待機児童の問題について

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根本的なところで勘違いをしているのではないかと。

首都圏各地で、待機児童問題の解決を求めて親たちが声を上げています。ニュースでも度々取りあげられ、待機児童問題がいよいよ大きく顕在化してきました。保育園、家庭、行政、それぞれの現場に携わっている方々の受けとめ方もさまざまだと思います。ぼくは、あくまでも子供を預ける側の父親の立場でしかないのですけれども、この問題ってどうもボタンの掛け違いというか、ニュースで識者のやり取りなんかを見ても、ちぐはぐ感が否めない気がするのです。

この方が記事で仰っていること、大事なことだと思います。

待機児童の理由は何か 駒崎弘樹さんに伝えたいこと - 宮本徹 いま言いたい

同記事より
認可保育園の基準というのは、 「あしき規制」といったたぐいのものではなく、こどもたちの健やかな成長のために国がもうけた最低限の基準です。都市の地価が高いことを理由に切り下げていいものでは決してありません。


ものすごく基本のところです。子供何人あたりに保育士が1人付くのか、子供一人当たりの面積はどれくらいか、という基準。大げさな話じゃなく、これは子供の命に関わる数字であるということは、一日独りで子供をみたことがある親御さんなら分かるかと思います。1人で1人をみるのですらこんなに大変なのに。

ちなみに0歳児は概ね3人に保育士1人、1〜2歳児は概ね6人に保育士1人、3歳児は概ね20人に保育士1人、4〜5歳時は概ね30人に保育士1人といいうのが、国が定めた保育士の配置基準です。ただし、この配置基準では十分な保育ができないのも現実で、多くの保育所ではこの配置基準の1.5〜2倍の保育士を配置していることも珍しくないそうです(参考)。「この配置基準では十分な保育ができないのも現実」って、それ基準になってるのかっていう話ですが。

1年ほど前に、大阪市が保育所面積基準を0〜5歳一律で緩和するというニュースがありました(過去記事)。ぼくはこのニュースを知った時に、「橋下市長が子育てしていないことがよくわかる」と真っ先に思いました。待機児童問題を解消するために、子供をもっと詰め込む。橋下市長が考えそうな「効率的」な理論です。机の上ではじき出された数字なら正解かもしれない。けれども、現場では大人には予測不能な動きをする子供たちがいます。あいつら大人しく大人の思惑通りになんかしているわけがないです。単なる数字ですが、子供の命に関わる数字でもあります。

駒崎弘樹さんは記事を「現場からは以上です。」と締めています。彼の言う「現場」が、保育の現場であることは間違いないでしょう。だけど、どちらかというと「保育経営」の視点に寄った意見だなあという感想を持ちました。もちろん経営者の側からの意見も必要です。だけど、それは子供を預ける親の立場からすればあまり関係ない。ぼくは駒崎さんの記事にはあまり共感できなかった(というか難しくてよく分からなかった)。認可保育所を、社会主義や「配給」となぞらえるあたりには大きな違和感が残ります。


待機児童の問題は、効率化とか民営化という手段が確立すれば魔法のように解決できる問題のわけがないです。お金や人手など、国がそれだけのリソースを投じない限りは保育なんてできるはずない。

待機児童の理由は何か 駒崎弘樹さんに伝えたいこと - 宮本徹 いま言いたいより
待機児童問題の一番の大本にあるのは、税金の使い方の優先順位を自治体や国が何におくのかという点です。認可保育園をつくる財源がないという自治体は、税金の優先順位を洗いなおしてほしいと思います。


待機児童問題に関しての、根本的な疑問があります。

お金が無い、保育士がいない、…なぜ子育てに対するリソースが「無い」ことを前提としたところから始まるのか。
宮本さんも記事中で指摘しているように、アベノミクスの名で採算のとれない高速道路建設等、不要不急の大型開発に莫大な税金が投入されようとしています。時間のある人は、実際にどのような事業にどれくらい予算が付いているか、日本の予算配分を比べてみて下さい。子供や教育への配分が驚くほど少ないことが分かります。諸外国と比較すると、子育て軽視のスタンスが数字として浮き彫りになっています。

「無い」わけじゃない。「出すつもりが無い」のです。

子ども子育て新システムがそうだったように、国は待機児童の問題を資本主義の理論で解決しようとしています。行政が保育になるべくタッチしないようにするということは、国は子育てにリソースを投じないよって意味でもあります。びっくりするけど、ほんとそう。そちらで勝手にやってくれと。3歳までは家庭で育てろというのが自民党の党是ですし、現状でも保育士の低待遇を見れば明らか。そもそも子育てに対するリソースの配分が低すぎるのです。

端的に言えば「子供にお金をかけたくない」というのが社会の要請であり、それは親の要請なのかもしれません。アンチエイジングに勤しむ大人たちは、自分探しや自分磨きに忙しく、またそれが魅力的な大人だとされています。それを全否定はしないけれども。

子ども子育て新システムがそうだったように、国は待機児童の問題を資本主義の理論で解決しようとしています。規制を緩和して民間企業を入れれば、競争原理によって保育市場はよくなると。これは資本主義の理論です。ビジネスの現場では有効な理論かもしれません。だけども、保育の現場は市場じゃないし。

規制を緩和して民間参入が進めば進むほど、現場にしわ寄せがくるに決まってます。保育企業(?)のブラック化。もちろん全ての民間企業がそうだというわけではありません。子供のことを第一に考えて努力する経営者もたくさんいることと思います。ビジネスだからダメと言うわけじゃない。けれども、そういった志を持った経営者は厳しい経営を迫られるでしょう。資本主義とは本質的に効率を優先するものです。経営のしわ寄せは必然的に現場に集まります。

ぼくは地方在住の一市民にすぎませんが、それでも生活実感として、市場が淘汰するということの帰結をいろいろと見てきました。大資本によってローカルな個人経営店が駆逐されていくという場面を多々目にするわけです。
どこに住んでいても全国同じようなものが同じような価格で買えるようになりました。バイパスを走るとどこに行っても同じような、なんとかモールとかタウンが立ち並んでいます。そのほとんどは、消費者がより安い価格を求め、企業側がそれに応えていった帰結です。大量生産のできる大資本企業に地元の商店街が価格で太刀打ちできるはずがありません。これは結果として囲い込みになっています。一円でも安いものを求めていく消費者。企業としては人件費を抑えるために労働環境は劣悪になっていきます。金が回らない経済の循環は、巡り巡って自分の首を締めることになっています。多様なサービスを選べるはずが、実際には安いものしか買えない。多様なサービスを選べるはずが、実質的には選択肢がなくなっていく。そういうことが身の回りにたくさんあります。

「供給量を増やせば、質の悪い保育園は選ばれなくなる」というのは、一般論で言えば、なるほどもっともです。それが市場原理なのだから。だけども、市場原理の導入と浸透によって現実がどうなっているかを目の当たりにしてきた現在、保育の場合だけは民間参入によって多様なサービスが保たれ、さらに保育の質が向上するというイメージを抱くことができません。それちょっとお花畑的な幻想じゃないかと思っちゃいます。

民間企業が「悪」だなんて思っていません。かといって、ボランティアでやるわけでもありません。社会貢献という名目があったにせよ、企業の本質は利益を出すことであるし、それが悪いだなんてぜんぜん思わない。ただ、やるべき場所と、そうでない場所があるんじゃないかと。子どもの命を預かる場であり、また子どもの教育の場でもある「保育」の現場には、そぐわないのではないかと思っているのです。

その辺りの話は、子ども子育て新システムをめぐる考察の中で書きましたのでご参照下さい(長いです)。
(過去記事)子ども子育て新システムから感じること

いちばん問題なのは、保育現場へのしわ寄せは子供へのしわ寄せであるということです。資本主義自体が悪いわけじゃなくて、資本主義とはそういうものであり、子育てとビジネスは本来的にそぐわないという話です。くり返しますが、お金や人手など、国がそれだけのリソースを投じない限りは保育なんてできるわけがない。保育という行為は「儲ける」ビジネスではないからです。


安心して子供を預けたい。

ただそれだけのことです。既得権ではありません。


待機児童の問題について

待機児童の問題について 2013.03.21 Thursday [子育て・教育] comments(0)
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