小沢健二『うさぎ!』第24話(原発について)を読んで 言葉の使いかたについて

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伝わる言葉と伝わらない言葉

「マスゴミ」っていう言葉がありますよね。あの言葉が持つ独特の強さみたいなものが苦手なんです。だからぼく自身が使わないようにしているのはもちろん、その手の言葉が使われている界隈には、あまり近づかないようにしています。

言わんとしていることはよく分かるんです。マスコミの報道は偏向している。記者クラブの談合で作られる画一的ニュース。都合の悪いことは報じずに、どうでもいいことばかりを垂れ流している。テレビは自分の頭で考えることを止めさせる馬鹿製造機である。洗脳である。その通りだと思います。ぼくも日本のマスコミが度を超えて偏向していることには同意します。

けれども、「マスコミは本当のことを言わない」という物言いには微妙な距離感があって。本当のこと?「本当のこと」なんていうものは誰にも分からないわけで。公正中立という概念は幻想の中でしかあり得ない。報道とはそもそも偏向しているものだという認識も必要だと思うのです。

「マスコミは偏向しているものだ」という認識とは、たとえば産経が右寄りで朝日は左寄りという時代遅れで定型的な認識のことでは無いのです。フジは韓流ばかりを優遇する在日企業であるという思い込みでもない。「マスゴミ」という言葉には、そういったイデオロギーとは関係なくマスコミを激しく非難する意味合いが込められている。罵倒とも言える。その気持ちは分かるんですけれども。

左右のイデオロギーはもちろんのこと、報道される情報とは、カメラというフレームを通した時点で、その中に入ったものだけを切り取ってしまいます。つまりその外側にある大きな景色を切り捨ててしまう。編集作業とは、切り捨てる作業のことです。報道とは、必ず誰かの手を通した情報であり、意識するとしないとに関わらず、必ずその人の主観が入る。情報とはそもそも、そういうものでしか存在し得ない。

「マスコミは偏向しているものだ」という認識とは、報道とは必ず「編集」という作業を介するものであるという認識を持つことです。そのことを主題にした、森達也氏の『世界を信じるためのメソッド』や、想田和弘氏の『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』を読むと、メディア・リテラシーの基本が理解できます。マスコミが発する情報をそのまま信頼する人の割合が、先進国の中では日本が群を抜いて高いといいます。「マスコミは本当のことを言わない」という物言いは、「本当のこと」がどこかに存在するという前提であり、けっきょくはマスコミに依存する態度の裏返しに見えます。「そんなこと言うけど、じゃあどうすればいいのか」という類いの批判もそう。それは自分で考えることなのです。

情報とはそういうものだと認識した上で、自分はどういう立ち位置で、どう付き合っていくかというだけの話なんですね。当たらず障らずでほど良く距離感を保つのがいちばん賢いやり方なのでしょうが、なかなかそう上手くもいかない。関わらないようにするのもひとつの手だし、悪口や愚痴を言うのもまあいいでしょう。ただし、相手が間違っているからと相手を押さえ込んで、自分の意に沿うように変身させようと思うと、これは相当に大変です。マスコミに対して、偏向するな、公正中立に本当のことを言え、と要求するのは無理な話です。

「マスゴミ」という言葉には、そういった思考の過程を丸ごとすっとばしてしまうような強さがある。それがくり返し使用されていくことで、安易なレッテルと化してしまう。レッテルと化した言葉を使うことで、ものごとを「分かったつもり」になってしまう。伝わるものも伝わらなくなる。そういう危険性を孕んでいると思います。


小沢健二『うさぎ!』第24話(原発について)を読んで

季刊誌『子どもと昔話』にて連載されている小沢健二氏の寓話『うさぎ!』。2011年7月に発表された第24話は原発について書かれた作品であり、2012年の7月にネット公開されました。原子力発電という存在が、どのようにしてスタートして現在に至るのかについて、各種文献にあたって解説してあります。ぜひ多くの人に読んでもらいたい内容です。


うさぎ!第24話(原発について)ネット公開によせて 小沢健二


うさぎ!第24話より
「原発問題」は、エネルギー問題ではない。
そりゃあ、この世のどんな問題も、全て繋がっている。けれど、原子力発電がある理由は、エネルギー問題とは、第一には関係がない。
代替エネルギーとやらに興味を持つのは良いけれど、それと原子力発電の存在は、あまり関係ないことは、確認しておいた方がいい。


アイゼンハワー元大統領が提唱した「アトムス・フォー・ピース(核の平和利用)」という言葉がキーワードになっています。(ぜんぜん関係ないですが、最近同名のバンドがデビュー・アルバムをリリースし、フロントマンであるトム・ヨークがインタビューで原子力発電についての考えを語っています。音楽つながりということで。)

1940年代や50年代には、採算が合わないために実現可能ではないとされていた原子力発電。)榲のコストが高すぎるし、他の燃料であと15世紀は発電できるし、事故が起こったら「想像するだけでも身の毛のよだつことになる」という意見は、ビジネス界も科学界も一致していたそうです。アイゼンハワー大統領が「原子力の平和利用」を訴えても変わらなかった彼らの態度を変化させ、強固に閉ざされていた原発産業への扉を開く鍵となったい箸浪燭。それはぜひ小沢健二氏の原文を読んでみてください。あまりにバカらしい鍵ですが。

うさぎ!第24話より
そう。「利権優先のビジネス界が原発を生んだ」とか「科学の暴走が原発を作った。ヒトとは悲しいものだ」とかいう、変な幻想を持っていたら、捨てた方が良い。
灰色は、幻想を与える。
今どき、なまじっか考えて頭に浮かぶようなことは、だいたいは灰色が頭の中にねじこんだ、安っぽい幻想、安っぽい考えにすぎない。
悲しいけれど。


ともあれ、小沢健二氏は「原発問題ってのがあるとしたら、それは軍事問題のように思える」と言っています。彼のこの文章を読んでみて、ぼくもその通りだと思います。たいへん深く納得し、原発問題を考える上での指標をまたひとつ与えられたような気がしました。

そして、こういったことを、いわゆる反核団体や反原発活動家たちが言うのではなく、小沢健二が言うってところにたいへん感銘を受けます。あの『ラブリー』を歌ったオザケンが。自分の意見として。

小沢健二の文章といえば、官邸前デモが盛り上がった時に話題になった「金曜の東京」が記憶に新しいところ。ぼくはあの文章を読んで、彼が10年以上も前から、社会の中の「灰色」を見ていたということを知りました。(過去記事:「金曜の東京」から知る小沢健二

ぼくはと言えば、震災と原発事故を通してようやく、自分たちの暮らすよのなかが「灰色」で出来ていることを知った。ほんとうは「灰色」で出来ているのに、見えないように蓋をして知らないふりをしてきたことがたくさんあったのだということを知った。原発だけじゃない。震災があぶり出した、日本が抱える構造的な問題。「金曜の東京」という文章を読んだときに、ああ時代のほうが彼に追いついてきたということなんだなあと思ったのです。

渋谷系の「王子様」ともてはやされた頃のオザケンと、こうして社会的なメッセージを投げかける小沢健二は、一見すると、まるで別人であるかのように映るかもしれません。でも、ぼくはあまり違和感を感じない。反グローバリズムを根幹にしているとはいえ、彼の文章からは、そんなに極端な原理主義的な主張は感じない。彼はたぶん昔もいまも変わっていない。自分に正直なだけなのだろうと思います。

彼の文章からは、彼が活動家や思想家であるといった言論闘争的な匂いはまるで感じられません。子どもに聞かせるかのように、すごく丁寧にやさしく書かれています。誰かを論破するために社会のことを知るわけじゃない。ぼくたちは、自身の生活そのものを愛でるために、社会のことを考えるのです。そのために、生活そのものを犠牲にする必要はありません。誰かを貶める必要もない。


反核団体や反原発活動家たちの使う言葉は、ときに先鋭化します。原子力発電という存在そのものが批判されるべきであるにも関わらず、福島から非難せずに現地で生活するという選択をした人たちに対しても侮蔑の言葉が投げられるときもある。この手の煽り言葉や、レッテルと化した言葉を使う人って、啓蒙的なんです。押し付けがましい。真実を知ってしまった我々には、まだ知らない子羊たちにそれを伝える義務がある、みたいな正義感。あの「感じ」がどうも苦手で、「うわあ」と思ってひきますよね、ふつう。「マスゴミ」という言葉が持つ強さが、「俺たちは分かっている」という押し付けがましさにあるのと似ています。「反日」とか「売国奴」といった定型句と大差ない。よく文脈を読んでみれば、ぼくも原発には反対だし、言わんとしていることはわかることが多い。だからこそ、もったいないなあと。伝わるものも伝わらなくなる。

ネット公開によせての寄稿文(上記リンク)で、小沢健二も「そんなことはもう分かっている」という言い回しについて言及しています。たとえば、小沢健二の『うさぎ!』第24話を読んだ人から「そんなことはもう分かっている」という反響が来たとして、書いた側は「で、だから?」としか返しようがない。「分かっている」人に対して「俺はもう分かっている」ということを宣言するのはナンセンスですし、「分かっていない」人に対して「俺はもう分かっている」ということを宣言してそれが何になるんでしょうか。ほんとうに「分かっている」人は、わざわざそんなこと言いません。


かといって、シニカルに構えていれば事が済むかというと、ぜんぜんそんなことは無くて。マジョリティ(為政者側)はいつも現状維持を願います。世の中の民主主義を動かしてきたのはマイノリティ(庶民)の声だったはずです。マイノリティが声を上げない限りは、マジョリティは「聞こえないふり」をするに決まっている。そのどちら側にも属することなく、どちらに対しても冷めた視線を投げかけることが「冷静な態度」だとでも?自分が絶対的に公正中立だと?

くり返しますが、公正中立という概念はあり得ません。「原発とはそういうものだ」ということを認識した上で、自分がどのように社会と関わっていくのかという問題です。

待機児童の問題では、杉並区、足立区、大田区で母親らが区に対する異議申し立てを行いました(出典)。これは「ヒステリック」な行動でしょうか。薬害肝炎問題で矢面に立ち続けた福田えりこさんは「売名」行為だったのでしょうか。人って、自分が見たくないものは何かしら理由をつけて見ないようにしてしまうものです。

母親らの訴えを受けて、さっそく杉並区では定員が増員されるそうです。薬害肝炎問題は明るみに出ることによって薬害肝炎救済法が成立しました。震災後に、共産党やフリーのジャーナリストらがいなかったら、情報はいまよりも公開されておらず事故後の対応はもっと酷いものになっていたでしょう。

それぞれが、それぞれの立場から、それぞれ見える景色を、描けばいい。自分の言葉で、考えればいい。自分のリズムで、歌えばいい。それは自分だけの歌であり、他人がとやかく口出しするものではないのです。


小沢健二の『うさぎ!』第24話(原発について)を読んで、そういうことに思いを馳せながら。彼が残した、のほほんとした歌を聴く。


小沢健二
EMIミュージック・ジャパン
発売日:1996-10-16



これがまたいい。

ぼくたちは何のために社会のことを知ろうとするのかといえば、彼がこうして歌ったような、あの抱きしめたくなるような、ラブリーな毎日を、自分の生活の側にたぐり寄せたいからに他ならないのです。そうですよね。

小沢健二『うさぎ!』第24話(原発について)を読んで 言葉の使いかたについて

小沢健二『うさぎ!』第24話(原発について)を読んで 言葉の使いかたについて 2013.03.08 Friday [妄想] comments(0)
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