グローバル産大量消費へのカウンターカルチャーとしての地産地消(消費者として何を望むか)

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「国民経済」という観点から見たTPPについて、内田樹さんがその本質をまとめてくださっています(さよならアメリカ、さよなら中国 - 内田樹の研究室)。輸出や輸入による経済への影響がテレビや新聞でさかんに言われていますが、それってぼくたちの生活がどうなるかとはぜんぜん関係のないところでの議論であって、ぼくたちがTPPの是非を考えるということはつまりぼくたち消費者が何を望むのかという問題に尽きます。そこんところの指摘をおざなりにしたままで損だの得だの言い争っていても、話が噛み合うはずがありません。ぜひ内田さんの記事を読んで、TPPが損か得かの前に、自分が何を望むのかを考えてほしいと思います。

さよならアメリカ、さよなら中国 - 内田樹の研究室より
TPPというスキームは前にも書いたとおり、ある種のイデオロギーを伏流させている。
それは「すべての人間は一円でも安いものを買おうとする(安いものが買えるなら、自国の産業が滅びても構わないと思っている)」という人間観である。
かっこの中は表だっては言われないけれど、そういうことである。


まったくその通りだと思います。TPPの対立構造は農業と工業じゃなくて、「グローバル経済」と「国民経済」なんだと以前の記事(国益からみるTPP)で書きました。TPPをさかんに推進しようとしている筆頭である経団連の米倉弘昌会長の言説からは、自国の農業が滅びても構わないという態度を感じます。米倉氏が会長を務める住友化学がモンサント社と長期的協力関係を結んでいるそうです(参考)。モンサントの遺伝子組み換え食品で日本を滅ぼすのが目的なのだというふうに解釈することもできますが、それよりも彼のあたまの中には「グローバル経済」のルールしか無いのだと考えたほうが自然なように思います。「グローバル経済」のルールの中には「国民経済」は入っていないからです。

それと同時に、グローバル経済がここまで幅を利かせるようになったのは、より便利なもの、よりぴかぴかなもの、より安いもの、を選び続けたぼくたち消費者の消費行動の結果です。そういった消費行動を促すのに、テレビや雑誌が多大な貢献を果たしたことは間違いないでしょう。テレビっていうのは極端にいえば、ある特定の層への利益誘導のため、都合のよい消費者を作り出すための刷り込みのための装置です。

ふたたび内田さんの記事より。
商品選好において、パーソナルな偏差がなく、全員「同じ行動」を取れば取るるほど、「振れ幅」は大きくなる。
資本主義は消費者の成熟を好まない。
同じ品質なら、一番安いものを買うという消費者ばかりであれば、サプライサイドは「コストカット」以外何も考えなくて済む。
消費者の成熟が止まれば、生産者の成熟も止まる。
現に、そのような「負のスパイラル」の中で、私たちの世界からはいくつもの産業分野、いくつもの生産技術が消滅してしまった。


価格やスペックという目に見えるものだけを取捨選択の理由にして消費行動をとる消費者のほうが、マーケティングをする上ではありがたいわけです。だから宣伝活動っていうのは「あなたもこうしたいでしょ」っていう訴求の裏には、「みんなこうしてますよ」とか「これが正解でしょ」っていうニュアンスが含まれている。事実、ぼくたちは価格とスペックという目に見えるものを基準にしてモノを選択するという消費行動がもはや自明のこととして身に付いています。そのことについてなんの疑いの余地も持っていない。それは、価格とイメージ戦略を軸に展開するグローバル企業にとっては、都合のよい消費者になっているということです。

いま自分が手にしているものは、ほんとうに自分で選択したものなのか、それとも自分で選択したつもりになっているだけなのか、よーく考え直してみる時期に来ているのかもしれません。物欲と所有欲には際限がないということも。どこかで降りなければ「足りない」という欠乏感はおそらくずっと消えないものなんでしょう。

弁護士の川口創さんは「消費者運動を伴う市民運動が必要」と言っています(Twitterより)。議会制民主主義がまったく機能していない日本の内閣を変えるのは、おそらく至難の業でしょう。国民の投票によって政権交代が成されたからといって一朝一夕に変わるとは思えない(ことを民主党が身を以て示しました)。それに比べれば、市場原理はクールです。売れなければ淘汰される。大企業を生き残らせるために政府が介入してくる可能性はありますが、それでも企業の存続は消費者しだいと言えるでしょう。そう考えると、「消費行動」っていうのは、政治家への投票よりも社会を変えるのには効果的なのかもしれません。

ふたたび内田さんの記事より。
アメリカの消費者は同程度のクオリティであれば、ブランドというものにほとんど配慮しないからだそうである。
トヨタが3200ドルでヒュンダイが3000ドルなら、大半の消費者は迷わずヒュンダイを買う。
一円でも安ければそちらを買う、というのは、私の定義によれば「未成熟な消費者」ということになる。
「成熟した消費者」とは、パーソナルな、あるいはローカルな基準にもとづいて商品を選好するので、消費動向の予測が立たない消費者のことである。
同じクオリティの商品であっても、「国民経済的観点」から「雇用拡大に資する」とか「業界を下支えできる」と思えば、割高でも国産品を買う。あるいは貿易収支上のバランスを考えて割高でも外国製品を買う。そういう複雑な消費行動をとるのが「成熟した消費者」である。
「成熟した消費者」とは、その消費行動によって、ある国の産業構造が崩れたり、通貨の信用が下落したり高騰したり、株価が乱高下したり「しないように」ふるまうもののことである。


3月11日の地震による影響で、山形に暮らすぼくは1日半ほどの停電を経験しました。電気が復旧した後もしばらくは節電ムードで、夜中になると街中も見たことのないくらい真っ暗でした。もちろんコンビニの店頭も暗い状態で。そのときに思ったんです。「これでいいじゃん。」って。いままでなんであんなに明るかったんだろう、って。べつに必要ないじゃん、って。ということは、必要のないもののために電力を消費して、必要ないもののために原発を動かしてたってことじゃん。
と同時に、それを選択していたのは自分自身なのだということにも気づきました。より明るくて、新しくて、キレイで、ぴかぴかしているもののほうへ自然と足が向かっていたわけで。それを先取りして、お店の側はより明るくするわけで。彼らが際限なく明るくなるのは、ぼくたちの行動様式が巡り巡っていただけなんですね。

さて、じゃあどうすりゃいいのか。価格とスペック以外のところに価値を見いだすにはどうしたらいいのか。
内田さんの言う「パーソナルな、あるいはローカルな基準にもとづいて商品を選好する」とはいったいどういうことでしょうか。「国民経済的観点」だの「雇用拡大に資する」だの「業界を下支えできる」だのと聞くと、なんだか「成熟した消費者」だなんて難しいことのように思えますが、割とかんたんなことだと思います。要は、地元商店街でモノを買おうぜってことです。

ふたたび内田さんの記事より。
現に日本では1960年代から地方の商店街は壊滅の坂道を転げ落ちたが、これは「郊外のスーパーで一円でも安いものが買えるなら、自分の隣の商店がつぶれても構わない」と商店街の人たち自身が思ったせいで起きたことである。
ということは「シャッター商店街」になるのを防ぐ方法はあった、ということである。
「わずかな価格の差であれば、多少割高でも隣の店で買う。その代わり、隣の店の人にはうちの店で買ってもらう」という相互扶助的な消費行動を人々が守れば商店街は守られた。
「それでは花見酒経済ではないか」と言う人がいるだろうが、経済というのは、本質的に「花見酒」なのである。


「地産地消」という言葉があります。いつから使われ出したのか忘れてしまいましたが、大して浸透することもなくなんとなくうすぼんやりとしたイメージしか残っていないように思います。ローテクで、時代遅れ。あるいはなんとなく「いいこと」のような、環境にもやさしいといった美談のような印象もあります。その一方で、地元農家の宣伝活動の一環にすぎないという見方もあるかもしれません。
でも、ほんの何十年か前には「地産地消」しか無かったともいえます。

ぼくたちはまず「地消」を捨てました。そうして「地産」は潰れていった。1976年に生まれ、核家族で転校をくり返したぼくは、地域の共同体といったものに属する経験も乏しく、生まれ育った頃にはすでにグローバル経済の価値観が支配する社会の中にいたといえるかもしれません。親が個人商店で買い物をする姿も見たことがなくて、野菜はスーパーで買うものと思っていたぼくにとって、「地消」はそもそも存在していなかったものであり、「安い消」「みんなで同じものを消」がデフォルトでした。そうして潰れた「地産」の代わりに「グローバル産」が一般的になった。

「グローバル産」は、大資本であるメリットを活かしてイメージ戦略と価格競争という土俵に持ち込み、次々と「地産」を駆逐していきました。どこの地方都市に行っても、同じチェーン店が並んでいます。バイパスを運転していてもいったい自分はいまどこを走っているのかわからなくなります。そのおかげで、ぼくたちはどこにいても同じものを安価で手に入れることができるようになりました。その一方で、大資本はコスト削減のために生産の拠点を海外に移していきます。国内の仕事は減り、ぼくたちの収入も減ります。その結果、安価な「グローバル産」しか買えなくなるという袋小路にはまり込んでしまいます。もうはまっているかもしれない。でも、まだ間に合う。TPPに参加したら、選択肢すらなくなってしまう可能性があります。

以前の記事(「共」と「個」)で紹介しましたが、宮台真司さんはスローフードの本質について「顔が見える相手から買うから、多少安いからといってスーパーで買う気になれない」「顔が見える相手に作って売るから、悪いことをする気になれない」であると言っています。
「地産地消」は、昔ながらの古くさい流通、規模の小さな経済です。世界でいちばんになることを目指す人にとってはあまり魅力的に見えないかもしれません。でも、みんながみんないちばんを目指したいとは限らない。いちばんにならなくても、平穏であたたかな家庭とたのしい仲間がいればそれでいいと願う人もいる。そういった人たちにとって、「地消」っていうのは意思表明の手段でもあるし、グローバル経済がデフォルトになってしまった現代では、とても戦略的な行動になるんじゃないでしょうか。カウンターカルチャーと言えるかもしれない。マクドナルドのハンバーガーを頬張りながらロックンロールを歌うよりも、近所の八百屋で野菜を買うことのほうが、反骨的でロックなアクションですね。

「地産」を育てる(維持する)のは「地消」しかないように思えます。あるいは顔の見えるソーシャルネットワークが、新しい「地消」の形をつくっていくのかもしれない。一票を投じたり、デモに参加したりするのと同じくらい、あるいはそれ以上に、「地消」が世の中を変えていくかもしれないと思いました。
もちろんその前に、自分が何を望むのかを確認することが先決ですが。

グローバル産大量消費へのカウンターカルチャーとしての地産地消(消費者として何を望むか)

グローバル産大量消費へのカウンターカルチャーとしての地産地消(消費者として何を望むか) 2011.11.01 Tuesday [食・生活] comments(0)
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