棄権(意見しない)=全権委任(お上におまかせ)というサイレント・マジョリティ

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めずらしく、新聞を読みました。妻の実家に泊まらせていただいたので、息子が寝た後にその隣で紙の新聞を広げてみたんです。元サブカル系男子としては、ピーター・バラカンという文字が目に留まらざるを得ないわけで、読んでみたらおもしろかった。投票、民主主義についてのオピニオン記事。WEB版から転載します。

(2013参院選)半分で決める民主主義 ピーター・バラカンさんほか - 朝日新聞
より以下引用

ピーター・バラカン氏
憲法は政治家のためではなくて国民を守るためにあるのに、今の政権は自分たちが人々を管理しやすくするために憲法を改正しようとしている印象がある。それは、大変な間違い。ぼくは外国籍だし、参政権もないけれど、日本の皆さんがそのことに気づいていないんじゃないかという危機感があるんです。


外国籍だし、参政権もないのに、ピーター・バラカン氏はそう考えています。だけども、バラカン氏が指摘するように、日本国籍を持ち、参政権を持つ日本人の多くは「そのことに気づいていない」でしょう。政治への無関心、忌避感はたぶん先進国の中でも突出していると思う。マスメディアは多くを伝えないし、多くの日本人はそのマスメディアに過多に依存している。バラカン氏はラジオDJであり音楽愛好家ですが、それと政治の話だって、ほんとうは地続きでつながっている。それを分断して別ものにしてしまうことで、政治の話がタブー視されていく。なぜそうなるかというと、日本での政治談義の多くが単なるレッテル貼りの域を出ていないからでしょう。日常生活の中で政治の話がタブー視されるのは本当はおかしなことです。

ピーター・バラカン氏
96条を改正して国会議員の憲法改正発議の要件が3分の2から2分の1に引き下げられ、9条が改正されて普通の軍隊ができたら、ゆくゆくは自分の子供が徴兵され、戦場から帰ってこないかもしれない。それでいいの? 先のことまで想像してみてほしい。一人ひとりがどういう国であってほしいかを考えてみる価値はあると思います。


自民党が何をしようとしているのか。あれほど96条改正に意欲を見せていた安倍首相ですが、参院選を前にして改憲に関する話題はトーンダウンしています。たぶん実際に投票日になる頃には、改憲のことなんて頭から消え去っている人のほうが多くなるでしょう。だけども、自民党は96条改正や9条改正を目指しているし、「公共の福祉」という文面を「公益及び公の秩序」と書き替え、国民の人権を軽く扱おうとしている。そういう政党であるということは、もうすでに示されているわけです。それは事実であるし、その方向性は撤回もされていない。ただ選挙の争点としてはトーンダウンしているだけです。

だいたいが「選挙の争点」っていうのもおかしな話で、争点はメディアの報道が決めるものではなく、また与党側が決めるものでもない。有権者であるぼくたちひとりひとりが、自らのプライオリティに基づいて、自分で決めることです。自分の原体験、つまり自身の生活、家族、はたらき方や子育て、生き方と向き合って、何が大事なのか、どういう国であってほしいかを考えてみるのが選挙です。候補者にとってもそうだし、有権者にとってもそうです。争点はひとつではない。勝手に簡単に決められてたまるかって。

自分の原体験を放り投げて、それよりもこっちが刺激的だろと、テレビの画面は誘導します。これについて君はマルがバツか、どう思うんだいと。当事者でもないのに答えを迫られる。選挙の争点はこっちだぜ、と誘導される。そうやって、政治がぼくらの生活から切り離されていくのです。政治のことを、自分の家族や生活をもとにして考えるのではなく、テレビの画面上に争点があるかのように錯覚して誘導される、すなわち選挙という行為を評論家感覚やゲーム感覚で捉えている人は案外多いのではないでしょうか。

今度の参院選で、自民党が96条改正に必要な3分の2の議席を狙っていることは明らかです。そのために、他党の取り込みを含めた謀略も出てくるでしょう。これが終われば、向こう3年間は国政選挙がありません。「自分の子供が徴兵される」改憲へと結びつく選挙になるはずです。だけど、それは争点になりません。争点になれば自民党が不利になるからです。アベノミクスへの信任選挙みたいな雰囲気になっている。なんですかそれ。アベノミクス(これもインチキな代物だと思いますが)で票を取った後は、自民党は必ず改憲へと舵を取る。そういうものです。選挙とはそういうものです。

同じく朝日新聞の記事より、千葉市長・熊谷俊人氏。

熊谷俊人氏
参院選は投票率が落ちるでしょう。18年ぶりに50%を切るかもしれません。でも棄権はノーにはならない。オール・イエスですよ。選挙結果を追認するだけだし、後で文句も言えない。政治不信だから投票しないというのもおかしい。私に言わせれば、それは政治過信ですよ。


棄権(投票しない)はオール・イエス。
これはほんと、みなが有権者として肝に命じてほしいです。昨年の衆院選の結果がそれを物語っていますよね。得票率の低さから、国民は積極的に自民党を選んだわけではない、というのは正論です。ですが、現実には得票率に比例しない高い比率の議席を自民党が占め、実権を握っている。投票しない、あるいは白票という行為は、「ノー」を意味しません。本人がいくらそういう意味を込めたとしても、仕組み上、そうは受け取ってもらえない。ただの自己満足にすぎないのです。

選挙に行かない人に対して、行けと訴えるほどの気概はぼくにはありませんけれども、少なくとも選挙に行かない=全権委任であるということは分かった上で、行かないという選択をしてほしいです。次の参院選でも投票しないという人は、「原発再稼働」と「改憲」の自民党に「全権委任」するということに等しい。後でこんなはずじゃなかったと言っても、なんにもならない。入れたい人がいないだなんて甘い言い訳です。

ぼくは昨年の衆院選で、自らの意思で「死票」を投じることによって、ずいぶんものの見方が変わりました(詳しくはこちらに書いてあります)。選挙とは、勝ち馬を占うレースに便乗するイベントではありません。いち生活者として、わたしはこの政策を支持しますと表明するのが投票という行為なのだとしたら、「死票」だの何だのは関係ないだろうと。何十年か後になって、自分がここに投票したということを自分の子供らにちゃんと説明できるところに票を投じようと心に決めたときは、なんだか胸がすーっとしていくのを感じました。

当選しないと分かっている人に票を投じる。特定の組織に属しているわけでもないし、別段イデオロギーに凝り固まっているわけでもないのに。それまで、「特殊な人」がするものだと思っていた「死票」を自分が投じてみて、ああ、こういうことかと。

選挙はとても重要です。だけども、選挙じゃ何も変わらない。それも現実。マイノリティにとっては常にそれが現実なのです。その現実に冷めた視線を送りつつ、それを踏まえた上で、それでもやっぱり選挙は大事なんです。

熊谷俊人氏
選挙することの大切な意義として、有権者と政治家が関係を持つことがあります。投票すれば、任期中もその政治家の行動に責任を持ち、次の選挙では自分の投票は正しかったか顧みて、一票を投じられる。その繰り返しで有権者は学び、政治家は鍛えられる。投票しなければ、有権者は無責任のままで、政治家も鍛えられません。


ぼくは自分が「死票」を投じてみて、はじめて気づくことがありました。原体験は何よりも大きな「学び」になります。政権交代とは、失敗をくり返すことで有権者と政治家が学び、民主主義の精度が少しずつ上がっていくものであるはずです。

当選はしない(議席は得られない)けれども、これだけ票を入れる人が存在するという事実を、当選した議員は、立場上、受けとめなければならない。それはつまり与党への圧力としてはたらきます。死票にはそういう意味もあるはずです。

ピーター・バラカン氏
2分の1だけで決める政治は乱暴ですよ。ある勢力が55%で勝っても、45%は納得していない。過半数がとれないからといって全部泣き寝入りしなきゃいけないのか。そんなはずはない。


自分の支持者だけでなく、負けた政党に投票した有権者のこともぜんぶ抱え込んで考慮するのが与党の仕事です。泡沫候補を支持するような有権者は切り捨てる、自分に反対する立場の人はおかしいとレッテルを貼る、それは与党の党首がやることではありません。

だからこそ、選挙では勝ち馬レースに関係なく自分の意思を表明することが大事です。無関心でいることは、サイレント・マジョリティであることを意味します。それは現状追認と等しい。

そして選挙の後は与党の言動をしっかりと注視することも必要です。違うと思ったらぼくら市井の人々が声をあげること自体に意味があります。デモだってそうだし、ツイッターでぼやくことだってその一種かもしれない。女性手帳は圧倒的批判で見送りになりました。自民党が政権をとったからといって、その後の運営を全権委任したわけではない。ここでも、サイレント・マジョリティであることは現状追認と等しくなる。意見しないことも、またオール・イエスなのです。

政治家だって超能力者じゃないんだから、声を挙げなければ届きません。

熊谷俊人氏
5月に市長に再選されましたが、投票率が31%。率直に言って、もう少し投票に行ってほしかった。
(中略)
私は市民と一緒に仕事をするスタイルで、市民の方々に関心を持ってもらわないと実現できない政策がたくさんあります。4年に一度の選挙にさえ行かない人に、一緒に汗を流しましょうなんて言えないでしょ。だからこそ、選挙に参加してほしかったんです。


市民と一緒に仕事をするってどういうことか。意見の相違だけではなく、声を挙げる方法だっていろんなやり方があっていいと思います。スピーチやプレゼンが得意な人もいれば、じっくり考えるのが得意な人もいる。選挙事務所に電話をしたり、メールしたり、ツイッターでつぶやいたり。デモに参加してみたり、横目で眺めてみたり。そういうのが「特別なこと」じゃなくて、ふつうになればいいと思う。それぞれの人に合った、それぞれのやり方で。

そのほうが、サイレント・マジョリティであることが「ふつうなこと」である現在の世相よりも、よほど風通しが良いと思います。ぼくもまた参政権を得てから長い間、棄権(意見しない)=全権委任(お上におまかせ)というサイレント・マジョリティの一員であったので、反省を込めてそう思います。

棄権(意見しない)=全権委任(お上におまかせ)というサイレント・マジョリティ

棄権(意見しない)=全権委任(お上におまかせ)というサイレント・マジョリティ 2013.06.20 Thursday [政治・メディア] comments(0)
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