山形市報より 戦争の記憶その2

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
8月6日 広島原爆忌
8月9日 長崎原爆忌
8月15日 終戦記念日

敗戦から68年。国民の大部分が「戦争を知らない世代」となり、語り継がれることも少なくなりました。ぼく自身も戦争体験者の話を生で聞いたことはありません。

なにげなく市報を眺めていたら、そろそろ原爆忌と終戦記念日が近づいていることに気づきました。そろそろそんな時期だよと他人から言われないと、その日付も、戦争があったという事実さえも忘れてしまっているくらい、ぼく自身の中には戦争というものに対して血肉化した想いがありません。

広報やまがた2013年8月1日号より
山形市平和都市宣言 (全文)

世界の恒久平和は、人類共通の念願である。
しかるに、核兵器拡大競争は依然として行われており、人類の生存に深刻な脅威を与えている。我が国は、唯一の核被爆国として、率先しあらゆる機会を通じて、核兵器廃絶を訴えなければならない。
ここに、山形市は、非核三原則の堅持とすべての国の核兵器廃絶を求め、人類の恒久平和を希求し、平和都市の宣言をする。

(昭和59年3月22日 市議会議決)


これが単なるスローガンだけに終わらないように、憲法改正への動きと合わせて、せめてこの時期くらいは想いを馳せてみようと思います。

同じく市報より、山形市内に住む方の戦争体験談を転載します。

広報やまがた2013年8月1日号より
語り継ぐ戦争体験  遠藤 竹雄さん

 私に召集令状が届いたのは昭和19年7月、26歳のときでした。当時、警察官として長井警察署に勤務していました。召集令状が届いたとき、「まさか自分が戦争に行くことになるとは」という思いがしました。その後、福原村(現尾花沢市)にあった陸軍の訓練場で歩兵としての訓練を受けました。そして、同じ年の 11月、下関から朝鮮半島の釜山(ぷさん)に上陸しました。
 私たちに下された命令は、当時中国の臨時首都であった重慶(じゅうけい)に進軍することでした。私たちは、重慶を目指すため、釜山から北京(ぺきん)を経由し長沙(ちょうさ)まで貨物列車で移動しました。そこから先は歩いて目的地に向かって移動する行軍 (こうぐん) となりました。私が所属したのは「弾(だん)12018部隊」という部隊です。部隊の名前に 「弾」という文字が入っているのですが、これは、鉄砲の弾のように「行ったきり帰ってこない」 ことを表すと聞きました。
 行軍はいくつもの部隊が連なって歩きます。その規模は1000人ほどになっていたと思います。山道は一列、その他は二列で進んで行きます。
 背のう(はいのう。リュックサック)の中には、3日分の食糧、固形燃料、下着などを入れ、外側の上部には筒状に巻いた外套(がいとう。コート)と雨衣を付け、その上に円匙(えんぴ。小型のシャベル)や十字鍬(じゅうじしゅう。小型のつるはし) 、頭を守るための鉄かぶとを乗せていました。さらに短剣や銃弾が取り付けられたベルト、雑のう、水筒を身に付け、手には三八式歩兵銃を持っていました。その他、蚊の媒介によって発症するマラリアが恐ろしいものであったので、頭からかぶる防虫網も備えていました。 全て合わせた重量は、八貫目(約32kg)ほどあったと思います。
 昼間は見つかる恐れがあるため、じっと身を潜め、夜になるとそれらを持ち行軍しました。毎夜重慶を目指し、一日十里(約40km)ほども歩いたでしょうか。それは大変つらいものでした。 「皆に付いていかなければ置いていかれてしまう。置いていかれれば命取りになる」皆そう思い、気を張って歩き続けました。
 山道には比較的隠れることができる所があるのですが、平地ではそうはいきません。平地で昼間を過ごさなくてはならない場合、それぞれの隊員が、地面に人が一人入るくらいの 「たこつぼ」 と呼ばれる穴を掘り、その中に潜んでいました。中国軍の飛行機が来ると、かぶとをかぶり、飛行機が去るまでじっとしていました。その当時は日本が勝つまで戦うという気持ちばかりでしたので、不安になることは不思議とありませんでした。
 中国は広く、何カ月歩いても目的の重慶にはなかなかたどりつきません。そのようなとき、中国軍がまいたとみられる「日本は戦争に負けた」と書かれたビラを拾いました。私は、上官にそのビラを見せましたが、上官は初めは信じようとしませんでした。しかし、確認の結果、その情報が事実ということが判明すると、上官は突然刀を地面に突き刺し、しばらく何かを考えていました。そして一言、 「分かった」と言い、ついに降伏を決意しました。私は、上官が刀を取り出したとき、切腹するのではないかと心配しましたが、自分が死ねば、残った部下たちが困ることになるのではと考え直し、降伏に踏み切ったのではないかと思います。これは、終戦から3日目の8月18日の出来事でした。
 その後、私たちは中国軍の捕虜となり、 武昌(ぶしょう)という都市で捕虜生活を送りました。食糧が乏しいため、腕時計や万年筆を地元住民から食糧に交換してもらったりもする生活を送るなか、私はマラリアに罹患 (りかん) し、苦しい思いもしました。
 捕虜生活を8カ月ほど送り、昭和21年5月、ようやく私たちは帰国することができました。私は、まさかこんなに早く日本に帰ることができるとは正直思ってもいなかったため、 喜びが溢れ出てきました。
 しかし、中国軍の機銃掃射で失った仲間のことや召集される前に現役兵として3年間従事していた満州国境警備に私と入れ替えで赴任した仲間たちが、その後激戦地の沖縄に送られ帰ってくることができなかったことなどを思うと複雑な気持ちになりました。
 一歩間違えば、私もその運命をたどったかもしれないと考えると戦争の恐ろしさが込み上げてきます。
 私は、二度と殺伐とした戦争をしたくはありません。そして、私が戦争で味わった、悲惨で、苦しい思いを私の子や孫、そして戦争を知らない若い世代の人たちにはさせたくありません。
 私は、 この平和な時代がいつまでも続くよう願っています。


実際に戦争の現場を体験された方の話を聞くことは、たいへん貴重だと思います。会議室で司令を下すような人たちの言葉ではなく、ひとたび戦争になれば否応なく現地に駆り出されることになる「ふつうの人たち」の話をもっと聞きたいと思います。

3年前に書いた記事です。

戦争の記憶

いまもこの考えと大きな違いはありません。


人は、目に見えない観念的な世界平和や社会正義のために生きることはできません。目の前の家族のためだけを思って、生きることができます。それはエゴイスティックで利己的なことでしょうか。でも、それが真実だと思います。人間は(というよりも自分自身は)本来そういう性質をもっている生き物だということを、まず認識することから始めないと、前に進まないと思うのです。

改憲を叫ぶ方の中によくあるロジックとして、家族を守るためにこそ、戦わなければならないんだ、というものがあります。「愛する者を守るため」。これは、いかにも男ゴコロをくすぐるフレーズです。しかし、愛する家族は、夫または父親が戦地に赴くことを望んでいるのでしょうか。守るって、何から何を?

どこの国に於いても、戦場で犠牲になるのは何の罪も無い住民であり、実際に戦地に赴く兵士たちです。改憲を訴えるような政治家は、決して自らは戦場に立たない立場の人たちです。そして、「正義」がつくられないかぎりは、戦争は起こりません。「お国のため」の、その「国」の中に、自分の愛する「家族」が含まれているのかどうか、よく考えてみる必要があると思います。


山形市報より 戦争の記憶その2

山形市報より 戦争の記憶その2 2013.08.04 Sunday [妄想] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY









url: http://yamachanblog.under.moo.jp/trackback/560
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...