戦後レジームという欺瞞

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2012年9月26日、自民党の総裁に安倍晋三氏が選ばれました。

ここ数週間、テレビは総裁選の話題ばかりで、まるで自民党の総裁が次期首相のような扱いで報じられています。でもそれは次期選挙で自民党が与党になることを前提としている話であって、ずいぶんと有権者をバカにしてるなあと思います。テレビだけを見ていると自民、維新、民主ぐらいしか選択肢がないように思えてしまうけれど、これらはみんな新自由主義路線です。みんなの党も含めて、方向性は大して変わらない。いまぼくたちは小泉改革時代のツケを支払わされているわけですが、同じ轍を踏もうとしている。

その対抗軸が無いわけではありません。新自由主義に警鐘を鳴らし、対案を提示する政治家はちゃんといる。共産党や社民党もそうだし、民主党から離党した議員の多くがそうです。マスメディアが、第三の道として国民の生活が第一(生活党)を取りあげないのは、国民から敢えて選択肢を奪おうとしていると邪推されてもおかしくないです。維新が第三極だなんて嘘っぱちもいいところ。

マスコミはなんでも既定路線で語るのが好きです。自分らはなんでも知ってる風にちょっと高い所から語りたがります。自民党の劣化(右翼集団への変質)を一般の人はなんとなくでも嗅ぎ取っていると思うんだけど、マスコミだけはまるで何も無かったかのように党内の投票レース分析などしてる。ほんとうは答えが分かっていることなんて何もないんですよ。自民党が与党に返り咲くかどうかだって、選挙をしてみなければ分からない。でもマスコミは既定路線で語る。

問題は、そういうマスコミの既定路線「気分」に視聴者が簡単に流されちゃうことです。映像の「気分」喚起力は侮れません。ぼーっと眺めているとなんかそういう「気分」になってくる。どうせ次は自民党だから選挙になんか行っても無駄、と無党派層が思ってくれるのが既成勢力にとってはいちばんありがたいわけです。ちなみにこの場合の既成勢力っていうのは、自民党っていうか、天下り先を確保したい官僚機構のことです(彼らにとって自民党は都合がいいというだけの話)。

ぼくらは何のために選挙をするかというと、自分(と家族)の生活を守るためです。つまらない美意識とか誇りとか、あるいはテレビ画面から流れてくる「気分」とかはどうでもよろしい(そういうのが選挙の争点になるのはおかしい)。生活を守るために、社会のしくみというものを俯瞰してロジカルに考えることも必要です。

安倍さんに対してはさっそく批判的な意見がたくさん出ているようです。ぼくも否定的ですし、次期首相だなんて認めたくありません。であるからこそ、なんとなくダメという理由じゃなくて論理的な批判でなければ意味が無いと思います。安倍さんはダメ、またお腹こわす。じゃなくて、安倍さん(に象徴される自民党)のどういうところがダメなのかを、少なくとも選挙までには整理しておきたいですね。そうすれば、じゃあ維新はどうなのか、生活党はどうなのかってのも見えてくるのでは。



で、安倍さんは政治家として何を言ってるのか。
少し古いですが、安倍さんの公式サイトに掲載されている基本政策を見てみます。

■外交

「外交」(2009年06月12日)安倍晋三 公式サイトより
日本外交の基軸は日米関係であり、「世界とアジアのための日米同盟」が外交の要であることは言うまでもありません。

安倍さんは今回の総裁選うでも「日米同盟の強化」を訴えていましたので、日米同盟を基軸にしていることは間違いないでしょう。と同時に、日米同盟を基軸にした自民党議員の多くは「対米従属」路線の政策を行ってきたことは歴史的な事実として記憶にとどめておきましょう。

近年の例で言うと、アメリカ側の要望である年次改革要望書の通りに労働者派遣法改正、郵政民営化といった規制緩和を行った小泉改革が記憶に新しいです。「自分らしい多様な働き方」を選択できるはずだった労働者派遣法の改正が、結果として派遣切りによる格差拡大を招いたことは多くの人が実感しているではないでしょうか。

また、政権交代後の鳩山内閣は、長年続いてきた「対米従属」路線からの脱却を目指していました。年次改革要望書を扱う日米規制改革委員会の廃止、東アジア共同体構想、「最低でも県外」宣言といった事実は、ことごとく「対米自立」路線を示しています。その結果アメリカの怒りを買い失脚させられた、というのは推測ですが、その後の菅内閣が年次改革要望書と同様の日米経済調和対話を開始させ、野田内閣がTPPへの参加に邁進しているという事実は、「対米自立」路線で潰された鳩山を反面教師にして、民主党執行部が「対米従属」路線へと舵を切ったことの表れであり、であるから小沢一郎をはじめとする生活党の議員は離党したのだ、と考えると筋が通ります。

アメリカからの圧力が日本の政治を大きく動かしているという事実については、孫崎享さんの『戦後史の正体』がとても興味深いです。ご一読をおすすめします。

また、タカ派のイメージが先行する安倍さんですが、首相時代には日中関係を改善させたという見方もあるようです。

「外交」(2009年06月12日)安倍晋三 公式サイトより
一方、私は総理大臣に就任して初の訪問国として中国を選びました。「政冷」と言われていた日中関係の打開が目的でしたが、両国が経済、環境、エネルギー問題などでお互いの協力を必要としていることは明らかです。日中首脳会談で「戦略的互恵関係」を追及することで合意しました。


宋文洲さんのツイートより
それが日中のズレだ。中国が嫌っているのは日本政治の一貫性のなさだ。安倍さんは前回日中関係を建て直した功労者。@sakurabanaoya どちらも対中強硬派ではないですか?“@sohbunshu: 安倍さんに1位になってほしかったが、石破さんも悪くない。


尖閣諸島をめぐる対応に関しては強硬路線を堅持している安倍さんですが、小泉政権下で冷え込んだ日中関係の仕切りなおしとして2006年に安倍首相・胡錦濤主席の首脳会談で「戦略的互恵関係」が打ち出されたという事実も踏まえておきたいです。(それがアメリカからの指示のもとであったのかどうかは分かりません。)


■教育

「教育再生」(2009年06月12日)安倍晋三 公式サイトより
教育再生を内閣の最重要課題と位置づけ、自由民主党はもちろん、多くの良識ある国民にとって60年来の悲願であった教育基本法改正を成し遂げました。同時に教育職員免許法、学校教育法、地方教育行政法の教育3法の改正も実現しました。

教育再生の目標はすべての子ども達に高い学力と規範意識を身に付ける機会を保障することであり、新しい教育基本法には「公共の精神」「道徳心」「国や郷土を愛する心」「職業教育・環境教育」などが盛り込まれました。

(中略)

まず、生徒児童の基礎学力向上を目的とし、小中学校とも主要科目の授業時間が約1割増加しました。地域間の教育格差解消も重要な柱であり、全国学力・学習状況調査の結果をもとに、各教育委員会が改善計画を策定、地域間の格差解消のために交流を実施し、全国のレベルアップを図っていくことになります。

また、真の国際人を育成するためにも国旗「日の丸」、国歌「君が代」の教育指導に力を入れる必要があります。教育現場では単に「国歌は君が代です」とだけ教えて合唱もせずに授業を終わらせる無責任な教師がいるのも事実です。そこで今回の学習指導要領では「君が代を歌えるようにする」と書き改めました。サッカーのワールドカップで勝ったチームのサポーターは声高らかに国歌を唄います。日本も同じように誇らしく「君が代」を合唱しようではありませんか。

さらに規範意識や他人を思いやる心を育むために道徳教育を充実させます。生徒児童が感動を覚えるような教材を開発、活用することになります。生命の尊厳、社会への主体的な参画などの重要性についても教えることになっています。

このほか、平成24年度からは中学校で男女とも武道が必修となります。体育の授業で剣道、柔道を取り入れることは、武道には日本の伝統文化が息づいているからです。


ぼくが自民党にいちばん違和感を感じるのは、この教育観です。
教育が国の未来をつくる基本だという前提には異論はありません。その通りだと思います。しかし往々にして混同されるのですが、しつけと教育は異なるものだと思います。自民党が主張している「教育」とは、しつけ的な要素が色濃く感じられます。これは維新の会を率いる橋下徹氏の教育観にも共通することなのですが、(なんでも知っている大人が)単一の価値観を教授するという構図なのです。

現行の教育基本法は、安倍政権時の2006年12月22日に公布・施行されました。安倍さんの説明によれば、「公共の精神」「道徳心」「国や郷土を愛する心」「職業教育・環境教育」などが盛り込まれたそうです。その具体的な策として、授業時間を約1割増加、「日の丸」「君が代」の教育指導、武道必修化などが挙げられます。安倍さんはこれらの教育が「美しい人づくり」になると位置づけているようです。

「公共の精神」「道徳心」「国や郷土を愛する心」。どれも耳障りがよく、美しい言葉です。それらの言葉だけを聞いて反対する人はいないでしょう。じゃあなぜぼくは違和感を覚えるのか。それらの言葉を使う人たちが、実際にやっていることはぜんぜん美しくない、という事象をいくつも目にしてきたからです。

「公共の精神」や「道徳心」という言葉は「自己責任」という言葉と結びつきます。それだけならまだいいのですが、「自己責任」論を強調する人の多くは、「自己責任」を自分のこととして内省するためではなく、他人を評価し断罪するために使っているのです。「公共の精神」や「道徳心」が単一の価値観となり、社会共通の価値軸となったとき、人は人から叩かれないように、出る杭になることを避け、一見おとなしく良い子を装いながら裏ではチクり合うような息苦しい社会になることはおおいに予想できることです。「公共の精神」や「道徳心」は、その価値観から外れる人に対して、言葉の(あるいは無言の)暴力となり追いつめることになるでしょう。

そのように単一の価値観が尊重される社会は、経営者にとっては管理のしやすい社会であると言えます。その反面、独創的なイノベーションは生まれにくい土壌であるとも言えるでしょう。橋本市長が行政を経営になぞらえる結果として、単一の価値観を尊重するという方向へ向かうのは必然ともいえます。

ここで大きく違和感を覚えるのが、単一の価値観として「公共の精神」や「道徳心」が挙げられている点です。たしかにそれらは大事なことだと思いますが、そういったものが、黒板や教科書に書いてあることのように画一的に教えられると考えることに対しては大きな危惧を抱かざるを得ません。

nakanemisaさんのツイートより
改悪された教育基本法に加えられた「公共の精神を尊び」という文言。この「公共」の捉え方がくせもの。自民党が言いたい「公共」とは、体制に柔順で、世間体を重んじ、個人の自由な発言を制限するようなイメージ。本来の「公共」とはまったく意味が違う。

本来の「公共」は、自分たちに主権があることを自覚し、自分たちの主張をもって話し合って政策を決めることができるという、民主主義の根幹になる姿勢のこと。思想や発言を制限しようとするのは、そのまったく逆の発想。民主主義の本質がわかってない。


これは、自民党が今年発表した改憲案にもまったく共通する考え方です。(次の項目で書きますが、安倍さんは改憲を基本政策のひとつに挙げています。)

「美しい国」とは、一律の価値観のもとで一糸乱れぬ連帯を人々が持っている国ではなく、多様な人々が多様な価値観を持って多様な文化が混ざり合うことを許容することができる国のことだと、ぼくは思います。

ましてや「国や郷土を愛する心」というものは、本人の経験から実感として得られる以外に、教え込むことなんてできない類いのものだと思います。「国を愛する」と「ふるさとを愛する」は似て非なるものです。ぼくらが実感できるのは「ふるさと」でしょう。「国」という言葉は漠然としています。ふるさとの拡大版と捉えることもできるかもしれないし、政府を指すかもしれない。文脈によっていかようにでも顔を変えることのできる言葉です。「国を愛する」という言葉は、それがどういう文脈で使われているかを見る必要があります。


オランダのオルタナティブ教育に代表されると思いますが、北欧あたりの子育てや教育現場では、「子供の自主性」が最大限に尊重されるそうです。モンテッソーリやシュタイナー教育の考え方の基礎もそこにあります。子供のやりたいようにやらせることで、子供自身が主体的な立場から学んでいく。大人は余計な口出しをせずに、環境づくりをしてあげ、時にはそっと背中を押してあげる。自民党の教育観とは、「教育」に対する考え方がまるで違うのです。

じこぼうさんのツイートより
子どもの育て方が良かったか悪かったかなんて誰にもわからないし、親が考えるチンケな意図などは常に裏切り続けるのが、子どもという存在であると思う。「親学」などという理解不能な代物に群がる人たちは、「こう育てたらこうなる」という確かさが欲しいのかも知れない。

「こう育てたら必ずこう育つ」などという確かさなど、子育てにはない。触法少年の親は市中引き回しにしろなどと吠えていた人の子どもが人殺しになることもある。そして、あえて「親になる覚悟」というものがあるとすれば、子どもにどれだけ意図を裏切られ続けても彼を許容し続ける覚悟なのだと思う。


「しつけ」と言いながら実は自分(親)がラクをしたいだけだっていうことはよくあります。ぼくも多々あります。しょっちゅう鬼を召還してるし。それから、「しつけ」が子どものためであるという顔をしながら、実際は親の世間体を守るためになっているのではないかと思うことが多々あります。子どもと向き合って子育てしている人ならば、本当の意味で「しつけ」をしたいと思っている親ならば、おそらくそう感じたことが必ずあるはずです。子どもと向き合うということは、自分と向き合うということです。それが教育問題の核心だと思います。

教育問題を語ろうとするばらば、まず自分が「教育」の出発点に立っているのかどうか、足下を見つめることから始めないといけません。自分の足下をふり返らずに、子どもを教育しようとするのは、子どものすることです。子どもを教育する立場に立とうとするならば、ぼくらは大人にならないといけません。

沼崎一郎さんのツイートより
絶対に操ろうとしないこと、それが相手を人間としてリスペクトすること。子供も人間としてリスペクトし、操ろうという誘惑に負けず、子供を「自由」にすること、それが「教育」の出発点。


子どもが自分の好奇心を自由に広げることができるように、後ろから環境整備をしてやることが親の役割なんじゃないかと、息子が2歳になったいまはそう思います。でもこれが存外に難しいんですね。やっぱり今まで自分が生きてきた価値観とか常識とか、あるいは時間とか云うものさしが働いてしまうから。沼崎さんの言うように、それは「誘惑」だと思うんです。子どもの目線で、いま何が大事なのか、をいつも常に確認し直さないといけない。それくらい、大人はしがらみの中に生きているものなのだと実感します。

子どもは生まれた時点ですでに親の尺度を超えている。だから子育ては最高におもしろい。最高にクリエイティブ。子どもとあそぶことで、子どもにふり回されることで、凝り固まった大人の脳みそがほぐされます。だから、子どもは子どものままで存在することが、それ自体が唯一無二で、貴重なのだと思います。


■憲法

「憲法改正」(2009年06月12日)安倍晋三 公式サイトより
戦後レジームからの脱却を成し遂げるためには憲法改正が不可欠です。

(中略)

安倍内閣は憲法改正のための手続き法である国民投票法を成立させました。保守合同によって昭和30年に自由民主党が結成されましたが、その原点は自主憲法の制定でした。これまで憲法改正問題が放置されてきたのは残念ですが、国民投票法の成立によって大きな一歩を踏み出しました。今後も憲法改正に向けて全力で取り組みます。


現在の憲法はアメリカから押し付けられたものである。時代環境の変化にそぐわない内容になってきている。もっともな話です。憲法を改正するということ自体には正当性があると思います。実際、諸外国の多くは何度も憲法改正を繰り返しているわけだし。ただ日本の場合は憲法改正イコール9条改正みたいに語られることが多いので、憲法改正という言葉にアレルギーを感じる人も多いのだと思います。

当たり前の話ですが、変えていい部分と変えてはいけない部分があります。

今年、自民党が改憲案を発表しました。
日本国憲法改正草案 - 平成24年4月27日 自由民主党

条文を詳しく読み込むほどの知識がないので、分かりやすく解説されている方のツイートまとめをリンクしておきます。

「国民の基本的人権は国家が自由に剥奪できます」という自民党改憲案のトンデモ内容まとめ - Togetter
【個人の尊重の否定】公民の先生が呆れかえる自民党改憲案の問題点の凄まじさ【立憲主義の否定】 - Togetter
(追加あり)立憲主義を知らない自民党「憲法起草」委、事務局長、「礒崎陽輔」議員に関する法律関係者のコメント - Togetter

指摘されているのは、9条云々という以前の、憲法の根幹に関わる部分です。主権は国民にあるという立憲主義そのものを覆すようなことを自民党は言っているわけです。憲法には国が守る規定ばかり書いてあって、国民の義務について書かれていない、と国会で述べた議員もいたそうですが、そもそも憲法が何であるかを分かっていないようです。憲法と法律は違います。法律は国民が守るものですが、憲法は国家が守ることを規定したものです。国家権力などと言うと、黒くて悪い人たちというイメージを連想するかもしれませんが、そうではなくて、そもそも国家とは権力を持っているものです、良い悪いではなく構造上の問題として。だから権力が暴走しないように抑制するものが憲法であるはず。主権はあくまでも国民の側にあります。

上記Togetterより
立憲主義とは為政者による権利侵害を防ぐために国民が国家権力に縛りをかけるという考え方です。


ところが自民党は、「美しい国」を作るために、国民が守るべき規定ばかりを憲法に盛り込もうとしています。まるで主権が国民の側から統治する側へと移行したかのような考え方です。これは彼らの教育に対する考え方とも相通じます。非常に傲慢だと思います。

上記Togetterより
自民党改憲案の第102条を見て仰天。「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。」 実質的にはこれは9条の変更より大きい。ほとんど憲法の精神を180度転換するものだ。ていうか自民党の国会議員はこの辺りの意味合いをまるで分かっていないのではないか・・・?


上記Togetterより
「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」にすり替わっている点に注目してもらいたい。「公共の福祉」とは人権相互の矛盾衝突を調整するために認められる衡平の原理のこと。この公共の福祉の概念があるからこそ、多様な社会が構成されているといえよう。ところがこれが「公益及び公の秩序」となると話が全く変わってくる。「公益及び公の秩序」だと、端的に言えば国家や政権政党の設定した利益や秩序を意味する事になる。つまり国家や政権政党に逆らう者、都合の悪い者は一切の権利を剥奪しても合憲であるという事になるのだ。


北朝鮮みたいな国になりそうですね。
憲法というものの意味を分かっていない人は意外に多いと思います。法律の親玉くらいにしか捉えられていないのではないかと。ぼくも数年前に或る書籍で知るまではそうでした。まず基本前提を押さえていなければ、その後に続く議論はあらぬ方向へ行きかねません。この辺りは池上彰さんあたりにしっかり解説していただき、きとんと衆知されてほしいです。

ところで、安倍さんにとっての本丸が9条の改正にあり、徴兵制にあることはよく知られています。

布施剛さんのツイートより
安倍晋三が津波に流された南三陸の職員を「国民の誰かが命を懸けなければ日本を守ることができない」と褒めていたが、命でなく論理と権謀を駆使して国民の生命を守るのが政治家だろう。このように死を美化する政治家は非常に危険。美化する前に政治家として職員の命を守れなかった事を恥じてほしい。


安倍さんの「美意識」がよく表れているエピソードだと思います。お国のために命をかけるのが「美しい人」だと言いたいのでしょう。南三陸の職員には頭がさがる思いです。しかし、津波のその刹那、ほんとうに「日本」を守るだなんてことを思っていたでしょうか。統治する側がその種の言葉を使うとき、「お国」とは権力を指すことになります。そんなもののために死ねるかっての。ぼくらが命をかけることのできるのは、顔の見える身近なたいせつな人だけです。

神直子さんという方が、元日本兵の方々に過去の体験を語ってもらったインタビュー映像があります。

07-07. そういう話には乗らないでほしい―元日本兵の証言02 - ブログメンタリー

同インタビューより或る日本兵の証言
戦争が終わったら「本当に馬鹿らしい事した」と。
そう言っちゃ死んだ人に悪いから アジアの国が独立できて、共栄していると、
戦死した人たちの手柄でもあると言っているんだけれども、
現地で実際に、死んでいった人間はそんな事は思わない。
死ぬ時は「天皇陛下万歳」と言うっていうけど、ほとんど珍しい事で、
子どもがいれば子どもの名。新婚早々なら女房の名。独身なら「お母さん」と呼んで死んでいった訳です。


ぼくはこの言葉に戦争の真実があるように思います。ぼくはわが子を戦場に送りたくないので徴兵制には反対です。自分勝手な理由ですが何か問題あるでしょうか。子供を戦地に送ろうとする社会と、大人が子供を守ろうとする社会のどちらが国家として存続していけるかは明らかなように思います。



安倍さんは緊迫する日中関係を受けて、「日米同盟の強化」を掲げています。と同時に「戦後レジームからの脱却」を宣言して憲法改正を目指しています。どちらもその部分だけを読めば、一応はなるほどと思うようなことが書いてあります。「強い日本」として毅然とした態度で自立するんだ、と解釈することもできるでしょう。けれども、ぼくは矛盾を感じる。

だって、戦後レジームの礎って日米同盟じゃないですか。

アメリカの意向を忖度する政治が、戦後レジームを形作り存続させてきたのでは。戦後レジーム自体が欺瞞だと思いますが、戦後レジームという言葉の使われ方も本質から外れたところで闊歩する欺瞞であるように思えます。

だいたい、戦後レジームを象徴するものが原発をめぐる(政官報を含めた)産業構造であることは、いまや多くの人の共通認識となっています。であるにもかかわらず、ましてや悲惨な事故が終息していないにもかかわらず、ためらいもなく原発推進を掲げる自民党の皆さん。ずいぶんと庶民の感覚とは乖離したところで政治をしているようです。

すなわち、安倍さんの言う「戦後レジーム」は、庶民が一般的に想像する「戦後レジーム」とはかけ離れたものを指しているのだと思われます。政治家の使う言葉は、言葉そのもののイメージだけじゃなくて、それがどういう文脈で使われているか、背景や意図をしっかり読まないといけないです。


以上、ぼくが安倍総裁と自民党を支持しない理由について書きました。

安倍さんの公式サイト上には基本政策として、上で挙げた「外交/教育/改憲」の3つしか掲載されていません。また安倍さんという人物についての言説もほとんどそういう切り口ばかりです。彼が社会保障の問題や国内経済についてどのように考えているのかはよく分かりません。

安倍さんは会見で「強い日本」を目指すと。安倍さんの言う「強い日本」っていうのはどういう意味なんでしょうか。他者に対して毅然とした態度を取ることでしょうか。「強い」ってどういうことでしょう。

言葉には事実を表すものと気分を表すものとがあると思います。気分な言葉は、曖昧で、受け取る側によっていかようにも解釈される。安倍さんの言う「強い日本」っていうのはいかにも気分な言葉に聞こえます。気分が一致する人にはウケがいいのでしょう。でもそれってあくまで気分にすぎないと思う。いまの自民党って、「強い自分」に満足したいために吠えているだけのようにぼくには見えます。

ま、それはあくまで印象論です。安倍さんが首相在任時に教育基本法を改正したとか、憲法改正のための国民投票法を制定したとか、今回の総裁就任会見で平河クラブ以外からの質問を禁止したとか、そういう「事実」を粛々と記憶していくしかないです。事実の積み重ねから方向性が浮かび上がってくるはずです。



戦後レジームという欺瞞

戦後レジームという欺瞞 2012.09.30 Sunday [政治・メディア] comments(2)
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こえり (2012.10.06)

≪さらに規範意識や他人を思いやる心を育むために道徳教育を充実させます。生徒児童が感動を覚えるような教材を開発、活用することになります。生命の尊厳、社会への主体的な参画などの重要性についても教えることになっています。≫

安倍さんのこの文章、ぴんと来ないなー。。
たとえば同じ音楽を聴いても、人生観変わるほどの衝撃を受ける人もいるし、何も感じない人もいる。前に聞いた時には感動した言葉も、違うときに聞いたら、「うーん??」と思うこともある。
「教える」って感覚がぴんと来ないのね。。「教わる」ためには、「教える立場の人」にどういう感情を抱いてるか、が大事だと思うし。尊敬とか、好きとか。
「教わる意識を持て!」と強要されるのじゃなく、自ら「学びたい!」だの、「なにか興味を惹かれる」って気持ちがないと駄目だと思うし。

教育としつけは違う、という言葉、そうなんだろうなーと。


「自己責任」って、元々は株とかを買う人に向けて「元本割れするかもしれないけど、自己責任でお願いします」って使われたのが、はじめらしいよ。
損するとか、得するとかいう感覚からの言葉ってことかな。


≪絶対に操ろうとしないこと、それが相手を人間としてリスペクトすること。子供も人間としてリスペクトし、操ろうという誘惑に負けず、子供を「自由」にすること、それが「教育」の出発点。≫

子どもと親、と言うことに限らず、人間関係において大事なこと、なんだけど、わたしができなくなっていることだと。感じます。
「自分自身を大事にする」、ということは「自分のなかの子供(自分の中の子供の部分)を大事にする」、ということ、なんだと思う。
こうしたい!これはイヤ!ああしたい!!っていう欲求。
前に、「子どもというのは 自分中心の存在」、「大人と言うのは、自分のことより周りのこと、人を大事にするというか、重要視する存在」なんじゃないかなと思ったことがあります。

ここらへんのことが自分の中でうまくいっていない、と言う感覚の中で生きています。わたしは。
最初は、「ああしたい!こうしたい!」だけで動いているのだけど、
その次に、「それより状況を読まなくちゃ、相手の欲するところを感じた上で動かなくちゃ」、って思って、苦しくなってしまう。

こういうの、自分で自分をしつけている、んだろうと思う。
しつけって躾、「身を美しくする」って書く。
できるだけ、「自分がこうされたらいやだ、こうされたらうれしい、ってことを気配りして動きたい」、って思いがあって、
自分が人のことを、人の気もちを感じられるのなら、美しい振る舞いをしたい、心地よい場にしたい、みたいな気持ちと、
人に気をつかって疲れる、という思いの中で生きてしまう。

本当は自分をのびのびさせたり、発見したり、人の存在を喜んだり、会話をただただ楽しんだりしていたいのに、んなことばかりしてしまった。

人に気をつかう、というのは悪いことばかりじゃないんだけど、それは【子供を「自由」にすること】がない状態、少ない状態でいると、きつくなる。

政治のこと書いてる記事なのに、いっつもそこに絡まないコメントでゴメンね。

山やま (2012.10.09)


>政治のこと書いてる記事なのに、いっつもそこに絡まないコメントでゴメンね。

いや、いや。ほんとうは政治のことって、暮らしのことや教育とかしつけのことと地続きであって。やっぱり、未来をつくるというか、子供たちがこれから暮らしていく社会の制度をつくるのが政治だと思うから。で、暮らしのことや教育とかしつけのことって、けっきょくは自分自身を見つめることなんだよね。でも政治の話題というと、領土問題とか軍事とか、なんだか自分と切り離された場所で語られることが多くて、それが政治をおかしく(遠いものに)している要因だと思うんです。自分自身を見つめていない人が三人称的な神の視点で政治を語っても、リアリティが無いし説得力もない。だから日曜の朝だけ偉そうに政治のことを語るオヤジなんかよりも、こえりさんのように自身を見つめようとするという行為のほうがよっぽど政治に近いとぼくは思います。

>「教える」って感覚がぴんと来ないのね。。「教わる」ためには、「教える立場の人」にどういう感情を抱いてるか、が大事だと思うし。尊敬とか、好きとか。

うん。内田樹さんがかねがね言っていることなんだけど、この記事から。
http://blog.tatsuru.com/2012/03/15_0854.php

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「教卓のこちら側」にいる人間は、「教卓のこちら側にいる」という事実だけによって、すでに「教師」としての条件を満たしている。
教師は「この人は私たちが何を学ぶべきかを知っている」という確信を持っている人々の前に立つ限り、すでに十分に教師として機能する。彼に就いて学ぶ人たちは「彼が教えた以上のこと、彼が教えなかったこと」を彼から学ぶ。
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30年以上、大学の講師をしてきた内田さんの実感だそうです。
すごい文章だなと思って。とくに、記事の後半に書いてある「教師の唯一の条件」という件には、なんか胸に込み上げるものを感じた。教育も子育てもおなじだね。










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