国益からみるTPP

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知識人たちによる政治や経済のはなしを聞いていると、「国益」っていう言葉がよく使われるけど、ぼくはその意味がいままで少しもわからなかった。一般論的にいえばもちろん日本国の利益になるコトだっていうのはわかるけど、じゃあ具体的にそれはどういうことなの?っていうか、「国益」っていう言葉を使う人たちの言ってることがあまりにも違いすぎて、方向性すらもよく見えてこないというか、「国益」っていう言葉はものを考える上での指標にはならないんだなあと思っていました。

いまでもよくわかってはいないのだけれども、今日、内田樹さんのブログを読んでちょっと腑に落ちた箇所があったのでメモっておきます。

ぼくにとっては「経済」ってのもよくわからない言葉のひとつだったんだけど、語源は「経世済民」(世を経(おさ)め民を済(すく)う)なのだそうです。内田さんは、1960〜64年に内閣総理大臣を務めた池田勇人のブレーンとして、所得倍増計画と高度成長の政策的基礎づけをした明治生まれの大蔵官僚下村治の著書を読み解き、こう述べています。

雇用と競争について - 内田樹の研究室より
下村の基本は経済は「国民経済」を基礎とする、ということである。「経世済民」の術なのだから、それが本義であるのは当たり前のことだ。
「本当の意味での国民経済とは何であろうか。それは、日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない。そういう前提で生きている。中には外国に脱出する者があっても、それは例外的である。全員がこの四つの島で生涯を過ごす運命にある。その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である。」(95頁)
この指摘のラディカルさに、私は驚かされた。


ああ、なるほどなあと。これが「国益」なんじゃん。国益とは「国民経済」であり、経済とは「国民経済」であるという視点に、ぼくはすごく納得しました。これならわかる。

われわれは共同体としてどうやって存続していくか、っていうはなしなんですね。つまり一億二千万人がどうやって食べどうやって生きて行くかという問題。もっとわかりやすく言い換えると、となり近所の人たちが集まって、みんな食べるに困らなくて安心して楽しく暮らせるにはどうしたらいいのかを話し合うような、町内の会合的なノリなんでないべか。なぜなら、

下村の思想を一言で言えば「経済は人間が営んでいる」ということである。


そうなんですね、経済学者は誰もそんなこと言いませんが、「経済は人間が営んでいる」ものだったんですね。人間が営む共同体の中でお金をまわしていくっていう。じゃあ共同体ってなんぞやっていうと、町内会でも地方自治体でも国もなんでもいいんですが、共同体っていうのはつまり「東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい」(宮沢賢治『雨ニモマケズ』より)っていう類いのものでしょう。

近年、日本人がむかしから大切にしてきた絆が失われてきている。なんていう話をよく耳にします。たぶんほとんどの人は同意すると思いますし、ぼくもそう思います。じゃあ失われた絆を取り戻すにはどうすればいいかというと、だいたい「こころのはなし」になります。まあそれもそうなんですが、どうもそういう教科書的な「お説教」が世間でやたらとなされるようになってからも、「こころの問題」はぜんぜん良くなっていない。なんなの?がんばりが足りないの?若い世代が利己的になってる?たしかにそういう側面もあるかもしれません。でもちょっと待ってください。ほんとうに自己責任だけですべて解決できるんでしょうか。

これって、道徳の時間に教えたり、精神論的な教訓に落とし込むようなテーマじゃなくて、もっと人間の営みの根源的なところに関わることのような気がします。もっと言うと「経済」とつながっているんですね。なぜなら経済とは「経世済民」だから。「東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい」っていうことを可能にするのも「経済」の大きな役割なんじゃないだろうか。ということを漠然とですが思いました。

いったい人間がいない経済を想定してどういう意味があるのだろうか。


経済活動の規模が小さかろうが、大きくなろうが、それを忘れちゃいけないよと下村さんは言っているのだと思います。それが共同体として存続していくための術であり、すなわち「国益」なのだと。


というようなことを踏まえた上で、TPPについて考えてみるとよくわかってくることがあります。
TPPの対立構造って、農業対工業ではない。対米従属派と自主独立派っていうのは、ある意味では全くその通りであるけれども、その構図を指摘しただけでは解決しない。陰謀史観に陥ってしまうと、その構図だけで全てをわかったつもりになってしまう可能性があります。そうするとせっかく気づいたことさえも色褪せてしまいます。

TPPの対立構造って何なのかというと、「グローバル経済」と「国民経済」なんですね。そのことに最近ようやく気がつきました。非関税障壁の撤廃によって、ぼくたちの消費活動が価格競争に突入したときに利潤を出せるのは、商品を安価で提供できる企業です。低コストで大量生産のできる大資本が生き残り、昔ながらのやり方で誠実にものをつくってきた小さな工場は潰れていくでしょう。自由貿易によって利益を得るのは、途上国に工場を作って低賃金での生産体制を敷くことのできる多国籍企業です。
少しでも安い人件費を実現できる場所に工場を設置する多国籍企業にとって、「国」は関係ありません。たとえばトヨタ、ホンダ、日参の海外生産比率はそれぞれ59%、75%、84%。大半を海外で生産を行い株主の40%以上が外資という企業をはたして日本の企業と呼べるのでしょうか。こういった多国籍企業には「国民経済」という概念そのものが通用しないわけです。そりゃそうです、純粋に利潤だけを追求する一企業には「最終的にどの国の国民経済にも義理がない(内田さんのブログより)」からです。それがグローバル経済のルールです。

以下はインドの例ですが、たぶんこういうことがふつうに起こる。
インドは、経済自由化政策によってIT産業などは成長しましたが、農業は逆に打撃を受けました。
まず、アメリカのモンサント社が特許権を持つ遺伝子組み換え綿花種子が、インドの綿花種子市場を独占しました。
モンサント社が特許権を持つ遺伝子組み換え綿花の種子は伝統的に用いられていた綿花の種子よりも高額なため、農家は借金をして種子を購入することになります。
ところが、貿易の自由化により綿花の価格は下落し、しかも、慢性的な水不足にあえぐインドでは遺伝子組み換え綿花が育ちにくく、しばしば凶作になってしまうのです。
この結果、借金を返せないことを苦に自殺する農家が後を絶たず、社会問題になっています。
このようにモンサント社が種子市場が独占することによって農業が破壊されることは、インドネシアなど他の国でも報告されています。
インド INDIA - お絵描きイベント(NPO法人・宇宙船地球号)ウェブ版より


モンサントが悪だからこうなるというよりも、これがグローバル経済のルールだからです。利潤追求(それは正当な経済活動と言われます)の帰結として多国籍企業は必然的にこのように振る舞うということでしょう。TPPに参加するならば、そのことをわかった上で参加するという覚悟がなければいけません。しかし推進派の方々の言説からそのことを読み取るのは非常に困難です。バスに乗り遅れるなとか、そんなん煽り文句ばっか。たぶん彼ら自身もよくわかっていないんじゃないでしょうか。

TPPをめぐるこの対立軸について、夏野剛さんがツイッターでまとめてくださっていましたので転載します。とくに内需拡大についての提言は興味深いです。

夏野 剛Twitterより
TPPについての僕の意見をまとめておきます。まずTPP以前の問題として、人口減少下で市場が縮小傾向にある日本には二つの選択肢しかないことを我々は認識すべきなのです。これは単なる二元論ではありません。市場をどう大きく(あるいは維持)していくかという問題です。

一つは徹底的な開国による日本という市場と他の市場の一体化。TPPやFTAがこれに当たる。競争力のある産業はますます栄えるが、競争力のない産業は滅びる。しかしもともと競争力のない産業の財・サービスを高い価格で買わされていた消費者にとってはいい話。もちろん愛着あるものがなくなってしまうかもしれない。非効率だけどよかった、というものが淘汰されるかもしれない。それは覚悟しなければいけない。しかし市場が大きくなることで少なくとも社会効率は全体として向上します。

もう一つは徹底的な内需拡大。開国しなくても国内の市場が大きくなりあるのであれば、急いで海外市場としますなくていても良い。そのためには、まず大量の移民受け入れ。経済のファンダメンタル要素である人口を増やすためには、少子化対策も大事だが、まったく追いつかない。急速に人口を増やすには大規模な移民あるいは外国人居住者の受け入れが必要になる。次に、停滞しているカネを動かすこと。日本がこれほどまでに円高になってしまう一つの要素に金アマリがある。個人金融資産1400兆円、上場企業内部留保200兆円。これを動かすことで経済を活性化させる。例えば、個人金融資産は年金受給でも有利な立場にいるが消費性向の低い高齢者に偏在しているので、譲渡税を大幅に下げ、若い世代に移転するインセンティブとする。同時に資産課税と相続税課税を強化し(評価額と市場価格の乖離をなくすなど)、実質資産保有コストを上げる。また、徹底的な人材の友好利用を図るために、子育て中の女性が安心して働ける仕組みを国として完全整備する。これほど能力と学歴の高い人たちが仕事をしていない先進国は珍しい。他にも…。

今のまま、を続けていると、日本はジリジリと経済力も競争力も落ちて行き、気がついた時にはもう遅い、という状況になることは間違いありません。もちろんそうなるのは20年から30年先の話なので、今の政治のリーダーや高齢者には関係ないことかもしれません。でも日本の未来がなくなることだけはしないで欲しい。TPPの議論は実は日本の未来をどうするかという議論だと思うのです。


「グローバル経済」と「国民経済」という対立軸を言い換えると、「経済成長路線」を採るのか「均衡路線」でいくのか、という選択でもあります。夏野さんが説明するように、海外に市場を求めるのか、内需を見つめ直すのか。

ただし経済成長には限界があります。ふつうに考えて、右肩上がりの成長が永遠に続くと考えるのは無理があるでしょう。経済成長する国ってつまりは貧乏な国なんだと平川克美さんが言ってました。貧乏な国しか経済成長してないんだと。かつての日本もそうだったし(貧乏な工場で作る精度のよいMade in Japan製品をアメリカがいっぱい買ってくれてたから)、いま経済成長している国って、インドとか中国とか。

Chikirinさんがこの記事で言っているように「“先進国生まれ”というだけで豊かな生活が約束」されるには、途上国が無ければなりません。しかし、途上国がどんどん経済成長を続けるということは、途上国が途上国で無くなるということでもあります。
「経済のグローバル化は、世界における「先進国と発展途上国」という境界線を無くし、代わりに別の境界線を引こうとしています。」(同記事より)
じゃあ、そうやって国と国との格差が無くなった時代が到来したとして、その状態からどうやって「経済成長」するのか。端的にいうと、できないだろうというのが自然な感覚のように思います。いや、それじゃ困る、経済成長がなければ世界は成り立たないじゃないか、という前提の上から出て来たのがグローバル経済でありTPPであるということなのでしょう。その結果としてChikirinさんが指摘するように、「国と国の格差」は急速に縮小して「個人と個人の格差」が広がっていくのであろうと思います。


それに対して、内需を拡大するってどういうことか。夏野さんが提言するポイントは興味深いと思います。ただし個別の内容を咀嚼するには時間がかかりそうなのでここでは触れません。大事なポイントとして、これら個別の政策を考えていく上では、その前提条件への共通認識が必要になります。すなわち、もう経済成長しなくてもいいじゃん。低成長でもいいじゃないか。2番でいいじゃん。っていうコンセンサス。そこそこの暮らしができて、それなりに楽しくて、家族が笑顔ですごせれば、それで充分でしょ。っていう。ヨーロッパって割とそういう市民意識を感じます。

これって、町内会のはなしに戻ります。つまり生産者の顔が見えて、自分が手の届く範囲のお店で買い物をする。地域の商店街にお金をおとす。地元のつながりの中でお金をまわしていく。つまり、価格とスペック以外のところに価値を見いだせるかどうかっていうはなしなんだけど。
いまの世の中がそれでうまくいくのかどうかはわかりませんけれども、ぼくらのご先祖は江戸時代にはそういった循環型社会を形成して200年以上も栄えてきたんですよね。それって世界に類を見ない社会だったわけで。江戸時代には200〜300の藩があって、「お国自慢」っていうときの国とは藩を指してたんだそうです。つまり共同体のスケールを小さく考えて、顔が見えて手の届く範囲でしかぼくたちは身体活動できないよね、ということを「経済」にも適用して考えたらいいんじゃないかと、それがけっきょくのところ共同体の存続になり、国益につながるんじゃないかと、なんか漠然とですが思いました。

「経済成長路線」か「均衡路線」か、という選択にもし有権者の意思が委ねられて1票を投じることができるとしたら、ぼくは後者に投じたいと思います。

国益からみるTPP

国益からみるTPP 2011.10.20 Thursday [政治・メディア] comments(16)
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サボタン (2011.10.22)

「国益」は「国民の利益」と考えたらいいと思います。一部の人が「国家の利益」の意味で使うので、話がかみ合わないことがあるんでしょう。名詞をくっつけただけの言葉は誤解を生みやすいんです。特に漢字の言葉にはそれが多く、みんなが好き勝手な解釈をしている危うさがあります。成長か均衡かはそろそろ本気で考えたほうがいいですね。私は高校生くらいからの均衡派ですが、成長しないという選択を精神のたるみのように考える価値観の人が多いみたいです。

こえり (2011.10.22)

きのうEUについてのテレビ番組を見ました。本部はベルギーにある。なんでかというと、ベルギーはフランス語、オランダ語、ドイツ語を話す人たちが共存している国だから。資源を求めて、大戦が起こってしまった。 そして大国に(ヨーロッパで言うと、フランス、ドイツが大国)まかせておくと、やっぱりその人たちの、大国の都合のいいルールができてしまう。 だからいろんな文化が共存する、その国こそがEUの本部を置く国として、ふさわしい、とされて本部を置いたみたいです。違う文化、価値観のあるものたちが得になるものを争って強奪しようとして、戦争が起こる。大戦の後、争いの元になった鉄鉱石を確保するための争いを起こさないための共同体、という考えから出発したようです。いまのEUは。日本も世界大戦に参加してしまった要因は資源の確保だったみたい。アジアの国から資源を確保しようとして。でももう資源は足りたのに、足りる分だけの資源は確保できたみたいなのに、「じぶんのもの」になった土地ができること、がおもしろくて戦争やめなかったみたいだけど。。んぬ。。EUは全体でひとつのヨーロッパというのを目指しているみたい。でもソ連とかアメリカとか完全に成功しているわけじゃない例をみてるわけだから、急にひとつにまとまろう。とすることは危険だということですごく慎重に、ながいスパンで考えていこうという姿勢みたい。

山やま (2011.10.22)

>サボタンさん 「言葉」は受け取る側の立場によって好き勝手に解釈されるっていうの、とてもよく感じます。辞書に載ってるから正解だというような一義的なものじゃないんですよね、実態は。経験だとか思い出だとか願望だとかが投影されるっていうか。「構造改革」とか「自己責任」とか、みんなどういう意味で解釈してるんだろうなと思っちゃいます。均衡路線を精神のたるみと捉える人がいるのも、言葉がうまく伝わってないんだろうなあというような気がします。

山やま (2011.10.22)

>こえりさん そうだね、多様性を担保するっていうのがとっても大事なことだと思う。それが大人にできるいちばん大切なことだと思うから、EUには「成熟社会」としてのひとつの道を示してほしいなあ。いろいろ問題点もあるんだろうけど、外から見る限りでは魅力的に見えるもの、ヨーロッパの市井の人々の表情って。

こえり (2011.10.24)

うん、EUの大統領というのもベルギーの元首相なんだそうだけど、記者会見に同席した、日本の元首相の かお、あほづらにしか見えない。。うーん。。批判できるほど、本気で文句言えるほど、菅首相のこと知らないけど、びじゅある だけで 馬鹿面。。と思えた。。知性というのは顔に表れるんやあねえ。。ファン・ロンパイ(EU大統領)(ロンパウ?どっちが発音近いか わかんない)は俳句が好きできっと日本も好きだとするなら、感覚や知性は 同じようなものをもてるはず、なんだろうけどなぁ。。

山やま (2011.10.24)

そういえばベルギーのこと前に書いたよなあと思って、なに書いたか忘れたので読み直した。http://yamachanblog.under.moo.jp/?eid=298 いまはどうなってるのか知らないけど、正式な政府がない状態で1年以上も国民の生活が機能しているっていうはなしだった。リンク先の記事には「ベルギーはEUの縮図と見なすこともできる」っても書いてあるね。なんかいまふと思ったんだけど、ニュースで表題をちらっとだけ聞きかじって、「ベルギーだめじゃん」とか、あるいは「ギリシアおわた」とか伝聞するっていうことをぼくも以前はわりと無意識にしていたような気がするんだけど、それってなんていうか表層的ですらないっていうか、中学生レベルだよね、ニュースを受け取る態度が。表題だけで答えを知ろうとするっていう。で、驚くべきことにそういう態度がそのままで年齢が大人になった人が、この国には相当数いて、政治家っていうのも例外じゃなくて、ほんとうは政治家って「ものを考える」人がなるものなんだろうけど、日本では「ものを知ってる」人ってことになってて、だから政治家はみんな必至で知ってるふりをして。でももう隠しきれなくて、あほづらを晒しちゃってるっていうことなのかなあ。「知らない」ことじゃなくて「考えない」ことが知性に表れるんだろうなあと。

こえり (2011.10.24)

向こうでコメント書いたんだけど、
改行できなくて読みにくいから こっちに。

〜〜〜〜

うん、午前中、大阪府知事(あれ?もう違うんだっけか、はしもと さんって。ま、いいや)なんか おとな の顔じゃないなぁ。表現、発言もおとなのそれじゃない。小学生とか中学生だったらいいよ、それで。生徒会だったらそれでいいかもしれない。
でも府のトップの人の顔つき、言葉の表現、とかとはとても思いたくない。単純にそう思った。  

「ひとつの発言」「ひとつの言葉」というのがあるとする。でもその発言に至るまでの経緯、それまでの人生経験、その人の人間性、それを知っているかどうかで 「その言葉」の響き方は違う。
でもまったく知らない人に対して(政治家もそう)そこまで推し量ったりしないというか、それを知ろうとすることってエネルギーとかパワーとかなかなか消費する、んだよね。
だから表現に慎重にでも責任を持つべきだし、それはそっくりそのまま、その政治家への、仕事への評価へ跳ね返ってくることだということは、考えれば分かることだよね。 

ギリシャに対してドイツは批判的な態度を取ったみたいだけど、実際今のドイツの経済をギリシャが支えてしまってる部分があると、このあいだのEUの番組で聞いたし、
ヨーロッパは基本的にキリスト教をベースにした文化としてなりたってるけど、
それ以前にギリシャの文化、神話、みたいなものがあったりもしたし。いろいろ複雑だから ちょっと聞いただけで どうこうはなーという。でも ひとりひとりが 「それ」を聞いて、「どう感じた」「どう思った」「どう捉えた」そして「その思いを表現したい」ということもあったり。ねー、するから。

その「表現したい思い」を どうするのか。ということも 大きな問題。で。 ためこむと、えらいことになるというか、溜め込んだ分、爆発したり暴発したりするからさー。溜め込みすぎた人はうつになりやすいと思うし。

山やま (2011.10.24)


宮崎駿のことばだそうです。
〜〜〜〜
よく「自然を大切にというテーマで映画を作ってください」とか「ゴミ問題を扱ってゴミ怪獣が出てくるのはどうでしょう」っていう手紙がくるんですけど……最低ですね。そういう脳みその表面で思いついたようなことは、映画作りには何の役にも立たないです。
〜〜〜〜

上にも書いたけど、言葉ってふしぎなもんで、分度器や定規のように誰が測っても同じ値になるっていうものじゃないんだよね。受け取る側の経験値や暗黙知や願望や感情が介入してくる。だから、”ひとりひとりが「どう感じた」「どう思った」「どう捉えた」”の中にしか答えはないんだよね。ほんとに。でひとりひとりが「その思いを表現」するのがほんとうの民主主義なんだろうなと思う。

ギリシアについては、脳みその表面すらもよくわかっていないのに例として挙げちゃいましたすいません。ギリシアって民主主義の発祥の地でもあるわけで、なんか因縁めいたものもあるのかなあなんて思ったり思わなかったり。

橋本さんについてはまた別枠で。

山やま (2011.10.24)

大阪市長選は、橋本さんと現職の平松さんが対象的だなあと思っています。
これは何かで読んだ平松さんのインタビューなんだけど、橋本さんは民主主義っていうのは数の論理だという前提でものごとを進めていく、と。平松さんは、そうじゃなくて、小さな声にも耳を傾けるのが民主主義だろうと。

もともとテレビの人気で当選したわけで、じゃあ「人気」って何なのよっていうと単に「知ってる」ってだけなんだよね、きっと。「見たことある」とか。

橋本さんっていうのは現代における「ポピュリズム」の象徴だとよく言われる。
ポピュリズムって何だっていうと、大衆迎合とかいう言いかたもあるけど、それって要はマーケティングみたいなもんだよね。「知ってる」とか「見たことある」とかいうニーズに合わせる。残念だけど、成熟していない市場では「わかりやすく」「なんとなくのイメージ」が優位に立っちゃう。だからその都度その都度もっともらしいことを言ってれば、「なんとなく」この人よさそうだって思っちゃう。だけど、橋本さんの場合はその言説があまりに首尾一貫していないっていうことが露呈しているみたい。詳しくは知らないんだけど内田樹さんがつぶやいてた。

http://togetter.com/li/203291


こういうふうに、次々とその場に合わせて「もっともらしいこと」を言っていれば、それで納得する人もいる。それはその場だけで捉えると正しいんだから。前後の文脈や因果関係などを考えなければ。当事者でない限りは、その場かぎりの「その発言」だけが頼りになるわけで、情報の流通経路が少なければ少ないほど。こえりさんの言うように、まったく知らない人に対して推し量ったり知ろうとすることってエネルギーが要るし、めんどくさいしね。「発言」どころか「見たことある」っていうだけで投票しちゃったりするのかもしんない。それってたぶん当事者意識を持てないからなんだろうね。政治家だけじゃなくて受け取る側もまるでテレビに出演するタレントみたいにふるまって。

次々とその場に合わせた「もっともらしいこと」を言って、受け取る方もそれで納得したり表面的に憤慨したりして。それって、言葉を「消費」しているだけなんじゃないかって。定型の言葉をね。定型のことばっていうのは、クリアカットで言い淀まなくて済む。一見きれいにみえるし、みんなが使ってるから安心して使える。マスメディアの中には、ピカピカでつるつるの言葉が溢れてる。少しひねくれ者だったりすると、他人とは違うオレだけの言葉だぜなんつって粋がったりするけど、それもどこかから借りてきたものだったりする。ちゃんとニーズに合わせて用意されてるんだよね、マーケティングの世界では。これって、日本人の消費行動そのものだなあと、いま思った。

ポピュリズムを言い換えると、マーケティングみたいなもんで、それってつまりは、お客様は神様ですっていうメンタリティから出発してるものなんじゃないのかと思ったりした。お金を持っている側が絶対的にエラいっていう構図は、クリアだしわかりやすい。だから対策も立てやすい。そうやって市場原理がすぐれたものとだめなものを淘汰してくれる。っていうのは確かに正しいのかもしれない。でも。

正しさよりも気持ちよさのほうが真実だと思う。さいきんとくに。

こえり (2011.10.24)

>正しさよりも気持ちよさのほうが真実だと思う。

そうだね。きっと毎日子供に接してる 山ちゃまさんは きっと身にしみてるのかなって。
正しさ なんて ちいさなこどもには通用しない。
どんな正論吐いたところで通じない。
そういうもの。なんだと思う。
なんか違和感を感じる。とか、あ、このひとは本心を言ってくれてるなというのは ほんとは人は分かるものだと思う。
いろんなものが邪魔して見えなくなったり、見ないほうがいいと言い聞かせてわかんなくなったりするけど。

山ちゃまさんのコメントを読んで、日本が経済成長できたのは 空気を読む という文化があるかな、なのかなぁと思った。
「お客様は神様」「マーケティング」とか、「相手が何を欲するか」がわからないとできない。
でも主体を失った言葉は響かない。
気持ちで動いてない言葉は響いてこない。

割と ちょこちょこ行くカフェがあるんだけど、
たまたまお絞りがお盆に付いてこない日があって。
「あれ?お絞りついてこないのかな?」と思ったけど、「ま、いいか」とコーヒーを飲んでて。
少し経って 店員さんが「すみません!!」と言って
ほんと申し訳ない感じで、お絞り持ってきてくれて。
逆にそれで印象よくなったりした、わたしの中で。
「えーそんな申し訳がってくれないていいですよー。でもそんな気にしてくれて。。」
と言う感じで。
完璧にしてくれたわけじゃなくて、でも気持ちが伝わる感じがいいなーと。

>要はマーケティングみたいなもんだよね。「知ってる」とか「見たことある」とかいうニーズに合わせる。

ひとは知っていることにしか反応できないみたいよ。
ちょっと今もとの文章探そうとしたけど見つかんなかった。
TVCMとかでも知っているタレントとか出ると、目が行く。好きな女優さんなら注目してしまう。とか当たり前にする。
日本語を話してくれる人なら話してる言葉は伝わる。(かどうかは断定できないけど、一応そういうことにする)
でもアラビア語を話す人の言葉は少なくてもわたしには理解不能。単語さえも分からない。
でも気持ちが伝わりやすいのはもしかしたら まったく知らない言語を話す人のほうかもしれない。
言葉が邪魔しないから。
伝わる という誤解がない分、「伝えよう」「伝わったかな?」という おもい があるから。

>橋本さんは民主主義っていうのは数の論理だという前提でものごとを進めていく、と。平松さんは、そうじゃなくて、小さな声にも耳を傾けるのが民主主義だろうと。

。。なんかどんどん はしもと という人がいやんなって来た。。
数が多い人、大きな声の人が勝つ?そういうの大嫌い。すげーきらい。
誰のための政治なの?
ていうか、あなた弁護士だったんだよね?弁護する人の気持ちを代弁するのが弁護士の仕事なんじゃないの? 大きな声で なにかをねじ伏せるのが しごとだったの? と思うよ。。なにしたいんだよ。。

このあいだ、商店街を再生するというテレビ番組を見て、なんていう肩書きの方だったか忘れたけど
商店街のかたがたに集まってもらって思ってること言ってもらって
そうして話してもらってるうちに、自分たちのやりたいことを発見するというか、確認してもらって
それで じゃあこうしたい、こういうことをやってみたい ということをサポートしていくみたいな感じのお仕事をされてる方で。

主役は 商店街のお店をやってる方。という立ち位置を ちゃんとまっとうする。感じ。

「こうすれば儲かるよ」「こういう感じが若い人に受けるよ」「やりたくないの?」「でも経営苦しいんでしょ?」「このままじゃ困るでしょ?」「あの街ではそうしたら売り上げ上がったよ」「だからそうしようよ」「早くしないとますます苦しくなるよ」
的な。脅し。

こういう脅しって 直接伝えられることであれ、言外に匂わされることであれ、きっと感じたことのある感じだよね。生きてると。
「なんか違う」という違和感を感じても、何度もいわれ続けたり、大勢の人に言われ続けると
「そうなのかなぁ・・」という気がしてきちゃう。
大きな声、強い口調の はしもと(呼びつけ。。)はそういう人に感じるから きらい。
だから祝島のひとたちはすごいと思う。

山やま (2011.10.25)

今朝ちょっとおもしろい記事を見つけたので。

ジョブズの遺志をガン無視した犯人、それは講談社さんアンタだよ!
http://j.ktamura.com/archives/761

「空気を読むという文化」の行く末がこうなるんだろうなと思った。
誰も読まない分厚い取り扱い説明書とかね。クレーム対応文化とも言えるね。

こえり (2011.10.25)

わたしはアップル社製品って一個も持ってないので
リンク先を見てすぐに「もう!!」って気持ちにはならなかったんだけど
注意書きがいっぱいありすぎると、どれみていいかわかんなくなったりするよね。。

いまはネットで劇評(舞台の感想とかね)とか個人個人の感想を拾えたりするけど、前は新聞の批評とか雑誌の批評を鵜呑みにしてたし。
でもそういう指標がないと、どれがおもしろそうか知りようもなかったろうしなー。
全部見にいけるほどのお金があるはずもなし。

はしもとさんのこと、生徒会ならいいけど と書いたけど、学校時代の生徒会選挙のときから
選挙ってなんかおかしなものな感じだったかもなー。
今考えると。

山やま (2011.10.26)

>注意書きがいっぱいありすぎると、どれみていいかわかんなくなったりするよね。。

そうそう、ごちゃごちゃしすぎててうんざりする。説明過多なんだよね。テレビのテロップとかさー。よかれと思ってやってるからタチが悪いね。さいきんのバラエティ番組とかやかましすぎてげんなりしちゃう。BSの静けさにほっとする。ってか昔は民放もこんなもんだったよね。

生徒会選挙ってつまり人気投票だもんね。
それが国政選挙でも変わらないところに幼稚さがあるんだろうね。

こえり (2011.10.26)

うん、生徒会ってなんか自分のクラスの立候補者に投票すべきだって空気、なんとなくあったりしなかった?
わたしはそう感じた。
別にほんとうは誰に入れてもいいんだけど(他のクラスの立候補者に入れてもいいんだけど)
なんかやっぱり自分のクラスの立候補者に入れるべきなんだ、みたいな感じ。
これはわたしが個人的に思っただけなのかな。
なんか他のクラスの立候補者に投票した、って聞くと
「え?自分のクラスの子に投票しないの?」
と思っちゃったりしたから。
でも本気で自分のクラスの子がいい!この人にぜひ!という思いがあったわけでもない。
そうするべきなんだろう(投票するなら自分のクラスの子の名前書くべきなんだろう)という感じ。

テレビも昔は本当にみんな見たくて、だから一生懸命みる方も集中して見てたから てろっぷ なんていらいなかったんだよね、きっと。
ばらえてぃ の てろっぷ って たぶん ヘイ!ヘイ!ヘイ! が はじまりだったとおもうんだけど
(その前は 報道番組で使うだけだったんじゃないかなぁ)
すごくおもしろかったんだよね、てろっぷ そのものも、使い方も。おもしろかった。ほんとうに。
でも 安易に他の番組もおんなじことしだすと
つまんなくなっちゃう。
「いいよ、もう」「うるさいよ」って感じになっちゃう。
音楽番組のインタビューのコーナーで、インタビューのテロップが始まったとき
信じてもらえないんだなぁ って思った。
言葉を聴きたいなら、話を聞きたいなら、てろっぷ は なくてもいいんだけど
そうやって わかりやすくしないと、聞いてもらえないって思われてるんだなぁって。
聞く ということをやりたいんだ、ということを信じてもらえないんだなぁって。

山やま (2011.10.26)

生徒会総会みたいなやつだよね、そこでの投票がどんな感じだったかとか、もうほんとぜんっぜん覚えてないなあ。なにも。とくに良いも悪いも感じてなかったんじゃないかと思う。

ひとつ覚えてるのは、小学生の中学年ぐらいの時に、立候補もしてないのに誰もやりたい人がいなくて推薦された何人かの中で学級委員長に任命されたことがあって。ぜんぜん向いてないのであれは半年くらいか、苦痛だったなあ。その経験が、目立ったり波風立てたりという余計なことはなるべくしないようにしようという人格形成に影響を与えたかもしれないといま思いました。

こえり (2011.10.26)

わたしも体当たりで力ずくでとか、たぶん苦手というか、
あんま好きじゃない。
でもほんとうは体当たりで力ずくが好きかもしれない(笑)という面倒くさい人(笑)
かっこわるいのが好きじゃない、自分がとことん傷つきやすいから
こうすると人が傷つくと分かってることをできれば避けたいとか。
んなことばっか考えて、場の空気とか人の気持ちばっかり優先しようとするから、つっかれちまうんだけどーーー。
でもやっぱり子供のとき、とことん内向的で人の輪の中に入れる子じゃなく、
でもそういう子だったから、人一倍 人と親しくなりたい気持ちを抱えてるような子だったんだよね、きっと。
でも波風立てる子じゃなかったから、とくにひどく嫌われることもなく
でも好かれることもなくということは寂しかったんだろうなと思う。
おとなしい子。でも 「おとなしい」=「つまんない」とかいう意味に捉えて 地味ーに生きてやした。










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