エマニュエル・トッド 古くて新しい先見性

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ラジオデイズでの平川克美さんと内田樹さんの対談や、高橋源一郎さんの話の中にちょいちょい登場するので気になっていたエマニュエル・トッド。フランスの歴史学者、人口統計学者、人類学者であり、世界の人口変化と家族形態をもとに各地の民主化(近代化)を予見するというユニークな手法で注目を集めているらしい。1976年の時点でソ連の崩壊を予想し(乳児死亡率の高さをその要因に挙げた)、2002年のベストセラー『帝国以後』では「米国は世界を必要としているが、世界は米国を必要としていない」として、アメリカの経済的な衰退を予見。さらに近著『文明の接近』では欧米のイスラム脅威論に反して、着実に進むイスラム圏の近代化を指摘。言うまでもなく、ソ連もアメリカもその通りになり、ジャスミン革命に端を発したアラブ諸国のデモクラシーは現在も進行中です。

世界の趨勢を、人類学的基底(家族形態とそこから生じる価値観)をもとに予見する、という切り口は非常に斬新で興味深く、しかもそれらがまるで予言のように的中しているということから、彼の著作を読みたいと思いつつも分厚くて難解そうなので二の足を踏んでいました。先日ようやくこの本から読んでみることにしました。



『アラブ革命はなぜ起きたか』と題された本書は、『文明の接近』刊行後に起きたチュニジア、エジプトでの民衆革命を受け、同書の内容について検証したテレビインタビューをもとに書き起こされたものです。対談形式の文章なので比較的読みやすく、分量もそんなに多くありませんが、至るところからトッドのエッセンスを感じることができました。また、巻末には訳者の石崎晴己氏による「トッド人類学入門」も附記されており、トッドを知るための入門編としてはうってつけの書でした。これから関連書籍も読んでみたいと思います。

トッドの分析はきわめて明快です。
私が40年間の研究生活の中で作り上げたモデルには軸が二つあります。第一の軸は歴史的なもので、識字率は政治的大変動を引き起こし、出生率の低下はリバウンドを引き起こし、それは混迷ともしかしたら暴力を産み出す可能性がある、というものです。
もうひとつの軸は、地理的かつ人類学的と呼びたいと思います。この軸は、近代化の歩みがはじまるとき諸国はその出発点において同一であるわけではないという事実を考慮することを目指します。移行期的危機に出現することになるイデオロギーは、人類学的基底が何であるか、つまり家族の中にもともと含まれていた諸価値によって異なるのです。革命という危機の際に、それらの諸価値が家族的な人類学基底からイデオロギー的表現へと移行するだけなのです。
(本書P46〜47より)


トッドによれば、識字率が上昇する(50%を越える)ということは、父親の世代は文字が読めないのに息子は読めるということであり、伝統的な価値観や秩序が撹乱される。すなわち価値や秩序を自ら作り出さなければならない近代社会への移行がはじまり、ここで移行期的危機が起きるのだそうです。さらに男性の識字化に続いて女性の識字率が上昇するにしたがって出生率の低下が始まるとのこと。アラブの場合は内婚(いとこ同士の結婚)率の低下も要因に挙げられるとのこと。家族形態の変化は価値観の変化の表れであるというのは、うん、なんかふつうに考えて納得できる分析です。

そして各国が選択するイデオロギーは、各国にもともと根付いている家族形態が決めるのだという視点。これも非常におもしろい、目からウロコの分析です。

フランス革命の掲げた自立、平等、平等の諸価値は、パリ盆地の農民家族の中に前もって存在していた。革命という危機の際に、それらの諸価値は単に家族的な人類学基底からイデオロギー的表現へと移行するだけなのです。
ついでに指摘しておくと、こうした考えは、18世紀の啓蒙思想家たちが素晴らしい考えを発明し、フランス革命の中身を決定したという、教科書の中で述べられている考えとは全面的に矛盾します。1789年を産み出したのは、(啓蒙思想家ではなく)あの時あの場所の家族構造であり、パリ盆地の農民たちが自分の気に入ったイデオロギーを選んだのです。ヴォルテールやモンテスキューさえもそれによって産み出されたと考えます。
(本書P47〜48より)


参考までに、トッドが示した家族型は8つに分類されます。それぞれの家族型の解説や分布図は本書の附記に詳しく記されていますが、同様の解説がWikipediaにも載っていますのでリンクしておきます。
エマニュエル・トッド - Wikipedia

トッドは、誰も説明できなかった共産主義革命の「真の」原因も発見しました。かつて共産主義革命が自律的に成功した諸国(ロシア、中国、ベトナムなど)は、いずれも外婚制共同体家族(息子はすべて親元に残り大家族を作る。基本的価値は権威と平等)の地域なのだそうです。すなわち先進国と後進国という区分でもなく、階級闘争の結果でもない、ただ家族システムが共産主義という近現代イデオロギーを選択したのだと。おもしろいなあ。そして説得力あるなあ。

家族の中にもともとある価値観が革命の中身を決める。そう言われてみると、これはよくわかる気がします。考えてみれば、あれだけの事故がありながら日本で脱原発の流れが主流にならないっていうのも、それが戦後のニホン的家族のあり方だったのだということは、胸に手を当ててみるとわかります。いや、わからない人もいるでしょうがぼくは思い当たります。そして現実に原発が止まらない、というか止まるそぶりすら見せないという事実は、そういったニホン的家族が多数派であったということの証左でしょう。

ちなみにトッドは、日本人自身が未成熟だと揶揄する日本の民主主義も、あれはあれでひとつの民主主義の形態であると考えるようです。日本は家族形態(直系家族と分類)において、ドイツ、スウェーデンと相似的であるとのこと。親は子に対し権威的であり、兄弟は(主に遺産相続において)不平等であるこの家族システムから生じる基本的価値は権威と不平等なのだそうです。ドイツ人も日本人も(たとえ車が来なくとも)赤信号で律儀に止まるという逸話はどこかで耳にしたような気がしますが、それが家族形態から生じる価値観であるという指摘には、なるほどと思わざるを得ませんでした。そう考えると橋本徹大阪市長はきわめて日本的であり、大阪市民の家族構造が自分たちの気に入ったイデオロギーを選んだと言えるのかもしれません。しかしトッドの指摘するように権威と不平等は時として自民族中心主義に陥りがちで、それがナチズムや軍国主義といった排他的なイデオロギーとなる可能性があることは歴史が物語っています。

ぼくたちはどうしたって日本人であることからは逃れられないわけです。日本人であることに固執したり(変な美化とか)、或いは必要以上に卑下したりっていうのは、ここではないどこかの物語にすがろうという意識なのかもしれないなと思います。絆とか地縁とか、もともと「在るもの」の上でしかぼくという存在は在り得ないわけで。

事故後の対応のまずさは、原発は日本人には扱いきれないということを可視化しました(原発に対する対応のプロセスを見ると日本とドイツの民主主義が相似とはもはや思えません)。それと同じように、アメリカやイギリスから借りてきた民主主義は日本人には扱いきれないのかもしれません。だって人類学的基底が違うわけだから。日本人は日本なりの民主主義を発見していくしかないのだということを、世界の多様性を基礎とするトッドの書は教えてくれているような気がします。

逆に言うと、それは希望的でもあります。これから新しい家族を作っていくということは、国のかたちを作っていくということ。すなわち日本という国がどうなるかという問題は、ぼくたち自身が目の前の家族とどのようにつきあっていくかという問題に直結しているわけで、それって今まさに子育てを経験しているぼくにとってはとってもわくわくすることです。

トッドによれば、2030年までにはアフリカ圏を含む全世界での民主化(近代化)への移行のはじまりは完了するそうです。その頃ぼくは55歳、息子は20歳。いったいどんな世界になっているんでしょうか。

トッドのきわめて斬新かつ的確な分析が、最終的に懐に与えてくれるメッセージとは、きわめてシンプルで使い古されたフレーズであるとぼくは感じています。
家族って大事だよね。ということ。

子育ては国づくりです。単純に数字の上で、出生率が2を割るということは人口が減少するということ。若者のいない国に未来があるようには思えません。子育ての負担を親にだけ押し付けるような世の中だとしたら、子どもを生みたいと思えなくなるのは必然です。子育てと教育に投資しようとしない政府は、経営者としても無能だと思うし、子どもを放射能から守ろうとしない政府は、大人としてどうなの? もしそれが今までのニホン的家族が産み出した価値観なのだとしたら、ぼくらはせめてそこから脱却して「新しい家族」ってものをつくりたいですね。


ちなみにトッドの代表作はこちら。



エマニュエル・トッド 古くて新しい先見性

エマニュエル・トッド 古くて新しい先見性 2011.12.19 Monday [読書] comments(3)
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愚樵 (2011.12.20)

山やまさん、おはようございます。

なるほどねぇ、マルチチュードの原型は家族にあり、ということでしょうか。

この議論の枠組みにはとても関心がそそられますが、ざっと見たところ、日本の家族分類は違うんじゃないかないう気がします。Wikiでみた分類によると日本は「直系家族」になるようで、それは表層的には当たっているようですが、一皮めくればかなり異なる。アノミー的かアフリカ的であるとすら思えます。

(余談ですが、この「アノミー的」「アフリカ的」には強い違和感を憶えます。トッドの知性の限界を示しているようです。)

トッドはこの分類を共産主義との親和性から思いついたとありますが、その伝で行くなら、日本は他の「直系家族」の国々と比べても過度に資本主義への適応度が高すぎる。家父長的な権威は表面的に観察されるほど強くなく、資本主義の論理の方が強い。その結果が「無縁社会」となって現れています。

私は、日本ではもともと武士などの支配階級は直系家族的な色合いが濃かったが、庶民はそうではなく国全体に広まったのは明治以降。だいたい庶民には名字はなく、ということは「家」という概念もなかったんですよ。このミスマッチ――直系的ではないのに直系的に染められた――が資本主義過適応の原因だと思っています。元々の日本は、女性の充足を基軸とする母系社会なんです。

(ところで、山やまさんちでは「財布のヒモ」は誰が握っているんでしょう? 私のところでは妻ですが。)

ということであるならば、

>これから新しい家族を作っていくということは、国のかたちを作っていくということ

ということに意味は、尚更重いものになることになります。日本が日本独自の民主主義(これは間違いなく存在したんです。宮本常一の『忘れられた日本人』をご覧あれ)を発展させていくのであれば、まず「ミスマッチ」を解消させ、古くて新しい家族/国の形を模索しなければならないからです。ルネサンスが必要ということですね。

これは大変なことで楽観視は出来ませんが、私は希望的です。混乱はあろうとも自然と古くて新しい方向へ収束していくだろうと思っています。もし途中に大きな混乱が生じてくるとすれば、それは明治以降の日本的な部分が復活してくること。橋下徹氏や石原慎太郎当たりはその典型かと思っています。

山やま (2011.12.20)

愚樵さん、コメントありがとうございます。

たしかに日本の分類はざっくりしすぎているような気がします。
民主主義のあり方にしても、脱原発への動き(結果はどうあれそのプロセス)を見ると、ドイツと日本が同じだとは思えませんね。

日本には、世界にも類を見ない記者クラブという制度もあります。報道がジャーナリズムではなく大本営発表としてふるまい、なおかつ一見すると中国のように情報統制が自明のものとされているわけでもない、多くの人が与えられる情報の出どころに気づいていないというこのシステムは、識字率の上昇によって(政治ビラを読み書きできるようになることによって)政治が一般大衆の事業になるという単純な法則を成り立たなくしているわけで、トッドが日本の事情をそこまで考慮しているのかはわかりません。トッド自身も絶えず思索を続け、己のモデルを柔軟に発展させているそうなので、もしかしたら日本の分類が書き換えられることがあるかもしれません。

「アノミー的」「アフリカ的」については、ぼくはぜんぜんわからないので補足だけしておきますと、本書の解説によれば、アフリカ・システムは家族システムの型として明確に定義されたものではなく単にアフリカという地域によって括られた複数タイプの総体であり、家族システムの型としては除外されて然るべきであろう、と石崎氏は述べています。


以下、ぼくもトッドモデルについて知ったばかりであり、まだ考えがうまくまとまっていませんが思いついたことを書いてみます。

日本がもともと母系社会であったという点にはぼくも興味があります。「やはり女にはかなわない」と仰る愚樵さんとおそらく同じような感覚でもって、男ってバカだよねえと思います。原発の問題が顕在化してからはなおさら。(財布のヒモ問題については、我が家は移行期的混乱にあります。)
http://yamachanblog.under.moo.jp/?eid=276


日本の伝統とひとくちに言っても、いったいそれはどの時代のことを指しているのか、文脈によってさまざまで、場合によってはほんの数十年前のことを指して伝統回帰などと言われることもあるように感じます(それはしばしば政治的な意図に利用されがちですが)。日本的であるとはいったいどういうことであるのか、ごっちゃになっている感があるし、人によって驚くほど解釈が異なるんだろうなと思います。ぼくは、愚樵さんの仰るように、日本は明治以降に家族形態がドラスティックに変わったということは確かなように思っています。それが明治維新なのか戦後なのかは勉強不足でまだよくわかっていませんが。
どちらにしてもそれは自律的に起こったというよりも外からもたらされた変化であったと言えるのかなと。黒船やGHQが外からやってきて、それらがもたらす新しい価値観は日本人を「ここではないどこか」へ連れて行ってくれて、その高揚感がもたらす狂騒が何十年か続いた。「ここではないどこか」に夢を投影して。いまはその夢から覚めつつあるときであるようにも感じます。ドラスティックな変化を選択したときに、日本人はもともと持っていた伝統を捨ててしまったのか、それともどこかに残しておいたのか、それもぼくにはわかりませんが、古くて新しい方向へ収束していくだろうという予想にはぼくも賛同です。若い人たちの中に散見される「かしこさ」は今までのいわゆる知識人たちとはまったく異なる種類のかしこさであるように感じます。

(続く)

山やま (2011.12.20)

>家父長的な権威は表面的に観察されるほど強くなく、資本主義の論理の方が強い。その結果が「無縁社会」となって現れています。

これは大事な指摘ですね。
愚樵さんの仰るように、日本社会が直系的ではないのに直系的に染められたのだとすると、たとえば原発を制御できないというのは、家父長を自己のものとして制御できていないからではないかと言えると思います。つまり、家父長として一家を引っ張っていくようなタイプではなかったのに、無理してそこを規範としようとしてきたので、外面の形だけが先行してしまったのではないかと。本当はもっといいかげんなヤツなのに、一家の主としてあるべき姿っていうプレッシャーに押されて余裕が無くなっちゃって。みんな自信が無いから、橋本氏や石原氏のように何かを強く主張する人に惹かれちゃうんでしょうね。資本主義の論理にすがろうとするのも、他にすがるもののない自信のなさから来るのかもしれません。

それと、出生率の低下によって社会の老化が訪れるのは必然ですが、老化にも、良い老化と悪い老化があると思います。老いるとは成熟するという意味でもあるわけで。ぼくは、いつまでも老人たちが社会の実権を握っているのは悪い老化であると考えます。日本の原発が止まらないのは明らかに老人たちが実権を手放さないからに見えます。
老人たちがいつまでも自分の夢を語るんじゃなくて、さっさと隠居して悠々自適に暮らし、次の人たちに夢の続きを任せたほうがよっぽど楽しいんじゃないかと。そういう意味で自ら王制から民主制に移行し若き国王にバトンタッチしたブータン前国王の決断は素晴らしいと思いました。

本記事はあくまでも入門書を一冊読んだだけの感想であり、トッドモデルを考えていく上でのイントロダクションのつもりでしたが、愚樵さんのおかげで論点が少しはっきりしてきました。
トッドモデルはたいへん興味深い考察だと思います。と同時に、トッド自身が己のモデルを柔軟に発展させるように、そのモデルに「依存」するのではなく、そのモデルを「自在」に扱うことができるのが人間という生きものの可能性であるのだと思います。
愚樵さんの言葉をお借りして締めてみました。










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