、「アフリカ版『シンドラーのリスト』」と言われているように、このような虐殺はアフリカ、いや「後進国」だから起きたのではない。
世界中のどこでも起こるし、これからも起こるだろう。
そもそも『ホテル・ルワンダ』の監督テリー・ジョージはアフリカへの関心からではなく、北アイルランドで生まれ育ち、カソリックとプロテスタントの殺しあいの板ばさみになって苦しんだ自分をポールに投影して、この映画を企画した。
だからルワンダよりもポール個人に焦点を絞った。
つい、この間も「先進国」であるオーストラリアで群衆がアラブ人を無差別に襲撃する事件が起こった。ボスニアの民族浄化もついこの間のことだし、関東大震災の朝鮮人虐殺からもまだ百年経っていない。もちろんアメリカでもヘイト・クライム(差別による暴力・殺人)は起こり続けている。


他に書き足すことがないくらい、その通りだと思います。

そう、映画の感想としては、町山さんが言ったことに書き足すことはないのだけれど。どれだけ上手くルワンダのことを伝えられるか、映画のことを伝えられるかじゃなくて、ルワンダで起きたことを知って胸がざわざわしたという事実を、忘れないように記録しておきたくなったのです。だからもう少しだけ書いておきます。

実際、この映画を観た後に、なにかを軽々しく語る気にはなれません。それくらい重い映画でした。だけど画面から目が離せませんでした。これは遠い世界の出来事、アフリカという未開の地で野蛮な土人同士がやり合ったとかいう内容じゃぜんぜんない。1994年、まだつい最近のこと。ぼくが18歳の時に、多数派が少数派をナタで叩き殺すという光景がルワンダでは起きていた。

映画では、フツ族がツチ族を「ゴキブリ!」と呼ぶ場面が何度も登場します。それからツチ族への憎悪を煽るラジオの存在も。

虐殺の現場にはいつもラジオが聞こえていたそうです。

ルワンダ虐殺の被害者映像と煽動者たち - NHKスペシャル(Youtube)より
マリファナ吸ってもりあがろうぜ
ゴキブリどもを血祭りにあげよう

心配いらない ラジオが味方だ
だから武器を取って家を出よう


ポールさんによれば、ホテルの周りには麻薬でハイになった民兵がウロウロしていたそうです。

在日朝鮮人を「ゴキブリ!」と罵るデモが存在します。「殺せ」という文字まで出ている。もちろんそんなものは市民権を得ていませんけれども。現在進行形の日本の話です。彼らは麻薬はやっていませんが、ある種の“お祭り”的な連帯感、団結感に熱狂しているようにも見受けられます。在特会のひとりひとりは真面目な若者なのです、と同団体を取材し続ける安田浩一さんは語っています(参考)。

ジェノサイドなんて近代社会で起こりっこない。日本で虐殺なんて起こりっこない。そう考えるのがふつうです。ぼくも、まあそう思っています。ただ、虐殺は起きなくとも、陰湿ないじめならいくらでも起こりますよね。それはたとえば生活保護の問題や、体罰の問題などとして顕在化している。これからもっと出てくるでしょう。

実際にラジオを聞いていたルワンダ人は、「ラジオからは人殺しがいいことのような放送が聞こえていた。まるで殺すのが当然みたいに。」と語っています。

ルワンダ虐殺の被害者映像と煽動者たち - NHKスペシャル(Youtube)より
家に隠れていた子供たちを僕が自分で殺しました。
ラジオが村を変えました。仲の良い隣人や家族までお互いを疑うようになっていったのです。
(4人の子供を殺害したという20歳の若者)


生活保護受給者を叩くのはまるでいいことであるというような空気が醸成されつつあります。密告を推奨するような動きまである。

日本で虐殺なんか起こりっこない。そう思う人は、在特会でググって動画でも見てみてください。胸くそ悪くなりますが…。それが現在進行形の日本です。近隣諸国との火花を煽る首相に、中東に対して無用な喧嘩を売る都知事。世界からは「Japan Moves Right」と見られているのは間違いないでしょう。

そんな、いまのこの時流の中で、「世界一受けたい授業」という番組がゴールデンタイムにポールさんを出演させたというタイミングの意味を考えています。お食事時のお茶の間に合う内容ではない。誰の意図かは分かりませんが、メッセージを感じずにはいられない。政府(=米国と財界)に追随して大本営発表に終始するマスコミ各社に対する、制作側のせめてもの抵抗なのではないか、とか。


番組中でポールさんはこう言っていました。

フツ族とツチ族にはもともと違いがないのです。

ぼくはこれがいちばんの驚きでした。フツ族とツチ族というのは、もともと人種も言語も文化も宗教も同じであり、ルワンダがベルギーの植民地になったときに、ルワンダがひとつにまとまらないように職業などによって適当に分けられたものなのだそうです。なのに今でも根深い対立が存在するといいます。フツ族とツチ族の夫婦はたくさんいるし、職場や生活圏では両者は普通に共存しているにも関わらず。

どうしたって、重なって見えます。関東大震災の時に起きたというあの事件と。そして新大久保などで現在進行形のデモという名のヘイトスピーチと。あるいはそれだけじゃなく、何かしらの意図をもって作られた対立構造というものがあちこちに存在してやしないかと。


もうひとつ町山さんの記事より引用。

『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない!この人を見よ! - ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記より
このルワンダの事件を、遠いアフリカの出来事として観ても意味がない。虐殺は、どこの国でも起こってきたし、これからも起こり得ることであって、私たちは誰でも、人を差別して迫害する、虐殺の種を秘めている。


もういちど繰り返しますが、フツ族とツチ族にはもともと何の違いもありません。植民地化された時に宗主国の都合で作られた対立なのです。

そしてぼくらは誰もが虐殺の種を秘めている。

大事なのは、そのことに自覚的であるかどうか。なぜなら虐殺を煽動したのはラジオ放送というメディアだからです。自分はぜったいに差別なんかしない、不正は許さない、毅然とした態度を貫く。そういうふうに思い込んでいる人ほど、直情的な報道に煽られやすいものです。差別する意図は無かったなどと言い訳しながら差別をするのはそういう人です。ナタを持って踊りに行くのはそういう人です。

政治の2ちゃんねる化と蛸壺化が加速しています。報道はすさまじい速度で劣化している。たぶんもう止まらないでしょう。有権者の2ちゃんねる化と蛸壺化も同じです。行くところまで行かないと気付かない。そうなった時にせめて自分の家族だけでも沈没しないように手綱を編んでおくというぐらいしか、もう出来ることはないんじゃないか。ポールさんは結果として1200人を救うことになりましたが、彼がいちばん救いたかったのは家族です。そんなことを思いました。


『ホテル・ルワンダ』は繰り返す。

『ホテル・ルワンダ』は繰り返す。 2013.04.30 Tuesday [音楽・映像] comments(1)
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春の陽気にリップスライムを聴いた

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金曜の夜に降った雨で、駐車場の傍らに残っていた雪もだいぶ溶け、山形市にも春の気配がやってきた週末。日射しもやわらかく、とても気持ちのよい天気に誘われて、なんだか無性に聴きたくなったのがリップスライム。でも持ってなかったのでレンタル屋さんでベスト盤を借りてきました。

いまさらぼくなんかが紹介するまでもなく有名なバンドなんで、なにをいまさら、ですけれども。いやあ実は「楽園ベイべー」の頃にちょっと聴いていたくらいで、ほとんど追いかけていなかったんです。

いやあ、いいですね彼ら。


RIP SLYME
ワーナーミュージック・ジャパン
発売日:2005-08-31



なにがいいって、この「かる〜い」感じ。なんにも無い感じ。もちろん歌詞もあって、なんか言ってますが、ぜんぜん頭に入ってこない。「楽しさ」とか「気持ちよさ」だけを抽出したような潔さが、いいなあ。

この気持ち良さの裏には、音づくりへの職人的なこだわりもあるんだろうけど、聴く側にそんなことをぜんぜん意識させない。アーティスティックな香りがまったくしない。隣の兄ちゃんたちが集まってBBQとかなんかやってるって感じ。

褒めてます。

ミュージシャンに対してそんな褒め方があるかいという気もしますが、音楽にもいろいろあって。ぼくにとっての音楽って、生活の傍らにあるもので。その時々の気分に寄り添ってくれたり、乗算してくれたり。ああ、いまこういう感じの聴きたいなあと思う瞬間があって、それにハマる音楽を引っぱりだしてこれた時はすっごい気持ちいい(あまりシャッフルという聴き方はしません)。だから節操なく、いろいろな音楽が好きです。

北国のく寒長い冬がようやく終わり、あたたかな季節の息吹を感じるとき。これから色とりどりの春がやってくるというわくわく感。そんなときに、小難しい音楽を聴きたくないっす。日本のヒップホップにありがちな自己啓発的なリリックとか聴きたくないっす。頭あぽーんとさせて川原に出かけたりBBQとかしたくなるじゃないですか。

リップスラムの「かる〜い」感じ。なんにも無い感じ。これって、実はすごいことなんじゃないかと思ったり。押し付けがましくなく、さり気なく、傍らにいてくれる。そういうスタンスが、いいよなあと。本人たちは本人たちが好きなことをやってるだけっていう。


3月11日に、被災地に思いを馳せて感傷的な気分になるのは必然なんだけれども、それってあくまでも自分の中での感情だと思うんです。ぼくはやっぱりいまだに、絆ソングっていうのが好きになれなくて。もちろんそれで救われる人もいるということは分かる。だけど、そこに感情を込めるのはこちらの勝手であって。絆ソングのもとに、みんなが一緒に大同団結しましょうという教科書的な感じが、どうしても馴染めない。歌に感情を込めることは悪いことではないけれども、それに対する受けとめ方は人それぞれ。立場や環境によってまるで異なる。

勝手に感情を込めて同情されたり、分かったふうな口調で外野からあれこれ言われるのが、いちばん嫌だな。ぼくだったら。


だから、リップスライムの「なんにも無い感じ」っていうのは、自分と他者との関わりという関係性を前にしたときに、べつに優等生になる必要はないんだぜということを教えてくれる。リップスライム本人たちがそう思っているかは分からないけれども。彼らの音楽みたいな心地よさ、風通しの良さが、人間関係とか社会の中にあったらずいぶんラクだろうなと。つながる人はつながるし、つながらない人はつながらない。それでいいじゃんと。

そしてこれ、ベスト盤でありながらオリジナルアルバムのように聴けてしまうんです。彼らの「かるさ」は年を追っても変わっていない。このベスト盤の5年後にまた新たなベスト盤がリリースされているみたいですが、たぶんこれまた変わっていないんだろうなと思わせる。そう思わせるのが彼らの魅力なんだなと思いました。


春の陽気にリップスライムを聴いた

春の陽気にリップスライムを聴いた 2013.03.12 Tuesday [音楽・映像] comments(0)
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「歩くスピード」について Walking In The Rhythm / Fishmans + UA

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2013年3月11日。黙祷を捧げる日。

ちょうどその時間あたりに、ぼくはこの曲を聴いていた。
フィッシュマンズの名曲をUAが歌う。



歩くスピードを落として いくつかの願いを信じて
冷たいこの道の上を 歌うように歌うように歩きたい

WALKING IN THE RHYTHM
この胸のリズムを信じて
WALKING IN THE RHYTHM
歌うように歌うように歩きたい

(WALKING IN THE RHYTHM / Fishmans 歌詞より)


このライブパフォーマンスの素晴らしさだろうか、それともこの曲が持つ魅力だろうか、あるいは3.11という日付がそう意識させるのか。ぼくにはこの歌が、まるで祈りのように聴こえた。亡くなった人々への鎮魂歌というよりは、残された者としての勝手な願いという意味での祈りだけれども。

3.11を堺に、ぼくたちを取り巻く世界は変わった。正確に言うと、強制的に変わらざるを得なくなった人(その多くは望まざる生活を余儀なくされている)、それから自らの意思で変わった人、いま変わろうとしている人、そして変わらない人(変わりたくない人、無関心な人)とに分かれた。追悼の日には黙祷を捧げるけれども、それ以外は震災前とほとんど変わらないという人が多数派なのかもしれない。ぼくだって実際の生活はほとんど変わっていない。

「歩くスピードを落として」

震災後に残されたぼくらが直面しているのは、歩くスピードの問題。
復興は急ピッチで行われているようにも、ほとんど進んでいないようにも見える。復興予算が計上され、復興バブルとも言えるような建築ラッシュに沸く一方で、実際に被災地で生活をする人々が以前のような暮らしを取り戻したという話は聞かない。復興に向けて知恵をしぼり力を合わせて現地でがんばる人たちの姿。と同時に、いまも避難生活を続ける人々も数多くいる。復興と一口に言っても、同じ物差しでは測れない。政府が進める復興プランと、被災地の人々の願いとの間に、歩くスピードの差はないか。

原子力発電所が存続するのはそれが軍事目的だからかもしれない。けれども、そのためのタテマエとして語られるエネルギー問題。ぼくらが歩くスピードを落とすならば、原発は要らないかもしれない。

何かに追われるように、一分でも早く、一円でも安いものを追い求めてきた消費社会。そのニーズに応えて、店頭には画一的できれいな商品とマニュアルが陳列された。それらは、ほんとうに必要なモノだったんだろうか。歩くスピードを落としてみると、案外、足もとに小さくてきれいな花が咲いていたことに気付くかもしれない。石ころの裏に潜むダンゴムシの生態にじっと目を凝らすかもしれない。声なき声が聞こえるかもしれない。それらは実社会において「役に立つ」ことではないかもしれないけれども。

中田雄一さんのツイートより
120円の缶コーヒーを毎朝買う人は多くても、120円のお花を毎朝買う人は多くない。 それが、逆さになったら、きっと、おもしろい。


n0ri (Super Soul) ✅さんのツイートより
キューバに行った時、まぁみんなのんびり暮らしていて列車は平気で2日ぐらい遅れるしw でも誰も文句言わない。車だってクラシックカーのオンパレードで一度買ったら買い換えないんだな。動けばいいいでしょ?って当たり前の考え。 だからホームレスもいない、失業率もゼロ。医療もタダ。



Fishmans
ポリドール
発売日:1997-10-22



亡くなった方15880人。行方不明の方2694人。今も避難生活等をされている方約31万5000人。(2013年2月27日現在 警視庁発表)

福島第一原発からは現在も放射性物質が放出され続けている。それが、どれだけ実害を及ぼすものであるのかは 依然として分からない。ふるさとに帰れる人、帰れない人。自主避難を続ける人。それらを巡る意見の対立。それぞれの決断と、分断。いちど、歩くスピードを落として溝を埋めることはもはや不可能なのだろうか。

歌うように歩ける日は来るだろうか。


「歩くスピード」について Walking In The Rhythm / Fishmans + UA

「歩くスピード」について Walking In The Rhythm / Fishmans + UA 2013.03.11 Monday [音楽・映像] comments(0)
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アトムス・フォー・ピース トム・ヨーク インタビュー書き起こし(原子力発電に関して)

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レディオヘッドのトム・ヨークとレッチリのフリーらによるバンド「アトムス・フォー・ピース」が、初となるアルバムを2月20日に日本先行リリース。これを記念して、トム・ヨークとナイジェル・ゴドリッチのインタビュー動画がHostess Entertainment のチャンネルで公開されています。

バンド名の「Atoms For Peace」という言葉は「平和のための原子力」と訳されます。これは、アメリカ合衆国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領が、1953年12月8日にニューヨークの国際連合総会で行った演説で提唱した、核に対する考え方です(出典)。

インタビュー中でトムは、自身の父が原子物理学者でありセラフィールドにも出入りしていたことも含め、原子力発電についてけっこう突っ込んだ話をしています。こういうことにさらっと答えられるミュージシャンってかっこいいなと。




以下、書き起こし(というか字幕の書き写し)。

ーーバンド名は『ジ・イレイザー』の収録曲のひとつに因んでいますね。アイゼンハワー米大統領が提唱した「平和のための原子力」のコンセプトは示唆に富んだコンセプトですが、どういうニュアンスでとらえているのですか?

トム:言うまでもなく、今の時代においては多方面で非常に深く共鳴するコンセプトだよね。日本で、北朝鮮で、イランで。そしてこういうナイーブな、1950年代末に我々に原子力を強引に売りつけた手法と、その行く末にもね。
僕の父は原子物理学者で、インペリアル・カレッジ・ロンドンで学んで、1950年代末に、何の防護処理もせずにプルトニウムを入れた試験管を持って歩き回ってた。それが普通だったんだよ。危険だってことを知らなかったのさ。
だからそういうナイーブさがあって、そこが気に入った。
バンドをアトムス・フォー・ピースと命名したかった大きな理由のひとつは、そのナイーブさと、裏に潜んでいる闇、そのナイーブな考えがどういう結末に辿り着き、どう変質したのかっていう対比にあるんだよ(笑)。

ナイジェル:それってどういうことなのさ?

トム:どういうことかって?(笑)
でもそれと同時に、「平和のための原子力」という言葉の響きからして、一種の不思議な運動エネルギーを示唆するだけでなく、静けさをも表現しているよね。それは、アイゼンハワーの提唱とは一切関係ない。
また他方では、今我々が直面している危機にも思索を向かわせる。いったいどうやって電力を作り出すかっていう問題にね。スーパーコライダーだとか、人類を救うクリーンなエネルギー源を探し出せるのか、もしくは無理なのか。

ーーご存知のように日本では2011年3月11日の大震災の影響で、福島原発で事故が起こり、多くの住民が今もなお避難生活を余儀なくされ、今後の原子力発電所の在り方について多くの議論がなされています。
アトムス・フォー・ピースという名前のバンドとして、こうした日本の現状や、原発の在り方についてどのように思われますか?

トム:さっきも言ったように僕の父は原子物理学者で、英国のセラフィールド(使用済み核燃料再処理施設)にも出入りしていたんだ。原子物理学者の職を離れてからも同じ分野で仕事を続けていて、セラフィールドの施設内に積まれた使用済み燃料棒を見に行って、心配顔で家に戻ってくると「あそこで爆破事件があったりしたら大変なことになる」なんて言ってたものだよ。
それは世界共通の問題であって、使用済み核燃料の処理方法を我々は見つけられずにいるんだ。だから原子力は経済的に存続不可能だし、極めて危険だ。
それでいて、環境保護活動家である僕の親しい友人には未だ、地球温暖化のプロセスを阻止する唯一の方法だと主張する人もいる。

ナイジェル:そして、化石燃料への依存を断つ唯一の方法、とね。

トム:うん。でも全てが色々なしがらみに縛られていて、ドイツが脱原子力を打ち出して、原子力開発能力を放棄すると決めたことは、大きな前進だと思うし、日本も同じ道を選んでくれるよう願ってる。それ以外の道を選ぶことは、狂気の沙汰だよ。
それが僕の意見なんだけど、どういうわけか、物事はそうシンプルじゃないんだよね。そう訊いてる。
その一方で英国はと言えば、そっちの状況のほうが不安だよ。これは事実なんだけど、英国政府は内密に、原子力は存続不可能だと認めているんだ。核廃棄物の処理費用を負担できないからさ。経済的に成立しないし、施設を建設しようという会社も現れていない。
そんなわけで新しい施設は建設されないんだけど、政府はそれを公表できない。腰が引けている印象を与えたくないんだ。エネルギー危機から脱却する策がないとバレてしまって票を失うから、それはしないんだよ。
ただ、個人的に言わせてもらうと原子力に未来はないんだけど、原子力関連のロビー(政治活動)がいかにパワフルかってことを忘れちゃいけない。業界が衰退したら、大勢の人が莫大な金を失うし、石油業界と同じで、あらゆる方法を使って、原子力は存続可能だと見せかけるだろう。それは嘘っぱちなのにね。

ーーアトムス・フォー・ピースはしばしば「スーパーグループ」と呼ばれていますが、この呼称を使われることについて、どんな風に感じますか?

ナイジェル:トムは大好きなんだ!

トム:うん。僕の夢だったんだ。

ナイジェル:だからこのバンドを結成したんだよ。

トム:ほら、誰だっけ?

ナイジェル:エマーソン・レイク&パーマー?

トム:そうだ、エマーソン・レイク&パーマー。

ナイジェル:お気に入りのバンドだから、彼らみたいになりたいのさ!
困ったもんだよね。何をやろうが、どんな風にやろうが、レッテルを貼られてしまう。自分が果たす役割にレッテルが貼られ、自分が作る音楽にレッテルが貼られ、付き合う人たちにレッテルが貼られ…

トム:だとすると、僕のラップトップもスーパーグループの一員ってこと?

ナイジェル:ああ、だからスーパー…

トム:スーパー・ラップトップだ。

ナイジェル:うん。っていうか、こうやって続けざまにインタビューを受けると仕方ないことなんだけど、実は前のインタビューをしたジャーナリストがその質問をして、しかも次の質問が「好きなスーパーグループは誰ですか?」だったんだよね(笑)。僕らは…

トム:答えは短かったよね。

ナイジェル:ひと組も思い浮かばなかったんだ。スーパーグループって本当に奇妙なコンセプトで、彼はクリームが究極のスーパーグループだと言ったんだけど、クリームなんか好きじゃないし。

ーートラヴェリング・ウィルベリーは?

トム:そうだった、彼らがいた!

ナイジェル:僕らの場合、クリームよりトラヴェリング・ウィルベリーに近いね。

トム:そんなこと言わないでくれよ!

ナイジェル:あ〜あ、参ったね(笑)

ーー『Amok』とアルバムを命名した理由を教えて下さい。

トム:おかしな話だけど、「amok」という言葉についてすごくダークな印象を抱いている人がいることに気付いていなかったんだ。僕にとって「amok」はすごく楽しい感じなのにね。すごく茶目っ気があって。なのに、とあるオランダ人に「amokという言葉はインドネシアに関係している」と言われたんだよ。

ナイジェル:ほら、インドネシアはオランダの植民地だったからね。

トム:うん。それで「amok」はインドネシア人が通りに出て、無差別に人を殺すっていう意味なんだってさ。植民地支配の抑圧に耐えられなくなって。

ナイジェル:うん。「run amok」って言葉は字義的な訳らしいよ。オランダ語でまさに「血に飢えて荒れ狂う」って意味があるとか。ヤバいよね。僕らはどっちかっていうと、子供たちが走り回ってる感じをイメージしてたのに。

トム:うん。楽しそうにね。ブラブラしてる感じ。
これじゃ君の質問に答える上で、全然役に立たないね。

ーー日本のファンのみんなにメッセージをお願いします。

トム:今年もぜひ日本に行けたらと思っているし、その時にみんなに会えたらいいね。それに、前回フジロック(2010年)では、すごく楽しませてもらったから、またああいう感じのを頼むよ!

ナイジェル:いや、あれ以上のを頼むよ!

トム:よろしく


ちなみにこの「スーパーグループ」の存在を、ぼくはつい最近知りまして(そんなんで音楽ファンといえるんだろうか…)、2010年のフジロックの映像を見て、ぶっとびました。



もともとはトムのソロ・アルバム『The Eraser』をライブで演奏するために結成されたバンドだそうですが、いやあ、あのアルバムよりぜんぜん好きです。肉感的で血湧き肉踊るようなリズムに、呪術的なボーカル。ぼくなんかの凡人が理解し得る世界を飛び越えた、わけのわからないところに在るような音楽。こういうのをぼくはヤバい音楽と呼んでいます。子供たちが楽しそうに走り回ってるイメージはぜんぜんしないけど(笑)。

アトムス・フォー・ピースの1stアルバムはこちら。

Atoms For Peace
XL.
発売日:2013-02-25



アルバムもいいんですけど、このバンドはライブがすごそうですね。これだけのヤバい音楽はそうそう無いと思います。

アトムス・フォー・ピース トム・ヨーク インタビュー書き起こし(原子力発電に関して)

アトムス・フォー・ピース トム・ヨーク インタビュー書き起こし(原子力発電に関して) 2013.02.27 Wednesday [音楽・映像] comments(0)
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古い音楽好きの昔ばなし(佐野元春とその仲間たちに思いを馳せて) 共感でつながる文化とメディア・リテラシー

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くるりの岸田さんがRTしていたツイートが、じわじわと沁み入ってきました。

岸田繁のツイートより
強く同意 RT ‪@keitarokamo‬: クレジットをガン見する事で、どれだけ音楽が楽しくなった事か。CDがなくなる事に感慨はないけれど、この文化は残さないといけないと思います


ああ、なるほど。文化かあ。
たしかに自身の音楽ライフ変遷をふり返ってみると、たいへん頷けます。

昨日、たまたま自宅のステレオから佐野元春の「約束の橋」が流れてきました。生まれてはじめてその曲を聴いた3歳の息子が「これ好き〜」と反応しノリノリで踊ってくれたのが嬉しくて、ぼくも改めてじっくり聴いてみると、ああ、この頃の佐野元春ってなつかしいなと感慨深くなったりして。ちょうどぼく自身、音楽の聴き方が「流行ってるから聴く」から「音楽好き」に移行していくあたりの頃だったのです。

はじめて聴いた佐野元春のアルバムは『Sweet16』で、たしか高校生の頃。きっかけは、当時テレビドラマの主題歌としてリバイバルヒットしていた「約束の橋」だったか、同じくテレビCMに使われていた「誰かが君のドアを叩いている」だったかは忘れてしまったけれども、このアルバムはよく聴いたし、いまでも好きです。かわいいジャケットも印象的だったな。「また明日」という曲で矢野顕子という人の存在を知ったり。

ぼくなんかは、たぶんいまとなっては古いタイプの音楽ファンに分類されます。このご時世になっても、なかなかダウンロードで音楽を買う気になれないんですよね。Appleは大好きだし、iTunesの良さっていうのもそれなりに共感しているのだけれども、音楽に関しては、ジャケットやケースの装丁も含めたパッケージとしての「モノ」が欲しくなっちゃうんです。それってマニアの収集癖みたいな「モノ」に対する執着なのかなあ、だから自身は古いタイプの音楽好きなんだろうなと思っていたんだけど、先のツイートを読んだ時に、ああなるほど、ぼくが音楽を好きだったのは「モノ」に対する執着だけじゃなかったよなと気づいたのです。

好きなアーティストのCDを買います。当然「モノ」としてのジャケットが付属してきます。ライナーノーツには歌詞が掲載され、クレジット欄には、プロデューサーや、作詞作曲者・共演者などの名前が載っています。それらの情報の中にはまだ自分が知らない世界が多くあるのです。知らない人だけど、好きなアーティストやプロデューサーが携わっているからちょっと聴いてみようとか、そうやって景色が広がっていく。

『Sweet16』の、かわいらしいチェリーパイのジャケットをめくるのが、ぼくはとても好きでした。紙の質感もよく覚えています。「また明日」でデュエットしているのが矢野顕子という女性らしいということを知ったのも、ライナーノーツを読んでのこと。洋楽を聴き始めたのもこの頃で、U2『アクトン・ベイビー』のジャケットからは不思議な異国情緒を感じたし、レッチリの『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』には得体の知れない異次元のような恐ろしさを感じました。引きこもり気味で何も知らない高校生にとって、ジャケットに映る景色は、新しい世界だったのです。

この頃から、ぼくの音楽好きはどんどん高じていきます。オリコンのヒットチャートを押さえるような聴き方から、自分で好きなアーティストを探していく「音楽好き」に移行していったのです。当時はインターネットなどありませんので、音楽雑誌やCDのクレジットなどは貴重な情報源でした。ただ名前が載っているだけの味気ないクレジットの一文から、どんどん音楽が広がっていく。聴いてみたいアーティストが芋づる式に増えていく。お小遣いのほとんどはCD代に消えましたが、それはとても楽しい体験でした。


ミュージシャンは、音楽そのもので勝負してなんぼだという考えがあります。つまりは、楽曲の出来がすべてだと。たしかにそれは、ある一面ではその通りです。けれども、それだけでもないと思います。ぼくが音楽のダウンロード販売にいまいち馴染めないのも、一曲単位で細切れにして捉えるという感覚に馴染めないからなのです。音楽というものが、楽曲の出来そのものだけで成り立っているならば、一曲だけダウンロードしてiPodに入れておけばなんら問題ないはず。でもぼくは、どうしてもそうできないんです。

オリコンのヒットチャートを押さえるような聴き方から、自分で好きなアーティストを探していく「音楽好き」に移行したこと。つまりは音楽雑誌やCDのクレジットなどから、妄想の世界を広げていったということ。当時のぼくは、楽曲の出来そのものだけじゃなくて、たった一行のクレジットから音楽の裏側にいる人たちを想像しながら聴くようになったんじゃないか。岸田さんのツイートを読んで、そのことに気づいたのです。

現在もまったくそうです。音楽を聴くと、かならず、それを演奏している人の姿を思い浮かべてしまいます。たとえ知らない人だったとしても、勝手に脳内でイメージして映像化してしまう。そういう体質になってしまったのは、「クレジットをガン見する文化」のおかげだと思うんです。


“佐野元春”で検索していたら、こんな映像を見つけました。



「クレジットをガン見する」類いの「音楽好き」からしてみれば、こういう映像を見ると感涙モノになるわけです。もう二度と見られない光景であるという感傷も手伝って。もちろん両者について知っていれば知っているほど感慨深いわけですが、それは、このアーティストとこのアーティストを俺は昔から知っているからこの組み合わせは妥当だろうという「知識先行」による感慨では決してないんですよね。クレジットそのものは知識の羅列ですが、「クレジットをガン見する文化」は知識ではない。

これの続きの動画ともうひとつ続きの動画もすごく良いです。ぼくは、こんな二人の組み合わせがあったなんて知らなかったので驚きましたが、清志郎は、佐野元春を「オレの古いダチ(My Old Friend)」と呼んでいます。キャリアも実績も充分すぎる二人が、それぞれ「らしさ」を感じさせるこの動画の魅力って、この現場にすごく「いい空気」が流れているということが伝わってくるところにあります。お互いを紹介し合う場面も収録されていますが、若き日の佐野元春が枕元のトランジスタラジオでRCサクセションを聴いていたというエピソードを聞くとやっぱりぐっときます。当たり前のはなしなんですが、「音楽好き」同士がつながっているんですよね。

そういえば、佐野元春が2007年に『Coyote』という最高のアルバムを出した後に出演した音楽番組で、バックバンドの一員としてGreat3のメンバーが出演していたのを観たときも嬉しくなったなあ。動画探したらありました。



これも同セッションより。いやあ、50代の佐野元春もかっこよすぎでしょう。おそらく元春を聴いて育ったであろう若い世代によるタイトな演奏が、若々しさの相乗効果を生んでいると感じます。

「クレジットをガン見する文化」から生じる喜びって、こういうことだと思うんです。たった一行のクレジットから音楽の裏側にいる人たちを想像するということ。一行の裏に隠れた「つながり」を発見すること。

これらの動画で共演している人たちは、自らのキャリアアップを考えて共演しているわけではないでしょう。ましてや、マーケティングや戦略で一緒になっているわけでもない。当たり前ですが、「音楽好き」同士がつながっている。共感して、引かれ合って、そうなるべくしてそうなっている。

世界ってそういうものだと思います、本来的には。そう思いたいです。
そして、音楽はそういうことを教えてくれる存在です、ぼくにとっては。
たとえこの世からCDが無くなってデータだけになったとしても、「音楽好き」が音楽を聴く理由はそのあたりにあるような気がします。


ところで唐突ですが、「クレジットをガン見する文化」ってメディア・リテラシーの形成にも通じるんじゃないかと思いましたので、そのことについて。

「クレジットをガン見する文化」とは、一行の裏に隠れた「つながり」を発見することだと書きました。知らない人だけど、好きなアーティストやプロデューサーが携わっているからちょっと聴いてみようと、どんどん音楽が広がっていく。聴いてみたいアーティストが芋づる式に増えていく。
ツイッターもこれとよく似ていて、フォローしている人がRTしてくるツイートにハッとすることがよくあります。そうするとRT元の人にも関心を持つし、そこから芋づる式に広がっていく。

そういう経験をくり返して、自分の中にある程度の傾向がインプットされていくと、このプロデューサーが手がける作品ならだいたい間違いないとか、ジャケットを見ただけで好みの音楽かどうかが分かるようになってきます。ほんとです。つまり、反復と経験によって直感が鍛えられる。これってメディア・リテラシーの一種なんじゃないかと。

オリコンのヒットチャートを消費するように、供給する側の都合で拵えられたニュースや報道・新聞記事を自明のものとして消費するのは、あまり賢い鑑賞の仕方とは言えません。マスメディアの発する情報をそのまま信用する人の割合が、日本は先進国中でもダントツで高いそうです。情報とは、元来偏向しているものです。じゃあマスメディアは嘘つきなのかというと、そういうことではない。人の手によって伝達される時点で必ずバイアスはかかる。そのこと自体に善いも悪いもなく、そういうものだということです。情報とはそういうものだということを分かった上で、情報に接することがメディア・リテラシーの第一歩だと思います。

インターネット上の情報は玉石混合だと言われます。まったくその通りです。だから、ひとつの記事に対して出典元や書き手の名前を確認することは必須であると言えます。その作業は自分でやらないといけない。その情報が玉なのか石なのかを判断する基準は自分にしか決められないからです。

万人に合うような音楽は存在しません。好きかどうかでしかない。自分に合うか合わないか、は自分にしか決められない。いちど自分が好きな音楽が定まれば、そこから世界は広がっていく。

「クレジットをガン見する」ように、出典元や書き手をガン見する。それが書かれた環境や経緯を推測する。その裏側にいる人たちを想像し、そこに隠れた「つながり」を発見する。それが文脈を読むということになります。そういう訓練をしていれば、だんだんと、この人の言うことは信頼できるとか、眉に唾つけて聞いておこうとか、自分なりの基準(世間一般の評価とかマスメディアの論調とかではなく、あくまでも自分なりというところが大事)ができてくる。

そうやって反復と経験によって直感が鍛えられると、ジャケットを見ただけで好みの音楽かどうかが分かるようになるのと同じように、ツイッターのたった140文字でも、正しいことを言っているようだけどなんか引っかかるなあとか、すごく気持ちいいなあとか、パッと感じるようになる。どんなにRTされていて正しそうなツイートでも、初見で違和感を覚えるならば、それはだいたい自分には合わない意見なのだ、ということだと思います。

家入一真さんのツイートより
人の付き合いなんてストックするんじゃなくてフローでどんどん回す。死んだ人脈なんて貯め込んだって意味ないよね。必要な時に思い出してもらえる人間になれたらそれでいい。名刺なんてバンバン捨てたら良いし、名刺交換会なんてのも行かなくていい。必要な時に必要な人とはまたどこかで出会うから。

僕が人脈という言葉が嫌いなのは、それを金脈と勘違いしている人が多いから。そんな付き合い方をして有名人や金持ちの知り合いをたくさん作った所で薄っぺらいのは見透かされてるよ。誰々を知ってる、では無く、逆に他人から紹介したいと思ってもらえる人間になりたいよね。


情報の背後にあるのは、人のつながりです。自身のつながり方によって情報の見え方も変わってきます。それはストックするものではなくてフローするものなのかもしれません。ぼくがツイッターを好きなのは、ことばがどんどんフローしていく後腐れの無さにあります。ブログをこうして書くのは、それらのフローから得た感触をストックするためです。ストック&フローで思索とことばは循環していきます。

古い「音楽好き」が、ジャケットという「モノ」を愛でるのは、「モノ」をストックするためではなくて、それをもとにして「つながり」をフローするためなのかもしれません。


…と、もっともらしいことを書いて締めようと思ったのですが、よく考えてみたらiTunesやAmazonなんかに出てくる「これもおすすめ」ってやつ、あれは「つながり」のフローですよね。音楽雑誌や、クレジットをガン見するのと同じような効果が画面上で得られる。上の動画だってYoutubeで検索して見つけたわけだし。音楽が広がるという意味では、デジタル環境になったことで格段に「つながり」のフローが身近になったと言えます。だから、古い「音楽好き」が、つながりをフローするためにジャケットを愛でるというロジックは無理があるかもしれません。じゃあなぜジャケットを愛でるのか。

「妄想する時間」かもしれないな、と思いました。
iTunesやAmazonでのつながりは画面上に即座に出てきます。それを目で追うほうも、その背景まで思いを馳せる暇がない。皆無ではないかもしれないけれど、画面上には関連情報が盛りだくさんだし、次々と新しいタブを開きたくなるし、どうしても意識が散漫になりがちです。
CDをデッキに入れて、スピーカーから流れてくる音楽を聞きつつ、わくわくしながらジャケットをめくるあの時間というのは、意識がそこに集中する時間なんですね。集中しているから、妄想が膨らんでいく。妄想をするのには、前提となる知識と、ある程度の時間は必要です。実はこの妄想の時間(喧噪から離れる空白の時間と言ってもいいかも)っていうのが大事なんじゃないかと。

メディア・リテラシーって、情報とはもともとバイアスがかかっているものであるということを踏まえた上で、自らの基準によって情報を取捨選択することだと思います。つまりは文脈を読むということ。「文脈を読む」って、言い換えると「妄想する」ってことですから。

古い音楽好きの昔ばなし(佐野元春とその仲間たちに思いを馳せて) 共感でつながる文化とメディア・リテラシー

古い音楽好きの昔ばなし(佐野元春とその仲間たちに思いを馳せて) 共感でつながる文化とメディア・リテラシー 2013.01.16 Wednesday [音楽・映像] comments(0)
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夜行性の生き物3匹 / ゆらゆら帝国

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ここ数日、耳から離れないんですこれ。正確に言うと、音楽が耳から離れないだけじゃなくて、この映像も込みで脳裏から離れない。つまりぼくの脳内ではこの3人が延々と踊っている状態なのです。腹立つわ〜。

ひょっとして、新しい都知事がおっしゃった「脳幹を刺激する生命力」(参考)っていうのは、こういうトランス的な状態を指すのかなと思わないこともないような気もするようなしないような気もしますが、たぶん違うと思います。

なかなか素晴らしいPVですよね。いつまでも見ていたくなる。2004年の“SPACE SHOWER MUSIC VIDEO AWARDS”にて「ベスト・オルタナティブ・ビデオ」を受賞したそうです。歌っているのはゆらゆら帝国。踊っているのは「高円寺阿波踊り連協会所属 ひょっとこ連」の方々だそうです。

真ん中の人。「体幹が全くブレない」と賞賛の声があちこちで上がっています。たしかに、このPVの中毒性は、真ん中の人の安定感に依るところが大きいですね。もちろんぼくの脳内でも、彼がセンター張って踊ってます。反復するリズム。

ああそうか、脳幹じゃなくて体幹だったんですね。いや、体幹がブレていないから脳幹が刺激されるのか。体幹と脳幹はつながっているのか。反復するリズムを体に叩き込むことで、体幹が鍛えられて、それで脳幹が…っていうか脳幹ってなに?
まあいずれにしても、脳幹にしろ体幹にしろ、他人から舵棒で殴打されるという刺激によって覚醒してクリエイティブな踊りができるようになるとは思えないので(参考)、猪瀬さんも脳幹だ何だと言う前に、まずはひょっとこの面をかぶって踊ってみてはいかがでしょう。

などと訳のわからないことを無理矢理書いてしまいましたが、すみません、ほんとは只この動画を貼りたかっただけなんです。「3分間のこの曲が〜最先端の君の感性を〜3分間で錆びつかせる〜」あほいほい。お面は下記リンクから購入できます。



ゆらゆら帝国
ミディ
発売日:2007-09-26




夜行性の生き物3匹 / ゆらゆら帝国

夜行性の生き物3匹 / ゆらゆら帝国 2012.12.21 Friday [音楽・映像] comments(0)
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レディオヘッドと同期する

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このライブ映像がかっこよすぎて、昨日から何度も見てしまっている。
Radiohead - From The Basement 2008 (Youtube)



トム・ヨークの変態っぽい感じもすごくいいのだけれども、ぼくがこの映像でいちばん好きなのはドラム。いままでレディオヘッドというと何と言ってもトム・ヨーク、あとはせいぜいギターの人(ジョニー・グリーンウッド)ぐらいしか思い浮かばなくて、ドラムの人(フィル・セルウェイ)がスキンヘッドだということもよく知らなかった。で、こうして映像で見ることで浮き上がってきたのだけれども、このフィルさん、風貌に似合わず繊細なドラミングをする。手数が多くて抑制の利いた演奏スタイルは、ロックバンド的な豪快さとは一線を画しており、まるでジャズのよう。ああこれがレディオヘッドの独特な音楽の屋台骨になっていたんだなと、はじめて気づいた。

実際にトム・ヨークはこう語っているそうだ。(Wikiより)
最近のシーンでドラムをドンドン叩くバンドがいっぱいいるけど、なんでそうする必然性があるのかもう少し理由を考えてみるべきだと思う


それはそれとして。正直に言うと、『KID A』以降は彼らが何枚アルバムを出したのかもよく把握していないし、たぶん曲を聴いてもどれが何という曲か、どのアルバムに入っているかはぜんぜん識別できない。そんなぼくでも彼らのファンだと言っていいでしょうか。少なくとも、聴けばレディオヘッドの曲だということは分かるので許してください。

ああ、これいま思ったんだけれども、彼らの音楽に対するスタンスって、既存のロックバンドぽくないよね。新譜を公式サイトでフリー料金のダウンロード形式でリリースしたり。その後に同作品はCDパッケージでもリリースされたけど、でもなんか、違うのよね。けっきょく大して聴かなかった。

『KID A』までは彼らのアルバムをほんとうによく聴いていたんだけど、それ以降はいつのまにか疎遠になっていった。新譜が出るたびに聴いてはみるものの長続きしなかった。それはなぜか。いままでぼくは、レディオヘッドの音楽自体に興味がなくなってしまったからだと思っていた。でもトム・ヨークの存在は気になっていて、ツイッターのBotなんかもおもしろいなあと思っていた。

そんな折、このライブ映像を見てぐいぐい引き込まれた。そして分かった気がした。CDというパッケージでは、なんかピンとこないということだったのだ。彼らの現在の音楽が持つ魅力というものが。流通形態のせいかもしれないし、視聴する環境のせいかもしれない。あるいは、映像によって増幅されたライブ感のせいかもしれない。ああ、そうだな。この生っぽい感じがすごい好きなんだ。

ドラムのジャズっぽい演奏がいいと書いたけれども、このざらざらした手触りがすごく心地よいのだ。そうか、生演奏っぽいのが好きなんだったら、コンピュータに接近する前の初期アルバムを聴けばいいのかとも思ったが、ところがそれもピンとこない。やっぱりこのYoutubeの映像がいちばんしっくりくる。何度も見たくなる。

それで、彼らに対してなんとなく抱いていたイメージの正体がぼんやりと見えてきた。いま現在の彼らの姿、音楽性、いまという時代の空気、そういったものを全部ひっくるめて、同時性を感じながら聴くところに、レディオヘッドを聴く醍醐味があるんじゃないかと。年代が近いからそう感じるのかもしれないが。音楽を通して「いま」を共有することで、なにかしら心の中がざわつくような。生々しい演奏の映像を見て、ようやくそれが分かった。彼らの音楽を聴いた時に感じるざわざわは、他のバンドには無い感触で、そう、「同期する」という感じなのだ。だから旧譜じゃだめなわけ。

ぼくなんかは、このYoutubeの音声をCDに焼いてデッキで聴きたいと思ってしまう(まだデータだけで音楽を聴くという行為が習慣づいていない)が、そういう感覚ももう古いのかもしれない。彼らが率先して自らの作品をダウンロード販売したのは、単なる流通経路の変化という意味だけではないのかもしれない。彼ら自身が、音楽とリスナーとを「同期」させるための方法を模索しているのだとしたら。それってもしかしたら、音楽というものの存在価値というか、位置が変わるような意味合いがあるのかもしれない。Airplay+AppleTVで、この動画を自宅のテレビ画面で見ながら、ぼく自身、いままでにない音楽との付き合い方を体験している。まだうまく掴めないけど。


というようなことを思ったわけだが。動画のライブは2008年のものらしく、楽曲は『IN RAINBOW』のものらしい。ぷ。それで「いま」を共有するとか言っても説得力ないよね。どうやら、ぼくの感覚は4年ほど遅れているようだ…。



レディオヘッドと同期する

レディオヘッドと同期する 2012.11.14 Wednesday [音楽・映像] comments(4)
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くるり / glory days

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いや〜、くるり。
どうしちゃったんでしょう、くるり。やばいっす、くるり。

こ・れ・は、まぎれもない名曲。きらきらと光り輝く水面は、雄大で綺麗で。ただ身を任せる時代は過ぎ去ってしまって。大きな悲しみとやるせなさの中にある思い出と希望。うまくまとめることはできないけれども、というかできないからこそ、音楽の持つちからというものを信じることができる気がします。誰かがコメント欄に書いてましたが、「今、この時代のアンセム」と言っても過言ではないと思う。泣いてもいいですか。


先駆けてリリースされた「everybody feels the same」は、90年代のUKロックが持っていたきらきらの高揚感を思い起こさせるような、とても小気味の良いロックンロールでした(感想)。実際ぼくはこの楽曲を聴いた後に、90年代当時のブリットポップを聴き返したりしています。新しいメンバーが加入した新生くるりには、今までにない色気があると感じたぼくはニューアルバムも楽しみにしておりました。

というわけで冒頭のPVは、9月19日発売のアルバム『坩堝の電圧(るつぼのぼるつ)』からのリードトラック「glory days」。ストーン・ローゼズを彷彿とさせるドラムのイントロに胸を熱くするなというほうが無理な世代としては、もうこのままただ音像に浸っていたい気分になるところですが、そうもいかない。福島県いわき市・薄磯海岸で撮影されたというPVの映像や、「東電」とか「福島の友だち」といった歌詞を聞くと、胸の辺りがざわざわとするのをどうしたって禁じ得ません。きれいな海の映像を見て、ただ純粋にきれいだと感動するようなことは、ぼくはもうできなくなってしまいました。それはとても悲しいことのように思えます。

震災から1年半が経ちましたが、ぼくたちはいまだ大きな悲しみの中にいると思います。そして、それはこれからもずっと続くのだと思います。ぼくたちは、悲しみを携えて生きなければならなくなった。それは悲しいことでしょうか。

まるで原発事故が無かったかのようにふるまう人たちもいます。マスメディアは放射能のことなどもう忘れてしまったかのようです。故郷を失った人たちへ思いを馳せることも、ずいぶんと減りました。それは悲しいことでしょうか。

いくら悲しみの中にいるといっても、嫌なことは忘れて、アゲアゲな気分で馬鹿騒ぎすることも時にはいいでしょう。楽しい曲ならたくさんあります。ただ、楽しいだけの曲はあくまでも享楽的な楽しさであって、その先にglory daysが待っているとは思えなくなりました。

かつて、ぼくらが思い描いていたglory daysとは、どのようなものだったのでしょうか。それは震災後のいまも有効でしょうか。きらきらと輝いて見えるでしょうか。震災によって可視化されたのはなにも原発だけの話じゃなくて、これまで考えたこともなかったようなことが実は世界を作っているということが分かってきたし、いままでの価値観とかライフスタイルとかに寄って立つのは困難になりました。簡単に答えの出る問題ではないと思います。みんな悩んでいると思います。ぼくたちはいま移行期的混乱の中にあり、頭の中はごちゃごちゃでぐちゃぐちゃなんです。たぶんこれからも長いことごちゃごちゃでぐちゃぐちゃなままだと思います。ごちゃごちゃでぐちゃぐちゃなまま悩んでいくのだと思います。それは悲しいことでしょうか。

「ばらの花」「東京」「ロックンロール」など過去の楽曲からの歌詞が引用されて迎えるクライマックスを聴いて、そんなことを感じました。


くるり
ビクターエンタテインメント
発売日:2012-09-19



彼らのように音楽(自分自身)と向き合っていくのならば、「それら」は決して悲しいことではないのかもしれないと思います。いや、悲しいけれども、悲しいだけではないというか。glory daysを信じるしかないし、歌うしかないのだから。

、、、というような青臭いことを思ってしまうのは、この曲がまぎれもないロックンロールだからですね。ローゼズやオアシスに連なる青いヴァイブ。連帯へといざなうアンセム。Keep on movin'.

ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。
by ピート・タウンゼント


くるり / glory days

くるり / glory days 2012.09.04 Tuesday [音楽・映像] comments(0)
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POLYSICS / Let's ダバダバ

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くるりの新曲が素晴らしかったので、もうひとつ楽しい曲を。
POLYSICS(ポリシックス)っていまはけっこうメジャーな存在なのかな。くるりの『TEAM ROCK』を聴いてた頃に、彼らのことも好きでよく聴いてました。アルバムでいうと『NEU』のあたり。ぼくの中ではエイフェックス・ツインと同列の変態バンドという認識だったかな。

あれからずっと聴いてなかったのですが、もう15年以上も活動していたんですね。先日ひょんなことから「Let's ダバダバ」という曲を聴いてみました。つなぎのジャンプスーツというビジュアルは変わってなくて、相変わらずだなあと思ったのもつかのま。ずいぶんとポップな曲調に驚いてしまいました。ポップなポリシックスなんて、と訝しく思ったのもつかのま。楽しいじゃん。これ、楽しいですよ、曲も歌詞も。ダバダバというフレーズが耳に残って、やみつきになりますね。新加入だという女性メンバーもキュート。

淡白ですが今回はこんな感じのレビューで。彼らに関しては、あまり過剰なストーリーを作らないほうが音を楽しめると思います。なんか知らんけどやみつきになる〜ってのがいいかと。Let's。


「Let's ダバダバ」収録の11thアルバムはこちら。



POLYSICS / Let's ダバダバ

POLYSICS / Let's ダバダバ 2012.07.27 Friday [音楽・映像] comments(0)
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くるり / everybody feels the same

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きたきたきたきたきたよこれ。
新メンバーが加入し4人編成となって初のリリースとなる新曲。めちゃかっこいい。
このPVを見ていると、くるりに「色気」が加わったとわくわくしてきます。もちろん女性メンバーが加入したということもあるだろうけど、単にそれだけじゃなくて、こうして躍動するおっさんたちに大人の色気みたいなのを感じちゃうわけです。それが相乗効果ってやつなんだろうけど、なんて楽しそうなんだこいつらは、っていう。「色気」っていうか「色味」っていうか。生きるってこんなに色鮮やかなことなんだなあと嬉しくなる。

個人的な好みの話になるけど、ぼくは『TEAM ROCK』〜『THE WORLD IS MINE』の頃のくるりが好きで。いまその頃の曲を聴くと、若さゆえの感受性がセンチメンタルなメロディに乗って押し寄せるノスタルジーにぐっと来ちゃう。「ワンダーフォーゲル」とか、いま聴いても胸キュンですよ。これって若いがゆえの同世代バンドへの共感であったし、郷愁だと思います。

その後のくるりは、いい曲なんだけれども、どこか「枯れて」いるような感じがして、あまり聴き込むまでに至らないことが多くなりました。特にアルバム単位で聴けなくなったのが、自分にとってはどこか違和感があって、なんでなんだろうなあと思いつつ。


で、この新曲。痺れるような疾走感には『TEAM ROCK』の頃のロックンロールを連想するけれども、やっぱりそれとも全然違う。なんたってもう若くないから。大人になってだいぶまるくなったわけすよ、彼らも、ぼくも。余裕だって出てくるわけで、そういう懐の深さが最初に書いた大人の色気みたいなのにつながるのかもしれませんが、でもそれだけじゃない。
ここでの躍動する彼らには、なんというか、湿り気がある。いや、湿っぽいというニュアンスじゃなくて、フレッシュという感じの。フレッシュなんだけど、若さゆえのフレッシュとはまた違う湿り気。なんだろうこれ。この自己肯定感と突きぬけ感はいままでのくるりには無かったと思う。てっきり枯れていくのかと思っていたら、思いきり色とりどりの「色味」を見せてくれたっていう。いや、衣装のことじゃなくて。


以下、歌詞より。解釈はぜんぶ妄想です。

お願いRadio From U.K. Oasis Blur Supergrass Happy Mondays
胸は躍る 目には涙 夢は続く くり返す
振り返ればお月様


いいですね。90年代のUKロックが持っていたキラキラの高揚感を思い出します。怖いものなんてなくて(逆か?)、前方には楽しいことしか待ってないんだぜという根拠のない自信があったりして。そんなロック少年もいまでは、

角栄が作った上越新幹線に乗って
スピーディー(SPEEDI)なタイムマシンは新潟へ向かう
2012年の冬 悲しみは吹雪の向こうから
手をとる夜 灯をともす 風が動く
未来まで溶けない雪の白さ 手を貸してみろよ


おっさんじゃないですか。角栄とかSPEEDIとか視点がもうおっさんですよ。場末の居酒屋で酌を交わしながら、新聞を賑わす暗いニュースに眉をひそめるおっさんの姿が目に浮かびます。世の中のことがいろいろと分かってきて、シニカルにものごとを眺めたり、自分にはどうしようもできないことってのがあるという現実を知ったりして。愚痴を言ったり、せいぜい肩を寄せ合うくらいしかできないけれど。
それでも、おっさんは歌います。踊ります。

背中に虹を感じて 進め(走れ) 泳げ(もがけ) 進め 進め


うう。
人生の暗い面を知ったおっさんが、生きることの色鮮やかさを歌い、そして自らが色とりどりの虹となって踊る。もがく。これは同世代のおっさんにとっては、キますよ。

というわけで、かつてサブカル系を行ったり来たりして、音楽がキラキラと輝いて見えていたオタクも、いまは2人の子を持つ36歳のおっさんになったわけですが、そんなぼくにとって、新生くるりのこの曲は、まるでむかしといまを繋ぐかのように、とても楽しくて、かなり泣ける4分間になりました。


追記:
後で知りましたが、今回の作詞は岸田繁じゃなくて、くるり名義なのだそうです。ああだからこんなに色とりどりで風通しがよくて「広がって」いるんだなあと、やけに感心しました、はい。


新生くるりのニューシングル、8月1日リリースです。初回限定盤には、レコーディングドキュメンタリー及びライブ映像が収録されたDVDが付属するらしいです。


くるり
ビクターエンタテインメント
発売日:2012-08-01



さらに、ニュー・アルバムもリリース!
「everybody feels the same」を含む全19曲を収録した、10thアルバムはこちら。


くるり
ビクターエンタテインメント
発売日:2012-09-19



くるり / everybody feels the same

くるり / everybody feels the same 2012.07.26 Thursday [音楽・映像] comments(0)
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