沖縄と本土 二面性

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沖縄が日本に復帰してから今日で40年だそうです。
沖縄 復帰40年の節目の年 - NHKニュース

だそうです、っていう言い方が象徴していますが、TLに流れる幾つかのツイートがなければ知らないままだったかもしれません。つまりは関心が薄いし、他人事です。まずはそういう自分を認識させられます。

NHKニュースより
NHKが、ことし行った世論調査では、「本土の人は沖縄の人の気持ちを理解していると思うか」という質問に対し、「理解していない」と答えた人が71%と、10年前の調査と比べて10ポイント以上増えています。


NHKが調査するまでもなく、本土の人間は沖縄の気持ちを理解なんかしていないし、そもそも沖縄のことを考えていないし、気にも留めていないでしょう。基地問題と外交について持論をぶつけ合う言説はよく目にしますが、それって政争の材料になっているだけで、「沖縄のことを考えている」わけではないように感じます。沖縄の住民のことは放ったらかしで、イデオロギーのネタに利用されているだけのような。そしてだいたいの「ふつうの人」は、その手のイデオロギー論争は忌諱してしまうわけで、ますます沖縄は遠くなります。


Coccoのことば

沖縄出身のCoccoは、普天間をめぐる迷走が空転する頃に「ニライカナイ」という曲をリリースしました。その前後にテレビのインタビューにも出演しており、ぼくはその姿と言葉にとても感銘を受け当時のブログに記しました。→Coccoと沖縄

鳩山首相の「最低でも県外」発言を受け、基地への反対運動が高まりを見せた「人間の鎖」の映像をバックに、Coccoはこう語っていました。

沖縄の人がこんなに一緒になったことはなかった

歌を歌う人はみんな、夢はきっと叶う、って歌う。
けど、夢が叶ったことなんていちどもなかった。

(基地という現実を、あきらめて、受け止めて)
なんくるないさあ、って、しょうがないよ、って
明るくウタを歌ってすごすしかなかった、
おじいとおばあに、
ああ、やっと見せてあげられる、
夢が叶うこともあるんだよ、って
やっとそう伝えることが出来るんだって


しかし、けっきょく「最低でも県外」が守られることは無かったわけです。どのような気持ちでその現実を受け止めなければならなかったか。それでも彼女は沖縄と向き合います。当時の新曲には、その強い思いが込められているのを感じました。

沖縄に殺される。
沖縄のことを考えると、苦しくて、苦しくて
毎日のニュースを見るだけで死にそうになる。


そういえば、Mステに出演して「ニライカナイ」を猛々しく歌った後に、その場に倒れ込むかのように衰弱した彼女の様子がちらりと映ったことをぼくはよく覚えています。ああ、この人はそれだけ全霊をかけて、たましいをふりしぼってうたを歌っているのだと、なんだか畏れ多い気持ちになりました。


沖縄と日本

「長引く基地問題の解決に向けた国民的な議論を」とか「自立した経済の発展」とか、本土のメディアはもっともらしいことを語ります。でも、本土に暮らすぼくたちはいったい沖縄のことをどれだけ理解しているのか。倒れ込むくらいに引き裂かれる、それが日常となっている人たちにどれだけ寄り添っているのか。その気持ちのすべてを理解はできなくとも、どれだけ想像することができるか。

かといって、たとえばCoccoの言葉のほんとうの意味などというものは、体験した本人以外には知ることはできません。今回のように、年に一度のイベントの時にだけ、まるで沖縄の代弁者であるかのようにふるまってわかったつもりになるのも違うと思います。被害者の感情を勝手に代弁して自己満足する“マイノリティ憑依”は、あくまで感情レベルでの憑依にすぎません。そういうのって、当事者からすれば余計なお世話です(ぼくならそう思う)。そうではなく、ただ知ること。

本土の人間は、沖縄人にはなり得ない。当事者にはなり得ない。人でなしと思われようが沖縄のほんとうの気持ちなんてわかりっこないんです。そのことはドライに捉えていいと思う。そのことをわかった上で、現場の声に耳を傾けること。同じ現場に立てない者として、違う立場から一緒に考えていくこと。それが誠実な態度だと思うし、寄り添うっていうことなんじゃいかと。これは震災被災地に対する接し方と同じことだと思います。

自分自身の沖縄に対する無知と無関心を顧みるに、沖縄のことをちゃんと伝えている本土のメディアなんて存在しないんじゃないかと思ったりもします。これは直感ですが、ほんとうは沖縄の問題って、戦後日本の問題の縮図でもあるのではないかと(2010年11月の沖縄知事選の時にそう感じました)。沖縄の問題を知ることは、日本を知ることでもあり、つまりは自分自身を知ることなんじゃないかと思います。本土のメディアは、沖縄のことだけでなく、日本のこともわかっていないし伝えていない。日本はアメリカの属国だという前提の上で、それをどう咀嚼していくかを論じるメディアは本土には存在しません。

ぼくは以前、沖縄米軍の抑止力についてという記事を書きました。ほとんど内田樹さんの受け売りです。日本はアメリカの属国である(沖縄の本土復帰後もその構図は変わっていない)という耐えがたい事実を受け入れて、それを前提にしないと、基地問題の議論のスタートラインにすら立てないという、内田樹さんの指摘以上に説得力のある処方箋をぼくは知りません。

沖縄について、基地問題や外交の専門家、政治家の主張はぐぐればわんさか出てきます。そうやって定型の蘊蓄をあれこれ仕込んで脳みその外堀を固めてしまう前に、まずは内田樹さんの記事を読んでいただくのがよろしいかと思います。下記リンクは沖縄タイムスのインタビューに応えたものです。

沖縄タイムス・ロングインタビュー - 内田樹の研究室

沖縄問題は、政治家や学者から「筋が通った話」を聴いた覚えがありません。
「筋が通っている」のは沖縄現地の人たちの「基地があるせいで、生活者レベルで苦しみが多い」ということと「基地があるせいで、経済的振興策の恩恵を受けている」ということに「引き裂かれている」という現実感覚だけです。
「引き裂かれていて、気持ちが片付かない」という沖縄の人の感覚だけは「筋が通っている」。


これがすべてを物語っているように思います。
基地のせいで苦しむ人と、基地のおかげで潤う人。沖縄にもそういう二面性がある。あるいは、ひとりの沖縄人の中にもそういった二面性があるかもしれない。どちらが正しいのかはわかりません。ただ、沖縄の人たちはそういった二面性と何十年もつきあい続けてこなければならなかったということは事実でしょう。

自己の二面性と向き合うのは、苦痛を伴います。白黒はっきりしなくて気持ち悪いし、不安にも耐えなければなりません。誰だって気持ち悪いのはイヤです。気持ち悪い要素はなるべく排除したいって思う。早くすっきりしたいと思う。でもほんとうにお前はそんなにすっきりとした人間なのかと自分に問いかけてみる。よくわからない。わからなくて気持ち悪い。

日本は属国だということを直視すること。それは日本人にとって、メディアにとって堪え難いことかもしれません。でも現実としてそう考えたほうが腑に落ちるし、日本を取り巻くいろいろな問題が線でつながってくる。まずは自分自身のことを見つめなければ、自分の言葉は出てきません。議論のスタートラインにすら立てない。内田さんの仰る通り、そういうことだと思います。


沖縄のメディアと全国紙

小沢一郎に無罪判決が出た時に、この判決の意義をまともに伝えたのは琉球新報でした。

小沢判決/検察の「闇」が裁かれた 全面可視化しか道はない - 琉球新報

対して、本土メディアの論調はこんな感じ。
読売:復権の前にやることがある「秘書任せ」の強弁は許されない
朝日:政治的けじめ、どうつける
日経:無罪判決を「小沢政局」につなげるな
毎日:なお政治的責任は重い
産経:証人喚問で「潔白」示せ このまま復権は許されない
東京:許せぬ検察の市民誤導 / 政争よりも政策実現を

沖縄の問題ではないのに、沖縄のメディアがほとんど唯一まともな記事を書いている。この件に限らず、琉球新報や沖縄タイムスの記事はいつもまともだと感じます。なぜ沖縄の新聞はまともなのでしょうか。報道陣の意識が高いのか、それとも県民の意識が高いのか。米軍基地に象徴されるように沖縄が明らかに日本の中でも虐げられていることと関係あるのでしょうか。あるとしたらどのように。

沖縄発のメディアは、小沢氏個人の問題よりも日本の構造的な問題を問います。いつだってそうです。全国紙は小沢氏個人の罪を問います。日本の構造的な問題は黙して語らず、スケープゴートを探す。いつだってそうです。これは、そのままそれを受け取る購読者の意識にも反映します。

日本の構造的な問題を問うということは、自分自身を問うということ。沖縄発のメディアが日本の構造的な問題を問うことができるのは、引き裂かれた自己の二面性と向き合っている(60年以上もそうせざるをえなかった)からではないかと思います。自分たちの中にある二面性と向き合うこと、それが自省ということだと思います。全国紙そしてぼくたち有権者に圧倒的に足りないのは自省です。

日本はアメリカの属国であるという視座に立ち、沖縄の問題はそこから生まれたという認識のもとで、さてじゃあどうしようねと考えていこうとするならば、沖縄の問題は他人事ではなくなります。沖縄が持つ二面性は、そっくりそのまま日本が持つ二面性です。二面性を内包する気持ち悪さを、気持ち悪いままに携えること。自己の気持ち悪さを受け止めることができたときに、はじめて、立場の違う他者や共感できない他者のことも受け止める(ないしは受け流す)ことができるようになるのではないかと思います。そうすることでしか多様性は担保できないのではないかと。

沖縄の問題を解決に導くことができるとしたら、それは白黒はっきりつけた「正解」を提示することではなく、二面性や多様性の中でお互いが落としどころを探りながら「最適解」を求めること、求め続けることでしかないように思います。簡単な言葉でまとめたり、正解を求めようとする言説はほとんど詭弁です。

長い旅の末に、ナウシカが墓所で腐海の秘密を知り、1000年前の人類と対峙して交わした台詞を思い起こします。
「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」
「いのちは闇の中のまたたく光だ」


闇は自分の中に「も」あります。世界をかたちづくっているのは自分「も」含めた、闇も光もある多様なグレーゾーンです。闇とも向き合ってともに付き合っていく覚悟があるならば、そうしてなされた熟慮があるならば、闇の中から光を見いだすこともできるでしょう。 いや、できると信じたい。利権ばかりむさぼってる奴も、清く正しいことばかり言ってる奴も、どっちも嘘こいてんじゃねーよって思います。そのどちらも自己の中に内在しているはずです。

ぼくたちは沖縄の人たちのふるまいや暮らしぶりから学ぶことは多いのでは。

沖縄と本土 二面性

沖縄と本土 二面性 2012.05.15 Tuesday [政治・メディア] comments(0)
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