映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
ぐいぐい引き込まれて目が離せませんでした。まさに、いま観るべき映画だと思います。縁あってこのタイミングで本編を観ることができたことに感謝。




映画「立候補」公式サイト

「泡沫候補たちはなぜ300万円も支払って選挙に立候補するのか? 橋下維新で盛り上がりを見せた2011年の大阪府知事選挙を軸に、その原動力を探ったドキュメンタリー映画」




先日、この予告編を見て映画にたいへん興味を抱き、また合わせて「選挙って何なんだろう」と考えたこと(それは昨年の衆院選以来考えさせられてきたことでもあります)について書きました(→映画「立候補」予告編 有名人候補と泡沫候補)。マック赤坂さんや外山恒一さんの政見放送も、この映画に先立ってぜひご覧いただきたいです。

泡沫候補と呼ばれる彼らは、自身が当選しないということを分かっている。
じゃあ、なぜ供託金300万円を払ってまで、立候補するのか。
「売名行為」だと結論づけるのは簡単ですが。不思議ですよね、なぜそこまでするのか。300万円をドブに捨て、嘲笑と罵声を一身に浴びながら、なぜ負けると分かっている戦いに挑むのか。この映画を観ることで、その理由の一端を垣間みることができるのではないかと期待していました。ひょとしたらマック赤坂のファンになってしまうのではないか、そんな自分はちょっと怖いなと若干の警戒心を抱きつつ。

§



結論から書きます。疑問は少しも解けませんでした。あえて言うならば、分からないということが分かった。マック赤坂という人物について、理解しようとすればするほど、理解できなかった。それどころか、頭の中は以前にもましてハテナが増えました。マック赤坂には「スマイル」以外の何も無かった。いや、ほんとうに何も無いのか、それともあえて何も無いように振舞っているのか、それすらも分からなかった。

本編を通じて、マック赤坂が考える政策の話はまったく出てきません。政見放送では「スマイル」だけだし、街頭ではマラカスを振って踊っているだけ。呆れるくらい、ほんとうに何も無い。これで投票しろというほうが無理でしょう。一応、小さな政府を指向するという旨は主張していたものの、なんだか取って付けたような感じで、「スマイル」以上の説得力はありませんでした。

政治家の仕事といえば、予算の割り振りをすることと法律を定めることですから、マック赤坂さんのいちばんの主張である「スマイルの普及」に直結するような仕事ではないわけで。街頭でマラカスを振って踊ることでスマイルを普及させるのであれば、その手段が「立候補」である必要はまったくない。記者がスマイル党の党員数について質問する場面では、党の活動についてはクローズドだという答え。まったくもって意味が分かりません。なんのために政治家になりたいのかが見えてこないんです。当選したら何をしたいのか。いや、そもそもほんとうに政治家になりたいのか。この映画を見ても、ぜんぜん分かりませんでした。

唯一、あ、ほんとうのことを言ってるなと感じたのは、候補者届出の現場で選挙管理委員会の人に詰め寄るシーン。「同じ供託金300万円を払いながら、新聞紙上では「おもな候補」と「その他」に分けられるのはおかしい」と。至極もっともです。この映画を観るかぎり、マック赤坂が立候補し続ける原動力とはここにある(そしてここにしかない)ように、ぼくは感じました。自ら宣言していましたが、彼は「体制に迎合する男ではない」のです。警官にはやたらと好戦的だったり。

2011年の大阪府知事選は、「おもな候補」3名と「その他の候補」4名による選挙戦でした。マック赤坂のほかにも3名の泡沫候補が登場します。彼らはみな、自分が当選するとはまったく思っていない。供託金300万円を払いながら、金がかかるからという理由でそれ以外の選挙活動を一切行わずほぼ家にいたという候補。公約というウソを付くのがいややから、という理由で「こんにちは、よろしく」という挨拶だけをくり返していた候補。妻に先立たれ、ひとり娘を喜ばれるために泡沫の中での一番を目指す候補。率直に言って、この人ら、なんておもしろいんだと思った。そして、やっぱり分からなかった。
だから、なぜ供託金300万円を払ってまで、立候補するのか。

§



ここでいったん映画から離れ、自身の経験として昨年12月の衆院選のことを振り返ってみます。ぼくは山形1区の有権者でした。1区は、自民党の遠藤利明と民主党の鹿野道彦による事実上の一騎打ちとされていました。そこに共産党の候補を含めて、小選挙区での選択肢は3つ。民主党には失望していましたが、だからといって自民党はあり得ない。だけども菅政権、野田政権という流れの民主党執行部は信じられない。かなり悩みました。選挙というものが分からなくなった。そのときの経緯をこのブログに記しています(選挙のジレンマ選挙の憂鬱選挙の曙光)。けっきょく未来の党に託した希望は打ち砕かれる散々な結果となりましたが。それはそれとして、小選挙区で「選びようがない」という立場に置かれたことで、いろいろと考えさせられました。

最終的に、ぼくは小選挙区で誰に投票したのか。生まれてはじめて共産党の候補者に一票を投じました。共産党アレルギーを克服できたのかどうかは分かりません。だけど単純なことだったんです。脱原発やTPPをはじめとした政策論点で考えたらここしかないんだもの。いち生活者として、わたしはこの政策を支持しますと表明するのが投票という行為なのだとしたら、ここしかないだろうと。じゃあなぜ悩んだのか。「死票」になることが分かっていたからです。共産党候補に一票を入れても、彼が当選することはあり得ない。それは必ず死票になる。

たとえば消去法(TPPには慎重であろうという希望的推測)で鹿野氏を選んだとします。その場合、ぼくは鹿野道彦を選んだことになるのか、民主党を選んだことになるのか。後者ならば、野田民主党を承認したという意味になるのか。理屈としては、鹿野道彦という人物を選んだはずですが、彼が民主党内でどれだけ影響力があるかはまた別問題。民主党執行部は、鹿野氏個人への信任というよりも、民主党執行部が信任されたと解釈して、自分たちのやりたいことをやるための根拠にする。鹿野道彦がTPPに慎重だったとしても、執行部の都合で推進するでしょう。ほんとうに「人」で選ぶ意味があるのか。選挙というものが分からなくなりました。

いくらネット調査で生活党の支持がダントツでも、自分の住む選挙区に候補者が立たなければ選びようがない。未来の党と共産党が両立する選挙区では、なぜ選挙協力しないのか、理念よりも党が大事なのか、という批判がおもに未来の党支持層から共産党に向けてありました。ぼくも少なからずそう思っていた。だけど、衆院選で実際に自分が「死票」を投じてみて、少し考えが変わりました。

「死票」だ何だと小賢しいことを考えるのをやめようと思ったんです。何十年か後になって、自分がここに投票したということを自分の子供らにちゃんと説明できるところに票を投じようと心に決めたときは、なんだか胸がすーっとしていくのを感じました。

当選しないと分かっている人に票を投じる。特定の組織に属しているわけでもないし、別段イデオロギーに凝り固まっているわけでもないのに。それまで、「特殊な人」がするものだと思っていた「死票」を自分が投じてみて、ああ、こういうことかと。

府知事選での勝利後に、橋下徹大阪市長が語っていたセリフが映画にも出てきます。“選挙で負けた候補者については知りません。負けた候補者に投票した市民の声には耳を傾けます(要旨)”。橋下氏が実際に大阪市民の声に耳を傾けているかどうかは甚だ疑問ですが、ここで彼が言っていることが、民主主義の原則なのだなと。そして選挙の意味、ぼくらが投票する意味もここにあるのだと。多数派が正解(絶対正義)だということを決めるために選挙をやるわけじゃない。むしろ、社会の多様性を担保するためにこそ、代議士による議会制民主主義が存在しているはずです。

勝ち馬に乗ろうとすることが、投票の意味ではありません。そのためにどの候補が「勝ちそうか」を比べることに何の意味も無い。たとえ自分がマジョリティであろうがマイノリティであろうが、自身の生活、家族、はたらき方や子育て、生き方と向き合って、そこから考え得る最適解にいちばん近い候補者に票を投じなければ、いくら勝ち馬に乗ったって意味が無い(皮肉なことに、ぼくは子供を持つことで自分がマイノリティであることを痛感させられました)。

どうせ比例区でしか議席を獲れない共産党が全ての選挙区で候補者を立てるのは、有権者にとっての選択肢を増やすためでしょう。当選はしない(議席は得られない)けれども、これだけ票を入れる人が存在するという事実を、当選した議員は、立場上、受けとめなければならない。それはつまり与党への圧力としてはたらきます。原発事故以降、共産党の存在が無かったらと思うとゾッとしますね。共産党は批判ばかりして建設的ではない、という意見もよく聞きます。ぼくも以前はそう思っていましたが、これも考えが変わりました。選挙に限らず、ぼくら市井の人々が声をあげること自体に意味があります。デモだってそうだし、ツイッターでぼやくことだってその一種かもしれない。女性手帳は圧倒的批判で見送りになりました。

§




閑話休題。

映画「立候補」に登場する泡沫候補が立候補する理由、それはそれぞれ違うみたいです(当たり前だけど)。でも彼らに共通している点があります。それは、「組織に属さない」ということ。選挙に必要だと言われる3つの「バン」、つまり「地盤」(組織力)・「看板」(知名度)・「鞄」(資金)のどれか(あるいはどれも)が圧倒的に不足している彼らは選挙戦では圧倒的不利な立場に立たされる。その中でも、「地盤」(組織力)の力は強大です。

「組織に属さない」ということの「マイナス」を痛いほど見せつけられるのが、この映画のおそろしいところでもあります。これが現実だと思うと、途方もない無力感と孤立感に襲われる。無視されながら、嘲笑と罵声を浴びながら、それでも街頭に立ち続ける彼らを見ていると不思議な気持ちになってきます。「帰れ」コールが連呼される中でマック赤坂が「なにものか」と対峙するラストシーンは鳥肌が立ちました。

マック赤坂が対峙し続ける「なにものか」とは、ぼくらが対峙しなければならない「なにものか」であるような気がします。だからこそ、「何も無い」はずのマック赤坂のすがたがこれほど胸を打つのだと思います。彼はいったい何と戦っているのか。


泡沫候補には、例外なく「イロモノ」というレッテルが貼られます。ぼくらはそういう目で彼らを見る。ぼくもそう見る。どうしたってそう見てしまう。そういう心のクセがあるからです。「組織に属さない」人を、ぼくらは「特殊な人」と見る。べつに「イロモノ」でなくとも、見知らぬ顔に対しては、出る杭を打とうとする心理がどこかではたらく。

出る杭を打つことで、人は自分が勝ち組の中にいるような錯覚を覚えるものです。だから泡沫候補をバカにする。見下す。目を逸らし関わらないようにする。彼らを「腫れ物」として排除しようとするぼくらの心のクセが、排他的で同調圧力的な社会をつくっているのかもしれません。「帰れ」コールのおそろしさは、集団のおそろしさです。


何度も300万円を捻出できる資金力を考えれば、マック赤坂さんはむしろ「勝ち組」側の人間であって、ぼくみたいな庶民の感覚とは離れた感覚をお持ちなのかもしれません。対立候補の眼前で、まるで妨害するかのように辻立ちしBGMを流す行為が好ましいとは思わないし、京都大学の入口にこれまた妨害するかのように選挙カーを横付けし、「学祭なのでどいてもらえますか」と訴える学生に「公職選挙法違反だよ。就職できなくなるぞ」などと脅しをかけるに至っては、いよいよこの人が分からない。

もしぼくが2011年11月に大阪府民だったとしたら、マック赤坂には投票しなかったでしょう。この映画を観終わって、マック赤坂に幾分かの親近感を抱くようになったけれども、やはり彼には投票しないと思います。それでも彼には出続けてほしい。もし街頭で出会う機会があったら声ぐらいかけてみようかとは思うようになりました。

そういう社会がいいと思うんです。
個人的には、マック赤坂の踊りをべつに見たいとも思いません。けれども、彼が踊れるような社会のほうがいいとは思います。

人によってこの映画から感じることはさまざまでしょう。正解なんて無い。多種多様な立場からの、多種多様な真実が入り乱れている。誰にでも簡単に説明できて、誰からも理解されるようなことなんてほとんど無い。そういう社会にぼくらは生きています。誰か「偉い人」が作った教科書をなぞらえていれば、勝利やおなぐさみが確約される、そういう時代はすでに過ぎ去ったと思いたい。
圧倒的アウェー環境の中で、咆哮したりしなかったりする泡沫候補。体制に迎合しない彼らは教科書から逸脱した存在です。

なぜ供託金300万円を払ってまで、立候補するのか。
映画「立候補」を観ても、ぼくにはその理由が分かりませんでした。けれども、もっと大事なことが分かりました。
彼ら泡沫候補が存在する理由とは、すなわち、ぼくらが存在する理由でもあったのです。

彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由。そんなもの簡単に分かるものか。分かってたまるか。簡単に分かるような理由なんて、ペラペラの嘘っぱちですよ。分かった風なことを聞きかじって、分かったつもりになって、分かった風な口をきくことの軽薄さ。分かったつもりになって「勝ち馬」に投票することの底浅さ。


§



参院選が目前に迫っています(7月4日公示)。だけど世間はあまり盛り上がっていません。たぶんまたぎりぎりの直前になってから、誰が勝つだの負けるだの、にわかにお祭り騒ぎ的な様相を呈してくるのでしょう。そしてお祭りが過ぎれば、ほとんどの人は自分が投票したことなんか忘れる。

参院選が盛り上がらないのは、結果が見えているからでもあります。このインタビューで、小沢一郎が今回の選挙の展望について語っています。

同記事より要旨
民主党は結局(憲法でもTPPでも)意思決定できない。このままだと参院選までに受け皿の構築は無理ですね。去年と同じように自民党に対する積極支持はないけれど、最終的に自民党が勝つということになるでしょう。しかし、まあそこからです。3年後には、絶対また政権交代になると思っています。そのために小選挙区制にしたんだから。大多数の民主党の人たちはTPP賛成、原発OKではない。ただ、幹部の中に自民党志向の人たちが多いわけです。だから、民主党の中で考え方の相違がいずれ出てくる。具体的な動きとして出る。そうすると、政界の新しい再編になるのではないかと思っています。


小沢氏のこの見立てには、おおむね同感です。ですが、「3年も耐えられるんだろうか、こっちの生活が…」というのが率直なところ。3年後の政権交代を指を加えて待っているわけにはいきません。これからの3年間でどれだけ生活が壊され、格差が拡大するかがとても心配です。「出戻り自民党のお手並み拝見、だめなら3年後に審判を下せばいい」だなんて悠長に、斜に構えている場合ではないと思います。政治のことを自分の生活にたぐり寄せて、自分ごととして考えていかないと、いつかきっとしっぺ返しを食らいます。

選挙では勝ち馬レースに関係なく自分の意思を表明すること、その後は与党の言動をしっかりと注視すること、それから違うと思ったら声をあげることがとても大事だと思います。それがたとえ、他人から見るとマック赤坂のように滑稽に映ったとしても、そんなことはぜんぜん関係ありません。



追記:ちなみにこの映画には、ラストが近づくにつれ明らかになるもうひとつの核となるストーリーがあり、監督も「泣きながらカメラを回した」というクライマックスには、ぼくも大いに感動させられたのですが、ネタバレになるのでそちらは映画を観てのお楽しみということで。

映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由

映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由 2013.05.31 Friday [音楽・映像] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY









url: http://yamachanblog.under.moo.jp/trackback/536
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...