『フード・インク』 安いのに安心安全なんてあるわけない

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安いものには理由があります。必ずあります。その理由はケースによって様々でしょうが、ふつう消費する側はそこまで考えません。ぼくたちは一円でも安い方がお得だぜと思い、多くの場合それが消費行動の基になります。ただ得したいっていう、それだけです。そういった消費行動が消費する側のデフォルトになっているので、供給する側もそういった消費行動を原理として利益の最適化を企業目的の第一に設定します。

その結果どうなったか。それはぼくらの身の回りをみれば明らかです。地方の地元商店街はどんどん消えて行きました。食材はスーパーマーケットにきれいに陳列され、見た目と値段で購買されます。週末には皆、駐車するまで何十分もかかり、目の血走った人たちでごった返すショッピングモールへと出かけます。ここでは消費もまるでビジネスのように行われます。ぼくら夫婦は出かける度にいつもぐったりです(あまり近づかないようにしてますが)。

内田樹さんによれば、一円でも安ければそちらを買う、というのは「未成熟な消費者」なのだそうです。企業にしてみれば、消費者が未成熟であったほうが販売戦略を立てやすい。ここに双方のニーズが一致します。

さよならアメリカ、さよなら中国 - 内田樹の研究室より
一円でも安ければそちらを買う、というのは、私の定義によれば「未成熟な消費者」ということになる。
「成熟した消費者」とは、パーソナルな、あるいはローカルな基準にもとづいて商品を選好するので、消費動向の予測が立たない消費者のことである。
(中略)
TPPというスキームは前にも書いたとおり、ある種のイデオロギーを伏流させている。
それは「すべての人間は一円でも安いものを買おうとする(安いものが買えるなら、自国の産業が滅びても構わないと思っている)」という人間観である。
かっこの中は表だっては言われないけれど、そういうことである。
現に日本では1960年代から地方の商店街は壊滅の坂道を転げ落ちたが、これは「郊外のスーパーで一円でも安いものが買えるなら、自分の隣の商店がつぶれても構わない」と商店街の人たち自身が思ったせいで起きたことである。
ということは「シャッター商店街」になるのを防ぐ方法はあった、ということである。
「わずかな価格の差であれば、多少割高でも隣の店で買う。その代わり、隣の店の人にはうちの店で買ってもらう」という相互扶助的な消費行動を人々が守れば商店街は守られた。
「それでは花見酒経済ではないか」と言う人がいるだろうが、経済というのは、本質的に「花見酒」なのである。


一円でも安く買いたいという消費者と、そういった消費行動を基に販売戦略を立てたい企業側の、双方のニーズが一致した結果、「未成熟な消費者」に向けられた商品が市場を跋扈するようになりました。工業化された、個性の無い、作り手の顔が見えない商品が大量に陳列されるのは、才能のある作り手がいなくなったからではありません。消費者と企業の双方がそれを望んだからそうなったのです。

内田さんは「未成熟な消費者」と言いますが、いまや、一円でも安いほうを「買わざるを得ない」という経済的貧困にあえぐ人たちも多数です。内田さんの言うことは尤もで納得しますが、安いことがデフォルトになり、そのラインをベースに生活設計をしてしまったら、そこから外れることはなかなか困難です。
あるいは単純にそこしかお店がないとか。かつての商店街を潰したのは、未成熟な消費者であり商店街の人たち自身であったかもしれませんが、生まれた時からシャッター商店街しか存在しなかった世代にしてみれば選択の余地はないわけで。
いずれにせよ、「それしか選択肢がない」という状況に置かれているならば、消費行動(自身が選択した結果)が先なのか、企業の販売戦略(宣伝と囲い込み)が先なのか、わからなくなってきます。

経済学者のジョン・ガルブレイスは、1958年の著書で以下のように述べています。
ジョン・ガルブレイス『ゆたかな社会』より
現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられて初めて自分の欲望がはっきりするのだ。自分が欲しいものが何であるのかを広告屋に教えてもらうというこのような事態は、十九世紀の初めなら思いもよらぬことであったに違いない。


上記のガルブレイスという人のことを、ぼくは國分功一郎さんの著書(こちらに序章が掲載)で知りました。國分さんはこう続けます。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』より
経済は消費者の需要によって動いているし動くべきであるとする「消費者主権」という考えが長く経済学を支配していたがために、自分の考えは経済学者たちから強い抵抗にあったとガルブレイスは述べている。
つまり、消費者が何かを必要としているという事実(需要)が最初にあり、それを生産者が感知してモノを生産する(供給)、これこそが経済の基礎であると考えられていたというわけだ。

ガルブレイスによれば、そんなものは経済学者の思い込みに過ぎない。だからこう指摘したのである。高度消費社会――彼の言う「豊かな社会」――においては、供給が需要に先行している。いや、それどころか、供給側が需要を操作している。つまり、生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようしている、と。

今となってはガルブレイスの主張は誰の目にも明らかである。消費者の中で欲望が自由に決定されるなどとは誰も信じてはいない。欲望は生産に依存する。生産は生産によって満たされるべき欲望をつくり出す。


さて、このような「豊かな社会」(実際にこのような社会構造になってることは、ぼくは実感として同意できます)の中で、ぼくたちが「成熟した消費者」になることは可能なんでしょうか。その実現のためには、ソーシャルメディアが鍵を握ってくるとぼくは思っているのですが、それはまた次回のテーマにすることにして、前置きが長くなってしまいましたがここらで本題に。



ロバート・ケナー
紀伊國屋書店
発売日:2011-07-30



フード・インク』を観ました。
アメリカの食をめぐる環境がここ50年あまりでどのように変化していったかを追ったドキュメンタリー映画です。プロデューサーは『ファーストフードが世界を食い尽くす』の著者であるエリック・シュローサー、監督はロバート・ケナー。

「食の工業化」。作中にしばしば登場するキーワードです。

食はそもそもビジネスではありませんでした。「いただきます」とは、いのちをいだだくという意味であり、すなわち食べるとは、循環するいのちの連鎖の中に身を置くという行為です。食が身体をつくっていきます。日本人が、収穫を祝い、神さまにお供えしてきたのは、食という行為の本質を本能的に知っていたからでしょう。それはビジネスのように効率的なマーケットとは切り離された部分です。「食の工業化」とは、食品が本来いのちであることを忘れさせるものでもあります。

食がビジネスになったときに、アメリカの食をめぐる環境はどうなっていったのか。
「すべての食品はファストフードに」というフレーズで映画は始まります。ことの発端は、マクドナルドがドライブインに店舗を展開し始めた1930年代。作業の効率化のために店舗の調理システムを工業化(分業化)し、単純作業により低賃金で労働者を雇え、また誰でも替えが利くようにした。こうして安くて美味いハンバーガーを提供できるようになった。
これ自体はべつに悪いことじゃないように思えます。まあ実際、アメリカがまだ幸せだった素朴な時代かもしれません。しかし、「安く、早く、大きく」という欲望は、工業化されたフードシステムをどんどん肥大化させていき、その結果として様々な問題を露呈しはじめます。「この50年間に食生活に生じた変化は、過去1万年よりも大きい。」その通りなのかもしれません。

本作が取りあげている食の問題はかなり広範囲なので、その全部をここで紹介するのはめんど…、いや、たいへんです。下記のリンクにだいたいの概要が載っていますので興味のある方はご覧ください。
今週末見るべき映画「フード・インク」 - イズムコンシェルジュ

印象に残ったシーンを備忘録的に。下記(*)関連サイトからの引用を含みます。

タイソン社は、養鶏を根本から変えた巨大企業。ヒナは50年前の半分の日数で育つ。しかも大きさは2倍。
タイソン社と契約している農家は、中の様子を見せてくれない。バーデュー社の契約農家、キャロル・モリソンが取材に応じてくれた。「ここは養鶏場じゃない、工場よ。ほとんどの鶏は自分の体重を支えきれずに数歩歩くと倒れてしまう。」「農家は会社の言いなり。会社に借金しているから。」
契約農家が設備などで抱える借金は平均50万ドル、年収は1万8千ドル。キャロルは会社のすすめる換気式の新鶏舎の導入を拒否し、契約を打ち切られた。


工業食品の原材料にはほとんどコーンが入っている。家畜の飼料にも使われる。種子メーカー、化学肥料と殺虫剤メーカーの功績で大量に生産されるようになったからだ。
牛はコーンを食べるようにはできていない。草を食べる。しかし飼料にはコーンが与えられる。安くて大量にあるからだ。おまけにすぐ太る。コーンを与えられた牛の大腸菌を調べると通常よりも凶暴な菌であることがわかった。コーン飼料によって進化した、いわば突然変異だ。コーンによってO-157という菌が生まれた。

2歳半の息子を出血性の大腸菌感染で亡くした母。健康そのものだった子どもがハンバーガーを食べた16日後に…
「子どもの死は乗り越えられません。喪失が日常になるだけです。」という母親のことばがつらすぎる。


99セントでダブルバーガーは買えるのに、ブロッコリーは買えない。

映画に登場するヒスパニックの家族は、ファストフードが身体によくないと知っていながらそれを食べるしかない。ファストフードは野菜よりも安い。仕事に追われる彼らは、買い物をしたり、料理をする時間がない。父親はすでに糖尿病で、いつ仕事ができなくなるかわからない。糖尿病の薬は50錠130ドルもする。家族は、身体のために薬を買うか野菜を買うかと悩む。まだ幼い少女も糖尿病の予備軍だ。2000年以降に生まれたアメリカ人の3人に1人が、糖尿病の予備軍だといわれる。


それからモンサント社による種子の独占、遺伝子を組み換えて特許を持ち、特許権侵害で昔ながらの農家を潰すという手法。モンサント社についてはこちら(モンサント社は何をしようとしているのか。)に記事を書きましたのでお時間のある方は読んでみてください。強大な支配力に屈してやむなく彼らの言う通りの農法を選択したある農家は、若くして農業を志す友人にこうアドバイスしたそうです。「農業をやりたいならモンサントと寝ることだ。決して歯向かおうなどとは思わないこと。」

劇中には、遺伝子組み換えの表示を義務付ける法案についての議会の様子も出てきます。その中で、要らぬ不安を与えるから遺伝子組み換えの表示はしないほうがいいと主張する人がいました。いまの日本とまったく同じですね。コロラド州には風評被害法なるものまであり、製品を批判すること自体が違法行為となるというから驚きました。
遺伝子組み換え食品がほんとうに、世界の食料危機を救うためのものならば、「これは遺伝子組み換え食品です。さあこれを買って世界の貧困を救いましょう。」と商品に堂々と載せて謳えばいい。なぜそうしないのか。なぜ、遺伝子組み換え食品が含まれているのかどうかを表示しないのか。そうしないと流通できない(売れない)からと考えるのは被害妄想でしょうか。

さて、なんだか気が重くなるような食の話ばかりです。
こんなのは、陰謀論者の被害妄想だという見方もあると思います。しかし本作で伝えられているのは悪の組織による陰謀というストーリーではない(その手の煽りは強くない)ようにぼくは感じました。食の工業化、フードシステムによる寡占化という流れは、あくまでも利益の最適化という企業活動の結果です。そしてそれを維持しているのは、一円でも安ければそちらを買うというぼくら自身の未成熟な消費行動です。このような大きな流れが事実としてある。それを陰謀と捉えるかどうかは言葉遊びの次元でしょう。

それから嫌なら食べなきゃいいと言う人もいるでしょう。まったくその通りです。

フード・インク - 決して悪口というわけではなくより
この映画では最後に、「システムを変えられるチャンスが1日に3回ある」として、次のような消費行動を提起しています。

  1. 労働者や動物に優しい、環境を大事にする企業から買う
  2. スーパーに行ったら旬のものを買う
  3. 有機食品を買う
  4. ラベルを読んで成分を知る
  5. 地産商品を買う
  6. 農家の直販で買う
  7. 家庭菜園を楽しむ(たとえ小さくても)
  8. 家族みんなで料理を作り、家族そろって食べる
  9. 直販店でフードスタンプが使えるか確かめる
  10. 健康な給食を教育委員会に要求する
  11. 食品安全基準の強化とケヴィン法を議会に求める


悲惨な現状を伝えながらも、しばしば登場する監督のコメントが冷静でけして悲観的ではないのは、悲惨な現状の中からも希望を紡ごうとしている(ようにぼくには感じられた)からかもしれません。

「牛は穀物ではなく草を食べるものだ。放牧で草を食べ、草は糞を吸収して大きく育つ。すべて自然に循環している。」と語るジョエル・サラティン氏のポリフェイス農場では、牛をクローバーやハーブなどの草で育てる持続可能な有機農法を実践しています。彼の、力強いことばと生き生きとした表情がほんとうにかっこよかった。「動物を好きなように操作できると思うような文化の中にいる人間は、どこに行っても、豚を見るのと同じような、侮蔑的で傲慢な目で他の人間を見るだろう。」これは、食をいのちではなく商品としてしか扱わない大企業への痛烈な皮肉ですね。とっても的を得ていると思います。
サラティン氏の農場では、手作業で鶏を捌きます。屋外であることから不衛生であると、農務省から農場の閉鎖命令が出ました。サラティン氏は地元で検査を依頼し、その結果、流通している鶏肉よりもはるかに細菌が少なかったと誇らしげに語ります。太陽の光が注ぐ青空の下で。

また、モンサントから押し付けられた農法でトウモロコシを栽培する農夫は「農家が多国籍企業から、どうやって身を守れる?」としながらも、「(消費者が)望むのならオーガニックな作物を届けるよ。約束する。」とも言っていました。

ウォルマートにオーガニックの食品を並べるヨーグルト農家も紹介されます。ウォルマートは評判に非常に敏感である(でも彼ら自身がいちばん悪評が高い)とした上で、「彼らが今さらモラルに目覚めたなんて思わない。彼らが有機食品を取り扱うのは、それが儲かると判断したからだ。」と語ります。ウォルマートと取引きすることをこころよく思わない人もいるだろうが、彼らの販売戦略を変えることができるのは消費者の選択しだいだ、と。


この映画を観て、「アメリカのファーストフードは怖い」という感想で終わる人はもういないでしょう。震災後の日本の食をめぐる状況、政府の対応、ぼくたちが安全だと思っていたものの実態、そういったものが可視化されてしまったいま、「フード・インク」を他人事だと捉えるのはあまりにも無知だと言わざるをえない。小さな子を持つ母親たちが、目に見えない放射能の恐怖に怯え続ける中で、子どもたちが口にする食べものや飲みものについてさえ、政府や企業の対応は無頓着でした。福島の農家に未来はあるのかという声もあります。
「食べて応援」は幻想だ - 農家の婿のブログ
農家が買いたたかれ、食べて応援というスローガンが利用されているという。大企業が食の流通を支配するという構造は、本作が示すアメリカのそれと酷似しています。TPPという問題もあります。言うまでもなく、TPPとは企業活動優先の政策です。

津田大介氏のメールマガジン11月16日号に掲載されたインタビューで、農産物流通コンサルタントの山本謙治さんは、日本の食品は安すぎると指摘しています。
津田大介の「メディアの現場」vol.11より
山本:価格は文化です。一度安値に慣れた消費者は、正常な価格に戻れません。いま、安値になっているもののほとんどが「無理して安くしている」のであって、まともな価格に戻す努力をすべきです。そうじゃないと、本当に食べ物を作る人がいなくなっていく。(中略)本当は、ミドルグレード以下の農産物を作っている人たちが普通に暮らしていける世界を作っていかないと、農業はうまく立ちゆきません。企業が参入しようが何だろうが同じです。

津田:確かに旧態依然とした部分も多く持つ農協は変わるべきだし、農家も今のままでは立ちゆかないだろう。しかし、単純な6次産業化が答えではない……。農業をめぐる問題は簡単には解決できない複雑な問題なんですね。

山本:僕はね、さっきも言ったとおり、それを変えるのは農業側ではないと考えているわけです。消費側が態度を改めなければならない。日本は食べ物の金額を、少なくとも今の2倍くらいにしなきゃダメだよね、と本気で思ってる。

津田:日本の食は確かに安すぎると思いますよ。だって海外ではもっと高いですもんね。これだけの円高でも、レストランに行くと日本の2倍から3倍はかかる。

山本:家計に占める食費の割合はともかく、購入する食材の金額はほとんど下がってきてるんですよ。これって恐ろしいことでしょう? 物価はこんなに上がっているのに、食べ物の値段は上がってません、ってことだから。今、家計調査を細か〜く見ると、昔から比べると割合が上がっているものもあるんだよ。それは何かというと、遊興費――遊びのお金と通信費。これを見ると、日本人は結局、自分の遊びとケータイにはお金をかけるけど、食べ物は10円でも安いほうがいい、という価値観の人たちだってことですね。たとえば小麦価格の暴騰で食パン1斤の価格が10円上がりますとかいう時に、よくニュース番組で街頭インタビューをやってるでしょ。お母さんたちがみんな鎮痛な面持ちをして「明日からどうすればいいのか、困ります」と言ったりしてる。ああいうのを観てると「嘘でしょ」と言いたくなりますよ、本当に。だって食パン1斤の値段が10円上がるでしょ、仮に毎日買うとするでしょ、10円×31日で310円の値上げ。それを年間で計算したとしても、3万円以下ですよ。飲み代を何回か節約すれば解決するでしょう。

津田:あとは何となく契約してる、月額310円の使ってもいないケータイコンテンツの辞書サービスとかああいうのを解約すりゃすぐそのぶんを節約できるじゃん、とか思いますよね(笑)。

山本:本当にそうなの。結局、食べ物というのはみんな毎日スーパーで購入するから、槍玉に上がりやすいだけの話なんです。


いままで安さを求め続けた消費者が、急に安心安全までも求めるのは無理があります。安心安全を担保するにはそれなりにお金がかかります。安いのに安心安全なんてあるわけがないという、ちょっと考えると当たり前のことがわかっていなかったんです。でも逆に考えると、たったそれだけのことなの?とも思います。

たったそれだけのことが流通網を大きく変える可能性は、大いにあるでしょう。わが家の食卓に並ぶ食べものを選ぶのは自分自身に他なりません。安全な食べものを作ったほうが儲かるという流通経路ができるならば、おのずと安全な食べものが食卓に並んでいくはずです。

安全な食べものは値段が高い。であるならば、それを買うことのできない貧しい人たちもいるでしょう。それはいったい誰の責任でしょうか。稼ぎが少ないからろくなものを食えないのは当たり前だというのがいままで主流の考え(いわゆる自己責任)でした。でも、その子どもは?子どもに責任はありません。これはとても難しい問題です。政策レベルの話になりますし、あまりにも幅広い観点が必要です。でも、ほんとうは、政策を選ぶのもぼくたち自身であるはずです。よね。




追記(12/9):
愚樵さんによる本記事へのアンサーソング。
食べものの安全安心は商品価値ではない - 愚樵空論
とても大事なことを示唆されています。ぼくはまだ全部を咀嚼できていませんが、コメント欄も含めてぜひ。


『フード・インク』 安いのに安心安全なんてあるわけない

『フード・インク』 安いのに安心安全なんてあるわけない 2011.12.08 Thursday [食・生活] comments(1)
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ぼけなす (2011.12.09)

申し訳ありません。内田を引用するようになったら、お終いです。彼は何も分かっていないし、何もしていません。口先男です。こういう男が農業を語ること自体に怒りを覚えます。










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