子どもが見る彼岸

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前回のエントリー「なまはげの潜在的需要」を愚樵さんがおもしろがってくださり、コメントを残してくれた。おふざけ半分の記事だったのが、なるほどそういう視点もあるのかと、一気に哲学的に思えてきた。

人間は彼岸より来て此岸にいたり、彼岸へと返る

子どもって言うのは彼岸に近い存在ですよね、大人よりずっと。中国ではお化けは「鬼」になるらしいですが、いずれにしても両者は彼岸の存在。これから此岸の只中へ向かおうとする子どもは、彼岸の存在であるところの「鬼」を恐怖する。が、此岸の只中へ来てしまうと、つまり、大人になると「鬼」はあり得ない遠くの存在になって、恐怖の対象でなくなる。


「人間は彼岸より来て此岸にいたり、彼岸へと返る」
これ、いい台詞だなあ。仏教の教えについてよく知っているわけではない(というかほとんど知らない)けれども、なんとなく「彼岸」「此岸」(あるいはもっとわかりやすく「あの世」と「この世」)という感覚は頭のどこかにうろうろとつきまとっている気がする。そういうものが在ることを普段とりたてて意識しているわけでもないけれども、無意識のうちに在るものとして認識しているような感覚。

彼岸会(お彼岸)という、祖先を供養する行事がある。この行事を彼岸と呼ぶのは、この期間中は「彼岸」から「此岸」への門が開くという意味なんだろうか、よく知らないが。そもそも仏壇の無い核家族で育ったぼくは、お彼岸という行事自体もほとんど経験が無く、何をするものなのかよくわかっていないのだ。ちょうど一昨日は彼岸の入りだったことを妻から聞いて知ったぐらい。共通認識の土壌が違うとはこういうことかと思う。
彼岸 - Wiki

ともあれ、「彼岸」の存在を信じている(それがなぜなのかは自分でもわからないが)ぼくにとって、「人間は彼岸より来て此岸にいたり、彼岸へと返る」という台詞はなんとなく心に響いたし、子どもが彼岸に近い存在であり、であるから同じく彼岸の存在である鬼が見えるという説には、なるほどなあと思ってしまった。

愚樵さんは、さらに関連記事を書いている。
霊から貨幣へ(6)〜〈霊〉の潜在的需要 その1 - 愚樵空論

ぼくが書いたのは、子どもを諌めるために親が「鬼(なまはげ)」を利用しているという世俗的な旨の記事であったが、この行為は「子どもという彼岸に近しい存在が、近いゆえに彼岸を信じるという普遍的特性を利用して、「なまはげ」を子どもたちを此岸に適応させるためのツールとして使う」のだという解釈。おもしろい。実におもしろい。

「此岸に適応させるためのツール」とは的を得たり。此岸で生きていくためには此岸の技法を学ぶことが必要であり、それを教えるためのツールなのだ、と解釈するとなんだかもっともらしい。けれども実際に親はそんなこと考えてはいない。鬼(なまはげ)の登場は、あくまでも「親の都合」に合わせた、自分勝手な願いであることはわかっている。わかっちゃいるけどやめられない。

そんな親としての愚痴に、愚樵さんはこう応える。

「なまはげ」もまたその地域の霊的作法だっだということではないでしょうか。「親の都合」はそうでしょうけれども、それだけに留まらない感じも強くありますよね。その留まらない部分が霊的作法の部分だったのでしょう、たぶん。現代ではそこのところが忘れられて、「親の都合」だけが残ったのではないでしょうか。


霊的作法。
内田樹氏はこの記事で「それぞれの社会集団は、「恐るべきもの」と折り合うために、それぞれ固有の「霊的作法」を持っている」と述べている。子が生まれればお宮参りをし、建物を建てる際には地鎮祭を執り行い、天皇陛下は五穀豊穣を祈る。それってべつに科学的根拠があるわけではない。そうせずにはいられない、ということじゃないかと思う。そしてその感覚っていうのは実は大事なんじゃないか。

かつて子どもの頃は見ていたはずの彼岸。ぼくたちは、大人になるにつれ「そんなガキな夢を見ることから卒業」し、物理法則が支配する「この世」に慣れていく。そのようにして彼岸から遠ざかって行く大人にとって、鬼(なまはげ)っていうのは、子どものためだけではなく大人自身が「彼岸」と「此岸」を繋ぐためのツールだったのかもしれない。だからこそ、伝統行事として今日まで受け継がれてきたのかもしれない。

原発供養 - 内田樹の研究室より
私はこの宗教的態度を日本人としてきわめて「伝統的」なものだと思う。
ばかばかしいと嗤う人は嗤えばいい。



子どもが見る彼岸

子どもが見ているであろう「彼岸」とはいったい何なのか。盒狂三賚困気鵑痢悄岼」と戦う』は、まさに子どもが見る「彼岸」を描いた小説だった(と、ぼくはいま解釈した)。行間から、そんな夢見る子どもたちへの愛情が溢れていた。



刊行当時の感想文がここにあった。そう、ぼくはこの小説を読み終えた時に息子を抱きしめたい気持ちになったのだ。それこそ、なにも願わずに、ただぎゅっと。

親になってはじめて子どもへの愛情というものを知った。子どもへの愛情っていうのは、此岸を支配する物理法則よりも、ずっと「彼岸」に近い質感のように感じる。「彼岸」へと向かう子どもたちの姿(きっとそうなんだろうと想像することで)を見て、同じく彼岸に近いところの愛情が誘発されたのかもしれない。もし、そこのところでつながっているのだとしたら。


息子が「抱っこ」とせがむ。
此岸の用事(雑事)で面倒なときもある。しかし、息子を抱っこしたときの、息子のにまっという笑顔は何ものにも代え難い。そんな気持ちを味わえるのもあと何年だろうか。いまはこの限られた時間を大事にしたい。この質感をいつまでも覚えておきたい。

子どもが見る彼岸

子どもが見る彼岸 2012.03.19 Monday [子育て・教育] comments(2)
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愚樵 (2012.03.20)

・山やまさん、おはようございます。

今日は彼岸の中日ですね。我が家、ではなくて、妻の実家のほうでは、今日は大量にぼた餅を作ることになっています。手伝いに狩り出されます。(^o^;

彼岸にはぼた餅 or お萩(春は牡丹、秋は萩)ですが、これもなぜなんでしょうねぇ。


>鬼(なまはげ)っていうのは、子どものためだけではなく大人自身が「彼岸」と「此岸」を繋ぐためのツールだったのかもしれない。

昔はそうだったのだと思います。現代でもその名残はあるかもしれませんが。昔の日本人の感覚では、「彼岸」と「此岸」は、「この世」のなかに混在していたみたいです。

現代人の感覚では「彼岸」=「あの世」/「此岸」=「この世」で、「あの世」はなるべく隠蔽するのが作法ですから、それにともなって「彼岸」も単に「胡散臭いもの」になった。物理法則が及びませんしね。

>子どもへの愛情っていうのは、此岸を支配する物理法則よりも、ずっと「彼岸」に近い質感のように感じる。

そう、物理法則とは無関係(とはいいきれないかもしれないが)な「質感」ですよね。それを「クオリア」と言っていいのかどうかはわかりませんが。「クオリア」は科学の最先端領域ということになっていますので。

霊的作法というのは、そうした「質感」を高めるための下準備なのではなかったのかな、というのが私の考えです。子どもが生まれたら、お七夜とか宮参りとか、七五三とか、現代的には誕生日のお祝い。学校に入れば、入学式、卒業式、運動会、などなど。どうでもいい人にはどうでも良いことですが、こうしたイベントを積極的に使って子どもへの愛情、ここでに言い方を使えば「質感」を高めようとする人は現代でも非常に多いですよね。そして、HowTo本なんかがよく売れたりしている。これらの形式がもう少し整うと「作法」になるんじゃないですかね?

現代は「霊」は「あの世」のものと認識され人々の意識の外へ追いやられていますが、意識はしなくてもみんな実はやっていると私は見ています。ただ、昔に比べると範囲は少なくなっている。昔はあらゆることに「霊的作法」があった。日本は八百万の神が棲まう国でしたから。

昔は作法を整えて、万物と「質感」を高めるための霊的コミュニケーションを行なった。あ、「霊的」と「垂直的」とは同義だと考えてもらっていいと思います。

山やま (2012.03.21)

ぼた餅作りおつかれさまでした。

>「彼岸」と「此岸」は、「この世」のなかに混在していた

なるほど。「彼岸」=「あの世」/「此岸」=「この世」という感覚でしたが、「この世」のなかに「彼岸」も「此岸」も存在している、と。なるほどなあ。とても興味深いです。










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