一般意志2.0と新しい政治メディア(東浩紀と津田大介)

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東浩紀さんが4年ぶりとなる新刊のことをつぶやいていました。東氏の著書をぼくは読んだことがない(思想地図β vol.2は読みました)のですが、思想系の方なので本職の書籍はたぶん難しい本なんだろうなあ、自分には理解できないだろうなあ、と思いつつも「一般意志2.0」という語感が妙に気になりました。



試しにぐぐってみたら、「一般意志2.0」っていうのは数年前から東氏が提唱している概念のようでした。さまざまなメディア上で東氏が一般意志2.0について語ったことを拾っているサイトがいくつかありましたので、それらを読んでみました。




「一般意志」とは、もともとはルソーの『社会契約論』(もちろん読んだことも、どういう本なのかすら知りません)の中に出てくる言葉なのだそうです。18世紀に出てきたこの言葉を現代に読み解く、というかインターネットの登場によってはじめてルソーの言う「一般意志」というものが顕在化しはじめたのではないかという視点。これ、おもしろそうです。

以下、参考サイトからの引用文(東氏の発言だから引用の引用になりますが)を掲載して、東氏の言う「一般意志2.0」についての輪郭をおぼろげに想像してみます。

ぼくたちがいま直面しているのは、国民が望んでいることを政府により実行されないという問題ではない、むしろ、国民が本当になにを望んでいるのか、もはやだれにも(もしかしたら国民自身にも)さっぱりわからないという更に深刻な問題である。

全体意志と一般意志は違う.全ての意志・みんなの意志が全体意志.一般意志をどうやって作るかが近代民主制の根幹.

ルソーの社会契約論は、契約の当事者でさえ自覚していない願い、意識的で功利的な判断以前の欲望の存在を前提として記されている。

ぼくがいいたいのは「直接」民主主義というより「データベース」民主主義なんだよね。

そもそも現代社会では熟議の理想は成立しない。ハーバーマス的な公共圏の理想は端から成立不可能なのだから、いまの社会状況や技術的条件を前提として「公共圏らしきもの」をどうのように成立させるか、その場(アーキテクチャ)の設計について語るしかないのである。

肯定も否定も区別しなかったことがGoogleの良かったところ。精神分析ではpro/conは意識のレベルでしか区別できない。 RT(ReTweet)もそれに使える可能性がある。これは投票の概念を変えている。

一般意志2.0の話は本当は、文学2.0というか内面2.0みたいな話とセットでないと意味ないのです。

インターネット=マスメディア2.0では、「マスメディア」には質的な転換があって、それは、やはり「中心がない」こと。一般意志2.0における「集合知」のように、多数の人による、断片的な発言・言明が集積されていく場所として、インターネット=マスメディア2.0は了解される
(これは東氏の発言ではないですが)

ニコ動の疑似同期は,みんなが勝手にバラバラに喋っていると,それがなぜか時間を共有しているように感じられる.twitterもみんながひとりごとをバラバラ喋っているのだけれども,なんか議論しているみたいに感じられる.このフィクション感がルソーの一般意志と近い.フィクションとしての議論空間,フィクションとしての集合知.twitterとGoogleが2つでてきたときに,はじめて世界はルソー化した.みんなが勝手につぶやいていることはすごく重要.

ルソーははっきりと、十分に informed された people が communication なしに deliberate すると、小さな difference が集まって一般意志が生成すると述べている。ぼくの一般意志2.0論のエッセンスはすべてこの一文に含まれている。差異、情報、コミュニケーション、熟慮(deliberate)という単語がここまで集約されている文章が、2世紀半前に書かれていたことそのものが驚きではなかろうか。

じつはぼくはいま最大のミッションは、政府の政府2.0化では「なく」て、政府の外側に、一般意志を可視化し執行する別のシステムをのうのうと作ってしまうことだと考えている。


うーん、すごくおもしろい指摘だと思います。インターネットとくにツイッターをやっていて漠然と感じていたこと(*追記1)のエッセンスが「一般意志2.0」という視点にはあるような気がします。インターネットが単に既存のマスメディアに取って代わって主流メディアになるという話ではなく、インターネットというのは既存のメディアとは質的にまったく異なるものであるということ。これはまた後でじっくりと考えてみたい。


話かわりますが、メディアジャーナリストの津田大介さんは新しい政治メディアをつくるために有料メルマガで原資作りをしていると公言しています。津田さんが作る新しい政治メディアとはいったいどんなものになるのか、わかりませんが、彼がやろうとしていることは、東氏の言う「一般意志2.0」とかなり近いところにいるんじゃないかという気がしました。

メルマガの中で津田氏は新しい政治メディアをつくろうと思った理由を以下のように述べています。

津田大介の「メディアの現場」vol.10より
僕の知り合いにも官僚がいます。彼らはもちろんエリートで、能力も高いから、「俺が日本を中から変えてやるんだ」という意気込みを持って入ってくる人たちが結構多いんですよ。20代半ばから後半ぐらいの若い官僚と話しているとすごく楽しい。だけど、やっぱり27、8歳ぐらいになると、彼らも役所という組織の壁を前に「ああ、やっぱりどうやっても変わんない」と去勢されてしまったりする。そうじゃない人たちは、結局役所から出ちゃったりもするんだけど。
僕が政治メディアを作ろうと思った理由は、まず「新しい世論」を作りたいというのが一つ。「政策に興味のある人たちの世論はこれだよ」というカッコ書きの世論を作りたいんですね。そして、それを官僚の人たちに見てもらいたいんです。「日本を改革していきたい、中から変えたい」、そう思っている人たちに闘う材料を与えたいというのが政治メディアのウラの意図としてあるんです。だから質問に答えるのであれば、僕は行政官、公務員が内側から日本を変えていくことは難しいけど可能だと思うし、そのためにこそ僕は政治メディアを作りたいんですよね。

ぼくはこれを読んでちょっと感動したし、メルマガを購読することで津田氏の新しい政治メディア設立の一助になるなら大いに賛同しようと思った。そしてここで津田氏が言っていることって、東氏の言う「ぼくはいま最大のミッションは、政府の政府2.0化ではなくて、政府の外側に、一般意志を可視化し執行する別のシステムを作ってしまうことだと考えている。」ということとまったく同じベクトルですよね。


「なぜ若者たちはデモをしたり、政治的要求を掲げないのでしょうか?最近の若いやつらは覇気がないと40代50代の上司は言いますが、そうなんでしょうか?」という問いに対して、内田樹さんは断じて覇気の問題などではないとした上でこう述べています。

内田樹さんのツイートより
若者たちが政治的行動を取れないのは、自分たちがどういう政治的文脈の中に置かれているか、どうすればこの窮地を打破できるのか、それをクリアーカットに語れる政治の言葉を持っていないからです。誰もそれを提示していないからです。

僕たちの時代にはマルクスウェーバーもロックもホッブズもルソーもいない。それが現代の不幸の大きな原因だと僕は思います。マルクスが今生きていたら「僕たちの知っているマルクス主義」とはまったく違う経済と政治についての指南力のある物語を紡いでくれたでしょう。


これは全くその通りだと思いますが、最近ぼくは現代の若者たちだって捨てたもんじゃない、どころか先見を持った人たちがたくさんいるということを知りました。たしかに、僕たちの時代にはマルクスウェーバーもロックもホッブズもルソーもいません(というかそれらの先人のことすらぼくは知りません)が、僕たちの時代にはたとえば東浩紀や津田大介がいます。ましてやツイッターでフォローするだけでぼくは彼らの<現在進行形の>言葉に毎日触れることができます。

彼らはクリアカットに語れる政治の言葉を持っているわけではないかもしれませんが、新しい政治言語のプラットフォームを作ろうとしています。ましてや、ぼくらはそれに参加することが可能です。それは「僕たちの知っている政治談義」とはまったく違う政治のダイナミズムを紡いでくれるものであると期待しています。そこから「一般意志2.0」が生まれるのだと。そうして可視化された一般意思2.0が民主主義を作っていくのだと、ぼくは妄想することにします。願わくばその「一般意志2.0」が生成される過程に立ち会える、あるいはその一部となれるように。
そのためのプラットフォームが出来るまで、ぼくは家族3人のいまの暮らしをしっかりと見つめて、自分の「文学2.0というか内面2.0みたいな話」を考えていくことにしようと思います。






追記1(11/16):
「一般意志」を言語で説明しようとするのが思想であるならば、それを言語ではなく絵や音楽で表現するのが芸術なのかもしれないと思いました。
ぼくは20代の頃はほとんど本を読んでいなくて、その代わりに絵や音楽がとても好きだったのですが、そこで得た知見(というか感覚、直感)が、いまこうして活字でものを考えるときのベースになっています。だから、はじめに論理があるってケースはあまりなくて、なんとなくいいなとかなんとなく妙だなという「感じ」を、試行錯誤しながら言語に落とし込むっていうのがぼくのブログの書き方です。なんか、ぜんぶがつながっていく。

宮崎駿がこんなことを言っています。
宮崎駿botより
言葉で言えないから、映画作ってるんだよ。言葉で言えるものだったら、そうじゃなくて、“こうですよ”って言葉で言えるよ。


あるいはジョブズのこんな言葉。
スティーブ・ジョブズbotより
その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

たとえば、iPhoneは極めて「2.0」的なプラットフォームで機能し得る製品だと思うのですが、もちろんスティーブ・ジョブズという奇才がいなければこの製品は生まれなかったのだろうけれども、ある意味ではジョブズは「一般意志」を代弁していただけであって、iPhoneというインターフェイスは「一般意志」が生み出したと言うこともできるのではないかと。


追記2(11/16):
愚樵さんがブログで「一般意志2.0」について考察されています。
たいへん興味深い記事で、「一般意志2.0」「民主主義2.0」を成り立たせるためには「貨幣2.0」が必要であるという指摘にも共感しました。
一般意志2.0と共感と仕事 - 愚樵空論
子育て世代にとっても、たかだか2000円でも本を買って読むというのは労力的にも経済的にも大変ですが、購入して読んでみたいなと思います。


追記3(11/25):
自分メモ用に書いたものが思いがけず多くの人にRTされてびびっています。
ここで書いたことは、東さんの『一般意志2.0』を読む前(というか発売前)に書いたことであり、ほとんどぼくの妄想ですので、もしこの記事で興味を持たれた方はぜひ本書を購入して読んでみてくださいね。


上記リンクからぽちって頂くと、ぼくにもお小遣い2.0が入るので嬉しい。

一般意志2.0と新しい政治メディア(東浩紀と津田大介)

一般意志2.0と新しい政治メディア(東浩紀と津田大介) 2011.11.15 Tuesday [妄想] comments(8)
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愚樵 (2011.11.17)

・山やまさん、おはようございます。

追記の部分も含めて、改めて読ませて頂きました。それから、拙ブログのご紹介、ありがとうございます。

>なんとなくいいなとかなんとなく妙だなという「感じ」を、試行錯誤しながら言語に落とし込むっていうのが

その「感じ」、私も共有します。

もっとも私の場合、絵は全くダメ。音楽は偏りが激しい。もっとも「感じ」を感じるのは、文字通りの「仕事」です。身体を動かすことと言葉を操ることとは、遠いようなんですけど、私にしてみれば近い。そんなところでしょうか。

で、この「感じ」をもっと明確にいうと「霊感(inspiration)」になると考えています。宮崎駿もスティーブ・ジョブズも、それぞれの言葉に「霊感」と言葉を当てはめれば、しっくり来ると思うんですよね。そんでもって、ジョブズの場合は「理性的」。対して宮崎は「感性的」でしょう。
(ここいらはまた新しい記事にしましたので、ご覧のほどを。)

そしてです。私はこの「感性的霊感」は日本人的だとも考えているんですが、そこからすると、「クリアカットな言葉」というのは、いささか遠いんですね。それは私自身、多少なりとも言葉を操っていてもそう感じます。私たちはむしろ「以心伝心」ですよね。最近、言わなくなりましたけど。「理性的霊感」なら「クリアカットな言葉」まですぐそこだろう、とは思いますが、いかんせん、持ち合わせていないものは持ち合わせていない。

(宮台真司は「理性的霊感」を持っていると思います。が、それこそが私の宮台氏への違和感なんですけどね。また、東浩紀もそうなのかもしれません。)

そういうわけですから、日本では言葉だけでは足りない。「感性的霊感」を発揮させるにはもっと具体的な環境が必要だと思うんです。そういう意味合いからも、津田氏が構想しているらしいプラットフォームには期待を寄せるんですね。

山やま (2011.11.17)

またまた興味深いコメントありがとうございます。

愚樵さんは樵をやってらっしゃるので、木と対話すること=仕事で「感じ」を得ているのでしょうね。身体を通して得た知見が「感覚」とか「直感」につながっていくという点では絵も音楽も樵も同じかもしれませんね。(ちなみにぼくも偏りがはげしいですよ。というか正しい鑑賞の仕方なんかなくて自分がどう思うかでしかないのだということを絵や音楽から学んだような気がします)

ちなみに、ぼくが芸術的見地から決定的な影響を受けたのは実は絵画ではなくて写真なんです。酒田市にある土門拳記念館に行った20代半ばの夏のことでした。当時は土門拳のこともよく知らずに観光気分で訪れたのですが、氏のライフワークである「古寺巡礼」の展示をやっていました。その冒頭に掲げられていたキャプションに掲載されていた土門拳の言葉にものすごく衝撃を受けたんです。

<実物がそこにあるから、実物をもう何度も見ているから、写真はいらないと云われる写真では、情けない。
 実物がそこにあっても、実物を何度見ていても、実物以上に実物であり、何度も見た以上に見せてくれる写真が、本物の写真というものである。
 写真は肉眼を越える。
 それは写真家個人の感覚とか、教養とかにかかわらない機械(メカニズム)というもっとも絶対的な、非情なものにかかわる。時に本質的なものをえぐり、時に瑣末的なものにかかずらおうとも、機械そのものとしては、無差別、平等なはたらきにすぎない。
 そこがおもしろいのである。
 写真家は、機械のうしろに、小さく小さくなっている。写真家が小さくなって、ついにゼロになることは、なかなかむずかしい。せいぜいシャッターを切るとき、あっちの方を眺めるぐらいなものだ。
 写真の中でも、ねらった通りにピッタリ撮れた写真は、一番つまらない。
 「なんて間がいいんでしょう」という写真になる。
 そこがむずかしいのである。>

そして、実際に展示されている写真を見て驚きました。ぼくはそれまでお寺や仏像といったものに興味も持っていなかったのですが、土門拳が撮影した仏像の写真の前に立った時に、まるでほんとうの神社仏閣にいるような、いやたぶん現実にお寺に行ったよりももっとずっと崇高な気持ちになったのです。それははじめての経験でした。

「写真家が小さくなって、ついにゼロになること」という言葉と、その写真に触れたときの体験が、ぼくの芸術感、というかもっと幅広いものを含む価値観を変えました。それはいまでもぼくのベースになっていると思いますが、それは愚樵さんの仰る「霊感」に通じるような気がします。

「言語で説明しようとするのが思想であるならば、それを言語ではなく絵や音楽で表現するのが芸術なのかもしれない」と書きましたが、それを神様で表現したのが宗教なのではないかとも思っています。そして一神教的な欧州由来の宗教が、戒律によって霊感を表現した「理性的」なものであるのに対して、やおよろずの神を信奉していた日本人は、もっと生活に根ざしたところで「感性的」に表現していたんだろうなと思います。だからおっしゃる通り、日本人に「クリアカットな言葉」はそぐわないという指摘には同意します。
じゃあ「感性的霊感」を発揮させるプラットフォームってどんなんだと言うとぼくはよくわからないのですが、それはやっぱりテクノロジー的な部分での環境づくりになるのかな。津田さんもそうだし、チームラボの猪子さんには近いものを感じます。

ツイッターが日本でウケているのも、感覚的なツールだからだと思うんです。このように身体に近いところでつながるツールって無かったから。140字という制限のおかげで議論には向いてないし、パソコンの前だけじゃなくて携帯やスマートフォンで使えるってのがミソで、なにか直感的にひらめいたときにすぐつぶやける。これはやっぱり「感性的」ですよね。

ぼくはジョブズもだいぶ「感性的」な人だと思っていて、それがappleの製品の感覚的な気持ちよさにつながっているように思います。
ジョブズはなにか大事なことを決断する時は必ず自然の中を散歩したそうです。大事な取引先の相手でも必ずワンツーマンで誘って二人で散歩しながら決めたのだとか。つまり会議室の中にあるdeliberateではなくて、「霊感」的なものと対話すること=deliberateによってものごとを決めていたということですよね。

こえり (2011.11.24)

プラットフォーム かぁ。そういうの、実際に足を運んで行ける場所がある上で、ネットにそういう場があるというのが理想だなぁって思う。
(そういうリアルな場が思い当たらない。探す気力もなかったから、ネットに「場」を求めてきたし、求めてるけど)

ジャズ喫茶に足を何回か運んだけれど、やっぱり世代が違うという部分はどうしてもある。閉鎖的な雰囲気な訳じゃないし、でも世代が違うと、価値観が違うという部分は否めない。でもこちらの価値観も否定されたくないし、価値観を分かってもらえない、というのもつらい話だから、それに新参者が雰囲気をぶち壊すべきでないと思うし。 秋口、お茶を飲みに通ったレストランでも、「昔は人と話せる場があった」ということをマスター言ってたんだけど、それはどういう場所だったのかな??ということはわかんない。 部活とか燃えた人は、その繋がりを今でも維持できてる人はちがうのかなぁ、繋がり感というものが。でも私にはない。

この間、音楽好きな友達と話して、「日本の音楽ってどういうの?って外国の人に聞かれて、えくざいる とか答えるのは。。」みたいな話を聞いたんだけど、
確かに日本の音楽ってこれですよ、こういうのですよ、ってよくわかんない。。音楽を楽しむ場 といったら カラオケボックス、なのかなぁ、と考えた。
でも閉鎖されてるから、新しい人が入って来れないよね、あれ。友達とか連れがいて、行く場所。(最近はひとりカラオケする人も増えてるみたいだけど)
話が横飛んだような。。
ライブハウス的なもの?っていうのが希薄なのかなぁと。スペインだと、フラメンコの音楽がかかるお酒飲める店、とか
アイルランドなら やっぱりそこで音楽かかってて、居酒屋的な店、とか。
日本だと思い浮かばない感。 そこで音楽演奏したい人、踊りを踊りたい人が集って、お酒を飲みたい人、友達どおしできてだべってるひと、
一人で来て飲んでる人、音楽聴きたいからきてる人、誰かと過ごしたいけど過ごす人がいなくてつながりを求める人
みたいないろんな人たちが集える場所なのかな、とか。(想像。海外行ったことないんだもーん)
あと、こないだの法事で、「昔は縁側で集って、話をするとかあった」って聞いて、なるほどなぁとか。
あれ、家の中でも外でもない。
庭のような、家のような。そういう感じ、「場」としていい感じだったりするのかなぁとか。

山やま (2011.11.24)

縁側〜庭っていいよね。たしかにだべってる人、減ったかもね。
日本もむかしは居酒屋とか、流しのギターとかがいたんだろうね(ドリフで見たくらいでよく知らんけど)。日本は伝統音楽が生活と分断されてる感じだよね。たとえばさっきの居酒屋なんかで定番だったのは演歌なんだろうけど、演歌ってもともと日本にむかしからあったものでもないみたいだし。(ぼくは個人的に演歌の世界は苦手で、耳がどうしても受け付けない。)あとはもう細分化されすぎてて、世代とか個人の趣味で完全に分断されてるよね。インターネットでなんでも検索とか試聴できるようになって、itunesで曲単位で購入できるようになって。これだ!っていうビッグアーティストはもう出ないようになっちゃったんだと思う。日本だけじゃなく世界的にも。武道館を満員にしてみんなが観に行くみたいなのはもう無いんじゃないかな。寂しいような気もするし、まあそういうものかもしれないとも思う。紅白歌合戦とかは無理矢理ごちゃまぜにしてまとめてるけど、あれなんなんだろうね。

足を運んで行けるリアルな場を探すのは難しいかもしれない。中途半端な田舎だと特に。ん〜、でもリアルの自分とネットの自分ってのもまったく同じかっていうとそうでもない気もする。べつに演じているつもりはないんだけれども。リアルでこ面倒くさい話をしたいとはあまり思わないかもなあ。ぼくの場合は妻という最大の理解者がとなりにいるので恵まれているのかもしれないけど。あ、でも妻と知り合ったきっかけもネットだったので。ソーシャルメディアによるつながり→リアルの場へ、っていうのがこれからの流暢になるかもしんないね。

そうだ、伝統音楽ってのでひとつ思い出した。昨日、勤労感謝の日がもともと日本では新嘗祭(収穫祭)だったという話をきいて、へえそうだったのか、そっちのほうがぜんぜんいいよね、わくわくする、と思ったんだけど。市内の神社に行ったらちょうどお祭り(熊手市。新嘗祭の表記もあった)をやってて。息子がぐずっちゃったんで入り口付近までしか行けなかったんだけど、中から雅楽(っていうのかな?)とか、獅子舞のお囃子みたいな音楽が聞こえてきて。ふだんあまり人気のない周辺も適度に賑やかで(混雑というほどではない)。七五三やお宮参りの子連れ孫連れの人たちが行き交って。なんかこういう空気っていいなあと思った。

こえり (2011.11.24)

くぬやろーーまたのろけてる。。(言いながら落ち込む。。くそー)
紅白はお茶の間でテレビが燦然と輝いてた時代の名残だと思う。
でもわたし演歌普段はまったく聞く気はないけど、大晦日に演歌を紅白で聞くと、いいなとか思うことはあるし、なんか紅白で演歌聞いてると、大晦日だなぁという気がなんとなくしたりする。
視聴率が落ちたからという理由で打ち切りになったりなんかしたら、これはさみしかったりするんだろうなぁ、と思う、紅白。
サザエさんとかも、別に毎週見るわけじゃないんだけど、日曜日のあの時間にあの番組を必ずやっててくれるっていう安心感は絶対あると思う
。カツオがあの調子で、イクラちゃんが永遠に バブー といってる世界。
同じ内容を流してたんだとしても、放送する時間帯が違ったら、違っちゃうんだと思う。

お祭りは先週末から、社寺の文化財一斉公開っていうのをやってて、行きてー と思ってたけど、あまり調子があがらず断念。
いいけど。
お寺とか神社とかなんかいっぱいあるんだよね、ここの土地。
いままであんまりお参りとかに関心持ってなかったけど、
こちらが関心なくても、そこに在ってくれる、残ってくれてた とか
残してくれようとした人たちが居た、ってことだよね。
年食わないと わかんないこと、だったり?
いまは 銀杏の紅葉がまっさかり!なはず。すげーでかい木があるんだよ。ぱわー あるす。

いまは好きなものを個人で好きなように楽しむことが多くても、でもそれが過ぎると、やっぱりみんなでひとつのものを楽しみたいなという欲求が戻ってくる気がする。
昔はテレビがお茶の間に一家に一台、だから、ひとつの番組をみんなで見ることが当たり前だったし、チャンネル争いしたりして。
そういうことは減ったと思うけど、みんな で同じ何かを楽しむって事は大事だし、じゃあそれはなんだろう?ということ、はあるのかなー。

山やま (2011.11.25)

たはは、ごめんちゃい。
そうだね、大晦日にじいちゃんばあちゃんと家族が茶の間(いまはリビングだね)で一同に介して食事を囲んでのんべんだらりとしている時って、紅白見るぐらいしかないもんね〜。独身時代、一家に一台状態で自分の部屋にテレビがあったときは見なかったけど、いまは紅白が無くなったらさみしいという気持ちもちょっとわかる。そして演歌がなかったら紅白って気がしないね、たしかに。サザエさんもすごいよね。ちゃぶ台にいつの時代のテレビなんだよっていうあの部屋。やっぱりテレビが燦然と輝いてた時代が忘れられないんだろうね。
ぼくもみんなで何かを共有するっていうのは大事だと思う。残念だけどテレビにはもうその力はないかもしんない。ひとつの番組をみんなで楽しむことができないし、テレビ側もそういう番組を作ろうとしてない。唯一そういうふうに作ろうとしているのが紅白なのかもしれないね、もしかしたら。

こえり (2011.11.27)

んーだからクイズ番組とか増えたのかなぁ。参加型だから。
みんなあれこれ言いながらテレビ見られそうだから。あーだこーだ言いながら。
でも高校生クイズつまんない感じだなーとか。ひたすら知識を競うクイズ番組になっちゃってー。(そのほうが製作にお金がかかんないという理由かなと思うけど)(全部スタジオで撮れちゃうから)
ばっか な高校生の青春感!っていうのはあれじゃお目にかかれない!

ケータイ とかネットとか ほかにいろいろ出てきて、たしかに視聴率って前のようにはいかないと思うけど、テレビだからできること、テレビにしかできること ってあると思うから、
あきらめないでがんばって作り続けてほしいなぁ。真矢みき 風に あきらめないで! とかっつってー。(あのcmってアレルギー反応起こした石鹸のcmだったっけ。。)

山やま (2011.11.28)

クイズ番組ねえ。。。いやあ、芸人のみなさんもさ、本来はせっかく「芸」を持ってるのにみーんな同じようなリアクションを求められるバラエティ番組ばっかりで、出てるほうもきっとつまんないだろうなと思うな。テレビには自分の芸を披露する場がないんだからさ。みんながみんな、さも感心したりしたふうにへえ〜とか無難に頷いてるの、ほんと気持ち悪いよ。
そうそう、バカやってる番組が無くなったよね。










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<総記録社会>というユートピア…『一般意志2.0』
 本書『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル 』はルソーの<一般意志>に触発された本。でも東浩紀さんの主張する<一般意志2.0>を担保するものはルソーでは
| TYOスクラッチ | 2012/01/26 10:49 AM |
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