ヘンリー・ダーガーの孤独(なぜ作品をつくるのか)

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奈良美智さんのツイートで、ヘンリー・ダーガーという人の存在を知りました。さっそく画像検索してみたら、その絵の線のタッチや色彩の感覚、そしてなんとも言えないシュールでふしぎな世界観に、ぼくはひと目でファンになってしまったのですが、彼の生涯がまたすごい。衝撃です。そしてとても大事なことを示唆しているように思います。

奈良美智さんのツイートより
好きな作家のひとりにヘンリー・ダーガーという人がいるのだけど、彼は死ぬまで絵を発表したことはなく、亡くなった後に大家さんが部屋を整理した時に大量の絵を発見した。誰も彼が絵を描いていたことを知らなかった。真に好きなことをして生きるには、マイナーである覚悟が当たり前に必要なのだ。


世間に発表するわけでもなく個人的な趣味で絵を描いたり作品を作ったりしている方はたくさんいると思いますが、それにしても彼が絵を描いていたことを「誰も」知らなかったってすごいですよね。どんなに個人的に作品をつくっている人でも、なんかのコンペなりに応募してみたり、仲間内で展覧会を開いたり、個人のホームページで作品を公開したりしたくなるものですよね。あるいは完全に非公開であったとしても、家族や友だちぐらいは知っているだろうし。だから「誰も」知らなかった、それだけ徹底して孤独な状況で作品をつくるってすげえな、と。
彼はいったいその膨大な作品を、何のために描いて(書いて)いたのか。どんな気持ちで描いて(書いて)いたのか。そのことにぼくはとても興味をもちました。


ヘンリー・ダーガーの生涯について、Wikipediaに掲載されている情報で補足しておきます。

1892年シカゴで生まれたダーガーは、4歳になる直前に生母と死別、足の不自由な父に育てられますが、12歳の頃に感情障害の兆候が現れたという理由で知的障害児の施設に移されます。15歳で父が死去した事を施設で知り、16歳で施設を脱走し、260kmを歩いてシカゴに戻り、ジョゼフ病院の掃除人として働き始めます。そして19歳の時『非現実の王国で』の執筆を開始。執筆は約60年間に渡り、彼が亡くなる半年前に老人ホームに収容されるまで、誰に知られることもなく続けられました。ダーガーが暮らしたアパートの家主であり、芸術家でもあるネイサン・ラーナーがダーガーの持ち物を整理するために部屋を訪れたときに、300枚の挿絵と15,000ページ以上のテキストからなる物語が発見されたとのこと。
(ラーナーは作品を発表する際、挿絵の約100枚を画廊や個人愛好家に販売し、その残りをMoMAなどに寄贈。ダーガーの部屋は保存され、現在は移設された場所で博物館としてテキスト原文と共に公開されている。なお、その余りにも遠大なストーリーのためか、これまでこの作品は外国語版を含めてテキスト全文が刊行された事はない。)

※以上、「ヘンリー・ダーガー - Wikipedia」および「非現実の王国で - Wikipedia」より引用、適宜編集。


60年間誰にも知られることなく、ですよ。気が遠くなりそうです。

ぼくみたいな凡人が自分の作品なりをなんかのコンペなりに応募してみたり、仲間内で展覧会を開いたり、個人のホームページで作品を公開したりするのって、もちろん「認められたい」という思いもあるだろうし、そのことを通して人との「つながり」を求めているわけですよね。たぶん、自分の作品を社会に公開したいと思う理由は、それ以外にはないのでは。
そしてそのこと自体には良いも悪いもありません。作品を通して人と人がつながることはすてきなことだし、たのしいことです。「認められたい」という思いだってべつに不遜なわけじゃなく、それ自体が目的であったとしても、コミュニケーションのひとつの形としてアリだと思います。

しかしながら、ダーガーは徹底して孤独でした。


偶然ですが数日前の夜中、布団にもぐりこんだ後にふと、「芸術家はなぜ作品をつくるのか」に思いを馳せました。
備忘録:「なにか」とはなにか - yamachanblog

芸術家はなぜ作品をつくるのか。自己表現、自己実現のためでしょうか。「認められたい」とか「人に何かを与えたい」とか「社会にインパクトを与えたい」とか「メッセージを込めて何かを問いたい」とか、たしかにそういう側面も多分にあります。ときにそれらの作品は人と人とをつなげる媒体となります。須藤元気のWORLD ORDERなんかは、ダンスというパフォーマンスを通して、言語の壁を超えて人がコミュニケーションし得るという好例だと思います。だからたしかに人とつながることが大事な要素であることに違いはないけれど、でもそれがいわゆる芸術の本質ではないような気がします。

芸術家はなぜ作品をつくるのか。
「なにか」とつながるためじゃないでしょうか。そう考えると、ベクトルが外に向いているか内に向いているかの違いだけで、ダーガーのアウトサイダー・アートも須藤元気のダンス・パフォーマンスも「つながる」という意味においては大差ないのかもしれません。
作品を世に公開するのは、人との「つながり」を求めるからだと先ほど書きました。しかし、作品をつくるという行為そのものが、「なにか」とつながる行為なのだとしたら。この場合の「なにか」とはもちろん物理的な他人ではありません。「なにか」を言葉にするのは難しいですが(簡単に言葉で理解できるなら作品をつくる必要もありません)、自己の内面を見つめるという行程なしにはたどり着かないということは間違いありません。
ダーガーは徹底して孤独であり、他人とのコミュニケーションはありませんでした。人に見せるためではなく、ひたすら自分のためだけに描いていました。それはすなわち、作品をつくり続けることで徹底して自己の内面を見つめ「なにか」とつながろうとしていた(それは無意識かもしれません)のではないかと思います。

奈良美智さんのツイートより
僕は人々に力を与えたり、元気づけるため制作しているのではない。結果、そうなるのはとても嬉しいが、それが自分の進む道を霧の中に隠してしまったりする。やっぱ、人の事は気になるのだ・・・だからこそ、人を気にせずに自分と対峙するべし!自分は絶対に自分を裏切らないぜ。とことん対峙するべし!


ぼくらが芸術に触れたときに感じるなんとも言えない気持ち?感情?って何なんでしょう。
芸術家は、作品を作ることで「なにか」とつながる。そうして紡がれた作品には「なにか」のエッセンスが宿る。ぼくらが芸術作品を通して受け取るのはおそらくそのエッセンスなのではないかと思います。

ついでに言うと、<自己と対峙する>ということと<自己がゼロになる>ことは相反するようで実はとても近いものだと思います。ぼくが大きな影響を受けた土門拳の言葉を紹介します。20代半ばの時に、酒田市の土門拳記念館で出会った言葉で、氏のライフワークである「古寺巡礼」の展示冒頭に掲げられていたキャプションに掲載されていた言葉です。

土門拳記念館/土門拳についてより
『写真の立場』   土門拳

 実物がそこにあるから、実物をもう何度も見ているから、写真はいらないと云われる写真では、情けない。
 実物がそこにあっても、実物を何度見ていても、実物以上に実物であり、何度も見た以上に見せてくれる写真が、本物の写真というものである。
 写真は肉眼を越える。
 それは写真家個人の感覚とか、教養とかにかかわらない機械(メカニズム)というもっとも絶対的な、非情なものにかかわる。時に本質的なものをえぐり、時に瑣末的なものにかかずらおうとも、機械そのものとしては、無差別、平等なはたらきにすぎない。
 そこがおもしろいのである。
 写真家は、機械のうしろに、小さく小さくなっている。写真家が小さくなって、ついにゼロになることは、なかなかむずかしい。せいぜいシャッターを切るとき、あっちの方を眺めるぐらいなものだ。
 写真の中でも、ねらった通りにピッタリ撮れた写真は、一番つまらない。
 「なんて間がいいんでしょう」という写真になる。
 そこがむずかしいのである。


「写真家が小さくなって、ついにゼロになること」という言葉と、実際に展示されていた「古寺巡礼」の写真に触れたときの体験が、ぼくの芸術観、というか価値観を変えました。ぼくはそれまでお寺や仏像といったものに興味も持っていなかったのですが、土門拳が撮影した仏像の写真の前に立った時に、まるでほんとうの神社仏閣にいるような、いや、たぶん現実にお寺に行ったよりももっとずっと崇高な気持ちになったのです。それははじめての経験でした。

土門拳がカメラの前でゼロになると言ったのは、我欲であるとか自意識であるとかを超えたところにインスピレーションが降りてくるという意味だとぼくは思っています。キース・ジャレットは即興演奏の時にメロディが天から降りてくると言っていますね。「なにか」とつながるために重要なのは、インスピレーション=霊性であると思います。


最後に、奈良美智さんのブログより、自身の叫びをしたためたと思われる文章を引用します。これってなにも芸術に限ったはなしじゃないと思います。
写真や絵や音楽を通して「なにか」とつながるのが芸術だとしたら、神様を通してつながるのが宗教だし、数字を通してつながるのが数学だし、物理現象を通してつながるのが物理学、宇宙や素粒子を通してつながるのが理論物理学、言葉を通してつながるのが文学、論理を通してつながるのが哲学ですよね。
プロセスは異なるけれども、突き詰めると向かう先って同じなんじゃないかと思うんです。だからすぐれた科学者はすぐれた芸術家でもある。

わかってたまるか!でも、わかろうとするべし! - 奈良美智の日々より
少し制作に集中したら、何か芸術っぽいことを言ってみたり。
ちょっとライブに行くと、音楽についてしたり顔で語ったり。
映画をたくさん観たり、小説をたくさん読んだり、したようなふう。

まだまだ途中の人なのに、もう止めたりするわけじゃないのに。
わからないことは、まだまだたくさん山ほどあるのに。

わかったふうな事を言うなよ!自分!
自分に向けて言うだけでいいんだ!
いつまでも、わからない!って、呟け!自分!

『わかる』ために生きてるわけじゃないが。
『わかろう』とするために生きてる。

だから、一生わからないだろうけど(何が?www)
『わかる』より『わかろう』とすることのほうが、気持ちいい。

一生、気持ちよくありたい。


そう、「真実」とか「正しいこと」よりも「気持ちよさ」のほうがたぶんほんとうのことなんですよね。ぼくはいま特に芸術作品などをつくっているわけではありませんが、さまざまなことを通して奈良さんが言ってるようなことを感じる場面に出会います。子育てなんて、まさに自問の連続です。一生、気持ちよくありたいです、ぼくも。

ヘンリー・ダーガーの孤独(なぜ作品をつくるのか)

ヘンリー・ダーガーの孤独(なぜ作品をつくるのか) 2011.11.21 Monday [妄想] comments(5)
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愚樵 (2011.11.22)

山やまさん、おはようございます。

ヘンリー・ダーガーの作品、見てみました。なるほど、すごい。
そのダーガーが徹底して孤独だったと聞いて、思い当たるフシがあります。

私が敬愛している思想家のひとりに内山節という人がいるんです。アカデミズムとは遠い位置にいる在野の哲学者なんですが。その内山氏が「水平型の個の確立」「垂直型の個の確立」というようなことを言っています。

そこを著作で述べられた部分を
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-493.html
で引用してあります。

内山氏は水平型/欧米、垂直型/日本とカテゴライズしていますが、これは一般論であって例外はいくらでもある。ダーガーはその例外、つまり垂直型であったような気がします。

「自己が自己を掘り下げていくように個を確立しようとする。だから個をみつめたときは水平的な、人間としての他者が消える。自己の内奥だけがみつめられるからである。」

職人気質というやつですね。自身で自身を認めて、それで充足してしまう。 他人の評価などどうでもいい。そんな人、昔はよくいたと思います。気難しくて付き合いづらいが素晴らしい技を持っている、ガンコ親爺。でも、そういった人もちゃんと共同体の一員だった。

><自己と対峙する>ということと<自己がゼロになる>ことは相反するようで実はとても近いものだと思います。

<自己がゼロになる>というのは、水平型で確立される【自我】ですよね。他人との比較で確立されるもの。「狙う」というのは、いずれにせよ「比較」です。何かと比べているから「狙う」ことができるわけでしょう。でも、それはつまらないという。「なにか」は比べられるものではないし、比べているうちは「降りて」こない。

でも、この自己を掘り下げていく気持ちよさは、一面では危険なです。ダーガーのように孤独を選んでいくことになるし、内山氏の著作では、家族を棄てて行ってしまう人も紹介されている。そういう人、昔はわりといたらしいです。

が、危険だからバランスを取ってというと、これはつまらないものになる。だから難しいんですね。

山やま (2011.11.22)

愚樵さん、おはようございます。

水平型、垂直型という考え方はよくわかります。縦の関係と横の関係って、人間社会でもよく言いますしね。ぼくが頭の中でイメージした感じを図にしてみました。
http://img.yamachanblog.under.moo.jp/20111122_2209466.jpg

水平的なつながりは横に広がっていって、それぞれのタテ軸によって層になってるようなイメージ。で、自分のいる層と近い層にいる人とはつながりやすいんじゃないかと。

職人気質は、ぼく大好きです。職人の人が作業しているすがたはたぶんずっと眺めていても飽きない。でも、家族を棄てて行ってしまうほどになってしまうのはちょっと寂しい気がします。やっぱりバランスだと思います。

たぶんその垂直軸と水平軸のバランス配分で、「気持ちいい」と感じるポイントが人によって違うんだろうなと。同じ人物でも経験や月日を通してそのポイントが移り変わっていくんだろうなと。

ぼくも若い頃はそういったバランスを取ったものはつまらないと思っていましたが、年をとるにしたがってそうでもないんじゃねーか、いや、垂直型の個を確立していくことと水平型の個を確立していくことは矛盾しないというか、垂直型の個を確立していく過程で水平的な人間としての他者とつながることはすごくいいことで、それがまた垂直型の個の確立にも還元していくんじゃないかなあと。循環しているような。こうして愚樵さんとやりとりするのって水平軸ですよね。でもそうすることで、新たな視点が開けたりしてまた垂直方向に自分を見つめることができるようになったりします。
ソーシャルメディアをやり始めてから特にそのことを強く感じるようになって、さっきのイメージ図もあれは3次元的なイメージですが、ほんとうのところは垂直軸と水平面が入り乱れて4次元的?な感じというか流動的な感じというか、なのかな〜と思いました。

愚樵 (2011.11.23)

山やまさん、こんばんは。

イメージ図、いいですね。

(そういうのって簡単に作ることができるんですか?)

ちょっと舌足らずの部分を追加。

家族を棄てるといっても、歳を取ってからの話です。家族を養うという役割を終えて、その後ですね。どのように死を迎えるか。家族に看取られて、ということを敢えて選択しない。独りで「死」と対峙しようとする、そういった宗教選択ですね。

垂直/水平の話も、宗教がらみです。欧米人が水平なのは、いや、水平でいられるのは、神という絶対的に垂直な存在があるからなんですね。これは前の「理性的霊性」と関係します。予め絶対的に垂直な存在があり、その「予め」を感得するから理性。

逆に日本人が垂直的なのは、神がいないから。個々人で垂直になるしかない。でも、ふしぎなことに、そうして個人で垂直になることが出来る力を育むのが水平的な繋がり。特に家族や共同体との深い繋がりが重要。特に幼少期の頃の繋がりの濃密さが大切なように思います。

バランスをとるのがつまらないというのは、そのように意識してしまうことなんですよ。十分に垂直的な方向へ伸びる力を養うことが出来た人間は、「自ず」と自身の「気持ちよさ」を求めて垂直的に根を伸ばし、幹や枝を広げていく。自意識のバランスはこれを抑制してしまう。山やまさんが、しかし、「そうでもないんじゃないか」と考えるようになっていったというのは、それはおそらく「自ずと」そうなったわけで、バランスを取ろうと意識してなっていったわけではないと思うのです。

山やま (2011.11.24)

そうですね、おっしゃる通り「自ずと」ですね。もっともぼくはかなり適当で飽きっぽい奴なので、なにかをストイックに探求するのはもともと向いてないかもしれませんが…でも先にバランスありきを意識してしまうとつまらないというのはわかります。芸術なり文学なり、なにかを表現するのは「そうせざるをえない」という衝動がまずありきだと思うし、それは受け取る側に伝わりますね。

ところで愚樵さんとやりとりしてから気づいたんですが、子どもとの関係っていうのは他者との関わりであるから水平軸なんだけど、すっごい垂直軸にも向かってる感じがして。

子どもってふしぎな存在で、「育児」は「育自」などということばもありますが、子育てって子どもを育てているようで自分が育てられるんですよね。乳幼児の子育てをしていて思うのは、子どもの生命力であるとか本能とか好奇心や可能性をどれだけ信じられるか、が大事だということ。そしてそれを阻害するのが常識とか先入観やレッテルという自明性への依存。だから子育ては自問の連続性です。「これやっちゃ(やらしちゃ)いけない」とか「これしなきゃいけない」とかいうのは、いったい誰のためにそう思うのか。よそ様に迷惑をかけたくないからなのか、それとも他人にいい親だと思われたいからなのか、はたまた自分が不快だからなのか。で、子どもの目線で考えたときにどうなのか。そんなことを後になってから自問するわけです。ああ、あの時言ったあれはどうだったんだろうって。

家族っていうのは共同体の最小単位だと思いますが、おっしゃる通り水平的な繋がりの中で垂直軸を育むんだなあと思って。共同体ってだいじですね。“親に感謝しよう”とか“家族のきずな”とか、そういうのが言葉として先走って「標語」みたいになっちゃうと嘘くさくなるし他人を評価するために利用されちゃうんだけど、ほんとはそういうのって「自ずと」培われていくわけでそれってとっても大事で本質的なことなんだなあと最近しみじみと感じています。

あ、イメージ図はあんな程度であれば1,2分でできますよ。

大湾節子 (2012.08.08)

ロスアンジェルス在住の大湾節子です。

ヘンリーダーガーと検索して、こちらのブログに辿り着きました。

『幻の旅路』
http://ameblo.jp/romantictravel

のブログで、彼とDVDをご紹介しました。

お時間がございましたら、ご笑覧いただけたら幸いです。










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