それって誰のもの

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漫画家のとり・みきさんが、自身の作品がテレビ化された時のエピソードをこちらのコラムで綴っています。もう20年以上も前の出来事だそうですが、ここで書かれている「創作物をめぐるあれこれ」は、現在もあまり変わっていない状況であると思います。

青春の怒りとカネ とり・みきの「トリイカ!」 - 日経ビジネス・オンライン

同記事より
いまさら出来に文句をつける気持ちはない。
ショックだったのは、ドラマ化が決まっていく過程でのさまざまな出来事だった。

編集側はあきらかに舞い上がっていた。
基本的に「ドラマ化おめでとう。これで単行本も売れるね。ついに君もメジャーだね」という空気が、編集側からも局側からも同調圧力としてビンビン伝わってくる。ドラマ化に反対するような要素はすべて悪と見なされるような、そんな雰囲気だ。

色んな交渉ごとでも、編集側が作家よりもまず局側に気を遣っているのがわかる。こちらは「えっこの人たちはこっちの味方なんじゃなかったの」という不信感が増していく。

交渉が進むにつれて、局側の言葉の端々から、このドラマ化のプロジェクトが、まず主演の女性歌手を売り出すための企画であり、適当な原作はないか、とリサーチした結果、このマンガが浮上した、というような経緯が伝わってくる。そういうことを当の作者にいうのに、あまりてらいもない感じだ。


テレビがいかにメディアの王様であるかを物語っています。
それと同時に、「作品」とは誰のものか、という問いをも突きつけています。

同記事より
まず大きくは「作品は誰のものか」という古くからの命題がある。
話を拡げれば、出版社や映画会社(実質テレビ局ですが)という矮小な単位でなく「描かれた作品は作者のものか読者のものか」といういつものテーマが姿を現す。


音楽の分野でも、デジタルデバイスの普及にともなって、著作権保護がうるさく言われるようになりました。誰が主体的にうるさく言ってるのかというと、だいたいミュージシャンではないんですよね。作者ではなく、作者をとりまく周囲の人間が著作権を言い立てて大きな顔をし始める。いったい誰のための著作権保護なのか、実はよく分からないということが多いように思います。CCCDという愚行を犯した音楽業界は自分の首を絞め、結局そんなものはあっという間になくなりました。

著作権をめぐる問題について以前ぼくも書きました。
クリエイティブ・コモンズ(著作権による囲い込みから、おたがいさまの共有へ)

最終的には、作者への敬意があるかないか。それだけだと思います。

とり・みきさんは、「作品は誰のものか」という著作権の問題については、作者それぞれの考え方があり、それぞれのスタンスがあって然るべきだし、それでいいと言っています。自身の作品のドラマ化に関しても、自分の作風を一徹して守りたいというわけではないそうです。「原作とテイストが全然違っても作家性の強い監督が作る作品なら、私はそっちのほうを見てみたい」と。

だけど現実はそうじゃなく、作家よりもまず局側の意向が先に立っていた。たぶんドラマ化の現場では、作品に対するリスペクトはあまり無かったのではないでしょうか。とり・みきさんは「原作者だけ蚊帳の外」的な疎外感と不信感が膨らんでいった結果、こうなったそうです。

同記事より
なによりも、この不幸せな気持ちが、身近で一緒に作品を作ってきたはずの編集部に理解されていないのがいちばん悔しく情けなかった。やがて私はモチベーションが完全に折れ、連載の終了を申し出た。「テレビ化が決まってこれから本が売れるというのに、いきなりこやつは何をいいだすのだ。信じられん」といわんばかりに、当時の編集長はあきれた顔をした。

説得はされたが、けっきょくその、けっこう人気のあった週刊連載は、それから単行本1巻分も描かずに終わった。

(中略)

冒頭に述べた青二才ゆえの過ちだが、それくらい、当時の私は気持ち的に追い込まれていて、その場所からショートカットで脱出して違うところで自分の描きたいマンガを描きたい、と切望していた。当時の副編集長がやってきて「二度とこの世界で仕事はできないぞ」とすごまれたのを憶えている。


作者への敬意があるならば、こういう対応にはならないはずです。自分らのメシのタネぐらいにしか思っていないんじゃないでしょうか。自らの立場を利用して脅しをかけるなど論外だと思うのですが、こういうことは常套的に存在しているんでしょうね。選挙を前にして「いま自民党を敵にして農業が大丈夫だと思っているのか」というあからさまな恫喝もつい先日ありました(参考)。


作品は作者のものか読者のものか。どちらの意向を汲むべきか。忖度するべきか。0か1かの問題ではないでしょう。どちらの要素もあるし、互いに影響を与え合っている。どちらが正しいなんてことはありません。


先ほど唐突に選挙の話をもってきたので、むりやり政治の話にむすびつけます。
政治は政治家のものか有権者のものか。どちらの意向を汲むべきか。忖度するべきか。


森達也さんが、民主党への提言として寄稿した文章から転載します。

民主党 参院選スペシャルサイト声!より
多数決を原理とする民主主義は、メカニズムとしては市場原理だ。メディアが市場に迎合するように、政治も国民の多数派に迎合する傾向が強くなる。ポピュリズムが加速する。こうして国は判断を間違う。そんな事例は歴史にいくらでもある。前回はあれほど大勝し、そして今回はこれほど大敗した。圧倒的な世相の変化については、議員一人ひとりが実感しているはず。ならば開き直ることはできないか。多数派への迎合をやめる。選挙という市場原理に規定される政治家に対して、この要求がとても難しいことは承知している。でも試みてほしい。模索してほしい。

ドイツは改憲において国民投票を必要としていない。なぜならばかつて世界で最も民主的と謳われたワイマール憲法を掲げながら、結局は正当な民主的手続きでナチスドイツを誕生せしめたという記憶があるからだ。このリアリズムに僕は感動する。


市場原理にしたがって、最大公約数の意向を汲もうとすることで作品の質が落ちていくということは残念ながらたくさんあります。「その作品にとって、もっとも幸福な終わりのタイミングで終われない悲劇」もそうだし、手塚治虫の自身による過去作の度重なる改変が批判されたり「ディレクターズ・カットに名作なし」と云われたりする(前述のとり・みきさんの記事より)わけです。

どうしても選挙に勝たなければならない政治家は、最大公約数の意向を汲もうとします。少なくとも選挙中は、最大公約数の意向を汲むというフリをします。世論に迎合して、忖度する。

だけど、その世論って、実態のよく分からない、あるんだか無いんだか分からない代物だったりしませんか。少なくとも、テレビが喧騒する「世論」には、ぼくの声は入ってないなあと思うことが多い。あるんだか無いんだかよく分からない、幻想に向かって忖度しているような、そんなふわふわした空気を、森さんの指摘する「集団化」に感じます。

そんな中で一徹して自分の作品を作り続ける日本共産党はある意味、職人なのかもしれません。だから、自分の作品を守ろうとする向きがあって、それが自党のためなのか有権者のためなのか分からないなどとよく言われる。ぼくもよく分からないときがあります。

0か1かの問題ではないでしょう。どちらの要素もあるし、互いに影響を与え合っている。バランスだと思います。民主党が今後そのバランスを模索できるかどうか、あまり期待はしていませんけれども、民主党に限らず、ポピュリズムに陥らない飄々とした政治家、政党が出てきてほしいと思います。

それって誰のもの

それって誰のもの 2013.07.11 Thursday [政治・メディア] comments(0)
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