官邸前デモの行き先としての、OWS(ウォール街を占拠せよ)という文化 「お互いの声を増幅させ、皆の声を聞き合おう」

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官邸前の原発再稼働反対デモが広がりを見せています。毎週金曜日に行われているこのデモ、最初は300人で始まり、週を追うごとに規模を大きくしています。先週(6/22)の参加者は1万1千人とも4万5千人とも言われていますが、いずれにしてもこれまで報道が黙殺してきたにもかかわらず、Twitterなどのつながりでここまで人が増えたことはすごいと思います。このデモをきちんと報じたのは報道ステーション(と赤旗)だけでしたが、ぼくはこのニュースを見て、潮目が変わったのを感じました。今後も参加者は増え続けるでしょう。

ところで、ぼく的には、原発再稼働に反対する官邸前デモと、アメリカのOWS(ウォール街を占拠せよ)がどうしても重なって見えてしまうのです。その理由は後で述べるとして、OWSの現在が気になったので少し調べてました。


Occupy Wall Street(オキュパイ・ウォールストリート)(ウォール街を占拠せよ)は、抗議デモ活動というよりも「文化」と呼びたい

2011年9月17日、アメリカのウォール街で、社会的経済的格差に不満を持った若者たちが抗議デモ活動を自発的に始めてから、まもなく1年が経過しようとしています。当初は1ヶ月の予定だった抗議活動ですが、全米あるいは世界に広がっていると報じられたのも記憶に新しいところ(このブログにも書きました)。
最近ではOWSのニュースもめっきり見なくなりましたが、現在はどうなっているのか。

どうやら2011年11月に、活動の拠点であるズコッティ公園で、ニューヨーク市警による退去の強制執行があり、公園内のテントや寝袋を解体、参加者たちが持ち込んだ物品を一切合財没収し、抵抗した70人以上を逮捕したとのこと。印象的だったキッチンも私設図書館も医療設備も無くなってしまったそうです。

「ウォール街を占拠」ズコッティ公園から強制退去 - Democracy Now!

その後運動は小規模化し、消滅の可能性もささやかれていたそうですが、2012年5月1日のメーデーを機会に、再び盛り上がりを見せているとのこと。

ウォール街を占拠せよ、その後 - もうすぐ北風が強くなる
オキュパイ運動のメーデー1 - 折原恵のニューヨーク写真日記    

けっきょくこのOWSは何かを変えることができたのか、と問われれば、おそらく目に見えるかたちでは何も変わっていないでしょう。アメリカの格差社会は果たしてこれから改善に向かうのか。それも分かりません。おそらく誰にも分からないでしょう。
それでも、このOWSが簡単に終息するとは思いません。公園を追われたからといって、あるいは目に見える形での集会が減ったからといってOWSが終わったとは思えない。
というよりも、この運動は「デモ」という括りで説明できるのかどうか。

過去記事にも書きましたが、このOWSはシングルイシューを争点にしたデモではありません。だから掴みどころが無いし、主張が分からないとよく言われています。明確な主張をもとにして集まった人々ではない。問題があるということはわかっているけれども、彼ら自身も、具体的な手だてはわかっていない。

じゃあなぜ集まっているのか。

OWSの空気をよく表している動画があります。



見ましたか?この動画を見ていただかないと、今回の記事の意味が伝わらないと思うので、とばした人は見てくださいね。お時間のある方は、より詳しく解説された下記記事もどうぞ。

ソーシャル・メディアを利用した革命、OWS(オキュパイ・ウォール・ストリート)とは何か─現地NYからレポート - webDICE

簡単に言ってしまうと、OWSとは、民主主義を取り戻すための草の根ムーブメントなのだと思います。

問題があるということはわかっているけれども、彼ら自身も、具体的な手だてはわかっていない。だから、話し合う。わかっているのは、問題の根が短期的に解決できるようなものではないということ(だから具体的な主張に乏しい)。しかしそれでも声を上げずにはいられないくらい彼らが切羽詰まっているということ。だからこそ、話し合う。これって民主主義じゃないですか。

それは古くさい様式のアナログな小さな集まりかもしれない。けれども、もう何十年もアメリカの市民が忘れてしまっていたものなのかもしれません。自分たちが暮らすまちは自分たちの手でつくるということ。オバマにチェンジを託したけれども、けっきょく変わることのできなかった自国の構造を、それこそを変える必要があるのだと。そのために、「この場所」に居続けること。自らの身体をもって「土地に根をはる」ということ。

これって、自分の生き方を自分でつくっていくということであり、それって「文化」ではないでしょうか。OWSはただのデモじゃない。民主主義のあり方を問い直すことであり、共同体のあり方を問い直すことです。多種多様な人たちが集い、自発的に皆の意見を聞き合うという「共同性への萌芽」は、この運動が文化的であるからこそ生まれたものなのだと思います。


人間マイクロフォン

反グローバリゼーションの旗手であり、OWSにおいても重要な論客となっているカナダのジャーナリスト、ナオミ・クライン。10月6日、リバティ広場での彼女のスピーチがYoutubeにアップされています。





スピーチの内容はOWSの核にもなっているもので、非常にすばらしい視線だと思います。ここではその内容は置いておいて、注目したいのは彼女のスピーチの伝わり方。リバティ広場では拡声器が禁止されていたため、「人間マイクロフォン」を使って遠くにいる人にも聞こえるようにしています。「人間マイクロフォン」って何か。すごく単純です。最初の動画でもそうでしたが、ワンセンテンス毎にスピーチの言葉を周りの人たちがくり返して喋るのです。

オキュパイ運動のメーデー5(最終回) - 折原恵のニューヨーク写真日記より
まず演説する人が「マイク、チェック!」というと、聴衆の大勢が同じように「マイク、チェック!」と答えます。演説のすべての言葉を、このように復唱するのです。復唱することでその後ろのみんなにも聞こえるというだけでなく、言葉を自分のものとして噛み締める、つまり参加の能動性という二重の効果があります。


動画を見ていただくと分かりますが、復唱すると言っても、デモでおなじみのいわゆるシュプレコールとは雰囲気がずいぶん違います。伝言ゲームのようでもありますし、この広がり方は、まるでツイッターのようだとも感じました。実際に言葉を口に出して伝えるっていうのは言霊のちからでもあると思います。拡声器の禁止という逆境から生まれた、ずいぶんとアナログな手法ですが、とてもおもしろいと思いました。

人間マイクロフォン。これも民衆の中から生まれた、ひとつの「文化」だと思います。


原発再稼働反対デモの行き先

官邸前デモのはなしに戻ります。

原発の問題はシングルイシューのようで、実はシングルイシューではありません。ひとくちに再稼働反対といってもさまざまな理由やさまざまなレベルでの意見があり、それは再稼働容認の立場でも同様です。あまりに多くの課題を内包しているので、原発推進/反対という対立軸だけでは説明できません。無理矢理その二元論で解決しようとすると、なにか大事なものが抜け落ちてしまうような気がするのです。

安冨歩さんのツイートより
官邸周辺で集まっている人へ。官邸に怒鳴るのではなく、互いに、それぞれの考えを語り、聞き合おうではありませんか。そうやって互いに渦を作らないと、何も起きません。


安冨さんのこのツイートとまったく同じことを、最初の動画で人間マイクロフォンが伝えています。偶然でしょうか。
「お互いの声を増幅させ、皆の声を聞き合おう」

官邸前デモが、再稼働反対というシングルイシューを達成するためだけのものであるならば、たぶん原発問題は解決しません。いや、再稼働が止まるならば今回はそれでいいかもしれない。もし仮にこのデモで再稼働が撤回されたならば、それはたいへん素晴らしいことだと思います。ですが、それはゴールではなくむしろスタートになります。たしかに現在、日本の原発はすべて停止しています。けれども野田首相の再稼働声明を聞く限り、庶民の声よりも経団連の意向が優先される限り、同様の事態は何度も起こってくるでしょう。本気で脱原発しようと思ったら、放射性廃棄物の処理や廃炉の管理など解決しなければならないことが山積みです。だからこのデモは、息の長い、文化的な運動になったほうがいいと思う。

ぼくがはじめてOWSの写真を見た時に感じたのは、なんだか楽しそうだなという印象でした。
運動は根気づよくやらないといけないというのは事実だと思いますが、そうは言ったって、脱原発運動が疲れちゃう類いのものじゃ長続きしないし、ヒステリックになったらいつまで経ってもマイノリティ的立場から抜け出せないように思います。シュプレヒコールってどうも苦手なんですよね(とはいえ、6/22のデモにおける「再稼働反対」の声声声を動画で見た時には感動しましたが)。いつまでも眉間に皺寄せてたら誰だって疲れちゃいます。脱原発運動は、息の長い、文化的な運動になったほうがいいわけで、ある意味ではだらだらとやる覚悟も必要だと思います。

今回、あらためてOWSの動画を見て、ああこれってデモっていうか「文化」なんじゃないかと思いました。権威に対抗し得るのは文化なんじゃないかと。そして文化っていうのは庶民の生活から生まれるものなんじゃないかと。
グローバリゼーションとそれを加担する政府によって格差が助長され、それに対抗する文化としてOWSが生まれたと考えると、この運動が長続きすること、その中からアメリカの民主主義がもう一度再生されることを夢見ます。

マーケティングやら何やらで企業から与えられるのは「文化」ではなくて「商品」です。グローバリゼーションが扱うのって「商品」なんですよね。橋下徹さんあたりが文化を蔑ろにするのも、「商品的価値観」でしか「文化」を測れないからだと思います。行政の「サービス」というものも、上から与えてやる「商品」として考えているわけだし、オレの売り方に文句がある部下は辞めちまえとなるわけです。
そういった「商品的価値観」の土俵上で、彼とやりあっても意味がありません。あるいは、権威に対抗し得るのは文化であるということを直感的に分かっているから、文化を封殺しようとしているのかもしれません。日本全体で見ても、違法ダウンロード刑事罰化であったり、表現の自由を規制しようとする動きが顕著なのも、その表れかもしれない。

そしてそれに対応し得るのはやっぱり「文化」だと思います。
ぼくたちの生活から生まれる「文化」。

原発の問題も、経済の維持や成長という「商品」的価値観で語るか、自分の生活や生き方という「文化」的価値観で語るかではまったく位相が異なります。どちらかが正しいというよりも、自分は何を大事にしたいのかという選択の問題です。ぼくは文化を選びたい。


ぼくが感じていることとまったく同じことを書いて記事があったので紹介。そうそう、「あたたかい、喜びに満ちた連帯」ってことなんです。
ウォール街を占拠せよ:今世界で最も重要なこと - 西瓜糖とサクランボより
この動画の中で、人間拡声器として、ナオミ・クラインの言葉を繰り返す人たちの喜びに満ちた雰囲気は、ただ不安にかられて繋がりたい欲求を満たすためにそこにいるのではなく、「よりよい未来を作るのは自分たちだ」という、その明るい未来へ向かう「個」としてのひとりひとりが、そのことにコミットしようとしている喜びに基づいていると思います。この人たちはただお上や富裕層に唾棄しているのではない。長い時間がかかるとしても、「まともな社会」を作ろう、そのことに自らコミットしよう、としているわけです。


かつて日本が憧れた「自由の国アメリカ」。
いまでは見る陰もない同国ですが、ぼくがOWSに惹かれるのは、21世紀における「ほんとうの自由」の萌芽がここにあるような気がしてならないからです。





追記(6/30)
このブログを読んで、そして15万人が集ったとされる6/29の官邸前デモを受けて、ツイ友の山中さんがつぶやいていたことを転載します。

山中俊人さんのツイートより
(内田樹『街場の読書論』より)
贈与の本質は「これを受け取ってください」と差し出すことです。その時手渡される「これ」にはあまり意味はありません。
そうではなくて、「はい、どうぞ」という贈与行為そのものが重要なのです。というのは「はい、どうぞ」は「あなたはそこに存在する」という重大な認知的言明を含んでいるからです。
贈与に対する「確かに受けとりました」という返礼も同じです。 それは「私に贈与したあなたはそこに存在する」という鏡像的な言明が返される。
この相互認知、お互いに「あなたはそこに存在する」という言葉を贈り合うこと、それがすべての夾雑物を削ぎ落としたときの贈与の本質だと僕は思います。
メッセージが運搬しうるもっとも重要なメタ・メッセージは「宛て先が存在する」であるということです。
(以上、内田樹『街場の読書論』より)

OWS(オキュパイ・ウォールストリート)で僕が印象に残ったシーンがあります。それは『あなたたちを愛してます。』という言葉から始まる、ナオミ・クラインの声です。彼女は空を見上げ一つ一つ言葉を噛み締めるように話し出します。その生のままの声は人間マイクロフォンとなって次々と伝播していきました。
『私は今、数百人のあなたたちに「あなたを愛してます」 と大声で返してくるように、とは言いませんでしたね。これは明らかに人間マイクロフォンのボーナス機能です。他の人たちからあなたへと言われたことを、あなたから他の人たちへと言ってください、もっと大きな声で。』
そうしてナオミはこう続けます。『 昨日、労働者のデモで講演者の一人 がこう言いました。「我々はお互いを 見つけたのだ」と。この感想は、今まさにここで形成されているものの美しさを捉えています。より良い世界を望むすべての人々が、お互いを見つけるために、大きく開かれた空間を。』

この言葉を聴いてると、声(言葉)は贈り物だったんじゃないかと思ったんです。ナオミ・クラインに限らず、OWSで人間マイクロフォンとなって響いた様々な声は、あの場所に集まった人びとや動画を見た世界中の貴方への贈り物だったんでしょうね。

リーダビリティの本質はコンテンツにあるのではなく、「そのメッセージは自分宛てのものだ」と直感する人を得ることにある。待場の読書論という本で内田樹さんはそう書きました。

昨日のデモで印象に残った件があります。
それは、官邸に響いた10万の声を野田総理大臣はちゃんと聞いていて、そしてその声に対する声が『大きな音ですね』だったということです。(時事ドットコム:野田首相「大きな音だね」=官邸周辺の反原発デモに

彼には声として聴こえていなかったんですね。確かに昨日のデモの声はOWSのような人間マイクロフォンではなく、騒がしいシュプレヒコールというものでしょうけど。それでも聴こうとすればその言葉の意味を感じられた筈です。
だけれど野田さんには、それが大きな音、noiseとしてしか届かなかった。

市民からの贈り物は彼には届いていないんだなぁ。と。野田さんの言葉を思い出せば、そりゃそうだと思いますが。。

だけれど、僕らは互いの存在に気付く為に声を出すんでしたね。明日もまた。


同デモの様子は、NHKや報ステでもニュースとして取り上げられました。報ステでは鳥越俊太郎氏が「今回のデモには労組の旗がない。これは52年ぶりに起きた、生粋の市民によるデモだ。非常に感慨深い。」とコメントしていました。
また、特にいい取り上げ方だと思ったのはTBSのニュース23。官邸前の現場だけではなく、草の根的に広がる再稼働反対の声を紹介。小さい子どもを持ち、現地のデモに行けないママたちがツイッターで呼びかけ合い、カフェに子どもたちと一緒に集い、デモが行われている間の時間を共有していました。
「官邸に声が届くわけではないけれど、こういうふうに集まったり思っている人がいるということをツイッターで発信して、気持ちを共有できれば」
というママのコメント。大事なことだと思いました。

デモはこわい。デモはダサい。デモはイデオロギー。だからオレには関係ない。それらはぜんぶ刷り込みであったことが分かってきました。官邸前のデモはたしかに官邸に向けられて発せられる声です。しかしそのニュースを見たぼくは、そこに参加している人たちから大きなメッセージを受け取っています。大飯原発前でのデモもまた然り。
自分の言葉を出しづらいならRTだっていい。その声は誰かへの贈り物になるはずです。ぼくたちは、お互いの声を聞くために、お互いの存在に気付くために声を出すのです。明日もまた。


官邸前デモの行き先としての、OWS(ウォール街を占拠せよ)という文化 「お互いの声を増幅させ、皆の声を聞き合おう」

官邸前デモの行き先としての、OWS(ウォール街を占拠せよ)という文化 「お互いの声を増幅させ、皆の声を聞き合おう」 2012.06.29 Friday [政治・メディア] comments(4)
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こえり (2012.07.09)

こんにちは。

内田樹さんの侍場の読書論のことば、「ああ」と思いました。
わたしがほしいものは、それだ、と。

ひとが欲しい感覚は
「わたしはここにいる」ということと
「あなたはそこにいる」ということを受け取りたい、感じたい、
ということ。少なくともわたしはそうです。

「ここにいていいんだな」「わたしはここにいるし、いていいし、居たいし、
あなたがそこに居てくれることがうれしい」

難しい言葉で相手を説得するんじゃなく。

カールロジャースは自己一致と言うことを大切にしたようです。
でもそれは難しいことじゃなく、正直でいること、それだけな気がします。

詳しく彼の人生を追っていないけど、心理療法から発展して,宇宙的ななかの ひとという存在 ということまで広げていったり、
クライエント対カウンセラー という構図から発展させて、
聴く人と話す人
という構図じゃなく、ひと と ひと がそこにいて、その場ですることということをはじめたのじゃないかな、と思う。(エンカウンターっていうみたい)(一対一じゃなくて多人数で集まって自由に表現する場?みたいな?)
(エンカウンターとは遭遇すること。接触。出会い。)
来談者中心療法(クライアント センター セラピー)という名称から
パーソン センタード アプローチ(人間中心アプローチ)という名づけのものに自分が行いたいことを変えたロジャースは
もっと健全に正直でいられるコミュニケーション、その場にいることで人自身の健全な姿、正直なそのひとの姿になれること、いることを大事にしたい人だったんじゃないかな、と思います。

山やま (2012.07.09)

ぼくもこの内田さんの言葉には目から鱗でした。
どうもよのなか「難しい言葉で相手を説得する」という話法がもてはやされていて、橋下市長なんかはその「世間の風潮」を象徴する存在だと思うんです。なんだかどんどんテクニカルになっていって、テクニカルであることがコミュニケーションに長けているとされるようになって、そういう人がもてはやされて。正直だけど不器用な人は、そういう勝ち馬ゲームからどんどん排除されていくんじゃないかという薄気味悪さがあります。
正直であること、「あなたはそこにいる」ということを贈ること、は難しいことだなあと、いろいろな制約に囲まれて暮らしていると思いますね。

ちなみに「侍場の」じゃなくて「街場の」でした。
本文は修正しておきましたのであしからず…。

こえり (2012.07.10)

だから
「難しい言葉じゃなくても人に通じる、うけとってもらえる」体験をすることがだいじだなぁ、とおもう。
言葉が、自分が言った言葉が通じないと、「わたしのことば、きもちをわかってほしい」「わたしという存在 が発した言葉を受け取ってほしい」→「そのことでわたしは自分は存在しているんだと言うことを確認できる」「だから」
みたいな思いが、
「私の言ってることが正しいんだから聞け」「わたしの正しさを認めろ」路線になっちゃったりするんだ。。

人を説得するための技術、みたいなものはある、んだろうと思う。本屋さんに行けば、ビジネス書、心理系の本とかは、たくさんあるだろうし。
でも説得しようとする心の中には(というか言葉を伝えようとする心の中かな)「ほんとうにこれでいいのかな。。」「自分のやってることは正しいんだろうか。。」みたいな揺れってある。

でも政治の場で「揺れ」たりしたり、「揺れ」を見透かされるような言葉遣いや態度したら、とたんに突っ込まれるだろうし、
政治と言うか、勝つか負けるか、みたいな会話の中だと「揺れ」は出したらよくないもの、みたいなものになっちゃう。

充分な「勝ち負けじゃない」関係、を持っている人、体験している人は
テクニックだけの言葉に安心して違和感を覚えられるのかなと思う。(安心して違和感を覚えるって変かもしれないけど、「おかしいのはこっちなのかな」、「まちがってるのはこっちなのかな」、とか思わずに「変」と思える)

>正直であること、「あなたはそこにいる」ということを贈ること、は難しいことだなあと、いろいろな制約に囲まれて暮らしていると思いますね。

自分の心さえ、柔軟で外に開いていれば
挨拶してもらえること、自分宛に はがき や メールが届くこと
それだけでも「わたしがここにいる」ってことを認めてもらえてるなぁ、って感じて、そこからよろこびを感じられるんだろうな、って。
外にだけ開いているんじゃなく、内にも開いているのがよい状態だ、みたいな文章を読んだよ。

ーカールロジャースの文章より

「自分の内部と外部の世界両方に心を開いている。経験、新しい生き方、新しい考えや概念に開かれている」

パーソンドセンターアプローチの条件かな。(前にところどころ、書き写した文だから不明)

山やま (2012.07.11)

>でも政治の場で「揺れ」たりしたり、「揺れ」を見透かされるような言葉遣いや態度したら、とたんに突っ込まれるだろうし、

これはもう鳩山さんだよね。ブレまくりと揶揄されたけど、ぼくは正直で好きだったな。政治家(首相)としてどうなのかはまた別かもしれないけど。

政治家っていうのはある種の話術、技術が必要なのかもしれない。けれども、それだけが先行してどんどん突っ走っていっちゃうのはやっぱり違和感を覚えるなあ。ほんとうにテクニカルな言葉だけなんだよね。屁理屈。あるいは誰からも突っ込まれないように配慮した結果としての、きれいな言葉の羅列。そうやってどんどん言葉がつるんつるんになっていくの、気持ち悪いよ。野田首相の再稼働宣言とか最悪だったもんね。吐き気したよ。

だからぼくは、「勝ち負けじゃない」関係とか「難しい言葉じゃなくても人に通じる、うけとってもらえる」体験をしているってことなんだろうね。自分じゃよくわからないけど。でも、そう言われるとそうかもしれない、実際口べたでどもり気味だし。

あなたがあなたのままでここにいていいんですよと相手を肯定してあげるためには、まずわたしがわたしはここにいるということを知ることからはじまるような気がしてたんだけど、そうか、それにはまず「うけとってもらった」という体験が必要なのかもしれないね。これは自分が親になって、子どもに対する態度としても考えさせられるなあ。










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