Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ) - ニューヨークの若者が変革しようとしているもの、あるいは守ろうとしているもの、取り戻そうとしているもの

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いまニューヨークで何が起きているのか。
抗議行動 「Occupy Wall Street(オキュパイ・ウォールストリート)」、日本語に訳すと「ウォール街を占拠せよ」。社会的、経済的格差に不満を持った若者たちが自発的に始めた抗議デモ活動だそうです。9月17日にウォール街からはじまったこの運動は、当初の予定である一ヶ月を過ぎても終焉を迎えるどころか全米中、あるいは世界に広まりつつあるそうです。

勢いでウォール街の現場に行っちゃったという松本哉さんのレポートを見てみます。
ついにニューヨークで反乱が発生! occupy wall street 報告! - マガジン9より
何を隠そういまニューヨークに来ている。しかも、この原稿もまさにそのOWSで占拠しているウォール街脇のzuccotti公園に張ったテントの中で書いている。そう、10月17日にニューヨークにやってきて、10日間ほどOWSと行動を共にしている。

タイミングとしては10月上旬に総攻撃みたいなデモが連発していたんだが、それもひと段落して、小康状態みたいな感じ。ってこともあって、広場の場所作りが着々と進行していて、いろんなものができていた。食料を配るキッチンもあるし、図書館もあるし、服を配ってるところもあれば、携帯やパソコンの充電所もある。法的なことを受け持つ部門もあるし、メディア対応の部門もある。驚くことに新聞まで出ていた。
 小康状態気味とはいえ、みんながおとなしくしてるわけでもなく、デモなんかも頻発していた。ちょうどこっちに来て数日経ったころ、警察反対デモが発生! 10月上旬には数百人が捕まるなど、警察の過剰な警備が問題になっていたころで、そのタイミングもあってのデモ。テーマは「職質反対デモ」。さっそく参加してみた。
 で、このやり方が面白い。まず、デモ前日にもデモをやり、警察署までみんなで押し寄せる。で、すごいのが抗議の意思を示して警察署の前で大演説して居座り、数十人がわざと逮捕される。で、ここには結構な著名人も混じってたりして、デモに参加した群集は「いいぞー、がんばれよ〜」「カッコいいぞ!!」みたいな感じで盛り上がりまくり! で、翌日のデモは、これまたものすごい人数が集まり、街中をデモ。こっちの職質の問題は、人種差別問題も絡んできたりするので、さらに深刻なこともあってか、人の集まり方もすごい。

あまりすごいすごいと言ってると、本当に完璧なムーブメントのように思うかもしれないが、まあそんなものはあるわけがない。いろいろとマヌケな奴らも大量にいるし、なんだか大変なことになっている。狭いところにギュウギュウに泊まってるもんだから、どうもストレスがたまってる奴らもいたりして、夜中に殴り合いの大喧嘩が始まったりもした。しかもタバコをくれ、あげないでケンカになったりと、くだらないことが多い。また、テントにいると突然話しかけてくる兄ちゃんがいて、「俺はこんな音楽を作っている」とか言ってニコやかに歌いだしたりして、やたらフレンドリーすぎるのであやしいと思っていたら、帰り際に靴を取って逃げようとしたり、危なくてしょうがない! こら、靴を取るな!!


なんだか楽しそうですね。リンク元の記事には現地の写真も掲載されていますのでご覧ください。公園にあふれかえる人だかりや、公園正面では常に演奏が行われていたりする様子は、日本でおなじみの眉間にしわを寄せたような「クソ真面目な」デモだったり、よく報道される海外の血なまぐさい「物騒な」デモとはイメージがだいぶ異なります。そういえばエジプトのデモもどこか祝祭的な様相を帯びていたというはなしを聞きました。

で、そもそもなんでこのデモがはじまったのか。自主的に集ったというニューヨークの若者たちは、何に対して抗議を示しているのか。『ウォールストリートを占拠しよう』 『我々は99%』 というのが大きなスローガンになっている(参考:Occupy Wall Street 『ウォール街を占拠しよう』 ニューヨークから世界に広がる”99%”の声 - JTB ルックツアー)ことからわかるのは、アメリカの富裕層(1%)が政策的にも優遇されていることを批判し、残りの99%である中級〜貧困層へも仕事を与えよということ。さらには、格差社会を生み出している拝金主義の象徴としてのウォール街を占拠し、経済のしくみそのものを変革しようという構造改革を主張しているということ。

その一方で、「リーダー不在でまとまりがない」「デモの主旨がよくわからない」といった見方もあるようです。たしかに、○○政権を倒せとか年金の額を上げろとかいう具体的なテーマじゃなくて、経済のしくみを変えるなんて、あまりに大きなテーマなので漠然としていてわかりづらいですよね。自明性へ依存している人にとってはまったく頓珍漢にしか聞こえないでしょう。そんなこと出来るわけない、って思っちゃうし。あるいは集った人たちの出どころがバラバラでつかみ所がない点も、理解不能と思われる要素になっているのかもしれません。ただ、彼らはほんとうに単に「ノリ」だけで参加し、デモが広がっているんでしょうか。

ニューヨーク在住のジャーナリスト津山恵子さんは以下のように見ています。
【津山恵子のアメリカ最新事情】立ち上がった「沈黙の世代」の若者 - WSJ日本版より
こんなデモは今までに見たことがない。

なにせ参加者のほとんどは、幼な顔の10代後半から20代前半。団塊の世代や、1960〜70年代の反戦運動を経験した世代など、「戦争反対」「自治体予算削減反対」「人種差別反対」などのデモで毎度おなじみの顔は全くない。いや、彼らは今までデモに参加したことすらないのだ。

このデモが変わっているのは、年齢層ばかりではない。参加者が訴えているのは、上記のように漠然とした「拝金主義のウォール街を占拠して、世界を変えよう」という主張だけで、次にどんな行動をするのか、課題をどう設定していくのかは毎日、「ジェネラル・アセンブリー」という話し合いで議論を同時進行させながら活動しているのだ。

私は18日夜、初めて広場に行って、週明けの翌朝、初めてウォール街でデモを展開する方法について決める合議を5時間見ていた。夜中ちかく、デモに行く「アクション班」と、今後の問題を考える「ディスカッション班」に分かれること、逮捕につながるような行為はせず、ウォール街の通勤者の歩行をさまたげないなどを議長団が提案。挙手による投票で満場一致で提案を承認し、「これがデモクラシーだ!」と胸を張った。


なるほど!
このデモに違和感を覚える人は、明確な主張がつかみづらいからだと言います。そしてそれはその通りなのだと思います。明確な主張をもとにして集まった人々ではないから当然なんですね。問題があるということはわかっているけれども、彼ら自身も、具体的な手だてはわかっていない。だから、話し合う。わかっているのは、問題の根が短期的に解決できるようなものではないということ(だから具体的な主張に乏しい)。しかしそれでも声を上げずにはいられないくらい彼らが切羽詰まっているということ。だからこそ、話し合う。

あの、これって民主主義じゃないですか。

ウォール街の公園に、小さな民主主義の輪が生まれたのだと、ぼくは津山さんの記事を読んで感じました。それは古くさい様式のアナログな小さな集まりかもしれない。けれども、もう何十年もアメリカの市民が忘れてしまっていたものなのかもしれません。自分たちが暮らすまちは自分たちの手でつくるということ。オバマにチェンジを託したけれども、けっきょく変わることのできなかった自国の構造を、それこそを変える必要があるのだと。

ベストセラー『ルポ 貧困大国アメリカ』の著者であり、現在もアメリカと日本を行き来するジャーナリスト堤未果さんのツイートから「Occupy Wall Street」に関するものをピックアップしてみます。
全米で拡大中のウォール街囲みデモ。興味深いのは参加者の人種や職業構成が次々に変化を遂げている事。現地時間の5日には様々な労働組合とNPOが同デモへの支持表明パレードを予定。NY運輸労組の組合員38000人もスタンバイ。役割分担も手際良く、夏に取材した医師の1人は医療班で活躍中(10/4)

米国内でも大手マスコミは始め数百人の参加者をわざと数十人と報道。インディーズメディアの存在は大きい。先週Wallstにいたという生徒「日本では僕らについてどんな報道を?」格差社会や失業率の高さに若者が抗議しているという報道内容を伝えると生徒達から失笑が。「矮小化してる。個々が味わってる苦しさは多種多様だけど抗議対象は結果じゃなくて原因の方」「この国の企業メディアと同じ」(10/13)

市庁舎の目の前で連日泊まりこみのOccupy Portland。写真はダンとレイチェル「TVは私達を思考停止にさせる。今すぐ消して、自分の頭で考えなさい」http://t.co/zZOTsdvk(10/13)

座り込みをしている彼らと話したところ、「打倒!」のような攻撃的なものではなく、極めて平和的でした。ここには書ききれませんがこれまでのデモとは全く違うものを目指している印象をうけました。(10/13)

OccupyPortland「デモの場所選びは重要な戦略。都心ならいいってもんじゃない。必ず当事者を包囲し無視できないように」「条件は挑発しない事。非合法なものをもちこむ奴は即追い出す」http://t.co/6dt8jm0Y(10/13)

彼らは失われた中流、労働者階級出身の若者たちです。本質を肌で感じてる(10/13)

OccupyWallst. デモ広場の清掃を理由にBloomberg市長が立ち退きを通告。怒ったProtestor達は集めた資金で即掃除用具を購入し、一晩かけて現地をくまなく清掃。市長は前言を撤回し、広場には99ers達の歓声。http://t.co/SUhJVTn1(10/16)

OccupyPortland.「二大政党はまやかし。政権交代で変わるのは名前だけで肝心の政策は変わらない」バナーを持つ学生「僕の言ってる意味わかる?」Yeeees! http://t.co/HhrhujDv(10/16)

全米に広がるウォール街デモについて「情報が少なすぎる」と知り合いの記者から問い合わせ。「何故彼らは特定の要求をしないのか?」このポスターをくれた抗議者の一人はわたしに言った。「ウォール街を破壊したい訳じゃない、もう沈黙はしないと示すんだ」http://t.co/IxjwDj7t(10/17)

Wallstでは逮捕者も急増中。JPモルガンはデモ用にNY警察に460万ドル(4億6千万円)寄付。女性教師が顔にスプレーを噴射され、男性会社員が棍棒で頭部を殴打され抗議者達は「World's watching!(世界が見てるぞ!)」と絶叫 http://t.co/ux0hPshF(10/18)


堤さんの著作は、とても丁寧な取材がもとになっており、アメリカに広がる格差がどれだけとんでもないことになっているかが克明に描かれています。最先端の技術を投入した医療を受けることのできるほんの一部の人と、高額な保険料が支払えずに健康保険を持っていない多くの人。保険に入っていたとしても、たとえば労働中に指を折っても保険会社が幾らまでしか出せないというので指も何本までしか治してもらえないということもあるそうです。それから家族を支えるために学校にも行けずにはたらく幼い子たち。学費優遇のために軍に入隊する若者たち(そして劣化ウラン弾などで傷を負った帰還兵たちへの処遇はたらいまわし)。アメリカンドリームという夢を餌にして、多くの若者たちが絶望という現実を見てきた事実がこの国に横たわっています。アメリカの医療と教育は完全に市場化している。つまり金を持っている人が勝ちという世界。それらを読み解いていくと、アメリカがいかにして自国の格差をつくっていったのかがよくわかります。

「弱者」はつくり出される。

ツイッターで目にした大野更紗さんのことばです。1%の富のためには、格差が必要です。それは悪意が生むものというよりも、富を維持していくためには必然なんですね。1%にとっては。その既得権を守るためにあらゆる方便が用いられてきました。アメリカがしかける戦争にはいつも正義という大義名分があるように、アメリカがしかける経済政策にもさまざまな方便が用いられます。 「Occupy Wall Street」の若者は、テレビでは報道されないその方便に気づいた若者たちなのでしょう。
ある参加者は「TVは私達を思考停止にさせる。今すぐ消して、自分の頭で考えなさい」と言っています。テレビはある特定の層への利益誘導にしかならない、都合のよい消費者を作り出すための刷り込みにしかならない、ということを彼らは知っているのでしょう。彼らがソーシャルメディアでつながるのは当然です。

明確な主義主張があるわけではない。このことが物語っているのは、彼らが特定のイデオロギーや組織、あるいは利害関係を共有しているわけではないということです。逆に言うと、それだけバックボーンの異なる人々が同じところに集まるくらいに、アメリカの貧困が不条理に広がっているということではないのでしょうか。彼らはその不条理を身体で感じている。至るところに広がるその体験が、図らずも、本来つながることのない人たちをつなげることになったのでは。

アメリカの経済は凋落しています。かつてアメリカは消費大国でした。自国の産業を空洞化させてまで他国のモノを買っていたからです。あきらかに輸入超過であったのですが、その金はいったいどこから生まれていたのか。アメリカが儲けるのは、戦争と金融です。軍産複合体とウォール街がかの国を動かしていた。いずれも実体のない手品のようなしくみです。
リーマンブラザーズの破綻は、その手品が中身のないインチキであったことを示しました。しかしそれでもなお、アメリカ政府が救おうとしてるのは大企業です。お金を刷って破綻した企業に融資を続けています。まじめにはたらく人が保険にもろくに入れない一方で、破綻しても悠々自適の生活を保証される人もいる。

堤さんは、「彼らは失われた中流、労働者階級出身の若者たちです。本質を肌で感じてる」と言っています。アメリカ社会が抱える本質的な不条理を肌で感じているからこそ、彼らはイデオロギーや組織をこえて集ったのでしょう。

現代における最重要ジャーナリストのひとりであるナオミ・クラインが10月6日に広場でスピーチしたという内容が翻訳されています。とても大事なことがたくさん書いてあります。その中でも印象的だったのは「この場所」に居続けることが重要なのだということばです。
ナオミ・クライン - ウォール街を占拠せよ:今世界で最も重要なこと - aliquis ex vobisより
あなたたちは、ここでの自分たちの存在に、終了期日を設けていません。これは賢明なことです。あなたたちが居続けるその間だけ、あなたたちは根をのばすことができるのです。これは決定的なことです。あまりにも多くの運動が美しい花々のように咲き、すぐに死に絶えていくのが情報化時代の現実です。なぜなら、それらは土地に根をはっていないからです。そして、それらはどうやって自分たち自身を維持し続けるかについて、長期的な計画を持っていないからです。だから嵐が来た時、それらは洗い流される。


自らの身体をもって「土地に根をはる」ということ。とても大事な視点であるように思います。

ぼくがこのナオミ・クラインの言葉を知ったのは、朝日新聞朝刊の論壇時評に掲載されたという高橋源一郎さんの記事からです。源一郎さんは、原発建設に30年近く反対し続けている祝島の80歳近いおじいさんがひとりで水田を耕す姿と「Occupy Wall Street」の若者の姿の中に重なるものがあると述べています。

祝島からNYへ 希望の共同体を求めて ・高橋源一郎 ほか/朝日新聞より
人口500人ほどの小さな島には、ほとんど老人しか残っていない。その多くは一人暮らしの孤老だ。彼らは、なぜ「戦う」のか。彼らが何百年も受け継いできた「善きもの」を、後の世代に残すために、だ。では、その「善きもの」とはなんだろうか。汚染されない海、美しい自然だろうか。そうかもしれない。

だが、その「善きもの」を受け取るべき若者たちが、もう島には戻って来ないことを、彼らは知っているのである。

 (中略)

かけ離れた外見にかかわらず、「祝の島」のおじいさんとニューヨークの街頭の若者に共通するものがある。「一つの場所に根を張ること」だ。そして、そんな空間にだけ、なにかの目的のためではなく、それに参加すること自体が一つの目的でもあるような運動が生まれるのである。

背負いきれなくなった市場や家族や国家から、高齢者や障害者を筆頭とした「弱者」たちは、ひとりで放り出される。彼らが人間として生きていける社会は、個人を基礎としたまったく新しい共同性の領域だろう、と上野はいう。

それは可能なのか。「希望を持ってよい」と上野はいう。震災の中で、人びとは支え合い、分かちあったではないか。

その共同性への萌芽(ほうが)を、ぼくは、「祝の島」とニューヨークの路上に感じた。ひとごとではない。やがて、ぼくたちもみな老いて「弱者」になるのだから。


アメリカはいまやボロボロです。もしアメリカが生き返ることができる道があるのだとすれば、それは「Occupy Wall Street」で生じた「共同性への萌芽」の中から、もういちど建国の歴史をつくり直すしかないんじゃないかと思います。夢と希望に胸を膨らませて新天地を訪れた彼らの祖先が、良いことも悪いことも、あちこち行ったり来たりしながら築いてきた歴史の中にさまざまな教訓があることでしょう(詳しくは知りませんが)。古き良きアメリカの時代、アメリカが輝いて見えたのは、彼の国が自由の国だったからでしょう。誰にでも平等な権利が与えられていたはず。建国の精神に立ち返って、身体をぶつけあって土地を耕すことからやり直すことでしか、アメリカは再生できないと思います。


・・・

ぼくが「Occupy Wall Street」について書こうと思ったのは、ここで起きていることが他人事とは思えないからです。日本もアメリカとよく似た社会構造にハマりこんでいるようにぼくには思えます。正社員と非正規雇用の所得格差、年金に象徴される世代間格差、健康であることと病気になることの格差。堤未果さんがレポートするようなアメリカの現状を見ていると、ぼくたちもいつ99%になってもおかしくない(もうなってる?)と思わされます。だって、ほんとうによく似ているんだもの。

なのに日本(の政府)はいまだに「超大国」としてのアメリカにべったり付いていこうとしています。TPPなんてのは、このまま下り坂を転がることは避けられないであろうアメリカが、なんとか延命しようとしている必死の策のひとつです。自国内の産業を空洞化し、「99%」の庶民の生活を食いつぶしてきた「市場の拡大」を他国を舞台に再現しようとしている。犠牲になるのはまじめにはたらく庶民であり「若者」です。米韓FTAやメキシコの先例がそれは実証しています。
アメリカはTPPを輸出倍増の政策として明確に位置づけています。気をつけないといけないのは、アメリカには日本のように輸出する自動車やテレビといった工業製品はありません。彼らが売りたいのは、大量生産される遺伝子組み換え農産物。それから民間の保険、知的財産権といった目に見えない手品により、他国のルールを書き換えるということです。
いいモノを作れば外国が買ってくれるという朴訥な時代は終わったんです。アメリカの庶民にそんな金はない。

TPPはアメリカにとっても、あくまで延命策にすぎません。自国の庶民の生活を食いつぶしたように他国も食いつぶしていくだけです。根本の解決にはならない。日本ははたして凋落するアメリカとともに滅びの道を行くのか、それとも「Occupy Wall Street」で芽生えたように見える民主主義のはじめの一歩からやり直すのか。

冒頭に紹介した松本哉さんの記事より
日本の世の中でもそうだが、たとえば貧困問題ひとつとっても、なんだかんだと「いや、そんなこと言ったってもっと貧乏な人がいる」とか「日本なんてまだ恵まれたほうなんだからガタガタ言わず我慢しろ」などと言い出す連中もいる。これがまた貧乏そうな説教オヤジに限ってこういうことを言いがちだったりするのもたちが悪い。困ってる人同士の争いになったところで、一番安全圏にいる超少数の連中がいい思いをしていたりする。まったく冗談じゃないよ。


ニューヨークの若者が抗議しているものの正体とは何でしょうか。彼らの活動は「非暴力、平和的」であるそうです。彼らが改革をなしとげることで打破しようとしているもの、あるいは守ろうとしているもの、取り戻そうとしているものは。

彼らには彼らの真実があります。それは報道だけでは分かりようがない。そして、彼らの行動になんらかの意味を見いだしたり、解釈したりすることは、それを試みる人の数だけあります。誰かの解釈を鵜呑みにしても意味がなくて、ぼくたち自身がぼくたち自身の生活に照らし合わせることでしか答え(解釈)は見えてきません。ぼくがここに書いたことも、思いっきりぼくなりのバイアスがかかった偏った見方かもしれません。

堤未果さんのツイートより
昨日中小企業の社長が集まる勉強会で講演しながらふと考えた。地道に、身の丈で、人を育て、助け合い、文化や技術を伝承してゆくこと。そうして日本を支えてきた中小企業を大資本の論理でつぶす事で、私たちが失うものの大きさを。政治が守るべき国益は、目に見えるものだけとは限らない。


いま世界で何が起きているのか、ぼくたちの国にこれから何が起きようとしているのか。それらを起こそうとしているもの、起こすまいとしているもの。背後にある利害関係。あるいはただ流れにのる人たち。目に見えるもの、見えないもの。自分の置かれている立場。境遇、収入。理想と現実。仕事と家庭。はたらくこと、子どもとふれあうこと、他者との関わり。食べること、あそぶこと、寝ること。安心なくらし。安住の地。それらはいったい何なのか。ぼくはいったい何を望むのか。次世代に何を残すのか。

自分の身の丈を見つめて、考えよう。と思います。

願わくば日本に暮らす多くの人たちが、テレビの中の共同幻想(あるいは物語)に自己を投影するのではなく、目の前の自分の暮らしと自分の身の丈を見つめて、不器用でもいいから自分のことばで考えだすこと。そうすることでしか、「まっく新しい共同性への萌芽」が生まれる道はありません。ですよね?

Occupy our new network.





追記(11/11):
ぼくがこの記事で言いたかったことを現している動画がありました。



参加者の声より。
「プロセスがあってこそこの動きが成立していると思う。
 人々の参加を促し続ける唯一の方法は皆の声が反映されるプロセスがあること。
 それが合意へのプロセス。」
やっぱりこれは民主主義を取り戻すための草の根ムーブメントだと思います。

詳しい解説はこちらを参照。
ソーシャル・メディアを利用した革命、OWS(オキュパイ・ウォール・ストリート)とは何か─現地NYからレポート - webDICE

10月6日リバティ広場でのナオミ・クラインの動画もありました。
ナオミ・クライン - ウォール街を占拠せよ:今世界で最も重要なこと (1/3)

Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ) - ニューヨークの若者が変革しようとしているもの、あるいは守ろうとしているもの、取り戻そうとしているもの

Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ) - ニューヨークの若者が変革しようとしているもの、あるいは守ろうとしているもの、取り戻そうとしているもの 2011.10.30 Sunday [政治・メディア] comments(16)
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愚樵 (2011.10.31)

山やまさん、こんにちは。またやってまいりました。

揚げ足を取るようでもうしわけないのですが、「まったく新しい共同体」なんてものはありえないと思います。あるとすれば、「幾分新しい共同体」です。もっとも、山やまさんはそれを「まったく新しい」と表現されたのでしょうけれども。

共同体を育むには「根を生やす」ことが必要だと書いておられますね。その通りだと思います。まっさらな何にもない土地に根を生やしたところで、生えてくるのはせいぜいペンペン草です。豊かな土壌はすぐには生まれてこない。先人の積み重ねが要る。水田とはそういうものです。水田を受け継ぎ次世代へ引き渡すことと共同体を維持することは、異なったようで似たことです。

もちろん、だからといって稲の栽培方法を改良することが悪いわけではない。時には水田から畑へと転換するのも良いでしょう。それも積み重ねのひとつであり新しい方法です。でも、水田を工場や宅地してしまえば、残るのは観念的な土地という概念。あるいは土地を売り払うことで手にした、何にでも交換可能な貨幣です。

Occupy Wall Streetが叛旗を翻そうとしているのは、私の解釈では、交換可能になってしまった社会です。富を握る1%にとって99%は交換可能になってしまった。そこに抗議をしている。

でも、皮肉な見方ですけれど、私に言わせれば、それを望んだのは当の99%の方です。私たちは豊かだろうが貧しかろうが、何ものをも交換可能にしてしまう貨幣を手に入れることを望んでいる。何よりも望んだのです。確かに詐欺はありました。でも、そこに目を奪われていると、そもそもの原因が見えなくなります。私たちは交換可能なものを手に入れようと望んだ。その結果、自身も交換可能なモノになってしまった。煎じ詰めればそれだけのことです。

では、どうしたら? 最悪は文字通り身体を張って耕すことからやり直すしかないのかもしれません。でも、もう少し上手い方法はあると思います。昔よりは少しは技術も発展したわけですしね。ソーシャルメディアに、そうした道具になる可能性を探るのはありだと思います。

山やま (2011.11.01)

愚樵さん書き込みありがとうございます。
そうですね。ぼくたちの消費行動がぼくたち自身をつくっているのだということに、おぼろげながら最近ようやく気づきました。より便利なもの、よりぴかぴかなもの、より安いもの、を選んだ結果としてグローバル化による大資本が増大していくという種類の市場原理を生み、結果としてぼくたち自身の首をしめようとしている。物欲というか所有欲にはたぶん際限がなくて、どこかで降りなければ「足りない」という欠乏感はずっと消えないのでしょうね。

おっしゃる通り、むかしからそこに在った(かつて在った)ものの上に「積み重ね」をした「幾分新しい共同体」というイメージになるのだと思います。と同時に、生まれた時から上記のような市場原理が席巻しており、核家族で転校を繰り返して育ったぼくにとっては「まったく新しい共同体」でもあります。ソーシャルメディアが「積み重ね」の道具としてどのように機能していくのか、前回の記事で書いた、津田さんの言う「ソーシャルメディアによるローカルコミュニティの再定義」ということになるのでしょうね。それがどんな具体像を持って現れるのか、Occupy Wall Streetの中にそれがあるのか。ぼくはなにができるのか。目の前の小さな子どもを見つめながら考えていきたいと思います。

所長サン (2011.11.01)

今回のデモの特徴は、目的や参加者が「はっきりしない」とこですね。
なのに吸い寄せられるひとたちがいて、はっきりしない目的に同化できる。
はっきりしない不安が動機なのでしょう。

山やま (2011.11.02)

そのようですね。ぼくにはそれが興味深く感じます。
彼らをむすびつけているものは何なのか。そのつながりは持続可能なものなのか。「土地に根をはる」ことができるのか。それともフェイドアウトしていくのか。
直感ですが、なんとなく彼らとは気が合うような気がして気になるんです。
ぼくもまた、はっきりしない不安を持つひとりなのかもしれません。

山中俊人 (2011.11.11)

twitterでニュースをぼーっとみながら、僕の意識は子どもの事でいっぱいでした。今回はいままでよりも、僕の出来ることを色々やってみましたけど、結局また思ったようにはなりませんでした。ただ残ったのは無力感でした。
追記されていた動画の、スピーカーの様に響く声を聴いて、幼稚な言葉ですけど僕はみとれていました。羨ましく思いました。
僕は未だ未だ未熟です。
僕も考えることをやめないでいようと思いました。子どものためにも。

山やま (2011.11.11)

昨夜のNHKの番組、デンマークで原発立地候補になったロラン島の住民が、単に反対するのではなく、原子力のことを知りたいから3年間の時間をくれといい、市はそれを認め、実際に3年間で住民は自身で考えることそして話し合うことというプロセスを経て、原発ではなく自然エネルギーを選択したのだそうです。今では自然エネルギー(風力発電)で全ての電気をまかない、余剰分をコペンハーゲンにも送っているとのこと。風車の約半分は個人所有だそうです(全量買い取り制度)。
なにより自分たちの生活を自分たちで選んだ住民たちひとりひとりの表情がすばらしかった。
ロラン島の「森の幼稚園」もほんとうに素敵な環境。やっぱりぜんぶつまがってるんですね。心の底から羨ましく、こんな環境で子どもを育てたいと心から思いました。
彼らが自然エネルギーに舵を切ったのはほんの20年前だそうです。20年でこんなに豊かな生活とこんなに豊かな人間になれるんですね。夢のはなしじゃなくて現実にある社会なんだもの。そう思うと少しだけ希望が見えたような気がしました。

こえり (2011.11.13)

こんばんは。横からごめんなさい。
3年間。そのぐらいは必要な時間、なんでしょうね。
早い決断、早い選択、とか そういうことができるまでに時間かかる、そうでなきゃ ほんとにだいじなことを間違える。
急に決めろといわれても、ただ困惑する。
あんしんして自分の思っていること、考えていること、不安に思うこと、迷っていること、わからないこと
を話し合う、話し合うというか ただ「出す」そういう環境、場 が人には必要。
ネットは公開されてる場だけに いろいろ いらないことも起こる可能性がある場。
そういうことに気付けば、また新しい可能性、「場」の可能性も広がっていくのかな。

山やま (2011.11.14)

そうだよね。3年間という期間を認めた政府もすごいし、なによりそうやって住民が自分たちで自分たち自身のことを決めるという選択権を与えたことがすごい(っていうか、本来はそれがほんとうのことで、それがすごいと思っちゃうこと自体が情けないことなんだろうけど)。やっぱり時間は必要だよね。なんでもかんでもクリアカットにわかりやすく断言したり二元論で選んだりできることばかりじゃない。どうしたって時間はかかる。ぼくはブログを書くようになってから文章がどんどん長くなってしまってるんだけど、それはただぐだぐだ書きなぐっているうちにそうなってしまうんだけど、やっぱり必要なんだよね。回り道かもしれないけど、それは必要。宮崎駿が「言葉で簡単に伝わることだったら、わざわざ映画をつくる必要はない」というようなことを言っていて、ああその通りだなあと思った。

>ネットは公開されてる場だけに いろいろ いらないことも起こる可能性がある場。

これの意味はよくわからないんだけど、ある人にとっていらないことがある人にとってはいることかもしれないし、ある人にとっていることがある人にとってはいらないことかもしれないよね。その前段として、多様な意見が存在し得る「場」があるということ自体が大事だと思います。

こえり (2011.11.15)

うん、「場」があるということは、とっても大事なことだと思う。
でも 向こうのスペースでもそうなんだけど、しょーじき、関わり合いになりたくない人、というのもいたりするんだ。
関わるとめんどくさそう。。とか、遠くから見てる分にはいいけど、かかわり持ちたくない、とか。
そういう要素を排除しようとすると、やっぱり「気」を使わないと自分に降りかかってきちゃうところがある、かなと。
ずるいところがあるので、わたしは。
面倒くさいことは避けたいって気持ちが。

自分をオープンにするということは、それは自分を分かってもらえる、知ってもらえるという プラスの面がある一方、
自分の何か(考え とか 気持ち とか)を否定されるかもしれない、がっかりされるかもしれない、嫌われちゃうかもしれない、、という ネガティブな思い もあったりするし。

個人的な好みとして、関係性は一対一の関係があった上の、
集団。
このひとにこの気持ちをわかってほしい、という衝動のうえの
表現(かきかた が しちめんどくせー!)が好み
なので。

山やま (2011.11.15)

うん、たしかに絡みづらい人はいるね。世の中にはいろんな人がいるから、ある人にとって絡みづらい人がある人にとって話しやすい人にもなるだろうし、ある人にとって話しやすい人がある人にとっては絡みづらい人にもなるんだろうね。タイプとか相性の問題なんだろうね、それはぼくもおおいにある。それから面倒くさいことは避けたいって気持ちもおおいにある。もうだから、面倒くさいと思うところにはあまり絡まないで社交辞令で済ませちゃう。
あとぼくも集団の中でスピーチしたりプレゼンとかはすごく苦手で。一対一じゃないとうまくしゃべれないです。ぼくがこうやってブログとかコメント欄とかを書くのは、自分を分かってもらえるっていうよりも自分で自分を知りたいっていう理由の方が大きい。んーだから特定の誰かに気をつかうことはあるかもしれないけど見ず知らずの通りすがりさんにまで好かれたいとは思わないなあ。
…というようなことをぐだぐだと書くのがたのしいね。

こえり (2011.11.15)

そうそ、評価されるためとか、なんだろ、人に認められるためとか?
ちゃんとしてなくちゃ!とかばっかり思って行動しちゃうと疲れるんだよねー。
こういうことを書ける「場」を用意してくれて(ブログを開設してくれていて)ありがとねー。

山やま (2011.11.15)

自分が書きたいことを書いて、それがどういうわけか誰かの書きたいこととつながったら、そりゃおもしろいよね。でも、どんどんそういう時代になっていくんじゃないか、インターネットのすごさ(可能性)はそこにあるんじゃないかと思う。東浩紀さんが「一般意思2.0」っていう概念について語っていたこと。「twitterもみんながひとりごとをバラバラ喋っているのだけれども、なんか議論しているみたいに感じられる。フィクションとしての議論空間、フィクションとしての集合知。みんなが勝手につぶやいていることはすごく重要。」
こんな辺境のブログのコメント欄なんて、たいした「場」じゃないけど、べつにちゃんとしてなくてもいいので、いつでもお越しください。

こえり (2011.11.16)

集合的無意識 ってやつなのかなぁ。http://kotobank.jp/word/%E9%9B%86%E5%90%88%E7%9A%84%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98
無意識っていうのは自分にとっても、よくわからない把握しきれないもの。だから、でも不安ってひとはすきじゃないから、意識化して言語化しようとする、みたいな心の動き ってあるんだと思う。
言語じゃないところで可視化するのが 画家で、音 で聴こえるようにするのが ミュージシャン だったりするのかなぁ、とか。

山やま (2011.11.16)

うん、たぶんそんな感じだと思う。
上のほうに書いた宮崎駿が言ってたこともそうだよね。ぼくはずっと音楽とか絵とかが好きで、本は読んでこなかったんだけど、こうやって少し文章を書くようになってからも、音楽とか絵とかから受けた影響っていうのは大いに関連しているような気がする。ぜんぶつながってるんだなあと。

こえり (2011.11.18)

脳みそを使う容量っていうのは、絵とか音楽とか と、文字ではぜんぜん違うんだって。写真とか動画とかは ぱそこん でのデータを凄く食う。文字だけのデータはそれほどでもない。という違いなんだって。
このあいだ、カラーセラピーの講座で教えてもらった。

情操教育うんぬんというのはきっとここなんだね。ちっちゃいころの記憶って具体的には残ってないけど、言語化もできないし、覚えてもないんだけど(なんか記憶する機能の脳みそが発達してないとか)匂い、音、感触、とか原始的なものはきっと残ってる、んだろうね、覚えてないけど(笑)
色とか匂いとか音とか、最近興味を持ってるものってそんなものばっかだ、よく考えると(笑)
きのう、取り付けてもらったエアコンがうるさくて止めた。音が盲点とはな。しかし。

山やま (2011.11.18)

そうだね、文字と写真じゃデータ量でいうと桁が違う。
脳みそもそうなのかなあ…使う部位が違いそうではあるね。ああでもそれはそう思ったほうがイメージしやすいからそう思うだけで、本質的なところを突き詰めていくと同じなのかなあ。ぼくはパソコンの文字や写真や動画やそういった「データ」がすべて0と1という情報だけから成り立っているということがいまだに信じられない。というかうまく想像できないんだよね。










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