入学式で考えた ぼくには「常識」がない? 高橋源一郎(朝日新聞 論壇時評)
2012.04.26 Thursday [子育て・教育]
これは書かずにいられない。今朝の朝日新聞に掲載された高橋源一郎さんの「教育」についての記事。ちょうど一昨日ブログに書いたこととかぶるし、大事なことがたくさん書いてある。転載せずにはいられない(著作権云々で怒られたら消します)。
子を持つ親として、「常識」がない大人として、まったくもって共感します。
大人の都合に合わせた教育改革が幅をきかせるようになりました。それって子どもが育つための教育じゃなくて、大人がラクをするための教育です。子どもたちが、自分が決めて自分で責任を持とうとするためには、大人が裏から支援する必要があります。それを阻害するのは、実は国旗でも国歌でも教育委員会でもなく、自分自身だったりします。子どもを絶対に操ろうとしないことが実はいちばん難しい。一昨日のブログ(「教育」の出発点(大阪市の保育所面積基準緩和および学童保育予算廃止について))に書いたことですが、くり返します。子どもと向き合うということは、自分と向き合うということです。それが教育問題の核心だと思います。子どもがどれだけ自由にものを考えられるかという場を与えてあげることは、そのまま大人自身にはね返ってくるものだと、ぼくは実感しています。「子どもを育てることの最終的な受益者は共同体そのものである」という内田樹さんの言葉がありますが、オランダをはじめとする北欧あたりの教育観って、たぶんそのことを理解している成熟した大人たちによるものだと思うんです。
ぼくはまだ2歳児の父親であり、目の前の子育てに向き合うだけで精一杯なので、小学生の親という立場になったときに、たとえば国家斉唱の場面でどのようにふるまったらいいのかなんて見当もつきません。高橋源一郎さんは今朝のツイートで、自身のふるまい方についても考えを述べています。
高橋源一郎さんのツイートより
こういう大人にぼくはしびれます。自分もそうありたいと思います。
高橋源一郎さんが、親という立場から発する言葉にぼくはいつも大いに共感しています。親という立場からの視線を感じる『「悪」と戦う』は、ぼくにとって大切な一冊です(ぼくはあの小説は、子どもが見る「彼岸」を描いた物語だと思っています)。息子が0歳6ヶ月の頃、夜中に一気読みしてしばらく放心した後、隣でくーくー寝ている息子を抱きしめたい気持ちになったことをよく覚えています。ここ数日中に産まれてくるであろう娘の顔を見ることができたら、もういちどこの本を読んで、「子どもの声」へ思いを馳せたいと思っています。
パパ友のつぶやきです。
山中俊人さんのツイート
ぼくもそう信じています。
生命が産まれる瞬間に立ち会ったときの感覚が子育ての原体験にあります。ここに書いていることも、あくまで2歳児の親としての感覚です。いつもいましか書けないなあと思いながら書いてます。小学生の親になったら、びしっと起立してめっちゃ気合い入れて歌ってるかもしれません。そのときはごめんね。
入学式で考えた ぼくには「常識」がない? 高橋源一郎
朝日新聞 平成24年4月26日朝刊 論壇時評より
1年前、長男のれんちゃんが小学生になった時のことだ。最初に、校長先生が、舞台中央の演壇に向かって深くお辞儀をした。でも、演壇にはなにもない。「はて?」と思って、よく見ると、左奥に日の丸の旗がある。誰に向かって、何のためにお辞儀をしているんだろう。まるでわからない。ぼくには常識がないからなのかな。しばらくして、「国家斉唱」の番になった。そしたら、ぼくは、なんだか憂鬱になった。誰がこんなやり方を決めたんだろう。半月前の保育園の卒園式には、あんなに感動したのに。
で、突然気づいたんだ。卒園式では、子どもたちがたくさんの歌を歌った。みんな、子どものための歌だった。でも、小学校の入学式で歌うのは、子どものための歌じゃない。これは、子どもたちのための式じゃなかったんだ!だから、こう思ったよ。「小学校の入学式は、たぶん、キョウイクイインカイとかそれを指導しているエラい人のための式なんだ。だから、イヤになっちゃうんだ。現場の先生に任せたら、もっと嬉しいものになったのになあ」って。
家に戻って、「入学式」のことをちょっと調べてみた。アメリカでは、登校する最初の日、みんな講堂に集合する。真ん中にテーブルを置いて、そこにジュースやチョコレートを並べる。雰囲気は、まるでパーティみたいだって書いてる人がいた。それって式じゃないよね。オーストラリアやイギリスでも、入学式はないみたいだし、そもそも「入学式」自体が、「常識」ってわけじゃなかったんだ。ランドセルは、もともと「軍隊」と共に輸入された背嚢が起源だし、日本で最初に運動会をやったのは海軍兵学校だった。「入学式」って、実は「入隊式」なんじゃないのかな。
今月、「教育」について論じたものが多かったのは、「教育」に、たいへんなことが起こっているからなんだろうか。
大活躍しているのは尾木ママこと尾木直樹さん。二つも雑誌に登場している(※1・2)。
尾木さんがいっているのは、(日本の)みんなが「常識」だと思っていることが、実はそうじゃないってことだ。 この国の外では、教育はどうなっているのか。世界を飛び回って、尾木ママは調べる。たとえば、「世界で大学入試試験をやっている国はほとんどない」とか、日本のパパやママは、世界の平均の2倍から3倍も教育にお金を払わされているとか。知らないことばかりだよ。オランダでは、「朝学校に行って1時間目から5,6時間目までの時間割を決定するのは子どもたち自身」で、先生はそれを支援する役目。そして子どもたちは「自分が決めたことだから自分で責任を持とう」とするていうんだ。宿題だってまったくないってさ(※1)。それでも、160カ国からも移民が集まるこの国で、日本と学力が変わらないのは、「子どもたちの人権」こそ最優先だ、という考え方があるからなのかもしれないね。
あなたの国では子どもたちが悲惨な状態のまま放置されている、っていわれたら誰だって驚くよ。しかも、その場所が「学校」だっていうんだから。桜井智恵子さんの『子どもの声を社会へ』(※3)の最初の方に書いてあるのはこのことだ。国連・子どもの権利委員会が、厳しい競争環境が子どもたちをイジメや精神障害といった不幸な状態に陥らせていると日本に勧告した(※4)。へえ、そんな風に見られていたのか。ぼくは「世界の常識」を知らなかったんだ。
日本で初めて「子どもの人権オンブズパーソン」制度を作ったのは兵庫県川西市で、桜井さんはそのオンブズパーソン。競争社会は、弱い者に負担を強いる社会だ。そして、もともと弱い者とは子どものことだ。桜井さんは、疲れ傷ついた彼らの声に耳をかたむけ、立ち上がる手助けをする。その過程で、桜井さんは気づく。子どもたちが、悲鳴のように、この社会の構造を変えてほしいって訴えてることに。桜井さんは、こういう。
「私たちの社会は子どもたちが引き継いでくれる。だから大人は、子どもに失礼のないように、思考停止をしてはいけない。」
その通りだ。この社会は、やがて子どもたちに引き継がれる。なのに、ぼくたちの「常識」には「子どもに失礼のないように」ということばがないんだ。
「常識」があてにならないのは、それだけじゃない。ぼくたちは、ギリシャをヨーロッパの一部だと思っている。でも、村田奈々子さんは、確かに古代ギリシャ文明はヨーロッパ文明を産んだけど、中世以降、正教会に属するキリスト教の地だったギリシャはヨーロッパではなかったと書いている(※5)。だから、ヨーロッパはギリシャに冷たいんだってさ!
それから。北朝鮮の「ミサイル」発射の件もなんか変な気がするんだよ。海外のメディアは、「ロケット」と呼んでるみたいだけど、日本にいると、目に飛び込んでくるのは「ミサイル」ということばだ。弾頭を装着すれば「ミサイル」で、宇宙開発が目的なら「ロケット」というらしいんだけど、そんな違い、なんか意味があるのかな。っていうか、その「ミサイル」より、アメリカ軍が持ち込んでいるかもしれない核兵器や福島第一原発4号機の燃料プールの方がずっと怖いと思っちゃうのは、ぼくに「常識」がないからなんだろうか。
※1 尾木直樹「子どもたちの新しい人権のために」(現代思想4月号)
※2 尾木直樹・上肥信雄の対談「学校を死なせないために」(世界5月号)
※3 桜井智恵子『子どもの声を社会へ』(岩波新書、2月刊)
※4 国連子どもの権利委員会の「最終見解:日本」(外務省のホームページから、http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/pdfs/1006_kj03_kenkai.pdf)
※5 村田奈々子「ギリシャはどれほど『ヨーロッパ』か?」(中央公論5月号)
子を持つ親として、「常識」がない大人として、まったくもって共感します。
大人の都合に合わせた教育改革が幅をきかせるようになりました。それって子どもが育つための教育じゃなくて、大人がラクをするための教育です。子どもたちが、自分が決めて自分で責任を持とうとするためには、大人が裏から支援する必要があります。それを阻害するのは、実は国旗でも国歌でも教育委員会でもなく、自分自身だったりします。子どもを絶対に操ろうとしないことが実はいちばん難しい。一昨日のブログ(「教育」の出発点(大阪市の保育所面積基準緩和および学童保育予算廃止について))に書いたことですが、くり返します。子どもと向き合うということは、自分と向き合うということです。それが教育問題の核心だと思います。子どもがどれだけ自由にものを考えられるかという場を与えてあげることは、そのまま大人自身にはね返ってくるものだと、ぼくは実感しています。「子どもを育てることの最終的な受益者は共同体そのものである」という内田樹さんの言葉がありますが、オランダをはじめとする北欧あたりの教育観って、たぶんそのことを理解している成熟した大人たちによるものだと思うんです。
ぼくはまだ2歳児の父親であり、目の前の子育てに向き合うだけで精一杯なので、小学生の親という立場になったときに、たとえば国家斉唱の場面でどのようにふるまったらいいのかなんて見当もつきません。高橋源一郎さんは今朝のツイートで、自身のふるまい方についても考えを述べています。
高橋源一郎さんのツイートより
@kenichiromogi 読んでくださってありがとうございます。小学校1・2年の子どもという「当事者」を持つ者として、大学教員として、(公)教育は、とても切実な問題です。おそらく、この社会にとっても要となることがらだと思います。
森岡さんへの返信に書いたように、ぼくは、「国歌斉唱」時、できるだけそっと席を離れています。心をこめて国歌を歌っている方の気持を害したくないからです。歌いたい人は、歌いたくない人の気持に配慮し、歌いたくない人は歌いたい人の気持を慮る。そういう国であったらいいと思います。
こういう大人にぼくはしびれます。自分もそうありたいと思います。
高橋源一郎さんが、親という立場から発する言葉にぼくはいつも大いに共感しています。親という立場からの視線を感じる『「悪」と戦う』は、ぼくにとって大切な一冊です(ぼくはあの小説は、子どもが見る「彼岸」を描いた物語だと思っています)。息子が0歳6ヶ月の頃、夜中に一気読みしてしばらく放心した後、隣でくーくー寝ている息子を抱きしめたい気持ちになったことをよく覚えています。ここ数日中に産まれてくるであろう娘の顔を見ることができたら、もういちどこの本を読んで、「子どもの声」へ思いを馳せたいと思っています。
パパ友のつぶやきです。
山中俊人さんのツイート
生まれたままの赤ん坊を、この手で初めて抱いた時感じたこと。あの日の感覚が残る今しか生めない言葉があると、僕は信じています。
ぼくもそう信じています。
生命が産まれる瞬間に立ち会ったときの感覚が子育ての原体験にあります。ここに書いていることも、あくまで2歳児の親としての感覚です。いつもいましか書けないなあと思いながら書いてます。小学生の親になったら、びしっと起立してめっちゃ気合い入れて歌ってるかもしれません。そのときはごめんね。
入学式で考えた ぼくには「常識」がない? 高橋源一郎(朝日新聞 論壇時評)
入学式で考えた ぼくには「常識」がない? 高橋源一郎(朝日新聞 論壇時評) 2012.04.26 Thursday [子育て・教育] comments(8) |
すっかりメディアに騙されていると思います。
参考までこちらの記事を読んでみてください
アメリカは毎朝、国旗に向かって敬礼します。
事実私もアメリカに留学していたときそうでした。
おそらく高橋さん、担当編集者は事実の裏付けをきちんと調べない人なんでしょうね。
そもそも朝日新聞ってがちがちの左寄りで、記事の内容がいつも他社に比べてかたよっていますもんね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q109424800