体罰と武力(憲法9条に関する内田樹さんの考察より)

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
体罰の問題。ぼくのツイッターTL上では体罰否定派が圧倒的で、実際に体罰を受けてきたという桑田真澄さんの発言などが話題になっています。ぼくも、「子供のための体罰」はあり得ないと思っています。

小さい子供の「しつけ」について。どんなに柔和で温厚な人でも、際限ない子供のわがままにイラっとくるのは当たり前です。ぼくも毎日、3歳児相手に喧嘩しています。けど体罰を、体で覚えさせるとか規律を身につけさせるしつけとか子供のためとかいう詭弁で自己正当化するのは違いますね。自分のためです。体罰によるしつけは、自分にとって都合のいい規律を覚えろという意味でしかなく、相手のためでなく自分のためだと思います。自らの意思で体を動かして反復して覚えることと、他人からの暴力に恐怖する反射で覚えるのとでは、体で覚えるの意味が違います。

だから、橋下市長の体罰容認発言とか、猪瀬都知事の脳幹を刺激する(戸塚ヨットスクール出典)発言とかを聞くと、この人たちにとって「教育」とは誰のためなんだろうと思うし、子供と向き合って手を出したくなる自己に煩悶していないんだろうなと思うわけです。

おおがさんのツイートより
そもそも、暴力というのは「あってはならないもの」だからこそ、それを行使するために皆がそれを正当化しようとするのであって・・・「正当な理由があれば暴力振るっても良い」というのはただの同語反復に過ぎないよね。


世界では、体罰(教師による体罰はもちろん、親による体罰も)を法律で禁止する国々が増えているそうです。
体罰を全面禁止している国一覧 - 内閣府


ところで、体罰を容認するロジックというのは、割と右寄りの人たちの中に散見されます。そういう人たちっていうのは、もしかして「体罰」を「武力」と勘違いしているのではないかと思います。(言うまでもなく、ぼくは「体罰」とは「暴力」であると思います。)

思想家の内田樹さんが憲法9条について書いた文章があります。その中に、武道家でもある内田さんが「武」の本質について述べている箇所があります。長くなりますが、引用します。

9条どうでしょう』(ちくま文庫)より
「人を殺さなければならない場合がある」ということと「人を殺してもよい条件を確定する」ことのあいだには論理的関係はない。
なぜなら「人を殺してもよい条件」を確定した瞬間に、「人を殺してはならない」という禁戒は無効化されてしまうからだ。「人を殺してもよい条件」を確定してしまったら、あとは「人を殺したい」場合に「そのためにクリアーすべき条件」を探し出すことだけに人間は頭を使うことになるだろう。人間がそういう度し難い生き物である、ということを忘れてはならない。
「人を殺さなければならない場合がある」というのは現実である。「人を殺してはならない」というのは理念である。この相剋する現実と理念を私たちは同時に引き受け、同時に生きなければならない。

(中略)

自衛隊は「緊急避難」のための「戦力」である。この原則は現在おおかたの国民によって不文律として承認されており、それで十分であると私は考える。自衛のためであれ、暴力はできるだけ発動したくない、発動した場合でもできるだけ限定的なものにとどめたい。国民のほとんど全員はそう考えている。これを「矛盾している」とか「正統性が認められていない」と文句を言う人は法律の趣旨だけでなく、おそらく「武」というものの本質を知らない人である。
「兵は不詳の器にして、君子の器にあらず。」
これは老子の言葉である。
「兵は不詳の器にして、君子の器にあらず。已むを得ずして而して之を用うれば、恬淡なるをを上と為す。勝って而も美とせず。之を美とする者は、是れ人を殺すことを楽しむなり。夫れ人を殺すことを楽しむ者は、則ち以って志を天下に得べからず。」(第三十一章)
私なりに現代語訳すると老子の言葉はつぎのようになる。
「軍備は不吉な装備であり、志高い人間の用いるものではない。やむをえず軍備を用いるときはその存在は自己目的化しないことを上策とする。軍事的勝利を得ることはすこしも喜ばしいことではない。軍事的勝利を喜ぶ人間は、いわば殺人を快とする人間である。殺人を快とする者が国際社会においてその企図についての支持者を得ることはありえない。」
武力は、「それは汚れたものであるから、決して使ってはいけない」という封印とともにある。それが武の本来的なあり方である。「封印されてある」ことのうちに「武」の本質は存する。「大義名分つきで堂々と使える武力」などというものは老子の定義に照らせれば「武力」ではない。ただの「暴力」である。
私は改憲論者より老子の方が知性において勝っていると考えている。それゆえ、その教えに従って、「正統性が認められていない」ことこそが自衛隊の正統性を担保するだろうと考えるのである。
自衛隊はその原理において「戦争ができない軍隊」である。この「戦争をしないはずの軍隊」が莫大な国家予算を費やして近代的な軍事力を備えることに国民があまり反対しないのは、憲法九条の「重し」が利いているからである。憲法九条という「封印」が自衛隊に「武の正統性」を保証しているからである。私はそのように考えている。

(『9条どうでしょう』P30〜32 憲法がこのままで何か問題でも? より)



1979年に、世界に先駆けて体罰禁止の法律が生まれたというスウェーデン。1960年頃までは、スウェーデンでも体罰支持派が過半数以上と体罰に肯定的な風潮があったが、この法律の制定をきっかけに、今では社会的にも「体罰はいかなる理由があっても許してはならない」という考えが根付いているそうです(出典)。

これって、スウェーデンの親たちが、法律という「重し」を自分たちに課したということですよね。体罰を「封印」することで、大人たちの意識も変わっていったという。「叩かなければならない場合がある」という現実と、「叩いてはならない」という理念。おそらく、小さい子供と向き合っているスウェーデンの大人たちは、相剋するこれらの感情を同時に引き受け、同時に生きているのではないかと思います。

相剋することがらを引き受け、矛盾と付き合い続けながら生きる。白黒をはっきりさせることよりも、よっぽどしんどくてタフな作業です。その中を生きることが、ひょっとしたら大人の責務なのではないか。大人になりきれないぼくはそう思うのです。


体罰と武力(憲法9条に関する内田樹さんの考察より)

体罰と武力(憲法9条に関する内田樹さんの考察より) 2013.01.12 Saturday [妄想] comments(12)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY
こえり (2013.01.16)

こんにちは。
きょうトイレの中で(場所はどこでもいいって!)
ぶつぶつ批判する言葉を考えながら、でも考えたその先から「自分はじゃあどうなのさ?」と自分の声が聞こえて、「そうですね・・」(すみません。。。)とつっこんでいました。

「どうぶつは せいぞん の きき をかんじる こと がおおく
きょうふ をかんじるほど、いかり をかんじるじかんも おおいらしい。
すべてのこうげき は たすけをもとめるこえ ということばもある。
そうか。
こうげきせいがたかくなってるときというのは
それだけ こわくて たすけてほしいとき
なのかもしれないんだ。
こわい。たすけてほしい。ただ、それだけ。」

自分の日記に書いた(まだ下書き保存中)の一部です。
なんとなく、このブログを読んでひっぱり出してみました。

あんまり理性的であろう、あろうとしすぎても疲れちゃうけどね。
悪いことしたなーと思ったら謝れる素直さがあれば、どうにかなることも多いんだろうと思うけど、実はむずいなーとか。

山やま (2013.01.18)

素直に謝ることってほんとに難しいよね。
たったそれだけのことができないために、どれだけ無用な諍いが生まれていることか…。自分の間違いを認めたくないから、どこかから理由を引っぱってきたり、逃げ先としての基準を拵えたりして「論理的」にふるまってみたりして。そういう心理状態のときは、他者に対してこうげきてきになる傾向がある。たしかに、こうげきせいがたかくなってるときというのは、じぶんのまちがいをみとめるのがこわいということかもしれない。自戒をこめてそう思います。

こえり (2013.01.19)

「自分が間違っている=自分は人から受け入れられない、仲間はずれになる」、そういう状態はヒトという生き物にとって、ほんとうーーーに恐いこと、なんだと思う。
現実にそうなってしまうこと(本当に仲間はずれになること)もそうだし、そうなってしまうかも。。って想像することも、心底恐ろしいことなんだと思う。

ひとりで自分に必要な栄養を獲得して、食べ物を手に入れて、ってことも物理的に無理だし、精神的にひとり、って感覚も普通の人間には耐え切れない。

無視、っていうのは いじめの常套手段だけど、ダメージくらうから、無視って。「人にうけいれられない わたし」、というのは、対集団であれ、一人の人からであれ、すげーつれえものだいねー。

体罰のニュースは、詳しく追ってないんだけど、しばらく生徒募集の高校を打ち切る、って橋本にびっくりよ。詳しく知らないんだから、何も言うなってってなっちゃうけど、外側にいる人間が何でそこまで権限持てるっていうか、持とうとするのか、
なんで内側にいる、いま実際にそこの場所にいる人たちで変えていこう、変わっていこうとする力を信じてくれないのか、って。
マジで論語読んだ方がいいんじゃね?って気がするー。

孔子って戦国時代に政治家になりたかったけど、うまくはいかなくて、って感じの人で、でも後に、儒教の教えっつーのが、国家イデオロギーとして、人民の支配に利用したいという理由で、都合のいい解釈として伝えられるようになっちゃったんだって。

論語と言うのは、孔子が書いた本じゃなく、弟子たちが伝え聞いた孔子の言葉をまとめたもので、その言葉の意味を後の人たちが、上のものに従うように、という意図でその解釈を伝えたりなんだリ。
でも、中国って、国の名前そのものが何回も変わったりして、でもそのときトップに立った人間が、それ以前のものを全部焼き捨ててしまう、というようなことがあって、
中国の人が、本を読みたくて、わざわざ足利まで足を運んだりするそうな。
足利学校のパンフを見ると、宋だの明だの元だの、そんな時代のがー!とびっくりする本が保存されてんだよー。
でも明治時代に一回売っぱらおうとしちゃったんだけどねー(笑)

孔子は尊敬されてたから、弟子に教育者として尊敬されたから、弟子たちが集まってきて、その言葉を後に残ったわけで、
教育っていうのを曲げて、捻じ曲げて捉えると、都合のいい解釈で捻じ曲がっちゃう。
恕(じょ)というのが、大事とされていて、すなわち 思いやり、って意味なんだけど、じゃあ思いやりってなんだ?となると、むずい。ほんとうは。

山やま (2013.01.25)

体罰って、暴力によって他人を自分のコントロール下に置こうとする行為だと思うので、橋下市長がやろうとしていることは体罰の根本にあるマインドセットと変わらないと思う。もともと体罰容認してた人だし。

中国の歴史をひも解いていくのもおもしろそうだね。論語とか孔子とかぜんぜん知らないので…宗の時代から共産主義国家までぜんぜん違う国のかたちを変遷しているんだろうなと、宗の時代の中国に焦点をあてて日本を論じる『中国化する日本』という本がおもしろそうだった(序盤だけ読んで返却期限になったので図書館に返しちゃったけどまた読みたい)。

こえり (2013.01.26)

でも考えちゃった。やっぱりちゃんと自分からニュースというか起こってることをちゃんと知ろうとしないで、書くべきじゃあないのかなぁと。
このときはそう思ったけど、わたしは橋本って人が好きじゃない ってフィルターが掛かったまま、たまたま目にしたニュースを見て、なんか決め付けちゃったなー。。と思った。
ほんとにほんとにこの事件に対して関心を持っての上で書いた、思ったことなら
意味があるきがするけど、そうじゃないなぁ、って。

論語もそうだけど、その言葉を読んで、聞いて、どう受け取るかというのは、そのとき、その人しだいなんだよね。
ポップスとかを聴いたとき、どう感じるか、どう感想を持つか、というのが人によってまちまちなのと同じ。
すごく心に刺さった人もいれば、通り過ぎていくだけのものに感じる人もいる。
一行の歌詞をポジティブに捉える人もいれば、ネガティブに捉える人もいる。
おもしろいし、むずかしいやあ、ひとのこころはー。

山やま (2013.01.26)

世の中で起こっている事象の全てを知るなんてことは物理的に不可能なわけで、もともとフィルターは誰にでもかかっているものなんだよね。公正中立なんて謳うのはウソっぱちで、自分にフィルターがかかっていることを自覚しているかどうかの問題だと。
橋下市長の体罰問題に関して、たとえば100の事実があるとして、その100全てを網羅した上で論理立てしていくという態度はたしかに誠実だと思う。でもたぶんそんなことをしている人はほとんどいない。橋下氏本人でさえも20(これも当て推量な数字だけど)くらいしか分かってないと思う。環境や立場が違えば見えてこないことは必ずあるし。それに、仮に100を知ったとしても、そこから導かれる答えがひとつとは限らない。こえりさんの言う通り、その人しだい。まず大前提として、そういうことを踏まえているかどうかだと思う。
現場を知らない奴に資格は無い、100知らない奴は発言するな、っていう橋下氏お得意のロジックは、日本人の多くが陥っている「無謬主義」と結びついて、相手が発言することをためらわせたり、考えるちからを奪う戦法だよね。たしかに当て推量だけでどうのこうの言うのはあまり好ましくないかもしれないけれども、井戸端会議レベルでの会話と、記者会見や報道での発言を同じレベルで比べるのは無理がある。ふだんの日常会話から100知らないと何も言えないなんてことになったら気持ち悪いわけで。どれだけパブリックな場であるかによるんじゃないかな。パブリックな場に近づくほど、できるだけ100に近づくようにするっていうことだと思う。ここはぼくが好き勝手なことを書いているだけの個人のブログなので、ぜんぜん、なんでも思ったことを書いてくれていいのです。
ぼくなんかは、100全てを網羅した上で論理立てしていくことで導かれる答えよりも、最初にピンときた直感のほうがだいたい正しいと思ってるんだけど、まあたぶんそれもフィルターがかかった考えだと思います。

こえり (2013.01.27)

無謬主義、はじめて知りました。その言葉。
そういう傾向、自分にあるなぁ。。。
女性が陥りがちなんじゃないかなって。「これこれこうでしょ!」(だから謝れ)「あなたはこうだー!!」(まちがってんのは あんだだー!!!)ってね(笑) 
女はこれだから・・・(感情で動いて、感情でものを言うからイヤになる)的なことは、さんざん思われてきたと思うけど、
そうやって攻撃されてきた(と感じている)男性が、社会で、攻撃的になってやるー、誰か駄目で間違ってるか、攻め立ててやるー、とかね、思ってんじゃないか、とか(笑)

>パブリックな場に近づくほど、できるだけ100に近づくようにするっていうことだと思う。

疲れるね。。こんな疲れるなら、出世したくねーや、と思うのは、、正直な気持ちだにゃー。
ちゃんと調べてないんだけど、責任 ってなんだろな、って思って、かたかた調べてたら、責 って刀の柄の部分らしい。(ちがうかもよ、適当に調べただけだからー)
そこ(柄)はちゃんとしてないと、刀の刃の部分がすぽーんと飛んでったり、切ろうしても使えなかったりする。
刀をつかうからには、責任持てよ、ってことかしりゃ。
。。刀でコミュニケーションするより、別のことしたいす。

山やま (2013.01.28)

そうかなあ、男のほうが無謬性への信頼というか依存が大きいように思うけどなあ。男らしさ=頼れる=間違わない、みたいなマッチョ信仰というか。原発がずっと続いてきたのも、安全神話=事故は起きないという無謬性への信仰だったわけで、それを支えてきたのはいかにもマッチョな男性社会の構造だと思うのです。

ぼくも、そういうのはすごく苦手なんだけど、やっぱり以前はそうあらねばならないみたいな観念はあって、はじめ子供ができて父親になるのが怖かった。「頼れる父親」みたいなものになれる自信がなかったから。まあでも実際に生まれて来た子供を目の前にすると、そんな観念的なことを考えるひまもなくて、「父親らしさ」なんてどーでもいいやあと思ったら、すごく楽になった。

だからまあ、刀でのコミュニケーションっていうのは、ぼくも興味ないです。向いてないから。刀を使う人もいれば、筆を使う人もいるし、花とか豆を使う人もいるってことでいいよね。

こえり (2013.01.29)

どーなんだろーねー。
>男らしさ=頼れる=間違わない
そういう風にすべき、っていう社会のジェンダー意識はあるだろうなぁ。
でも夕方放送してたドラマで「男の子なんだからしっかりしなさい。泣かないの」って学校の先生が生徒に言う台詞に ぴくっ とした。
何で泣いてたのか、知らないけども。ま、でも「男の子だから」はいらないよ。
80年代のドラマだけれども。

責 は漢和辞典で調べたところ、貝はお金を表す意(昔中国で、子安貝という貝が貨幣として流通してた)上のつくりは 鞭でせめるという意、
「金銭を取り立てるためにするどくせめること。」
だそうれす。
貝が元はお金として使われてたゆえに、貝という つくり が入ってる漢字は、お金関連みたいっす。
貨幣って ゲーセン で使えるコインみたいなもので、そこでは有効だけど、人間が取り決めただけの決まりなんだよね。(共同幻想というらしひ)紙とか金属とか食べられないし。
すっごく便利なものであることは確かなんだけど(お金)「これをもっていると、何か価値のあるものと交換できるかもしれない」程度(程度って言っていいのかわかんないけど)のものなのかなぁ、本来は。

山やま (2013.01.29)

安倍首相が所信表明演説で強調していた「強い日本」とかいう標語も、まさにそれだと思うんだよね。嘘こけって感じで、すごく寒々しい。

貨幣のしくみっていうものを考えていくと、おもしろいよね。貨幣自体に価値があるというよりも、あくまでも交換するための媒体であって、それが流通するためには貨幣に対する「信用」がベースになってるわけで。こんなもの価値がねーやというコンセンサスが浸透しちゃえば、只の紙切れになっちゃうし。
「金融テクニック」とかって、いんちきだよな〜とさいきん思います。カードローンとかって、借金を先送りしてるだけだもんね。銀行は貸し付けの利子で稼いでるんだろうけど、信用金庫はもともと「講」(無尽講)という地域の互助会的なものからはじまったという話を聞いたことがあります。小さいところは淘汰されて吸収されてメガバンクが残るっていうのも、なんだか。

こえり (2013.01.30)

本当になーんも知識のないところの、安倍さんの顔を見た第一印象って、男性的な感じしないんだよねー。無理して男性的に(安倍さんが思うところの男性的な像)なろう、あろうとするから、なんかどーだろう?って感じになっちゃうのかも。
だから無病主義(変換間違えたよ、でも病んでないもん!って主張したがるのもまた一理かも)になっちゃうのかな。疲れてませんか?って感じになるな、ただの友達とかだったら。

金融のあり方って言うのも、国のあり方と同じなのかなぁ。
前、卑弥呼の話してたと思うけど、その頃って、ひとかたまり(クニ)の範囲なんて ちいさいものだったはず。でも大和王権ってものが出てきて、日本 って国になるんだよね。
卑弥呼が生きてた時代って 中国では倭国っ呼ばれてたはずだけど、自分たちの国に名前付けたのかなぁ。邪馬台国って、中国のひとが名づけた名前なのかな、とか。音として「ヤマタイコク」ってもしかして名乗ったかもしれないけど、字は当て字なはず。文字ってないはずだし。この時代の日本。
「邪な馬」ってなんかねー(笑)他の国のことを低く見たいから、そういう当て字したんじゃない?と。
古墳時代あたり
から、王の権力とか権力者の存在っていうのがでかくなってくのかな、と。

講ってウィキペデアで調べたら、「同一の信仰を持つ人々による結社である。」だってー。
社会という言葉も、「お祭りの日に、共同体の人々が鎮守の森に集って共同体のことを協議し、いろいろなことを相談すること」、なんだって。
信仰、暮らすこと、共同体 がちゃんと目に見える感じ、さわれる感じ。
「杜で会う」から、社会。

山やま (2013.01.30)

「杜で会う」から、社会。

うわ、それすごいおもしろい。

>「お祭りの日に、共同体の人々が鎮守の森に集って共同体のことを協議し、いろいろなことを相談すること」=信仰、暮らすこと、共同体 がちゃんと目に見える感じ、さわれる感じ。
なるほどなあ。納得だなあ。講っていうのはたぶん目に見える、自分たちの手の届く範囲での信仰だったんだと思う。そこから派生した無尽講っていうのも、だから相互扶助的な色合いがあったんだろうなと。銀行っていうのはもっとバーチャルで、暮らすこととか共同体を飛び越えて、貨幣への信仰だけで成り立っている感じがするんだよね。メガバンクなんていうのはグローバリズムの権化みたいなもので、共同体という概念は無いものね。

TPP問題の本質っていうのも、グローバル経済(多国籍企業の利益)とローカル経済(国内の小さな共同体)のどちらを大事にするかという選択だと思う。首相の言うように「世界一を目指す」んなら参加すればいいけど、無理でしょう。というか、貨幣だけに価値を置いて競争してきた戦後日本に遺されたのは虚しさだった、という体験を通過してきたわけで。時代錯誤だよ、と思う。










url: http://yamachanblog.under.moo.jp/trackback/498
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...