『受けてみたフィンランドの教育』実川真由

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受験もない、塾もない。けれども学力世界一。

PISA調査で読解力1位、科学的リテラシーでも1位、数学的リテラシーで2位となり、注目を集めるフィンランドの教育(参考)。落ちこぼれをつくらないという教育方針も特徴的です(参考)。



本書は、2004年から約1年間フィンランドの高校に留学したという実川真由さんによる体験記。母親の実川元子さん(翻訳家/ライター)による解説も章ごとに挿入されています。AFSという制度を利用して留学に挑んだそうですが、なぜ英語圏じゃなくてフィンランド?なぜそんな無駄なことを?という周囲の空気がありながらも、親や先生を説得して実行に移した行動力はすばらしいですね。

フィンランドの高校は、日本の高校とだいぶイメージが違うみたいです。大学の雰囲気に近いのかな。日本では大学でも居眠りしている人が多いですけどね。

本書より
フットネン家の長男ユリウスは、私がフィンランドに来る前に、日本の進学校に一年間留学していたが、その進学校の生徒たちが、授業中居眠りをして、放課後塾に行き、居眠りしていた間に教わっていたことを勉強する様を目のあたりにして「これほど無意味なことはない」と思ったそうだ。
 (中略)
彼らの中には、学校は「学ぶ場所」という意識がしっかりはたらいている。そのため、彼らは学ぶ場所にわざわざふたつも足を運びたくないと思う。それが、フィンランド人の授業に対する真剣な姿勢にも現れている。彼らが授業中に居眠りをすることなど、絶対にないのはこのためだ。
 (中略)
日本の高校生はどうだろうか。私にとって、日本の学校というのは、もちろん勉強する場、学ぶ場でもあるが、それと同様に朝と放課後には部活動があったり、昼休みにも学校が企画したイベントがあったり、文化祭もあるし、運動会もある。学校生活が、そのまま自分の生活となっていた。そのせいか、「学校に拘束されている」という意識が強く、学校は朝からずっといなくてはいけない場所と思っていた。
フィンランドの高校生は、学校はただ単に「学ぶ場所」であり、そこに来る来ないという選択は、特に誰にも強制されていないようだった。


分かりやすいなあ。フィンランド人、お友だちになりたいです。

また、もうひとつの大きな違いは、フィンランドの学校には校則というものがないことだ。日本で通っていた女子校では、細かく校則が決められていた。髪は肩にかかってはいけない、肩にかかったらば結ぶように。マニキュアやピアスはだめ。学校帰りにマックなどのお店に寄り道してはいけない。うちの学校は校則が緩いほうと言われていたが、それでもいろいろときまりがあった。
ところが、フィンランドでは、校則というものがなかった。だからピアスをクチビルにいくつもつけていた子もいたし、突然、髪を赤く染めてきた子もいたりした。先生の前でたばこをとりだして一服しているという子もいた。先生もそれで注意をしたりはしない。
そういう子たちが、日本で言う「不良」というわけではなく、授業の時間になると集中し、先生の話をひと言も聞き漏らさないようにして聞いているのである。勉強ができるできないとは関係ない。自然体で、いろいろな格好をしているのだ。
日本の学校の校則について、説明をしようとしたことがあったが、一苦労だった。
「なんで、髪が肩にかかってはいけないの?」
そう切り返されて、立ち往生してしまった。そうだ、なんでだろう?



国民性というものもあると思います。

フィンランドに関する書籍などで何度か目にしたのですが、フィンランド人は初対面ではシャイな人が多いそうです。本書でも、もの珍しい留学生に対して誰も話しかけてくれず(履修の都合でクラスメイトに会うのが週1だったという理由もあったそうですが)、なかなか友だちが作れずに孤立感を感じ苦労したというエピソードが綴られています。だから友だちになるのに時間がかかるけれども、仲良くなるとストレートに物を言ってくるそうです。だらだらと他人とつるむことはなく、自分の予定を大事にして他人との距離をきちっと取るという個人主義が浸透しているのだとか。ただ、個人主義が進んでいるためか、他人とシェアするという感覚が希薄で、他国の人から見るとフィンランド人はケチに見えるという側面もあるそう(参考)。

本書を読んで感じたのは、フィンランド人は現実主義で物事を「合理的」に考える人が多いのだなということ。学校はただ単に「学ぶ場所」であるという共通認識もそうだし、校則が無いというのもそうだよなと。あるいは世界で初めて核廃棄物の処理施設の建設に着手するなど、民主主義が成熟している印象もありますが、それも物事の本質を合理的に捉えようとするマインドと符号するように思います。
これは、もともとの国民性もあるだろうし、本書で筆者が経験したような教育姿勢によるところも大きいと思います。すなわち、学校での授業のベースがどの科目でも「エッセイ」であり、自分の考えをまとめたり論理的に他人に説明するという訓練に重きを置いているという点。

本書より
フィンランドの学生はテスト前には、「勉強する」という単語を使わない。代わりに、「読む」という言葉を使う。
お母さんは息子に、「明日はテストでしょ。たくさん読みなさい」と言い、生徒同士では、「もうすぐテストだね、たくさん読んでる?」といった会話が、テスト前には飛び交うのである。
「読む」。実は、これがフィンランドの教育のキーワードであることに私は気付いた。
(中略)
フィンランドのテストはほとんどがエッセイ(作文)なのである。
英語、国語はもちろん、化学、生物、音楽までもエッセイ、つまり、自分の考えを文章にして書かせるのがフィンランドの高校の一般的なテスト形式である。
(中略)
フィンランドでは穴埋め問題がそもそもない。全て記述式なのである。


なんというか、「学力」というものの捉え方が日本とはまるで違うんですね。

本や資料から得た知識を、自分なりに解釈していくという訓練がフィンランドの学校が教えていることだ。つまり、知識は前提であって、それをどう自分が考えるかという点を先生は見る。私もずいぶん英語のエッセイを書かされたが、先生から返ってくるコメントを見ているうちに、求められているのが、自分なりの物の見方なのだということがよく分かった。
もうひとつ特徴的なのは、テストに時間制限がないことだ。先生が問題を配り、開始してからやりたければ夕方まで問題に取り組んでもいい。もっとも、そこまで熱心にやる生徒はいないそうだが。


ちなみにフィンランド人は暗算がまったく出来ないそうです。数学のテストには計算機を持ち込んでいいのだそうで。計算機という便利な物があるなら、わざわざ暗算しなくたってそれを使えば良いじゃん。っていう考えなんでしょうね。それが良いか悪いかは置いておくとして、徹底して合理的なんですね、ものの考え方が。

買い物のときも、レジではじめて合計金額を知る人がほとんど。どういうわけか、お釣りを少なくするためにレジで端数のお金を出すこともしない(筆者が日本式にやろうとしたらホストファミリーに止められた)そうで、1セントコインが貯まる一方だったとか。この「1セントコインの謎」も、フィンランド人の気質が表れているようでおもしろかった。


他にも、英語や国語など現役の高校生がフィンランドの学校で実際にどのような授業を受けてきたのかが、とても興味深く書かれています。帰国するときには別人のように英語が上手くなったという筆者は、英語というものに対してある「癖」を身につけるようになってから、世界が開けたと言います。このエピソードはとても興味深いですので、ぜひ本書を読んでみてください。

フィンランドの教育は世界的にも注目を集めていますし、識者による研究もなされているようです。そういった書籍もたくさんあります。それはそれで大事な視点であるとは思いますが、本書のいちばんの魅力は、実際に留学を経験してきた高校生が、背伸びをせずに自分のことばで綴っているところにあると思います。名のある教育者が教育大国に「視察」に行ってきた報告書みたいな教育論じゃなくて、身の丈で書いてるところがほんとうにいい。

これって、彼女がフィンランドで経験してきた「エッセイ」の力、つまり、自分の考えを文章にして書くという訓練の成果が見事にそのまま表れているということなんですね。彼女が自分のことばで、自分が感じたことを身の丈で書いてるからこそ、伝わってくる。とてもいい本を読ませていただきました。


「そうだ、なんでだろう?」ここから学びが始まるんですよね。

ぼくなんかは、この年にして、そんな発見の日々です。とくに子供ができてからは。

その疑問点から出発して、自分のあたまで考えることができるように、環境を準備して、見守ることが、教育者というか大人の役割なのだろうなと思います。金を出しても口出すな。往々にして逆になりがちですけどね。

『受けてみたフィンランドの教育』実川真由

『受けてみたフィンランドの教育』実川真由 2013.03.26 Tuesday [読書] comments(13)
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こえり (2013.03.31)

こんにちは。(っていうか、今実際は朝だけど、まあいい)

こないだBS朝日で、伊奈小学校(長野の市立の小学校)を紹介してて、ここ通知表がないんだって。34年も前から。

豚を育てる、そのえさ代をどうやって手に入れるか自分たちで考えて手に入れる、人工授精をするかどうか考える。生まれた子豚を食肉用にするか、それとも大きくして種豚(っていうのかな。ちょっとわかんないけど)にするかどうか決める。飼っていた豚を食肉用にするか、それとも牧場に預けて交尾して子どもを産む豚にするか決める。
決めるときは多数決では決めない。全員が本当に納得するまで、全員が賛成するまで話し合う。

時間割とかもない(たしか。見たのが少し前だからちょい記憶があいまい。。)
でもこういうことするのに時間割に縛られてたらできないことだろうなぁ。。
先生も本気でとりくまないと絶対にできない。
通知表がないのも、本当に子どもの様子を伝えたいから、親と直接話す。

こういう風に育った、学んだ子どもたちは、今の自分よりずーーっと豊か。だなあと思う。

http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/16516

リンク先探して、きのくに子どもの村学園 って言う学校見つけたけど、そこは

【いわゆる「国語」や「算数」のような基礎学習は全体の1/3ほどだとか。「小学校の学習指導要領で定められた単元の多くは、たとえば料理の過程で必要になったときに単位計算を学ぶ等、プロジェクト活動と結びつけて6年間を通して習得していく」】

なんだそうで、伊奈小学校もそういう感じ。
そのときに本当に必要な知識だから、身に着けようとするし、そういうものだなぁ、学ぶって、って思う。

「テストがあるから」っていう理由で勉強してたから、テストをクリアしたら忘れちゃうのは当然なんだなぁ、私の脳みそ!理にかなってるなぁ(笑)

山やま (2013.04.01)

へえ、日本にもこんな学校があるんだね。すごい。教えてくれてありがとう。

たしかに、私の脳みそは理にかなってる(笑)
学ぶってそういうことだよなあと、ほんとうに思う。

学校なんて私塾でいいんだよなと思う一方で、子供を公立の学校に入れないなんて人でなしじゃないのという同調圧力を自分の脳内で勝手に拵えて思い悩む。ていうか私塾なんて近くに無いしね。だからこういう学校が日本にもあるということは、いいなあ。すごく救いだな。

入学式の時季が近づいてきたけど、先生の方がぴりぴりと緊張してるのって嫌だよね。まず教える側がガチガチに固まっちゃってて、それで教わる方もガチガチに固められて、そんなんで何かを覚えることに意味あるんかな〜と。

こえり (2013.04.03)

「市立」っていうのがすごいなと思ったー。
自由な教育、オルタナティブ教育っていうのは、私立の学校でやってるものだとばっかり思って。

実際に子どもがいるわけじゃないけれど、現実問題として親御さんは悩むんだろうなぁ。エスカレター式の学校を受験させるにしても何にしても、親心だろうから。。

全然関係ないかもだけど、きょう旅番組で、イタリアが映って、数を数えるときに、指を開いていくのね。1、2、3、4、って、親指からかな。
日本人そうしないじゃない?閉じてく。親指から。
これってメンタリティだよね。教わったのかなー。小さいころ。それとも無意識なのかなー。

swanで、アン・ディオールってことば、出てくるでしょ。(山ちゃまさんがどこまで読んだかわかんないけど!)外向き、って意味。バレエはとにかく外向き。
足、股関節、腕、を外に開く。
ってセルゲイエフせんせーが言ってたー。
日本舞踊って逆らしい。(これもswanで読んだんだっけなー、わすれたー)腰を落とし、足も内向き、
歌も西洋はのどを開く、日本は閉める。

どちらがいいとか悪いとかじゃなく、文化とかメンタリティとか、なんだよね。
北欧の初対面ではシャイ、でも仲良くなると、正直にストレートに話す、って感覚は、日本人もそうなのかなって。
わたしは絶対、内弁慶な性格だから。
でもこの「内」って感覚がいろいろ不足してくると、いろいろいろいろ問題起こってくんだーー。

学校は「内」でいいと思うけど、風通しのいい おうち じゃないと、生徒も先生も苦しくなる。

先生も実際その仕事したら、すんごい大変だと思うけど、
せんせい も せいと も 居心地のいい おうち があればいい。にゃー。

山やま (2013.04.11)

そうだね、市立でっていうのはすごいかも。

http://blog.tatsuru.com/2013/04/07_1045.php
この記事で内田さんが言っているように、日本の公教育というものが子供にとってほんとうに必要なものなのかどうか疑問に思うことがさいきん多くて。目の前の子供を見ながら身悶えしそうになる。
だから、こういう学校があるということは数少ない希望だと思うなあ。

ぼくも内弁慶なのでフィンランド人の気質に共感しちゃうんだけど、そうだね、「内」も「外」も一緒に共存する居心地のいい場所があればいいよね。
いまは「外」「外」、っていうのが礼賛されるから、それはビジネスの場だけじゃなくて、学校教育ですらそうだから、やっぱり苦しくなっちゃう。「外」を磨くために、「内」って感覚を殺しちゃうと、いろいろ問題起こってくだろうね。

こえり (2013.04.12)

うーー。なんか絶望的になってくるね。。内田樹さんのこの記事読んでると。。

学校ねえ。。むずい。。。



「あたりまえ」って恐いなぁ。。当たり前体操でもとりあえず踊っとかないとな♪

自分の通ってた公立の小・中・高とか、そういう環境とか、勉強の仕方とかが当たり前だと当たり前に思ってて、
でもそこで何か育てられたか、っつったら育てられなかった。
なにをどうしたらいいのか、ぼんやりしたまま、進路決めて、ぼんやり中退した。(短大)

内と外って感覚が違って、ずれ みたいのが起こってるって日本だけじゃあないのかなぁ。内田樹さんの文章だと。



ギリシャって手のひらを相手に向けると侮辱したことになるんだって。
(旅番組で、手を上げてタクシーを止めようとしたら、えらく怒鳴られた)
手のひらを見せる=ぶたれる、みたいな感覚とかなにかが残ってて、ってことなのかなぁ??とか。ちょっと思った。

「おいでおいで」ってするとき、日本人は指を下に向ける。「あっちいけ」も。
でも西洋は指を上に向けて(手を、かな)「comon!!」ってする。
この場合、手のひらは見えない。
日本式だと、手のひらを横にしてるから、(おいでおいで するとき)
見えそうな見えなそうな。
(外国で(ヨーロッパでってことかな)日本式に おいでおいで をすると、「しっしっ」としてると思われるみたい)

犬はけんかしても おなかを見せたら「参りました。降参です」のしるし。
安心してる人にもおなかを見せる。
手のひらを見せる、見せない、もおなじようなこと。かな。とか。
手の内を見せる、見せない、みたいな。



内田樹さんも合気道(だっけ?なんか武道)をやってて身体感覚というのを重視してる方なんだと思うけど、こういう小さいことでも、自分に馴染まない感覚、自然にやってることって、いろいろあると思う。
おえらい先生方には「それがなに??」ってえ、ことかもしれないけど、
小さい違和感って意外と手がかりになったり、とかね。



ギリシャで宗教が発達したとき、エジプトとかそれ以前の宗教には存在した農場神とか、太陽、水に対する神様がいないらしい。
ギリシャは土地があまり農業に向いてなくて、お金を稼ぐためにエジプトで兵士の仕事をする人がたくさんいたらしい。
だから農業の神様がいないのかのぁ。。
その代わり、文化、哲学、政治とかいろんなものを発達させる必要があったのかも。
でもー、哲学ってすっげーー遠回りな気がするなぁ。。感覚で感じれば「あたりまえ」に感じることを、言葉を使って延々とつづっていこうとすると、すんげーーー難しくなる、よーーー。

言葉を使って説明とか以前に、いろいろ感じる能力持ってるのは女性、女性性ってやつで、それよりも男性性や男性を重視しようとすると、ひずむんだろうなぁ。電話のコードがよじれたら、そのまま放置して、元にもどさな!
(しかし、内田先生によると、それは不可能らちいね。。うぬぬぬぬ。。)

..あー書いててちかれた、もっと感覚つかって話したいー。
まずは自分のおうち つくんないと、なのよ。
外 しかないのね、あたし。

長くて ごめーーん。

山やま (2013.05.23)

コメント長らく放ったらかしでごめん〜。
「感覚つかって話したい」って、とても重要なことだと思う。
>いろいろ感じる能力持ってるのは女性、女性性ってやつで、それよりも男性性や男性を重視しようとすると、ひずむんだろうなぁ。
ほんと、そうだと思う。

映画作家の想田和弘さんのコラムはまさにそのことを書いてる。
「オッサンの理屈」vs「おばちゃんの実感」
http://www.magazine9.jp/soda/130522/

「もし「おばちゃんの実感」が「オッサンの理屈」よりも強い世の中であったなら、そもそも「911事件」は起きなかったし、アフガニスタンを攻撃しようという米国世論も高まらなかったのではないか。」

冗談でなく、本気でそう思うよ。男ども気付けよって。

こえり (2013.06.02)

>女脳は感性(右脳)と言語(左脳)をつなぐ脳梁が太く、思いを言葉にしやすいし、状況を把握する力(空気を読む力)が強いとされています。気遣いが上手くて、そのぶん空気を大切にするから、どうも話が遠回しになりやすいということ。それと言葉によって、相手との共感を求めようとする傾向が現れやすいそうです。http://cocoloni.jp/love/koiura/14475/

空気を読む っつーのは女性的な感覚らちい。
つーことは、日本人は、女性的ってこと、だよね。

>男子としては「何が言いたいのか、先に教えてくれ」ってことですからね。結論(オチ)から話し始めればいいんじゃないでしょうか。

なー訳だけど、むずいんだよなぁ。。まず自己主張!ってやりにくかったりするんだもん。

こないだ、相手に伝わるメールの書き方、みたいなのをやってて(テレビね、池上さんのだった)内容は、件名が大事、みたいなことだったんだけど、
件名で、「この件について、今から話すよー」となってるほうが、受け手は受けやすい。


>例えばですね共感を求める…「ディズニーリゾート30周年だよね(共感を求める)
」→「今度のデートに行きたい(結論)」と持っていくのではなく、「今度のデート、ディズニーランドに行こうよ(結論)」→「30周年イベントがたくさんあって楽しいらしい(共感を求める)」という順番。


でもこれだと空気読めないんだよなー。共感を得られるから、次に話を進められるっつー感覚があるから、まず遠まわし。
でも相手にしたら、何を求めてその言葉を言ってきて【「ディズニーリゾート30周年だよね」】何を返したら、どう答えたらいいか不安で戸惑う、っていうのは、あるだろうな。

だーいたい、結論つーのが、自分にとって分かってたら、しゃべる必要なかったり。する。

だいたい日記にもメールにも件名つけない人だったりする→自分。
それだけ気持ちの方向性がぼんやりしてるんだけど。

「ディズニーリゾート30周年だよね」って言ってる時点では、ただ雑誌見たりの中で、見た情報をそのまま口にしてるだけで、何も思ってなかったりする。(こともある)
でも「ディズニーリゾート30周年だよね」と声に出してしゃべったから、そのあと「行ったら楽しいだろうなー♪行きたいかもー?」と感情が動くことは、ままある。

山やま (2013.06.04)

この男脳と女脳のはなしは至るところで目にするし、ほんとそうだなあと思うんだけど、これって心理学的な見地から語られることが多いのだけれども、すごい核心を突いた現象なんじゃないかと思います。

>日本人は、女性的ってこと、だよね。

これは、ぼくはちょっと違うと思う。空気を読む っつー現象はひとまず置いといて。日本社会はもうげんなりするくらい男性社会なんだよなと。とくに震災以降にそう感じざるを得ないことがあまりにも多くて。なんというか、硬直化して動かないことが多すぎるじゃない。それって今まで(たぶん戦後)の日本社会のしくみというものが、いかに男脳でつくられてきたかを表していると思うんだ。


>だーいたい、結論つーのが、自分にとって分かってたら、しゃべる必要なかったり。する。

うん、そうなんだよね。そうなんだ。ということを男は分からないんだよね。ぼくはこうやってブログとかツイッターでぽつぽつと言葉を吐き出すようになってから、ああなるほど書きながら、書くうちに、何を言いたいのかがはじめて見えてくるということがあるのだということに気付いた。そして、そっちのほうが、始めから結論が出ていることよりも発見が大きいことも。だから文章を書くんだなと(しゃべるのは苦手なので書くほうがそう感じる)。

男って、どうしても結論ありきでしゃべりたがる。橋下市長の弁論テクニックなんかはまさしくそうで、結論を設定して、そこに向けて勝つ(相手を言いくるめる)ための論理を探してくるわけ。だから、橋下さんっていうのは、ある意味で戦後日本(男脳がつくった社会構造)の象徴みたいな存在だと思うわけです。

さらには困ったことに、男脳ってやつは、自分が設定した、自分が信じたい結論いがいのものを信じたくないんだよね。だから、都合の悪いことには目を背けようとするし、はてには「無かったこと」にしてしまう。で、だいたいそういう男どもって怒ってる。慰安婦の強制連行は「無かった」と主張する人たちもそう。脱原発の声を風評被害だと主張する人もそう。「論理」だったり、大きな声という恫喝だったりで、押さえつけようとするわけ。なぜ怒る必要があるのか? 信じたくないからだと思う。信じるのが怖いんだ、きっと。そんな現実には、自分が「対応できない」ということが実は分かっているから。


光岡英稔さんという武道家が、内田樹さんとの対談本で言っていたこと
「術や理はその都度生じることです。と言うのは、現実の大前提は「次の瞬間、何が起こるかわからない」です。どうなるかわからない中で、そのときに必要な術や理が生じるわけです。その都度新たになる現実の流れの中では、「前にこうやって受けて返したらうまくいった」ということが通じない。再現性のない世界が前提なわけですから。」
「自分の在り方をいかに把握するか、が稽古の中心となります。要は自分の感覚と自然な動きの間にずれがないかどうかで、そこを見て取ることは決して固定化された見方でできるものではありません。だから「私にとっての現実はこうだから」と外の世界を規定していくのではなく、現実にそうであるところを「なぜそうなっているのか」と問うてみる。
私がそれをどう感じ、認識しているか。感じることと実際に起きている現象は同起していますが、認識は必ず後からやって来るので、認識してから動こうとすると現実に遅れを取る。」

男脳というものが、はじめに結論ありきで、そこに向けての術や理を学ぼうとする性質を持っているものであるから、「動きながら考える。動きながら答えを探していく。」という術を体得してくために武道があるのだと思った。
というぼくは武道的なことをなんもしてないけど。

こえり (2013.06.10)

なんかねー、カウンセリングとすげーだぶるなぁ。やっぱり私の感想としてはそうなっちゃう。

>はじめに結論ありきで、そこに向けての術や理を学ぼうとする性質

健康、健康な精神、っていうゴールを設定して、そこに行くまでにこういう過程を経て、ここにいきつくはずだ、ってそういうカウンセラーになんか、会いたくないんだよね。てめえの頭の中で解決しようとすんなよ?って。

>「次の瞬間、何が起こるかわからない」

それを楽しい(単純すぎる言葉かもしれないけど)って思える感覚に戻りたかった。
予想外の動きするのが人間だし、そこからずれただけで動揺すんなよ?

>認識してから動こうとすると現実に遅れを取る

こないだ老子の番組やってたんだけど、カールロジャースの言ってることと同じこと。
言ってた。
リーダー論というのがテーマだったんだけど、よい上司と言うものは 「いるんだかいないんだか分からない上司」だと。
カールロジャースはプレゼンスという概念を大事にした。
「ただそこに存在する」ということ。ただそこに存在してくれる人がいることに安心して、自分の話を繰り広げ、発見し
、開放され、っていう。
。。って言うのを期待したんだけどねー、、

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A1%A5%B7%A5%EA%A5%C6%A1%BC%A5%BF%A1%BC

ロジャースの目指すのはこれなんだよね。
「ファシリテーターは、促進者・触媒タイプ」「優秀なファシリテーターは、参加者自身の気づきを促すことができる。」


>男って、どうしても結論ありきでしゃべりたがる。橋下市長の弁論テクニックなんかはまさしくそうで、結論を設定して、そこに向けて勝つ(相手を言いくるめる)ための論理を探してくるわけ。だから、橋下さんっていうのは、ある意味で戦後日本(男脳がつくった社会構造)の象徴みたいな存在だと思うわけです。

>さらには困ったことに、男脳ってやつは、自分が設定した、自分が信じたい結論いがいのものを信じたくないんだよね。だから、都合の悪いことには目を背けようとするし、はてには「無かったこと」にしてしまう。で、だいたいそういう男どもって怒ってる。慰安婦の強制連行は「無かった」と主張する人たちもそう。脱原発の声を風評被害だと主張する人もそう。「論理」だったり、大きな声という恫喝だったりで、押さえつけようとするわけ。なぜ怒る必要があるのか? 信じたくないからだと思う。信じるのが怖いんだ、きっと。

>そんな現実には、自分が「対応できない」ということが実は分かっているから

対応できない、っていうのが短くて真理だと。
自分の心に対応できない、私の心に対応できない。なら、てめえ、何のためにそこにいる?

空気を読むっていうのは状況を把握する力、なら、ここが男性的な倫理や論理で動いてるっていう空気のとこなんだっていう空気を読め?ということは、あるんじゃあないかな。

対話と会話は違うという話をどこかで聞いた。(山ちゃまさんのとこだったととしたら、ごめん!)
会話というのは空気の中でするもの、その場の空気を壊さないもの。対話と言うのは、お互いが違う存在、違う思考、体験、価値観をもっているという前提でなされるもの、というようなことを読んだ。
カウンセリングが会話になっちゃったら、違うんだと思う。こういう前提でやってるだから、はみ出すなよ?という強制力かけるんなら。そこから出るなよ?とか思ってんなら。


こえり (2013.06.10)

「交流分析 の本より
時間の構造化、

ひきこもり→儀式→暇つぶし→活動→ゲーム→親密さ→(三昧)

ひきこもりとはからだがそこにあるけれど、しゅういとのかんけいせいをたっているじょうたい
(えりっくばーんというひとのかいしゃく、たぶん)

儀式とはおきまりのしゃこうてきなやりとり
つぎになにがおこるのか、おおよそのよそくがつくじょうきょう
すとろーく(なにかしらのなげかけ、言葉とかその他)は濃度としては薄いが、それなりのストロークを得ることができる。

ひまつぶし
すでにおわってしまっていることがらについてのじょうほうこうかんのばめん
いやになれば、いつでもわかれることのできるむすびつきのうすいかんけいであり
ちょっとしたしりあいとじかんをつぶすたぐいのものをいみする

すとろーくのこさがそれなりにこい

はなしのないようによってはきょぜつされる
おもうようなすとろーくをくれないあいてとはかんたんにわかれることもかのう

活動→なんらかのもくひょうをたっせいするためにえねるぎーをついやしているじょうたい
なんらかのけっかをうんでいるじょうたい
すとろーくのこうかんれべるではとてもこいが りすくもたかめ

ゲーム→そろそろあいてのこともわかりはじめたころから げーむ がはじまる

http://ja.wikipedia.org/wiki/...

(うまくかみくだいてはなせない)

親密さ→互いに真のきもちのひょうげんができるだんかい」

日記から転載したから、ひらがな。読みにくいね。。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E6%B5%81%E5%88%86%E6%9E%90#.E6.99.82.E9.96.93.E3.81.AE.E6.A7.8B.E9.80.A0.E5.8C.96←こっちwiki


社交って言うのが「会話」で、親密さが「対話」になるかな。
会話ができる っていうのが社交性がある、ってこと。かもね。
空気を読めるっていうのは、まさに社交性持ってるって感じだもん。コミュ力ね
、いわゆる。でもこれ高いのは、実は人付き合いが元は苦手な人だと思う。その分一生懸命、人の気持ち感じようとしたり、汲み取ろうとしたり、傷つけないようにするのは、そうだと思う。ヒャダインを見てそう思った。

山やま (2013.06.11)

コミュ力が高いのは実は人付き合いが元は苦手な人…おお〜、きたね。
社交的なコミュって、一種のゲーム的な感覚があるなあと思う。ぼくもお酒を呑むと幾分か高くなる傾向があるけれども、普段はだいぶ低いと思う。
ひとつ思い当たるのが、マンツーマンでの会話(対話?)はそうでもないんだけど、3人以上が集まっての会話とかってなると、すごい苦手なんだな。多数を相手にしたプレゼンとか、もうだめ。
うーん、うまくまとまんないけど、相手や空気をコントロールしようとするっていう話とつながるのかなあと。

こえり (2013.06.12)

>社交的なコミュって、一種のゲーム的な感覚があるなあと思う。

うん。
橋本とかはパワープレイね、力で押し切る。もうゲームだよね、力任せの。

駆け引きだよね、ゲームつっーのは。先を読む力でもある。オセロだの将棋だのってのは、いかに先の先の先を読めるか、っていう戦い。それが読めないと、負ける。「今ここ」だけを考えて駒を打ってたら負ける。きっと元々は戦国時代とか戦いが激しい時代の軍師と呼ばれる人たちがやってた仕事なんじゃないかなぁ。この戦いにどう打って出るか、どう駒を進めるか、それ打ち間違ったら自分の軍、死ぬっていう時代の。
平和な時代になって、将棋盤やチェス盤の上でスポーツ(みたいなもんだよね)として行われるようになったけど。って感じじゃないのかな。

>マンツーマンでの会話(対話?)はそうでもないんだけど、3人以上が集まっての会話とかってなると、すごい苦手なんだな。

わたしも。。もしかしてそれぞれとほんとに腹割ってはなしができる関係である上で、複数の状態なら、違うのかなぁ。。とか思うけど。(わかんないけど)
だから実名出してプライベートのこと日記書くなんてやれるわけないんだよねーー。誰かにそれを教えたとしたら、書きたいことかけなくなっちゃうもん。検索かければ見つかる状態に自らするわけだし。このこと書きたいけど、でも誰々さんに聞かれたくない。。とか、いまこの話題聞くの、○○さんやだろうなぁ。。って気つかっちゃう。

山やま (2013.06.20)

この対談、おもしろかった。
http://www.youtube.com/watch?v=ZtCC8BUS2IY

40分すぎから

日本人は、20人の会議では手を挙げて喋らないが、7人以下になると喋り出す。という研究結果があるらしい。
それをもとに、すずかんさんは熟議ワークをやっている。
喋るだけでは、喋るのが得意な人(プレゼン能力のある人)がぜんぶ場をとっちゃう。熟議のときは、黙って3分間思っていることを紙に書いてくださいという時間を入れるようにしている。そうすると、喋れない人も実はすごくいいことを考えている。それを引き出していくコミュニケーションデザイン。
どんな人も存在に価値がある。且つどうやって豊かな関係をつくれるか。
プレゼンテーションとは、20世紀型。言いっぱなし。
コミュニケーションの力とは、いろんな人たちと臆せずに対話しようとする態度。これを中学高校で身につけたい。いろんな原体験をさせてあげられるような環境づくり。

みたいな話。
自民党が画策する「教育再生」とはまるで視点が違って、よっぽど共感できる。民主党には、こういう良い議員もいるんだよなあ、もったいないなあと思いつつ…。










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