誰かのために。キース・ジャレットの旋律。

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先日、ヘンリー・ダーガーという作家(本人は自分の作品が世に出るのを望んでいなかったそうなので作家という呼び方でいいのかわかりませんが)の生涯を通して、芸術家がなぜ作品をつくるのかについて書きました(ヘンリー・ダーガーの孤独(なぜ作品をつくるのか))。ぼくはそこで「なにか」とつながるためって書いたけど、実はたぶんほとんどの場合、なにかを作っている最中の本人はそんなことべつに意識してない。「なにか」とつながるためっていうのは、無意識レベルでの話、あるいは結果としてそうなるっていう後付けの理由であろうということを補足しておきます。

芸術家がなぜ作品をつくるのかの根源は「表現せずにいられない」ってことだと思います。まず前提として、自分の内から湧いてくるどうしようもない衝動がなければ芸術作品とはなり得ません。そりゃそうですよね、誰かに言われてしぶしぶやっていたり、報酬(対価)のために仕方なくやったり、マスマーケティングという一種のゲームに乗っかるように画策したりして出来たものは芸術作品とは呼びません。そういう採算を度外視しても、というかはなから採算のことなんか頭にない状態で、ただ「表したい」という思いがあるはず。
じゃあなぜ表したいのか、って後から考えてみたときに、なにかとつながりたいからなんじゃないか、なんて思ったわけです。ここで言うなにかとは前に書いたようにうまく言葉にはできない「なにか」かもしれないし、あるいは「誰か」かもしれない。目の前にいる誰かかもしれないし、遠く離れたところにいる誰かかもしれないし、あるいは未だ見ぬ誰かかもしれない。

先の記事のコメント欄で愚樵さんが仰っていたのですが、自己を見つめて掘り下げていくことで個を確立していくのを「垂直型」、人間関係のなかで個を確立していくのを「水平型」という見方があるそうです。これはたしかに分かりやすい考え方で、ダーガーは徹底した垂直型であったわけですね。

ぼくは若い頃は「垂直型」こそが芸術であって、両者のバランスを取ったものはつまらないと思っていました。いまでも「垂直型」の作品は好きなんですが、年をとるにしたがって両者のバランスが大事だと感じるようになりました。垂直型の個を確立していくことと水平型の個を確立していくことは矛盾しないというか、垂直型の個を確立していく過程で水平的な人間(他者)とつながることはすごくいいことで、それによって新たな視点が開けたりしてまた垂直方向に自分を見つめることができるようになったり。それがまた垂直型の個の確立にも還元していくんじゃないかと。循環しているような。
たぶんその垂直軸と水平軸のバランス配分で、「気持ちいい」と感じるポイントが人によって違うんだろうなと。同じ人物でも経験や月日を通してそのポイントが移り変わっていくんだろうなと。


そんなことを考えていたら、ぼくの大好きなソロ・ピアノ作品、キース・ジャレットの『メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー』のことが思い浮かびました。これって、ずっとアーティスティックに垂直型の作品を追求してきた人が、ふっと差し出した水平型の作品ではないかと思ったんです。


Keith Jarrett
Ecm Records
発売日:1999-10-19


試聴

2005年に書いたレビューを再掲。

断言します。綺麗なピアノの音が聴きたくてこのCDを買った人は、絶対に失望する事はありません。

ECMよりキース・ジャレットのスタンダード・ソロ・ピアノ(99年)。本作は、慢性疲労症候群という病気のために活動を休止していたキースが、療養中に自宅のスタジオで録音したソロ・ピアノ集。ピアノひとつで、自宅にて制作されたという事が感じられるような、とてもリラックスした静かで穏やかな作品。一音一音を慈しむように弾かれるピアノが本当に美しい。いったいこのキース・ジャレットという人はどうしてこんなに琴線に触れるフレーズを奏でることができるのでしょうか。とてつもなくシンプルな演奏なのに、こんなにも豊かな表情を見せてくれるのでしょうか。

「綺麗」という言葉は、こういう作品のために使うんだな、と思う。それは、いわゆる「小綺麗」とか「綺麗にまとまってる」などとは180度異なるから。それがつまり「美」であるのだ。あまりにもピュア(音一粒一粒の純度がなんと高いことか)であまりにも優しいその音色の前では、どんな理屈も理論も通用しない。ただその美しい調べに身を任せるだけでよいのだ。わき上がる涙が頬をつたうならそれもよい。まるで大きな愛に包まれたような気持ちにさせてくれる。先ほどの自分の問いに答えるならば、この人は宇宙に繋がっているのだきっと。

ちなみに、これを演奏したときの観客はたったひとり、彼の奥さん。そしてジャケットの写真は奥さんによるものだそうです。す、すてきすぎる。



なんだかちょっと大げさなレビューですが基本的な感想はいまも変わっていません。
ただちょっと違うなと思うのは、「この人は宇宙に繋がっている」のはたしかにそうなんだけど、それは『ケルン・コンサート』のように研ぎすまされた緊張感に覆われる完全即興ソロ・コンサートの場合に言えることであって(「メロディが天から降りてくる」というキースの言葉はたしかこのアルバムのライナーノーツに書いてありました)、本作の場合は観客はたったひとり、彼の奥さんであったのです。つまりこれは奥さんに向けて演奏されたものであり、奥さんのために作られたアルバムと言えるんじゃないかということ。

特定の「誰か」のために。

本作が、彼の他の諸作に比べておだやかでやさしい音色を奏でているのは、療養中であるということも影響しているでしょうが、たいせつな「誰か」のために何かをしているという行為が生む結果であると思います。それこそが、心が洗われるようにピュアで美しい旋律の理由なのだとぼくはいま信じています。それと同時に「宇宙に繋がっている」という感覚もまた間違いではないと思います。というか、そこがたぶん大事なポイントで。

垂直軸で「なにか」と繋がるのではなくて、水平軸で他者と繋がることで「結果として」なにかと繋がっている。別の言い方をするならば、人はたいせつな誰かとつながることで大きな愛に包まれたような気持ちになり、その瞬間に「なにか」とつながる。神が宿る、と言ってもいいかもしれません。

「垂直型」と「水平型」の考え方っていうのは3次元的なイメージですが、ほんとうのところは垂直軸と水平面が入り乱れて4次元的?な感じというか流動的な感じというか有機的な感じというか、タテでもありヨコでもあり、みたいな感じなのかもしれないなあと思いました。

もうひとつ、ぼくがいま暮らしの中でいちばん感じていることを。これは後からもういちど書きたいと思いますが、子どもとの関係っていうのは他者との関わりであるから「水平型」なんだけど、すっごい垂直軸にも向かってる感じがするんです。よく言われることですが、子育てって子どもを育てているようで自分が育てられるんですよね。乳幼児の子育てをしていて思うのは、子どもの生命力であるとか本能とか好奇心や可能性をどれだけ信じられるか、が大事だということ。そしてそれを阻害するのが常識とか先入観やレッテルという自明性への依存。だから子育ては自問の連続性です。「これやっちゃ(やらしちゃ)いけない」とか「これしなきゃいけない」とかいうのは、いったい誰のためにそう思うのか。よそ様に迷惑をかけたくないからなのか、それとも他人にいい親だと思われたいからなのか、はたまた自分が不快だからなのか。で、子どもの目線で考えたときにどうなのか。そんなことを後になってから自問するわけです。ああ、あの時言ったあれはどうだったんだろうって。

家族っていうのは共同体の最小単位だと思いますが、水平的な繋がりの中で垂直軸を育むんだなあと思って。“親に感謝しよう”とか“家族のきずな”とか、そういうのが言葉として先走って「標語」みたいになっちゃうと嘘くさくてぼくは信用してないんだけど、ほんとはそういうのって「自ずと」培われていくわけでそれってとっても大事で本質的なことなんだなあと最近しみじみと感じています。不特定多数の誰かのためじゃなくて、特定の「誰か」のためってことが。






追記(11/25):
愚樵さんがこの拙い記事へのアンサーソングを書いてくれました。
コミュニケーションにおける水平型/垂直型 - 愚樵空論
「シャーマニズム的霊性」と「アニミズム的霊性」かあ、なるほどねえ。なんだかわくわくします。
こうやって、水平的コミュニケーション(対話)によって思考が展開していくのは完全に自己をこえたところからもたらされるものであり、その流れに身を委ねるのはとてもおもしろいです。




誰かのために。キース・ジャレットの旋律。

誰かのために。キース・ジャレットの旋律。 2011.11.24 Thursday [音楽・映像] comments(0)
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