これからの生活のはなし(1)

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前回の記事「これからの政治のはなし」は、まとまりがなくてなんだかよくわからない記事でしたが、今回はその続きです。今回も論点がうまく絞れるかどうか、うまくまとまるかわかりませんが、いま感じているこの「感じ」をいちどアウトプットしておきたいので書いてみます。


これからの政治の対立軸

民主党執行部の崩壊から思いを強くすることは、これからの政治の対立軸を明確にしようという話でした。内田樹さん曰くところの「福田派」対「田中派」であり、「対米従属」対「対米自立」という対立軸。原発にしろ消費税にしろTPPにしろ、その対立軸の結果として方向性が見えてくるものです。ぼくはこの対立軸を「アメリカ型」と「北欧型」と言い換えましたが、もっと適切に言うならば「グローバル」対「ローカル」という軸だと思います。

「小沢・鳩山派」と「自民党化する民主党執行部」の対立軸っていうのもそこにあるのではないかと。小沢一郎という人の人物像ばかりが強調されますけれども、議員同士の対立とかグループ分けを考慮するなら小沢一郎という個人を軸にするのではなくて、政治的ビジョンを軸に考えるべきでしょう。なぜ民主党はいま分裂しているのか。


グローバリゼーション=アメリカのローカリゼーション

経済において現在の世界を席巻している「グローバリゼーション」っていうのは、世界のアメリカ化、つまりアメリカによるアメリカのローカリゼーションです。だから「対米従属」っていうのは「アメリカのローカリゼーション」という図式に乗っかるという構図です。アメリカ型のグローバル市場主義では、アメリカ式の大量生産によるコスト削減、作業効率の徹底が礼賛されます。そしてアメリカンドリーム的なサクセスモデルが華を添える。有名になるとかお金持ちになるということがつまり成功することだというイメージをマスメディアもずっと提起してきました。冷戦時代にはこの構図は有効でした。日本はまだ経済発展途上にあり、そのようなサクセスモデルが一億総中流という豊かさを獲得する原動力となりました。そしてなにより、実際に世界はアメリカを中心としていた。

ところが冷戦が終わり、世界がフラット化してきて、アメリカの一国支配体制は終焉を迎えています。政治的にも、経済的にも、世界がアメリカを必要とする時代は終わりました。ブッシュのイラク侵攻が欺瞞であったという見方は、世界の少なからぬ人たちの認識となっており、各地で起きているデモも「アメリカのローカリゼーション」に対するアンチテーゼであると考えると、この対立軸が明確になってきます。アメリカ自国で起きているOWS(Occupy Wall Street ウォール街を占拠せよ)だってそうですよね。

世界はもう(必ずしも)アメリカを必要としていない。けれどもアメリカは、市場としての世界を必要としている。

アメリカはすでに自国の産業を食いつぶしてしまったのです。もはや戦争産業くらいしかないけれども、なかなか大っぴらに戦争もできない。手品のような金融マジックも破綻した。だから他国に市場を求める必要があるわけで、TPPとはつまりそういうことでしょう。アメリカ国内の市民はTPPのことなんてほとんど知らないといいます。そりゃそうでしょう、外資系の大企業が日本に市場を広げて利潤を得るっていうだけで、アメリカ自国の産業は少しも潤わないわけですから。アメリカの政府が大切にしているのは「国民経済」ではなく「グローバル経済」なんですね。

そしてそれはアメリカにおんぶに抱っこを続けてきた日本にもそのまま当てはまります。新自由主義っていうのはつまりアメリカンドリーム的なサクセスモデル。実際にはアメリカでは1%の富裕層と99%のそれ以外の層との格差が広がっていますけれども。

日本政府が「国民経済」ではなく「グローバル経済」を大切にしていることは明らかです。野田首相の大飯原発再稼働声明の文章なんか、「国民」の箇所を「経団連」に置き換えて読んでみると実にすっきり筋が通る。「国民の生活が第一。」と言っていた頃の民主党のすがたはそこには無く、官僚が与し易い大企業優遇の姿勢が透けて見えます。だから野田政権、すなわち自民党化した民主党、あるいはこれが自民党でも同じですが「対米従属」派が目指すのは「競争と格付け、勝ち組への資源集中による国際競争の勝利」なわけです。ちなみにみんなの党は明確に新自由主義を標榜しています。ある意味では分かりやすい。

自民党は50年にも渡る与党の立場でずっと新自由主義的な政策を推進してきたかというと、そうでもない。むかしの自民党はその都度、割とうまいことやってきたはず(詳しくは知りませんが)。しかし、ここ10年ほどの自民党は「保守」という言葉の意味をはき違えてしまったようです。とくに野党の立場に落ちてからの劣化は目に余ります。憲法の意味さえ変えて国民を縛り付けようとするかのような改憲案などはひどいものでした。彼らが「対米従属」路線から逃れられないのは、戦後ずっとこれで経済成長がうまくいったんだからという成功体験の図式によるものなんだろうなと思っています。

戦後の日本が経済成長を遂げたのは製造業の躍進によるものでした。アメリカ式の大量生産型工場を整備し、手先が器用でまめな国民性によって作られる精巧なメイドインジャパン製品が世界で(というか主にアメリカで)人気を博した。そうやって日本は、列強諸国に追いついた。でもそれは追いつくまでが有効なタームだったんですね。日本が今度は先進国の立場になった時に、同じように製造業を伸ばそうとしても、なかなか伸びしろが無い。それどころか、日本国内のグローバル企業は、自社工場の拠点をどんどん海外に移しています。むろんそのほうが人件費が安く済むからです。コスト削減、作業効率の徹底が善とされるグローバリゼーションの文脈では当然の帰結です。そしてまたこれはアメリカと同じ道を辿っていると言えます。つまり自国の産業を投げ打って、コストと効率だけを理由に雇用を海外へ求めるというその姿勢は「国民経済」ではなく「グローバル経済」を大切にしているということに他なりません。でもそれは大企業が悪いというよりも、国の政策がそうなんです。


そして原発のこと

さて、そろそろ原発の話に移ります。原発の問題はあまりに考えるべきイシューが広すぎて、何処から取っかかればいいのか分からなくなってしまうのですが、まずは再稼働に関して。再稼働の是非をめぐり国論が二分しているとよく言われます。その対立軸ってどこにあるんでしょうか。

夏場の電力を確保できるかどうか。そこがいちばんの争点でしょうか。再稼働容認派は、必ず電力不足を理由に挙げます。電力不足により経済が停滞して国民生活に影響を与えるという旨。場合によっては、エアコン無しで熱中症が増えたり、病院の停電により死者が出る恐れがあるという指摘もあるようですが、この辺りの信憑性はぼくには判断できません。それに対して、再稼働反対派は原発無しでも電力は足りると言います。どちらの側も明確な根拠や数字的なデータがある訳ではなく、ここにおいて議論は平行線を辿ります。

でもこれ、電力が「足りる」「足りない」っていうそもそもの前提への認識に差があるんじゃないかと思っています。すなわち、再稼働容認派はいまのままの電力や経済を維持したいと考え、反対派は節電はもとよりいまの暮らしからスローダウンすることを前提にしている。だから「足りる」「足りない」の尺度が違っちゃってるわけで。

原発再稼働に反対して先日民主党を離党した平智之議員は、ブログに「文明の転換点」というタイトルを記しています。

そう、まさにこのタイトルの通り、脱原発っていうのは文明の転換なんです。暮らし方を変えないといけない。電気をじゃぶじゃぶ使うような産業構造を見直さないといけない。そこに同意するかしないかで、「電力」への見方は大きく異なってくる。再生可能エネルギーはもちろんこれからの大事な指標になると思いますが、それはエネルギーの自治という観点から議論されるべきであって、それで原発の不足分を賄うとかっていう問題ではないんです。

じゃあ、どういう方向に文明をシフトするのか。前半で長々とグローバリゼーションについて書いたのはこのためです。アメリカ型のグローバル市場主義、競争と格付け、勝ち組への資源集中による国際競争の勝利、それらによる経済成長という戦略が、原子力発電を必要としたと考えるのは唐突でしょうか。ぼくは妥当に思えます。電力消費量が家庭3企業7の割合で、大手企業の電力料金は家庭の3分の1、電力利益の7割が家庭から、というのはやっぱ同じ方向を向いていると思えるわけで。あくまでも経済成長戦略として原子力は推進されてきたわけだし、それは今回の再稼働においても同じだと思います。国民の不安よりも経済成長戦略を首相は選んだわけです。

脱原発とは、この経済成長戦略から身を引くということです。アメリカンドリーム的なサクセスモデルから脱却するということです。経済はそこそこでいい、大きな贅沢はしなくていい、身の回りの人たちが健康で幸せならそれでいい。そんな感じでしょうか。これすなわち、「グローバル」対「ローカル」という対立軸です。
いまさら江戸時代の生活には戻れないと言う人もいますが、どこをどうしたら原発停止でそこまで生活レベルが下がると考えられるのか、ぼくは分かりません。震災〜原発事故という未曾有の出来事、その直後に各地で発生した助け合いの風景、そして節電生活という体験などを通して、いままでの生活を見つめ直し、自分にとってほんとうに大事なものは何なのか、自分の暮らしの中でほんとうに守るべきものは何なのかを考え直した人は多いはずです。それから中央と地方の関係も。

想田和弘さんのツイートより
東日本大震災で大きな中央集権的なシステムが危機的状況に極めて弱く機能しないことは、みんなつくづく身にしみたと思ったんだけどな。原発しかり、日本政府しかり。
本当に目指すべきは、よく機能する程よい規模の組織をなるべくたくさん作って維持することじゃないのかね。維新の会が目の敵にしている「お役所体質」だって、巨大な組織の方が育ち易い。危機管理的にも、ひとつやられてもこっちが生きててよかった、というリスクヘッジをすべきでしょう。

脱原発を唱えるなら、巨大な中央集権的システム全般に疑念の目を向けるべきなわけで。そうでないと、たとえ原発が減ったり廃絶されたりしても、それに代わる何か巨大な中央集権的システムが出て来てしまうだけです。いま、政治の世界では明らかにそういう傾向になりつつある。


原発推進派とはいわないまでも、「脱原発」あるいは「反原発」の運動に対してシニカルな批判を寄せる人がけっこういますね。たぶんそれは「脱原発」あるいは「反原発」を主張しながらも、自身の暮らしを変えるという発想が無いままに「電力は足りる」と言ってしまう人(つまり自身を蚊帳の外に置いた陰謀論)が目立ってしまうからなのかもしれません。それで両者の溝がまた深くなる。
でもほんとうは「脱原発」を願う人の多くは、文明の転換ということを意識している人たちなんじゃないかとぼくは思っています。根拠はありませんし、単なるぼくの願望かもしれないですが。

原発再稼働、これからの原発政策について「信を問う」ということはすなわち、ぼくたちが今後どういった暮らしを望むのかということを自身で選ぶということに他なりません。「グローバル」なのか「ローカル」なのか。大事にしたいのは「経済」なのか「いのち」なのか。そこを抜きにした議論は詭弁争いにしかならないです。そしてその物差しは、基地問題にも社会保障問題にもTPPにもぜんぶ通じる話です。



さて、それじゃあ「グローバル」に対抗する「ローカル」な文明ってどういうものなのか、アメリカンドリーム的なサクセスモデルに対抗する幸せのかたちって何なのか。実はこの記事ではそこについて書きたかったのですが、そこに至るまでの経緯を書きはじめたら長くなってしまったのでまた次回。キーワードは廃県置藩、大政奉還、鎖国です。


これからの生活のはなし(1)

これからの生活のはなし(1) 2012.06.21 Thursday [食・生活] comments(0)
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