それでもロックが好きなんです。
ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。
by ピート・タウンゼント
至言ですね。「悩んだまま踊らせる」?なんなんですかそれは。でもそれがロックンロールだよなあ。少なくとも、ぼくが心を鷲掴みにされたロックンロールはそういうものでした。悩める若者の、蒼臭い青春の、うじうじして鬱屈した思いを、岩(Rock)にぶつけて転がり回る(Roll)。ぼくにとってロックとは永遠のカウンターカルチャーでした。たぶんいまでもそうです。
一年半ほど前にCoccoの「ニライカナイ」という曲を聴いたときに、ぼくは久しぶりに音楽で衝撃を受けました。トシのせいでロックをあまり聴かなくなってだいぶ経っていましたが、ガツンと殴られたような気分でした。その時に書いた記事(Cocco / ニライカナイ)の中で、ぼくはロックの歴史をごく簡単にふり返っています。考えてみると、ぼくがロックを聴いていた90年代は、市場でロックがロックとして機能していた最後の時期だったのかもしれません。
息子が大きくなる頃には、いったいどんな音楽が鳴らされているんでしょうか。想像もできませんが、ただ、ぼくらが慣れ親しんだようなロックスター、武道館を満員にしたり、誰もが知っているようなカリスマ的な存在っていうのはもう出現しないだろうと思っています。
未来を考える新聞『TheFutureTimes』の中に、音楽雑誌『snoozer』の編集長であった田中宗一郎さんのインタビューが掲載されていました。ぼくは『snoozer』を読んだことが無かったのですが、たいへん興味深い記事でした。
過去と未来 | 田中宗一郎 - TheFutureTimesより
後藤:今の時代、音楽雑誌が機能しているとは、あまり思えないというか。機能の仕方も変わってきている。昔は“クラスタ”って言葉もなかったし、メディアとして“熱い”ものだったと思うんだけど。うまく言葉にできないけど中央集権的という意味で。例えば、『ROCKIN’ON』なら『ROCKIN’ON』に出たものがワーッと広がっていく様子って、20年くらい前には機能していたし、僕らもそれにワクワクしていた。そういうことが、インターネットの登場で再編されながらここまできたと思うんだけど。逆に今は音楽雑誌って、だんだん面白くなくなってきたっていうのが読んでいる側の皮膚感なんですよ。メディアとレコード会社の距離感っていうのも、幸せな距離感だと思えないっていうか。例えばレビュー。レコメンドなのか、宣伝なのか自分語りなのか、『これは何なんだ?』っていう。
(中略)
田中「段階的にいろんなことが起った結果だと思ってる。でもネットっていうのは一番大きいかな。冒頭で話していた、雑誌で何かひとつのことが中央集権的に広がるっていうこと。これはポップスターが一夜にして出来上がって、誰もが長嶋茂雄を愛すみたいなことが、ネットっていうアーキテクチャーでは起りにくくなる。あと、ネットを介することで地球の裏側のことはわかるんだけど、隣村のことはさっぱりわからない、というか、興味を持たなくなる、っていうのが、今の時代の特徴だよね。
(中略)
田中:YouTubeで何でも聴けるようになったせいで、誰も何も聴かなくなった。自分がもともと好きなアーティストの新しい曲は聴く、そこから繋がりのあるものを聴いたりはする、でも、それでお腹一杯になっちゃって、知らないものをわざわざ聴いてみようとは思わなくなった。
(中略)
田中:さっき後藤君が言っていた“クラスタ”って言葉、以前なら、それに近い感覚を示す言葉が“トライブ”だと思っていて。いわゆる“族”ね。ただ、“族”の場合は、音楽だとか、服とかだけじゃない、ものの考え方そのものとも関係してる。例えば、モッズというトライブの場合、彼らが聴く音楽はアメリカのジャズとR&B。でも着る服はイタリアン・スーツ、そこにフレンチのタッチが入っている。尚かつ、ベスパやランブレッタみたいなイタリアのバイクに乗るっていうふうに、そのトライブの一員であることがすべてに影響を与えてる。でも“○○クラスタ”って言ったときには、あるひとりがいくつもの“クラスタ”に属してるんだよね。あるひとつの音楽に入れあげても、服装はそれに影響を受けないし、普段食べているものも影響を受けない。『食事をするときはこのクラスタ、ライブに行くときはこのクラスタ』っていうふうに。例えば、後藤君の世代だと、中学生のときに友達を作ろうとしたら、同じような音楽を聴き、同じような格好をし、同じところに遊びに行きってふうに、ライフスタイル全体に互いが影響を与えたることになったでしょ」
ぼくと同世代で音楽好きだった人なら頷けるんじゃないでしょうか。インターネット以降における音楽のあり方を的確に掴んでいると思いました。ここに記されている音楽市場の変貌は、なんだか寂しい気もしますが、必然的な流れだろうなとも思います。そう考えると、ロックと音楽雑誌がまだ元気で機能していた時代に立ち会えたぼくらの世代は幸運だったのかもしれません。
ぼくはもう新譜を漁るようにしてロックを聴くことはなくなってしまいました。過去を懐かしむような大人になんかなりたくないと思っていたのに。気がつけば90年代に聴いていたロックを手にすることが多いんです、最近。やっぱり青春時代に聴いていたものは別格なんですね。ある人にとってそれは60年代かもしれないし、ある人にとってそれは現在かもしれない。ぼくにとっては90年代だった。そういうはなしです。
昨日、大阪ダブル選挙が行われ橋下徹氏率いる維新の会が知事選、市長選をともに制しました。閉塞感が蔓延している政治的イシューの中で、既成政党への不信と「改革」への期待が相まった当然の結果であると言えるのでしょう。30代は圧倒的に橋下氏支持が多かったとのこと。
平成の維新を高らかに叫ぶ橋下氏の言葉は徹底してクリアカットです。ロジカルに敵をばっさばっさと切っていく姿は痛快でもあるでしょう。そのためにテレビ向けのわかりやすい二項対立を際立たせる戦術もさすがに巧い。それに対して、この記事が指摘するように「反橋下陣営」は余りにもお粗末だったのかもしれません。
「橋下イズム」と「ティーパーティー」その同時代性 - ニューズウィーク日本版より
まず、橋下新市長が「どうして日の丸・君が代にこだわったのか?」
「日の丸・君が代」で攻めれば「敵はきっとイデオロギーから反発して感情的になる」だろうというのが彼等の「狙い」なのです。そうして「庶民の生活レベルの話や、大阪全域の経済再建」などの実務的な、具体的な政策論を説く代わりに、イデオロギー的な橋下批判に彼らが専念すれば「シメシメ」という作戦です。
イデオロギー的にカッカすることで、「反独裁」とか「反ファッショ」などという絶叫しかできない場所に追い詰められ、それが正義だと我を忘れた「反橋下」陣営を見ていると、中間層は選挙戦の展開を見ながら、これでは自分たちの民生向上にも閉塞感打破にも「全く役に立たない」という風に見てしまったわけです。
こうなると完全に橋下氏の「思うツボ」です。一旦自分たちがモメンタムを獲得してしまえば、反対派が「反独裁」を叫ぶということは「漠然と橋下支持を固めた中間層」に対して「お前たちはバカだ」と見下しているということになり、「叫べば叫ぶほど票が逃げていく」無限の循環に陥るからです。
ぼくは内田樹さんの言説に大きな影響を受けてきましたので、平松さんに期待していました。内田さんがこの記事で言っていることに全面的に同意します。君が代条例にしても、公務員に対する厳しい態度というよりも、教育は強制であると主張した橋下氏の教育観にぼくはつよい危惧を覚えました。未来を担う子どもたちを共同体の一員としてどのように育てていくかという視点が抜け落ちているように感じたからです。
これはたぶん2年間のツイッターやブログを書くという行為を通して、辛抱強く考えることを学んだからだと思います。「政策の適切性を吟味することよりも政策実現までの速度を優先させるのは病的である」(内田さんのツイートより)というのもその通りだと思います。
しかしそれでも、ファシズムという語感になぞらえたハシズムという揶揄の仕方(これは内田さんが言ってたわけじゃなくてどこかのコピーライターが考えたものでしょうけど)には、言わんとしていることには同意するけど、どこか違和感を覚えていました。安易にフレーズ化すると、そのイメージだけが独り歩きしてしまいます。そして人っていうのは安易なイメージだけでものごとを判断しがちです。
だからもしかしたら、数年前のぼくだったら喜んで橋下氏を応援していたかもしれません。小泉氏のリーダーシップいいじゃんと思っていたのと同じように。既得権益をぶっ壊す「改革」こそがロックだと持論をぶっていたかもしれない。
でもちょっと待って。
ロックンロールとは「悩んだまま踊らせる」ものだったはずです。別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。クリアカットな言葉で、わかったかのように、ものごとをずばずばと断罪する行為はぜんぜんロックじゃない。それってむしろ、権力側の行動原理じゃないですか。
大阪の選挙とロックをつないでくれたのは、福岡で音楽活動をしている聡文三さんのツイートです。僕と同世代である聡さんも大阪の選挙の結果を受けていろいろ考えたようでした。
SOH BUNZOHさんのツイートより
震災、特に原発事故以降って、割と多くの人が「今の日本のシステムはダメだ、何とか変えないと」という気分は共有していると思うんだよ。ただそこでどっかの頭の悪いパンクスみたいに「また一から始めるぜ何もかもデストロ〜イ!」みたいな考え方に行くのを、今の俺はあまりいいとは思わない。
それは「気分としてのラジカリズム」であると聡さんは指摘します。そして「気分としてのラジカリズム」の超克は自身のこれからの課題でもあると。その通りだと思います。ポピュリズム、とくにテレビを介した劇場型政治っていうのはほんとうに「気分」だけで移り変わる。終盤になってマスコミが橋下バッシングを始めましたが、それはソーシャルメディアによる連帯の中では「偏向報道だコノヤロー」という解釈になって、橋下氏の当選が「民意の勝利」になるんですね。これはベクトルが逆になっただけで、「気分」による行動原理という点でポピュリズムと同じ構造です。そこで展開されるのは実態の見えない何となくの「イメージ」だけです。くり返しますが、10年ほど前に小泉氏のリーダーシップいいじゃんと思っていたのはまさに「気分」だったとぼくは反省しています。
SOH BUNZOHさんのツイートより
そういえばこないだ、ジョージ・ハリスンの映画観に行った。ヘンな言い方だけど、映画観た後に行った理由が分かったのね。感想はここに書いたとおりだけど、ジョージのやろうとした事ってまさに「気分としてのラジカリズム」の超克だったんじゃないかなあと。
ほら、それこそヒッピー的なのってほとんどの場合、「気分としてのラジカリズム」で終わったわけじゃん。「ロックで革命を!」「ドラッグで意識を改革したら世界が変わる!」みたいな。で、まあ思いっきり挫折した後、大抵の奴は転向したり反動化したり夢を引きずったままダメになったりしたわけなんだろうけど、ジョージは多分、自分なりのやり方でそこに落とし前をつけようとしてたんだろうなあと。
2008年。ニール・ヤングが自作のドキュメンタリー映画『CSNY Deja Vu』の記者会見でこう語った事が、ちょっとしたニュースになりました。
音楽で世界を変えることができた時代は過ぎ去った。今、この時代にそういう考えを持つのはあまりにも世間知らずだと思う。
この言葉をどう捉えたらよいのでしょうか。ただ単に年寄りの悲観的な発言なのでしょうか。40年にわたり反骨精神としてのロックを体現してきた人物だけに、その発言には重い響きがあります。
これはもちろん「ラブ&ピース」の全否定ではありません。ただ、「ラブ&ピース」の「気分」だけでは世界は変わらない、戦争は無くならないと云うことをぼくらは歴史から学ぶことができます。そういう時代にぼくらは生きています。じゃあロックはもうお役御免なのか。なんの力もないのか。んなことはないですよね。ニールはその後、こう語っています。
「音楽が世界を変える時代は過ぎ去った」と話したニール・ヤングからの声明文 - Native Heartより
ぼくにわかっているのは、答がもし見つかれば、自分にはそのことについての歌ぐらいは書けるだろうと言うこと。そのときがくるまでは、ぼくに書けるのは、自分の探求についての歌か、すべての時間を探すことについやしているという歌だけ。でも、ひとつの歌だけでは、世界を変えることなどできやしないだろう。しかし、たとえ世界を変えられなくても、ぼくはこれからも歌い続ける。
さて、どうもロックの話になるとぼくは過剰に感情移入してしまうようです。勝手に自分なりのストーリーを投影してしまう。ほんとうはそんなもんじゃないかもしれない。たぶんそれは自分でもわかっている。ロックが世界を変えられないことも、ラブ&ピースの世界じゃないことも。わかっているけど、でも、それでもロックが好きなんです。
橋下氏は当選後さっそく「民意無視なら去ってもらう」と言っているそうですが、多数決によって勝利したロジックが「民意のすべて」であるかのように振る舞うことは民主主義における為政者の態度ではありません。少数者の意見にも耳を傾けるということが民主主義の根幹です。
平川克美さんのツイートより
民主主義は、効率やスピードよりも手続きやプロセスを重視するという知恵が発見した方法です。
選挙や多数決は、確かに民主主義を担保する意思決定手段です。しかし、少数者を尊重するという普段の努力こそが民主主義の根幹の理念です。
民主主義をつくるのは「少数者を尊重するという普段の努力」なんですね。これは他ならぬぼくたち自身のこと。ぼくたち自身が、多数派の中に埋もれる存在ではなく、ひとりひとりがオルタナティブな存在であるということを自覚すること。
自身の内面を徹底的に見つめた時に、人は「なにか」とつながります。表現者とは、そのつながる術を持っている人のことです。そうして生まれた作品には「なにか」のエッセンスが宿り、ぼくらはそれを介して(共感という術によって)他の人とつながることができる。共同体とはそうやってつくられるものなんじゃないかと思います。
田中宗一郎さんはインタビューの最後に「これから」のことについて語っています。
過去と未来 | 田中宗一郎 - TheFutureTimesより
田中:今は誰もが個人として、社会に対して、いろんな責任を果たそうという意識が強くなってきたよね。誰もが24時間生活して、家族を支えること以外に、いい意味で、社会の一員としての責任を果たすべきだと思うようになったし、悪い意味ではどこか強迫観念的にそう感じるようになった。そこをちょっと批評的に捉えたい。僕自身、社会の一員として世の中で起っていることに意見しなければいけない、加担しなきゃいけないってオブセッションがすごく強い時期が10年くらい前にあって。でも、今はむしろ逆で、自分のドメインに徹したいという意識が強い。自分っていうのはポップミュージックが作り手から送り手に伝わっていく媒介として存在している。その小さなドメインに徹すること。それは結果的に社会のひとつのモデルとなって、直接的に社会の一員としてのいろんな活動を行わなくても、何かしらのヒントになりうるんじゃないかって考えてる。もしくは、社会の一員として考えているアイデアみたいなものも相似形として自分の活動の中に反映されるようなことをやるんだろうな。
これって「新しい公共」の概念ですよね。「公」と「私」の境界が曖昧になるというか、どちらも双方の要素を含んでおり絡み合っているというか有機的というか。「私」をはなれた「公」は存在しないということ。ソーシャルメディアの普及によって加速度的にその感覚が浸透してきているようにぼくは思います(その感覚がマジョリティを形成するにはまだ時間がかかりそうですが)。
ユニコーンの記事に書きましたが、「私」が只やりたいからやるってこと。それが結果として「公」をつくっていく。ぼくらは、自分の身体性が担保する範囲でしか、つまり自分の身のほどの届く範囲のことしか語れないんです。達観したおっさんは、大きなことを語らない。ただ自分の身の回りを誠実に(愉快に)生きる。そうじゃなければRockがRollしない。
カウンターカルチャーとしてのロックが、ぼくは好きです。蒼臭かろうが、それだけでぼくにとってはロックはロックたり得る理由になる。そのきわめて「個人的な」パッションの中にしかロックは存在しないし、「個人的な」動機でしか世界は成り立たないんじゃないかと、ぼくは思っています。
それでもロックが好きなんです。
それでもロックが好きなんです。 2011.11.28 Monday [音楽・映像] comments(8) |
ロックというのはたいへんなんだね。(なんて感想!)
おっきい音というのが苦手で、だからたぶん聞かないんだよね、おっきい音しそうな音楽。
大きな声で多数の声で説得される感じが好きじゃないということとどっか共通する感覚かも。(あくまでわたしの中で。)
音楽をやる人というのは、「音」と一体になってる感覚でやってるのかなぁということを思う。自分自身が音になる。
楽器を弾く人であれ、歌う人であれ。
気持ちいいんだろなぁって。自分を鳴らす。自分が鳴ってるかのように楽器を鳴らす。
こっこ とかはもうそういう感じ。かなと。
でもそういう感じじゃないと 音 聞く意味、ないかも。なー。