わかりあえないこと(橋下市長の国際感覚と「グローバル化」について 平川克美さんのツイートより)

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
話題沸騰中の、橋下市長による慰安婦発言。

橋下氏発言、議論呼ぶ 「慰安婦制度は必要だった」「米軍、風俗業活用を」 - ハフィントンポスト
橋下発言、ツイッター上で批判殺到 石原氏「軍と売春はつきもの」と擁護 - ハフィントンポスト

橋下さんお得意の炎上マーケティングなんでしょうか、その真意はよく分かりませんけれども、こんなもの「議論を呼ぶ」までもなく、ただただ呆れるほかないです。「死の街」発言で一発退場をくらった閣僚が少し前にいましたが、橋下さんのこの失言は致命傷にはならないんでしょうか。対外的に見た「国益」の損なわれ具合は、「死の街」とは比較にならないと思うのですが(「今回の橋下発言は間違いなく日本の国際社会における信頼と評価を大きく損ないました」という内田樹さんのツイート)。けっきょくのところ、「失言」が「政治生命」に与える影響なんて、マスコミのさじ加減ひとつということです。

「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」なんていうことを、公的な場で語ることの異様さ。皆が腫れもののように避ける案件にオレが切り込んでいったと言わんばかりのドヤ顔が嫌悪感に拍車をかけます。その後もぐだぐだと言い訳を続けていますが、墓穴を掘る一方なのでもう喋らないほうがいいと思います。

橋下さんは、世界に通用する「グローバルな人材」を育成するための教育改革をかねがね訴えていますが、その前にまず誰かこの人に、居酒屋でのオナニー談義と公的発言の区別を教えてあげる必要があると思います。教科書が教えない真実の「歴史認識」とやらに拘り、勝手にオナニーやってる分には構いませんけれども、対外的な立場でオナニーを披露された日には、こっちにまで被害が及ぶので黙ってはいられません。「グローバルな人材」とは、グローバルなマナーをわきまえた人のことでしょう。


以下、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』の著者である平川克美さんのツイートを軸に話を進めていきます。

平川克美さんのツイートより
首相にせよ、市長にせよ、都知事にせよ、とても国際感覚があるとは言い難い発言を繰り返している。かれらが推奨する、グローバル化とかグローバル人材の育成って何なんでしょうね。


橋下さんや石原さんの言葉が海外に流布してくのが、ただただ恥ずかしいです。日本男児、だっせーと思う。維新の会が支持される根底には、男性社会のマッチョイズムがあると思います。女性手帳という発想が出てくるのもその延長線上にあるし、亭主関白とは本質的に女性依存(マザコン)の裏返しだと思う。ほんと、その手の「男らしさ」って、だっせーですよ。

橋下さんは「勝てば官軍」というような旨のことを語っています。戦争に負けたから悪いのだと。彼が言う「グローバル化」とは、そういう階層での話なんですね。世界というライバルに立ち向かって勝負に勝つのだと。猪瀬知事は五輪誘致をめぐる失言の後で、これで敵と味方が分かったなどとツイートしていました。橋下さんにしろ猪瀬さんにしろ、政府にしろ、「グローバル化」を推進する人たちは、「勝負ごと」にこだわっている。だけど、世界はそんなに「勝負ごと」ばかりで成り立っているのだろうか。「グローバル化」とは「勝負ごと」の土俵で語られるべき事象なのだろうか。

「グローバル化」という言葉を聞いて人が連想するイメージと、実際に「グローバル化」政策として進められる案件との間に、齟齬があるのだと思います。前者は、インターネットの普及に代表されるような点と点を結ぶイメージ。あくまでも、それぞれのローカルを起点にして、ハブによってそれらが繋がるという現象。後者は、単一の価値観を共有していくイメージ。金融と多国籍企業による市場支配は、アメリカを起点として加速しています。同じ「グローバル化」という言葉によって糊塗されていますが、これらの現象は似て非なるものです。「グローバリゼーション」とは「アメリカという価値観のローカリゼーション」なのだという説明が今はよくわかります。つまり「勝負ごと」とは、アメリカという価値観によって拵えられたルールなのです。(この辺りは内田樹さんの考察が的確だと思いますので、ご参照を。)

「勝負ごと」の世界観だけが突出していくと、橋下さんのようなロジックが出てくる。そしてそのロジックに違和感を覚えない人が増えていく。資本主義市場的にはそれでオッケーなんでしょうけれども、やっぱりそれは違うとぼくは思う。「グローバル化」という言葉を聞いてぼくが連想するイメージは、以下のようなもの。

平川克美さんのツイートより
アメリカの友人はカタコトの日本語、俺はカタコトの英語。お互いに通じない部分があって、その通じない部分がお互いの興味をかきたてる。母語でしか語れないことをお互いが確かに持っている。通じないということが、異文化交流の基本となる。

その母語でしか通じないことが、貧困なものでしかないとすれば、いくら外国語が達者でも異文化交流などできっこない。あたりまえだけどさ。

国際化とは、共通言語を持つということではないだろう。お互いが、翻訳できない母語の世界を持っていることを共通認識すること。そこで初めて、外国語の学びというものが起動する。


英語教育に関しては、TOEFLを義務づければ英語力が付き「グローバルな人材」が育成できる、というこれまた田舎者の考えそうなことが「教育再生会議」で議論されている(参考)というんだから、くらくらと目眩がしそうです。ここで言う「グローバルな人材」が、アメリカという価値観によって拵えられた「勝負ごと」に勝つことができる人材という意味で使われていることは容易に想像できます。

外国語を学ぶって、そういうことじゃないですよね。
たしかに、国際競争で生き残るためという側面もあるかもしれない。けれども、その前にまず身につけておかなければならない力があります。とても国際感覚があるとは言い難い発言を繰り返す日本の政治家たちは、それが欠落しているのでは。そもそも、日本語の読解力も無いような状態で英語力だけが付くわけがないです(参考:山形1区選出の遠藤利明議員と荻上チキさんとのTOEFLについての対話はまるで不条理の世界)。

外国語を学ぶことで、ぼくらは異文化の存在を知ることができます。通じないものがあるということを知る。そこにどう対峙するか、ということが外国語を学ぶスタンスに表れるのだと思います。ぼくは、思春期に洋楽が好きだったから、タイトルや歌詞の意味を知りたいと思って、せっせと辞書を引いたものです。知りたいと思うことからコミュニケーションが始まる。

平川さんの上記のツイートに対して、ぼくは幾分シニカルに以下のようなメンションをしました。外国の文化のほんとうのところなんて、そこに住んでいる人以外には分かりっこないと思っていたから。

『「わかりあえないということ」をわかりあうこと』でしょうか。RT @hirakawamaru 国際化とは、共通言語を持つということではないだろう。お互いが、翻訳できない母語の世界を持っていることを共通認識すること。そこで初めて、外国語の学びというものが起動する。

それに対して、平川さんが返事をくれました。

平川克美さんのツイートより
少し違うんです。かれが伝えられない何かは、わたしが伝えられない何かと同じ種類のものであり、とても大切なことだということはわかるということ。

かれが持っている母語でしか伝えられない何かと、わたしが持っているものを繋いでいるのは、国境を越えた普遍的な価値の共有ということ。それらは、ともにローカルな価値であるけれど、同時に普遍的なものでもあるわけですな。


このお返事にぼくは感銘を受けました。
ぼく自身は人生経験も希薄ですので、“かれが伝えられない何か”と“わたしが伝えられない何か”との間に「国境を越えた普遍的な価値」があるということを実感として持つことはまだできません。でも、そうであったらいいなとは思う。というか、きっとそうであるはずだと、たぶんずっと信じてきた。だけどそんなの幻想じゃないかとも思っていた。だから、年長者である平川さんがこのように言い切ってくれたことに感銘を受けたのです。

そう、だから知りたくなるんですね。うまく伝えられないけれども、「同じ種類のものであり、とても大切なことだということはわかる」から。だから知りたいと思う。音楽やアートもそうだと思います。

平川克美さんのツイートより
そうだと思います。この伝えられないが大切な何かを共有できるかどうかが、グローバルな人材には第一に求められている。しかし、それは「育成」によってできるものではないんですね。@singstyro おおっ。だから知りたくなるんですね。


平川さんや内田樹さんの言葉が腑に落ちるのは、「論理的に正しい」からではありません。ぼくが感じていることと「同じ種類のものであり」、それが「とても大切なことだということはわかる」からです。
橋下さんの言葉に違和感を覚えるのは、たとえそれが「論理的に正しい」としても、ぼくが感じていることとは違う種類のものであり、大切なこととはズレていると感じるからです。言い訳を重ねれば重ねるほど、そのズレが開いていく。

異文化交流とは、外国語でのコミュニケーションのことだけではありません。橋下さんや石原さんはもちろんのこと、自民党の議員の方々をはじめ、それを支持する人たち、特にネット上で熱狂的に対立を煽る人たち。この人とは「わかりあえない」だろうなと思う人がけっこういます。価値観が異なるというのもそうだけど、その前に話がぜんぜん通じないだろうなと思ってしまう。

言葉の壁よりも大きな壁があると感じる。

それをどうすればいいのかは分かりません。そういう人たちとも異文化交流できるのか。たとえば在特会のような人たちとも対話できるのか(したくないけど)。「国境を越えた普遍的な価値」なんてものを共有できるような気はさらさらしません。それでも。

平川克美さんのツイートより
人間の本音が生み出す、敵意、憎悪、差別というものの連鎖をすこしでも緩和するために、先人は民主主義や平和主義、人権といった概念を作り出してきた。そこには、幾分かの「嘘」があある。

しかしだからと言って、「嘘」を暴くことで、ふたたび敵意や、憎悪による殺戮や差別の世界へ戻るべきではないし、戻りたいとも思わない。本音を礼賛することの幼児性とは、この先人の積み上げてきたものが見えていないということ。


平川さんのような大人がいるということに一縷の希望を感じます。「国境を越えた普遍的な価値」とは、もしかしたら「嘘」なのかもしれませんが、その「嘘」によってかれとわたしが繋がるのならば、ぼくもその「嘘」にのっかってみることにしようと思います。


わかりあえないこと(橋下市長の国際感覚と「グローバル化」について 平川克美さんのツイートより)

わかりあえないこと(橋下市長の国際感覚と「グローバル化」について 平川克美さんのツイートより) 2013.05.15 Wednesday [妄想] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY









url: http://yamachanblog.under.moo.jp/trackback/530
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...