ちょうちょとButterflyと公とPublic

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「ちょうちょ」って、英語で「Butterfly」じゃないですか。
これがどうもうまく飲み込めない。「蝶」が「Butterfly」と英訳されることは学校で習うわけだけれども、「蝶」=「Butterfly」として処理してしまうことにちょっとした違和感があるのです。


ぼくは蝶の標本にも興味がないような蝶の素人ですので、世界的にどのような蝶が存在してどのように分布しているのかぜんぜん知りません。なので、蝶博士や愛好家の方々からすればもしかしたら見当はずれかもしれませんが、科学的裏付けの無い、単なる印象論として「ちょうちょ」と「Butterfly」の差異について考えてみます。

「ちょうちょ」という言葉を聞いた時に、ぼくはどうしても、「♪ちょうちょ〜」というあの童謡が、まっ先に脳内に流れます。「ちょうちょ」という言葉とちょうちょの歌はワンセットになってる。(ちなみにあの童謡は、欧米各国に伝わる童謡に日本で独自の歌詞を付けた唱歌(参考)だったとは知りませんでした。)
で、その結果、「ちょうちょ」という言葉を聞いた時に想起されるのは、白や黄色の、ひらひらと舞う、かわいらしい蝶のイメージです。モンシロチョウやアゲハチョウ。

 
(画像はこちらこちらから拝借)

たぶんこれが日本人が「ちょうちょ」と聞いて連想するイメージのマジョリティなのではないでしょうか。というよりも、日本に住んでいて日常的に目にするのはこういった蝶であるから、この虫は「ちょうちょ」という可愛らしい語感を持った言葉で表されるようになったんじゃないかと。(いや待てよ、もっと昔は「てふてふ」と呼ばれていたはずだと思い出しましたが、めんどくさいので無視します。)

で、「Butterfly」ですよ。語感からして「ちょうちょ」とはまったく違うじゃないですか。(水泳のバタフライと被ってしまうせいもありますが)なんだか激しそうな、きらびやかな感じがする。モンシロチョウやアゲハチョウに慣れ親しんだ身からすると、これを「Butterfly」なんて名付けることにはちょっとした違和感があるのです。あの童謡も「♪バタフライ〜」じゃサマにならない。

ということは、「ちょうちょ」と「Butterfly」はそもそも指しているものが違うんじゃないか。英語圏に住む人が「Butterfly」と聞いて想起するのは、たぶんこういう蝶なのでは。

  
(画像はこちらから拝借)

ためしに、「ちょう」で画像検索した場合と、「Butterfly」で画像検索した場合を比べてみたのですが、色合いがぜんぜん違います。やっぱり「ちょう」は「ちょう」っぽいし、「Butterfly」は「Butterfly」っぽいんですよね。(こんな説明でうまく伝わっているかどうか分かりませんが、伝わる人には伝わっているという前提で話をすすめていきます。)

何が言いたいかというと、翻訳されることでイコールで結びつくと思っていたものが、実は同一のものを指しているとは限らないということ。同じ言葉だと思っていたものが、実は各々の立ち位置によってまったく違うイメージで使われていることがあるということ。

言葉というものは、絶対的な価値基準としてあるわけじゃなくて、その土地に暮らす人たちの生活文化の土壌に大きく左右されるものです。というか、文化的土壌とかバックグラウンドがまず先にあって、そこから必然的に生まれてくる。



日本という国は明治維新によって、近代国家へと変貌していったと言われています。黒船が海を越えて持ってきたものは、西洋の文化、制度や習慣。いわゆる文明開化です。このときに日本は西洋の文明をごっそりと輸入した。西洋の制度や習慣を輸入するために、それらの概念も、言葉として輸入した。「人権」や「自由・平等」といった概念もたぶんはじめて輸入された。もちろん、それによって日本は近代国家としての道を歩んでいくことになるわけですが。

たとえば「人権」や「自由・平等」といった言葉が、西洋の民主主義で使われているのと同じ意味で認識されているのかどうかは疑問です。人権感覚の欠如した人が政治家になり、大手を振って平気で人権侵害的な発言をしたりしている。輸入されたのは言葉だけで、日本には民主主義が根付く文化的土壌がまだ育っていないというふうにも見えます。

文化的土壌とかバックグラウンドがまったく異なる地に、異文化の「言葉」だけが輸入されたとしても、その真意は伝わらないわけです。字面だけで、自分が理解できる範囲で勝手に自分なりに解釈してしまう。だけど、相手の文化的土壌と自分の文化的土壌を知らなければ、ほんとうには理解できるはずが無いんですよね。


「公」という言葉があります。
公務員は、よく既得権益とされてバッシングの対象になります。公務員や議員を減らせという声が世論としての主流です。まるで公務員が多いことが問題であるかのように扱われていますが、日本は公務員の少ない国であり、すべての欧米先進国より少ないというデータがあります(参考)。

「滅私奉公」なんていう言葉があることから考えても、日本における「公」という言葉の位置づけは推して知るべしです。

nakanemisaさんのツイートより
7〜8年前、diversity MLで「公」の概念がヨーロッパと日本ではまったく違うことを知った時は衝撃を受けた。「公」というのは「自分たち」のことなんだと。

公とは「お上」のことではなく、「自分たち」の総意。教育の捉え方は、この「公」の捉え方で大きく変わる。今ある社会に適応させること。ここ数十年の日本の教育の主な目的はそれだった。でも本当はもう一つの大切な側面がある。どんな社会をつくりたいのか、自分の志向や意志をもつ人を育てることだ。


「公」という言葉の使われ方と、「Public」という言葉の使われ方がまるで違うんですね。それらの言葉を聞いて想起するイメージもたぶん違うし、それらの言葉が使われるバックグラウンドもまったく異なっている。

2009年の政権交代で民主党が、松井孝治参院議員が中心となって打ち出した「新しい公共」とは、つまりこの「公」という言葉を再定義しようという意味でした。いままでの「お上にお任せ」型の政治から、有権者が「自分たちで引き受ける」政治へ。鳩山由紀夫氏が言っていた「裸踊り」もそういう文脈であったわけです。これは日本の政治史において、相当にドラスティックな変化になるはずでした。当時のぼくは、その期待も込めてこんな記事を書いています→「公」と「私」

だけど、そういうことはあまりアナウンスされなかったし、そういう認識は人々の間にほとんど浸透しなかった。民主党の迷走とともに、「新しい公共」はいつのまにか立ち消えて、そして忘れ去られていきました。

3年前の松井孝治さんのツイートより転載します。
日本の文化を語れる政治家を育てなければ。経済も生活ももちろん大切。それらは必要条件。でも十分条件ではない。自国の文化を高めることがその国の教育や経済や政治の一義的な目標なのではなかろうか。

僕が「文化」というとき、狭い意味での芸術文化もさることながら、中央の「官」だけでなく、地域の人々が「公共」をささえるような、社会のありようまで含みます。豊かな日本独自の「文化」を更に深化させたい。前提として経済が大切であることとも、他国の文化を尊重することとも両立すると思います

「人間のための経済」。鳩山演説で問いかけたこと。2000年代、マクロ経済はそれなりには成長した。マクロの成長も必要。ただ、国民生活がどこまで豊かになったか、地域の絆が強化されたか、地方が空洞化していないかを振り返り、今の日本に必要な経済社会政策を立案しなければ。

その議論の中で、思い切った地域主権、「新しい公共」。これらは経済の活性化のためにも重要という方向性を、前内閣(編注:鳩山内閣)では見出しました。


「民主党」という言葉には、もう負のイメージがまとわりついてしまいました。民主党について書くことすら憚れるような雰囲気です。けれども、3年前に政権交代を託したときの「政治が変わる」というあの期待感のすべてが嘘だったとは、ぼくは思っていません。新しい政治の言葉を届けようとしていた人たちが少なからずいたこと、そういう気運が高まっていたことをぼくは覚えています。ぼくたちは政権交代に何を託したのか。何を目指していたのか。何がダメで何がダメじゃなかったのか。検証する必要があります(けれど主要な政治家は誰もしていません)。残念ながら松井孝治さんは政界を引退してしまいました。民主党内に「新しい公共」の意義を理解していた政治家がどれだけいたのかも、いまとなっては疑問です。

人々の意識下にある「お上にお任せ」は根強い。民主党が崩壊した後の自民党への振れ幅をみていると、そう感じざるを得ません。民主党がダメだったからやっぱり自民党、だなんて短絡的すぎる。知的な逡巡がなにも無い。だけどしょうがない。日本のバックグラウンドはそういう文化的土壌なのだから。一度や二度の政権交代で簡単に意識が変わるわけないんです。何十年もかけて、言葉とともに成熟させていかないといけない。

自民党にせよ、民主党にせよ、あるいは共産党にせよ、どれかの政党が「正解」であるはずだ(選挙は「正解」を選ぶレース予想だ)と考えているうちは、「お上にお任せ」の意識から逃れられません。まるで「民主主義」という「正解」が、異国の地にすでに完成系として存在していて、それを輸入すればOKみたいな態度では、民主主義が根付くわけがない。必要なのは、考えるちからです。

だからこそ、教育が重要です。

nakanemisaさんのツイートより
この世界のルールを知って従うことも必要。でも同時に、あなたは自由な意志をもって生き、この世界とルールをつくっていく一人でもあるということ。

意志をもつように育てるための何か特別な方法があるわけではないだろう。ただ言えるのは…子どもと、親や先生(学校)との間に、双方向のやりとりがあり、そのせめぎ合いで状況を変えていける体験することではないだろうか。一方的に押し付けるだけでは、考えない受け身な生き方を身につけさせてしまう。


「教育改革」が必要だと、誰もが言います。
だけど、どういうふうに変えていけば良いのか、その中身はそれぞれの考え方によります。自民党と民主党の教育観はぜんぜん違いました。「教育」という言葉で一緒くたにできない多様性をもっているのが、教育だと思います。言葉の字面通りの定義ではなく、話し手と言葉が含むニュアンスを見ないといけない。

「教育」という言葉を聞いた時に、ぼくたち大人は、自分が理解できる範囲で勝手に自分なりに解釈してしまいがちです。子供は、大人がもつ偏狭な理解や解釈を超えていく可能性をもっています。双方向のせめぎ合いを通して、言葉がもつ意味を再定義していくのも子供たちです。

「好奇心こそ、次の時代を拓く鍵である。これを追求し、果てしない努力をつづけるところに、子供の力がある。」(野口晴哉)

だいたいにおいて、「政治」という言葉を聞いたときにまずはじめに受けるネガティブなイメージをなんとかしたいですよね。政治家って、本当はクリエイティブな仕事であるべきだと思います。

フルタルフ文化堂 より
コトバが変わると人々の気持ちが変わる。政治が変わる。社会も変わる。人々のコミュニケーションのスタイルも変わる。だからリーダーこそが、しなやかなコトバ、自分のコトバで語りかけることは、本当に大切だ


もういちど言いますが、言葉がもつ意味を再定義していく可能性を秘めているのは、子供たちです。
まあ子供みたいな大人でもいいんですが。

ちょうちょとButterflyと公とPublic

ちょうちょとButterflyと公とPublic 2013.07.12 Friday [妄想] comments(0)
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