多様性って、肩の力を抜くことじゃないのかな

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よく、こういう議論があります。

日本はどんどん非寛容な国になっている。

生活保護の不正受給へのバッシングを隠れ蓑にした、受給者への目に見えない差別。未婚の母に対する人権侵害的なアンケートを企画する出版社。警察という権力に守られながら、何の罪も無い市井の在日コリアンに侮蔑の言葉を投げつけるだけのヘイトスピーチ。放射能、原発の是非をめぐる同調圧力。

野合とポピュリズム、ギャンブラー的政治家の跋扈に象徴されるような、テレビが流す「風」によって決まる選挙。そういった空気に占拠される政治。メディア・リテラシーの欠落。一億総国民が、ひとつの方向に向かってガーッと極端に振れる「世論」。とにかく、ある方向に対して向けられる同調圧力っていうんですか、それも無意識の正義の押し売り。そういう傾向がありますよね。

森達也さんは、日本の現状を、「今のこの国の状況は(欧米のメディアが指摘するような)右傾化ではなく、 集団化だ」と言っています(森達也オフィシャルサイト巻頭コラムより)。

テレビを付けると、どの局も一律に横並びで同じようなニュースを流しています。だから森さんが指摘するように、徒党を組んでひとつの方向に走りやすい。数の論理に守られた無意識の人たちっていうのは、そこから外れる人を異端視したり敵視したり、しまいには迫害したりしがちです。多数派が徒党を組めば組むほど、その集団は、少数派に対して非寛容になっていきます。

首相自身が、自分の意見に反する人たちを「左翼」などとカテゴライズして、あからさまに見下すような態度を自身のFacebookで公開し、それに「いいね」してくれる賛同者がコメント欄に並ぶ光景は、ちょっと気持ち悪くてぼくは直視できないレベルです。これがどのメディアでも批判されない不思議。

ほんとうに、日本は非寛容な国になっている。あるいは、もともと非寛容な国であったけれども世間体や常識などといった蓋でいままで防護されていたものが、社会情勢の不安定化と、SNSの普及による身体性(イデオロギーを抑制するのは身体だという説)を超えた結びつきによって、その蓋が外れて噴出しているという現象なのかもしれません。

ともかく、日本はどんどん非寛容な国になっている。
この傾向を懸念する人たちは、日本人にはもっと寛容さが必要だと訴えます。寛容さというのはつまり、多様性を包み込む度量のことだと思います。だから、多様性を許容する社会であるべきだと。

そうすると、こういう議論が出てくるのです。

多様性を許容する社会であるならば、ヘイトスピーチのような差別的な発言も、多様な思想の一つであるはず。ヘイトスピーチも、言論の自由に守られるべきだ。

こういうことを言う人が必ず出てくる。
事実、在特会のヘイトスピーチが警察によって守られているのは言論の自由を論拠にしているわけです。
「それは違うだろう」と、思います。ふつうの感覚をお持ちであれば、それは違うだろうと思いますよね。

じゃあ、どこまでを多様性として許容して、どこからを許さないのか。きちんと定義できるのか。誰が定義するのか。そうやって線決めをすることは、多様性に対して寛容な態度だと言えるのか。そうやって考えていくと、頭の中がぐるぐるしてパーンとなります。

めんどくさいですね。定義、定義って。

すべての人に等しく当てはまる定義なんて存在するんでしょうか。定義にこだわることが、非寛容ってことなんじゃないですかね。定義にこだわらないのが、寛容な態度なんじゃないですかね。

コンプライアンスだの、プライバシーポリシーだの、著作権保護だの、なんでもかんでも杓子定規に当てはめようとする風潮がありますが、そういうのもケース・バイ・ケースでいいんじゃないでしょうか。

よく、誤字があったという理由でわざわざツイートを消して再投稿する人がいます。その律儀さは立派だなあと思いますが、少しの誤字くらい読む側が脳内で修正して読めばいいだけの話だとも思います。そんな立派じゃなくていいよと。


「世の中には「正しい」ことより大事なことがある(んじゃない?)」と、漫画家のとり・みきさんが言っています。

とり・みきの「トリイカ!」 - 日経ビジネス・オンラインより
いまのネットは、それが事実かどうか別に検証しなくていいことまで検証したがるシャレのわからない正義感であふれかえっている。冗談ひとつ発するのも気苦労だ。


すごく分かります。シャレのわからない正義感、「定義バカ」の話に付き合っていると、こっちまでおかしくなります。橋下市長の戦術はまさにそうです。別に検証しなくていい定義を追求して相手の頭をパーンとさせて、おかしくさせるのです。

「信を問う」だの、「毅然とした」だの、ほんとうに自分は普段からそういう態度でものごとに接しているのかどうかを考えてみてください。そうじゃないとしたら、それは煽り言葉です。

白か黒か。0か1か。
もうそういうの、疲れませんかね。

それが事実かどうか別に検証しなくていいことはほっとけばいいんです。少し聞きかじった程度で、ほんとは関心が無いのに社会派のフリをして眉間に皺を寄せる必要はないんです。自分にリーチすることだけ取り扱えばいいんです。
自分はめっちゃグレーというかニュアンスカラーな存在だし、0でも1でもない0.23ぐらいの輩であるということを自覚するといいです。0.84ぐらいだとサバを読んだっていい。

眉間の皺をほぐして、肩の力を抜いて、シャレの分かる人たちとおもろいことをツイートしていたいですね。各所にそれぞれの個性が点在して、それぞれが自分の好きなことを展開して、ときには助け合ったり合わなかったりする様子を、神様になって空から俯瞰したときに見える景色が、多様性ってことなんじゃないかなと。それはきっと創造的で、色とりどりなはずです。

多様性って、肩の力を抜くことじゃないのかな

多様性って、肩の力を抜くことじゃないのかな 2013.07.10 Wednesday [妄想] comments(0)
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