忘れる

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チェルノブイリを取材した『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1』によれば、事故を体験した現地の人にとっていちばん怖いのは忘れ去られることだという。記憶を風化させないために、かの地が観光地化しているという同書の指摘にははっとさせられた。戦争の記憶も、原発事故の記憶も、語り継がれなければ風化する。忘れる。人間はひどく忘れっぽい。

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忘れるーーー

映画『風立ちぬ』の中でも特に印象的だったその台詞は、軽井沢のホテルで堀越二郎が出会った謎のドイツ人カストルプが、ウッドデッキのテラスで二郎に戦争について語ったシーンで登場する。

「(ここ避暑地は)忘れるにいい所です。チャイナと戦争してる、忘れる。満州国作った、忘れる。国際連盟抜けた、忘れる。世界を敵にする、忘れる。日本、破裂する。ドイツも破裂する。」

史実によれば、カストルプの言う通り、日本もドイツも破裂した。そして、カストルプの言う通り、忘れゆく。アメリカの庇護という名目の下で、戦争に負けアメリカに占領されたという事実を忘れた。ポツダム宣言を受諾し、本州、北海道、九州、四国以外の土地の主権は「連合国側が決定する」ことに従うとしたという事実(参考)を忘れた。現役の首相や閣僚から世界を敵に回すような言説がとび交い、それを簡単に「撤回」することで無かったことにする技術が横行している。都合の悪いことは「忘れ」ようとする技術だ。2年前に甚大な事故があり、事故を招いた杜撰な管理体制とその場しのぎの体質がなんら改善されていないという事実を忘れようとしているのと同じように。

人間は忘れる生き物であると云われる。もしかしたら、忘れることでかろうじて正気を保っているのかもしれないが(参考)。

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まず自分自身のことをふり返ってみる。
1976年生まれの典型的な核家族。父親はサラリーマンで、仕事と飲み会に一生懸命。母親は専業主婦であまり表に出ることは少なかった。なにより転勤が多かった。ぼくと弟、育ち盛りの男児をふたり抱えながら、2〜3年毎に見ず知らずの土地で生活するのは大変であったろうと、自分が親になったいまでは、母親の苦労がよく分かる。もちろん当時はそんなことつゆ知らず、クソババアだなんて悪態をついていたわけだが。それはともかく、つまりぼくは小さい頃から転校少年であったわけで、「地元」という感覚が希薄だ。幼なじみという存在も無い。コンプレックスとまでは言わないが、どこか自分は根無し草であるという感覚がずっとある。根無し草であることをアイデンティティと言えるのか分からないけれども、それが自分の感覚を形成していることは間違いない。良く言えば固定概念が無い、悪く言えば世間知らずということだ。

祖父と祖母は、盆と正月にだけ会うものだった(父親は次男)。親にとっては帰省だが、子供にとってはただ遊びに行くという感覚しかなかった。親もあまり特別視していないようで、お盆というものが本来何をするものなのか、今もってよく分かっていない。いわゆる伝統行事というか、風習とかしきたりといったものにぼくが疎いのは、そういうのに触れてこなかったからだと思う。いま思えば、父方の祖父は毎朝仏壇でお経を唱えていたような気がする。夏休みの期間中だけ、その光景を目にするわけだが、なんか難しいことやってるのかなという感じで、あまり気にも留めなかった。祖父は戦争を体験していたはずだが、戦争についての話を聞いたこともない。父も別段、説明してくれなかった。もちろんぼくが聞かなかったからであって、そもそもぼくは戦争にあまり関心がなかった。ミリタリーものに対する憧れもなかったし、トラウマになるような「戦争もの」の映画や本を観たり読んだりしてこなかった。3年ほど前に、ツイッターで長崎の友人と出会っていなければ、そして彼が語る、彼の祖父や祖母が残したという原爆の記憶を知らなければ、原爆忌のことも気に留めないような認識しか持っていなかった。

すごく薄情な人間だと思う。『風立ちぬ』で描かれた二郎のように。いまではそれを自覚している。

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とり・みき『Mighty TOPIO』という漫画と、宮崎駿『風立ちぬ』には共通項があるという記事を前回書いた。抜粋して再掲する。

『Mighty TOPIO』は、震災と原発事故に真正面から向き合った漫画だ。幾度も幾度もザセツと失敗をくり返してきた、メンマ博士の夢のロボット開発。博士が何度目かの稼働スイッチを入れたその瞬間、大きな地震と津波が研究所を襲う。瓦礫の山と化した街。2年半前にテレビや新聞で目にした、あの光景だ。そんな中、「ある力」によって動力源を与えられた博士のロボット「トピオ」は、復興のお助けをすることになる。

思わず息を呑むラスト2ページ。その8コマには台詞が一切入っていない。あの出来事から何十年後、何百年後の世界であろうか、そこに至るまでのストーリーを、台詞のない8コマが雄弁に物語る。その末に訪れる景色を、モノクロでありながら色鮮やかに描く。想像力が喚起され、読み終わった後には、これほんとうにたったの8ページだったのか?と思わず確かめてしまうくらい、まるで一編の映画を観終わったような余韻に浸ることになる。


『風立ちぬ』についての論評で、内田樹氏は、宮崎駿が描きたかったのは「物語としては前景化しないにもかかわらず、ある時代とその時代に生きた人々がまるごと呼吸し、全身で享受していたもの」ではないかと指摘している(参考)。これには大いに共感する。ぼくも映画を観て同じ質感を感じたからだ。

「あの時代」ーーーそう呼ぶしかないくらい、その時代のことをぼくは知らない。実感としてはもちろんのこと、知識としても、語り継がれた物語としても、ほとんど知らない。同じ国なのに、まるで別の国で起きた出来事のように、断片的な情報でしか、知らない。であるはずなのに、スクリーンに向き合っているうちに、知らないはずの、その国の出来事、というか景色が、人々の息遣いや仕草が、まるで子供の頃に記憶した景色であるかのように懐かしく思えてくるのだ。
車窓から見える、里山の萌えるような緑とか、土埃の舞う街並みとか、石ころの混じったぼこぼこの散歩道とか、この時代に生きたことはないのに、そのすべてが有機的で美しくて懐かしかった。全編から立ち上ってくる鮮烈なノスタルジーが、風のように美しく、愛おしさに溢れた映画だった。

『風立ちぬ』を観て感じた「懐かしさ」とは、内田氏の言う「私たち現代人がもう感知することのできない、あのゆったりとした「時間の流れ」そのもの」なのだ。
1976年に生まれたぼくは、映画で描かれた「あの時代」の「時間の流れ」は知らない。けれども、少なくとも現在の「時間の流れ」よりはゆったりとしていた自分の子供時代のことを思い出し、映画の景色と重ね合わせていたのかもしれない。あるいは、これからの時代、ゆったりとした「時間の流れ」を味わうことが難しいであろう自分の子供たちのことを頭に浮かべながら。


とり・みき氏が『風立ちぬ』について書いた記事がある。
「風立ちぬ」戦慄の1カット - とり・みきの「トリイカ!」

同記事中でとり氏は、「「風立ちぬ」はエゴイスティックな映画だ」と述べている。「作家や職人の、家人や世の大事や、ときには顧客すら省みない、いや、省みないように見えるエゴ」がそのまま作品に反映されているという点で、とり氏はこの作品に共感すると言う。エゴイスティックであるがゆえに「恐ろしいほど孤独で美しい」この作品が「大好きだ」と言う。

ぼくも共感する。共感すると言うとり氏の文章にも共感する。「大好きだ」と言ってしまうこの人が大好きだと思う。

『風立ちぬ』は、宮崎駿が描きたいものを描いた作品だと、とり氏は言う。それと同じように、ノーギャラで描かれたという『Mighty TOPIO』には、とり氏が描きたいものが描かれているとぼくは思う。とり・みきが『Mighty TOPIO』のラスト2ページで描いたものと、宮崎駿が『風立ちぬ』で描いたものが、同じ質感を持っているのは、偶然ではあるまい。

戦争や震災という、圧倒的に残酷な現実を前にして。それらによって失われてしまった景色を美化したいという、単なる懐古趣味でもない。戦争や事故を殊更に憎むわけでもない。ある意味では、その片棒を担いでいるのだ。大いなる矛盾の中で、ロマンチストだとか、幻想だとか言われようが、それを描かずにはいられない。そういうことだと思う。

彼らが「それを描かずにはいられない」のは、それが既に「失われてしまった」ものであるか、あるいは「失われつつある」ものであるからだ。だからノスタルジーを感じるのだ。もしそれがすでに十分に満ち溢れているものならば、わざわざ描いたりはしない。

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言うまでもないことだが、なぜ戦争の悲惨さを忘れてはいけないのかというと、「ある時代とその時代に生きた人々がまるごと呼吸し、全身で享受していたもの」が一瞬で無くなってしまうからである。だから、どのような正義の下でどのような事情があったとしても、戦争はいけない。そういう理由で、日本は憲法九条を制定したはずだ。いやいや、日本という危険な国に武力放棄させるためという当時のアメリカの意向があったからだという見方もある。たしかに、そうかもしれない。しかし仮に制定された経緯がそうだったとしても、市井の日本人にとっての憲法九条とは「過ちは繰返しませぬから」という皮膚感覚こそが出発点になっているのではないか。たいせつなものを失うのはもうたくさんーーそれが大多数の日本人にとっての暗黙の合意であったはず。

『風立ちぬ』や『はだしのゲン』にまつわる表現規制によって失われるものと、「敗戦」を「終戦」と言い換えることで、知らず知らずに日本人が喪失していくものは重なっている。それは敗戦に至るまでの物語。先に述べたように、ぼくは自分の国で起こった戦争のことをほとんどなにも知らないままに育った。物語を知らないのだ。そこに広がる景色や、人々の息遣いや手触りを知らない。

『風立ちぬ』の、ラストシーン数十秒が描かれるためには、そこまでの2時間が必要だった。あの大きなスクリーンに向き合う時間が必要だった。あのラストは真実である。と同時に、そこに至るまでの物語もまた真実である。そのことを「感じる」ためには、物語と向き合い、あの映画が醸し出す質感を共有する時間が必要なのだ。なぜなら、ぼくはその物語を知らないのだから。

もしかしたら、日本人が忘れてしまいつつあるのは、戦争の悲惨さだけではないのかもしれない。戦争や原発事故を越えた先に見える景色も、いまとなっては「失われてしまった」もの、あるいは「失われつつある」ものであり、忘れゆくものであり、語り継がれるべき物語なのかもしれない。だから表現者は表現し続ける。描かずにはいられないから。

「私たち現代人がもう感知することのできない、あのゆったりとした「時間の流れ」そのもの」がかつて存在したということさえ、ぼくらは「忘れ」てしまう。失われて困るもの、そのもの自体を忘れてしまったならば、戦争は悲惨ではなくなり、正義や合理性で語られるものになる。なにせぼくは薄情な人間だ。

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『はだしのゲン』閉架問題については、ぼく自身が作品を読んでいないので何とも言えない部分はあるが、次の文章がほとんどすべてを言い表していると思う。

小池一夫さんのツイートより
「はだしのゲン」の閉架問題。大人は子どもから、残酷な事実からただ遠ざけるのではなく、この世には信じられないほど残酷な真実がある、しかし、あなたの生きるこの世界はとても豊かで美しく優しい場所でもあるのだと、両方の真実を教えるべきである。(小池一夫)


いや、待てよ。子供たちには「両方の真実を教えるべきである」という言い回しでは、大事な点が誤読される恐れがあるかもしれない。そもそも、ぼくたち大人は「両方の真実」なんてものを知っているのかという疑問だ。少なくともぼくは知っている(だから教えてやる)という立場には立てない。

真実を「教えるべき」というよりは、両方の真実が「そこに在る」というだけでいい。

両方の真実が「そこに在る」という「状態」を、保持し続けること。それがつまり「語り継ぐ」ということの意味なのではないかと思う。すべての子供に一律に語り継ぐ必要はない。読みたい人が読めばいい。ただそれだけのことなのに。例の閉架問題のなにが問題かというと、それを「無かったもの」にしようとしているからなのである。都合の悪いことは隠して「忘れ」ようとする技術に他ならない。

つまりこれは、子供の知性を信じていないという態度だ。

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史実や文化を知識や教養として身につけていれば、見えてくる物語もまた変わってくる。町山智浩さんの『風立ちぬ』解説を聞いて、ああぼくは分かっていないことがたくさんあるんだと知り、それを殊更に説明しようとしなかった同作品の懐の深さに改めて嘆息した。

作中において分かりやすい説明が少ないというのは、解釈を委ねるということであり、作り手が観る人の知性を信じているということでもある。観る人の知性を信じるとは、観る時点での知性もそうだけれども、その後その人が多様な経験を積み重ねていく中で形成されていくであろう未来の知性に対する信頼ということでもある。

考えてみれば、宮崎駿だって終戦時は4歳である。あの映画で彼が描いた景色は、彼が直接経験した真実というわけではなく、彼が語り継がれたものだったに違いない。「ぼくはこういう物語を見聞きしてきました」という彼の頭の中を提示したのがあの作品なのだとも言える。

もう一編、とり・みき氏のコラムを紹介する。
こどもたちは裸足で夏を駆ける - とり・みきの「トリイカ!」

とり氏は、話題になっている閉架問題について、「見せるべきではない」という意見にも「見せるべきだ」という意見にも、どちらにも違和感を覚えるという。子供の頃に一種のトラウマになった諸作品での原爆の描かれ方。しかし「遠ざけたい」とは思わなかったし、むしろ興味がわいたと言う。「原爆や戦争への興味のスタートは一時期の少年が抱く「恐いもの見たさ」やグロテスクなものへの興味と、さほど変わらなかった」と。

同記事より
自分の経験からいえば、そもそも子供は誤解や誤読をしながら、あるいは大人から見れば不健全な興味から作品に入るのだ。そうして年月をかけて学習をし、ここは正しくここは間違いだった、などと吟味しながら、それでもなぜ自分がその作品を好きになったのか、を突き止めていくのだと思う。


すばらしい見解だと思う。

人間は忘れる生き物である。そして、人間は学習する生き物でもある。「見せるべきではない」あるいは「見せるべきだ」という態度は、人間は学習するというそのこと自体を忘れてはいないか。わざわざ「教え」たりせずとも、ただ「そこに在る」だけで、子供たちは勝手に学習する。

『風立ちぬ』の主人公は語らない男である。ストーリーも時代背景も、作中での説明が極端に少ない。『Mighty TOPIO』は抑制された筆致で、台詞も必要最小限だ(ラスト8コマに至っては一切の台詞が無い)。作品に「正解」を求める人にしてみれば、非常に分かりにくい作品なのかもしれない。けれども、語られる物語と対峙する姿勢を持った人に対しては、どんな台詞やキャプションよりも雄弁に物語ってくれる。

戦争を起こすのは、いつだって戦争を知らない人たちだ。だから知らないぼくらは知る人の言葉に耳を傾ける必要がある。そこで語られる物語そのものよりもむしろ雄弁に物語るものーーそれは戦争を経験してきた人の「佇まい」なのかもしれない。仏壇に手を合わせる亡き祖父の佇まいを思い出しながら。しかしよく思い出せない薄情な自分とともに。


忘れる

忘れる 2013.08.22 Thursday [妄想] comments(1)
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山中 (2016.12.27)

しつこく記事を漁ってすいません。仕事納めったものでついつい読んじゃいました。

風立ちぬとMighty TOPIOの作品と、山ちゃんさんの幼い頃のご家族の記憶とあの戦争とが交差して、子育ての話に繋がって行く、そしてまた記憶に戻るところに鳥肌を覚えました。
なんか、ぼくは最近、子どもが大きくなって生意気なことばっか言ったりするもんだから、ついつい上から教えるみたいになってる部分もあり…そんな自分のダメな部分を省みることができて良かったです。
さっき小松左京botをRTしたんですけどとりみきさんの言葉が『学問や知識というやつは「面白い」と感じなければ、絶対身につかないものである。』それとも通じるというか。
やっぱ、【そっと本棚に置いておく】子どもの興味や関心、知性を信じるみたいな接し方がイイんだよなあと思いました。今回も長々失礼しました。










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