映画「立候補」と観察映画

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6月29日から東京・ポレポレ東中野で公開が始まった映画「立候補」が、4日間連続で立ち見を含め満席となり大きな話題を呼んでいるそうです。
映画「立候補」異例の大ヒット!4日連続満員御礼 - 映画.com




公開日直前には、高橋源一郎さんが森達也さんに誘われて試写会に出向き、見終わった直後に「感動して、涙が止まらない」とツイート。その数日後には朝日新聞の論壇時評でも大きく取りあげていました。
立候補する人々 ぼくらはみんな「泡沫」だ 作家・高橋源一郎 - 朝日新聞 論壇時評

これもいいレビューです。
京大出身、商社エリート、スマイル党代表。マック赤坂はなぜ戦うのか「映画『立候補』」 - エキサイトレビュー


映画を観た人のツイートなんかを見ても、評判は上々。
ぼくも、公開前に本編を観る機会に恵まれたのですが、めちゃくちゃおもしろかったです。全国での上映スケジュールはまだ決まっていない状況ですが、これは全国ロードショーされるべき作品だと思いました。こちらに感想を書いています。
映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由

「彼ら泡沫候補が存在する理由とは、すなわち、ぼくらが存在する理由でもあった」
これが、ぼくの感想です。悩みに悩んで死票を投じた昨年の衆院選を思い出しながら、投票するという行為とは何なのかについて考えさせられました。詳しくは上記記事を。

これはあくまでもぼくのパーソナルな体験を通じた、ぼくの感想です。ここ大事なんですが、たぶん観る人によって想起することが違う。観る人によっていろんなことを考えさせられる映画だと思うから、多くの人に観て欲しいと思うし、いろいろな人の感想を聞いてみたい。

そういう映画になっている。藤岡利充監督と製作・撮影の木野内哲也さんの二人でほぼ作られたドキュメンタリーだそうですが、たぶん、藤岡監督や木野内さんが意図して作ったもの以上の「なにか」が宿ってしまっている。その「なにか」は、観る人によってさまざまなことを想起させるはず。

そう思っていたので、或るレビューの中にあった一文が妙に引っかかりました。

マック赤坂、羽柴誠三秀吉氏…異色候補の本音に迫った「映画『立候補』」 - zakzakより
映画評論家の垣井道弘氏は「着眼点はいいし、マック氏ら取材対象者に迫ろうとしているのも分かるが、選挙のドキュメンタリーであるならもう少し批評的、ジャーナリステックな視線で取材対象者に迫るべきだった」という。


もし仮に、「もう少し批評的、ジャーナリステックな視線で取材対象者に迫った」ならば、この映画はまったく別のものになっていたと思います。作り手の「政治的な意図」が透けて見えたならば、聴衆はシラけてしまうと思います。「感動して、涙が止まらない」なんてことにはならないでしょう。クライマックスにかけて映画の神が降りてくる、あの奇跡的な展開は、決して意図して出来るものではないからです。だから感動する。それが「作られた」ものではないから、胸がふるえる。

もともとこの作品は、藤岡監督自らの“映画監督にかける夢”とリンクした「夢追い人」という企画からスタートしたもので、“あきらめない人”のモデルとして「泡沫候補」が取りあげられただけで、当初は泡沫候補だけに絞るつもりも無かったそうです。撮影も、外山恒一氏のインタビュー以外は難航したとのこと。マック赤坂は私生活に触れられることを嫌い、カメラを回すのも事前に許可を得られた時間のみで、気分が乗らない時は中断することもあったとか(参考)。

実際、この映画を観てもマック赤坂のことはほとんど分からないままです。彼はなぜ、供託金300万円を払ってまで、立候補するのか。政治家になって何をしたいのか。理解しようとすればするほど、理解できなかった。だって、マックが政策について語るシーンはほぼ皆無なんだから。マラカスを振って踊っているだけ。中身が何も無い。「ジャーナリステックな視線で」迫ることを、彼は拒否している。

なのに、「何も無い」はずのマック赤坂のすがたが、なぜこれほど胸を打つのか。それは、実際に映画を観て「体感」してほしい。そうしないとたぶん伝わらない。言葉や文章で簡単に伝わるようなものだったら、映画を撮る必要は無い。逆に言うと、だから映画を撮るんです、きっと。

ぼくが20代半ばのときに、「古寺巡礼」展示とともに目にして衝撃と大きな影響を受けた土門拳の言葉です。
『写真の立場』土門拳 - 土門拳記念館



ニューヨーク在住のドキュメンタリー映画作家、想田和弘氏は、自身の映像作品を「観察映画」と呼んでいます。想田監督のドキュメンタリーには一切の説明がありません。イントロもナレーションもBGMも敢えて排している。ごてごてと盛り付けて分かりやすさを演出する昨今のテレビ番組とは真逆です。もともとテレビ番組制作に携わっていた想田さんは、そこでの「決まりごと」の多さについて疑問を感じるようになったそうです。



想田監督は、アメリカのドキュメンタリー映画監督であるフレデリック・ワイズマンから影響を受けたと言っています(ぼくはワイズマンの作品を観たことはありませんが)。

同書より
ワイズマンの映画にはナレーションも音楽もテロップも何も無い。ただひたすら目の前に展開する現実を映像と音で描写するだけである。「オレからは何も説明しないよ。観る人が勝手に解釈してくれ」というワイズマンの素っ気ない声が聞こえてきそうだ。


テレビ番組が最大公約数の「分かりやすさ」を追求して、てんこ盛りになっていくのに対して、この「素っ気なさ」は、作り手の努力不足と言われてしまうかもしれません。けれども、解釈を受け手に委ねるということは、受け手の知性を信じているから出来ることだと思います。テレビが説明過剰になるのは、視聴者の知性を信じていないからです。

受け手の知性を信じるとは、受け手の解釈に委ねるということ。教育も、子育ても、そこが本質的な根幹にあるのだとぼくは思っています。もちろん、基礎となる学力(しつけ)も必要だけど、それは目的ではない。彼らが自分で自分のこととしてものごとを「考える」ようになるための手段です。主客が転倒しないように気をつけたい。

想田さんは、徹底して説明を省くのと同時に、だからといってドキュメンタリーが公正中立な客観性を保つわけではないとも言います。カメラのフレームを通した時点で、それは撮影者によって切り抜かれた映像です。そこからこぼれ落ちる現実も無数に存在する。



映画「立候補」は、特定の政党や候補者を支持・応援する映画ではありません。それどころか、たいして「政治的」な映画でも無い。なのに、観終わった後には、今までよりもずっと政治のことを考えるようになります。考えたくなる。それも、テレビが分かりやすく説明してくれる劇場としての「画面上の政治」ではなく、自分ごととして。自分の投票行為を省みたくなる。自分の生活を顧みたくなる。

「オレからは何も説明しないよ。観る人が勝手に解釈してくれ」

ひょっとしたら、映画の中でのマック赤坂はそう言っているのかもしれません。



最後に、木野内哲也さんのツイートを。
参院選の立候補届け出が先ほど閉め切られた。映画「立候補」に出演する2人が国政に名乗りを上げた。ドキュメンタリー映画の特性なのか、映画という領域が現実とフィクションの差を余裕で越えている。

スクリーンに映り込む光と影が非現実世界だと誰が決めたのだろう。緩やかにプログレスする映画「立候補」。我ら平成よ、刮目せよ。我々は未だ真の現実を味わってはいない。


なにが現実で、なにがフィクションなのか。ぼくらはどうやって判断するんでしょうね。

映画「立候補」と観察映画

映画「立候補」と観察映画 2013.07.04 Thursday [音楽・映像] comments(0)
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