オスプレイの危険性よりも怖いもの

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
オスプレイに関しての専門的なことはほとんど知らないし、安全保障に関する知識もないので、あまり口を挟みたくないのですが、どうも最近のオスプレイを巡るニュースや論議を見てるとズレというか違和感を覚えるので少しだけ備忘録。

新型輸送機「オスプレイ」。その安全性に焦点が当てられています。事故率をもとにして、危険であるとか、いや安全であるとか様々な憶測を呼んでいます。政府は、安全性の確認が前提であるとしています。野田首相はアメリカのドニロン大統領補佐官と会談し、安全性の確認や事故の調査結果などについて協力を要請したそうです。
総理がオスプレイ“安全性”確認で米に協力要請 - テレ朝ニュース

もちろん安全性の確認はとても大事なことです。ないがしろにしてもいいなどとは思わない。ただ、安全であるかどうかという点ばかりが争点になることで、じゃあ安全だからオッケーでしょっていう話に結びつきそうな懸念を拭えません。もし安全だったならば、地域住民はこれを受け入れないといけないのかというと、それはまた別の話で。

そもそもこの新型輸送機「オスプレイ」っていうのは何故に必要なのでしょうか。そこのところの説明がぜんぜんなされていないと思うのですが。意味はわからないけど、安全なんだから、無いよりあったほうがいいに決まってるという、タダなんだから貰っといて損はないみたいな考え程度の認識ぐらいでしか動いてないんじゃないかという気がしてならないのです。アメリカさんが言ってるんだから、そうするしかないんだっていう。

ぼくが、オスプレイ自体の安全性云々よりももっと怖いのは、この思考放棄的な発想の回路です。野田首相は先日、オスプレイ配備については「日本からどうこう言う話でない」と言ったそうですが(朝日新聞)、これはついうっかり出た本音だと思います。

簡単におさらいしておきます。先日の記事で書きましたが、鳩山政権は自民党時代から続く「対米追随」の姿勢を転換させようとしました。政権交代はその絶好の機会でした。政権が変わったんだから、外交の方針が変わったとしても不思議ではない。しかし鳩山政権は、アメリカの意向を忖度する官僚やマスメディアの抵抗にあい潰されました。これを見ていた菅首相はただちに「対米追随」路線へと舵を切り替え、政権交代で民主党が謳ったマニフェストを次々と方向転換させていきます。さらに官僚の中の官僚と言われる財務省の大臣だった野田氏が首相に就任することで、民主党政権は自民党化=「対米追随」路線まっしぐらです。もはや国民の方をまったく見ようとしない傀儡政権であることは多くの人の目に明らかであると思います。

日本はいまだもってアメリカの植民地である、と言われてピンと来る日本人はほとんどいないでしょう。直接的な力で支配されているわけではなく、巧妙に張り巡らされた支配構造が存在している、なんてことを言うと陰謀論みたいに聞こえるかもしれません。しかし、日本を取り巻くさまざまな諸問題が、「対米」という軸を中心に据えて眺めたときに、するすると引っ張られるように1本の糸で繋がって見えることは間違いないとぼくは思っています。

オスプレイについても、「アメリカに物申せない日本」という姿が浮かび上がっています。野田首相の発言はまさにそれを象徴しているわけですが、実はもっとヤバい状況にあるのかもしれません。どういうふうにヤバい状況なのかというと、内田樹さんは以下のように推測しています。

米軍のフィリピン移駐について考える - 内田樹の研究室より
政権交代で首相になった最初の人物はあからさまな対米自立派で、「基地はできれば国外」というようなことを言ってしまった。
彼が引きずり下ろされた後には、あれこれとアメリカのご意向を忖度してくれる親米派の政治家官僚が出てきたが、これもひたすら忠義面をしてへこへこしているだけで、表舞台に出て、矢弾を浴びながら、「基地問題についての日本の立場」を内外に公言し、説得できるほどの度胸も才覚もない。
属国が従属的であるのはけっこうだが、あまりに従属的になりすぎて「使いものにならなくなった」というのが現在のアメリカ政府の日本理解だろうと思う。
いったい、誰と話をつければ、ものごとが前に進むのか、今の日本を相手にしているともうわからない。


まあそうだろうなと納得できる話です。いわゆる先進国が集う首脳会談等の席での日本政府の存在感の無さは半端ないなあといつも思いますが、最近では明らかに他国から軽んじられているような空気をひしひしと感じるのは、ぼくだけでしょうか。でもそれも当然といえば当然のことで、あまりに無能なんだから、話したってしょうがないと思われているのだとしたら。

自民党の時代には、自民党議員は属国であることをもしかしたら意識的に選択していたのかもしれません。安全保障的な観点と国内でのパワーバランスをある程度配慮して、裏方にも筋目をつけた上で、「敢えてアメリカには物申さない」という「対米追随」路線を選択的に採択することで、自国の経済成長を目指していた、というのならばまだ話は分かります。主体的に選ぶというならば、それはそれでひとつの選択肢ではあると思います。

ところが、時代はもう冷戦構造ではありません。グローバル化が進み、世界はフラット化しています。アメリカが必ずしも日本を贔屓にしてくれるとは思えない。アメリカはビジネスライクな国です。アジアにおける戦略だって10年前とは大きく変わっているはずです。日本が垢のついた日米同盟にすがりついている限り、アメリカはそれを利用するだけです。日米同盟が、ほんとうに日本の国益に適うものであるのかどうか、そこから吟味しないといけないのに、日米安保の話になると金科玉条のごとくアメリカの言うことを聞くのが自明の理であると考えるのは、はたして主権国家と言えるのでしょうか。

日本政府の対米姿勢って、「物申さない」がいつしか「物申せない」になり、さらには「なんだかよくわからないけど今まで通り物申さないほうがいいんじゃね?」ぐらいの思考放棄的な発想の回路に今ではなっているのだろうと思います。最前列にいる政治家が、おそらくその程度の認識なんだろうということが透けて見えるということが、ぼくはいちばん怖いです。そういう人たちがものごとを決めているということが。


「安全性」というのは、作られるものです。頭の良い官僚たちが一生懸命に作文して、よく分からない法律を作ってもっともらしい文言で装飾すれば、「安全」と認定される。「安全」という言葉はだいたいそんな程度のものでしかありません。

遺伝子組み換え種子の安全性は「実質的同等性の原則」が根拠とされています。しかしこの原則は、作物全体としての安全性は調べられておらず、臨床実験や第3者機関による安全性のチェックも行われていないそうです。安全を守るために制度をつくるのではなくて、まず権威付けのために先に制度(原則)をつくってしまって、その制度を理由に安全を主張する。まったくあべこべの理論ですが、案外それがまかり通っていることが多い。(遺伝子組み換え種子について、詳しくはこちらにまとめてあります)

原子力発電所の安全性というものが、いかに杜撰な管理のもとで「安全」だとされてきたか。水俣病だってアスベストだって、犠牲者が多く出るまでは「安全」だと見なされてきたはずです。「安全性」というのは、作られるものです。場合によっては政治的な意図をもって。

放射能が人体に及ぼす影響について、人類は未だはっきりした指針を持っていません。ぼくらはせいぜい安全性については「分からない」としか言えないはずなのに、安全だ、いや危険だ、デマだ、と終わることのない対立が、原発事故以降ぼくらの生活のまわりを囲んでいます。それはこれからも続くでしょう。行政の都合で、無責任な数値がひとり歩きすることが無いとは言えません。放射能が人体に及ぼす影響は、事後的にしか分かり得ない。それはこれから何年後になるのか分かりません。


対米関係において、従属的になりすぎて使いものにならないと思われるような政府が、安全性について主体的な行動を起こしているとは到底思えません。遺伝子組み換え作物の輸入に関しては、厚生省の食品衛生調査会が安全性評価指針に適合しているかどうか調べているのですが、それは企業が提出してきた資料を見るだけの審査で、第3者機関による追試はなされていないそうです。

オスプレイの安全性というのも、これから実地で何度も試験が行われて実証されるわけではありません。あくまでも書類上での確認だけになるはずです。もういちど言いますが、「安全性」というものは書類上で作られるものです。それはたぶん、ぼくらが体感的に想像する「安全性」とは乖離した存在であると思います。住民の目に見えない不安は書類上には表れません。日常的に生活する上空を、他国の軍隊がプロペラの爆音とともに低空で飛び回ることの違和感や恐怖を、現地から遠く離れた地に暮らすぼくはうまく想像することすら出来ません。

対米関係を金科玉条として最優先させることで、犠牲になる自国の人たちが存在します。原発が日本に建て続けられた構造と同じ、中央と地方の差別的な構造問題です。政府はもちろん、政治家を選ぶぼくたちの側も、その差別構造に関しては驚くほど無頓着なのです。基地問題にしても原発問題にしても、自分の身にふりかからない限りは自分のこととして考えられない。それはもう仕方のないことかもしれませんが、もうそろそろ限界に来ているような気もします。

沖縄出身で先日民主党を離党した瑞慶覧議員のインタビューを読むと、沖縄の人たちの生活実感からの基地の存在、そこから見える日米関係というものがよく分かります。
オスプレイ問題はもはや沖縄だけの問題ではない 瑞慶覧 長敏議員インタビュー - BLOGOS

このインタビューもそうですし、沖縄タイムスや琉球新報の記事を読んでみると分かりますが、沖縄の人たちは意識が高く、日本の構造的な問題を捉えています。それは彼らが当事者意識を持たざるを得なかったからだと思います。そういう立場に置かれたから。震災と原発事故でようやく当事者意識を持ち始めた本土のぼくらにとって、なしのつぶてをくり返しながらもずっと反基地活動を続け、自分たちの生活と向き合っている沖縄の人たちは先輩のような存在だと思います。

従属的になりすぎて「使いものにならない」というのが現在のアメリカ政府の日本理解である、という内田さんの意見にはぼくも同意です。と同時に、政治家を選ぶぼくたちも主体性が無さすぎて、あるいは同じ国に暮らす同胞への想像力や当事者意識が無さすぎて「使いものにならな」かったわけだし、そんなぼくたちがようやく示した政権交代を無に帰すような豹変ぶりで政党政治や民主主義の意味を貶めた現政権は「使いものにならない」というどころではなく、オスプレイよりも怖いと思います。

オスプレイの危険性よりも怖いもの

オスプレイの危険性よりも怖いもの 2012.07.31 Tuesday [政治・メディア] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY









url: http://yamachanblog.under.moo.jp/trackback/464
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...