子どもが真ん中にある街

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半年ほど前に、立川市の「ふじようちえん」についての記事を書きました。
(過去記事)ふじようちえんと宮崎駿
その中で、「宮崎駿さんが考える街づくり」について同氏の言葉を紹介しました。

「まず、町のいちばんいい所に子供達のための保育園を!(幼稚園もかねる)」
「大人が手と口を出さなければ子供達はすぐ元気になる!」
「あぶなくしないと子供は育たない」

宮崎アニメが愛され続けるのは、主役はあくまでも子どもであるという宮崎さんの哲学がどの作品にも息づいているからなのだろうと思います。それと同時に、宮崎アニメを観た時にある種のノスタルジーを感じるのは、現代では“それ”がぼくたちの身の回りに存在しない空想の世界になってしまったということを意味しているのかもしれません。“それ”とは何なのかについては後述します。


先日、デンマークで計画されているという驚愕の街づくりについての記事を目にしました。読む度に羨望のため息が出ちゃいます。

街が、子どもを育てる。デンマークの首都につくられる子どものためのミニシティ - greenz.jp


(画像は同記事より)

「たくさんの子どもたちが、のびのびと育つ場所ってどんなところだろう?」そんなことを考えたデンマークは今、「子どものためのミニシティ」を首都コペンハーゲンの中心部につくろうとしています!


すごいですね。首都の中心部に子どものためのミニシティをつくる。
これは宮崎駿さんが言っていた「まず、町のいちばんいい所に子供達のための場所をつくる」という出発点そのまんまじゃないですか。宮崎爺ちゃんの妄想を行政レベルで具現化しようとする国が実際にあるなんて。

同記事より
子ども用のデイケアセンターの役割機能を「街」としてつくろうという案。大きなビルをどんと用意するのではなく、背の低い建物を街になじませるよう点々と建てるというプランは、今ある緑豊かな景観をそのまま生かす形になっています。

完成予定は2014年で、この三角形の土地のなかに0〜18歳の子ども約600人を受け容れることができます。生い茂る木々の合間を子どもたちが走ったり笑い声をあげたりしている様子は、きっとなんとも温かな光景でしょうね。


イメージ画像を見る限りではかなり近代的な建築ですが、そこに広がるであろう景色は、宮崎アニメが描くノスタルジーと相通じる世界があるように思います。完成後の風景を勝手に思い描くだけでわくわくしちゃいますね。ぜんぜん関係ない遠く離れた国に住んでいるぼくでさえも。


デンマークのこの計画は、「子ども」に対して「大人」がどう向き合うのか、という子どもへの態度が具現化したものだなあと心から感心します。これは人口の増加が社会的な課題となっているコペンハーゲンだからできることであって、少子高齢化が進む日本でそんなことができるわけがないという見方もできます。その通りです。そして、そう考えるからこそ日本は少子化が止まらないのだと思います。

子育ても自己実現もジェンダーの問題も少子化問題も教育もぜんぶ糸でつながっています。子どもへの態度ということは、つまるところ自分への態度ということです。子どもがまんなかにある街とはつまり自分がまんなかにある街なのです。…ということを言っても、たぶん日本ではほとんど通じない。何言ってるんだコイツはと思われるか、違った意図で解釈されるかだと思います。そもそも「教育」という言葉に込めるニュアンスがまるで違うのだから。

同記事より
子どもたちはレストランのキッチンでサンドイッチをつくったり、町役場でミュージカルを上映したりと、自分たちでいろんなことができるようになっています。

「ただのデイケアセンターではなく、子どもにいろんなことを”提案”する街にしたい。」そんな想いでつくられる建物たちは、子どもが自分の手や頭を使うことを促し、発想力やDIY精神を刺激する設計になっているのです。


デンマークをはじめとする北欧諸国では、子どもの自主性を重んじることが教育の根幹にあります。国際学力テストの読解力分野で世界一の成績を収め、世界中から注目されているフィンランドの教育。学費はもちろん、教科書や文房具、給食も無料であるなど、公のサポートが充実していることも特筆したいですが、すごいと思うのは「落ちこぼれを作らない」ことを重視する「平等な教育」。留年することは恥ずかしいことではなく、「ちゃんとわかるまで勉強して偉いね」とほめられるとか。授業日数は日本よりも短く、クラスは少人数で、「自分で考える力」を育むことを大事にしているそうです。

子どもの自主性を大事にする(主役はあくまでも子どもである)という共通認識が大人たちの間で共有されているならば、必然的に、子どもが真ん中にある社会が作られていくはずです。そしてそれは、国としての懐を深くしていく。

モンテッソーリやシュタイナー教育、イエナプランなど多様なオルタナティブ教育が公教育として並列に共存するオランダは、かつて「オランダ病」と揶揄されるほどの財政赤字の時期を経て、ワークライフバランスを見直し、子どもたちの「育ち」を大切にした結果、「オランダの奇跡」と呼ばれるほど豊かな国になったと言われています。
(過去記事)オルタナティブ教育

「子どもを育てることの最終的な受益者は共同体そのものである」と内田樹さんは常々申されています。子育てをしているようで、育てられているのは自分です。まっさらで好奇心旺盛で天真爛漫で大人の思い通りにいかなくて煩くて煩わしい子どもに接することで、今まで自分でも知らなかった自分が前景化してきます。子どもと向き合うことで、自分自身の課題とも向き合わざるを得ない。実体験からぼくはそのように感じています。だから、子どもが真ん中にある街とは、つまり自分が真ん中にある街なのです。


日本で語られる「教育」とは、これとほとんど正反対です。
体罰の問題がにわかに顕在化していますけれども、体罰を肯定する人たちの多くは「教育」と「指導(しつけ)」を混同している。体で覚えさせるとか規律を身につけさせるしつけとか子どものためなどと言って体罰を正当化するのは詭弁だと思います。体罰の正当化とは、すなわち自己正当化です。体罰によるしつけは、自分にとって都合のいい規律を覚えろという意味でしかなく、相手のためでなく自分のためです。自らの意思で体を動かして反復して覚えることと、他人からの暴力に恐怖する反射で覚えるのとでは、体で覚えるの意味が違います。

スウェーデンでは、1979年世界に先駆けて体罰禁止の法律が生まれました。「叩かなければならない場合がある」という現実と、「叩いてはならない」という理念。おそらく、小さい子供と向き合っているスウェーデンの大人たちは、相剋するこれらの感情を同時に引き受け、同時に生きているのではないかと思います。くり返しますが、子どもと向き合うことは、自分と向き合うことです。

「教育」とは、大人の価値観を子どもに押し付けることではありません。「教育ができるのは、学びの面白さを伝えるところまで」と平川克美さんが仰っていましたが、その通りだと思います。大人が作り上げた自分たちの社会の中でだけ通用するルールを刷り込むことは、教育とは呼ばない。それならば教育と洗脳のどこが違うのか分からなくなります。自分たちでルールを作るのが「学び」なのだけれども、現在日本で語られる「学力」とは、大人が作ったルールを覚えることを意味します。

大人が作ったルールの中だけに子どもを置こうとするのは、大人が真ん中にある街です。大人が真ん中にある街とは、自分が真ん中にいるようで、実は、もっと大きな目に見えない禁則で自分自身を縛っている街です。大人の事情、検閲、罰則、ご意見伺い、同調圧力、自己責任…そういう街は息苦しいです。現にいまそうなっている。大人たち自身が、社会の中をうまく生き延びるため既存のルールを覚えるのに必死で、新しいルールを作るために「自分で考える」力を失ってしまっている。


宮崎アニメが持つノスタルジー。現代では身の回りに存在しない空想の世界になってしまった“それ”とは何か。

子どもが本来もっている力を信じること。

子育ても自己実現もジェンダーの問題も少子化問題も教育もぜんぶそういうことじゃないかと思います。子どもが本来もっている力を信じることとは、つまり自分が本来もっている力を信じるということです。


子どもが真ん中にある街

子どもが真ん中にある街 2013.02.15 Friday [子育て・教育] comments(0)
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