オルタナティブ教育

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学校って私塾でいいんじゃないか。
いままで世間一般で常識とされてきたことや、子どもに全国一律の教育をほどこすことに対して疑問を感じることが多くなり、学校って私塾でいいんじゃないかと最近つくづく思います。が、それと同時に、いまの日本で自分の子に小学校をドロップアウトさせるだけの度胸もないであろう自分も存在していて、自己の二面性を感じています。

以前の記事にも書きましたが、橋下市長をはじめとする教育改革の論調には違和感を覚えます。彼らの主張が「教育」の出発点に立っているように思えないからです。と同時に、現場ではたらく先生たちには信頼したい人たちもたくさんいます。学校そのもの自体が、教育委員会のお偉方と現場の先生方との間にあるギャップで揺れ動いているのかもしれません。もし学校というものが、橋下市長の掲げるような「教育」機関、つまり公務員=国畜による一律指導の場に一斉になるのだとしたら、いっそのことドロップアウトする覚悟もつくのかもしれません。でも現実には現場の先生方すべてが先の教育改革に賛同してそれに従おうとしているわけでもない。そのギャップというか二面性の中にこそ、世の中の複雑さというものが反映されているのかもしれないとも思ったり。そう思うことで、煮え切らない自己の二面性を正当化してみたり。

平川克美さんのツイートより
ウチダブログの利益誘導教育の破綻、面白い。半端な政治家、ビジネスマンも、必ず「教育が悪い」「教師が悪い」と言う。俺は「教育が悪い」という奴は、信用しないことにしている。

伊藤仁斎が江戸に私塾を始めたとき、門前列をなしたという。町屋遊びに興じていた旦那衆までが、「学問はなんて面白れえんだ」と。教育ができるのは、学びの面白さを伝えるところまでだ。

「教育を何とかすれば世の中がよくなる」なんて思っている教育再生会議的ひとびとは、教育と馴致を取り違えている。教育の効果が現れるのは、教育で学びの面白さを知ったものが自ら学び始めた後の話であり、自ら学び始めれるということはインプットとアウトカムが必ず非整合的であるということ。

教育の奇跡とは、まさに「止揚」の奇跡なのだと思う。分かりにくくてすまないけど、そういうことなんだと思うよ。つまり、教育ってのは「俺はそんなことお前に教えたつもりはない」という形で実現されるということです。


「教育ができるのは、学びの面白さを伝えるところまで」ほんとうにその通りだと思います。昨今の教育改革は、「教育」と「指導」を混同している。全国一律の指導要項があって、どこに行っても同じことを同じように教えるというのは、教わる子どももそうですが、親の考える力を奪います。そしてレールから外れた人を非難しちゃう。それってすごく定型的ですよね。子どもを決められたマニュアル通りに指導することが教育だとは思えないし、ましてや親の責任でもない。親は子どものいったい何に責任を持つのか。

さまざまな私塾が混在して、多種多様な選択肢があれば、親は子どものために必死で考えると思います。自分の子に責任を持とうとすると思います。ひとりの親として自分の選択に責任を持とうとするでしょう。となると同時に、異なる考え方にも寛容になると思う。




リヒテルズ直子さんの著書『オランダの教育』を読んで知った同国のオルタナティブ教育ってのを思い出しました。かつて「オランダ病」と揶揄された財政赤字の時期を経て、いまは「オランダの奇跡」と呼ばれるほど「豊かな」国になったオランダ。ワークライフバランスを見直し、子どもたちの「育ち」を大切にしたことが要因のひとつだそうです。同著は、オランダで実際に子どもを育てた日本人女性による、オランダの教育についてのレポートです。

印象に残った点を列挙しておきます。
オランダでは学校の数だけ教育方針があり、学校を選ぶのは親の自由であり責務。

オランダの小学校。校区がない。“学校は一つひとつ違うもので、学校を選ぶのは親の自由”という考え。人口8万人の小都市でも28校があり、歩いて買い物に行ける距離に3つや4つも学校がある。選びたくなくても選ばざるを得ない。

オランダでは一定数の生徒が集まることが証明できれば、市民団体が私立学校を建てることができる。それがどのような教育理念に基づくものであれ、どのような宗教的倫理に基づくものであれ。校舎や施設の提供は自治体の責任。学費は公立も私立も変わらない。

同じ年齢の子を一つの教室に集め、先生が教壇に立って、主に一方通行で知識を伝達し、子どもはそれを受身に習う、という既存の教育に取って変わる別の教育をオルタナティブ(刷新)教育という。オランダでは、教育というものは時代とともに常に新しく刷新されていくものという考えが根づいている。モンテッソーリやシュタイナー教育はオランダでは、古典的な刷新教育と呼ばれている。


「多様性」ということがオランダの教育の根底にあることがわかります。日本では先進的、というかちょっと変わった人扱いをされるモンテッソーリやシュタイナー教育、イエナプラン等がオランダではすでに「古典的」と呼ばれているわけですから。

オランダの多様な学校教育を保障するのが、同国の教育基本法にあたる憲法23条。
その冒頭の一節。

オランダ憲法第23条
1. 教育は政府の持続的責務の対象である。


ぼくは、この一文に教育というものの真髄が込められているように思います。
子どもはいったい誰のものなのか。親のものなのか、社会のものなのか。それは二者択一で説明出来るものではなく、両方の性質を併せ持つものなのだと思います。自民党の言う「子どもは親が育てる」という座標軸と、民主党が政権交代前後に言っていた「子どもを社会で育てる」という座標軸は、決して相反するものではなく、相互に影響を与えながら交わり合うものだと思うんです。親が自分の子に責任をもつのは当たり前のことであって(誰だってそうしますよね?)、「いや、子育てについては社会(行政)が責任を負うべきだ」という名目でもって親としての責任を矮小化するつもりはありませんし、だからといって「親のしつけがなってないから今の子どもはこうなってしまった」とすべての原因を親に求めるのも違うと思います。極論だけの座標軸は交差しません。実際にはその中間だと思います。子どもは親のものでもあり、社会のものでもある。

「子どもを育てることの最終的な受益者は共同体そのものである」と内田樹さんは常々申されています。共同体として子どもを育てていくことが、国をつくるということです。共同体の未来を担う構成員として、成熟した大人を育てることが、大人の責務です。その環境を整備するために政治があり、政策とは未来への贈与に他なりません。ある政策の結果というものは、市場経済における等価交換の公式のようにすぐに結果の出るものではありません。

「教育」の出発点に立つということはつまり、自分たち及び自分に関係する世代の豊かさよりも、未来の世代への投資に価値を見いだすことができるということ。自己利益を追求する「市場経済の原理」から逸脱した、「わけのわからない」ものを見守ることができる社会。共同体として、そういうマインドを共有しているということなのだと思います。いつの時代でも、イノベーションは「わけのわからない」ものから始まります。大人が出来ることっていうのは、イノベーションの方法をマニュアル的に「教える」ことではなくて、彼らが自発的にイノベーションできるような環境をつくって「見守る」ことなのではないかと思います。

子どもがどれだけ自由にものを考えられるかという場を与えてあげることは、そのまま大人自身にはね返ってくるものです。他者に対して寛容な社会、他者への想像力がはたらく社会というものが、なにより子どもを持つ親にとって子育てをしやすい環境であることは言うまでもありません。子育てをしている人ならそれがわかるはずです。

平松さんの支援集会で話したこと - 内田樹の研究室より
ある教育方法を導入してから、その効果を検証をするまでには、10年から20年、場合によっては30年、40年かかります。2年や3年で効果が分かるはずがない。教育は生身の人間が相手の仕事です。


オランダで「憲法第23条体制」が確立するまでには、90年にも渡る政治議論があったそうです。この学校法闘争はオランダ政治史のなかでも重要で、オランダ人の民主主義についての考え方の根本を成しているとのこと。まさに、共同体として子どもを育てていくことが、国をつくっていったということの証左であるように思います。

イエナプラン教育がいいのか、モンテッソーリがいいのか、ぼくにはよくわかりません。でも、それらが公教育として並列に共存することのできる社会は、懐の深い社会だと思うし、子どもにはそういう多様性の中で育ってほしいとぼくは思います。思ってはいますが、どうしたらいいのかはまだわかりません。

オルタナティブ教育

オルタナティブ教育 2012.05.11 Friday [子育て・教育] comments(4)
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すぺーすのいど (2012.05.11)

こんばんは。
とても、素敵なエントリーですね。

公教育を受ける権利は、とても重要な権利ですが、公の側には投資する以上の下心があるのはわかり切ったことです。

「金は出すけど、口は出さない。」
こういう価値観が根付いた大人の社会に早くなって欲しいですよねぇ。(^_^;)

愚樵 (2012.05.12)

学校は私塾でいいんじゃないか、というより個塾以外にあり得ないのではないですか。

この場合の「私塾」というのは経営形態のことを指しているわけではありません。公立であっても私立であっても、学校というのは私塾の集合体。経営形態がどうであれ、教師という「個」が主体という意味で。

『論語』のいう「学習」の在り方からしても、教育は個塾でしか行なわれないはずです。学習というのは、常に自己(個)の変容を伴う。それは、授業を受ける生徒だけではなくて、授業する教師の側も同じこと。親と子との教育でも同じことですね。

それが、教師が学校という【システム】の一部になってしまうと、「個」が変容することをやめてしまう。教師という「個」が学習を停止してしまうと、授業は「ハラスメント」以外の何ものでもなくなってしまう。日本の学校は、教師を【システム】の一部へと組み入れようとし、それを拒否するならやめてしまえということなっている。その中心にいるのが文科省であり、今は橋本大阪市長が旗を振っている。愚かしいことです。

そういった「ハラスメント」がシステマティックに行なわれているからこそ、教育に適応して東大へ入ってしまうような者たちは呪縛にかかり、魂が植民地化されてアタマデッカチなバカになっていくんです。

山やま (2012.05.14)

すぺーすのいどさんコメントありがとうございます。
口を出さない、手を出さない、っていうのがいちばん難しいですよねホント。昨日も上の子の利かん坊ぶりに手を焼きまして何度も怒ってしまいました。最初はそうでなくとも、だんだん自分がラクをしたいから怒ってるというのが自分でもわかってきて。
というわけでぼくも金を出せるようになりたいです。

山やま (2012.05.14)

愚樵さん

>学校というのは私塾の集合体。経営形態がどうであれ、教師という「個」が主体

そうだと思います。
愚樵さんも書いておられますが、だから、「個」を【システム】の一部にしようとする維新の会の教育改革に疑問を感じるのでしょうね。教育委員会が全教員に命令をしている(だから教員は命令に従う必要がある)だけであって、生徒への強制はしていない、という橋下氏の主張は詭弁にしか聞こえません。










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