「予測不能」という豊穣性

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なんだか中身のよく分からない「成長戦略のメッセージ動画」を発表した安倍晋三首相。株価を乱高下させ、おそらく大きくはじけるバブルとなるであろう「大胆な金融政策」、数十年前と同じ手法の大型公共事業による土建屋への「機動的な財政政策」。首相はこれらの政策による実績を強調していますが、少なくとも山形在住の一市民としては「生産も消費も確実に良くなって」いるという実感は、まったくありません。

諸々突っ込みどころの多い安倍政権ですが、中でもぼくがいちばん危惧しているのが「教育」分野です。このことは、安倍さんが自民党総裁に選ばれた時点で記事を書いています(戦後レジームという欺瞞)。

教育が国の未来をつくる基本だという前提には異論はありません。その通りだと思います。しかし往々にして混同されるのですが、しつけと教育は異なるものだと思います。自民党が主張している「教育」とは、しつけ的な要素が色濃く感じられます。「なんでも知っている」大人側が、「なにも知らない」子供に対して、正しい価値観を教授するという構図なのです。そこで主張される「正しい価値観」というものが「単一の価値観」として取り扱われ始めると、おかしげなことになります。

「反TPP」は「左翼」であると発言した安倍首相。その左翼が捏造したという「自虐史観」を払拭するために教科書を直そうというのが安倍首相の考える「教育再生」である。右翼思想であり、軍国主義へとつながる恐れがある。はじめは、そう思っていました。たしかにそういう側面もあります。だけど、そういうイデオロギー的な面よりもっと多くの人が共有出来る「単一の価値観」があります。安倍政権の唱える教育再生は「成長戦略」とむすびついています。「グローバルな人材」を育成するのがその柱とされています。海外で活躍できる人材を、と言いますが、それってつまり、グローバルな市場で「使える」コマを育てる、という意図があるわけですよね。一歩間違えれば、社畜育成と紙一重になる。グローバル市場には、グローバルな基準でグローバル企業が蓄積してきたノウハウがあります。つまり単一の価値観(答え)です。

実際に、自民党の「教育再生実行本部」が画策する「教育再生」とは、子供たちが「自分で考えるちから」を再生していくというような教育改革ではありません。あくまでも大人側が主体となって、(主にビジネスの現場で活用される)「答え」を教えていく、という位置づけなのです。たぶん、そこからこぼれ落ちる子供は「落ちこぼれ」とされてしまうでしょう。ものごとに対する「どうして?」という根源的な疑問よりも、答えを出すための最短ルートが重視されるようになるでしょう。そのような教育観に基づいた教育再生で、「チャレンジ」「オープン」「イノベーション」が生まれるとは到底思えません。

平川克美さんのツイートより
「何を教えてほしいかを明確に教科書会社に伝達し、それにのっとった教科書を作ってもらうようにしたい」と、教育再生実行本部主査。http://sankei.jp.msn.com/life/news/130612/edc13061223100002-n1.htm
これは教育ではなく訓致。これを思想統制という。何故メディアは批判しない。


現在のマスメディアには、教育再生実行本部が主張する教育観を批判するだけの度量がありません。なぜなら、メディア自身が台本至上主義に陥っているからです。最近のテレビ番組を見ていると、その傾向は顕著です。あらかじめ決められた答え(台本)の通りにしか、ものごとを決められない。クレームを恐れ、予防線を張りすぎて、その結果ガチガチの台本至上主義に自身が縛られていることに、たぶん自分自身が気づいていない。

教育とは、子供の「考えるちから」を育てることです。子育てをしている方なら分かると思うのですが、子供の考えるちからとは、大人には予測不能です。子供の発想や発言には、大人が数十年生きてきた中でいつのまにか降り積もった「常識」や「価値観」といったものをぶっとばしてしまうような、新しい発見があります。そういう中にこそ「チャレンジ」「オープン」「イノベーション」の種があると思います。

教育とは、「予測不能」なことを、予測不能なまま携えて、一緒に考えていけるようにサポートしてあげることなんじゃないかと、ぼくは思います。「出力が入力を超える」という点に教育の豊穣性がある、という内田樹さんの言葉に、深く納得します。

教育の奇跡 - 内田樹の研究室より
私が知って驚倒したのは、「教師は自分が知らないことを教えることができ、自分ができないことをさせることができる」という「出力過剰」のメカニズムが教育制度の根幹にあるということである。
それが教育制度の本質的豊穣性を担保している。
教師であるためには一つだけ条件がある。一つだけで十分だと私は思う。
それは教育制度のこの豊穣性を信じているということである。
自分は自分がよく知らないこと教える。なぜか、教えることができる。生徒たちは教師が教えていないことを学ぶ。なぜか、学ぶことができる。この不条理のうちに教育の卓越性は存する。それを知って「感動する」というのが教師の唯一の条件だと私は思う。


この文章だけで、ぼくは感動して泣きそうになります。
自分の子供たちに対する親の思いというものが凝縮されていると思う。

尖閣諸島の棚上げ論は、次世代の私たち世代よりももっと賢い人たちに解決策を委ねようというものでした。原子力発電所の核廃棄物の最終処理問題にしても、ぼくらの世代はなんら答えを見つけることができていません。次世代に丸投げするということと、次世代に委ねるということは違います。その分岐点は、「出力過剰」のメカニズム、豊穣性を信じているかどうかにあるのではないかと。子供のちからを信じるとは、そういうことだと思うのです。


何故メディアは、思想統制ともいえる「教育再生」の方向性を批判できないのか。自身が、台本至上主義に陥っているマスメディアには、教育の「予測不能」という豊穣性を受け入れる度量が無いのです。「台本」が無いものには対応できない。

たぶん日本社会全体がそういう体質になってしまったのではないかと思います。政治家は、官僚の台本を読むだけのお仕事になっています。台本に従って予算が決められ、台本に従って様々な基準値が決められ、台本に従って原発は再稼働されていく。台本に従ってTPPに参加する。選挙戦が近づけば、台本に従って選挙レースが演出される。多くの人はその台本にのっかって投票するだけです。ほんとうの住民の意思が政治に介在する余地はありません。

男って、どうしても結論ありきでしゃべりたがる生き物です。ただ話を聞いて欲しいだけの女性の愚痴にいらついて、こうしたらいいとかなぜこうしないのかとアドバイスしたつもりが反感を買うというのはよくある光景。さらには困ったことに、男脳ってやつは、自分が設定した、自分が信じたい結論いがいのものを信じたくないんだよね。だから、都合の悪いことには目を背けようとするし、はてには「無かったこと」にしてしまう。

橋下市長の弁論テクニックなんかも、結論をまず設定して、そこに向けて勝つ(相手を言いくるめる)ための論理を探してくるというものです。だから、橋下さんっていうのは、ある意味で戦後日本(男脳がつくった社会構造)の象徴みたいな存在だと思う。そして、慰安婦の強制連行は「無かった」と主張する人たちもそうだし、脱原発の声を風評被害だと主張する人もそうなんだけど、だいたいそういう男どもって怒ってる。「論理」だったり、大きな声という恫喝だったりで、相手を押さえつけようとする。

なぜ怒る必要があるのか? 信じたくないからだと思います。信じるのが怖いんです、きっと。そんな現実には、自分が「対応できない」ということが実は分かっているから。「予測不能」という豊穣性に、対応しきれずにオロオロする自分を許せないから。見たくないから。

見たくないけど、そこにあるものを見ないといけない。
自分が思い描く台本通りになんか何ひとついかない。
子育てはそんな日々でもあります。


「予測不能」という豊穣性

「予測不能」という豊穣性 2013.06.14 Friday [子育て・教育] comments(0)
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