日本語2.0 政治言語のアップデート

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ここ数日の記事で考えている、論理的思考と感性的直感とのことに関連して。

朝日新聞の「天声人語」を読んで、茂木さんが朝から憤慨していた。曰く、このコラム欄は季節の移り変わりなどのエッセイとしては秀逸だけれども、政治のネタになるとひどいと。「緻密なロジックと世界観で語るべきことを、花鳥風月でごまかすから、読むべき見識が一つもない」との指摘に、なるほどなあと思った。

茂木健一郎連続ツイート「天声人語はいっそのこと、紅旗征戒わが事にあらずを貫いてはどうか」 - Togetterより
日本における「随筆」という言葉は、たとえば吉田兼好や清少納言のそれを思い起こさせるのであろう。感性に根ざして、簡潔に自然の動きや心のゆれを表現する。短い文章の中で世界観を示すわざは、日本語の一つの「精華」であって、末永く受け継いでいかなければならない。

英語のessayを、吉田兼好的な随筆と、狭くとってしまっているところに、日本の文化の掛け違いが生じているように思う。たとえばノーベル賞学者クルーグマンのコラムはessayではあるかもしれないが、随筆では断じてない。政治や経済を論ずるのに、徒然草のスタイルはなじまない。

なごり雪や桜の花のほころび、子どもの笑顔を描写するのには適した「随筆」のスタイルは、残念ながら、政治や経済のことを論ずるにはまったくそぐわない。多くの人の利害にかかわり、場合によっては国の命運がかかることは、硬質で、論理的に緻密な記述にならざるを得ない。

朝日新聞の天声人語は、花鳥風月を論じたときにはさすがに冴えがあり、吉田兼好の伝統を引き継いでいると評価できる。しかしこれが政治や経済になるとからっきしダメなのであって、それはスタイルが合っていないのだということに、もうそろそろ気付いて止めたらどうか。

政治をあいまいな雰囲気で語り、最後は「こまったものですね」とか、「もっとしっかりして欲しいものです」と締める「天声人語」話法は、テレビを始め、日本のメディアを侵食して、政治的言説を劣化させている。時には、書かない勇気も必要。随筆家には随筆家の誇りを貫いてほしい。


庶民が政治のことを語るときって、論理的思考ではなく精神論や雰囲気(たいがいはケシカラン)で語られるのが常套であり、ぼくなんかもだから政治の話題は好きでなかったし、意見の違いが人間関係の対立になっちゃう場面もよく見かけるので、なるべく近づかんでおこうと思ってしまう。それは茂木さんの言う『政治をあいまいな雰囲気で語り、最後は「こまったものですね」とか、「もっとしっかりして欲しいものです」と締める「天声人語」話法』の弊害かもしれない。

新聞(権威)に書いてある、偉い人(権威)が書いた言説を、あたかも自分の政治的意見であるかのように錯覚する。さらには、ほんらい論理的であるはずの話に、自分の感情を勝手に投影してしまう。こういう政治談義をよく見かける。だから、政治の話はケシカラン的な話法ばかりになる。内田樹氏はこの記事で<長い自己欺瞞の訓練によって、イデオロギー主導で、ヒステリックになったり、激昂したり、涙ぐんだりできる人間たちが生まれた。>と考察している。他人の立場を代弁して(したつもりになって)熱弁をふるうという行為は、実はそこに自分のイデオロギーや感情を勝手に投影して自己満足しているという場合が多いのではないか。そういうご意見は、一見すると熱くて道理が通っていてもっともなように聞こえるのだけれども。

政治的議論っていうのは、すべてを解決する万能のソリューションを見つけるためではなく、お互いの落としどころを探るためにクールに論理的に話し合いをしなきゃいけない。だからまず自分自身の立ち位置をマッピングできなければ始まらない。政治的思考とは、テレビや新聞で展開される、彼らの尺度に沿った政治言語を、彼らの尺度に合わせて理解することではなく、自らのいのちと生活をもとにして、自分を主語に据えて、自分のことばにたぐり寄せること。

だからエッセイのような情にまかせた感覚ではなく、論理的な思考が必要であるという意見はその通りだと思うし全く同意するのだけれども、ぼくは同時に、はたして日本人に(庶民レベルで)論理的思考が可能か?とも思ってしまう。茂木さんの言うように、読み手の感性にたよるような花鳥風月の世界を表現するのに日本語はすばらしく長けている。でも、舶来モノの民主主義を咀嚼するのにはちょっと向いていないのかもしれない。

日本人は議論が苦手だとよく言われる。これって、国民性もそうだけど、日本語が欧米式の議論に向いていないという面もあるのかと思う。花鳥風月を愛し、季節の移ろいや、細やかな感情の機微を繊細に表現する日本語のもとで日本文化は育まれてきた。逆に言うと、日本文化(そしてそれを形成する人々の営み)が日本語にそのような役割を要請したともいえる。欧米のように、住民が自らの意志で民主主義を確立していくならば、人々がコミュニケートし意思伝達するためには、そのための言語が必要であり、だから英語とはクリアカットな言語なのではないかとぼくは想像する。

脳についての研究で知られる池谷裕二さんが、日本語と英語の違いについてたいへんおもしろい記事を書いておられる。

カタカナ英語でいいんじゃない?= 通じる発音イロハニホヘト = 池谷裕二

なぜ日本人が話す英語(ジャングリッシュ)は外人に通じないのか、主に発音に関しての考察が詳しく書かれている。おもしろいのは日本語と英語という言語の根本的な違いである。英語は「発声技巧」の言語、日本語は「想像力」の言語なのだと池谷さんは語る。これはとても重要な視点だと思う。以下、リンク先から抜粋しつつ説明する。

英語は、豊富な発音数を誇り、同じ発音を使って異なる意味を表すことが日本語に比べれば圧倒的に少ない。彼らは喉から出す「有声音」以外に、舌や唇や鼻をつかった「shシュ」「chチッ」「tsツッ」などという乾燥した音を出している。日本人にとって、あの音は単なる雑音にすぎないのだが、彼らはそれをも利用して単語を言い分けている。「close」と「cloths」を区別するためにはそうした子音を正確に利用できなければいけないのだ。まさに英語とは「発声技巧の言語」なのである。

われわれ日本人は、数多くある単語の中から、いま耳で聞いた「かこう」という音がどれに対応しているかを逐一判断しながら会話をしているのである。「手紙をかこう」と聞けば「書こう」を思い浮かべるだろうし、「墨田川で船に乗ってかこうまでかこうした」といえば「河口まで下降した」となるだろう。私たちは耳から聴いた言葉の意味を、無限の組み合わせの中から的確に選び抜いて、瞬時に理解するという過程を延々とくりかえしている。想像しながら聞く。日本語とは「想像力の言語」なのだ。


ここで説明されているのは、「いま発音されていることば」が「どういう単語」なのかを識別する、その識別の仕方の違いである。英語には同音異語が少なく、日本語には同音異語が多いということだ。池谷さんの言うように、ぼくたちは耳から聴いた言葉の意味を、多くの組み合わせの中から的確に選び理解している。たしかに英語の方がクリアカットであるが、日本語でも文脈を読んでいけば間違えることはあまりない。

ぼくが、欧米式の議論に日本語が向いていないのではと思ったのは、発音→意味への識別の相違そのものではなく、日本語と英語ではなぜそのような違いが生じたのかという理由にある。

英語の場合、音が発せられて空気を伝わる時にはすでに音表が細かく分化されているため、聞き手はただ聞こえたままを理解すればよいことになる。この意味で、英語は「話し手」の発声能力に依存した言語であるといえる。一方、日本語は「聞き手」の想像力を頼りに会話をする。相手任せの言語である。まさにこの相違点こそが問題なのだ。


ここから先はぼくの想像である。英語とは、人と人が協議し、民主主義的なプロセスを経てコミュニケートするために、情報を「正確に」伝達するために作られた言語なのだ。ひとつの発音にひとつの意味しか持たないので、論理的な議論の場において、誤読されることが少ないのではないかと思う。クリアカットな言語は、論理的にものごとを決める風土が要請したのである。「話し手」の意志がまずありきなのだ。

それに対して、日本語は「聞き手」の想像力を頼りにする。移ろい行く季節や、細やかな感情の機微など、聞き手の感性に依存するような風情を表現するのが、日本の風土であるとしたら、そのような風土が要請するのはクリアカットで正確な言語ではない。雰囲気のある情緒的な言語だ。だから日本語は、「話し手」の意志よりも「聞き手」の感性に委ねられる。

長らくそのように風情的なものとして紡いできた日本語を、戦後に輸入した民主主義にそのまま当てはめようとするところに齟齬が生じるのではないか。論理的な対話の場面でも「聞き手」の想像力に頼るという特性はそのままであるため、話し手の言葉がどんどん曖昧になってしまう。

政治の場でそれは顕著に現れる。民主党にしろ自民党にしろ、多くの政治家が話す言葉(すなわち官僚のつくった作文であるが)は、のっぺらぼうである。「話し手」の意志がない。首相や大臣の首が簡単にすげ変わっても政権がそれなりにやっていけるのは、政治の場において話し手はのっぺらぼうであり「誰でもいい」からである。話し手に意志がなくとも、ある程度のことが成立してしまうのは、「聞き手」が勝手に想像してくれるからである。ほんらい論理的であるはずの話に、自分の感情を勝手に投影してしまう。

たとえば「自己責任」という言葉。ほんとうは話し手がどのような文脈でこの言葉を使っているのか、背後関係を見なければならない。ところが、「自己責任」という言葉のもつイメージ、ニュアンスを聞き手が勝手に想像して、自分が受け取りたいイメージを勝手に投影してしまう。ある人にとっては自己を戒める言葉であり、ある人にとっては他人を断罪する言葉であり、往々にして発言する側にとっては責任転嫁の言葉でもあったり。政治の場で使われる言葉は漠然としていて気分や感情に訴えかけるものが多い。言葉がどういう文脈で使われているかの中身ではなくて、言葉が持つなんとなくのイメージ(質感)だけが先行してしまうことが実に多い。テレビは、いかに言葉のイメージを植えつけるかっていう情緒的な装置の王様だ。

イメージだけで互いの人格を罵倒しあって、それが「議論」だと思っている人がネット上には割と見られる。実生活ではそんな人ばかりではないのは分かっているし、たぶん少数派なんだろうけど、ネットの世界ではそういう声の大きな人の意見が目立ってしまう。発音→意味の識別だけではなく、その言葉の意味さえも聞き手の抱くイメージによって解釈が委ねられがちな日本語では、そもそも議論の土台そのものからすれ違いも多いような気がする。だから、日本語って、欧米式の論理的な議論には向いていないんじゃないかと思うのである。

これはべつに日本語が英語に比べて劣っているという意味ではない。花鳥風月を表現する日本語の繊細さはすばらしいし、そこから派生する日本文化もぼくは大好きである。「受け手」の感性に委ねるというのはある意味、本質的であるとさえ思う。たんに議論は得意ジャンルじゃないよねってことだ。であるならば、話は簡単だ。論理的な議論を行う時には日本語、少なくとも政治言語のアップデートが必要であるということだ。

今まで政治オタクたちが使ってきたような、自分を主語としない政治言語では花鳥風月にしかならない(いや、実際には花鳥風月どころか、属人的なケシカラン論にしかなっていないわけだが)。日本語に行われるべきアップデートとは、「話し手」の意志を取り戻すことではないかと思う。それはつまり、政治のことを、テレビや新聞の中の出来事から、自分の暮らしや身体、いのちの側に引き寄せるということでもある。

津田大介氏がやろうとしている政治メディアや、東浩紀氏の提唱する一般意志2.0のフィードバックっていうのは、政治の言葉を手元に引き寄せるってことになるんじゃないかと、ぼくは期待している。

以下、前々回の記事にも載せたが、一般意志2.0についての東氏のインタビューを再掲しておく。

「一般意志2.0」を現在にインストールすることは可能か?(1)東浩紀× 荻上チキ - SYNODOS

政治的な討議は一般に、自分の身元を明らかにし、知識を持ち、熟慮の上で議論に参加するべきものだと思われていますね。しかし、ぼくがこの本で述べているのは、そうではない参加のしかたもあっていいのではないか、という提案です。ただし、それは同時にすごく制限されたものにもなる。その制限された参加のしかたが、たとえばヤジとか拍手のようなものでもいいのではないか、ということです。したがってコメントには民度は必要ないんですよ。

古代のアゴラで、政治家たちが演説をしていたとする。そのときその周りにはもちろん政治家でもなんでもない人たち、市民が取り巻いているわけですね。その市民たちがヤジを飛ばしたり拍手をしたりしていた。彼らの意見のひとつひとつは演説している政治家にはわからない。でも「この主張が受けている」とか「これは方向が違う」とか、一種のフィードバックは起きているわけですよね。そのフィードバックを回復すべきであるというのが『一般意志2.0』の骨子です。

「大衆の無意識に従え」というわけではなく、かといって大衆の意志を排除して熟議だけで物事を決めろというのでもない。熟議と大衆の無意識のあいだのフィードバックをどうやってつくるか、それが重要だと考えています。

この本には書いていないけど、古来、多くの「みんなで決める」というのは、おそらくそういうフィードバックのプロセスだったと思うんですね。たとえば100人で何かを決めるとして、そのなかの専門家10人に決定を委ね、彼らが密室で決めたことに90人が従う、というのはやはりかなり人工的な制度です。いまはそうなってしまっていますがね。自然なかたちは、おそらく、10人が決めるその周りを90人が取り巻いて、その「空気」を見ながら10人も議論していたというものだと思いますよ。


「ヤジとか拍手のようなもの」による政治への参加の仕方っていうのは、東氏が言うところの「動物的」なものであると思うのだけど、これって自分を主語とした政治言語だと思う。つまり、ある個人が生きてきた中での蓄積から生じる経験則だ。もし、それが可視化されて熟議の場に取り込むことができるようになるのならば、熟議の場というものは、ディベート論理が優位に立つ欧米式の議論から、もっと肉感性を伴ったものになる可能性があるかもしれない。日本語がクリアカットな言語に生まれ変わることはないと思うが、「話し手」の意志を取り戻すことはできるかもしれない。

そもそも「政治」って言葉を聞いたときにまずはじめに受けるネガティブなイメージをなんとかしたいよね。政治家っていちばんクリエイティブな仕事だと思うよ、ほんらい的に。

日本語2.0 政治言語のアップデート

日本語2.0 政治言語のアップデート 2012.02.22 Wednesday [妄想] comments(0)
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