『総理の原稿』平田オリザ・松井孝治

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
政治のことばが変わった。

2009年、民主党による政権交代でいちばん印象に残っていることだ。共感してくれる人はどれだけいるだろうか。政治の言葉が、ずっと身近になった。新しい内閣が発足したあの夏の夜、颯爽と壇上に上がる閣僚たちが、記者の質問をきちんと聞き(ある人はメモを取りながら)ひとつひとつ丁寧に答える映像をテレビで見ながら、「政治が変わる」という高揚感を妻とふたりで共有したことを、ぼくはいまでも覚えている。あのとき、たしかに国会では「新しい政治」が生まれようとしていた。民主党の議員の中には、そのような自覚を持った政治家が少なからずいたように思う。政治の言葉とともに、情報公開という面でもぼくたち有権者のほうに開かれていく感触があった。鳩山氏は、憲政史上初めて首相会見をオープン化した。閣僚会見も記者クラブだけでない完全オープン化へと向かっていた。「自民党政権下では貧困率を発表することが許されなかった。民主党政権になって出せるようになった。」という有識者の言もある(出典)。「情報公開」は民主党の党是でもあった。しかし残念ながら、憲政史上初とも言える国民自身の手による政権交代を成し遂げた、その国民自身のほうに、「新しい政治」と主体的に関わっていく自覚が足りなかったために、鳩山政権は程なく頓挫した。

民主党は、鳩山政権の瓦解とともに変質した。政治の言葉が、ふたたび官僚の言葉に支配された。いちどは身近に感じた政治の言葉が、また遠くなった。そのことを総括できなかった民主党執行部は、与党の座を失った。民主党の自滅により政権の座に返り咲いた自民党は、以前にも増して強権的な国会運営をするようになった。もちろん、政治の言葉が届いてくるわけはない。いまや、平気で嘘をつき、簡単に前言撤回することなど朝飯前である。

2013年7月の参院選。三宅洋平というミュージシャンが全国比例区で立候補した。彼の「唄う選挙演説」をYoutubeで見て、2009年の政権交代で感じたのと同じヴァイヴを感じた。ああ、この人は「政治の言葉」を変えようとしている。そう思った。彼がやろうとしていたのは、徹底的な「対話」だ。「政治をマツリゴトに」という彼の主張は、スーツを脱いで、新しい「政治の言葉」を一緒に紡いでいこうぜ、という意味だ。「お上にお任せ」ではなく、政治のことを「自分ごと」として。「俺も分かんねえことだらけだからさ、一緒に勉強していこうよ」と彼は言う。

§



人々の意識下にある「お上にお任せ」は根強い。民主党が崩壊した後の自民党への振れ幅をみていると、そう感じざるを得ない。民主党がダメだったからやっぱり自民党、なんて程度で選ばれたのだとしたら短絡的すぎる。そこには知的な逡巡がなにも無い。自民党にお灸を据える、民主党にお灸を据える、という程度の認識で政治に参加したつもりになっている、あるいは参加しないことで冷静なつもりでいる、意思を貫いたつもりでいるという態度からは、政治を前に進ませる土壌は生まれない。だけど仕方がない。戦後長いこと「お上にお任せ」でやってきた日本人のバックグラウンドはそういう文化的土壌なのだから。一度や二度の政権交代で簡単に意識が変わるわけがないのだ。

ぼく自身も、偉そうなことを言える立場にはない。ぼくも数年前まで完全なるノンポリ・無関心層だった。子供が生まれてはじめて政治のことが自分ごとだと知った。子供が生まれた時期と、政権交代の時期とが重なったのは、幸運だったのかもしれない。

特定秘密保護法案の強行採決に象徴される、暴力的とさえ言える現在の自民党による国会運営。衆人環視が無ければ、権力は必ず暴走する。真夜中の国会はそれを如実に示している。彼らが何をやろうとしているのか、分かっていながら、反対する声が上がっていながら、それを止める手だてが無い。自民党議員は「サイレントマジョリティの信任を得た」と言う。しかし、前回の選挙で自民党に投票した人たち、あるいは選挙に行かなかった人たちは、ほんとうにこうなることを望んでいたのだろうか?

アベノミクスでも生活水準は上がらず、秘密法案のマズさが露呈してくると、安倍政権の支持率は下がってくるだろう。選挙に行かずに「なんとなく」現政権を支持していた人たちは、べつに自民党という政党を支持しているわけじゃない。政治に無関心であるか諦観しているか忌避しているかだけだ。その時に、彼らがますます政治に失望し、忌避し、さらなる「サイレントマジョリティ」を形成するのかどうかがターニングポイントになる。であるならば、やるべきことはおのずと見えてくる。サイレントマジョリティとは、与党への全権委任状に他ならないのだということを、選挙に行かない人たちに知ってもらうこと。そして、秘密法案はまさにそのようにして強行されたのだということを理解してもらうことだ。つまりそれらを伝えることだ。

ただし、伝え方が難しい。同じ志向や嗜好の人が集まりやすいツイッターでいくら情報を拡散してもあまり意味がないだろう。それまで、選挙に行かなかった人、政治に関心の無かった人、政治の話題を忌避していた人に向けて言葉を発しないといけない。隣人に、自分の言葉で語らないといけない。そして、それがいちばん難しいのだ。

政治の話題に関して、多くの人はデリケートだ。政治「活動」や「運動」には、できれば近づきたくないと思っている。下手に政治のことを口にすれば、レッテルを貼られて終わりになりかねない。いままで、いわゆる「政治的」とされる人たちというのは、「定型的」な言葉を繰り出す人たちのことであった。ネトウヨは皆一様に同じ言葉を喋る。視点や思考はもとより、繰り出す言葉そのものがまったく均一的なのだ。どこかで仕入れた定型的な言葉を、政治の言葉と勘違いしているのだ。これは左翼にも言える。原理主義になるほど、教条的で定型的な言葉が並ぶようになり、思考も画一的になる。ノンポリは、そのことを敏感に嗅ぎ取って、忌避するのだ。レッテルを貼って、遠ざけるのだ。政治的に正しいとか正しくないとか、そういうことではない。言葉の使われ方、それ自体がメタ・メッセージを発しているということだ。

ぼくらが使うべき政治の言葉は「コロキアル」でなければならない。


§



鳩山内閣において、内閣官房参与として劇作家の平田オリザ氏が関わっていたと知り、なるほどと得心した。そりゃ政治の言葉が届くはずである。官僚的な文章にアレルギーのあるぼくでも理解できるはずである。
オリザ氏とともに総理演説のスピーチ、ツイッターやブログでの情報発信に取り組んだのは、「新しい公共」の生みの親でもある官房副長官(当時)の松井孝治氏。

本書『総理の原稿』は、その2人による「新しい政治の言葉を模索した266日の記録」である。



本書より
私たちが目指したのは、まさにコロキアルな政治の言葉を作り出すことだった。(P6)


「コロキアル」な言葉とは何か。「コロキアル」とは、「口語の」「日常会話の」という意味だ。なるほど、では日常的な、喋り言葉であればいいのだろうか。

「わかりやすい」言葉はたしかに好まれる。これを徹底的に突き詰めたのが、小泉純一郎氏だった。彼は「わかりやすい」フレーズで国民の心を掴んだ。「コロキアル」な言葉を使う政治家は、もてはやされる。小泉以降、ワンフレーズ・ポリティカルと呼ばれるような、単一フレーズが政治の言葉として多用されるようになった。

政治家の側だけではない。有権者の側も、たとえば「バラマキ」「政治とカネ」といったフレーズだけで、政治のことを「わかったつもり」になるようになった。それは流行の言葉を消費するだけの行為と変わらない。そうして、政治と自分の生活はますます乖離していくのだ。

平田オリザさんの言う「コロキアル」な言葉とは、単に「わかりやすい」フレーズという意味ではない。

本書より
私たちは、熱狂によって万人が興奮するような演説は避けたつもりだ。小泉元首相や、それを真似た現行の幾人かの自治体の首長たちがとったようなやり方ーー仮想敵を作り出し、それを徹底的に叩くことによって、大きな世論のうねりを現出しようとする方法はとらないように厳に自らを戒めた。
巻末に載せたいくつかの文章を見ていただければ、新政権としては意外なほど控えめで、提言型、呼びかけ型の演説となっていることがご理解いただけると思う。(P3)


鳩山内閣における総理原稿は、従来とは異なるプロセスで作成されていたそうだ。各省庁の官僚から提出される短冊をまとめ上げていくという、それまでのやり方を一新し、少数の官邸メンバーで原案を作るという方法で作られたという鳩山内閣の総理原稿は、なるほど、だから言葉が届いたのだ。オリザ氏の言葉を借りれば、「いろいろな人の手が入ると、文章はだんだんつまらなくなる」。

オリザ氏と松井氏の作った文案を初めて読んだ鳩山氏は、「国民生活の現場において、実は政治の役割は、それほど大きくないのかもしれません」というくだりを、とても気に入ったそうだ。いかにも鳩山氏らしい。(それが良いか悪いかはさておき、)こういうことを、総理として言える政治家はあまりいないのではないかと思う。やけに肩肘張って「がんばります」とか、口角泡をとばすような演説の暑苦しさに、嘘くささと空虚さを感じる人は少なくないのでは。それもまた「政治離れ」の一因ではないかと思う。

§



いま改めて、鳩山総理時代の原稿を読み返してみよう。

国民のさらなる勝利に向けて 2009/08/30

歴史的な総選挙の大勢判明後、8月30日の深夜に出された談話。ここでは、民主党の勝利というよりも、国民が85年ぶりの政権交代を勝ち取ったというトーンの文章になっている。「民主党や友党各党はもちろん、自民党、公明党に投票なさった皆さんも、誰かに頼まれたから入れるといったしがらみの一票ではなく、真剣に、日本の将来を考えて一票を投じていただいたのではないかと思います。」と、敗者を讃えるということを入れた点も新しいとオリザ氏は指摘する。もう一つは「経済だけでなく」ということを示した点。「戦前、日本は、軍事によって大きな力を持とうとしました。戦後は経済によって国を立て直し、国民は自信を回復しました。しかし、これからは、経済に加えて、環境、平和、文化などによって国際社会に貢献し、国際社会から信頼される国を作っていかなければなりません。」鳩山政権が一番やりたかったことが端的に表れているそうだ。


第173回国会における鳩山内閣総理大臣所信表明演説

これは10月26日、国会が召集されて最初の演説。いま改めて読むと泣けてくる。「あの暑い夏の総選挙の日から、すでに2ヶ月が経とうとしています」という詩的なイントロが印象的だが、これもオリザ氏の発案によるもの。内田樹氏はこれを「身体感覚に訴える表現」と評したらしい。全力で闘ったあの夏の日々を思い出させ、なおかつ敗者に対しても呼びかけるような演説を、というのがオリザ氏の意図だそうだ。所信表明演説とは、国民に鳩山内閣の方針をきちんと伝えるというのが目的であるが、それと同時に多くの議席を獲得した新人議員たちを感動させるスピーチにしようと、それであの冒頭部分が決まったという。こうして後日談として聞くとおもしろいが、あのイントロは、いち国民としても情感を呼び起こすものであった。


第174回国会における鳩山内閣総理大臣施政方針演説

これもまたイントロが印象的な演説。「いのちを、守りたい。」こんな言葉から始まる首相スピーチがあったでしょうか。「生まれくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい。若い夫婦が、経済的な負担を不安に思い、子どもを持つことをあきらめてしまう、そんな社会を変えていきたい。未来を担う子どもたちが、自らの無限の可能性を自由に追求していける、そんな社会を築いていかなければなりません。」字面で見ると当たり前のことであるように思えるが、動画で実際に鳩山氏が喋る映像を見直してみると、一国の首相がこのようなメッセージを発するということそれ自体のインパクトを感じる。泣きそうになるよこれ。


本書より
平田:「国民と対話がしたい」と政治家はよく言うけれども、そうじゃなくて「国民が対話している場に政治家が入っていく」というのが私たちのチームのキャッチフレーズでした。国民が政治に参加するのではなく、政治家がちゃんと社会に参加する、ということ。ここにコペルニクス的転回があった。対話の場をつくって、そこに政治家も入っていく。
松井:総理大臣は、もちろん国家ということも語らなければいけないけれども、鳩山内閣の演説の特徴は、国家だけではなく社会を語る。総理も一人の人間であり、社会の一人の参加者なので、そこにフラットに入っていってもらいたい。それは鳩山内閣特有のものでした。(P55)


政治とは、ぼくたちの生活に他ならない。「国民の生活が第一」というのも民主党の大きなテーマであった。いまでもあたまの傍らに置いておきたい、とてもいいコピーだと思う。自分の働き方や社会保障なんかが全然見えないままに、安全保障だけを声高に語るような肌感覚は、ぼくには理解できない。若い世代の一部が愛国的な言説に熱狂し、それが「政治的」だと勘違いするのは、優先順位のつけ方が生活実感と乖離しているからだと思う。仮想敵を叩くことで得られる陶酔感の一方で、自分の生活がどうなるかに考えが及んでいない。

ミュージシャンの七尾旅人さんが昨年、印象的なツイートをしていた。
「音楽的な言語で 政治やジャーナリズムの言語では語りきれないものを捉えて鳴らそう 単純化されたスローガンに陥らないように 音の波をかきわけて どんな立場の方にも会いに行ければ良い 音楽は誰も排除しない」
ああ、ぼくが音楽を聴く理由が、ここにあると思った。

オリザ氏が目指した「新しい政治の言葉」とは、「音楽的な言葉」に近づくということだったのではないだろうか。

§



オリザ氏の言う通り、鳩山内閣のスピーチは基本的に「呼びかける」ような演説であった。現在の安倍内閣と比べると、演説が発するメタ・メッセージの質が異なることがよくわかる。すなわち、鳩山内閣は「人の話を聞いてくれそう」であった。国民の側に下りてきて、政治を一緒につくっていこうというメッセージを感じた。安倍内閣が発するメタ・メッセージは「俺に任せろ」である。旧来の自民党的な密室政治をより一層強権的にしたような印象だ。鳩山内閣が醸し出すオープンな雰囲気と、安倍内閣のクローズドな雰囲気はきわめて対照的である。

ノンポリは、細かい政策の善し悪しはわからなくとも、そのメタ・メッセージを敏感に嗅ぎ取るのだ。少なくとも、数年前のぼくはそうだった。

いま政治に失望し、諦観し、忌避している人たちが、自民党のままでいいと思っているとはぼくは思わない。サイレントマジョリティの多くは、良心的な人たちであるだろうと思う。ただ、語るべき「政治の言葉」を持っていないだけだ。彼らがサイレントであるのは、「定型的」な政治の言葉以外で、政治を語ってくれる人がいないからだ。「定型的」な政治の言葉に、自らが回収されるのを恐れているのだ。その直感は正しいと思う。

そのような、正しい直感を備えたサイレントマジョリティに、コロキアルな政治の言葉を届けないといけない。民主主義の社会を望むならば、ぼくたちは政治的立場の異なる相手とも対話しないといけない。相手を論破するためではなく、どこが違ってどこまでが同じであるのかを確認するために。互いに妥協できる落とし所を探るために。そのためには、隣人に、自分の言葉で語らないといけない。政治の言葉とは、テレビや新聞やネットの中にあるような「定型的」な言葉ではなく、「自分の言葉」そのものなのだと思う。

§



内田樹氏は、「日本語は本質的にコロキアルなんで、ロジカルになりようがない」と言っている。これに対して、オリザ氏は「日本語はまだまだ近代化の途上にある」と述べている。

本書より
パスカルの書簡の中に、「ここからは哲学的な議論なので、ラテン語で書きます」という一文があると聞いたことがある。17世紀、まだフランス語では、哲学や政治の込み入った話はできなかったのだ。
ただ、英語やフランス語が、そこから150年、200年とかかって行った言語の近代化、国語の統一という難事業を、日本語は、たかだか4、50年で行ってしまった。当然、そこには、積み残し、取りこぼしがあったはずだ。(中略)言語の民主化とは、とりもなおさず、難しい政策論議でも「聞いてわかる」言葉で話すということだ。(P6〜7)


2009年に、政治の言葉が変わったのは、偶然ではない。「言葉を変える」と意識して、具体的にそれに取り組んだ人たちがいたから、そうなったのである。この記録の書を読んで、そのことを知った。
残念ながら、オリザ氏と松井氏の取り組みは、志半ばにして「敗戦」となった。政治の言葉は、ふたたび官僚の作文に戻っていった。

本書より
いまも、永田町でや霞ヶ関では、あいかわらず日本語のようで日本語ではない奇怪な言語が飛び交っている。道は険しい。おそらく、新しい政治のための新しい日本語を作る仕事は、30年、50年とかかるだろう。(P8)


「政治の言葉」を変えるべきは、政治家の側だけではない。政治家が自分の言葉で喋っていないと憤る前に、自分はどうなのか、どこかで聞きかじったフレーズをなぞっているだけじゃないかどうかを反芻しよう。
ぼくたちが、テレビや新聞あるいはインターネットで情報を収集したり共有したりするのは、ある特定の「真実」を知るためでも、ある特定の「集団」を形成するためでもない。それらを通して「自分の言葉」を獲得するためなのだ。

鳩山スピーチは、鳩山由紀夫氏と平田オリザ氏、松井孝治氏らが邂逅することで生まれた。オリザ氏のような人物が、内閣官房参与として、政治の言葉を届ける側にまわって労力を注いだということは、あの暑い夏が生んだ一瞬の奇跡だったのかもしれない。そして、子供が生まれてはじめて政治のことをちゃんと考えるようになった時期に、定型的ではない、新しい政治の言葉を届けようとしていた政権の言葉に触れることができたのは、ぼくにとって幸運だったのかもしれない。

ぼくはロジカルな思考というものは、得意ではない。ただ、こうして思ったことをブログに書き連ねるという行為を数年間続けることで、いくらかは言語化できるようになった。ぜんぜんロジカルではないけれども、コロキアルであることと政治の言葉とがつながりつつある。もちろん、まだまだ近代化の途上であるが。

「自分の言葉」で政治を語る日本人がある一定数に達したとき、ほんとうの政治の季節は必ず到来する。ぼくはそう信じている。信じなければやってられない。

『総理の原稿』平田オリザ・松井孝治

『総理の原稿』平田オリザ・松井孝治 2013.12.13 Friday [読書] comments(2)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY
こえり (2014.02.11)

こんにちは。
伝言送ったのだけど、来る用事ないだろうなぁ、と思って
とりあえずお知らせしに来ました。

伝言代わりにメールアドレス教えてもらっていい??
やだったら言って。
伝言で待ってまーす。

(ごめんね、この記事読んでない(-_-;)

こえり (2015.02.20)

こんばんは。おひさしぶりです。

コメント欄、借ります<(_ _)>
メールを送ったんだけど、届いた?
内容はたいしたこと書いてないんだけど、どうもメールの受信がいまいちスムーズじゃないので、一応確認。

本名で送ったので誰だかわからない不審なメールだと思われたかなとも。

そりでは。










url: http://yamachanblog.under.moo.jp/trackback/575
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...