官邸前デモをめぐるあれこれから感じたこと

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
首相官邸前の原発再稼働反対デモが大きな広がりとうねりを見せている一方で、ネット上ではデモに対するバッシングのような冷笑的な意見がだいぶ出回っているようです。デモなんかしたって意味がないとか、反原発のデモをするなら電気を一切使うなとか、対案を示せとか。いかにも2ちゃんねるあたりが好みそうな言説ですが、なぜ彼らはわざわざ権力側が喜びそうなことを、進んでやっているんでしょうか。正義の仮面をかぶって弱い者をバッシングすることで、いったい何を目指そうとしているんでしょうか。彼らだって既得権益側ではなくて弱い者だろうに、不思議でなりません。

デモだけでなにか問題がすぱっと解決するわけないです。デモに問題解決能力を求めるほうがおかしい。それじゃ議会なんていらないわけで。デモじゃ何も変わらない、対案を示せ、っていうデモに対する嫌悪感は、デモに過剰期待しすぎで、依存の裏返しなんじゃないかと思ったりします。いつかスーパーマンが対案を持ってやって来て問題を全て解決してくれるとでも。

デモというのは、意思表示のひとつの手段です。「対案を示せ」という恫喝は、人に意志表示の気持ちを萎えさせます。よく知らないからしゃべる資格ないとか、間違ったらどうしようとか、他の人の顔色うかがっておこうとか。そういう社会は、とても息苦しい社会になります。弱い者同士で叩きあってくれれば、問題の本質に触れられたくない既得権益側の人にとっては好都合です。

schizoophrenieさんのツイートより
昨日あたりから、デモ参加者の発言を取り上げて罵り、彼らの事実認識や対案の不在をあげつらう向きが散見されるが、デモになぜすべての機能を求めるのか。デモには、「デモのある社会をつくる」という最も重要な機能がある、と柄谷は言っていた。(デモが日本を変える──柄谷行人氏「9・11原発やめろデモ」でのスピーチ - associations.jp

デモではなく投票を、ロビー活動を、という「理性的」な言説がとびかっているが、2つの点でデモの本質を見誤っている。代議士が民衆を代表する間接民主制がうまく機能していないときに働くのがデモだからである。

もう一つは、デモの最中に傍観者がそのデモの意味(の不在)を客観的かつ理性的に判断できるというある種の素朴な思い込みである。いったい誰がフランス革命の最中にその意味を客観的かつ理性的に判断できたというのか。デモが"出来事"であれば、その意味は後からしか決まらないのだ。

デモ参加者が子供を連れてきているだとか、お祭りのノリが気持ち悪いだとか、自分が批判できる細部をみつけることによってデモという運動全体を批判する身振り。それは自分が理解したくないものをみないでおくための技法であり、あなた自身の欲望の発露なのである。


デモは、起こるべくして起こるものです。デモは議会ではありません。
鳥越俊太郎さんが言っていたように、今回の再稼働反対デモは労組主導の組織的な動員によるデモではありません。ツイッターなどでつながり広がっている、60年安保以来の日本ではじめて起こった「市民デモ」です。「代議士が民衆を代表する間接民主制がうまく機能していないときに働くのがデモ」であるという上記の指摘は、今回の再稼働反対デモが起こった理由を的確に表現していると思います。

すなわち、原発再稼働という重要な決定が十分な議論や説明、根拠もないままに行われようとしていることを、多くの国民は知っているからです。自分たちの意志が少しも官邸に届いていないと感じているからです。こうする以外に声を届ける術がないからです。
3年前の政権交代では、民主党が示した「国民の生活が第一。」という方向性を国民は支持したのです。鳩山政権はたしかに不器用ながらも、そこに向かって歩いていました。対米従属から、対米自立へと舵を切り自国のことは自国でやろうとしていた(その根拠として年次改革要望書の廃止が挙げられます)。しかし国民の生活よりも大企業(主に多国籍企業)の利潤を守りたい(今までの産業構造を変えたくない)霞ヶ関の官僚や、それにおもねるマスコミのバッシングにより鳩山政権は潰されました。菅政権も野田政権も、それを見ていたから官僚の意向に逆らわないように振る舞いました。いま野田首相が政治生命をかけてやろうとしている消費税増税はあきらかに財務省の意向です。経団連の意向です。社会保障を先送りしてまで、増税だけを先行して決めようとする態度からは、首相は、国民の代弁者ではなく官僚や経団連の代弁者なのだとしか思えません。総選挙など国民の信託のないままに、政権交代時の「国民の生活が第一。」とはまるきり逆の方向に向かっているのです。これでは選挙の意味がないし、民主主義の機能を否定する態度です。

こんな状態で、デモ以外に国民が自らの意思を表示する方法があるならばそれこそ対案を示して欲しい。
今回デモに参加した人の多くは、やむにやまれず、とび出したのです。


もうひとつ。デモの本場でもあるパリのデモを見学してきた國分功一郎さんによるデモの考察。ぼくはここで國分さんが言っているデモのあり方にたいへん共感します。

【再掲】「パリのデモから考える」(スタジオジブリ小冊子『熱風』2012年2号「デモ」特集号掲載) - Philosophy Sells...But Who's Buying? 國分功一郎より
日本の脱原発デモについて、何度かこんな話を聞いた。デモに来ている人たちは原発のことを理解していない。彼らは何も分かっていない。お祭り騒ぎがしたいだけだ、と。
先に紹介したパリでの経験を踏まえて、私はそういうことを言う人たちに真っ向から反対したい。

デモとは何か。それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。だから、デモに参加する人が高い意識を持っている必要などない。ホットドッグやサンドイッチを食べながら、お喋りしながら、単に歩けばいい。民主主義をきちんと機能させるとかそんなことも考えなくていい。お祭り騒ぎでいい。友達に誘われたからでいい。そうやってなんとなく集まって人が歩いているのがデモである。

デモのテーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないなどと主張する人はデモの本質を見誤っている。もちろん、デモにはテーマがあるから当然メッセージをもっている(戦争反対、脱原発…)。しかし、デモの本質はむしろ、その存在がメッセージになるという事実、いわば、そのメタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることこそが重要なのだ。

フランス人はよく日本のストライキをみて驚く。「なんで日本人はストライキの時も働いているの?」と言われたことがある。何を言っているのかというと、(最近ではこれはあまり見かけないけれど…)ハチマキをしめて皆で集会をしながらシュプレヒコールを挙げている、あの姿のことを言っているのである。ストライキというのは働かないことなのだから、家でビールでも飲みながらダラダラしているのがストライキというのがフランス人の発想である。私はこの発想が好きだ。

デモも同じである。デモにおいて「働く」必要はない。高い意識を持ってシュプレヒコールを挙げたり、横断幕を用意したりしなくていい。団子でも食いながら喋っていればいい。ただ歩いていればいい。なぜなら、単に群衆が現れることこそが重要だからだ。


この引用部分以外にも、國分さんが見たパリのデモの様子、特に清掃部隊がやってくるあたりはとてもおもしろいので、ぜひ原文を読んでみてください。
なんていうか、悲壮感がないんですよね。ぷらぷらっとやって来て、だらだらと歩けばいい、っていう。これ好きだなあ。

もちろん現在の原発問題は、放射能という現在進行形でいのちに関わる問題をはらんでいるため、真剣にならざるを得ないのは承知しています。必要以上にへらへらするのもおかしい。本気で脱原発しようと思ったら、放射性廃棄物の処理や廃炉の管理など解決しなければならないことが山積みです。だからこそ脱原発デモは、息の長い、文化的な運動になったほうがいいと思うし、それが疲れちゃう類いのものでは長続きしないわけで、ある意味ではだらだらとやる覚悟も必要だと思います。

っていうか、オレらって基本だらだらじゃないですか。オレらっていうと語弊がありますね、少なくともぼくはそうです。できるかぎりだらだらしたいです。そんな奴がデモの時だけキリッって顔しても、ウソこけってなっちゃうような。だから個人的には、だらだらしたデモっていうのが定着するといいなと思ってます。だらだらした自分をさらけ出せる「場」としてのデモ文化。

ほんとはぐうたらなのに、みんなガンバッてるからとか、ガンバらないと怒られるからっていうので「ガンバリます」キリッって無理して作ってきたのが、これまでの日本経済を支えてきた「男社会」だと思うんです。ほんとはできないのに、やりたくないのに、「できます」「やります」つって。そうやって後戻りできなくなっていくという構図の象徴が原発なんだろうなと。(小田嶋隆さんはこのコラムで原発はマッチョであると述べていましたが、至言だと思います。)

だから脱原発の運動が、女性、とりわけ小さい子どもを持つ母親を中心にしているということは必然であるし、ものすごく大事なことだと思う。この声に耳を傾けないのは、いままでの「男社会」を崩したくなくて必至に耳を塞いでいる、変わることが怖い人たちだと思います。
逆に、脱原発の運動があんまり「ガンバル」方向に寄っていっちゃうのも、それはそれで「男社会」化していく危険性があるなあと思ったりもしています。たとえば、再生可能エネルギーは、ぼくたちの暮らしや、中央集権的な縦割り行政の仕組み、独占的な電気産業構造を変える契機となるもののはずです。それが単に、原発で足りないエネルギーを補うという数字の枠組みの中だけで捉えられたりするのは「男社会」的な考え方だと思います。節電をガンバルってのもそう。再生可能エネルギーの本質は、エネルギーの自治、自給自足です。中央集権機能に対するカウンターカルチャーであり、価値観のドラスティックな変化です。

原発の是非をめぐる問題を、経済の維持や成長という「商品」的価値観で語るか、自分の生活や生き方という「文化」的価値観で語るか、これはどちらが正しいという問題ではなく、位相の異なる話なんですね。自分は何を大事にしたいのかという選択の問題です。


子を持つ親として

デモに対する批判でいちばんタチが悪いなと思うのは、「子どもを盾にするな」という主張です。特に今回の再稼働反対デモには、子どもを連れた家族がいままで見たこともないくらい参加していました。彼らがほんとうに子どもを盾にしているのだとしか見えないのだとしたら、その想像力の欠如はちょっとかわいそうなくらい悲しいです。

なぜデモの参加者に小さな子ども連れの親が多いのかについて、世に倦む日日さんが書かれた文章がとてもよかったので紹介します。2歳と0歳の子どもを持つ親として、たいへん共感します(太字は筆者編)。

なぜデモの参加者に小さな子ども連れの親が多いのか - 世に倦む日日より
一見すると、政治的な示威と興奮の坩堝であり、群衆で騒然となったデモの現場に幼児を同伴する行為は、常識から外れた、教育上謹むべきことのようにも感じられる。しかし、よく考えてみると実はそうではないのだ。逆だ。幼い子どもを持った親、特に母親こそが、再稼働を止めなければならないという動機を最も強く持つ市民なのである。彼らは、自分の子どもが可愛いから、可愛い子どもを守ろうとする思いで、この抗議行動に参加したのである。子どもは自分の手で守らなくてはならないから。

子どもの命を守るためには親は手段を選べないから。世間から何と言われようが、過激だ非常識だ左翼だと罵られようが、子どもを守ろうとする親にとっては関係ないのだ。1歳、2歳、3歳の子どもは本当に可愛い。4歳、5歳、6歳も可愛い。親になって人は初めて生きる意味を知る。この子のために犠牲になるのが自分が生きる意味なのだと確信する。人として生きる喜びや感動の本質を悟る。子どもの命は自分自身の命だと信念する。そうした小さな子どもを持つ親が、昨年からずっと思い悩まされてきたことは、他の何でもなく、原発と被曝の危険の問題であり、放射能の害毒からどうわが子を守るかという難題だった。そしてネットで情報を探し回り、食品の安全情報を仲間内で交換し合い、福島の事故や原発に関わる政治の動向に目を懲らしてきたのだ。子どもを持つ親こそが、野田政権の原発政策に対して強い憤りを持ち、国民無視の暴政に怒りを募らせている。再稼働によって最も脅威と不利益を蒙るのが自分たちであり、何とか抵抗しないといけないと焦って思っている。だから、このデモは、まさに彼らこそが運動の中心になって担うべき政治主体なのだ。

それでは、彼らは何で自分だけで参加せず、子どもを混雑するデモの現場に連れて来ているのだろう。言うまでもない。片時も放っておくことができないからである。預かってもらえる場所がないからだ。彼らは、彼らの子どものために個人としてデモに参加し、デモに加わろうとすれば子どもを誰かに預けなくてはならず、それができないから、仕方なく現場に連れて来ているのである。一緒に参加しているのではない。個人としてデモに参加し、その必然として、やむを得ず子どもを同伴させる形になっているだけなのだ。子どもにデモを見せているのではない。趣味や娯楽ではない。パフォーマンスでもない。小さな幼児には、母親は傍を離れることができないのである。その幼児を守るために、敢えてリスクを冒して、母親は意を決してデモに飛びこんでいるのだ。


子どもを盾にしているとか、パフォーマンスだとか言っている奴は、母親がどんな気持ちで子育てしているか全く分かっていないバカだと思います。どれだけ身を削って、思い悩み、ふらふらになりながら子どもと対峙しているか。

子育ての心情を吐露した、くわばたさんのブログがまたたく間に広がったのも、大きな共感を呼んだからでしょう。とてもいい文章だと思います。
しんどいよな - くわばたりえオフィシャルブログ

デモの件に限らず、母親をバッシングしたり、親の自己責任を強調する人たちは、こういう子育ての現場に対する想像力がひとかけらも無いから、無神経なことが言えるのでしょう。他人事だから。とはいえ、ぼくも自分が親になるまでそんなこと想像もしませんでした。子育ては驚きの連続です。自分が子どもを持ってはじめて分かったことが山ほどある、というか知らないことしかなかった。自分はほんとうに何も知らなかったんだということが分かりました。「親になって人は初めて生きる意味を知る」とは、まさにその通りだと思います。

なぜぼくは自分が親になるまで子育てのことを想像もしなかったのか。まわりにそういう情報源がなかったからです。もちろん自ら積極的に情報を収集しようとすれば知ることはできたでしょうが、ふつうにテレビを見てのんべんだらりと生活をしている人には、子育てをする母親たちの声が届く術なんてほとんどない。テレビは、いろいろな企業やお店で働く父親や母親の姿は取りあげても、育児をする母親や父親は取りあげません。ニュースバリューがないから。子育てする母親は、耐え忍ぶのが当たり前みたいな空気が、たしかにあるわけです。その無言の圧力がどれだけ当人にプレッシャーをかけて追いつめているかは知らないままに。

子どもがいない人にまで、子育てのしんどさを共有して欲しいとは言いません。子育ては親の責任です。ただ、しんどい時はしんどいと言ったっていい。そんな他人の愚痴すらあげつらうような「道徳」なんて要らんです。自分の中の狭い価値軸で説教たれる前に、ちょっとだけでいいから、他者への想像力を持ってほしい。すなわち、知らなかったということを知ること。

今回の再稼働反対デモに、母親たちは、やむにやまれず、とび出したのです。
野田首相が再稼働の口実として述べた経済の安定とかいう「男社会」的な価値観が、母親たちをそこまで追いつめているということを、ぼくたちは官邸前デモの映像から感じ取ることができるはずです。「子どもを盾にするな」と言う人は、おんな子どもは意思表示するなと言いたいのでしょうか。傲慢ですね。

デモはこわい。デモはダサい。デモはイデオロギー。だからオレには関係ない。それらはぜんぶ刷り込みであったことが分かってきました。官邸前のデモはたしかに官邸に向けられて発せられる声です。しかしそのニュースを見たぼくは、そこに参加している人たちから大きなメッセージを受け取っています。

Entelchen Quakelmannさんのツイートより
「デモは危険」「子供を連れて行くところでない」という意識を世論にしみこませるのは権力者のデモ対抗手段。そうやって今後デモに行く人と行かない人を分裂させ、デモに行きづらい雰囲気作りをつくろうとすることは十分考えられる。ドイツでもそうだから。


デモの本質とは何か。ぼくはこう考えます。

「こんな人もいる」ということを知らせること。

為政者にそれを知らせるのが目的であることは言うまでもありません。と同時に、国民自身も知らなかったことを知るのだと思います。デモに参加しない人は、黙って見てればいい。ああ、こんなことを考えてる人もいるんだなあということを知ることに意味があります。同じ考えだけじゃない、多種多様な人たちが、お互いの存在を認め合うということ。そういう社会は、暮らしやすいと思いませんか。

スタバ行く?デモ行く?くらいの感じで、っていうとちょっと軽すぎるかもしれませんが、少なくとも選挙で投票に行くのとたいして変わらない態度で、デモというものが市民権を得て定着するといいなと思います。個人の政治的見解の違いなんて、昼めしマクドナルドにする?モスバーガーにする?それとも思い切って寿司?くらいの選択の違いでしかないです。たぶん。


官邸前デモをめぐるあれこれから感じたこと

官邸前デモをめぐるあれこれから感じたこと 2012.07.04 Wednesday [政治・メディア] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY









url: http://yamachanblog.under.moo.jp/trackback/453
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...